長岡市医師会たより No.242 2000.5

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もくじ
 表紙絵 「光のマリア」     福居 憲和(福居皮フ科医院)
 「開業して」          小林  司(こばやし眼科医院)
 「開業一年目の感想」      本田 雅浩(ほんだファミリークリニック)
 「開業一年を振り返って」    玉木満智雄(玉木整形外科クリニック)
 「長岡市医師会理事に就任して」 富所  隆(長岡中央綜合病院)
 「山と温泉47〜その25」     古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)  
 「林檎、愛の救出大作戦」    郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

光のマリア  福居憲和(福居皮フ科医院)
 十字架は、手を広げ、足を伸ばした人間の姿で、霊が物質の中に降りる事をあらわすといわれます。十字架は又、自然の二元性、対立物の結合で、調和のしるしともされます。

 たった2つの線で宇宙の根本原理をあらわしているのです。この簡単なしるしで、宇宙からのエネルギーが時間、空間、距離をこえてたえず与えられているともいわれます。

「天国は汝らの内にあり」とイエスはいいました。十字の交わる中心には、年令も時間も知らない永遠の若さの泉が存在します。「われは光なり」とイエスがたとえていますが、自分の中で輝いている光を外へ向けて放つ色彩や表現で、人生は染められていくのでしょう。

 「光のマリア」は、聖なるものへのあこがれの姿ですが、光とは生命であり、霊であり、因の意識すなわちキリスト意識、キリストの魂であり、良心でもあり、御心ともいえるのではないでしょうか。


開業して  小林  司(こばやし眼科医院)

 平成10年9月に眼科医院を開業してから、もう1年7か月も過ぎようとしています。長かったような気もしますが、実際にはあっという間に過ぎ去った1年7か月でした。この1年7か月を今、改めて振り返ってみると、開業前の自分の想像と実際の現実とのあまりの違いに対する驚きの連続であったという気がします。

 まず最初の驚きは、医院の建築中のことでした。一体どこで調べて情報を得たのか、ケーブルTVやハウスクリーニング、警備会社等々今まで全く知らなかったいろいろな業者の人が直接工事中の医院にやって来ました。開業を決める前にはこの様な事は全く予想もできなかった事なので、大変驚くと共にその営業熱心さに感心させられました。このおしかけ営業(?)でやって来た業者さんの中には、ぜひ契約を結びたかった業者さんも混じっていたので、自分で会社を探す手間がはぶけ、この点では助かったとも言えました。

 そして次に開院前に用意し提出しなくてはならない書類の多さに対しての驚きが続きました。開業前にすこしは勉強したつもりでしたから、提出すべき書類についてはある程度知っていたはずでしたが、いざ実際となると、保健所に提出するもの、県や市に提出するもの、医師会に提出するものなど数えきれない程で、おろおろするばかりでした。書類の準備のために保健所に行ったり、建設会社から書類を取り寄せたり、また職員から住民票を提出してもらったりとあちこちに手をつくさねばなりません。自分ではとうてい予定通りの開院に間に合いそうになく、一体どうなることかと心配しました、しかし、幸なことに市医師会の事務局の皆さんが一から十まで全て準備し、手続きまで面倒をみてくださったので、何とか予定通りの日に閉院することができ大変助かりました。(医師会事務局の皆さん、其の節はいろいろとお世話になりました。)

 そして開院の日に3番目の驚きにでくわしました。開業前からある程度開院祝いが届けられるだろうとは予想していましたが、これ程までに沢山のお花が届けられるとは思ってもみず、あまりのお花の多さに驚いてしまいました。以前からお付合いしていただいている方からのお祝いは予想できましたが、院長先生をはじめとする中央病院の皆さんや、製薬会社や医療器具会社など、私の思いもつかないいろいろな会社の方から沢山のお祝いのお花をいただきました。午前中に届けられたものは机の上などに飾っていましたが、次々に届くお花にすぐに机や棚の上には置ききれなくなり、部屋の隅の方から床の上に直接置かざるを得なくなりました。そして午後ともなると院内は机や棚の上から床までお花だらけで、植物園の温室状態となってしまいました。そのため職員ばかりではなく、患者さんまでもがお花をよけてあるかなくてはならない事となってしまいました。(この時初めてもっと広く医院を作っておくべきだったかなと感じました。)

