長岡市医師会たより No.241 2000.4

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もくじ
 表紙絵 「悠久山にて」         丸岡  稔(丸岡医院)
 「込田幸夫医師の死去を悼みて」     田中 健一(小児科田中医院)
 「込田幸夫先生を偲んで」        斎藤  寛(耳鼻咽喉科斎藤医院)
 「ご挨拶」               会長 斎藤良司(斎藤皮膚泌尿器科医院)
 「やっとここまできた〜開業1年目の感想」 野々村直文(野々村医院)
 「女の論理〜呑兵衛のたわごと(2)」    福田 光典(悠遊健康村病院)
 「ツベルクリン反応二段階試験の経験」
      産業医 西村義孝・衛生管理者 阿部雅典・院長 田宮 崇(長岡西病院)   
 「冬のローズマリー」         郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

悠久山にて  丸岡 稔(丸岡医院)
込田幸夫医師の死去を悼みて  田中 健一(小児科田中医院)

 義兄耳鼻科医込田幸夫は大正2年9月30日生まれで、この度4月13日心筋梗塞によって、突然病死した。享年88歳、最後まで自分の職場で働いて、天寿を全うしたとも云えよう。

 今年も例年の如く正月以来、毎日のように診療を続け、4月12日(水)は午前の治療も無事に終り、昼食後も普通に診察を始めていたが、4時半頃強い胸痛を覚えて立っていることが出来なくなった。長岡赤十字病院に急行し、救急外来で処置が行われ、続いて手術室で房室ブロックに対するペースメーカーとカテーテルが心臓内に入れられて、CCUに運ばれた頃は、顔色と笑顔が戻り、一安心したが、日付が13日となって数時間後、容態改まって急死した。

 彼は模範的に勤勉だったが、病気知らずでもなかった。若く結核に罹り、新潟高校時代の抗生剤のない昭和初期、虫垂炎破れて化膿性腹膜炎に罹ったが、新潟から長岡に帰り、絶望的な手術を受けた。高年にして糖尿病になったが、食事を工夫して克服した。4年前右腎臓悪く、摘出手術を受けたが、それが癌であるとは呑気にも最後まで誰も知らなかった。

 その手術の後も、その前は勿論のこと、ハイキングに努めて健康を維持した。よく歩いた東山、西山連峰や、日本海海岸は我が庭の如しであった。

 私達親類の者は脚力の点でも、気持の上でも喘ぎながら、その驥尾に附したのも、今となっては思い出の数々の中に入ってしまった。

 戦前軍医となり、今次大戦の最大の激戦地、ビルマで死ぬ思いをしたのである。それだから戦友会に属し、毎年のようにその集まりに出掛け、戦友との出会いを大事にしていたようである。

 彼は新潟医科大学当時、乗馬部に属し、バイオリンを演奏して、交響楽団の一員となり、絵画もよくした。油絵を丁寧に画いて、良い作品となり、市展では彫塑作品が市長賞を受けたこともあった。

 多趣味の彼は植物を植えて、これを良く観察した。動物に対しても同じようであり、小鳥等を飼い、魚も海の魚も飼い、酸素ボンベも備え、海水も調合して、これを子供三人達と行って、時代の尖端を行ったものである。彼は動物園長のようであり、子育てとはそう云うものかと、見ていて鰐然としたものである。

 私は彼より10年遅く生まれ、中学校を卒業したのは、大東亜戦争勃発の年であった。美術や音楽や趣味にしても、接し方は私を含め、周囲の同年代の人達には彼のような行き方がなかったように思われるが、時代の影響もあるのではなかろうか。

 私は小児科医として、中耳炎等の病人を込田耳鼻科医院に時に紹介したが、その添書たるや乱文乱筆の極みだった。然し彼の返事は丁寧に楷書で書いてあり、時間の観念等は何処にもないような調子には冷水を浴びさせられた思いをした。

