長岡市医師会たより No.230 99.5

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もくじ
 表紙絵 「ジャコウアゲハ」      広田 雅行(長岡赤十字病院)
 「開業1年、改めて宜しくお願いします」藤田  繁(藤田皮膚科クリニック)
 「長岡と外科医の私」         武藤 輝一(長岡赤十字病院長)
 「山と温泉 47 その22」       古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「春の舞姫を見に行く」        郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

ジャコウアゲハ、空へ〜表紙に寄せて  広田 雅行(長岡赤十字病院)

 「ジャコウアゲハが飛んでるよ。」行き付けの焼き鳥屋の且那に教えられて、久しぶりに出会ったのが去年のちょうど今頃。黒の地に赤の紋様を枠に配した衣装で優雅に舞っていました。アリとキリギリスじゃあないけれど、夏はよいよい冬場はどうするの?。などと、余計な心配をしたオジサンは、通勤途中に寄れる所でも有り、時々アゲハのお宿に顔を出しておりました。

 晩夏から秋に入ると冬越しに良い場所を求めて終齢の幼虫は長い旅に出て蛹になります。旅の途中には、自転車の車輪やランナーの靴が待っております。「お若いの、そっちは危ないよ。」撤去されそうなブロックに付いていれば、「こんな所で駄目じゃない。」などと自宅へ連れ帰り、とうとう三十数匹、干物作りの籠の中で一冬過ごしてもらう仕儀と成りました。

 あれは五月も寒い頃、少し早いかと思いましたが、自然が彼女を呼んでいたのでしょう。何時の間にやら立派な衣装にドレスアップして空へ旅立つ用意をしていました。晴れ姿を見てあげて下さい。

ジャコウアゲハ(♀) マミヤ645、セコール110mm、接写リング、F22、ストロボ同調、X1/60、フジブロー二ーネガカラー、IS0400


開業1年、改めて宜しくお願いします  藤田  繁(藤田皮膚科クリニック)   〜厄年、仏滅、誕生日、腰痛、私が皮膚科開業医になった経過(わけ)〜

 昨年5月20日、生まれ育った長岡で、医師会の近くに開業させていただいてから、早くももう1年が過ぎようとしています。開業する前の1年間は長く感じられましたが、開業してからの1年間は夢中(霧中?)で仕事をするうちにあっと言う間に過ぎたような気がします。

 さて、私は親戚中を探してもひとりも医師などいない農家の長男でTみのぞ−ろん(我が家の屋号)のあんにゃUとして育ちました。35年ほど前、医師会の建物があるあたりは一面のたんぼでした。蛇足ですが、そこを幸町と実際に名付けたのは祖父だそうです。私は農道を走リ回ったり、用水路で雑魚取りをするT鼻たれUでした。

 そんな私が医師になったきっかけのひとつは、私がまだ子供の頃に三上英夫先生が斜め向かいに内科医院を開業されたことだと思います。診察していただいた時に、子供に対してでさえも、優しく誠実な対応をされる先生を見て、医者っていいなと子供心に思いましたが、その時はまだ、医師になろうなどとは思いもしませんでした。運良く、山形大学医学部に入学して医師になることになりましたが、おそらく、三上先生が近所にいらしやらなければ医師になることはなかっただろうと思うと、大変不思議な感じがします。運命と言うものもあるのかもしれません。

 では、なぜ皮膚科を選んだのか? 最も大きな原因は大学5年(学部3年)の冬休み、実家の雪おろしをした時に起こしたぎっくり腰です。痛くて痛くて、トイレに行くのも泣きながら這って行く状態で、休み明けになってもまだ座ることもできずに、車の中に寝たままで父と弟に送ってもらつて、なんとか山形に戻るありさまでした。ポリクリ実習を受けたものの、立っていることもままならず、同じ実習グループの仲間が熱心に問診したり理学所見をとっているのに、なにもできずに、ひとり座って暗い気持ちで実習の時間が過ぎるのを、ただひたすら待っていました。この時、座っての実習を許可して下さったのが現在長岡赤十字病院糖尿病センター長で、当時山形大学第3内科教授の佐々木英夫先生でした。この時私は、長時間立って手術をする外科医になるのはもう無理だな、と諦めました。

