長岡市医師会たより No.233 99.8
このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。
表紙絵 「赤い花」 立川 晴一(立川メディカルセンター) 「アイスランド紀行〜その1」 佐々木英夫(長岡赤十字病院) 「追想〜長岡大空襲」 野村 権衛(野村内科医院) 「しへき治療棟をつくる法2」 中垣内正和(県立療養所悠久荘) 「犬だって介護がいる」 郡司 哲己(長岡中央綜合病院) 「ボン・ジュ〜ルだけ」 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)
赤い花 立川 晴一(立川メディカルセンター)
アイスランド紀行〜その1 佐々木 英夫(長岡赤十字病院)
1.出発、そしてロンドンヘ
昭和58年日本は男女共世界一の長寿国となった。それを記念して山形の新聞社が、この年の三大事業の一つとして長寿国視察団を計画した。当時、長寿国として有名なのは南米ペルーのビルガバンバ、ソ連のコーカサス地方、パキスタンのフンザの3つがあった。この中、前2者は信頼出来る資料に乏しく、ソ連ではビザ(入国査証)が取りにくいことが分かった。フンザについては住民全体の資料はないが、イギリスなどの調査で長寿者がいることが確認されていた。そこで第一候補としてフンザが決定され、第二の候補としては文明国で確実な資料に基づく世界一の長寿国のアイスランドが挙げられ、この2ケ国を訪問する予定となった。ここで山形大学医学部に対して参加の依頼があった。フンザはヒマラヤの支脈のカラコルム山脈に位置し、現地では文字通りの原始生活を強いられることになる。文明圏とは程遠い僻地で本格的な登山をする様な場所へ行くことに皆尻込みをした。山が好きで野宿経験もある私は、支脈とは言えヒマラヤ山脈を"タダ"で見られると喜んで応募した。団員は山形テレビからカメラマンと監督の2名、山形新聞の記者1名、山形県庁の福祉関係の課長1名と私の5名である。団長は私、副団長には県庁の方がなり、先ず顔合わせを行った。山形テレビや山形新聞の人達は職務柄、県庁を訪れる機会が多く、県庁の方とは顔馴染みであり、新顔は私のみであった。連中は医学部の先生ともなると堅物で、くだけた話は通じそうもないと言う先入観があったらしい。そこで先ず酒を飲ませてみる運びとなった。こちらとしては儲けものである。一緒に痛飲し、程々に酒も飲めるし、話も通じることが分かり、一同安心したようである。所が、その数日後アフガニスタン戦争が勃発し、フンザヘの中継点のペシャワル(パキスタン)がアフガニスタンとの国境のため入国禁止となってしまった。憧れのヒマラヤ見物は頓挫し、急遽目的地を変更することになり、アイスランドに次ぐ長寿国のスウェーデンと福祉施設の発達したイギリスのロンドンが次善の目的地となった。予算の都合で航空機は南廻りとなり、香港とバーレンで2度の給油をし、約24時間でロンドンに着いた。イラン・イラク戦争の最中に危険区域のペルシャ湾上空を飛行したのだから危険極まりない。今にもミサイルが飛んでくるかと、肝を冷やしながらの飛行だから強烈なストレスとなり、腹膨れるまま、疲労困備の状態でロンドンに着いた。新設のガットウェー空港は何もない荒れ地にターミナルビルがポツンと建っているだけで、これがロンドンかと心もとなくなった。出迎えの片桐先生(ロンドン大学留学中、長岡市出身)の顔を見た時はホッとした。聞けば開港1ケ月とかでヒースロー空港より街から遠いがズット広いとのことである。一休みの後、ロンドン大学でイギリス全般における福祉対策のレクチャーを受け、翌日から市内の老人ホームと集合住宅の見学をした。後者は一種の団地で老人住宅の散在する中で適当に配置された家が若者夫婦に割安で提供されている。若者や子供の息吹きを伝えるのが主旨で、実際の効果もかなりあるので、「若返り村」と呼んでいる、と責任者は言っていた。スウェーデンではもっと徹底していて、同じマンションに若者と老人が住んでおり、食事は共同食堂でするのが原則となっていた。