 彼は温顔に見え、文章も穏やかな書き方であったが、性格は一徹であり、頑固であったかも知れない。心底は固かったからこそ、表情は柔和に出来るのかも知れない。彼は教養があり、それが悠揚迫らぬ雰囲気を漂わせたが、日頃の診察は真剣であった。誰にも負けない最高の診療を行っていると云う自負があり、それを人に認めさせるものがあった。彼は医学の基礎から良く勉強したと思う。臨床にしても確実な学び方をしたのであり、耳鼻科領域の手術は凡て巧みにしたのである。

 彼は営々として耳鼻科医院の殿堂を造り上げた。私のことを云わせて貰えば、医学部に入った昭和19年は教科書も参考書も手に入らず、講義は教授から聞き、臨床は先輩から習った耳学問である。彼の医学は煉瓦造りであり、私のはバラックであり、私には曖昧な所があり、彼には厳格な所があり、勿論長所であり、厳格なことは良いことであるが、そこに一つの悲劇の種もあった。

 彼の診療は大変多忙であったと思う。然し診療時間の後も休まず、カルテの整理を行い、所謂カルテの他に、別にカードを作り、患者氏名その他に続き病名を記し、昭和30年開業以来44、5年の全患者の病歴が凡て分る膨大なものを作り続けていたことには驚かされる。

 彼の父君は表町小学校長等であり、その伝統で、長男伸夫君が神奈川工科大学教授となり、医学の面では次男茂夫君が耳鼻科医、長女幸子さんが歯科医となった。

 

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込田幸夫先生を偲んで  斎藤  寛(耳鼻咽喉科斎藤医院)  

 私が込田先生に初めてお会いしたのは、私が人局した昭和30年の日耳鼻新潟地方会の忘年会の席でした。先生は昭和12年の人局の大先輩で私達のごとき新入医局員にとっては神様みたいな存在で、その席は遠く霞んで見えるほどで、お酌になど行ける身分では在りませんでした。

 その年に先生はすでに長岡で開業された年でした。私の父が長岡で開業していましたので、父は先生とは親しく交際しておりました。そんなことから、父が先生のところに私を連れて行き、私の息子です。いずれは長岡にまいりますが宜しくお願いしますと紹介してくれました。私は全身が硬直したまま頭を下げ、そして先生を拝見いたしました。背は高くその端正な容貌はまさに先代の団十郎そっくりなのには驚きでした。先生は憂しい笑頚で、こちらこそ宜しくと若輩の私に丁寧な御挨拶をして頂き感激いたしました。

 その後は学会などで、御挨拶するほどで、あまり親しくお話をする機会には恵まれなかったのは残念なことでした。

 しかし、父の突然の他界で昭和38年に私も長岡で開業することになりました。それからは、先生とお会いする機会も増え、色々とお世話になり、又ご指導頂きました。とくに先生の妥協を許さない、強い信念にもとづいた豊かな臨床経験の御教示は、今の私の毎日に診療に大きく生かされております。そこにも、先生のお人柄がよく現われているように思われます。

 先生は普段は無口な方と思われているようですが、時には私は面白いお話もお聞きしました。特に教授交替の時の裏話などオフレコものでした。もう、この世に居られない方のお話なので良いでしょう。でも、先生は決して他人の悪口を一言われるひとではありませんでした。

 ある日、先生のお宅に寄せて頂く機会に恵まれました。その時、先生の描かれた油絵を拝見いたしました。その抽象画の素晴らしさ感性の豊かさに感激いたしました。先生は長岡市展の奨励賞、市長賞も頂かれております。

 又、長岡耳鼻医会という集まりを私たちはもっておりました。学術的だけの集まりでなく、親睦会もかねておりました。最近は途絶えておりますが、年に一度新年会を開催し夜の11時過ぎまで芸妓を呼び馬鹿騒ぎをした時代がありました。その時は、先生も私達と飲んだり、はにかみながら笑顔で芸をしたりして楽しんでおられた様子が懐かしく偲ばれます。

