長岡市医師会たより No.239 2000.2

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もくじ
 表紙絵 「太田川」          丸岡  稔(丸岡医院)
 「諸橋芳夫先生の思い出」       荒井 奥弘(社会保険長岡健康管理センター)
 「パズルの勧め」           渡辺 正雄(渡辺医院)
 「男女共同参画社会を目指した新潟県女(ひと)と男(ひと)ふれ愛フェスタ'99」
                    福本 一朗(長岡技術科学大学)
 「新年ボウリング大会優勝記」     小林  司(こばやし眼科医院)
 「新年麻雀大会優勝記」        高橋 剛一(こばやし眼科医院)
 「新年囲碁大会優勝記」        黒川 和泉(長岡赤十字病院)
 「手に余る石鹸」           郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

太田川  丸岡 稔(丸岡医院)
諸橋芳夫先生の思い出  荒井 奥弘(社会保険長岡健康管理センター)

 諸橋芳夫先生は、平成12年1月19日、80年10ヶ月の生涯を閉じられた。二十世紀を精一杯生き抜いた怪物といってよく、「巨星ついに墜つ」という言葉がぴったりな人である。同じ長岡が生んだ医療界の怪物、武見太郎元日本医師全会長と並んで後世に名を残す人である。

 私が諸橋先生のことを知ったのは、昭和40年頃のことで、旭市の隣の八日市場市に居住されていた大友文吉さんから、「隣の町に長岡出身の偉いお医者さんが居る」と知らされた時からである。しかしその時は、諸橋という名前も大友さんとの関係も聞いていなかった。大友さんは、私が海軍兵学校の一号生徒(最上級生)時代の分隊監事で、終戦で解散するまで5ケ月間お世話になった「親爺さん」で、当時海軍大佐であった(明32生)。大友さん(海軍中佐で副長)と諸橋先生(海軍軍医大尉)は昭和19年5月から6月14日の僅か1ケ月余であるが、日本の最新鋭空母「大鳳」で同じ釜の飯を食った仲であり、お二人の縁はこの時に始まっている。諸橋先生は出撃前に「瑞鶴」へ転属になり、6月19日のマリアナ沖海戦で、「大鳳」は沈められたが、「瑞鶴」は無事帰港できた。

 諸橋先生が戦時中、乗艦したのは総て航空母艦で、3隻とも日本の誇る最新鋭空母で、翔鶴・大鳳・瑞鶴の順に勤務されたが、前の2隻はマリアナ沖海戦で瑞鶴は昭和19年10月25日ルソン島北東で撃沈された。何れも諸橋先生が下船した後の事で、まさに九死に一生どころか万死に一生の幸運の持ち主である。更に、昭和20年8月5日夜行列車で小倉を発ち大阪へ向った。6日の朝広島に着き午前8時に発車し次の駅内洋に着いた時、原子爆弾が投下された。15分の差で命拾いをしたのであり、「天運というべきであった」と語っておられる。先生の手相を見た者が、運勢の良いことを褒めてくれたというが、天から授かった幸運の星のもとに生まれた人なのであろう。

 昭和50年頃大友さんから「地域医療の旗手」という本が送られて来た。その中に、旭中央病院の諸橋先生の事が紹介されてあり、この時初めて長岡の諸橋敏夫先生の弟さんで芳夫先生と仰ることを知った。昭和58年4月諸橋先生は、日本病院会の会長に就任され、旭中央病院の名も全国に鳴り響くようになった。その頃大友さんの紹介で、旭中央病院を見学に訪れた。先生白ら玄関に出迎えられて、応接室に案内され、病院をここまで発展させた努力と苦労話を語られた。そのあと増築に増築を繰り返した病院を、全部案内してもらった。特に病理解剖の関係施設は、熱心に説明して下さった。最後に救命救急センターの控室に入り、そこから救急車の進路が見渡せるのを示し、「どうだ、軍艦の艦橋みたいだろう」といかにも満足そうに語られたのが、今もはっきりと思い出せる。この時の訪問を機に、「旭中央病院医報」が年2回発刊される度に、長岡赤十字病院へ送られて来ている。その中の臨床病理検討会の記事と院長の病院管理の講演抜粋を毎号参考にさせてもらった。

