長岡市医師会たより No.244 2000.7

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もくじ
 表紙絵 「川口にて」      丸岡  稔(丸岡医院)
 「野々村茂先生を偲ぶ」     渡辺 修作(渡辺医院)
 「野々村茂先生を偲んで」    斎藤  寛(耳鼻咽喉科斎藤医院)
 「北海道有珠山の救護活動」   三上  理(長岡赤十字病院)
 「ロータリークラブについて」  関根 光雄(関根整形外科医院) 
 「介護保険が始まって」     大貫 啓三(大貫内科医院)  
 「愛妻弁当」          郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

川口にて  丸岡 稔(丸岡医院)
野々村茂先生を偲ぶ  渡辺 修作(渡辺医院)

 野々村茂先生との初対面は、先生が新潟医大に入学されて、私の下宿の隣室の住人となられた時です。

 当時その下宿には、私の他に、旧制高校の山岳部員三人が住んでいました。戦争に行くまでに精一杯山に登りたいと云う若者達でした。

 先生の御尊父は、当時東京文理大の教授をしておられました。教育学者らしく威厳に充ちた紳士でした。

 初対面の自己紹介に「私はワルイ先輩で・・・」と申し上げました。

 御父上はそれをよく覚えて居られて、時折先生に「ワルイ先輩はどうしている」と尋ねられた由です。御父上とすれば、模範学生とは程遠い息手の隣人が気になって居られたのでしょうか。しかし茂青年は、梁山泊もどきの放埒ヴィルスに伝染するようなヤワな精神の持主で無かったことは追々判りました。

 先生が私の部屋を初めて訪れられた時、私の第一声は、「おい蹴躓くなよ」だったとか。

 部屋一杯に物騒な形の山の道具が散らばっていましたから。

 半年後の9月、私の卒業、海年入隊で一つ屋根の下の生活は終りました。

 運命の糸は数十年後再び二人を結びました。

 中央病院の医師仲間として、おつき合いが始まりました。

 入(いり)院長以下、気心の合ったスタッフが楽しく働きました。

 野々村先生の気品のある端正な風貌が、先帝陛下に似ているとのことで「テンチャン」と云うニックネームがつきました。

 酒は飲めない方でしたが、宴席では美しい歌声を披露されました。

 酒席での入(いり)先生のお好きなジョークは「俺、医者で食えなくなったら、テンチャンとトウチャン(窪田武久先生)を連れて巡業に出るよ」でした。

 昭和35年相前後して閉業し同じ北部班に属し、病院時代の延長のような気分で、快く働かせていただきました。

 爾来40年、長いようで短く或いはその正反対のような気もする淡々としたおつき合いでした。

 昨年秋、先生が日赤病院に入院中との報に、御見舞に参上致しました。

 先生の瞳は、秋の山上湖のように静まり、澄み渡り暖かい光に満ち溢れていました。

 先生は、「人生の総てを肯定し、満足している。心残りは一つもない」と無言で語りかけていらっしゃるように思えました。

 7月5日、山から帰って来たら、先生の訃報が待っていました。

 先生は飛天の如く、自在に虚空を飛翔出来る身になられました。

 長いつき合いなのに、なんのお役にも立てなかった「ワルイ先輩」をお赦し下さい。

   合掌

 

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野々村茂先生を偲んで  斎藤  寛(耳鼻咽喉科斎藤医院)  

 7月6日朝、ご子息からのお電話で先生の御許報を知らされました。最近、お体の具合がお悪いとは聞いておりましたが、そんなに重くおいでとは思いもかけませんでした。

 先日は込田先生をお送りしたばかりなのに、又の御許報に私は、父を続けて失ったような悲しみと淋しさに暮れました。何時も、何事にも相談をし、又ご教示を頂いた大先輩を次々に失い、今の私は誰か救って下さいと叫びたい気持ちです。先生との思いでは、あまりにも多く語り尽くせませんが、その少しばかりを思いつくままに書いてみました。