2.アイスランドヘ
4日目はいよいよアイスランドヘ出発である。今度は表玄関のヒースロー空港から出発し、約5時間の飛行でケフラビック空港に到着した。深夜なのに北極圏に近いので薄明るい。いわゆる白夜のシーズンである。バスで首都レイキャビックに入る。アイスランドは北極圏直下にあり、四国位の大きさである。ホテル・エイシャに着き、当日はゆっくりと休養した。明ければ空はどんよりと曇っており、よく見ると細かい霧雨が降っている。夏では毎日、この様な雨とも霧ともつかぬ天候と言う。正面にはホテルと同名のエイシャ山が裾野を大きく拡げて聳えている。頂上は全く見えないが、火山でもあり、富士山になぞらえて、さぞや高い山であろうと想像していた。帰国直前、晴れ間に見えた山頂は、いつもの雲より少し高い所にほぼ平らに広がっており、少々がっかりした。翌日より、老人ホーム、老人保養所(長期滞在型の老健施設)、老人病院、一般病院の老人病棟、ケアハウス(身体障害者のみならず精神的なリハビリや一般のデイケアも扱う)などの見学や野外美術館、アイスランドの古い住宅の展示場所の見物などのハードスケジュールに数日を費やした。
アイスランドは大西洋の北端に浮かぶ孤島であり、火山活動により出来た比較的新しい島である。北に位置する割合には冬も寒くないのは地底のマグマによる地熱と暖流のメキシコ湾流の末端が来ている故である。真夏の最高気温は18度、日が翳れば10度以下となり、アノラックを着て丁度良い位である。しかし沿岸部は冬でも凍らず、平均気温2〜3度であり、人も住めることになる。住民は数百年前、政争に破れたノルウェーの貴族が一族を連れて移住したのが最初である。そのため言葉は古代ノルウェー語であり、現代のノルウェー人にもかなり難しいらしい。島内の火山活動は今でも活発で、無数の活火山があり、温泉や間歇泉も多い。至る所にクラック(地割れ)があり、溶岩流の堆積や断崖も多い。時には畑や村落の中にマグマが噴き出し(火山爆発と同じ)、一村全滅の生々しい記録が幾つか残っている。沿岸部の幅2〜4kmの平地を除いては殆ど火山岩からなる高原や山々であり、その大半は氷河に覆われている。しかし、温泉も多いのでその熱を利用して、各戸への給湯や暖房に役立てている。電力も氷河よりの豊富な水と断崖を利用した水力発電が発達しており、十分にエネルギーは供給されている。従って、燃料を燃やす必要がなく、街では殆ど煙を見ないクリーン・シティである。
健康増進のためにアスレチッククラブ、青少年のキャンプやスポーツクラブなども普及している。大きな温泉プールも各地にあり、人口8万5千人のレイキャビックには4ケ所もあり、人々は出勤前や退庁後に一泳ぎして行く。プールサイドには温度の異なる浴槽が数種類あり、老人達は一泳ぎ後、浴槽につかりながら世間話を楽しんでいる。老人ホームや老人病院には必ずデイケアとプールがあり、いずれも一般に公開されている場合が多い。デイケアシステムの内容は豊富である。読書サービス、諸々の語学学習、刺繍、織物、木工、ダンス、ストレッチ、卓球、水泳など専門家のボランティアサービスで午前、午後に渡って行われている。一方、失業率0を国の方針としているので老人でも希望すれば仕事につける。ある木工場では75才以上の老人が5人働いていた。老人ホームのリハビリも徹底しており、身体障害者でも不自由なく、毎日を過ごしている。
