長岡市医師会たより No.227 99.2 

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もくじ 
 表紙絵 「広神村にて」        丸岡  稔(丸岡医院)
 「退会にあたって」          桂  敏夫
 「どうぞよろしく」          窪田  久(窪田医院)
 「長谷川泰先生略伝〜後編その34」  田中 健一(小児科田中医院)・長尾景二 
 「新年ボウリング大会優勝記」     明石 明夫(明石医院)
 「新年麻雀大会優勝記〜麻雀と私」   下田 四郎(下田整形外科医院)
 「新年囲碁大会優勝記」        八百枝 浩(眼科八百枝医院)
 「山と温泉47〜その20」        古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「読みやすい源氏物語」        郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

広神村にて  丸岡 稔(丸岡医院)
退会にあたって  桂  敏夫

 拝啓

 その後お元気でご活躍のこと大慶に存じます。すぐにもお便りを書きたいと思いながらこの1か月は引っ越し荷物の整理(15坪狭くなった処へ押し込むのでまだ家内と共に悪戦苦闘中です)と諸手続き(これが又役所、銀行、その他やたらに多くて何日もかかります)、その上こちらに来てから直ぐにインフルエンザに家内と順番にかかりましてこの2、3日やっと少しの元気と余裕が出て来ました。医師会には拠り所として何から何までお世話になり、早くお礼を申し上げなければと思いつつ徒らに日を過ごし失礼しておりました。1月末に移転のため退会するまで長岡で人生の真ん中を過ごしました。毎日テレビで気になるのは天気予報で雪だるまを見てはそちらでは今頃どうしておられるか、心配と懐かしさで胸がいっぱいになります。40年の歳月が 〃ぎゅうぎゅう〃 に詰まって走馬灯の様に走り抜け、立ち止まり、長岡の思い出は自分の中の大部分となりました。〃月日は百代の過客にして行き交う人もまた旅人なり〃 何時も奥の細道のこの出だしの言葉が胸に迫ります。色々と沢山の事を学び、良い人生を送らせて戴きました。社会的環境は自然のそれに優先すると思う様になりましたが、人にはそれぞれに事情があり、この度居を移すに当っても孔子の天命を知るとはこういうことなのかと思ったりしています。

 昭和34年の夏、新潟駅まで送っていただいた恩師や医局の同僚に別れ長岡の中央病院へ蒸気機関車に引かれて約2時間、2人の子供を抱いて降りた駅前はまだ舗装されていませんでした。外科の鳥居先生の奥さんとその腕の中の哲ちゃん(今は立派なお医者きん)が迎えに来て下さいました(更に先代の耳鼻科の鳥居教授の患者を思われる臨床講義は感銘深いものでした)。病院の古い大きなアメリカ車を小さな老青木さん運転で家まで案内されました。古き良き時代でした。

 3女は中央病院の事務長室で生まれましたが豪雪の年で、退院して車が家の近くの角に来たとき雪の山の上で小さな姉が2人、いっぱい手を振って喜んで妹を迎えました。鶴岡の庄内病院以来大学、中央病院、そして開業しておかげ様というには忙しすぎて余裕のない日が続きましたが、家内もまだ若く2人は力一杯働きました。忙しいなかにも本当に皆に親切にして戴き、静かなのどかな日も沢山ありました。皆様に援けられ教えられて天職をまがりなりにも全うする事ができたと思っています。〃余りにも早く過ぎた年月〃恨むとすればこの事だけでしょうか。最後までお付き合いいただきこの間皆様には格段のご厚志をいただきまして心から御礼申し上げます。

 今居るところは長岡から真南に280km、三島の駅から北西に8kmで東海道線からはスバル望遠鏡でもあれば或いは心眼でみえるはずですが標高310m、水道は富士の湧き水で1日5本のバスの終点から歩いて2分、草木の独特の香が風に運ばれて来ます。此処まで来ると乗客は0(ゼロ)か1-2人で物音はありません。夜は星と月が綺麗です。〃天は二物を与えず〃不便なこんな処でよければまだ空いている土地はあります。3年後には県立ガンセンター病院が3km下に、少し離れて第2東名のインター(時速140kmの設計)ができるそうで測量が始まっています。