 先生とは年代の違いもあり、耳鼻科教室では御一緒になれませんでした。私が父の後を嗣いで長岡に帰った時先生はすでに長岡で開業され多忙を極めておられました。

 それから40数年の長い間、良き先輩として、よく遊び、よく学び何時も私達を支えて下さいました、故小渕前首相が気配りの人とか言われておりますが、先生は私達後輩にも本当に優しく、気配りに終始され、私たちを引き立てて下さいました。

 私にゴルフを始めなさい、と熱心に誘って下さったのは、先生と故柴木先生でした。そして、私が初めて長岡カントリーに立った時、付き合って頂いたメンバーは先生と故柴木先生、故林先生の4人でした。私は後ろにこそ進まなかったものの悪戦苦闘の連続でした。先生はゴルフは楽しければいいんですよ、スコアなんか問題じゃないですよ、そこは球を拾って歩きましょうや、と言って頂きました。それでも、他の人々には随分ご迷惑をおかけしてしまいました。後続の方々に、お先にどうぞを繰り返しているうちに、途中で蛍の光りとなってしまいました。先生の気配りに救けられながら、私のゴルフ始めは、先生とご一緒の片くも嘆かしい思い出となってしまいました。その時、ご一緒の先生方もすべて故人となってしまわれました。

 先生は、お酒は全くといっていいほどお飲みになりませんでした。しかし、お飲みにならないにもかかわらず、私達の会ではウーロン茶を飲みながらも、二次会、三次会とその時の雰囲気に溶けこまれて、嬉しそうに笑顔を絶やさずにお付き合いして頂きました。私など、とうてい真似のできることでは有りません。しかし、先生は懸命に努力されていたのかも知れません。今になって本当に申し訳なく思っております。

 又、先生は長国耳鼻科会随一の美声で、数々のカラオケを聞かせて頂きました。私たち昭和一桁の老人の唄といえば昔の演歌と相場が決まっておりますが、先生はかなり新しい歌をご存じでした。先生に何処で最近の歌を覚えられますか、CDですかテレビですかとお聞きしましたが、笑ってお答え頂けませんでした。今でも謎のままになっております。このことからも、先生はたえず新しいものに向かって進まれるお気持ちをもっておられたと敬服しております。

 先生はある時期、体順が80キロほどになられたことがありました。その減量の苦労話を、冗談をまじえて、空腹の苦しさを私に面白そうに話して下さいました。そんなユーモアもおもちでした。

 ある日、先生が突然、私は今度隠居することにしたよ。隠居といったら一切何もしないんだよ、耳鼻科も辞めるよ、と言い出されました。私がまだ早いですよと申し上げると、ご子息に全てまかしたからね、と笑っておられました。でも、長岡の耳鼻科会、中越耳鼻科懇話会には出ていただけるのでしょうね、と申し上げると、それだけは是非とも顔はだしますよ、と言って戴きました。

 しばらくして、先生にお会いした時、一枚の名刺を下さいました、、そこには、三島病院の片書きがはいっておりました。先生に耳鼻科をおやりですかとお聞きしますと、いいやね、年寄の話し相手さ、私には丁度いい仕事だし、私のために自動車の運転手も雇ってくれたし、と嬉しそうに話しておられたのが、昨日の事のように思い出されます。

 今、先生を偲びながら書いておりますと、あいつ、詩まらぬことを書きおって、とお叱りを受けるかもしれませんが、お許し下さると思います。

 心から先生の御冥福をお祈り申し上げます。

 

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北海道有珠山の救護活動  三上  理(長岡赤十字病院)

 平成12年3月末から続いた北海道有珠山周辺の火山性地震はその後、3月31日に噴火。それと同時に日本赤十字社の災害対策本部が設置され、翌4月1日13時には、伊達赤十字病院に現地災害対策本部が設置された。以後、4日間ずつの交代で、第1ブロックから順に救護班が派遣され、伊達市内と長万部地域の避難所を対象とした、巡回診療が開始された。我々新潟県支部もその活動に参加することになり、救護班が派遣されることとなった。