 また院内だけでなく屋外にも生花の飾りが何個も届けられ大変に華やかでした。しかしこの生花が翌日には驚きの種となるとは、これまた予想もつきませんでした。開院は土曜日で、一日の診療をなんとか無事終えて自宅へ帰ろうとしたときには、まだきれいな生花節りのままでした。翌日は日曜日で休診でしたが、晴天で陽差しが強かったのでお花が萎れないようにと思い、昼前に水やりに出かけました。そうしたら医院に到着して生花の飾りを見て大変に驚きました。あれ程華やかだったお花はもうほとんどなく、わずかばかりのお花が残っていただけで水やりどころではありません。一体誰がお花を持ち去ってしまったのか、とても不思議でした。しかし物は考えよう、あまりに沢山のお花でどのように始末したものかと困っていたところでしたから、返って肋かったと、言えるかもしれません。

 開院後の毎日の診療は、開業前の予想通りで、患者さんの数も多くなく病院勤務時代の様に時間におわれる事もなく、一人一人の患者さんとゆっくり会話を楽しめました。しかし、患者さんの数が少なくのんびりとした診療とはいえ、自分で決めた診療時間のあいだは診療体制をとっていなければならず、朝から夕方まで拘束されるわけです。毎日毎日たいした仕事をするわけでもないのにいつの問にか疲労が蓄積してしまいました。のんびりとした仕事であっても、忙しい時とはまた違った感じでの疲労がたまるというのは想像もしなかったことで、とても驚いて(というより戸惑って)しまいました。最近はこののんびりとした仕事のペースにも慣れてきたようで、あまり疲労を感じなくなりました。これからも今まで通り一人一人の患者さんとしっかりコミュニケーションをとりながら診療し、地域の人たちのお役に立てればと思っています。

 最後にこれまで多くの患者さんを紹介して下さいました諸先生方、さらにまた、お忙しいにもかかわらず手のかかる患者さんを快く引き受けて下さった先生方、この場をお惜りして心からお礼申し上げます。今後も御迷惑をおかけする事があるかと思いますが、よろしくお願い申し上げます。

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開業一年目の感想  本田 雅浩(ほんだファミリークリニック)  

 平成11年4月、長岡市青葉台に開業しました。

 もともと家庭医療を指向し、プライマリケアや地域医療の中で研修や医療活動を行なってきた私としては、行き着くところに行き着いたなという思いの中での開業医一年目のスタートでした。実は、この時期に開業したのは、一年後の今年4月に介護保険がスタートするためでした。在宅医療を専門にしたクリニックにしたいと考えていた私としては介護保険施行の前に開業して、新しい制度を実感したいという思いでした。在宅医療専門のクリニックという考え方はいくつかの先例があったので初めは外来診療はもちろん診察室さえもない形態での開業のつもりでした。しかし、医療法では外来のない診療形態が認められていますが、医療保険ではこのスタイルの診療は認められておりません。つまり外来診療を行なわない場合は保険医療機関として認められないということなのです。結局保険で認められる最低限である週二日の午前外来を行なうことにしました。「外来はあくまで制度上仕方なくやるもので、ほとんど形だけ」とのつもりでスタートしました。しかしこの青葉台地区には医療機関が他にないという事情もあり、本来は週二日の半日だけの外来では責任のある医療機関とは言えない状態ですが、これからも在宅医療を主に行なうという方針を守るためにはこの形態をなんとか守っていかなければというジレンマを感じているところです。