 私が先生に最後にお会いしたのはこの3月中旬の中越耳鼻科医会でした。運よく私の席が先生のお隣りでした。これが、先生と最後のお話をする時になるとは夢にも思いませんでした。何時ものように先生は笑顔を絶やさずお話をしてくださいました。先生は、この頃年だし体が疲れるので午後は休みながら無理をしないようにやってますよ、耳も遠くなってね、と言っておられました。そこで私が、50,60、まだまだ青い70,80、働き盛り、90になって迎えが来たらまだまだ早いと追い返せ、100になって迎えが来たら耳が遠くて聞こえません、と言う唄がありますが、耳が遠くなると長生きしますよと申し上げますと声を出して笑っておられました。その日は、又お会いしましょうと何気なくお別れしてしまいました。

 先生との思い出はまだまだつきません。あまり突然のお別れに父を失ったような悲しみにくれております。先生を偲びながら、心から御冥福をお祈り申し上げます。

 
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ご挨拶  会長 斎藤良司(斎藤皮膚泌尿器科医院)

 この度、高橋前会長のあとをうけて医師会長に就任することになりました。いろいろな課題が山積のなか、いささか荷が重いと感じております。ベテランの石川先生、新進の大貫先生両副会長はじめ理事の先生方の助力を借りながら、無事責務を果たせればと願っています。会員の先生方におかれましても何卒、執行部への温かいご支援とご指導ご鞭撻をお願い申し上げます。

 執行部に入り9年目になります。これは私にとって医療をすこし外から離れて見る良い機会であったと思います。ともすると地域住民の健康管理を担っているのはまさに医療であると過大評価しがちでした。しかし我々以外にも行政はじめいろいろな組織や団体・個人が地域住民の健康管理に貢献していることを知らされました。医療・介護・福祉の統合がいわれる昨今、行政と協調して地域に貢献することは医師の大切な役割の一つであると考えるようになりました。都市医師会の活動は日常の診療活動とならんで地域住民の健康管理の最前線であります。このことが会員の先生方との共通の認識になることを祈っています。

 昭和22年新生長岡市医師会が発足して50余年、新潟県で最初の都市医師会館として現会館が建設されて34年になります。時代の流れと共に医師会の仕事も年々増加し、又一方で断念せざるをえない事業もあります。ここ数年でも、長岡市の要請による震災時医療救護計画の作成、病診委員会の設置(三病院での病診連携室の開設、医療機関機能マップの作成、在宅ケアネットワークの構築)、地域産業保健センターの開設、医療情報サービスヘの協力(長岡市医師会ホームページの開設)介護保険制度への協力体制の確立、診療情報開示への準備などがあります。今後はこれらが有効に機能し、利用されるように更に工夫する必要がありましょう。

 特に病診連携・診々連携には一例一例の症例の積み重ねが大切で、それには患者と医師、また医師同士のコミュニケーション作りが出発点であります。お互いの顔の見える連携でありたいものです。

 いよいよ介護保険がスタートしました。先生方には認定審査会への参加や主治医意見書の作成などでかなりの負担をおかけすることになりました。長岡市の認定審査会には勤務医も含め、診療所会員は原則として全員参加の方針をとりました。大変良かったと思います。審査のため一例一例書類を見ておりますと、日常診療では見えない患者や家族の他の側面がみえてきます。高齢化社会を迎えて審査会への全員参加が、専門や標榜科にとらわれず全員で助け合える在宅医療へのきっかけになればと思っています。

 当医師会に保健衛生センター事業があることをご存じない先生もおられるのではないでしょうか。昭和33年学校保健法により学童の寄生虫検査が義務づけられ、長岡市、長岡市教育委員会、保健所などの協力により当医師会内に昭和40年寄生虫検査所としてスタートしました。その後、生化学検査、心電図、心音図検査などが加えられ、その対象は幼稚園、小、中、高の学童と学校職員でありました。またそれと共に、医師会内に学童の腎臓病、心臓病判定委員会が設けられ、これまで長年にわたり学童の検診に寄与してきました。しかし近年、疾病構造の変化、少子化、教育委員会の方針の変更、民間の検査・検診事業所の出現により、当センターの収支はきわめて厳しい状況になってまいりました。何らかの打開策を検討しなければならないと思います。