沿岸部の僅かな、平地も火山灰混じりの荒い上であり、ジャガイモ、小麦、大麦などが僅かに採れる。しかし、農耕に適さぬ所が多く、羊の牧畜が行われている。羊は肉、乳、毛糸、皮と余さずに使われている。しかし、かって放牧された羊により、僅かにあった木の葉や皮が食べ尽くされ、全て枯れてしまい、木が一本もない世界となっている。従って、建築材は全て輸入に頼っている。主食の麦は辛うじて賄えるが、野菜や果物の大半も輸入である。今は温泉熱を利用したハウス栽培が始められている。メキシコ湾流と北極海流のぶつかり合う所なので魚は豊富にとれる。現地では鰊と鱈の類がよく食べられていた。塩味のオイル煮や煮物を甘酢に漬けた様なものが多く、水っぽくて余り旨くない。オヒョウ(大ヒラメ)も沢山とれ、ヒラメに似て美味である。大きいものでは畳一枚位のものもあり、1米以上が売り物になるため1米近いものが波止場に捨ててあり、誠にもったいない限りである。しかし、これまで国の総生産量から人口は25万位を養うのが限度であり、若者の多くはアメリカやヨーロッパに移民している。医学都も毎年20名卒業するが、インターンで残れる者は7名に過ぎず、優秀な者程外国に行ってしまい、頭脳流出だと病院長が嘆いていた。一つづく一
目次に戻る
「追想」長岡大空襲 野村 権衛(野村内科医院)
「夏の想い出」を何んでもよいから書いて下さいと言うことですが、ハタと困ってしまいました。色々とあるからです。しかし、突き詰めて考えてみると、二度と体験出来ないということでこれに尽きるでしょう。
昭和20年(1945年)8月1日、822機のB29爆撃機がマリアナ諸島を離陸、その内の136機が長岡空襲にむかいました。途中、11機が不調のため離脱、125機が長岡爆撃を達成帰航しました。テニアン島の第313爆撃飛行団であったそうです。
戊辰戦争で焼失した城下町長岡は、その後営々と商工業を興し発展して来ました。その近代都市長岡も、このB29爆撃機の無差別焼夷弾爆撃のまえに、一夜にして市街地の8割が焦土と化し、1460余名もの尊い市民の生命が奪われたのです。
「警戒警報発令」(8月1日21時6分)
「空襲警報発令」(8月1日22時26分)
「爆撃開始」(8月1日22時30分)
「爆撃終了」(8月2日0時10分)
「空襲警報解除」(8月2日0時35分)
「警戒警報解除」(8月2日2時17分)
また、記録によれば別名「レイブン」(九官鳥の一種)と名付けられた特殊任務機1機が、警戒警報発令直後に長岡上空の高々度を旋回しながら妨害電波(スズ箔散布)を発生させたそうです。そしてこの1機が8月2日早暁、信濃川土手上を超低空で飛来、避難市民に機銃掃射を加えたとも言われています。
当時、私は小学校3年生でしたが、この年の春から本土空襲が激烈を極め、戦時状況もかなり逼迫して来たため、長岡郊外に疎開をさせられていました。この頃、他所から長岡市への疎開者は3280余名を数えたそうです。奇しくもこの8月1日は、今日から夏休みということで、丁度生家に帰って来たためこの体験を得ることが出来ました。
その日は大変蒸し暑い夜でした。枕元のラジオが妨害電波(スズ箔)の雑音の中で、途切れ途切れにに「B29の大編…隊が…柏崎…上空を…」と言う頃には、早やオドロオドロとした地鳴りの様な爆音が響いて来ます。燈火管制下にあった暗黒の長岡上空は、空襲警報発令と同時に数発の照明弾の投下によって、市街地は白日のもとにさらされました。次いでパスファインダー機(先導機)がM47ガソリン焼夷弾を、進入方向の宮内・宮原地区と退去方向の西新町地区に投下、南北両端での火災を目印に進入したのだそうです。市の中心部から周辺にかけて一斉に焼夷弾が降り注ぎ、あっという間に一面火の海です。この焼夷弾は、日本本土空襲用に木と紙で出来ている建物を焼き払う目的で開発されたもので、M69集合焼夷弾と呼ばれ、油脂を主成分とする爆弾でした。油脂成分を六角形の鉄の円筒に充填したものが焼夷弾の本体で、ナパーム焼夷弾とも呼ばれました。このナパーム弾は、32発または48発を一束にまとめ1個の焼夷爆弾とし、1機でこれを24個搭載していたと言われています。