 小さな小さなクリニックが出来上がりましたが、外来では当初考えていなかったような問題が次々におこり、頭をかかえています。狭さ故に起こる問題の中でもっとも深刻なのがプライバシーの問題。待合室と一体となったような診察室はアットホームな感じでかえって良いだろうと考えたいたのですがこれが大間違い。患者にとっては知られたくない診察室内での会話が筒抜けということが分かり、その後なんとか工夫し、音楽を流して会話が漏れないようにしたり、小声で話ししたり、いろいろとやってみましたが、全てうまくいきません。ほかにも検査や点滴を十分に行なう広さがないという問題。もちろんレントゲンや内視鏡・超音波検査など無くても、必要なときには検査可能な施設へ紹介するという診療形態でも十分可能と考えていますが、最近はレントゲン装置くらいは欲しいと考えたりします。

 さて、在宅医療ではそれまで勤務していた医療法人の御好意により在宅患者全員の診療を引き継ぐことができ、これ以上のないスタートをきることができました。また、在宅総合診療における24時間連携体制を引き続き市内の3人の先生方ととらせていただくことができたことも大変ありがたいことでした。在宅医療では患者は常に主治医から医療が提供できるように保障をする必要がありますが、24時間365日在宅患者に拘束されることは実際には困難なことで主治医にとってはかなり負担です。しかし、24時間連携をうまく利用すれば、この負担が軽減することがわかりました。不在時の対応を連携医に依頼することにより学会への出席や旅行などの予定をあらかじめたてることが可能です。また、不在でないのに患者からの連絡がとれないこともありえますが、この場合にも連携医に連絡がいくようになっていて安心です。連携医とはあらかじめ患者の状態や不在の予定を連絡しあっているので、急な用があっても留守をお願いすることができます。介護保険が始まって在宅で療養する患者がすべてかかりつけ医を持つことになり、医師の側からすると在宅患者を抱えることになり、在宅患者に対する時間的・精神的拘束はかなり大きくなりました。この負担を軽減してくれる24時間連携体制は在宅医療を行なう場合に患者の側にも医師の側にも大変有効な制度だと思います。

 最近は、脳卒中の後遺症など慢性疾患の安定期だけでなく癌のターミナルケアや在宅酸素や気管切開後などのかなり医療依存のある患者も多くなりました。これらの患者を責任持って診療するためには地域のなかでもっと連携を深めていく必要があると考えています。

 今後ともよろしくお願いします。

 

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開業一年を振り返って  玉木満智雄(玉木整形外科クリニック)

 平成11年5月14日に開業し慣れない日々に追われるうちにあっという間に一年が過ぎました。昭和56年に大学を卒業してより、勤務医として18年過ごしました。新潟大学および関連病院を経て、平成2年10月より厚生連長岡中央綜合病院に勤務しましたが、膝関節手術および関節鏡視下手術を専門として、外来では多数の症例を診察する機会に恵まれ、また多数の手術を担当させていただきました。これもひとえに市内や周辺の先生方よりご紹介または御支援いただいた賜物と感謝致しております。