 昨年権間板ヘルニアの激痛で竹山先生のお世話になり安川国手の手術を受けて助かりましたがもう前の様には足腰に力はありませんというよりは全体に弱りました。病名を数えたら6つ以上ありました。これではとても子供を助けることは覚束ないことです。2年前自分で決めた70才引退は幸か不幸かピントは外れていませんでした(自慢にはなりませんが)。これからは今迄のような事を新しいこの地で望むべくもありませんので残された日々を(幸いにも本としコードに埋まっていますので)惜しみながら大切に過ごして行きたいと思っています。常に皆様のご健康とご平安をお祈りしています。

 春も過ぎ夏も近くなれば我が家の荷物も多少は落ち着くと思いますので機会があればぜひぜひお越し下さい。その日を楽しみにしています。

 あと一月、雲ひとつない青空に白銀の大地と山々が輝き、米、酒、魚、野菜の美味しい長岡。皆様の住んでおられる素晴らしい所。ご健康とご繁栄をお祈りしながらお礼のご挨拶とさせて戴きます。敬具

 

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どうぞ よろしく  窪田  久(窪田医院)

 平成9年8月に開業して約1年半が経とうとしています。昨年8月頃には、開業1年目の原稿を書き始めていたのですが、なかなか依頼がこないので、もうこないだろうと安心していたのですが…。途中で終わっていた文章を引っ張り出し、書き直すことにしました。

 さて、私が長岡に帰って来てから約10年になります。兄も医者になっていたので、私は初め家を継ぐつもりはなく、学んできた順天堂大学消化器内科の研究室でずっと働くつもりでいました。しかし、兄は横浜に居を構え、帰ってくるつもりがないことがわかり、母から電話で、「父と二人きりでは張り合いがないので、帰ってきてほしい」との話を聞き、そろそろ長岡に帰らなくてはいけないかなあと考え始めるようになりました。博士論文も終わって一段落した矢先に、長岡中央綜合病院の杉山院長先生から、うちの病院で働かないかとのお誘いがあり、この機会に長岡に腰を据える覚悟をしました。

 中央病院では大学で手がけた、胃癌の内視鏡的切除や食道静脈瘤の内視鏡的治療を精力的に行い、これらが、私の生きがいとなっていました。中央病院は、消化器系の患者が多いこともあり、存分に内視鏡的治療をやらせていただき、杉山先生と富所先生には、今でも大変感謝しています。

 中央病院に来て、7年目頃から、父も年老いてきたので、そろそろ後を継いで開業したほうがいいと母から開業を勧められ、そろそろ開業準備をしなくてはいけないかなあと考え始めていました。しかし、手がけてきた内視鏡検査や治療を行うためには、父のところでそのまま開業するにはやや手狭で、できれば少し広めの土地があればなあと漠然と考えていました。ちょうどその頃、父の医院のすぐ近くにある3年程前に廃業したコンビニに売土地の看板が立てられていたので、もっけの幸い、この土地を手に入れることにしました。開業は平成9年9月頃の予定でいました。しかし、平成9年6月には、父の胸部大動脈瘤が発見され、破裂の危険性が高いため、手術をしなくてはいけなくなってしまいました。当初の開業予定も1か月早めて、8月1日としました。医院の建築はもう完了していましたが、調剤薬局の土地がなかなか確保できず、工事はようやく7月初旬から始まり、ほぼ2〜3週間でできあがるという突貫工事でした。私の方はというと、それから開業までは目が回る程の忙しさ。まず起きると父の入院している立川綜合病院に見舞いに行き、その足で、中央病院の外来診療や内視鏡検査を行い、午後には父の医院の代診。それが終わると、また立川病院の父の病室に少し顔を出し、その後に中央病院で患者さんのデータや書き残した入院総括をコンピュータに入力する作業を夜遅くまで行うという毎日が続きました。今思うと本当に大変でした。

