長岡市医師会たより No.235 99.10

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もくじ
 表紙絵 「信州 青木湖にて」     丸岡  稔(丸岡医院)
 「田中誠先生を偲ぶ」         板倉 亨通(北長岡診療所)
 「アイスランド紀行〜その3」     佐々木英夫(長岡赤十字病院)
 「癌術前二週間」           江部 達夫(江部医院)
 「トリアージ訓練と当院の対応」    上原  徹(立川綜合病院)
 「心に残るゴルフ〜其の二」      太田  裕(太田こどもクリニック)
 「煮菜ってたべません?」       郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

信州 青木湖にて  丸岡 稔(丸岡医院)
田中 誠先生を偲ぶ  板倉 亨通(北長岡診療所)

 田中先生が10月10日に亡くなられたとのお知らせを受け、感慨一汐の感に駆られました。先生は立川病院、御在籍中は華々しい業績と共に長岡市民に胸部外科の恩恵を満喫させて下さいました。更に将来を見据え、市民の熱い期待に応えて、今の立川病院循環器センターの基礎を築かれました。今や同センターは中越地区では右に出る施設が無い迄に発展されています。翻って先生の着任された昭和40年当時を想起しますと、大変な時代でした。或る意味では新しい医学の揺藍期と言うべき時代だったかもしれません。

 其の前の30年代は混沌模索の時代とも考えられ試行錯誤が盛んに行われ、其の後遺症の整理が山の様に残っていました。社会的には、労使間の紛争問題がありました。或る意味では社会体制に対する思想的実験では無かったかとも考えられますが、拠点闘争と言われたものがあり、病院や会社を特定して長期無期限のストライキを行う事が流行した事がありました。立川病院でも、其れが発生し病院は大打撃を受けました。其のほとぼりが漸く冷めつつある頃が先生のお仕事始めかと思われます。さぞ、ご苦労されたと思われます。亦、新しい知識や技術を職員に普及しながら、先進的なお仕事を成就された事は尊敬の念に耐えません。遡れば30年代の始めの冬眠麻酔の試みや、僧帽弁狭窄の手術のフィルムの物凄さ「ご存知、心尖に穴を開け、指先装着メスで狭窄部を、盲目的に切開する、約1メートル程、血飛沫が飛ぶ」を乗り越えて、瞬く間に、体外循環で、心停止させ、手術が終われば電気ショックで、楽々と心拍が始まるフィルムを見た時には、医学の進歩の早さに愕然とした記憶があります。此の頃は、同時進行で消化器の胃カメラの改造に次ぐ改造、放射線の二重造影の普及、脳外科の安全性の向上等、今、私達が享受している医学が、あの頃から一勢に花開いていた事を思う時、何故、殆ど、同時期の開花なのか、其の理由を考え度くなります。其の様な大切な時代に先生の様な人格識見に富まれた方を長岡に得たと言う事は市民にとり、幸せだったと思います。小、中学生の心臓検診も市民にとっては、今となっては、掛け替えの無い組織になり、生徒の健康診断で心臓の手術痕を見かけ、元気で成長している状態を拝見する度に、先生の事が思い出されます。先生は惜しまれ乍ら後進に道を譲られ、私達の北部班で開業され、地域医療に尽くされて居られました。

 先生は素朴で率直で、何のけれんみもない方でした。そして御家族を心から愛されて居られました。もっと長生きをされる事を皆、祈って居りましたのに誠に残念な事でした。御家族の御繁栄と、御冥福を祈りつつ擱筆させて頂きます。合掌

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アイスランド紀行〜その3  佐々木英夫(長岡赤十字病院)