 こうした状況の中で老朽化した現医師会館の建て替えが必要となってまいりました。昨年10月会館建設準備委員会が発足し、本年1月その報告書が提出されました。そのことに関しては本誌3月号に高橋前会長が書かれていますので詳細は省略します。高橋前会長の最後の3月の理事会で建築の承認を受け、4月の定時総会に提出の運びとなりました。近く正式な建築委員会を発足させる予定でありますが、基木方針の決定にはなお対外折衝など検討課題もあり、もう少し時間を頂きたいと存じます。

 准看護学校は今年度で閉校のやむなきにいたりました。残念であります。

 4月から執行部に江都達夫先生(江部医院)、田島健三先生(長岡赤十字病院)、富所隆先生(長岡中央綜合病院)の三先生が理事として入られ、江部先生には県の会報編集委員、田島先生には県の救急医療対策委員、富所先生には県の医政対策委員も担当して頂くことになりました。ご活躍を期待しています。又、この度、外山先生、岡先生の両先生が理事を退任されました。大変ご苦労さまでした。

 県医師会執行部には立川先生(立川綜合病院)が2期目の理事として入られ、地域保健部の部長を受け持たれます。又高橋先生が代議員会副議長を退任されましたので、私が代議員会の議長を勤めることになり、立川先生と二人で県医師会理事会に出席することになりました。

 以上最近感じていることを若干の報告をまじえて述べさせて頂き、就任のご挨拶といたします。

 会員の先生方には今後ともなお一層のご指導ご鞭捷のほど重ねてお願い申し上げます。

 

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やっとここまできた〜開業1年目の感想  野々村直文(野々村医院)

 平成11年3月末日をもって23年間勤めた新潟大学を退職し、4月1日より父が務めていた野々村医院の理事長を継承致しました。開業後はや1年が経ち、ようやく新医院が軌道に乗り始めたこの頃です。再びスギ花粉症の季節を迎え、この1年の様々なことが思い起こされますので、この場を借りて述べさせていただきます。

 私は開業にあたり、父が駐車場として使用していた土地に新しい診療所を建てる予定で準備をしていました。設計ができ施工会社と11月に契約し工事が順調に始まりました。ところが1ヵ月半後の12月に基礎工事ができた段階で施工会社が破産し、会社更生法を申請するというとんでもない事態に遭遇してしまいました。そのため工事は中断し、工事続行のめどが全くたたない状態に陥ってしまいました。そこで早期の工事続行を目指し、弁護士と今後の対応について相談をしたり、破産した施工会杜と今後の工事や債権に関する交渉を行ったり、設計をやり直し、新規施工会社の選定を改めて行うことになりました。破産した施工会社との話し合いは会社更生法に基づいて行わるため、六法全書を読んでは弁護士と相談し、相手方の弁護士と交渉しました。ちなみに現在も破産した施工会社がどのように更生されるのかわからない状態で債権についての決着をみていません。

 このトラブルにより新医院の竣工が大幅に遅れ、4月1日より暫定的に父の診療所で診療を行うこととしました。もともと父の診療所は3月で閉じる予定でしたので、父も最後の頃はあまり手を加えていなかったため、急速壁紙を張ったり、天井を塗り梓えたり、絨毯を敷いたりなど厚化粧を施し、エアコンも増設しました。医療器械もX線などの大型器械は購入を保留し、できる限り父のものを使うことにしました。また広告も医院新築のためにとっておこうということで院内掲示のみにとどめ特に行いませんでした。そのため理事長交代の掲示にもかかわらず、急に医者が若返ったとびっくりされる患者さんも多くおられました。

 診療にあたって、薬は従来どおり院内処方とし、父が処方していた薬剤をできるだけそのまま使うようにしましたが、カルテの書式を変えたり診療の仕方を変えたためスタッフはかなり戸惑ったようでした。私白身も父の診療所の限られたスペースで器具をどのように活用すれば私が望む診療ができるのか日々試行錯誤してやってきました。これらの思いもよらぬ多くの仕事を抱え込みながら、新医院の設計変更を行い、工事受注先を決め、6月に工事を再開し、11月1日には新医院に移転することができました。結局のところ1年間に2回開業したようなかたちになってしまいました。