 では、なぜ、内科医にならなかったのか?私はあまり出来の良い医学生ではなく、試験のたびに親友の田崎和之君に教えを受けてなんとか試験を切り抜けていました。落ちそうで落ちない低空飛行の藤田と呼ばれたこともあります。その田崎君が新潟に戻って内科に進むことになつたので、内科医になるのは止めることにしました。

 それでどうするか考えた時に、参考にするのはポリクリ実習の時の印象です。色々な意味で教授が厳しくて大変だと、学生から言われていた当時の山形大学皮膚科の中で、生さ生きと仕事をされていた、現在長岡赤十字病院皮膚科部長の渡辺修一先生に指導を受けて、皮膚科もいいなと思ったのを思い出したことと、ポリクリの前に1つの研究室を選んで研究実習をする研究室実習が皮膚科だったことから皮膚科を選ぶことにしました。

 そんなわけで、あまり順調ではありませんでしたが、なんとか大学は卒葉しました。一応長男なので、いずれ長岡に帰らなくてはいけないと思って、新潟大学の皮膚科に入れて頂きました。なんとか人並み??に仕事をさせていただいていましたが、父母の病死、祖父母の扶養などの家庭の事情で10年前から3年半、長岡から新潟に通勤したためか、腰痛が再発したため、大学勤務に見切りをつけて、伊藤雅章教授にお願いして、平成5年から立川綜合病院に赴任させていただきました。

 では、なぜ、開業医になつたのか? 私は皮膚科医になってからずっと真菌の研究をしていました。長岡西病院副院長の岡吉郎先生はその道の大先輩でいろいろと御指導して頂きました。だから、日常診療でも白癬やカジンダ、癜風などのありふれた真菌による皮膚疾患をしッかりと診ていたいのです。しかし、病院ではもッと重症の患者に時間を割かなければならないので、ありふれた患者をゆっくりと診ているわけにはいかず、病院勤務にストレスを感じていました。また、3年前の夏に腰痛が少し再発してしまい、このまま、病院勤務をずっと続けてゆくのは身体的にも無理だと判断しました。

 私は昭和32年5月20日生まれで、昨年はちょうど本厄に当たっていましたから、厄落しも兼ねて、両覿が生前希望していた通りに、幸町で開業することを決意しました。皮膚科は夏に患者が多い関係で春に開業することが多いのですが、どうせなら誕生日に開業したら面白いんじやないかと思い、この日を開業日にしたら、なんと仏滅でした。開業のご案内を刷り終わってから、それに気付きましたが、そのまま仏滅に開業することになりました。

 その後は今年正月早々の1月4日の診察中に腰痛が再発するなど、色々なことがありましたが、とにもかくにも1年が過ぎようとしており、5月20日発行のぼん・じゆ〜るに載せていただくためにこの雑文を書けることを感謝しています。

 私のような者でも医師となってからこれまで、なんとかやってこられたのは皮膚科や長岡市医師会の先輩の先生方にいろいろな御助力、御助言を頂いたおかげです。この場を借りて厚く御礼申し上げます。また、古田島昭五先生、森下美知子先生、小林聰也先生、横山博之先生には医院の見学を含めていろいろと御指導して頂きましてありがとうございました。

 こんな私ですが今後とも宜しく御願い申し上げます。

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長岡と外科医の私  武藤 輝一(長岡赤十字病院長)

 小学校の頃、新潟から先生や同級生と一緒に長岡市内の小学校を訪問した記憶があります。私は旧制新潟医科大学最後(昭和29年3月)の卒業ですが、2年生の秋、虫垂炎のため虫垂切除をうけました。この時の主治医が工藤辰夫先生と赤井貞彦先生でした。当時、工藤先生のお嬢さんが歩き始めたばかりの頃と思いますが、以来、2階に間借りしている先生御一家のところへお耶魔し、今日までご交誼を賜ることになりました。インターン1年のうちの外科の8月分の半分を、外科部長として工藤先生が赴任しておられた厚生連長岡中央綜合病院(以下中央病院と略します)外科で研修させて頂きました。この時、野本安行先生ほか諸先生にお世話になりました。