これが投下されると空中で破裂分解四散して、時限信管で点火しながら、1機より1000発前後のかなりの数の焼夷弾が、まさに雨の如く降り注いだものです。落下した六角筒のバター様油脂は、周辺に飛散してベッタリとへばりつき強烈な火災と高温を発生したのです。我が家に最も近い最初の1弾は、関東町の現・栂野先生宅の直撃弾で従業員の方が亡くなられたと記憶しています。至近距離で火の手があがり、夜空を焦し、空気が大きく揺れて子供心にこれは大変なことになったと思ったものです。早速、防空頭巾を被り家族全員で町内の共同防空壕に避難しました。この防空壕は地上に土と丸太を組み合せ立ち上げ構築したもので20名は入れたでしょうか。この年の春には県知事より、各家庭でも1つの地窖(じごく:あなぐら)を作っておくようにとの通達があったそうですが、空襲とはどんなものか解っていない市民は、縁の下や押し入れの下などに穴を掘って作ったりし、実際その大部分は一般の共同防空壕とともに焼夷弾には何んの役にもたたないものでした。ちなみに表町の平潟神社、柳原町の神明神社境内の防空壕に避難した人達は、全滅で、408名の死者(焼死・窒息)を出し最も悲惨な地区でした。
ゴウゴウとうなりを上げ燃え盛る劫火の明りの中を、5機編隊の不吉な怪鳥のようなB29が黒々とした姿をみせ、整然とお腹(爆弾倉)から焼夷弾を撒き散らします。ヒュルヒュルという空気を引き裂く落下音の中で破裂し、ザァーと幾筋かの火の流れがきらめく光芒となって夜空を彩り、不思議な興奮とふるえが身内を走りぬけます。防空壕からのぞき見上げる夜空の絵巻模様を、恐しいというよりむしろその華麗さに嘆声をあげていたことが思い出されます。火勢も愈々関東町、呉服町、神田と迫り来て「退避!退避!」という声が響きます。ついに防空壕を離脱する時が来ました。家族5人で冬物の掛け蒲団を頭上に掲げ持ち、その下に隠れながら稽古町、東神田、愛宕と鉄道線路沿いに火の気の見えない下手の方に逃れました。電信柱上のトランスが火を吹き、倒れて来ます。田圃の畦道に出ると、8月の稲穂がパチパチと火をあげながら小さな津波のように左右から迫って来ます。牛が全身から火の粉を振り撒きつつ暴走して来ます。怒とうとなって押し寄せて来る避難者の群れ、まさに阿鼻叫喚の地獄絵のはずですが、記憶の中にその時の恐怖心を全く思い出すことが出来ません。栃尾鉄道(廃線)の栖吉川に架っている鉄橋の堤下(通称・3年土手)のトウモロコシ畑の中に逃れ周囲を見渡すと、すでに避難者で埋まっており、怒声や子を探す親の声、親を探す子の声で満ち満ちていました。空には相変らずB29が我がもの顔で君臨しています。当時、高射砲が一門あったということですが全く役に立っておりません。その内「雨だ!雨だ!」と言う声があたり一面よりあがり、降雨を期待しましたが、直に黒い雨:「油」が撒かれたと解りました。まさに「火に油」です。その悪夢の如き大編隊も、翌2日午前O時10分何処かに飛翔し、夜空の轟音も消え空襲警報も解除となりました。そこで午前3時頃一大決心で家にとって返すことになりました。市街地のほとんどは下手方面を除いて盛大に火の手を吹き上げ、火災特有の強風が渦巻き、真昼の如き明るさで鼻をつく強い臭いで充満しています。火の気のない道路を選んで辿りつつ半ば諦めの境地で我が家に帰り着いてみますと、何んと!!全く被災せず残っているではありませんか。しかし、南側と西側には黒煙と火の海が迫っています。幸いにして我が家との問には畑がかなりの間隔を空けて火を凌いでくれています。屋根の上に落ちて来ていた火の粉も、風向きに助けられどうやら届かない様子です。そんな最中、焼夷弾の直撃を大腿部に受け、下肢を吹き飛ばされた女性が担ぎ込まれて来ました。しかし満足な医療器具もなく、玄関前で為すすべもなく亡くなられてしまいました。出血の大きな痕跡がいつ迄もいつ迄も玄関前のコンクリート上に物悲しく残っていました。