 今振り返ってみますと、何時になったら新医院で診療ができるのだろうかと、不安に思う時期や施工会社に対するどうにもならない怒りを感ずる時期もありましたが、スタッフたちは不平苦言もいわず私を支えてくれ、心から感謝しております。また古い診療所での肩が触れ合うような診療を経験したため、職員は私の考え方をより理解してくれたと思いますし、私もスタッフ一人一人の人柄を把握することができました。また新医院の設計には、器具や机の置く位置、水栓やコンセントの位置など実際に診療してみないとわからないことを反映させることができました。私の場合、幸運なことに暫定的にでも診療をする場所があったわけで、これがなければ7ヵ月間無収入だったかもしれず、改めて社会の恐ろしさを感じさせられます。開業1年日を迎えた感想はと尋ねられれば「やっとここまできた」というのが偽らざる心境であります。

 最後になりましたが、開業に際し長岡市医師会の先生方ならびに医師余事務局の方々には大変お世話になりました。厚くお礼を申し上げるとともに今後ともご指導ご鞭捷のほどよろしくお願い申し上げます。

 

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女の論理〜呑兵衛のたわごと(2)  福田 光典(悠遊健康村病院)

 わが家に今年3歳になる牝猫がいる。妻はその猫を文字通り猫可愛がりしている。ある朝私は、その猫の髭が一本もなくなっている事に気付いた。さては子供達の仕業かと各々詰問したところ、驚いたことに犯人は何とわが妻であった。そしてその理由を聞いて二度びっくりした。「抱っこする時くすぐったくて邪魔だし、食べ物がついて不潔だし、第一ネズミを獲る必要がないんだから髭なんか要らないわよ」。私は妙に愛敬付いた猫の顔を眺めながら、合理主義的「女の論理」に更めて感心させられた次第である。

 子供が外出する時、「車に気を付けるんですよ」と母親は必ず声を掛ける。子供は「ハーイ」と返事をして、元気よく飛び出して行く。しかし子供は、玄関を一歩出れば外出の目的で頭がいっぱいだから、母親の言葉などすぐに忘れてしまう。父親はそんな子供の性分を知っているから、そのような無駄な言葉は掛けない。無駄と知ってか知らずかけ親は今日も、「車に気を付けて! 信号を見て渡るんですよ」と叫んでいる。これは「勉強するんですよ!」にも通じる空念仏であることに、母親は気付いていない。

 バス停や催し物会場で、一列に並んでいる筈が後ろに行くに従い二列になり時には三列にもなっている事がある。そのとき、増えた列のその先頭に立っているのは決まって女性であり、それも中年のご婦人が圧倒的に多い。昔、作家の井上ひさしが似たような話をしていた。行列が右へ左へ蛇行しているのをよく見ると、それぞれの屈曲の頂点にいるのは必ず女性であったと。

 女どもは体重を気にして、毎日せっせとダイエットに励む。男から見れば理想的な体型に思える女性でも、もっと痩せなければと言って食事を減らしエステなんとかという奇怪な館に通う。年寄りが身体に良いと聞けば何でも試すように、女どもは痩せられると聞くとそれこそ何でも試みる。それがお茶でも食事でも体操でも石鹸でも、そしていかがわしい薬でも…。

 自分と配偶者と子供を位置付けた場合、男は「妻よりも子供、妻よりも自分の方が大事」だと言う、そしてその多くは「子供よりも自分が大事」と考えているそうだが、"利己主義"という誹りは受けてもその論理には何ら矛盾がない。然るに女は、「子供は自分よりも大事」だと断言する。"さすがは母親"と感心していると、次いで意外にも「夫は子供よりももっと大事」だとのたまう。男としてはベクトルが自分の方に向かいかけて気を良くしていると、「でも夫よりは…、やっぱり自分の方が大事だわ」となるんだそうである。このパラドキシカル・トライアングルもまた女の論理なのである。

 昭和39年に大下八郎が歌って大ヒットした「女の宿」の二番の歌詞に、次なる名文句がある。「♪例えひと汽車遅れてもすぐに別れは来るものを、わざと遅らす時計の針は、女心の悲しさよ」星野哲郎作詞、船村徹作曲のこの歌のこのフレーズが好きで、私は湯舟につかりながらよく高吟する。女のこの短絡的思考の具現が、私のような単純な男の胸を揺さぶるのである。