 昭和62年1月詣橋先生から、大友さんが結腸の手術をしたとの電話があり、旭病院へ駆けつけた。院長白ら病室まで案内して下さった。大友さんのカルテには、「院長の上官」と大書してあった。その次に訪問したのは、4年後の平成3年5月で、大友さんが大分衰弱して入院したときであった。大友さんは自分の事は言わず、諸橋院長への感謝を述べていた。その1週間後大友さんは他界された。行年93才であった。葬儀には地中央病院から丁重にして頂き、院長の弔辞には空母時代にお世話になったこと、大友さんの温厚な人柄を敬愛していることが述べてあった。

 諸橋先生は昭和45年2月より全国自治体病院協議会会長を14期28年、昭和58年4月より日本病院会会長を5期15年務められた。これ程長く日本の病院組織のリーダーとして、医療の質の向上、療養環境の改善整備に力を尽くして来た人はいない。先生が病院の質を高めるための条件として、常に要望していたことは、医は仁術、患者中心の医療は勿論のこと、日進月歩の医学を身につけ、医の倫理の高揚に努め、患者や家族に安心と満足を与え、信頼される病院にすることであった。そのために、先生は病理解剖に力を注ぎ、最近の5年間では、全大学病院の剖検率の平均が22.6%であるのに、旭中央病院の剖検数は400件以上、率は65%以上を維持しており、驚異的な数値である。ここまで築き上げた先生の指導力と熱意に改めて敬意を表するものである。

 また、先生は郷土を愛し、身内は勿論の事、後輩の面倒をよくみられた。平成3年4月より長岡高校同窓会東京支部長を引受けられ、郷里とのパイプ役を務められた。旧制長岡中学の同級生で参議院議員の長谷川信さんが法相に就任した時には、祝賀会の発起人としてお世話をされた。新潟大学出身の厚生省行政官が局長に昇進した時も、国会議員・新潟病院協会の役員を招いてホテルで祝賀懇親会を開き、相互に連携を図る場を作られた。先生の随筆には時々「米百俵」や「常在戦場」など、郷土の教訓が引用されているのも、郷土愛を示しているものと理解される。

 平成9年8月、長岡赤十字病院の竣工式に参加され、日本病院会会長として丁重な祝詞を述べて下さった。

 また、三島億二郎翁の銅像建立には、長岡高校同窓会東京支部長として、募金について多大のご尽力を頂き感謝している。諸橋芳夫先生は、昭和27年(33才)に旭中央病院の院長となり、113床の病院を904床の大病院に発展させたばかりでなく、永年にわたり日本病院会の会長として医療の質の向上に尽くされた功績は、言葉に尽くせない程大きいものがあり、先生のご逝去は日本の医療界にとり大きな損失である。後に続くものが、先生の遺志を継いで良質な医療を行うことを誓って先生の霊に合掌したい。

諸橋芳夫先生御略歴
昭和6年 四郎丸小学校卒業
昭和11年 旧制長岡中学校卒業
昭和14年 旧制新潟高等学校卒業
昭和17年 東京大学医学部卒業
昭和27年 国保旭中央病院院長
昭和45年 全国白治体協議会会長
昭和48年 厚生省医療審議会委員
昭和58年 日本病院会会長
昭和59年 旭市名誉市民
昭和60年 中国黒龍江省栄誉公民
昭和63年 中国遼寧省栄誉公民
平成元年 中国吉林省栄誉公民
平成3年 アジア病院連盟会長
平成6年 国際病院連盟汎地域会議会長
      
昭和49年 藍綬褒章受章
平成3年 勲一等瑞宝章受章

 

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パズルの勧め  渡辺 正雄(渡辺医院)  

◎先日、本誌に載った窪田先生のパズルの記事を拝見した。実は私も10年以上前から、パズルを愛好している。暇さえあれば、というよりは、もう生活の一部になっている位である。賞金も数回は獲得しているのだが、投資した葉書や切手代には到底及ばない。

◎窪田先生御指摘のイラストパズル(お絵かきロジックともいう)は私も大好きで、論理的思考の遊びでとても楽しい。しかしここに一つ問題がある。なる程絵は出来上るのだが、その絵柄が何を表しているか、つまり答えの段階で判定に苦しむことが結構多いのである。ところが、この絵柄を女性に見てもらうと、何の苦もなく答えを出してくれる。男性ではだめで女性にはすぐわかるらしい。一体これは何なのだろうといろいろ調べてみたら、やっぱり原因があった。