 工藤先生が西神田で開業されてから何回か医局命令で代診に参りましたが、土曜日にも拘らず400名近くの外来患者があり、いつまでもカルテの絶えることがなく、がっくりしたことを思い出します。しかし沢山の看護婦さんがテキパキと動いていて、膿瘍切開など以外はほとんど椅子からから立たずにすみました。

 昭和34年春、大学院医学研究科博士課程を第1回院生として修了した頃、外科学教室入局時に医局長としてお世話下された岡村茂先生が長岡赤十字病院(以下日赤病院と略します)外科部長をしておられ、「武藤君こんど外科副部長の席ができたから来ないかね」と声をかけて下さいました。早速に主任教授の堺哲郎先生に赴任のお願いに参上したところ、「助手の席が空くまで出張してもよいから、もっと勉強しなさい」といわれ、日赤病院赴任を断念した思い出があります。

 昭和36年12月、鳥居俊夫先生が御父君の医院を継がれるため退職されることになり、後任として吉田鉄郎先生が赴任されるまでの約5カ月の間、中央病院外科医長として出張しました。この時のネーペンが現在市内で御開業中の渡辺正堆先生です。大きな手術の時、教室から同級の鷲尾雅彦先生(現在、悠遊苑施設長)が手伝いに来て下さいました。この頃の中央病院は経済的に楽ではなかったように思います。亀山宏平先生方とマージャンをやっていると武田正雄先生に「二流クラスがやっているな」と冷やかされたものです。当時、立川綜合病院(以下立川病院と略します)にはモダンな円筒型の病棟がありました。前田稔先生が赴任されてからも、その前にも代診や手術の助手で参上しました。

 昭和45年10月、恩師堺哲郎先生の後をうけて外科学第一講座教授に就任致しましてから、ときに中央病院、立川病院、吉田病院、日赤病院に手術で参上させて頂きました。立川晴一先生とお話する機会があったのもこの頃からです。和田寛治先生から連絡を受けて岡村先生の手術で日赤病院へ参上したこともありますが、岡村先生は今もお元気で嬉しく存じております。吉田先生の急なご連絡で参上し、御令閨様の手術を担当させて頂きましたが、御令閨様には益々お元気のご様子何ょりと存じております。しかし家族ぐるみでおつき合い頂いた角原昭文先生がご病気なのは残念であります。幸い同門の山井健介先生が後を引受けて下さり感謝しております。

 お世話になつた工藤先生御夫妻のご長男の東京ホテルオークラでの結銀婚式には私共夫婦が媒酌役を務めさせて頂き懐かしい思い出となりました。しかし病臥されていた頃の工藤先生とお話するのはお元気な頃のことが良く分るだけに辛いものでした。今でも工藤先生の奥様と荊妻が電話のやりとりをしております。奥様は時には海外におでかけになるとのこと、先生の分も楽しんで頂きたいと思っております。

 長岡の花火を最初にみたのは中央病院でのインターンの時でしたが、次は荒井奥弘先生が病院長の時にお招き頂き荊妻と共に参上致しました。生憎と雨で旧日赤病院の窓越しに花火見物をしました。昨年も雨のため日程が変更になりましたが、今年こそ晴れた夜空に花火をみたいものです。長岡の花火をみますと、長岡空襲の日、新潟の自宅の2階から夜空に金具っ赤な大きな傘となって見えた火災を思い出し、無念さが脳裏を去来します。

 学長退任後は数年新潟県厚生連の顧問を務める約束をしていたのですが、外科学教室では後輩で、私自身が日赤病院への就職を奨めた前院長の和田先生の強い要請を受け、昨年四月から日赤病院に参りました。病院の医局では新潟大学や外科学教室の後輩が多く、大学にいた時と余り変りありませんが、常勤全職員994名の病院長として責任を重く感じています。医療も厳しい状況下にあり、大巾な医療法の改正も近く、長岡市医師会の先生方もご苦労が絶えぬことと存じます。長岡市医師会の一人として病診連係は勿論のこと、病病連係にも力を入れ、今後の医療の改変に対処したいと考えております。今後ともよろしくお輝い申し上げます。