 落語の枕の中に、私が特に好む小噺がある。「もう金輪際アンタには愛想が尽きた。出て行くから、(アンタが着ている)私の襦袢を返しとくれよ!」「何を言いやがる。オメエだって、俺のモモヒキはいてるじゃねえか。」もうひとつ、「ハルや、お前の気持ちは判るが、勝手に家を飛び出して来でいきなり"別れたい"だなんて…。そう短気を起こさずに、もう一度夫婦で話し合ったらどうだ。第一お前の手の中にあるのは何だい? それ往復切符じゃあないのかい?」

 やはり「女の論理」があるから、この世は潤っているのである。

 

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女の論理〜呑兵衛のたわごと(2)  福田 光典(悠遊健康村病院)

 わが家に今年3歳になる牝猫がいる。妻はその猫を文字通り猫可愛がりしている。ある朝私は、その猫の髭が一本もなくなっている事に気付いた。さては子供達の仕業かと各々詰問したところ、驚いたことに犯人は何とわが妻であった。そしてその理由を聞いて二度びっくりした。「抱っこする時くすぐったくて邪魔だし、食べ物がついて不潔だし、第一ネズミを獲る必要がないんだから髭なんか要らないわよ」。私は妙に愛敬付いた猫の顔を眺めながら、合理主義的「女の論理」に更めて感心させられた次第である。

 子供が外出する時、「車に気を付けるんですよ」と母親は必ず声を掛ける。子供は「ハーイ」と返事をして、元気よく飛び出して行く。しかし子供は、玄関を一歩出れば外出の目的で頭がいっぱいだから、母親の言葉などすぐに忘れてしまう。父親はそんな子供の性分を知っているから、そのような無駄な言葉は掛けない。無駄と知ってか知らずかけ親は今日も、「車に気を付けて! 信号を見て渡るんですよ」と叫んでいる。これは「勉強するんですよ!」にも通じる空念仏であることに、母親は気付いていない。

 バス停や催し物会場で、一列に並んでいる筈が後ろに行くに従い二列になり時には三列にもなっている事がある。そのとき、増えた列のその先頭に立っているのは決まって女性であり、それも中年のご婦人が圧倒的に多い。昔、作家の井上ひさしが似たような話をしていた。行列が右へ左へ蛇行しているのをよく見ると、それぞれの屈曲の頂点にいるのは必ず女性であったと。

 女どもは体重を気にして、毎日せっせとダイエットに励む。男から見れば理想的な体型に思える女性でも、もっと痩せなければと言って食事を減らしエステなんとかという奇怪な館に通う。年寄りが身体に良いと聞けば何でも試すように、女どもは痩せられると聞くとそれこそ何でも試みる。それがお茶でも食事でも体操でも石鹸でも、そしていかがわしい薬でも…。

 自分と配偶者と子供を位置付けた場合、男は「妻よりも子供、妻よりも自分の方が大事」だと言う、そしてその多くは「子供よりも自分が大事」と考えているそうだが、"利己主義"という誹りは受けてもその論理には何ら矛盾がない。然るに女は、「子供は自分よりも大事」だと断言する。"さすがは母親"と感心していると、次いで意外にも「夫は子供よりももっと大事」だとのたまう。男としてはベクトルが自分の方に向かいかけて気を良くしていると、「でも夫よりは…、やっぱり自分の方が大事だわ」となるんだそうである。このパラドキシカル・トライアングルもまた女の論理なのである。

 昭和39年に大下八郎が歌って大ヒットした「女の宿」の二番の歌詞に、次なる名文句がある。「♪例えひと汽車遅れてもすぐに別れは来るものを、わざと遅らす時計の針は、女心の悲しさよ」星野哲郎作詞、船村徹作曲のこの歌のこのフレーズが好きで、私は湯舟につかりながらよく高吟する。女のこの短絡的思考の具現が、私のような単純な男の胸を揺さぶるのである。

