長岡市医師会たより No.238 2000.1
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表紙絵 「新春に」 丸岡 稔(丸岡医院) 「新年のご挨拶」 会長 高橋剛一(高橋内科医院) 「新春を詠む」 「友人 鷲尾正彦君を偲んで」 武藤 輝一(長岡赤十字病院) 「故鷲尾正彦先生の闘病記録」 上原 徹(立川綜合病院) 「いよいよ西暦2000年」 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)
新春に 丸岡 稔(丸岡医院)
新年のご挨拶 高橋 剛一(高橋内科医院)
明けましておめでとうございます。会員の皆様にはお元気で新春を迎えられたことと思います。昨年大きな社会問題になっていたY2Kも重大なトラブルがなく新年を迎え、ほっとしております。しかしまだ何日か特異日が残っているそうですが、無事に過ぎて欲しいと願っています。
昨年の医療界もまた厳しい1年でしたが、日医の政治折衝により、日本型参照薬価制度は白紙撤回され、7月から老人の薬剤費一部負担も廃止されたのはかなり評価されます。そして厚生省が目指した平成12年4月の抜本的な医療保険制度改革は先送りになりました。これに対して一部のマスコミは、政府、自民党、日医を強く非難しています。また厚生省のまとめた医療経済実態調査結果から開業医の平均月収が2年前に比べ18%増加しているので、医療費の大幅アップはとんでもないといっており、日医は調査比較月(平成9年9月と平成11年6月)の診療実日数に2日の差があるため、補正すればマイナスになると指摘していますが、マスコミは聞く耳をもたないようです。
結局本年4月からの診療報酬改定の実質引上げは、0.2%と日医要求を大幅に下まわっております。また7月から老人保健制度が改革され、老人医療費が1割の定率負担になることが決りました。しかし外来に関しては診療所に限り、1回800円の定額制と1割定率負担のいずれかを選択するという奇妙な制度となります。いずれにしても患者の負担増は間違いなく、受診抑制につながるものと思います。この改定を糸氏日医副会長は「惨敗」と総括しています。
昨年の主な医師会活動をふり返ってみます。
4月に准看護学校検討委員会が発足、十分の討議の結果、廃止やむなしとの答申がなされ、7月の臨時総会で廃止が承認されました。これにより、現在の1年生が卒業する平成13年3月末日をもって、前身の補助看養成所から数えて約半世紀に亘る歴史の幕を閉じることになります。残された1年、生徒の教育及び職員の去就には十分に配慮しなければならないと考えております。また覚悟はしておりますが、廃止までの生徒減少による経済的な負担は大変重いものになります。もちろん行政にも補助金継続、増額をお願いしてありますが、会員のご協力もぜひお願いいたします。
准看護学校廃止に伴い、早速懸案の会館建設について準備が始まりました。10月に会館建設準備委員会が開かれ、医師会館の将来像について、保健衛生センターの見直し、医療情報センター構想、防災関係、大ホール併設、そして南操車場跡地への移転建設など多くの意見が出されましたが、いよいよ今年中には具体的な計画を進める建設委員会が発足するものと思われます。
10月から介護認定審査会が始まりました。長岡市の審査会は20の合議体から成り、1合議体に医師2名ずつ委員として所属するので、40名の医師が必要となります、当医師会では診療科を考慮せず、70才未満の全員に参加して貰い、診療所は年齢の高い方から28名、そのほか病院からの推薦12名に委員をお願いしました、任期は2年(初回のみ1年半)です、審査会には交互に出務するので月1回の出席でよく、当初考えられたほど委員の負担はなかったようです。むしろコンピューターによる1次判定と主治医意見書とのずれや矛盾点などが目立ち、その不満が結構あります。まだ1回の処理件数が少ないので、今の所まずまずといった運営状況です。また介護認定において主治医意見害が大変重要であるということが分りました。恐らく頭を悩まされている会員も多いと思います。
いよいよ本年4月から介護保険制度が実施されますが、保険料徴収の延期、減額、慰労金の支給などいろいろ修正があり、一部の政治家は制度そのものの見直しもいっており、まだ先行き不透明な部分も多いようです。
昨年4月の日医代議員会で決議されたことですが、「診療情報の提供に関する指針」が1月1日から実施されました。すでに昨年暮に会員宛に資料が送られており、突然のことでびっくりされている人も多いと思いますが、この指針の実施には、あわただしさと、とまどいを感じております。当医師会では「診療に閑する相談窓口」を医師会事務局に設置、担当は岡吉郎理事となっています。