 という話を聞いたのが、4月20日木曜日であったと思う。

 今まで、こういった活動とはまったく無縁であったため、即答はできなかったが、非常に興味のある話で、翌日に参加の意思を伝え、その間の入院患者、外来、検査など、佐藤部長以下、小浦方先生、田辺先生にお願いし、参加させてもらうこととなった。しかし、考えてみれば、救護訓練も出たことがなく、いきなり実践というのは無茶といえば無茶である。現地からいろいろと情報をいただき、現在は身体的な問題より、精神的な問題が重要であることが強調され、内科医として何ができるだろうか。出発までに1週間程度あり、こんなことを考えながら、非常に緊張した毎日を過した。

 4月22日はじめて班全員で顔を合わせ、後は出発を待つだけとなった。班員は私以下、山崎婦長、看護婦の小林明子さん、渡辺干佳手さん、主事として病歴の渡辺久男さん、調度の笹岡光央さんの計6人である。いずれもベテランの方で、救護活動の経験者もおり、何とかなりそうである。

 4月25日16時より病院の壮行会の席で、会場の方々から、温かい視線をいただき、がんばらねばと、決意も新たにした。この日は偶然、内科の歓送迎会があり、そこでも皆さんからの激励を受けた。さすがに翌日発であり、深酒は避けた。

 4月26日水曜日、長岡はいい天気である。7時過ぎに救急車駐車場前集合。6名ともさすがに緊張した表情で記念撮影をし、皆様に見送られて、救急車に乗り込む。7時20分出発。

 高速を降り、9時新潟支部到着。車を乗り換えて、9時15分新潟空港到着。車を降りるとすぐさまテレビ局のカメラが我々を追った。空港内で出発までの時間を使い、県内のテレビ局4社からインタビューを受ける。この模様はご覧になつた方も大勢いらっしゃると思うが、出発前のこういう場は非常に緊張する。後日談だが、長岡に戻ってからビデオを見るとさすがにうまく編集してあった。

 10時30分全日空435便で一路、札幌新千歳空港へ。11時30分新千歳空港到着。

 快速、臨時特急、2面編成の各駅停車を乗り継ぎ、有珠山の麓、伊達市に15時30分到着。この日は新潟と同じくらい暖かく、白い噴煙を上げる有珠山がくっきりと見えた。

 伊達赤十字病院にある対策木部で着任の挨拶をし、さっそく前任の神奈川県支部横浜赤十字病院と引き継ぎを行った。身体的には、不眠、肩こり、腰痛、感冒とほぼ予想された病名が並ぶ。しかし、本当の心の問題は話だけでは伝わらない。現地の状況、訪問診療の問題点、薬品の点検をし、16時30分、最初の訪問で武道館に向かう。伊達市の町並みは、何もなかったかのように平穏である。

 我々の活動の概略は、現在、虻田町の人々が主に避難している、伊達市内の避難所3か所を、巡回診療することである。心のケアは専門の医師が、各避難所を巡回している。そして、伊達赤十字病院では、「心のケアセンター」を設立し、避難されている方の窓口となっている。この点については、われわれはセンターの医師との橋渡し役となることである。

 3か所の避難所は1番規模の人きいカルチャーセンターが4月27日現在588人、ついで武道館が4月28日現在164人、最も狭い未来館が4月27日現在96入の方が避難していた。畳一帖が避難民一人に与えられたスペースで、ついたても用意されず寝食を常んでいる。トイレの絶対数も少ない。3か所とも男性女性とも、トイレは1か所ずつしかない。食事は配給されているが、一律同じ食事で、お年寄りの方にとっては堅かったり、塩分が多かったりで、さらに、現在、仕事に出ている人も多くなり、食事時間(だいたい夕方は5時から6時頃)に間に合うう人は少なく、電子レンジなどもなく、帰ってからでは冷たい食事となる。このような状態であり、便秘、腰痛などは起きてしかるべき問題であろう。また、ついたてもない中での睡眠は浅くなって当然である。もちろんこんな生活の中にいる人々は、自分では感じていなくても、大きなストレスとなるであろう。