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山と温泉47〜その22 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

赤倉山・赤湯道

 前述の赤湯温泉より川原を上流に向かい、清津川本流を左岸に渉り、昌次新道との分岐点で左の尾根路に入る。この処まで前述の昌次新道と同じ。この尾根路の尾根は、赤倉尾根(末尾根?)で、左にサゴイ沢、右に赤倉沢と深く、赤倉山標高1938.4米の支尾根。又、赤湯温泉が標高1050米で標高差約900米、距離3.5粁と、可成り辛い登路になります。歩行3時間半は必要でしょう。分岐点を右に昌次新道を岐け、喬木の森林の中をジグザグと急坂を稜線に出るまで登る。サゴイ覗き1229米で漸くやや平坦になる。展望のなにもない登路は、米栂、大白桧曽に替わり、地図上の1465米のピークで僅かながら明るく、展望が効いてくる。急坂につぐ急坂は赤倉山迄続く。筍平は平坦ではなく、線い斜面で、広い尾根と言った方が良い。赤倉山への最後の急坂は堪える。漸く平坦になると赤倉山。三角点はよく判らない。躑躅と石南花が多い。登路は左に佐武流山への西の路を岐け、右に執り北に向かい約200米下降、1787米の小鞍部から再び急登となるがこの辺りから根曲竹が多くなり、石南花、躑躅が混じり歩き慣れた越後の山道に変わる。しかし直登、熊の好物根曲竹は濡れると滑る。展望はなく、一汗も二汗もかく。月の輪熊に出会うのもこの辺り。地図上1787米測定点が最低鞍部、この処から頂稜線を標高1900米迄急登する。右のサゴイ沢の斜面は笹原、登路は急に横斜面となり、左側には大白桧曽、米栂の林となり、右側は低い潅木帯、広大な台地の緑をゆっくり緩登します。頂上台地の中の段と言われている標高1900米から2000米間で台地中央部の草原に入り、実際には峰とは見えない「龍ノ峰」からは「上の段」2000米以上に入り待望の苗田-湿原の木道から山頂三角点、伊米神社奥社伊米神祠に通する。この赤倉道の登路は急登の連続で辛い。赤湯から赤倉山経由苗場山頂迄、時間にして7ないし7時間、距離にして約8粁。越後の山旅には「赤湯から赤倉山への比高約880米、距離約3粁約3時間で足りよう」としてあるが、私は4時間で漸く赤倉山頂上で水を飲んでいたような記憶です。小暮理太郎氏は「山の思い出」の文中「赤倉山の三角点に着いたのは11時少し前であったから、上りに2時間半を費やしたことになる」とある。赤湯から赤倉山まで3時間、赤倉山から頂上台地に入るまで2時間、山頂三角点迄はさらに1時間半とみればよいでしょう。前述の「山の思い出」に次のような一文がある。上越線開通前、上越南線が沼田迄開通した頃の話のようですから大正12〜13年頃の6月の事かと准定します。「(宿人に)苗場登山の希望を話して相談すると、2〜3年前に林道が造られたので、湯治に来た女衆でも下駄履きで蝙蝠傘をさして、この処から日帰りに参詣して来ると聞いて、少し張り合いも抜けたが安心もした…急な登りが200米も続くと平らな尾根の上に出た、なる程いい道である。登るに従って闊葉樹林はいつしか針葉樹林となり、終いに根曲り竹の藪となつたが、道は何処までも通じている…」。湯治に来た女衆でも下駄履きで蝙蝠傘をさして、この処から日帰りに参詣して来る、なんとも大袈裟な話。宿の人と言うのは、赤湯温泉山口館二代目・山口昌次氏の事であろう。この人は、昌次新道を伐開した人で、天狗のような人であったと言う。藤島玄氏は山口昌次氏について「壮年の頃、温泉を早発、セパト川から尾根を登り大黒山・上ノ倉山・上ノ間山・白砂山・佐武流山・赤倉山・清津川源頭の山々を一巡して夕暮れには赤湯に浸っているのを、春の熊狩期には日課にしていた…」と書いているのだから、全くの法螺でも、大袈裟な話でも無かったのでしょう。この登路は昌次新道同様下山路としたい。注意は、熊の好物根曲り竹が多く、出会い頭が危険。熊の行動範囲は、赤倉山赤湯側頂上直下から苗場山頂上台地迄の間に多いようだ。私も一回、熊の月の輪を観る機会があった。携帯ラジオは熊避けにいい。(つづく)