 平成10年10月中句に開業の打診がありました。以前より開業志向でありましたし、場所が緑町1丁目で近くは商業地であるため人通りが多く、大通りに面していましたので、問もなく開業する決心をしました。ただ、今まで勤務していた病院とは橋を隔てて反対方面であり、あまり馴染みがあるとは言えず、心配がなかったわけではありません。設計士とお会いしたのは10月下旬でしたので開院まで6か月あまりの期間しかなく、3時間睡眠を3日ほど続けたこともありましたが、当初予定していた開院日より一週間遅れただけで5月14日に開院することができました。開院当日は思いの外、多数の方々に来院していただき、今まで病院で診療を続け経過のわかる人ではレントゲン撮影をはぶいたりしたにもかかわらず、昼は一缶のソフトドリンクを飲んだだけで食事にありつけず、夜の8時近くまで診療が続きました。レントゲン撮影など慣れていないこともありましたが、この一年間で一番多忙な日であったと忠います。これに懲りて、その翌々週の月曜日より、レントゲン技師の寺井さんに御無理を言って週一回来ていただけることになりました。寺井さんは長岡赤十字病院を退職された後、長岡西病院に6年間勤務されブランクが一年間ありました。登山などの趣味があり、また二人の息子さん夫婦が帰省された時には連日お酒を酌み交わすなど隠居生活を楽しまれ、何もあわただしい世界に逆戻りはしたくないようでしたが、お願いして助けていただくことになりました。大学時代のアルバイトで某病院に当直した時にレントゲンを撮影することはありましたが、撮影時の体位や入射角度について詳しく勉強したことはありませんでしたので、寺井さんに来ていただいて、よりスムースに憶えることができたと思いますし、また膝や腰椎や肩を撮影する時の小枕の使用など教科書には書かれていない具体的な撮影方法を体感することができました。月曜日は比較的新患が多く、レントゲンをとる機会が多いので現在でも非常に助かっています。最近では、科が異なる複数の医院が集まって開業する場合が多く見受けられますが、当院もこのケースで、緑町メディカルタウンという名称がついています。私が開院した3週間後の6月4日に、内科の高木正人先生が開院されました。時々、紹介をいただきますし、私も専門外でわからないことがあれば相談をしたり、紹介をさせていただいております。

 この一年間で手術件数は53件でした。手術は月曜、水曜、金曜と決めており、多い時には週に3件ありますが、冬期間には少なく、平均しますと週1件でした。入院設備はなく、したがって麻酔は局所麻酔または神経ブロックとなり、比較的簡単な手術しかできませんが、単調な開業医生活の中、手術は気分転換となることがあります。勤務医の時には、びっしょり汗をかくような手術も多くありましたが、今ではそのようなこともなく、また病院では外来、病棟、オペ室などの移動のために知らず識らずかなり歩くことになりましたが、開業した今では歩く距離が限られています。また開業してから昼休みが長いものですから、昼食後に昼寝の習慣がついてしまいました。このため、さらに体重が増加しました。着やせするようであまり太って見られなかったのですが、ズボンの腰まわりが80cm後半から90cm前半となり、開業した現在では健康第一ですので、今年一月にはダイエットのためにトレーニング用の自転車を買いましたが、一週間でドロップアウトしてしまいました。今後とも御指導、御鞭撻の程よろしくお願い致します。

 

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長岡市医師会理事に就任して  富所  隆(長岡中央綜合病院)

 この度、初めて長岡市医師会理事を務めさせていただくことになりました。医師会活動には勤務医委員会や病診連携委員会などで時々参加させていただき、どんなものか解っているような気がしておりましたが、先日初めて理事会に出席し、あまりにたくさんの業務・委員会があることを目の当たりにして驚いている次第です。ともあれ、2年間精一杯がんばるつもりでおります。

 さて、内容は問わぬので好きなことを書けとのお達しですが、小生、"真夜中の…"シリーズで一世を風靡した岸先生や"犬だって…"で始まる郡司先生のような文才はなく随想を不得意としておりますので、今回は簡単な自己紹介をさせていただきます。

 早いもので、長岡に来て20年が経ちました。県立がんセンターでの研修の後、当院に赴任して消化器内科を務めています。初めは3年間のつもりでお世話になったのですが、仕事がおもしろかったのと、いい先輩に囲まれて居心地が良かったこともあり、ついつい居座ってしまいました。決定的だったのは長岡で嫁さんをもらってしまったことで、もはや逃れられなくなってしまいました。忘れられないのは、見合いのための写真に適当なのが見つからず、当時同じ回診チームだった石川紀一郎先生、鈴木丈吉先生ら5人で小料理屋の座敷で並んで写った写真を渡してしまったことです。独身者は小生のみで、すぐ解ってくれるものと信じていましたが、嫁さんは見合いの当日まで5人のうち誰が相手なのか迷っていたそうで、いろいろと思いを馳せていたそうです。

 それやこれやでいろんな先生にお世話になり、20年が経ちました。これからもよろしくお願いいたします。

 

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山と温泉 47 〜その25  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