6.アイスランド点描

(1)アイスランド人の名前

 アイスランド人には元々姓がない。誰々の息子、誰々の孫と言った呼び方をしている。世界でポピュラーなジョンソン、メンデルスゾーン、アンデルセン、クリチヤンセンなども同類の地方版である。子供の数は多いので名前はある。例えばコーン・ヨハンソンと言えば、ヨハン(johnと同じ)の息子コーンとなる。孫はヨハンソンソンとなり、曾孫はヨハンソンソンソンとなる。5代が同時には生きているのは稀だから、大体4代目迄で、次はまたヨハンソンから始まる。女性の場合はドッテル(daughterと同じ)がつく。ボリスドッテルはボリスの娘のことである。これらは全て初代の移民の名に由来するらしい。アンデルソンは初代アンドレの息子または子孫を意味する。日本の屋号のような感じである。最近は外交上の都合で姓が必要になり、貰った名刺には矢鱈と〜〜ソンや〜〜ドッテルが多かった。因みに首相はヘルマンソン、外務大臣はボチガードッテルであった。

(2)小さな政府

 総人口25万の国だから、全て小造りで、政府全体の規模は長岡市役所より小さい。政庁も小さく、大統領府と首相官邸、議会が日赤看護学校位の大きさの建物に同居していた。各省庁は分散しており、商店の2階のような所に間借りしており、訪れた外務省も厚生省も職員数はそれぞれ20〜30名程度であった。大臣はいずれも若く、30歳代、40歳代であり、首相も48歳であった。大統領府を訪れた際、通りかかった中老の紳士にトイレを尋ねた所、気楽にその場所まで案内してくれた。それが大統領の首席秘書官であり、後ほど庁内を案内された時は気恥ずかしくて困った。全て小じんまりしており、国会議員も市会議員のような感じで、市民も気楽に話しかけていた。国是として福祉に力を入れており、福祉厚生予算が全体の30%近いと聞いて驚いた。また。地理上、ソ連と米国のほぼ中間に位置し、冷戦時代でありどちらにも基地を提供する両面外交を余儀なくされていた。偶々、ソ連の軍艦とイギリスの軍艦が入港していた。ゴルバチョフとレーガン両大統領の会談がレイキャビックで行われたのも頷ける位置と状況である。

(3)街の風景

 レイキャビックの街の三方は丘に囲まれ、北の海に向かって開けた平地に街並みがある。2階以上の家は少なく、道路に沿ってカラフルな家が並んでいる。家は原則として国から供給され、家族数により大きさが加減されているが、十分な広さと設備がある。家の壁や屋根の配色は家毎に決められている。暗い天候から少しでも明るい雰囲気を作るための工夫である。配色にも芸術家のアイデアが加えられており、都市全体が大きなキャンバスとなっている。南の丘には大きな教会が建築中であり白い塔が目立つ。しカし、内装は手がつけられておらず、建物の一部も未完である。寄付金の集まり具合によって、毎年規模を加減しながら少しづつ建てられている。未完で有名なガウディ作のバルセロナの聖家族教会のミニ版である。その反対側のかなり高い丘に街の給水塔と給湯塔がある。市街に向かって2本の大きな土管が走っており、市街地では道路の地下を枝分かれしながら各戸に配管されている。給水は氷河からの水を濾過したものであり、ミネラルが多く、誠に美味しい。給湯はその水を温泉の熱湯で暖めたものである。熱湯そのものを流すと、ミネラル成分が多いせいか、直ぐにパイプが詰まると言う。街の盛り場は小じんまりとしており、スーパーもコンビニエンス・ストア位の規模である。商店のウインドーの照明は明かる過ぎる程だが品物は至って少ない。豊富にあるのは毛織物であり、非常に安く品質もよいが、脱脂されておらず、重いのが欠点である。溶岩を材料にした焼き物も多いが、余り上質とは思えず、形も今一である。酒屋では焼酎の様なものが多く、ウイスキーやブランディーもあったが、ビールは全くない。ビールは国内では禁止で、売っているのは空港の売店(国外板い)のみである。強い酒があって、弱い酒がないのは不思議である。北欧人の常でアルコールに滅法強く、寒いから余計飲むし、飲みだしたら底無しである。ビールは子供には格好の飲み物であり、アルコールに馴染むきっかけになる、というのが禁止の理由であった。