またなるべく早い時期に研修会(講師は県医師会担当役員)を開いて会員の周知をはかる積もりです。(※事務局注:2月1日に開催)
そのほかの医師会活動として、医療情報システムの充実、地域産業保健センターの活動、病診委員会による在宅医療に関する「医療機関機能マップ」の完成などが挙げられ、本年も継続してその活動が期待されます。今年は役員の改選期にあたっており、1月下句の臨時総会で新役員が選出されます。今回から新しい選挙規定により、不在者投票が認められますが、厳正な選挙により選出される新執行部に大いに期待していただきたいと思います。医師会の業務は年々増加する一方ですし、問題も山積しております。どうぞ会員のご協力、ご助言をお願いいたします。それでは今年こそ良い年でありますようお祈りして新年の挨拶といたします。
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新春を詠む 白塗りの仁左衛門佳し初芝居 渡辺修作
蜜柑乗せコンピューターの事初 荒井紫江
千年(ちとせ)一度の代替わりにて去年今年 十見定雄
逢えなくてメールを開く新ミレニアム 郡司蒼穹
2000年の朝のしじまや冬木立 丸岡 稔
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平成7年3月をもって山形大学医学部外科学第二講座教授の責務を完了し、鷲尾正彦学兄夫妻は故郷の長岡に戻りました。私達新潟の者に初代教授の苦労をくどくことはありませんでした。立派な教室を作り、山形大学医学部附属病院長も務めましたが、当時、病院長としての手腕を高く評価された坪井山形大学長のお話をお聞きし、大変嬉しく思いました。
間もなく広い敷地のある長岡市の実家を新築され、石崎昭一君夫妻(白根市で開業)と私共夫婦を招待して頂き、鷲尾君夫妻を主人公に昔話に花が咲き、また新居の特徴を得意な顔で説明してくれました。
ところで旧制新潟医科大学の時は同級でもポリクリグルッペが異なるため、鷲尾君とじっくり話することはありませんでしたが、外科教室入局後は行動を共にすることが多く、二人は串団子の団子と串といわれました。鷲尾君は体形が丸く、私はヒョロリと背が高かったせいであります。二人が講師の頃、当時、外科学第一講座と第二講座が一つの外科学教室を作っていました。(現在は小児外科学講座も加わっています。)鷲尾君が第二講座の講師、私が第一講座の講師で一つの講師室に二人で仲良く住んでいました。夜、研究室で仕事をしていて一人が眠くなったとき、ほかの一人がシャンとして机に向っているのを見て、慌てて目がバッチリ開いたりて、お互いに良きライバルでもありました。夏は暑く、冷房もない頃で、二人は上半身は裸、下はステテコ姿で机に向うのが常で、鷲尾君はいつも椅子の上であぐらをかいているのが癖でした。今でも様子が目に浮かんできます。
お互いに満三十歳を越え、それぞれに親から催促があり、「そろそろ身を固めよう」と意見が一致したところ、二人の結婚予定日が同じ日になってしまいました。その時「僕が二週間おくらせるよ」と譲ってくれた次第です。お陰で私共夫婦は先に結婚式を終え、私は二週間後、鷲尾君夫婦の結婚式に出席させて頂きました。そして同じ年に長女が生れ、同じ年に長男が生れ、同じく次男が医師になりました。鷲尾君は若い頃から症例報告や研究成績を素早く論文にまとめ、紙上発表する能力に優れ、外科手術や動物実験に対するファイトは強烈で感服させられたことが少なくありません。それだけ手術がうまく、手術成績も優れていました。この努力が基で、山形大学に新設された医学部の外科学第二講座(心・血管・呼吸器外科、小児外科担当)の初代教授に就任され、大学での教育・研究・臨床に専念することになったのは当然の事といえましょう。鷲尾君が長岡に帰り、立川晴一先生のご高配により立川メディカルセンターに勤めさせて頂いて暫くして、前立腺癌とその骨転移がみつかりました。血液生化学検査の際のアルカリフォスファターゼの異常高値から判明したそうで、専門家の方々のご意見に従い、ホルモン療法を中心に治療を行うことになりました。(私も相談した専門家の意見を伝えました。)私が長岡赤十字病院赴任後、講演会で食事を一緒にしたり、時々悠遊苑の施設長室に訪ね、病状のこと、家族のこと、大学時代の同級生のこと、外科医局時代のことなどを話合っていましたが、いつも立川先生への感謝の念を忘れていませんでした。悠遊苑に入っている角原昭文先生(外科学教室の二年先輩)を交えて話合ったこともあります。話の中で自分の前立腺癌の骨転移の経過について話してくれることもありましたが、淡々と何れ死に直面することを覚悟していながらの笑顔の中に、一抹の淋しさが感ぜられました。それにしてもご次男が日本大学医学部を卒業され、医師国家試験に合格され、医師として活躍され始めたことの喜びと話しぶりには癌再発の悩みもないかのようにさえ思われました。