 しかし、いざ、開業してからは、想像以上に患者が少なく、暇で退屈な毎日。暇過ぎるのも苦痛なことがよくわかりました。父の病状もそのころには安定してきて、11月にはようやく退院することができました。多くの方々にご心配頂き、この場を借りて御礼申し上げます。そして、父が30年間診療し、私の育ってきたこの町の人々の健康を守るために働けることをありがたく思います。

 さて、暇になると趣味の世界に没頭するのが、私の悪い癖。しばらくでられなかった将棋の大会にも昨年は3回出場しました。平成10年6月21日に行われた日報主催の二段戦のこと。とかく緊張しがちで、大会前日にはよく眠れないことがあり、今回は睡眠不足にならないように前日にはホリゾンを飲んで、ぐっすり寝た後、いつものように棋友の玉木先生の車に便乗し、会場の新潟にあるユニゾンプラザにでかけました。開始前には将棋の内藤九段が宣伝する「のほほん茶」を飲み、気持を落ち着けて一回戦に臨みました。いつもは二回戦くらいで負けることが多いのですが、この日は順調で、一局勝毎に「のほほん茶」を飲み、ついに5本目、決勝戦になりました。

 ほかの対局はすべて終わり、周りを10数名の熱心な将棋好きの人たちに囲まれる中、対局は開始されました。仕掛けは多少無理だったのですが、気づいてみると中盤では私の大優勢。もう優勝は間違いない。明日の朝刊にはきっと名前がのるなあ。後日新潟日報に棋譜が掲載されるのだから、なるべく筋よく指して格好よく勝とうなどといらんことを考えていました。しかし、そんなことを考えているようではいけません。三十秒の秒読みの中、さすがに優勢な将棋もおかしくなり、終盤に悔しい逆転負けをくらってしまいました。こんなチャンスはめったにないので、今思い出しても残念でしかたありません。しかし、勝負ごとは集中力をかいてはいけないのだと反省し、また挑戦して、是非優勝したいと思っています。

 長岡では、囲碁は盛んなようですが、趣味として将棋を指す人は少ないようで、医師会でも新春囲碁大会はあっても将棋大会はありません。もし、将棋が好きな先生方がおられましたら、定例会を開きたいと思っていますので、是非、私にご連絡ください。

 今後も将棋とは一生つきあっていきたいと思います。

 そして、私の育ったこの町で一生患者さんの健康のために働いていきたいと思います。

 こんな私ですが、どうぞよろしくお願いします。

 

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長谷川泰先生略伝 後編その34 〜その師、その友、その後輩と医学校の発展〜
田中健一(小児科田中医院)・長尾景二

志士本間精一郎の運命

 長谷川泰の足跡を辿ることによって、維新後の医学界の変遷の歴史を知ることが出来る。それに影響を与えた明治維新とは何だったのか。明治維新は元より幕末の尊皇、攘夷運動の結果であるが、寺泊出身の本間精一郎の一生を知ることによって、尊攘運動の根本を考え直して見たい。

 本間精一郎は越後、寺泊の素封家本間辻右衛門の長男として、天保5年(1834)に生まれ、少年時代は、与板町の斎藤赤城の塾で学んだ。嘉永6年黒船入港の混乱期に20歳の精一郎は大志を抱き、江戸へ出た後、京都を中心として、東奔西走、討幕を画策し、国防を論じ、尊皇の大義を説いた。彼は生来の雄弁と卓越した才気をもって縦横無尽の活躍をしたのである。しかしこれが同志の恨みを買う結果となって、文久2年29歳の若さで非業の死を遂げたのである。