7.老後の生き方に対する思い

 さて、何故アイスランド人の寿命がこれまで世界一だったのか、考えてみた。アイスランドは日本と較べれば、自然条件は遥かに悪い。寒冷で緑もない。食物も殆ど採れず、材木もない。日本は多湿、地震、台風など挙げればきりがないが、大きな欠点ではない。水に恵まれ、緑豊かな点では世界でも稀な国である。経済条件も日本の方が遥かによい。生活条件は住居の狭さや設備についてはやや劣るが、絶対のものではない。大きな違いは伝統を含めた精神力の強さである。アイスランドでは個人個人の独立心の強さと思いやりが目立つ。これこそ諸々の悪条件にも拘わらず長寿を保っている秘訣と思われた。自然の厳しさに生命を常に脅かされてきた故か老人や病人を大切にする気風がある。殊に絶海の孤島であり、火山の爆発や飢饉で一村全滅の悲劇を繰り返してきた。冬の荒海では救援も期待できない状況で飢餓にも耐えて生き抜いてきた。その生き残りの民である。一人でも死ねば国民滅亡の危機感を持ち、一人一人の命を大切にする心が染み着いている。また、一方では西洋社会の常で、週末を楽しみ、若い時から余暇の使い方に慣れ親しんでいる。退職後は十分な年金で生活が保証されており、老後を楽しみに働いている。税金は高いが老後のための貯金であると割り切っている人も多かった。福祉政策の構成は日本と大差はないが、アイスランドではその内容の質、量とも充実しており、きめ細かさでも数段優れたものがある。殊に在宅介護に対する人員は日本の数倍もあり、身体障害者の生活も不自由ないものになっている。日本の様に、退職、即ち、生き甲斐消失…ボケの図式は考えられない。退職後は「生活を楽しむ」考え方が徹底している。日本では精神面の強さ(心の張り)が退職後に急落するのに対し、アイスランドでは老後まで心の強さが持続している。伝統と言うべきか、一種の哲学めいたものを感じる。日本の課題としては老人の心の強化が第一であろう。老人クラブやデイケアによる趣味の生かし方やボランティア的奉仕活動も大事だろうが、もっと協同で行う機会を作り、お互いの交流の中で心の張りを持たせる工夫があるように思われる。家族の協力や若者の息吹きも必要であろう。生理的な老化を防ぐには適度の運動やバランスよい食事、リズムのある生活も大切であろう。これらも仲間があって初めて効率よく進む。

 この旅行を想い出す毎に我が年を顧み、老後の生き方をしみじみ考えさせられている。(おわり)

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癌術前二週間  江部 達夫(江部医院)

 癌を宣告されたら、今生の別れの準備を淡々とし始めることが出来るだろうと、私は60歳になった時にある同人誌に書いている。一年後に早速その立場に立たされてしまった。

 平成10年秋、私の体は癌に侵されていることが分かった。胃癌である。医者はストレスの多い職業、ストレス胃炎や胃潰瘍は持病のようなもの。仕事が忙しかったり、学会が近づき準備に追われていると胃がジリジリしてくる。

 平成10年の夏は過労ぎみで日常の診療の他に、住民検診の胸部X線フィルムの読影があり、また学会誌の査読が廻って来たりして、夜遅くまで忙しい日が続いた。ストレス胃炎が始まり、胃がジリジリする。一日の仕事が終るとビールが始まる。結構な量のアルコールが胃に入り、アルコール性胃炎も加わった。10月は誕生月。胃カメラは好きではないので、この4、5年は受けていなかった。女房に度々勧められてはいたが、忙しいという理由にはならない理由で受けていなかった。60歳も過ぎている。そろそろこの辺で胃の精査をと、胃カメラでの検査を受けた。癌が出来ていた。それも人間欲が深いと癌にまで影響するらしい。胃の2か所に癌が出来ていた。噴門直下と胃角部に。手術になるなら胃全摘術である。