当時の市内で唯一被災を免れた医療機関でした。しかし、皮肉なもので貴重品や資料等の殆んどは、隣家の田村文之助氏宅の、ここならどんな空襲でも大丈夫と保障付きの立派な白壁の土蔵の中に収納してあったのです。空襲を受けて10日位経ち、ようやく人心地がついた頃、彼の土蔵の扉を開け、中に入ってみますと、土蔵の外観は黒く煤けてはいるものの完全な状態に保たれていましたが、中の収納物は総て蒸し焼きで炭化しており全滅でした。焼夷弾の火力火熱の物凄さを伺い知ることとなりました。長岡医史編纂の折、何か資料がないかと間い合せを頂きましたが、家は無傷で残ったものの殆どの資料は灰蓋に帰しておりました。空襲直後の負傷者救護のための臨時診療所は、我が家と台町の現・高野医院と長岡保健所で、病院は神谷病院(現神谷医院)と中央病院(現長岡中央綜合病院)が当てられたそうです。また、罹災された医師で組織された診療班が市内の巡回診療を続けたそうです。
終戦直後、進駐軍が長岡保健所を視察に訪れるというので、我が家の扇風機を貸し出した、などの話を覚えています。
それから54年目の夏、冷えたビールを傾けながら当時を偲ぶ時、まさに「夢・まぼろし」の如き思いがして感無量であります。
参考資料:「長岡の空襲」(昭和62年8月1日発行)
目次に戻る
3.悠久荘方式の可能性
わが国のアルコール医療のモデル「久里浜方式」は、断酒の意志のある者だけを入院治療の対象にしています。しかし、これは入院を決意する前に命を失う人が多いという地域事情に合いませんでした。そこで私たちは治療の必要があると判断した場合に入院させる「危機介入」の方針をとりました。また「生きるも死ぬも本人の選択」とする久里浜方式でなく、「生き方を振り返り、生き方を変える」ことを提案する方針をとりました。この「完全断酒」「生き方を変える」「危機介入」の3本柱を悠久荘方式とよびたいと思いますが、これは明らかにアルコール医療の新しいスタイルといえます。
しかし「危機介入」は濫用されると人権侵害になる可能性があります。また「病院まかせ」という安易な態度を助長することも考えられます。患者さんの意思による任意入院が第一選択であることは言うまでもなく、悠久荘の任意入院の割合は80%に達しています。
悠久荘方式は、先行する専門病棟のやり方に比較すると、研修内容がかなり厳しいといわれています。その治療成績については、S病院事件で揺れた昨年の「日本地域・病院精神医学会」において、悠久荘の5年間の予後調査として発表いたしました。それによりますと、ARPを終了した人の1年後の断酒率は70〜80%、5年間の断酒率60%と高く、死亡率は12%、入院を繰り返す人が少ない、など良好な成績が得られております。先行する専門病棟の2倍もよい断酒率は、悠久荘方式の正しさを示しています。私たちは「予後をよくすることが県立のアルコール医療の生命線」と考えており、今後もこの方式に工夫を重ねていくつもりです。
11年におよぶ経過のなかで、のべ1000人ほどの患者さんが入院され、昨年度は120人の入院がありました。現在100人以上の患者さんが通院されています、また「アルコール依存症の家族教室」には常時20名前後の参加があります。断酒食やAAなどの自助グループの方も来院されて交流していますので、アルコール外来などのある金曜日は、単科の精神病院とは思えないほどの賑わいを見せ、さながらサロンのようでもあり、総合病院の外来のようでもあります。病院全体の新築が完了した場合にサロン化に拍車がかかると予想され、悠久荘のイメージを変えるのに今後とも大いに役立つと期待されます。