◎前に本誌で「男の脳・女の脳」と題して書いたことがあるのだが御記憶だろうか。男の脳は分析(アナリシス)、女の脳は類比(アナロジー)が得意なのである。男脳は側性化(ラテラリティー)し、専門化、特殊化しているので分析能力にすぐれ、科学者、数学者等に著名な人が多い。従ってイラストパズルで、数字を理詰めに(ロジック)絵に表現していく段階は得意の分野なのである。これに対して女脳は大脳辺縁系優位で、直感、フィーリング、第一印象からの画像判断が得意だったのである。勝手ではあるが、こんな理由づけをして少しはほっとしている自分が情けない。そんなことは女性の手をわずらわせなくても自分で充分できるといわれる男性は、女性に負けないしなやかな脳をお持ちの方で誠にうらやましい。それにしても、こんな所にも、脳の男女差が現れるなどとは何とも不思議なことである。

◎パズルは手先を使い、脳をフル稼働しないことには解くことが出来ない。この点からいって脳の老化防止のためには麻雀と好一対である。しかも麻雀は4人いないと出来ないが、パズルは1人で出来るし、いつでも、どこでもやりたい時にやれるし、やめたい時にやめられる。運よく賞金が当れば、金額はどうあれ喜びは倍増する。

◎私はこれからもパズルはやめられそうもないし、やっていくつもりである。散歩がてら、葉書を出したり書店を覗いたりするのも楽しみで、運動にもなるから思わぬ余禄もある。皆さんも書店のパズルコーナーを一度御覧頂きたい。いや、もう隠れファンが多数おられるのかも知れない。ボケ防止のために大いにパズルを楽しもうではないか。

 
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男女共同参画社会を目指した新潟県「女(ひと)と男(ひと)ふれ愛フェスタ'99」  福本 一朗(長岡技術科学大学)

 21世紀を目前に控えた99年は、伝統的な男女の関係について我が国建国以来の変革が行なわれた年であったと言っても埋言ではない。まず4月には「改正男女雇用機会均等法」が施行されて募集・採用・配置・昇進・教育における男女差別が廃止されるとともに、制裁としての企業名の公表・積極的改善処置(positive action)への国の支援・セクハラに対する事業主の配慮義務があらたに盛り込まれた。また6月には「男女共同参画社会基本法」が公布・施行されて、少子高齢化の進展・経済活動の成熟化・社会経済情勢の急速な変化に対応してゆくため「男女が互いにその人権を尊重しながら責任を分かち合い性別にかかわりなくその個性と能力を十分に発揮できる社会」の実現が求められた。特に男女共同参画社会基本法の基本理念として、男女人権の尊重・社会制度への配慮・政策立案決定への共同参画・家庭生活と他の活動の両立・国際的協調の5項目があげられており、その実現のために政府には「基本理念をふまえた施策の総合的な策定・実施の責務」が課され、地方公共団体には「国の施策に準じた施策・及び区域の特性に応じた施策の策定・実施の責務」が与えられるとともに、国民一人一人には「男女共同参画社会の形成に寄与するように努める責務」があるとされている。同法の趣旨に従い新潟県でも男女共同参画社会推進のための啓蒙講演会を津南町と金井町で開催した。筆者は新潟県環境生活部女性政策課に依頼され、11月21日日曜日に津南町公民館で開催された「女(ひと)と男(ひと)ふれ愛フェスタ'99津南フォーラム」に参加しキャスターの安藤和津さんとの対談および市民代表4名の方々を交えたパネルディスカッションに参加させていただいた。ここでは当日議論になった話題のいくつかを紹介したい。