 カメラを行ってくれた石川忍先生が長岡赤十字病院外科部長の田島健三先生に連絡、直に手術の日程が決められた。ニュージーランドで開かれた国際肝類洞研究会に出席していた息子の帰国を待って、10月7日に入院した。私の誕生日であった。新病院に2つしかない特別室が用意されていた。

 エコー、CT、シンチスキャンなどいくつかの術前検査が組まれていたが、3日間で終り、10日、11日の休日は胃袋がある最後の自由の身となった。

 さて、胃癌が疑われ、手術になるまでの二週間の心境である。

 胃に同時に2か所に癌が出来ることは珍しい。胃粘膜の2か所で見られた癌が同じ性質の癌であれば、2つのものが粘膜下を這って繋っていると考えた方が理解し易い。胃カメラで見られた所見はIIC型の早期癌ではあるが潰瘍形成も見られた。2つの癌が粘膜下で通じている1つのものであれば、もはや早期癌ではなく進行癌だ。

 しかし、内視鏡的に癌を疑っても組織学的に調べない限り癌と断定できない。カメラ施行3日後に出来上った病理標本で、2か所共に印環細胞癌の診断がついた。女房は石川先生から、進行癌の可能性もあり、予後は良くないかもしれないとの説明を受けていた。考えることは同じである。私も粘膜下に広範囲に広がった癌細胞が胃の2か所で顔を出していると考え、予後不良で手術をしても1年ももたないかもしれないと考えた。

 胃癌の確定診断がついた日は、さすがに一睡もせず考え込んでしまった。女房や子供達のこれからのこと、開業して1年の医院の始末、アウトドアの生活はもう楽しめない、かわいい孫達ともう遊べない、果ては生命保険が少な過ぎたかなどなど、次から次へと生への執着心が沸き上がって来た。

 夜が白む頃になり、60年の人生であったが、十分にその人生を楽しんだじゃないかと思えて来た。柔道、登山、野球、スキー、ゴルフなど色々なスポーツに熱中し、野山に山菜や茸を求めて歩き、渓流にイワナやヤマメを追いかけ、自然を大いに楽しんだ。診療や研究の面ではいくつかの賞を戴くなど活躍も出来た。家庭生活でも満足できた。欲を言えば切りがないが、良い人生であったと思えた。いや思い込ませた。

 朝起きた時、一睡もしていないにもかかわらず、やけに頭がすっきりした感になっていた。その爽やかな気分は、夜明けの山で眼前の霧が晴れて行く感であった。迷いが無くなり、悟りが開けた僧のようなものか。要は頭の中は白紙の状態、からっぽになってしまったのだ。

 切り替えは早かった。術中死は無いと思うが、脂肪が付き過きたのが心配。横綱玉の島は虫垂炎の手術で、肺の脂肪塞栓症のため亡くなっている。開腹したら転移巣が見つかるかもしれない。悪いことを考えれば切りがないので、術後のことはその時になったら考えることにして、手術までの間をどのように過すか。とにかく胃袋があって元気で過せるのはこの2週間しかないのだ。

 胃を全摘すると1年間は無理は出来ないという。食生活は生涯厳しいものになる。胃からペプシンや塩酸など、蛋白質の消化吸収に大切な酵素類が分泌されている。胃切除後の1年は蛋白質の吸収が悪いため、筋肉がどんどん痩せ細ってくる。胃は味覚、嗅覚に次ぐ第三の食覚である満腹感という満足さをもたらしてくれる。胃を失って初めて胃袋の大切さが分るという。

 胃癌の宣告を受ければ、並の人ならとたんに食欲も無くなるだろうが、私は全く無くならなかった。よほどの食いしん坊に生まれついたようだ。この2週間は悔いの残らないように過そうと決めた。やっておきたいことはたくさんあったが、術後に備えての体力づくりが大切。ゴルフ場でよく歩き、蛋白質を十分に摂り、悔いを残さずビールとお別れをすることを目標とした。