せっかくARPを終了しても、通院しない、自助グループに参加しないなどの条件が重なりますと、再飲酒から早晩死亡にいたるという厳粛な結末が待っています。しかし外来通院率、断酒食やAAへの参加率は上昇しており、同時に中越地方の断酒食やAAは活発化しています。住み込みで断酒特訓を受ける「新潟マック」の運営も軌道に乗ったようです。最近では、今後10年間で各市町村に1つずつ自助グループができるかなという希望的観測をもてるようになってきました。
4.おわりに
アルコール依存症は発見するにも、説得するにも一工夫を要し、放置すると進行して死にいたる厄介な病気です。再飲酒が必ず連続飲酒につながる体質は終生変わらないので、治らない病気であるともいわれます。しかし悠久荘の断酒治療によって「完全断酒」「生き方を変えること」「断酒生活のコツ」を学び、断酒の3本柱である「2年以上の通院」「シアナマイド使用」「自助グループヘの参加」を退院後に実行するならば、普通の生き方に回帰・回復することができます。アルコール依存症は、断酒努力を継続することによって、普通の生活に回復することができる病気なのです。それどころか、耐えず自己と向き合う断酒努力の人生は、依存症でない人の人生より生きがいに満ちたものになる可能性があります。「一病息災」は、アルコール依存症に苦しむ本人、家族、治療する人々にとって希望と意欲を与えてくれる英知に満ちた言葉です。
さらにアルコール依存症と上面からとりくむことによって人生が本物になったという感慨から、回復者たちは「アル中になってよかった」とさえ語り、酒害に苦しむ本人や家族たちに手をさしのべ続けるようになるのです。(了)
※ARP…アルコール治療プログラム、AA…アルコホリクス・アノニマス(匿名アルコール中毒者の会)
〜犬にまつわるエッセイ〜その21
先週新潟市での学会への日帰り出張の帰りに出迎えを頼もうと駅から電話を入れると、家人が「今し方、たいへんだったのよ。よほど携帯電話を鳴らして連絡を取ろうかと思った。」と緊張感あふれる声の様子で言う。
その夕方、我が家の愛犬"コロ大"を散歩に連れて行こうとしたら、まったく立ち上がれない状態に突然なっていた。かかりつけ獣医師のHさんにあわてて連れて行った。
「老犬にときどきある前庭機能障害なんとか症候群とかいう病名なんですって。さしあたり命に別状はなくゆっくり快復することも多いそうよ。ステロイドとビタミン剤の投与で様子を見るそうだわ。でも見ていると、横たわっていても左右方向に眼が揺れ動き続けているの。ちょっと心配で目は離せないわ。」
「わかった。タクシーを拾って帰るよ。」
柴犬の"コロ大"はこの春で、14歳になった。妻の"はな"13歳、娘の"ゆめ"7歳の家長としていまもG家のなかに君臨していた。人間の年齢に換算して九十歳くらいだろうか。老犬性の身体変化としては数年以上前から徐々に難聴と白内障による視力障害が進行中であった。もちろん四肢の動きも若かりし頃の躍動感はなく、朝晩の散歩も帰り道ではよたよた歩きに近いものがあった。鼻だけはいまだおとろえを見せず、おいしいものを食べていると嗅ぎっけてやってくる。命にかかわりかけた一年前の肺炎による呼吸不全という大病を克服したあとは、通常の老犬にしては元気な暮らしを続けていたのであった。そんな矢先の急変であった。
あわてて帰宅すると、家人の言うとおり、"コロ大"は居間でくたんと横になり、頭は右方向に傾きかげんで、うつろな目つきで焦点が定まらず、常に激しい水平方向の眼振があった。
「あら、お帰りなさい。やっといまわたしの手のひらから、お水をすこしだけ飲んだの。」
「薬は飲めたのかい?」
「まだなの。でも夕方にH先生で、一回注射はして貰っているから、あなたの帰りを待っていたの。お薬のませるのを、手伝ってくださいな。」
両手で口をこじ開けて、奥の方へ錠剤をおしやる。"コロ大"は懸命に抵抗して、不自由な動きの口の中で舌をくねらせて上手にその錠剤を吐き出してしまった。