 今日このことは、現在の歴史家、遠山茂樹氏や稲川明雄氏の記す所によって、もっと深く考えることが出来る。

 精一郎は寺泊の豪商で大庄屋の家に生れたとは云え、純然たる庶民の出身の志士である。真の尊皇を考えたのだった。藩の背景のない草奔の在野人として物事を徹底的に純粋に考えることが出来た。

 他方尊攘運動に薩長土三藩の麾下の者たちが活躍したには違いないが、彼等は自藩の力に頼って派閥を組み、派閥を組むことによって自藩三藩の利益を誘導し、これが循環して、討幕の主流を形成したのである。

 単身独行の草奔と、蔭長土三藩出身者との間には運動路線の点でも、気質の点でも距たりが大きかったようである。

 本間精一郎は、和宮と将軍との婚儀に尽力した久我建通、岩倉具視等公卿四人と女官二人を「四奸二嬪」と排斥する運動に活躍するが、同志である薩士両藩、尊攘派の手で暗殺され、首級が四条河原にさらされ、佞弁をもって薩長土三藩を讒訴し、不法に貨財を貪った罪だという立札が建てられた。

 その立札に日く、

 「この者の罪状、今更申すまでもなく、第一虚喝をもって衆人を惑わし、その上高貴の御殿方へ出入り致し、詭弁をもって薩長土の三藩を種々讒訴致し、有志の間を離し、姦謀相巧み、あるいは非理の財富を貪り、そのほか筆舌に尽し難し。このまま差し置いては無限の過害を生ずべきにつき、かくのごとく梟首せしむるものなり。閏八月二十一日」

 尊攘の説を主張した精一郎は、京都にあっては公卿の間を出入し、王政復古の活動を行ったが、中山忠能の邸で議した時、精一郎は公等柔懦軟弱半文の値なしと云った。

 孝明天皇自らは公武合体論である。慶応2年12月に孝明天皇は疱瘡を病んで逝去されたが、病状が回復しつつあったときの急死のため、死因については今に至るも、医学者の間に論議を呼んでいる。

 孝明天皇なき後、尊攘運動は武力による討幕となったが、薩長土三藩、西郷隆盛等の勢力によるものであった。本間精一郎に続く者等(石黒忠悳にしても)純然たる草奔は尊攘運動の主流に加わることができないように巧みに操作された結果とも云えよう。

尊王攘夷運動は近世と云う時代と、徳川幕府制度が育てたものである。そして豪農商層、神官、国学者や庶民の間から、尊攘運動に入る者が多出した。彼等は運動の底流をなしていた貴重なものと云えるが、出る釘は打たれるの例えを精一郎の死は教えていたのである。

 その頃、文久3年発足した新撰組がある。京都で尊攘派を弾圧した。彼等は脱藩した浪人達や農商工の出身者を集めた殺人集団のようなものであったが、無法の乱暴者に見えたとは云え、又多くの階層からなっていたとは云え、会津藩主、松平容保京都守護職配下であった。その限りに於て封建制度、幕藩体制を守らんとするものであった。

 これより先の時代、謎めいた感じのする良寛出家の原因、その父以南の矢張り謎めいた勤皇に、行方不明の行動も到底破ることの出来ない封建の厚い壁の中の出来事であったことに思いめぐらすべきと思える。

 本間精一郎が暗殺された場所、京都木屋町四条上ル二丁目樵木町薪渡世嶋屋政治郎北隣甚八門前

 刺客 薩摩藩、田中新兵衛、以下土佐藩、岡田以蔵、田辺豪次郎、弘瀬健太、千屋熊太郎、平井収二郎、小畑孫二郎、島村衛吉、大石団蔵

 多勢に無勢、多くの同志によって暗殺されなければ、徳川方の与力、同心、捕吏によって安々と葬り去られたであろう精一郎の運命であった。

 精一郎より11年遅く生れた尊攘運動家、石黒忠悳が彼と同じ運命を辿らなかったのは、精一郎の死の教訓が働いていたものであろうか。(つづく)