付記

イ:小松原湿原

 苗場山の火口を取り巻く頂稜から山麓に拡がる傾斜台地の至るところに湿原、風穴が観られる。前述の三ヶ所の湿原は、なかでも大きく、周辺に人の居住の形跡があると言う。この湿原一帯は、北向きの傾斜台地にあり、地籍は中里村に属し、小松原と言う地名になっている。小松原は、小松内大臣平重盛(小松公則)の事、即ち「小松内大臣が住んだ原」からこの地名となり、又、上屋敷・中屋敷・下屋敷の地名は、平重盛の一族郎党の住居があった事からこの名が付いていると言う。あくまでも伝説であり中里村に残る「平家の落人」伝説の一部である。平重盛は、父平清盛とは意見が合わず、一族郎党を供にこの地に隠遁したとされている。この伝説について、中村謙氏の「上越の山と渓」(昭和10年刊行)に前記の伝説と、次のような話を書いている。「…それにしても現在中屋敷付近を掘ると瓦が出るので、たとひ重盛でなくとも誰か相当な落人がこの地に居を卜していたことだけは確実のようである。雲尾東岳氏は雁ヶ峰(1994米)の西方を搦むとき路傍に発見する凹地は自然のものとしてはあまりにもよく出来過ぎているから、或いはその、時の掘割りではなかろうかと、云って居られるが、そんなことを一纏めにしてこの辺の歴史を研究したらさぞ興味深いものがあるであろう。…」瓦が出たというのは事実、しかし掘割りの話は事実かどうかははっきりしない。雁ヶ峠付近は、人が隠れ住むのには少し標高が高過ぎはしまいかと思います。藤島玄氏は「越後の山旅」で次のように書いている。「…中ノ屋敷、上ノ屋敷、又は中ノ城、上ノ城と地元人は平家の落人伝説と締びつけ、小松内大、庄重盛だから小松原、その屋敷跡、城跡だと固執するが、中ノ芝、止ノ芝などと同じく中ノ田代、ヒノ田代で、田代の上略だ」。では田代とは何だろう。タシロは、田をこしらえた所・新田、山の小平地を指すと言う。小林存氏は「県内地名新考」に、「上古田地の広狭を度るに「しろ」という言を用いて代の字を填てたりと日本円刺史にあり、つまり「しろ」(代)とはもともと大尺(高麗尺)の方六尺を一歩とし、その五歩の地積であったのだが今は「しろ」掻くなどと称し、単に土地の一区割の義にいう…」と言っている。現在この一帯に遺跡が多く見られるところから、満更、伝説だけではないのでしょうか。

ロ:谷上(グリーンピア津南)・小松原道

 中里村田沢から国道117号線清津大橋を渡り直進すると、間もなく津南町に人る。広い国道は走りやすい。左・東側には高原台地が拡がる。グリーンピア津南の看板が至る所にあり左折するのに迷うことはない。車で約20分、鉄筋8階建てのホテルに着く。年金福祉事業団が昭和60年12月完成オープンしたグリーンピア津南。事業団が全国各地にレクリエーション施設として大規模年金保養基地を建設、その6番目の基地と言う。しかし、経済の変化で、3年前閉鎖となるところ、経営主体が代わり、事業はそのまま続けられています。路は、ホテル駐車場北側を抜ける。「大場方面」の標示板の指示に従って雑木林の中の仮舗装道路を5分位下ると、急カーブ左折となる。此処で右折する狭い路が南に向い雑木林の中に延びている。この路が小松原原への林道。注意しないと通り過ぎる。左・大場、右・小松原。これから先は前項の、大場・小松原道になります。

 JR飯山線では、「えちごしかわたり」、又は「つなん」下車になります。、「えちごしかわたり」駅前は「鹿渡温泉」鹿渡館がぽつんとあり、人影はありません、「つなん」で下車、「グリーンピア津南」専用バスを頼むか、タクシー利用しかありません。JR上越線・新幹線「越後湯沢」駅からは、「グリーンピア津南」宿泊物専用送迎バスが出ています。時間はホテルに問い合わせてください。