 あるアンケート調査結果では新潟県で男女が平等に処遇されていると考える人は22.5%に過きず、全国の39%に遠く及ばなかった。このことから新潟県の女性は他の地方より大きな不平等感を抱いていることが類推される。また新潟県では「男は男らしく女は女らしく」という考えに賛成の人は男性で84.8%、女性で72.9%であり、男性は女性に比してより保守的であると考えられた。また2000年4月から介護保険法が施行されることに象徴されるように日本は人類史始まって以来の超高齢化社会に突入するが、在宅介護の主な担い手は依然として女性であることに変わりはないと考えられる。そのため老齢人口の増加と年少人口の減少のため1995年を頂点として15歳から64歳の生産年齢総人口は減少に転じているにかかわらず、日本の女性はまだまだ家庭にひきこもっていることが多い。また年齢階級別女性労働力率の国際比較では、欧米諸国では壮年でプラトーになる「逆U字曲線」を示すのに対して、我が国では30歳から34歳の子育て世代で女性の労働力が落ち込む特徴的な「M字曲線」を描いている。それは保育所・出産育児休暇制度・復職保証制度等、女性が働きやすい社会環境が完備されているかどうかという問題と深く関係していると考えられる。その証拠の一つとして出生率と女性労働力率の相関を国際比較してみると、社会福祉制度の充実している北欧諸国では女性労働力率も合計特殊出生率のいずれも世界のトップクラスに属しているのに対して、我が国では双方とも世界最低の部類に属している。そのため例えば福祉先進国であるスウェーデンと比較してみると、平均寿命・教育水準・国民所得より算出された「基本的な人間の能力の仲びの指標」であるHDI(人間開発指標)は「スウェーデン6位対日本4位」と日本の方が勝っているにもかかわらず、女性の所得・専門職の女性割合・国会議員女性割合より算出された「積極的な女性の政治経済参加の指標」であるGEM(ジェンダー・エンパワーメント測定)では「スウェーデン2位対日本38位」と格段に劣っている。

 ここで日本の女性は伝統的に男に服従していたのだろうかという疑問が起こる。例えば卑弥呼・光明皇后・小野小町・紫式部・巴御前・北条政子・淀君を見ても分かるように日本の女性が社会の頂点に立って活躍していた時代もあったことは確かである。ただ「女神ゲルフィンが巨大な雄牛に引かせた鋤で海底の土をかき集めて作られた国土がデンマークであるしという北欧の建国神話と比較すると女性の役割が第一義的でないことだけが残念であるが、古事記・日本書紀の国産み神話には「成り余れるところを成り足らぬところに刺しふたぎて子を為さん……(古事記)」「ここにイザナギの命、しからば吾と汝とこの天の脚柱を行き巡りあひてもミトノマグアヒせな、とのりたまひき(日本書紀)」とおおらかな性が謳歌され、男女がお互いに補完しあって国が産まれたことを今に伝えている。また源氏物語・枕草子における「世の中のこと」とは「男女の関係」とほぼイコールであったが、この「世の中には男と女しかいない」・「幸福とは男女が一緒に幸せに暮らして行くことである。」という思想こそまさに「男女共同参画社会」の理念そのものではないのだろうか? このように考えてくると、過去の日本人は世界に誇れる素晴らしい伝統的セクシュアリティを有していたと考えられる。我々の祖先が備えていたような源氏の女性観(=紫式部の男性観)を現代の日本人は捨て去ってしまってよいのだろうか? そして当時は男女ともに社会においてもっとも大事と考えていた「異性に想いを伝える技術」を封建時代・富国強兵時代・経済高度成長時代を通過する間に失ってしまった現代人は、「その習得自体が人生勉強である」と主張する工ーリッヒ・フロムの「愛する技術」を、手軽にバイアグラで間に合わせようとしているのだろうか? 「舞姫」「vitasexualis」「雁」などの作品で性を真剣に追及した明治の医師森鴎外は同時に熱心な女性解放賛同者であったし、初期の心臓移植の倫理的問題を記述した渡辺淳一は自身の女性体験を元にしたといわれる作品「失楽園」で性の深淵を医師の目を通して描き出した。瀬戸内寂聴は失楽園の読後感想として「不倫も懸命にやれば純愛」と喝破し、長岡高校OBの桜井よしこさんは「今恋愛中ですか」という問いに答えて「恋をしない人間っていますか?」と反論された。

 また映画「時雨の時」の吉永小百合はインタビューで「今までの人生に後悔はしていませんが、人生最後の日に後悔することがもしあるとすれば、それは子供を産まず、母とならなかったことだと思います」と述べられた。これらの作品と言葉は21世紀に対応した「愛の多様性」の高らかな権利獲得宣言であると考えられ、まさに人々に「平成のセクシュアリティの確立」の必要性を自覚させたものであると言えよう。