 これはある程度予想はついた。実際、目の当たりにして、誰もがそう感じるであろうし、避難している当事者も感じているであろう。

 毎日、朝、夕にミーティングを行い、さらに実際に活動し、今まであまり考えなかった問題もたくさんあることに気がついた。

 診療所にこられる方は多くの精神的な問題を抱えている。そのために身体的な不調を訴えられる。しかし、診療所に、自主的にこられない人々がいる、ということである。診療所に来られた方は、何回か来るうちに、我々といろいろ、話をするようになる。今の自宅の様子、仕事のこと、将来の不安など。私も専門家ではないので、こういった会話が、本人の精神的な問題の解決にどれだけ影響するかは不明だが、それでも心の安定に、少しは役に立つであろう。ところが、避難されている方の中には、精神的な問題を抱えていると思われるが、自主的に来所されない方がいるのも事実である。避難所では、道内の保健士が各家庭を訪問し、健康相談や血圧測定を行い、そういった方々について、我々とミーティングを行い、受診を勧めている。また、我々も、婦長が実際に各家庭を訪問し、促して、ようやく来られた、糖尿病とC型肝炎の患者さんがいた。しかし、こういったやり方も、プライバシーの問題があり、慎重な対応が必要と思われた。ついたてもない、畳、数畳が彼らにとっての、現在の自宅であり、そこに遠慮なしに入り込むというのはやはり問題であろう。この辺は我々の活動の限界、といったところであろうか。

 問題点は、さらに、避難所にいる人たちは、避難地域からの避難民だけではない、ということである。つまり、避難所の管理にあたっている自治体の職員がいる。彼らは、避難民であると同時に、24時間体制で避難所を任されている管理者でもある。各避難所にはこういった方が、数名で任務にあたり、ある避難所では、たった2名で行っているところもある。避難されている方々の健康管理と同様に、彼らの健康管理も今後ますます重要となってくるであろう。我々の活動の範囲とプライバシーの微妙な関係、避難所の管理者を含めた健康管理。これらは今後の救護活動でも問題となるであろう。

 4月26日午後から4月29日午前まで、武道館24名、カルチャーセンター42名、未来館24名、合計90名が巡回診療を訪れた。

 カルチャーセンターでは、腰痛、発熱など、さまざまな薬をもらったが、かえって食べられなくなったと、食欲不振の一人暮らしのおばあちゃんがやってこられた。解熱鎮痛剤の影響と思われたので、思いきって全部薬を止めてみましょうと、お話し、翌日には、うれしそうな声で、「少しずつ食べれらるようになった」といって、顔を見せてくれた。そして、我々もあと1日しかいないとわかると、最終日には髪をセットして来てくれた。そのときの笑顔は、この活動のひとつの結果と思っている。

 また、入浴に行った伊達温泉で、「おれ、早く帰りたい」と知り合いに話をしている声を聞き、診療所では聞くことのなかなかできない、これが被災者の本音であると、実感した。

 出発前の新潟空港でテレビ局のインタビューに答えたとき、1人でも、2人でもいいから、心の安定にお役に立てればと、抱負を語った。はたして、それができたのであろうか。その答えは、私にはわからない。(蒼柴再掲)

 

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ロータリークラブについて  関根 光雄(関根整形外科医院)

 6月21日の新潟日報朝刊に長岡ロータリークラブ(以下R・Cと略)が長岡市へ介護用品を寄贈した記事がのったところ、早速編集委員の田辺先生よりそれについて一言書くようお求めがあったので筆を執った次第である。

 私が元会長の故工藤先生の強いてのおすすめで(入ってみて分ったことであるが、会員を増やすということが重要なクラブの目標の一つであった)R・Cに入会させられたのは1979年の秋であった。

 入会時は当医師会のメンバーも多く、工藤先生の他に谷口先生、日赤の故足立院長、中央病院の亀山院長、当時R・C会長でいられた故櫛谷先生、外科の故田中誠先生という顔ぶれであった。現在は谷口・亀山両先生と吉田病院の山川院長それに私の4名である。