 もともと胃の調子は悪くない。食欲はあり過ぎて困るくらい。開業医になっての一年間で、運動不足も手伝って5キロも太ってしまった。術後の運動不足の貯金にと、長岡カントリーに3回足を運んだ。もちろん女房同伴で。その夜は行きつけの寿司屋か小料理屋に行き、魚料理を存分に食べ、ビールを鯨飲した。胃袋をこれ以上痛め付けても、癌よりもひどい仕返しはないのだから。家では女房は胃にさわるからと、軟らかい食べ物を作ってくれるが、もう直におさらばする胃袋、どんなに傷んでもかまわないのに。

 手術前日の朝からは絶食になる。2日前の昼食は見舞に来てくれた子供や孫達を連れ、小千谷まで好物のソバを食べに行き、夕食はぶ厚いトンカツで食い納め。私の年代は血の滴るビフテキではなく、子供の頃のご馳走といえばトンカツであったためだろうか。

 最近の私の存在は、外にあっては馬車馬であり、内にあっては粗大ごみ。女房の通路の邪魔になると、馬より荒い鼻息で追い払われていた。しかし癌の宣告があってからは別人に。夜遅くまで書き物をしている私の後に立ち、「このままずっと一緒に暮したかった」と、私が死ぬものと決めつけて泣いていた。本音だろうと私も泣いたが一時的。翌朝はにこやかな顔をして2人でゴルフ場へ。

 さてその粗大ごみ、10月13日の朝9時30分、術前の処置も終了し、ストレッチャーに乗せられ手術室に向った。頭の中はもう何も考えるものは無かった。俎の鯉の心境とはこんなものかと。

 

 さて術後である。2か所に出来ていた私の胃癌は、肉眼的には粘膜下での繋りはなく、同時発生の多発癌。共に早期癌で、転移はなし。顕微鏡的観察の結果でも、一部粘膜下層への浸潤はあるが、血管やリンパ管への浸潤はなく、2つの癌は全く独立したものと。付属リンパ節への転移もなし。新大病理の大学院にいる息子が胃をすだれ切りにし、100枚以上の標本を作り、病理の金子博先生と夜遅くまでかかり、調べてくれた。

 手術後4日目の朝、主治医田島先生から「化学療法は必要なし」との太鼓判を頂き、またまた生きられると感激。今生の別れの準備は不要となったが、準備は淡々と出来ると確信し得た2週間であった。しかし、3か月後には粗大ごみに。

 

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トリアージ訓練と当院の対応 上原 徹(立川綜合病院)

 昨今のトルコ大地震、台湾大地震でも多くの犠牲者が出た。このような大災害、あるいは大事故において、いかに限られた人的・物的状況で最大限の効果ある医療行為が行われ、一人でも多くの人命を救うことができるがが、われわれ医療人に課せられた責務であることは言うまでもない。その際、治療を行う前提としての優先順位を設定するトリアージが非常に重要な意味を持つ。今回長岡市防災訓練の一環として、当院でトリアージ訓練を経験したので、その状況、そこで得た反省点を述べ参考に供したいと思う。

今回のトリアージ訓練

 9月5日午前8時、長岡市に震度6弱の直下型地震が発生したという想定で訓練が行われた。すでに第1次トリアージが現場(中央図書館)で行われ、医療機関への搬送が必要な10名が当院に運ばれた。非常召集された医師6名、看護婦6名、検査技師、放射線技師、薬剤師、事務、警備など合計30名のスタッフが参加した。医師はそれぞれ看護婦、事務名1名とチームを作り、トリアージには3名の医師があたった。

 搬送された模擬患者は、いずれもボランティアの方々で、胸に症状の書かれたゼッケンをつけており、トリアージタックが右手につけられていた。四肢麻疹とゼッケンに書かれた患者をはじめとして、全員元気よく搬送用マイクロバスから降りてきた。「四肢麻痺の人は歩いてはいけない」、と叫びながら全員をストレッチャーに乗せ、1階ロビーに運び入れた。そこで、トリアージチームが第2次トリアージを行った。第1次トリアージでは、搬送されたすべての患者が赤ラベル(すなわち緊急治療群)であったが、再トリアージで2名が黄ラベル(非緊急治療群)、2名が緑ラベル(搬送不要群)となった。幸いなことに、黒ラベル(死亡、絶望群)はいなかった。トリアージ後、担当医師が決められ、その医師の指示により検査室、処置室あるいは手術室へ運ばれ、そこで今回の訓練は終了した。