「この点は"コロ大"いつもどおりに、しっかりしているぞ。頭はぼけていないから、喜んでいいぞ。」
「そうなの?でもお薬は飲ませないと。ひょっとして、おいしい物なら食べるかも。」
家人は冷蔵庫から"コロ大"の大好物の薄切りハムを取り出して錠剤をはさんだ。その手から"コロ大"はにおいをふんふんと嗅いたあげく、ぱくりとくわえ、飲み込んだ。---ように見えた。しかしなんとその2秒後、口から白とオレンジ色の錠剤だけが2つ、ポトリと吐き出されたのであった。
「まあ、なんて子なのかしら。こんなに具合が悪そうなのに、器用に錠剤だけ吐き出すなんて。これじゃいつもと同じじゃん。ようし、もう一回だね。」
再度の丁寧にくるみこんだ春巻ならぬ「錠剤のハム巻き」による再与薬の試みは、さいわい効を奏して、成功した。
疲れたのか眠り込んだようにうつ伏した犬の瞼は左右に揺れ続けているのが見て取れる。ひどい眼振である。しばらくその様子をぼんやりと眺めていて思いついた。--もし病態が前庭機能障害なら酔い止め薬のトラベルミンが効くかもしれない。副作用は眠気くらいだから、むしろ眠らせてやった方がよいな。再度ハム巻き作戦で錠剤を追加内服させた。ただしそれ以上は他のものも食べようとはしなかった。そして飼い主もいっしょに安らかとも言えない眠りに就いた。
その後は日一日と寝たきり状態から起き上がるようにはなったが、ふらつきがひどい。歩こうとするが右に首が傾き、そちらへ倒れてしまう。でも懸命に歩き始めた。一方ではしだいに水も飲みごはんも食べるようになってきた。
「よかったよね。快方に向かったものね。」
「きっとひどいめまいでわけがわからないし、もともと気が弱い性格の犬だからパニックしていたんだろうね。」
ただし排尿、排便は飼い主2人がかりでお供をして、倒れないように保持してあげないとままならないのである。さいわい好天続きなのだが、いつもの散歩コースで"コロ大"がお気に入りの空き地に行くと、ふらつきながらも雄犬の特性の片足を上げてのおしっこをする。そこを腰や肩を脇で介助人であるわたしや家人が支えてあげるのだ。なんとかうんちも4日目で排泄できた。
世をあげて医療界は介護法がどうとか、新システムの中で騒いでいるが、さいわいわたしの父母も80代、70代の老人だが元気に自立して生活できている。今回はまるで老人介護の老犬によるわたしたち夫婦の予行演習のような状況となった。
「たいへんだけれど、"コロ大"くんのためだから、がんばろう。」
「そうよね。頭はぼけていないし、痛みもないし、それに寝たきり、垂れ流しにならなかっただけでもありがたいですものね。」
勤務先の病院でお昼休みに、神経内科と耳鼻科の医師とたまたま一緒になり、犬の病気の疑問点を人間の専門医の立場で訊ねてみた。
「こんな症状で快復してきてはいるんだけど脳卒中による小脳失調または前庭機能障害との鑑別はどうなんだろうか?解剖学的に考えると犬は起立しないから椎骨動脈の循環不全はヒトに比較して起きにくいだろうけれど。」
「四肢の運動麻痺がない、意識が正常で平衡障害のみというのは疫学・頻度の点からは獣医さんの診断どおり、主要病変は前庭の障害なんだと思います。もちろん頭部MRIまたはCTで確認しないと確定診断はできないですよ。」と神経内科のO医師。
「そうですね。メニエール病や突発性難聴に近い病態でしょうね。いずれも急激発症で、その点では脳血管障害と同じですよ。聴力障害が出ているんじゃないかな?」と耳鼻科のT医師。
「それがね、発病以前から老齢でほとんど耳は聞こえていなかったもんだから、わからないんですよ。ところでなおるものかな?」
「人間の場合でも完全に快復する場合もあればずっと症状が残る場合もあって、ステロイドが有効な治療だと思いますよ。」