 

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新年ボウリング大会優勝記 明石 明夫(明石医院)

 平成11年1月11日と1が五つ並ぶ日に、13名の参加者で新年ボウリング大会が開催されました。

 私は、昭和59年6月の月例会からメジカルボウリングに参加し始め、新年ボウリング大会も昭和60年から連続15回目の参加でした。現在15名の会員で、毎月第2月曜日の7時から4ゲーム投球していますが、私より古参の先生方は、田辺・野村・茨木の三先生だけとなり、古顔となってしまいました。しかし成績の方は、2月以後の月例会では何回か1位となったこともありましたが、新年会では、2年前の2位が最高で、15年目にしてようやく優勝することができました。

 新年会の場合、歴代の優勝者の名前のかかった歴史ある(?)トロフィーがどんと目の前に置かれ、また5位までの賞品も並べられるせいか、ゲーム開始前から意気込んでしまい、参加賞だけを持ち帰るのが例年のパターンでしたが、今回は、野村・茨木の両強豪先生と新年会に強い中村先生の欠席という好運もあり、変に意識することもなく、最初から淡々と投球できました。ハイゲームこそ210の田村先生に1ピン及びませんでしたが、183.187.209.177と4ゲームトータル756(アベ189)と自己タイ記録で、田村先生の「優勝記その3」を阻止する結果となりました。50歳を迎える年に優勝でき、今年は春から縁起がいい年になりそうだと自己満足に浸っています。この調子で2月以後の例会も頑張っていければいいのでしょうが、気負わず月1回のボウリングを楽しもうと思っています。(この優勝記を書くにあたって、過去15年間の成績を振り返ってみたところ、最高ゲーム240、最低109、年間アベレージ152〜168でした。)

 

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新年麻雀大会優勝記〜麻雀と私  下田 四郎(下田整形外科医院)

 数年間途絶えていた医師会麻雀会に出席して優勝してしまった。大概、大会麻雀で優勝するのは二流クラスという定説がある。その根拠は、麻雀は実力7、運3と云われているからである。ゴルフのプロの試合を見ても、初日トップの選手が、最終日には順位をさげているのが殆んどだ。

 準優勝された高橋剛一先生は、四暗刻という難度の高い満貫役を敢行され、3回戦ともマイナス点がないと云う立派な打ち方をされた。これこそ麻雀の打ち方の範として賞すべきものなのである。

 10枚もの原稿用紙が届いたので、駄文を認めて枚数を埋めたいと思う。

 私が麻雀の手解きをうけたのは高校3年生の夏、向いの北越銀行新町支店の女性によってであった。昭和25年の話である。当時銀行は、夜間当直は男性職員、休日日直は女性職員であった。すこしませていて一つ年上のその女性は、白魚のようなきれいな手をしていた。純朴であった小生は、誘われれば必ずイソイソと銀行の裏口を訪れたものだった。

 閑話休題。

 長岡赤十字病院にてインターン。月5千円のお手当てを頂いて、諸先生から本格的に手解きを受けた。月平均2千円は月謝として消えて行った。

 当時(昭和33年)は、諸先生方も車なし、ゴルフなしで、院内の時間潰しは碁か麻雀のいずれかの選択しかなかった。当直医は、その夜の仲間を集めるのが日課であった。

 インターン生活も慣れた頃、悪戯心で、ある日の午後、院内放送で「インターン生はインターン室にお集まり下さい」と。一同を集めて憶えたての麻雀を仲間に教えている最中、足立院長(当時副院長)が入室されて来た。室内一同蒼白になったことは云うまでもない。

 足立先生は入室一瞥、やや間を置いて、にこやかに「いい、そのままでいい」。当時は共産主義まがい?の組合活動が院内にもあって、一部には不穏な空気が流れており、その一端にでも加担しているのかと思われたらしく、その事を説明されて、「こっそりやれよ。」と暖かいお言葉を遺して出て行かれた。