 なお、震度6弱では病院施設の損壊はないが、エレベーターが使用不能と考えられたので、異なる階への患者の移送には担架が用いられた。

訓練上での問題点および対策

 訓練終了後、参加者全員にアンケートを行い、問題点および考えられる対策法を挙げてもらった。その内容のいくつかを記す。

 まず、患者の流れがスムースでなく、トリアージ中の患者と、検査、治療のために移動中の患者がごちゃごちゃになった。また、編成した医師、看護婦、事務のチームどおり動けずチームからはぐれるスタッフがいた。これは今回のようなわずか10名の、しかも訓練患者の搬送においても発生したことであり、実際の緊急事態においての患者受け入れでどのような患者が何名いるのかわからない場合、われわれの心理状態もパニック状態に近くなり、さらに大混乱が起こることが懸念される。これについての対応策としては、トリアージチームと治療チーム、搬送チームを明確に分け、その全体を把握し流れをスムースにする強力なリーダーを明らかにする必要がある。しかしながらこれは、一回の訓練で万全にできることではなく、定期的な訓練を繰り返すことが最も必要とされる。

 また、トリアージタッグヘの記入、カルテ、検査伝票への記入の時間的余裕がないことが指摘された。これに対しては、従来当院で用意している緊急事態用のカルテに、今後最低必要な検査伝票を組み込んで用意することにした。さらに実際の場面でのトリアージは、患者一人に対して数十秒から長くとも数分で行う必要があり、トリアージタックの記載は、チーム内の事務員が医師の口述を筆記することも必要と思われる。

 今回の訓練患者受け入れについて、災害現場と当院との問は無線連絡を行ったが、その連絡が一部スムースでなかった。病院職員がその使用方法について市との連携を常に図る必要性が指摘された。

 また、CT、レントゲンなど検査に患者が集中し、待ち時間が長くなる可能性があり、流れのコントロールが必要とされた。これについては院内での情報網の確保が重要であり、全体を把握する指揮官が重要な意味を持つ。

 黄ラベル以下の待機患者群についても、一定時間ごとの見直し、バイタルサインのチェックなどをする必要がある。また駆けつけた患者家族、報道陣に対する対応なども考えておく必要がある。そしてそれらの対応を行うフロア・マネージャーが必要である。

今後の対応

 従来当院では、医療事故対策を中心とするリスクマネージメント委員会を設け事故防止対策を行ってきたが、今回始めて大災害時の患者搬送・トリアージ訓練を経験して得た問題点を同委員会で検討し、このような緊急事態の対応も所轄業務とした。その中でこのような訓練の重要性があらためて認識され、最低年に1回定期的に訓練が行われる必要があるとされた。その訓練においては、大災害時にライフラインが破壊された想定で、電気、水の確保、使用優先順位をどのようにするか、あるいは院内のみならず市、県など関係機関との連携をも考慮する必要がある。またトリアージ訓練にしても、模擬患者はある程度医学知識のある者がその傷害の状況に応じて演技するなど、もっと緊迫した状況設定をする必要がある。さらに緊急事態に備えた院内での薬剤、治療機器の確保を行い、その充足度を常にチェックしなければならない。このような事から当院の緊急事態時のマニュアルに対し、今回の問題点を盛り込み、その改定をして行く予定である。

 患者が病院に集中する場合、なによりもマンパワーが重要になるが、大災害時には職員が病院まで駆けつけられるかどうかも問題になる。その場合限られた職員で、限られた環境で治療にあたらなければならない。当然病棟勤務中の看護婦なども外来患者の対応にあたらなければならない。また病院自体の損壊などから、受け入れ状況を超えた重症患者が搬送された場合、もっと安全な近隣の地域(例えば、新潟市、上越市など)へのヘリコプター搬送なども考慮する必要がある。これは単一病院では対応できない問題であり、医師会、市、県を含めた体制作りを進めてゆかねばならないと考える。