 

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春の舞姫を見に行く  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

「あつ、ゆうくんだ。おはよう。」

「あっ、G先生。おはようございます。おじいちゃん、G先生だよ。」

 4月下旬の日曜日の早朝、集合場所の長岡駅前に、思いがけず獣医のHさんの息子のゆうくんがいた。送って来たお祖父さまが、両親は仕事なのでよろしくと挨拶された。小学3年のゆうくんは「虫キチ」で、1年生からずっとひとりで毎回参加しているとのこと。

 きょうは長岡市の科学博物館が主催する「親子昆虫観察会」。年数回の開催だが、春一番の催しだ。踊で冬を越して羽化したばかりのギフチョウを東山で観察する。

 しだいに親子連れや小学生が集合してきた。昆虫採集は男の子の趣味なのか、参加者に若い女の子は一人もいない。オバサンなら家人ともう一人単独参加の中年女性がいた。待ち合わせ時間に、科学博物館のY先生から、観察会の目的と蝶の生態についての説明があった。ギフチョウも個体数が減少し絶滅危惧種だが、長岡東山周辺は全国有数の生息地だ。年1回春に繁殖、蛹で夏も冬も過ごす。翌春に羽化した蝶はカタクリの花の蜜を吸う。交尾して食草の葉に産卵する。

 よく似た形態のヒメギフチョウがいて、全国的にはこの2種の生息地域は原則的には重ならない。両者は人工飼育で容易に交尾し、その雑種F1がさらに繁殖もできるので両者は同一種だとY先生自身は考えている。たぶん小学生には理解できない高度な専門的解説まであった。

「お父さんがね、ぼくにはギフチョウは捕れないだろうって言うんだ。だからぼくは絶対に自分でギフチョウを捕って見返してやるんだ。」とはりきるゆうくん。

 バスで現地付近に着き、山を歩き始めながら、開発と自然保護の話があった。ギフチョウに限れば、自然に全く手を加えない保護方法ではうまくいかない。なぜなら食草のカンアオイ類は、スギなど常緑針葉樹の自然林を切り倒して人工的に日当たりが良くなった所に生育するからである。逆説的だが人工的な林こそ、ギフチョウ保護には望ましいのだそうだ。「蝶道」と呼ばれる蝶の個体が頻繁に通る道筋に、Y先生の案内で入ったとたんに蝶が飛んできた。

「あつ、ギフチョウだ。」

「やったあ。捕れた、捕れた。」

 小学生が捕虫網から捕獲第一号のギフチョウを掴みだして見せてくれる。じつに手慣れたものだ。

「わあ、すげえ、きれいらあ。」

「ほんとだねえ。アゲハの仲間なんだが、独特の美しさですね。春の舞姫なんて呼ばれるんです。」

 一時間余りですべての小学生が各自捕獲できた。大人はそれを見て満足。楽しい昼食となった。家人とおむすびを頬張り、冷たいお茶を飲む。爽やかな自然の中で食べるのはうまい。

「ゆうくんもギフチョウうまく捕れて良かったね。お父さんに自慢できるね。」と家人。

「うん。でももっと捕りたいんだ。ぼく、また行って来るよ。」と上気した顔のゆうくん。お母さんの手作り弁当に手を付けずに、また飛び出していった。

「あら、あの元気な子はお子さんではないのね?」と隣の中年婦人。

「わたしも美しい蝶が見られるのが楽しみで参加したんです。捕虫網も持たず何しに来たのか、こどもたちが不思議がって訊くんですよ。」

「春の野山を学術ガイド付きで蝶々を鑑賞できるハイキングなんて最高のぜいたくですよ。」とわたしも笑いながら答えた。

 

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