 谷上(664米)は、昔から集落の無かった処で、苗場山北斜面に拡がる広大な原生林であったようです。戦後、入植者により開拓されたのですが、いずれも成功せず山を下りた経緯があります。その後津南町、中里村で苗場山北斜面山麓一帯の農地開発が行なわれ、到るところ、農免道路が走り、潅概用のダム、溜池が造られました。旧くからある集落は、津南町よりこの谷上に到る路のほぼ真ん中込りにある中深見村「源内山」で、伝説によれば、隣接する「堂平」集落を含めて、この地方一帯の商業、農業の中心地として栄えた処であったと言う。戸数にして数百戸を数え、殷賑を極めたと言うが、その事を記録した古文書は現存しない。

ハ:太田新田(見玉)・小松原道

 この辺りからの小松原湿原への登路は、殆とが廃道、又廃道寸前です。唯一、登路が確実で、最短距離の「見玉風穴-小松原中の代」道しかないようです。

 太田新田から小松原湿原への林道のほぼ中間に観られる滝「黒滝」迄説明します。

 車で中里村田沢から津南町に入ると、国道117号線が広くなる。しかし、津南町の中心街では狭くなり、信号機が幾つもあるため単は渋滞します。国道117号線を直進、先ず、右に津南病院、更に直進し、右にJR津南駅への道を分け、中津川橋近くで、「秋山郷方面」の標示に従って左折、国道405号線に入り、中津川右岸を南に向う。太田新田・見玉へは、津南町中心部を抜けて、見事な中津川右岸河岸段丘上の国道405号線に行く。この辺りの中津川は、深く抉れ、広い石の河原となっています。JR利用の場合は、飯山線「つなん」駅(旧名 大割野)下車。駅から越後交通津南営業所、南越後観光バス営業所迄約3粁、歩行30分、此処から秋山郷・前倉・大赤沢・小赤沢・和山行が出ている。(現在、切明行のバスはない)。上越線在来線、新幹線利用の場合は、「越後湯沢」駅下車、駅前より津南経由飯山線森宮野原駅行があり、津南営業所前に停車する。又、長岡駅大手口から津南行が出ている。いずれにしても、バス営業所に確認してください。バス営業所は、国道117号線左側、中津川橋の少し手前(町中心部寄り)にあります。

 国道405号線は次第に狭くなり中津川の断崖上を走ります。左側は谷上の高い高原台地、右側、対岸は標高500米の沖の原台地、刃物で削ぎ落したような絶壁が上流に向い屏風となり並び立つ。壮観である。この沖の原台地に、見渡すかぎりの向日葵畑があります。ひまわり団地だそうです。何故「ひまわり」を…。答えは簡単、「連作を嫌う、連作の出来ない作物の畑が空いて仕舞いますので、肥料の要らないひまわりの種を播き、放っておけばこんなになる。油を採る? 金がかかる事はしない。ひまわりの茎は裁断して飼料や肥料になる。花は観光。実はお菓子。どんどん買って下さい。」儲かりますねー。

 路は反里□を過ぎると笹葉峰963米の北斜面を上る。ジグザグを4・5回繰り返すと、水田に家の点在する小集落に出る。この集落が「太田新田」(標高550米)。国道を離れ左の狭い道に入る。そのまま集落の軒先を掠めて集落を抜ける。前方は笹葉峰からの急斜面台地が迫る。屋根に傾いた十字架の載っている壊れかけた小屋の前を右折、車一台やっと通れる狭い路が山の中腹を南に向って延びている。地図上の標高587米の先に小沢が大量の水を溢れさせている。此処で通行止めとなった太田新田林道は「太田新田より小松原湿原の下の代まで約10粁、標高706米」(越後の山旅)であったのだが、古い登山道は廃道になってしまった。この林道を辿ればそのまま黒滝橋には行き着く。この橋の下流、トムロ沢・イモリ沢合流点下に二段の黒滝があり、一見の価値がある。この林道をこのまま辿れば下の代に行き着く筈であるが、登路は確認出来なかった。登路については、黒滝までは入れますが、一部廃道となっているようですので、太田新田集落の住人に確かめるしかないようです。