 落語の枕の中に、私が特に好む小噺がある。「もう金輪際アンタには愛想が尽きた。出て行くから、(アンタが着ている)私の襦袢を返しとくれよ!」「何を言いやがる。オメエだって、俺のモモヒキはいてるじゃねえか。」もうひとつ、「ハルや、お前の気持ちは判るが、勝手に家を飛び出して来でいきなり"別れたい"だなんて…。そう短気を起こさずに、もう一度夫婦で話し合ったらどうだ。第一お前の手の中にあるのは何だい? それ往復切符じゃあないのかい?」

 やはり「女の論理」があるから、この世は潤っているのである。

 

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ツベルクリン反応二段階試験の経験

産業医 西村義孝・衛生管理者 阿部雅典・院長 田宮 崇(長岡西病院)

 結核集団感染防止の一環として当病院職員にツベルクリン反応(以下ツ反)二段階試験を実施した。充分な検討は終わっていないが実施して良かったという印象を受けた。この事についての詳細は病院内の検討会に発表したが、われわれが実施前に行った自問自答に結果を加えてQ&A形式でその概略を述べさせていただく。

Q.ツ反二段階試験とは?

A.通常のツ反を第一次試験とし、実施のおおむね2週間後に第二次試験として再びツ反を行うものである。

Q.目的は?

A.1回のみのツ反実施(第一次試験にあたる)では過去のBCG接種、結核菌感染または非結核性好酸菌感染に対するツベルクリンの減弱した反応をとらえているので、第二次試験によって第一次試験の実施で元の強さに戻った反応(これをブースター効果と呼んでいる)をとらえようとするものである。

Q.利点は?

A.医療職員が結核感染の疑いでツ反を実施して前回より大きな反応が出たとき、二段階試験を実施してあれば本当の感染かブースター効果によるものなのかを迷うことはない。この判定のベースとなる反応値(発赤経)が二段階法で得られる。BCG接種が行われていない米国でも医療機関の職員の採用時には二段階法でのツ反実施が勧められている(判定法は異なる)。また感染を特に注意すべきツ反陰性者を正確に把握できる。

Q.ツ反の実施方法は?

A.日本結核病学会のガイドラインに従った。接種法は結核予防協会のガイドブックに、判定法は結核予防法施行規則第2条によった。第一次試験で強陽性となったものはそこで終了とし、それ以外の全員に第、一次試験を行った。

Q.西病院の実施状況は?

A.平成11年7月に実施した。目的は陰性者の正確な把握と、ツ反値のベースラインの把握とした。まずツ反・BCG歴、ツ反実施同意を把握するためのアンケート調査を行った。今回の実施では自然陽転の明らかなものには辞退を認めその調脊も行った。

Q.結果は?

A.第一次試験受験者は、234人。判定内容は強陽性12%、陽性30%、弱陽性39%、陰性19%。第二次試験は上記強陽性の除外と脱落者による、186人に実施。判定内容は強陽性34%、陽性25%、弱陽性30%、陰性11%。第二次試験で判定が上がったもの59%、下がったもの7%、変化の無かったもの34%であった。ツ反二段階試験としての最終判定は職員全体について強陽性42%、陽性22%、弱陽性26%、陰性10%となった。

Q.評価は?

A.良かったと思う。二段階試験でツ反陰性者は19%から10%に減少した。1回のみの実施であれば約2倍の人数を結核感染の要注意者とみなすことになる。また第一次試験の強陽性者を除いた第二次試験から新たに34%の強陽性者を数えた。これらのものは二段階試験でツ反値のベースラインを把握しておかなければ、感染調査のツ反検査では強陽性反応ゆえに結核感染被疑者となる。

Q.過去のBCG接種との関係は?