鷲尾君の思い出は尽きることがありません。そろそろ終りとしましょう。鷲尾君はもう浄土への旅を始めている頃でしょう。お子様方も立派に成長され、昔に戻り新婚時代と同じ奥様と二人の生活が始まっていましたのに残念です。鷲尾君のいたずらっぽい笑顔が浮かんで来ます。鷲尾正彦君を偲んで念仏しつつお別れの言葉と致します。
山形大学名誉教授、老人保健施設悠遊苑施設長 鷲尾正彦先生は、平成11年12月19日午前6時39分に、ご逝去されました。先生の治療を担当させていただいた者として、病状記録をご霊前にささげ、謹んでご冥福をお祈りしたいと思います。
事の始めは、平成7年10月に当院循環器内科医長 岡部正明先生から、「60歳代後半で、アルカリフォスファターゼが急上昇した方がいる。骨シンチで多発性の集積がある。」と相談を受けたことによります。泌尿器科医である私は、「前立腺癌の骨転移ではないの?」と気楽に答えたのでした。その方が鷲尾先生と知り、慌てました。早速診察させていただいたところ、前立腺右葉に典型的な石様硬の硬結を触れました。先生に、前立腺癌の多発性骨移転である可能性が強いことを申し上げ、経直腸的な前立腺生検を行いました。その結果は、低分化腺癌の状態でした。なお、先生の自覚症状はほとんどなく、時に腰部に張る感じが少しある程度で、排尿障害などもないとの事でした。また先生には、高血圧、糖尿病、糖尿病性網膜症、高脂血症、脳梗塞後遺症による右片麻痺、血小板減少症などの持病をすでにお持ちでした。初診時の検査所見では、アルカリフォスファターゼが638U/L、前立腺腫瘍マー力ーである前立腺特異抗原(PSA)が250ng/ml(正常値4ng/ml以下)と、非常に高値を示しておりました。また骨シンチでは、頸椎、胸椎、腰椎、両側肩甲骨、肋骨、両側腸骨、右坐骨に多発性の集積を認めました。先生に、ステージD2の進行前立腺癌であり、治療としては、抗男性ホルモン療法を行うのが良いことを申し上げました。その頃には、先生はすでに前立腺癌の教科書を書店から求め、ご自分で前立腺癌の勉強をされておりました。そのため、ステージD2の前立腺癌がどのようなものであるか、予後はどうであるかを、きちんと理解されており、私があえて情報提供することは余りありませんでした。その意味で、主治医にとってはとても楽な患者さんでありました。
抗男性ホルモン療法として、LH・RHアナローグの注射およびフルタミド内服を開始しました。治療1ヶ月でPSA値は正常化し、アルカリフォスファターゼは2ヶ月で正常化し、前立腺の硬結もほとんど触れない状態になりました。3ヶ月でPSA値は検出限界以下となり、先生はもちろん私も大変うれしく思っておりました。しかしその喜びはつかの問でした。平成8年8月頃から、徐々にPSA値が上がり始めました。前立腺局所の所見は、硬結を触れず良好なコントロール状態でしたが、骨シンチでの集積が増加してきました。フルタミドの中止による効果は一時的に見られました。PSA値の上下に先生も私も一喜一憂しながら、あらゆるアンチアンドロゲン剤、経口抗癌剤、またデキサメサゾンの使用を行いました。それらは一時的には反応したかに見られましたが、効果は限定的でした。それでも何とか平成11年の春までは、PSA値が20台を推移し、デキサメサゾン使用による糖尿病の悪化のため、インスリン使用を余儀なくされましたが、この間台湾での国際学会にもご出席していただけました。
平成11年夏以降、PSA値はうなぎ登りに上昇、11月には1400と私もあまり経験した事のない値になりました。骨シンチでの集積増加がさらに強くなりました。11月のCTでは、多発性の肝転移巣も出現しました。病状の進行とともに、私のほうの武器がもうあまりなくなってきた事を申し上げました。先生は、「困りましたね。でもここまで生かしていただいたので、ありがたく思いますよ。」と、かえって私が慰められる始末でした。また国立がんセンターで、進行前立腺癌に対する樹状細胞を用いたワクチン療法の治験が開始された情報を得て、先生も参加をご希望され、歩行困難な状態ながら東京まで診察を受けに行かれ、1月からの治験エントリーの予約をして来られました。おそらく骨転移のために、かなりの苦痛があるのではと思い、モルヒネ剤の使用をお勧めしましたが、先生は「コルセットをしていれば、腰痛は大丈夫です。夜は、ソレトンを内服すれば痛みを忘れます。」と、最後までお仕事も続けておられました。12月16日から、食欲不振、皮下出血などが出現、悠遊健康村病院に入院されましたが、DICの状態となり18日に立川綜合病院に搬送、敗血症性ショックの状態で19日早朝に永眠されました。