ニ:見玉(風穴)・金城山・小松原道

 太田新田より南、国道405号線を更に進み、一粁で通称「見玉不動尊」があります。見玉集落の中央にある「見玉山正宝院」で、眼病に霊験あらたかな不動尊。ここ見玉集落の地籍は、中魚沼郡津南町秋成字見玉、通称「越後秋山郷」の入口になります。「秋成」には、反里口・本村・太田新田・清水原の各集落が入ります。通称「越後秋山郷」は津南町大字秋成・穴藤・結東・大赤沢。大赤沢より南は通称「信州秋山郷」、地籍は、長野県下水内郡栄村で、各集落は、大字屋敷・小赤沢・上ノ原・和山を言います。栄村役場は大字堺で、県境の千曲川が信濃川に変わる国道117号線宮野原橋を渡った西側にあります。広大な村です。見玉集落を過ぎると、間もなく、右の道路下に発電所が見える。断崖の壁と断崖上の台地からの導水管は壮観。ここから道幅は極端に狭くなる。国道で車の通行量が多いのですが、断崖を削って出来た道は、致しかた無いのでしょう。上から落石、下は30米の断崖、怖い道、注意しましょう。秋山郷の入口が、盛大に拓いたのはこの発電所(中津川第一発電所)工事で、大正9年着工し大正13年完成、以後人々の出入が盛んになったと言います。3000人の労働者が飯場に住み、飯場の一角には芸者屋、女郎屋もあったそうです。断崖の国道は逆巻温泉に渡る猿飛橋を過ぎ清水川原迄続く。清水川原集落入口で漸く中津川の河原に下り、道は広く断崖が無くなる。此処で国道は分岐する。右は国道、間もなく中津川を清水川原橋で左岸に渡る。左は、一年前完成した新しい東秋山林道で、急坂を金城山(1330米)の中腹に向かい登る。

ジグザグの急坂が終わり、平坦になると見合の集落、道は舗装され広い。先にトンネル。見倉トンネルは異様な程近代的。手前側に、亭と、40〜50台は収容出来る駐車場、「見合の風穴」パーキング。「風穴」は火山性山岳地帯では何処にでも在るのですが、この風穴は草付きの斜面に無数の小さい穴が開いて、夏には、冷たい空気が吹き出し、辺りを霧で包みます。穴の大きさは、指頭大から手拳大が多く、なかには、幅10センチ、長さ30センチの隙間のような穴もある。他所で観られるような洞窟の穴のようではない。ビルの谷間の道路の端で眼にするビル地下室の空気孔を想像してください。場所は、駐車場から山側に少し登り、左・見倉(旧道)、右・小松原の導標に従い右に人り「風穴」と書いた円柱から左の草付きの崖を5米ばかり攀じ登ると平らに出ます。駐車場より5分。夏は人然の冷房機です。小松原へは、風穴の円柱指導標を過ぎると急坂、急登が始まります。

ホ:逆巻温泉・金城山・小松原道

 逆巻温泉からは、猿飛橋を渡って同道に出て、そのまま清水川原から東秋山林道に人り、急坂の途中から山側に人る。この登路は、中ノ峰の肩から金城山の頂上に達する。この登路は、風穴からの登路のように急登ではない。やや緩斜面、しかし標高差は700米です。風穴からの登路は標高差600米です。この登路は、アルパインガイド50年版「谷川岳・越後三山」に「金城山頂上の指導標は右逆巻、左見倉としるしてあるが、逆巻への下りはヤブがひどく…」更に道不明確、と記載されてある。昨年の登高時にはこの指導標は見られなかった。廃道になったのでしょう。北越雪譜の「秋山記行」(鈴木牧之全集・中央公論付)を見ると、当時のこの寺の景観が画れています。鈴木牧之は、文政11年(1828)9月8日朝、塩沢を出立、十二峠を越え、小出村(現在の清津川温泉人口)で昼食、荒沢峠・田代・所平・源内山・秋成から見玉に人り「黄昏の頃修験正法院に宿を乞う」と書いている。驚くべき脚の速さではある。記には、更に見玉村正法院.不動堂境内図を載せている。現在の正宝院不動堂と余り変わりはない。(つづく)