 津南での「女と男ふれ愛フェスタ'99」で対談した安藤和津さんは、御夫君の奥田瑛三氏のスキャンダルをものともされず、会食の後に残った豆腐料理を家族のために折り詰めにされ、また会場までの道すがら留守番をしている次女に携帯電話で電話して「冷蔵庫のおサラダ食べた?」と尋ねられる昔風の良妻賢母であられた。またパネルディスカッションに出演された農夫・歯科衛生士・看護婦・消防士の方々の白らの体験と家庭のお話しはとても感銘深いもので勉強になった。越後の地では都会においてよりも良い日本のセクシュアリティが生き残っていると思うと、暖かいものが胸の内に沸き上がってくるのが感じられた。地元の障害者の方々が作って下さった「猫の形のプランター」と「手作り味噌」を津南の御土産にして、暮れなずむ秋の道を長岡に戻ってきたことであった。

 さははよから眠い目こすり、

 やいやながらも戦闘開始、

 るさくわめく子供をなだめ、

 っこらしょと掛け声かけて立ち働く、

 かあさんって24時間忙しい

 安藤和洋著「あいうえお」、PHI研究所刊、1989を真似して作ってみました「お父さんバージョン」。

 お父さんバージョンその1

  んな仕事も生活のため

  つでも家族の幸せ願い

  しろ姿は泣いてても

  がおの一つも見せにゃならぬ

  や不孝息子のお帰りだい

  ぞくサービスこれ努めても

  んぞく年数増えやせぬ

  ろうばかりが人生か

  いさん通りにゃ行かないけれど

  どもと妻の幸せ願う

 お父さんバージョンその2

  いさいの小言は無理もない、

  くじしなけりゃ父でなく

  まい食事も作れぬけれど

  んりょしながら趣味をもつ

  とこはつらいよこれからも

  じ分担もよいけれど

  のうは仕事で午前様

  ろうするのは誰のため

  もラッシュの波の中

  んな男にも夢はある

 

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新年ボウリング大会優勝記  小林 司(こばやし眼科医院)

 1月14目金曜日、診療を終え医院の後片づけもそこそこに急いでアルピコボウルに駆けつけた時は定刻ギリギリで、既に多くの先生方が集まっておられました。私は初参加のため勝手が分からず、横山先生や窪田先生、大貫先生にいろいろ教えていただきながらゲーム(いや試合というべきでしょうか?)に参加いたしました。

 ボウリング自体は高校生の頃から年に1〜2同位やっていましたが、2つのレーンを交互に1フレームづつ使う本格的な試合形式は初体験でした。右のレーンで投げては左のレーンで投げ、と休む間もありません。あっという間に1ゲーム目が終了しました。続いて2ゲーム目も終了。あまりのペースの早さにすこし疲れを感じて小休止。しかし、窪田先生に「60歳を過ぎた先生も休まずにゲームを続けているんだから休まずに続けて。」と言われ、気を取り直して3ゲーム目を開始。ここで今までまったく見たことのない現象が。ストライクを取るためには、1番ピンと3番ピンの間、又は1番ピンと2番ピンの間をボウルが通ることが絶対に必要なはずなのですが、私の投じたボウルはこの重要ポイントをはずして通過。〃あ〜あ3本残ったか(1・3・6番ピン)〃と思った瞬間、後方の倒れたピンが1番ピンの方に回転して来て、3本残っていたピンを全て倒し、奇跡のストライク。

 これは超ラッキー!「こいつは春から縁起がいいわい!」と思いながら4ゲーム目に突入。そこでもラッキーが続き、ストライクは出る、むずかしいスペアも成功するはで、150〜160がせいぜいのはずが、なんと193点という高得点。〃いやあ、新年ボウリング大会、出席して良かったなあ〃と超満足してゲームを終了しました。しかしさらに幸運は続き、成績発表では思いもかけない優勝とのおつげ。立派なトロフィーと大きな賞品をいただき、盆と正月がいっぺんに来たような(今は正月だから、盆が追加で来ただけか?)大振わいでの帰宅となりました。

 あまりに一人で幸運を抱え込んでいては、いずれ"バチ"があたるというもの。すぐにも皆様にお返ししなくては、と思いましたが、せっかく新年ボウリング大会に参加された先生方からの心暖かい贈り物の"福"。この"福"は今年一年、私が大切に育てさせていただき、より大きなものにして来年皆様にお返しする方が良いのではないか、という結論に到りました。来年の大会には大きく育てた"福"をお持ちいたしますので、それまでしばらくお待ちいただきたいと思います。皆様どうぞよろしくお願いいたします。