 この拙文を書いているとき、東海村での臨界事故の報道がされた。原子力発電所を抱えている本県としても、従来型の災害・事故のみならず、放射線被爆に対する医療体制を考慮しておく必要がある。対策の必要な事柄は山積し、急を要する。最近は、「災害は忘れた頃にやって来る」ではなく、「災害は忘れない内にやって来る」状況であるからである。

 

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心に残るゴルフ(其の二) 太田 裕(太田こどもクリニック)

 秋晴れの中、すばらしいパートナーと3発のOB全てが隠しホールという幸運に恵まれ、医師会のゴルフコンペで優勝することができました。パートナーの皆さん、色々お騒がせいたしましたが全て皆様のお陰です。本来は優勝の弁について触れなければならないのですが、ゴルフをやっていない、これからやってみたいという人々のためにゴルフの楽しさを述べてみたいと思います。

「神々の洗礼」 ゴルフにはさまざまな神が登場してきます。初心者がまず出会うのは、水神様です。ティーショットで目の前に池があると必ずと云っていいほど、どなたかが池に捧げ物をします。ルールでは池の後ろにドロップして打ちなおすのですが、繰り返し貢物をする人が多いためローカルルールで池を越えた向こうから打たせるところが多いようです。これは本人の技術向上を妨げるものですが、ある面ではそのルールを歓迎してもいます。その他には、森の神、魔女のすむ森など、大叩きの原因を作ります。信仰心が足りないためか、神々との対話を大切にするためか定かではありませんが、いずれにしてもリピーターが多いようです。かく云う私もいまだに人には知られたくない神々を信仰しています。最後に忘れてはならない神に、山の神がいます。帰宅の際には十分な配慮が必要です。

「結果オーライ」 ゴルフで不思議なことは、ショットを失敗して、OBを打ったり、池に入れた時は自分のミスを大いに悔しがりますが、ミスショットが木にあたったり、土手にぶつかったりしてボールがフェアウエーに出てきたり、カップの近くに寄ったりするとミスショットが急に"ナイスショット"に変わります。ミスシヨットを打った本人もスーパーショットを放った時の顔になってしまいます。

 "上がってなんぼ"、"結果オーライ"がゴルフの面白さであり、真髄なのでしょうか。

「ホールインワン」 ゴルフをやる人なら一度はやってみたいのが、ホールインワン。だいぶ前、世界マッチプレー選手権で青木切がホールインワンを達成し、大きな別荘を贈られたことが印象に残っています。しかし青木のように絵に書いたようなホールインワンだけではないのです。小児科の医局で初めてホールインワンが出た時の話です。フォレストカントリー西の打ち下ろしのショートボール。H氏のショット。トップ気味のチョロ。打球は坂を転げてガードバンカーへ、バンカーへ入ると思いきや、縁をぐるーと回って、グリーンヘ。みんな妙な期待を持って玉の行方にくぎづけとなる。ボールがカップに吸い込まれる。しばらく誰も声が出ない。しばらくして事の重大さに気付きみんな「おめでとう。おめでとう」。どういうわけかみんな調子はずれ。このエピソードは"結果オーライ"の究極の姿ですが、神様のおふざけとも映ります。

「英国流のユーモア」 パーより少ないスコアをバーディ、イーグル、アルバトロスと鳥の名前に因んで付けたことは皆さんご存知のことと思います。ではボギー、ダブルボギー、トリプルボギーとは、この答えを知ったときは思わず笑ってしまいました。ボギーとは泥の中に脚が1本嵌まった状態、ダブルボギーは2本の脚が、トリプルとは、3本とも泥の中へ、そしてそれ以上は数える脚がないのでアザーズとなる。やはりゴルフは紳士のスポーツなのでしょうか。