先生のご病気の診療を担当させていただき、これほど隠し事のない診療をさせていただいたのは、私にとって初めての経験でした。世間では「インフォームド・コンセント」がうるさく言われておりますが、通常患者さんに説明する時には、事実を正直に述べるように心がけるにしても言葉を選んでしまい、説明する側の力点の置き方によっては、全く違った様にとられてしまう懸念もあります。鷲尾先生は、ご自分の病状について常に冷静に把握されており、最後の方は悪い材料ばかりでしたが、それについてもありのまま、私が「困りました」と申し上げると、先生も「困りましたね」とおっしゃり、どちらが患者かわからない状態でした。「インフォームド・コンセント」とは、このように共感してともに病気に対して戦う事かな、と思いました。また先生は病気の初期、「息子が医学部を卒業するまでがんばらねば」とおっしゃっていました。そのご次男も、昨年春から新進の循環器内科医としてご活躍とのことです。先生は、病気および生命に対し常に前向きで、最後までワクチン療法などに期待しておられました。病気に対してはどんなに、お辛かったことかと思いますが、このように冷静に、ひたむきに人生に向かった先輩にお目にかかれたことは、私にとって非常に勇気付けられ、幸せに思えます。
先生、いろいろ教えていただき、本当にありがとうございました。
BJ読者のみなさま、新年おめでとうございます。またあわせて西暦2000年という「新千年紀」-はやり言葉でいうと−ミレニアム」を何のトラブルもなく無事に迎えられましたことを、ともに喜びたいと思います。
昨年の暮れ、わたしの実家での老父母との会話です。
「近頃ミレニアムとか言うけど何のことなんだかわからないやね。」と母が言った。
「ほら二十世紀が終わると言うけど、2000年までが、20世紀なんだって。でも2000年は、なんかお祝いしたいような記念すべき区切りの年だよね。それで急に今まで聞いた事もなかったようなミレニアムなんて言葉がマスコミで使われだしたみたいなのさ。千年紀というキリスト教世界の言葉らしいね。」
いまひとつよく判らないでいたがそれで合点がいったわと、母はうなずいた。秋田から取寄せた比内鶏のきりたんぽ鍋を食べて、我家の年取りの夜は更けた。
「まもなく2000年の幕開けですね。」と家人が御茶を入れながら言ったところで、NHKの紅白歌合戦が始まった。
ご苦労な話であるが、首相や閣僚はこの年末から新年にかけてはいわゆる「2000年問題」で不慮の事故発生に備えて待機体制に入った。県庁、市役所なども右に習えであった。なんと勤務先の病院でも院長以下管理職は大晦日に出動体制をとったのである。勤務命令で多勢の医師、看護婦、技師も拘束体制に入った。マスコミ操作で空騒ぎに踊らされた感のある対策は、わたしにも他人事ではなかったのである。
「ほんとうに輸液ポンプとか、吸入器とか、保育器とか、故障して止まらないでしょうか?」と病棟婦長。
「だってもともと日付表示もなく、そんな操作もない簡単な機械なんか、絶対大丈夫さ。」とわたしは苦笑いした。「輸液ポンプなんてゼンマイ仕掛けで動いているんでしょ。」さすがに婦長も笑った。
一連のニュースで最もあきれたのは、保存してあった数十万の住民の基本情報をなんと莫大な量の紙に印刷しなおしたという宮城県の某大都市市役所ですな。CDとかMOとかのバックアップ複製で情報は完全に保持できるはず。これが使用できないくらい新しいコンピューターが壊れまくるはずはないでしょうに。
さて全然規模は違うが、我家でも実際に家人が一応の備えということで活躍した。以前から停電に備えて購入してあった電気不要の旧式石油ストーブを点検した。−これは数年前の冬に数時間の停電があった際、活躍した輝かしい経歴がある。またランタンランプの乾電池を新しくし、大晦日の夕食後には食器洗いを早めにすませて、水を容器に汲み置いた。
わたしは紅白歌合戦を見ているうちに眠くなり、家人を居間に残して寝室に向かった。ベッドの上を占領している飼い犬にすこしよけてもらい、脇に寝転がるとステフアニー・プラムという女主人公のミステリ小説を読みながら、いつのまにか眠ってしまった。
ふと物音で目を覚ますと、家人が着替えて隣のベッドで眠るところであった。枕元の時計を見ると、針はすでに0時を30分ほど過ぎていたのであった。
「おう、何も変わったことはなかったかい?」
「ええ、電気もガスも水道も、テレビ番組も何一つ変わったことはなかったようよ。」
「そうかあ、やっぱりね。2000年おめでとう。-おやすみ」