A.BCG歴に関するアンケート調査では接種有り61%、無し8%、不明31%であった。このことから正確な分析は難しいと思う(年齢別の検討も困難)。傾向として第二次試験で判定の上がったものはBCG歴有りに多かったが、無し、不明にもみられた。このことからツ反の実施、判定にあたってはBCG接種歴の有無にかかわらず、すべてのものにブースター効果についての考慮を払うべきと思われる。

 おわりに結論的なことを簡単に書かせて頂く。

(1)今回の経験から医療職員のツ反については二段階試験が望ましく、新職員雇い入れ時にも同様と考える。

(2)アンケート調査の結果から職員のBCG歴並びに結核に対する関心の薄さが知られ、BCG歴がらみのツ反実施計画は困難と感じた。

 今回の検査の事後処置ともいえることをつけ加えると、並行して実施した胸部X線検査ではツ反強陽性者を含めて全員に異常者はなかった。またツ反陰性者には呼吸器科専門医と該当職員の協議でBCG接種を行った(いろいろと議論のあるところであるが)。

 筆を置くに当たり協力を頂いた当病院の保健衛生委員会および看護部の諸氏と、ご助言を頂いた長岡保健所長 上村桂先生に感謝いたします。

 

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バーチャル句会も楽し  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 このところ毎月二回の俳句の会合を楽しみにしている。まず前半にあるのは有季定型の「てくてく句会」である。有季定型とは、必ず季語を入れ五七五の角型が原則なんです。特に兼題(出題テーマ)はなくて、その季節の季題を自由に選んで作句する。後半のは、その名も「バーチャル句会」。こちらは毎月ふたつほど兼題が出される。

 いずれもEメールで自作の俳句を送信するしくみである。これらは自宅から参加できるインターネット上のまさにバーチャルな(仮想の)句会なのである。これが新聞や雑誌の俳句投稿と大きく異なる点がある。作者匿名のまま出揃った作品群を見て、同人がいっせいにそれらの作品の選評をして優秀句を選ぶEメールを送る、また同時に自作解説もできる。この点が実際の句会にとても近い。(もっとも俳句結社に入ってないので、ホントの句会なるものには出たことないんです、わたし。)

 そして特定日時場所にわざわざ句会に出向かなくてよい。また参加各自が俳号のみの付き合いなので、全然しがらみがない。ホントの句会よりこの点はむしろお気軽。もちろん作者に関していっさい情報がないから、俳句作品の鑑賞も純粋にそれ自体の短詩としての評価・勝負のみである。参加同人の俳句歴もたぶん千差万別。

 俳句歴といえばテレビの「俳句王国」などで、参加者の何某さんは俳句歴ウン十年なんて紹介がされる。俳句歴って、その起点はいつなのかしらん? うーん、わたしの俳句歴は数年か、はたまた35年かな?

 35年もまんざら真っ赤な嘘でもない。だってほら、みなさんもそうでしょ。小学校で芭蕉の「古池や…」などの例句を学習したあと、さあみんなも五七五で俳句を作ってみましょう、…なんてことがあったじゃないですか?

 でもふつうは「俳句をやる」ということは、書道、三味線、謡など他の伝統帥習い事みたいに、ある師匠に弟子入り、または目的を同じくする小集団、すなわち結社や講に加わることと考えられている。もちろん俳句の独学は実技がないから容易ではある。ただ出来た作品を他者に批評してもらう、その出来のよいときは誉めてもらえるといった評価や発表の機会がないのが難点である。新聞や雑誌の俳句欄へ投稿くらいだがどうしても一方通行ですよね。

 わたしも俳句結社参加の機会もなく、この「ぼん・じゅ〜る」の新春俳句や季節の挨拶のはがきなどに拙作の俳句を書き付けさせていただいていたくらいであった。

 しかるに数ヶ月前、インターネットを利用し始め、文化フォーラムのある@ニフティに入会した。このフォーラムというのはニフティという会場だけ借りて使用する会員自主運営のいわばサークル活動である。俳句フォーラムでは、選評もエールの交換に終わらず、常套的と批判が出たり、文法的な誤りの指摘などをしてくれるかたもある。だが結社の主宰にあたる権威者がいない。そこで民主的なのだが高得点を得た特選句が必ずしも秀句とは限らない。自分の俳句が不人気だとがっかりしては、「ほんとうは鑑賞眼のない連中なんじゃないか?」と疑心を抱く。自分の俳句がときに高得点を得ると、今度は「うーむ、我意を得たり。なかなか見識の高いメンバーじゃのう。」とはしゃぐ。まるで我ながら幼いこどものようですな。

 春燗慢心のどかに句会得つ