 

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林檎、愛の救出大作戦  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 春から初夏へとまた季節は巡り、よい気候ですね。「五月晴れ」とは本来は「梅雨晴れ」と同じく、旧暦の五月、現在の六月の梅雨時の雨の合間の晴れをさす表現なんだそうですね。ご存知でしたか? わたしはごく最近雑誌記事で読んで驚いたしだいです。すでに一般化した五月のさわやかな晴天を形容する誤用がこのまま定着していくと思われますね。

 さてその五月晴れのさわやかな空のもとで、我が家の庭も花盛り。

 日頃注意力・観察力がないと家人に認定されているわたしだが、たまには家人より先に庭先の自然の変化に気づくこともある。

「林檎の木、ずいぶんたくさん蕾が色づき始めたね。」

「えつ、気がつかなかったわ。…あら、ほんとね。今年はひさしぶりにいっぱい花が咲きそうね。」

 林檎の花は開花すると白いが、蕾は微妙な明るい赤が実に美しい。数年ぶりに地植えの青林檎の木にたくさん花がついたことが、わたしにはうれしかった。

 えっ、庭に林檎の木があるのかですって?

 林檎くらいで驚くなかれ、…梨、柿、桃、山桃、サクランボ、赤プラム、ソルダム、枇杷、無花果、洋胡桃、ブラックベリー、ラズベリー、ブルーベリー、…ああ列挙するだけで疲れてきた。この雑多な植物が庭のあちこちに育っている。自分で育てたものを賞味したいというわたしの願望のままに、ひたすら苗木を植えてきた結果である。

 その林檎の木といえば、数年前に苗木を園芸店から購入しわたしと家人で穴を堀り、植えたものである。品種は青林檎の王様である王琳。なんとその秋にはちゃんと数個の立派な実がとれた。ただしぷっつりと収穫は途絶え、わずかな花が咲くだけの年がその後は続いていたのであった。実のなるものは結構、隔年での結実ということもあるのでじっと待ったが、だめなようである。

 どうしてなんだろうか?と家人とふたりでない知恵を出し合うべく相談したのが去年のことである。

「うちの家風に合わないんじゃないのかしらね。」とあっさり家人。

…どんな家風じゃ?

「すぐ隣にある桜が元気過ぎて後から植えたから、根を張れないでいるのかな?」とわたし。

「ああ紅吉野桜ね。それに桜が数倍は枝ぶりが大きいから、上からの日当たりも悪くしているかもね。」

 よしそうかと合点したわたしは鋸と剪定バサミを両手に握り締め、踏み台に乗ったのであった。可愛い林檎の木の日照権を回復するために。林檎の木の上にせり出した桜の大枝を切りながら、頭に浮かんだのは…

「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」

うーむ、馬鹿でけっこう。キーコ、キーコ、パチ、パチ。

 さてさて、林檎の花が咲き、そしてほとんど散りかけたある日。

「きょうね、よく見たら受粉してめしべの元が膨らんでいるのがけっこうあったわ。」

「それはいいね。やっぱり日当たりを改善したのが良かったのかな。」

「秋にわたしが枝をバシバシと今までになく強く剪定したのが良かったんじゃないかしら。」

「えっ、そうだったのかあ。確かに新しい枝先に花芽がつく植物は多いから、それがよかったのかもね。」

林檎の木を救出し再び花開かせるふたりの作戦は成功した。ただその功名は家人に譲った感がある。

わたしは実成りをよくするという発酵牛糞堆肥を林檎の木の根もとにたっぷりと撒いたのであった。