「自然破壊」 ゴルフ場は自然破壊の代名詞のように云われます。この事に反論すると物が飛んできそうなので止めておきます。長岡カントリー東6番のティーグランドの傍にちょとしたくぼ地があり、そこに小さな桜の木が植わっています。春になると桜の花の周りをギフチョウがつがいで舞っています。ギフチョウは年1回桜の開花に合わせて姿を見せます。その美しく華麗ないでたちから"春の女神"と呼ばれています。来春、ギフチョウに会えるといいですね。

 

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煮菜って食べません?  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 セイタカアワダチソウの黄色の花、白に紅色のさした可憐な花のミゾソバの群生のきれいな秋の小道を散歩していた。今朝もS家のおばあちゃんが向こうの方から、小箱を積んだ台車をゆっくり押しながら来るのに出くわした。「年取って荷物持って歩くのは辛くなり、車を押す方が楽なんだいの。」と先日間いたばかりである。

「あっ、いつも可愛がってくれるSさんだ(−散歩でつれている我が家の犬たちに言っている)。おはようございます。畑の帰りですか。」

「おはようさん。おめえさんたちも早起きだのう。地這いの秋キュウリがとれ始めた。食べるかね?」

「いいんですか。いただきます。」

 おばあちゃんは数本のキュウリを箱からビニール袋に入れ、青菜をつまんでみせながら訊ねた。

「葉っぱなんか食べないろうの?」「

ああ大根の摘み菜ですかね。煮莱にして食べるのは好物ですよ。」

「あやー、若いのにおらたちみたいなもの食いなっさるだね。そうかね、そうかね。」

 おばあちゃんはうれしそうにうなずきながら、青菜を二掴みほど袋に入れてくれた。

「うれしいなあ。取れたての野菜はなによりの御馳走ですよ。」

 いただきものの入ったスーパーの袋をぶら下げての帰り道。我が家に近づくと庭のキンモクセイの香りが離れたところからも漂ってくる。家人が落ち葉を掃いていた。

「おかえんなさい。あら、その荷物はどうしたの?」

「Sさんのおばあちゃんがキュウリと摘み菜をくださったんだよ。夕食はこれを酢の物と煮菜にして、あとはサンマかアジの焼き魚くらいで渋い『粗食のすすめ』ふうの献立でいかがでしょうか、シェフ?」

「ウイ、ムッシュウ。」

 もともとわたしは田舎音ちだから野菜も果物も好きだし、煮物なども大好きだ。一緒に暮らし始めた家人がおかずとしての煮莱を知らなかったのには少し驚いた。「ニナー? なんで青菜をわざわざ煮るわけ? そんなもの生まれてから一度も食べたことないわ。」

 煮菜ってこの地方のローカル食なんでしょうか?

 そんな彼女も、さすがに冬の保存食的漬け菜の酒粕タイプは作れないが、新鮮な大根菜や白菜菜を油揚げとさっと味噌味で煮込むのはすっかり上手になった。

 ここ数年、若者の間ではワインがブームであり、ハーブやオリーブ油を使用したイタリアン料理が食されている。わたしも凝った時期もあるし、いまもよく口にする。でもやっぱり中年になると飽きるのである。ところで最近買った料理本が2冊ある。「百六歳のでやあこうぶつ」鈴木朝子著(毎日新聞社)。−これは例の名古屋の長寿の双子おばあさんのきんさんの日常の献立を食事のほのぼのとした表情の写真で紹介したもの。「粗食のすすめ」幕内秀夫著(東洋経済新報社)。−こちらは伝統的な家庭の和食をレシピとして写真で紹介している。いずれも長寿あるいは健康維持に役立つかもしれない日本の伝統食のよさをアピールしていて、おもしろく読めた。一読むというより「眺める」程度かしらん。)

 インスタント食品やファースト・フードがひたすら食文化・広告面で強調されるなか、反省期になったなら好ましい。でもこういう本など買うのはおふくろの味を懐かしむ中高年だけなんでしょうね。

 

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