 その2年後、再び長岡赤十字病院に出張してきた。

 ある日曜日の朝、医長から急患あり、すぐ来いと電話。自転車でかけつけてみると、整形外来に2羽の兎がうずくまっている。整形外科医長の大谷先生と、眼科の米山先生は狩猟が趣味で、それがこの戦果なのだ。「すまん、すまん、呼び出して。」と故大谷医長は続く、「これを解体して食堂に届けるように。」と。それを馳走にして麻雀を夕方までやろうとご宣託。放射線科医長の佐々川先生を混じえて、野兎の肉を食べながら(あまりうまくなかった)卓を囲んだ。そこでも大負け。鴨がねぎしょっての諺を絵にかいたようなほんとの話。それでも思い出は楽しく、なつかしい。

 前医師会長の関根先生の医院の外壁は小生が寄贈したなどと冗談もいっている。全部負け戦だからだ。

 趣味でも何んでも人との付き合いの中で必ずその人の性格が出るもので、近隣に転勤族の麻雀好きの若夫婦との付き合いがあった。その奥さんの父上は昨年82才で亡くなられたが、戦後間もない頃、長岡裁判所の裁判官であった。その吉村さんは麻雀が大好きで、退官後も自宅に麻雀ルームを設けて居られる由だが、一度も賭けたことはないと。たまたま来岡され、小生宅で囲んだ。娘婿が再三「もう退官されたんだから、すこし賭けましょう。」と申してもガンとして聞き入れず、自身でピース5コ、3コ、1コと購入して「これが本日の賞品です。」と云われたのには、さすが元裁判官だと感動すらおぼえた。

 小生は一箱の賞品にあずかった。こうやって書いてみると、麻雀には楽しかった思い出だけが残っている。

 病を患って一時休眠したが、又月一回位退職した幼な友達を誘って、僅かの賭け金で、楽しい二流麻雀を続けたいと思う。

 最後に、小生を担いで優勝させて下さった諸先生に厚く御礼を申し上げる。賞品は、小生の大好きなモンカフェ・コーヒーであった。

 

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新年囲碁大会優勝記  八百枝 浩(眼科八百枝医院)

 1月23日、医師会新年会前に恒例の新年囲碁大会が開かれました。実は私ごとき者が出席するような会ではないわけでして、皆様、有段者で、私だけ二級としてハンディをもらい、その結果優勝してしまい、大変ご迷惑をおかげしましたことを、お詫び申し上げねばなりません。

 私がこの会に出席しましたのは2回目で、1回目は20年くらい前のこと、このときはとなりの部屋でマージャンが行われていて、1人足りず、急遽私は碁会からマージャンの方へ移されました。したがいまして本会には初出場ということになります。

 ではなぜ今年出席したかと申しますと、ときどき碁会で私とおもしろおかしく打っている金沢信三先生が出席されると聞いたからで、ところが金沢先生はおくれてこられ、正式な対戦はできませんでした。

 そもそも20年前、医師会の碁会にさそって下さったのは、杉本邦雄先生でしたが、このたびは欠席されました。ケガをされたそうで、早く治癒されんことをお祈り申し上げます。

 

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山と温泉47〜その20 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