 

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新年麻雀大会優勝記  高橋 剛一(高橋内科医院)

 復活第2回目の医師会の新年麻雀大会は、1月29日(土)、雀荘「しらかば」で行われました。今年も幹事の鈴木丈吉先生のお骨折りで、何とか3卓が揃い大会の形をなしました。当日はこの時期にしては珍しい位の青空で、若者にとっては絶好のスキー日和で、恐らく今日のメンバーはかなり年輩の先生方だろうと予想しておりましたが、ほぼあたりでした。ただ感激したのは、特別参加の紅一点、児玉伸子先生がおられたことで、私の記憶している限りでは女性の参加は初めてではないかと思います。そして大変残念だったことは、昨年の優勝者の下田四郎先生が風邪でダウンして不参加だったことです。当日お相手していただいた先生方はいずれも心優しい方違で、下田先生のようにきびしくなかったせいか、とうとう原稿用紙つき賞品を戴くはめになりました。

 小生1回戦は早速願ってもない組合せで、児玉先生と対戦できました。彼女の話では以前よく家庭麻雀をされていた由、大らかな麻雀の印象でした。何とか1,2回戦ともプラスで、つぶし合いの最後の3回戦で、中島滋先生、勝見喜也先生、郡司哲己先生、いずれも1,2回ともプラスの強豪と対戦しました。東風までは中島・勝見両先生のペースで、小生は中島先生の技巧的な麻雀にしてやられ、点棒も半分ほどに減ってほど良い位置にいましたが、北風になり勝見先生の親の時、配パイから端パイが10種類あったので、つい色気をだして国士無双にチャレンジしたのが運のつきで、6巡でパイパン待ちのテンパイとなりびっくりしました。その後2巡様子をみ、リーチをかけ数巡目につもってしまいました。昨年の四時刻に引き続きの役満で、残された時間もあまりないことからこれで原稿用紙かと思うと、嬉しさも中くらいなりで、まだまだ修業の足りないことを実感いたしました。

 当医師会には最後に猛烈な巻き返しで、2位に入賞した郡司先生のような、筆も立ち、麻雀も強い先生が結構おられると聞いております。来年にはぜひ参加していただきたいと思います。また女医会からも児玉先生と一緒に参加していただければ、ぐっとムードもよくなるのではないかと思いますが、次回、小生はひそかに大三元を狙うつもりです。最後に幹事の鈴木先生、本当に御苦労さまでした。また大変申訳ありませんが、優勝はもう少し先送りにして、次回の幹事もよろしくお願いいたします。

 

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新年囲碁大会優勝記碁盤ホビーで碁はサッパリ 黒川 和泉(長岡赤十字病院)

 新年明けましておめでとうございます。私の新年は「まずは春から縁起が良い」で始まりました。医師会新年暮会で優勝させて頂きました。パートナーの先生には心から御礼申し上げます。パートナーの方々は、関根前医師会長、杉本六段、大塚四段、金沢初段、三間三段でした。長く碁をやっておりますがあまり上達しません。最近碁の道具に興味が出て来ましたのでそのことについて一言。

 ホビーという程の蒐集かどうか。最初の碁盤は父の形見でした。佐渡榧(かや)の良い物だというので碁会に持って行きましたが、誰も近づきません。表面が真黒で線が見えないということでした。しかし、ベテラン先生が裏を見て、足を外して見て、良い盤かも知れないということになり、目立て(線の引き直し)をすることになりました。結果は見事な、黄味を帯びた白(飴色)に変身した碁盤でした。次に、同級生に碁盤をもらいました。これも真黒、側面に彫り物が付いています。目立てした所やはり飴色で黄味は更に深く、古い江戸時代のものということになりました。再び真黒な碁盤を古道具屋で見つけました。5寸盤で裏は白、正に榧に違いありません。道具屋が榧と間違えて入手したため、仕入れの1万円で良いと言われ購入しました。古道具屋の間違いかも知れないと碁盤屋に行きました。やはり榧ではなく栃でした。臼の木です。私「臼の碁盤もあるだろう」、碁盤屋「栃の碁盤など何の価値もない、その上この盤には小さなヒビが沢山入っていて碁盤としての値打ちは全くありません」、私「碁盤がダメなら料理のまな板など転用法はないのか」、碁盤屋「木が硬くて刃がこぼれます」でした。それでも未練がましく目立てをしてもらって2万円かかりました。この盤は碁会の都度使って重宝しています。