「獣医学的な症候診断では特発性前庭機能障害で、老犬に好発、快復が期待できる、ステロイドとビタミン剤の投与で治療するという獣医のHさんの説明だったんだ。人間の専門医お二人の立場からも妥当な結論ということなんだねえ。たとえば抗凝固療法とか、なにか他にしてやれることはないのか、迷うものだから。いやベストを尽くしてやれていることさえ納得できればいいんだ。どうもありがとう。」
食後のコーヒーをあわただしく飲みながら、大学時代は同級生でもトップクラスの秀才であった神経内科医Oくんが、にっこりして言った。
「老犬の介護ですか、たいへんですね。いまはやりのロウケン(老健)施設にでも入所できるといいですねえ。」
勤務先病院で午後の外来診療を終えた。面会希望者があり、お待ちいただいていたと事務員が診療室に案内してきた。中年女性と若い女性、そして外国人の男女がいる。
「G先生、わたしOと言います。娘が十数年前に、脳炎で入院し、助けていただきました。患者さんが多勢なので、覚えておいでじゃないかもしれませんが--。」と中年女性。
脳炎の女の子、--ああ、瞬時に患者さんの名前が頭に浮かんだ。
「そうすると、こちらのお嬢さんがかおりさんですか。すつかりレディーになられて、お顔は記憶と結びつきませんが。」
「そう、そうです。お医者さまって、覚えていてくださるものなのですね。よかったです。」と安堵した口調の母親であった。
「かおりさんのように、脳炎で一週間も昏睡に陥り、生死や脳死まで心配した方は忘れませんよ。」
「やはり、ほんとうに重症だったんですよね。日々が経つに連れて、幻だった気がしてきていました。」
洒落た眼鏡の奥の瞳が利発そうな若い娘が頭を下げて挨拶をした。
「その節は命を助けていただいたらしく、有り難うございました。実は私、先月結婚して彼とフランスに住むんです。こちらは彼の両親なんです。フランスからわたしの実家の両親に会いに来たんです。」
日に焼けた実直そうな感じの南仏の小柄な夫婦が紹介された。
「ボンジュール、ムッシュー。」
「アンシャンテー、マダム。」と夫人にも声をかけ握手をした。
わたしの片一言の挨拶で--おっ、この日本人の医者はフランス語しゃべるのかあ、という明るい雰囲気が、急にその場にかもしだされた。
--まずい!なまじ会話の出だしはうまくいったが、この後の会話がうまく続きそうもないじゃん。
ふだん緊張せぬ性格だが、アドレナリンがどっと過剰分泌された。わたしのフランス語は所詮道楽。海外旅行中のみ即席の片言使いで買い物・観光は可能。ふだんはテレビでF2をつけても何のニュースか聞き取れない。サガンの本を開いても一頁目から意味不明の単語だらけで、とても読書にならない。たまたま今年は一念発起、実用仏語検定突破を目標に学習していた。ラジオやCD・本での独学のため、自己レベルは見当がつかないので、初歩レベルの5級と4級を先日受けてみたばかりである。幾つになっても学生時代のくせは抜けない。仏検試験の前夜は東京のホテルで、20年振りに詰め込み勉強。翌朝の試験はあまりに容易で、酒も飲まずに勉強せずともよかったなあと後悔しました。
…ってなわけで、突然訪れた実践仏会話の機会である。ようやく切れ切れに浮かぶのはフランス語の初歩の会話文例のみ。
「初めての日本訪問ですか?」「日本の印象はいかがですか?」
あまりに陳腐な会話だよな、やめとこう!表敬訪問された医師らしい昔の病状に関する解説的世間話なんかフランス語でできっこないよ。ちょっと愛想なしだが、日本語会話に戻ろうっと。(…と内心の葛藤…)
娘は大学を卒業し、仕事を始めたが、フランス人と結婚し永久にこの故郷には戻らぬかも知れない。向こうの両親を長岡で観光案内しながら、娘のこども時代を思い出していた。長岡駅で突然C病院のわたしのことを思い出し、嫁ぐ娘に一度挨拶させておこうと考えた。突然で迷惑だったかも知れないが、おかげで気持ちの整理がついた気がしますと訥々と母親が語った。