苗場山登路

起点は (1)苗場山・東・南側、南魚沼郡湯沢町・国道17号線

    (2)苗場山・北・西側、中魚沼郡中里村・津南町・国道117号線

    (3)苗場山・南・西側・長野県栄村

 苗場山への登路は、多くありますが利用度多い登路を順に挙げてみます。

 湯沢町・三俣・祓川・和田小屋・神楽ヶ峰・山頂湿原

 津南町・長野県栄村小赤沢・日蔭沢・坪場・小赤沢山頂湿原

 湯沢町又は後閑・苗場スキー場又は国道17号線火打峠、元橋・捧沢・鷹ノ巣峠・赤湯温泉・昌次新道・山頂湿原

 これ等の登路で登り時間の少なく、距離の短いのは、小赤沢道、標高1310米迄自家用車なら入ります。次は三俣・祓川道で、標高1300米迄夏季登山適期にはバスが入る。冬期積雪期は、三俣・清律川右岸国道17号線沿いに、三俣ロープウエー駅があり、リフト、ゴンドラを乗り継ぎ和田小屋迄行けます。更に、雪山に慣れた人ならリフトを使い、神楽ヶ峰直下、上の芝迄入れる。しかし、神楽ケ峰より山頂迄の標高差2040米は、雪と氷壁の直登になっています。

 赤湯からの昌次新道は下山路にとりたい。登路に探ると、急坂が多く展望が利かず、良く出来た歩きやすい山道をひたすら登る事になります。その所為か、歩行時間5時間位でいきなり山頂の平頂にでます。同じように、赤湯からの赤倉山経由の登路は、赤倉山山頂下1800米筍平迄が急登の連続。登路に採ると、山頂までの歩行時間7〜8時間は覚悟せねばなりません。

三俣・祓川道(登路:三俣・祓川・神楽ヶ峰道)

 湯沢町の駅、中心街から、国道17号線に入り関東方面に向かい、芝原トンネルを抜ける。坂を下ると右下に八木沢集落の家が見える。右折し小さい集落を過ぎると清津川の右岸に出る。大島橋を渡り大島の集落の端れから山に入る。此処から和田小屋下の駐車場迄は、車道として仮舗装がされています。大島橋は、架け替えられて少し狭いが立派な橋になりました。架け替え前の橋は、珍しい「潜り橋」で橋の欄干が無かった。山の川は水量の変化が激しい為考え出された橋。欄干が無いので増水時に、流木などが引っ掛かることがなく、橋が流失する事が少なくなりました。苗場山は信仰の山、伊米神社参詣後登りたいものです。伊米神社は、国道17号線を右に八木沢集落をみて、左カーブし短いトンネルを抜け、間もなく三俣集落に入ります。集落中央付近から左折、旧17号線の山沿い、集落の裏側にあります。立派な社です。山頂に奥社が祭られてあります。「北越雪譜・苗場山」に記載されてある神職、案内人はこの社の奉仕者で、鈴木牧之は此処でお祓いを受け、案内されています。しかし、当時(1811年)現在地に社があったかどうかは詳らかではないのですが。祓川の地名は信仰の山を示しています。和田小屋下の祓川は、神職、修験者、登拝者等の垢離場で、ここから山上は神域とされていたものでしょう。

 バス(夏季季節連行)は、和田小屋下祓川対岸迄、乗用車は小屋真下まで入れます。バスの終点駐車場から小屋迄約1粁、林道よりスキー場に入り木道を行く。タクシー、乗用車の駐車場は小屋下近くにありますが、やはりスキー場の木道から小屋に入らなければなりません。和田小屋は、標高1340米稲荷清水に建ったのですが、現在はそれより150米上部に移築されています。此処までの車道の2ヶ所にゲートがあり門番?に、登山の旨を伝えゲートを開けてもらわねばなりません。面倒になりました。営林署の管理だそうです。山菜、茸採取は禁止です。「プナバヤシブナバヤシ、ユキノウエニブナバヤシ、ユキノシタニブナオチバ、力ワノナカニブナバヤシ、ユケドモユケドモプナバヤシ」。この訳の解らない、詩の積もりの文章は、昭和23.4年頃の私の登高記録に書いてありました。「鉢巻峠・胸突き八丁」を登り、「外の川小屋」付近からは、昼でも暗く見える深い山毛欅の森に、広く、軟らかい落葉と土の歩き易い山道が続きます。太陽が射すと、無数の木漏れ日が燦燦と森中に降り注ぎ、えもいわれない光景です。息を止め、暫くは立ち尽くします。山毛欅の森は和田小屋の上部迄続きます。現在は、この光景は視られません。周辺は、スキー場となり、山毛欅の森は消えて仕舞いました。和田小屋は変わりました。森の小屋ではなく、広いスキー場のロッジになりました。小屋の入り口に吊り下げられていた名物の鐘がありません。大島集落から此処までは、歩行2時間半、バスなら20分。積雪期は3時間あれば良いか。(つづく)