 今年のことです。某先生の新年暮会の帰りにタクシーで財布をなくしました。タクシー会社に電話すると「降りた所をすぐ探して下さい」とのこと、半信半疑でもどりましたが、その現場に私の財布がありました。この間約30分、よく他人に拾われませんでした。どうせなくした金だから面白いものに使ってやろうと思っていて、ある日、とある質屋に立ち寄りました。そこに2寸卓上盤、日本産本榧、1枚板、柾目の銘盤が桐の箱に収って置いてありました。フタを開けると榧特有の甘い香りが四方に広がりました。碁盤の重さが苦になりつつある今日、良い碁盤に会えたと喜んでおります。この盤も碁会で会を賑わすことでしょう。碁の上達には関係ないつまらない話を長々と書きました。失礼しました。「こんなことでは碁は強くなりませんね。しかし、碁は楽しいですね。」

 

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手に余る石鹸  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

「あなた、ほら見て。このシリアのアレッポ地方特産のオリーブ石鹸って、うちで使っている石鹸と同じなんだわ。」

 ある2月の日曜日のお昼前、隣でテレビを見ている家人が、大きな声をあげた。脇のソファに寝転んで、ミステリーを読むわたしの注意を喚起したのである。

 旅ルポ番組で、今回は長岡出身のなつかしのタレント星野知子がレポーターをやっていた。中東シリアで古来からの方法でオリーブ油から石鹸を作る製造工程や、ついでにシリアの仲のよい家族の日常などが美しく映像化されていた。

 オリーブ油は日本でもよく料理に使うようになったが、その高級品は一番搾りである。二番搾り以下がこのアレッポ地方では石鹸の原材料となるのだ。これに月桂樹オイルを香料として入れ、水酸化ナトリウムを添加し、化学反応させて石鹸を作るのである。

 工場では床一面に原液を流し、固まったところを、手作業ならぬ伝統工具で実際は「足作業」で一個ずつの石鹸に切り分けていた。また工場のマークも石鹸一個ずつに、これは本当に手作業で刻印していた。

「おおたしかに手作りですな。こんなペースでいったい年間に何個くらい製造しているのかしらん?」

 この石鹸は作ってから、さらに6ヶ月以上乾燥させ熟成してから出荷される。なかには2年ものとか4年ものなどがある。時間を経るとしだいにオリーブの緑色が消えて白色化する、それとともに汚れ落ちよくかつ石鹸自体がすぐには磨耗しにくい硬さに変化するのだという。

 席をたった家人が廊下の雑貨品入れから、金地模様の小さな袋を持ってきて中身を開いて見せた。この石鹸は、しばらく前に友人のOさんに「すぐれもの」と紹介され使っていた。

「ほらね、この石鹸の刻印、今の工場のと同じだわ。」と合点した。

「ふーん、ちょっと大き過ぎて使いづらい、手に余る石鹸だと思っていたけど…。あの遥かなシリアの工場で伝統技法で手作りされた由緒正しいお品とは、まことお見それいたしました。」

「石鹸に謝ってもしょうがないでしょ。でもあんな遠いところでできたものを日本のわたしたちが毎日使っているって驚きね。」

 浴用石鹸として使用後のさっぱり感は合格。一個900円の価格はまずリーズナブルなところかしらん?

 外観がごつくて、まだ自動洗濯機などなかったこどもの頃、たらいと洗濯板で母が衣類を洗うときに使っていた、洗濯用石鹸のイメージである。どれどれ今実際にものさしで測ってみよう。長さ8.5センチ、幅は6.5センチで厚さなんと4.5センチである。日本のふつうの石鹸の倍以上である。……「持て余す」または「手に余る」サイズ。

 石鹸の使用方法の基本は、まずは濡れた手にとり、擦って少しずつ溶かし泡立てて洗うことですよね。この手で掴みやすいサイズというのが彼我で大きく異なるのか? 民族の手の大きさの差なのであろうか?… 考えても分からない。

 ちなみに現地シリアでは電気洗濯機もこの石鹸をナイフで削り入れて、使用しているシーンがあった。ほんとに日常でもやっているならすごいですね。

 滑りたる石鹸追へり春の風呂 蒼穹