 

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読みやすい源氏物語  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 瀬戸内寂聴の現代語訳による源氏物語が、講談社から二年がかりの発行で昨秋に全十巻完結したが、なかなかの売れ行きとかいう話です。

 わたくし、最大の趣味は読書。暇さえあれば書店か図書館にかよういわゆる活字中毒患者です。そんなわたしのトラウマともいうべき作品が、実は「源氏物語」と「失われた時を求めて」なんですね。つまり各種訳本及びテクストも取り揃えてあるんですが、いまだ完読していない二大代表です。

 高校時代まで遡りますが、凝っていたのは、小説では福永武彦とフランソワーズ・サガン。ちなみに聴いていた音楽といえば小椋桂、荒井由美またはチャイコフスキー、ブラームス。いやー、思い出しながら原稿を書いているだけでも、気恥ずかしくて一人赤面しちゃいますなあ。

 さてサガンの小説中の主人公が作中でさりげなく読むブルースト。さっそく買い求めて読み始めますが、幾度も中断。もうこの大長編小説の出だしだけはそらで覚えています。睡眠反復学習の絶大なる効果ですな。たしかこうです−−。

「長い間にわたしは早くから寝るようになった。」

 読者たるわたしもすぐに高いびきてなわけです。もっともこの後作中主人公は眼れずに、ああだこうだと悶々とするんであります。

 脱線しましたが、これまた昔話ですが、高校卒業時に地元テレビの取材で、大学に合格したらまず何をしたいかというインタビューがありました。

「受験勉強から開放されるので、時間に余裕がなくて読めなかった源氏物語なんかの長編文学をじっくり読んでみたいですね。」とついまじめな応答をしてしまったわたし。

 それを聞いて完全に白けた取材記者の雰囲気。もちろんわたしの応答の部分は没で放映はなしでした。

 源氏物語は小学生の頃、家にあった書棚の和綴じの谷崎源氏を読みかけた記憶があります。戦前の発行でなんと伏せ字がある版でした。文学好きでその本の持ち主たる母に「このXXはなんなの?」と訊ねたら、「お前はそんな本読んでいたのかい…。まだ早いじゃないかねえ。マンガのおそ松くんでも読んでいたほうがいいよ。」と笑顔でやんわりいなされたものでした。

 高校時代も古文は好きで、山岸徳平注釈の岩波文庫を拾い読みしていました。その後小学館の日本古典文学全集の六分冊、谷崎潤一郎訳の一冊本(厚くて持ちにくいが美しい本で気に入っている)、変わり種では大和和紀「あさきゆめみし」田辺聖子「新源氏物語」橋本治「窯変源氏物語」など。

 また明治書院で4年前から発行され始めた佐藤定義個人訳の原文対照シリーズ(十五分冊予定)も良いできばえで、購読を楽しみにしているのだが、まだ七冊目真木柱の巻でストップ。もう一年近く配本が中断し、不況で発行中断なのか、心配しているのであります。

 また光田弘子朗読の新潮カセットシリーズもしんみりと情緒が味わえよく聴き返しています。

 さてこのたびの瀬戸内訳源氏物語は、本文そのものはさておき、間違いなく読みやすい。つまり十分冊だが一冊あたりでは、組み版が大きく、活字が大きい、用紙も良質で印刷が鮮明、そして比較的軽量で寝転び読書も可能。ゆえに物理的(?)評価としてはとても読みやすいわけです。

 さてさてこんな理由からで、はたして完読できますものやら・・・。

 

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