 R・Cの内容に就ては御存じの方も多いと思うが、会費を出し合ってその一部を米国にある本部に集め、それをもとに諸種慈書事業を行うことが主たる仕事で特に1986年度から始められたポリオプラス(ポリオを主として他にハシカ等石つの伝染病の撲滅運動)はW・H・Oからも大いに期待され賞讃されている。

 R・C内部にあっては会員は各事業職種より1名ずつで構成されており、週1回火曜日お昼に会場であるグランドホテルに集まって食事を共にする。時には夜の会、ゴルフ、花見等を行ってお互いの親睦を深めるようにしている。

 とかく医師という職業は医師同志の交際は結構あっても話題が限られてそれだけ世間が狭い。異業種の人達とつき合うことによって視野が広くなり、教えられる点も多く勉強になることは間違いない。

 長岡には当クラブの他に長岡東、長岡西R・Cと3クラブあり、それぞれの交流も怠りなく行われている。

 各クラブ内に1年交替の諸種委員会及び委員長がおり、それを統括するのがクラブの会長である。

 私の場合入会順からすると7〜8年前に会長の順番が巡って来る筈であったが、市の医師会の会長と重複するためおくれて今回つとめることになった次第である。

 会長は就任前の年度に一応もっともらしいテーマ或は目標を立ててそれを地区本部(当クラブは新潟、群馬が一緒になった第2560地区と呼ばれ、地区を統括するガバナーがいて館林市に本部事務所が設置されている。今年度から両県が独立して、本県のガバナーはこの7月1日の新年度より柏崎の宮川先生※が就任される)に報告する。

 私の場合「環境保全」と「介護保険への協力」をテーマとした。

 「環境保全」に就ては毎週行われる会長挨拶の中で概念的な題目を数回取上げてお茶を濁し、「介護保険」に就ては5月9日の例会で市の介護保険課の南課長より会員に講演して頂き、席上、当R・Cとして市への介護用用品の贈呈目録を市長宛にお渡しした。

 当初は100万円の現金を寄附する予定であったが、市としては現金は困るとのことで現物を提供することとなった。

 品物は電動ベッド、入浴用リフト、痴呆患者の徘徊検知器その他附属品を含めて10数点で金額的には96万円ほどであった。

 これらは蔵王にある老人用モデルホームに陳列してあり、その写真が記事とともに新潟日報に掲載されたものである。尚当クラブは昭和26年創立で今年度に50周年を迎える。その記念事業の一環でという意味も込められていることを申し添えてR・Cの概略の説明と今回の新聞掲載記事の解説を行った。

 この6月末で会長職を免除となりホッとしているところである。

 医師会の先生方で簡単であるが以上の説明で関心をもって下さる先生がいて、一つ概略でもきいてみようかと思われたら当方にでも御連絡下されば喜んで御説明します。

※7月15日急逝されました。心よりこ冥福をお祈りいたします。

 

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介護保険が始まって〜こぶし園園長 小山 剛さんの講演から

大貫 啓三(大貫内科医院)

 6月18日に会館青善において休日夜間急患診療事業研修会と新旧役員委員等懇談会が共催され、席上、こぶし園園長小山剛さんから「介護保険が始まって〜問題点と展望」と題して御講演をいただきました。

 介護保険全般についてスライドを使って、深く幅広く興味のあるお話をお聞きすることが出来ました。ここでは、その御講演の要旨を掲載いたします。

 介護保険と民間企業参入

 コムスンが4000人の従業員のうち1000人を解雇したとの報道が最近あったが、実際はパートが主体の会社であり、1200か所の事業所の正式職員のうち1000人を解雇したということであり、実際に残ったのはパートの職員というのが実情である。

 介護保険は社会保障事業であるから、こちらの都合で撤退することは出来ない建前である。しかし参入している民間事業所は、撤退する自由な権利がある。宮城県の岩手県寄りのある町では、ホームヘルパー事業のほとんどを民間事案所に委託したところ、事業が立ち至らなくなってしまったという事例が起きている。

 民間業者は採算を考えているから撤退も早い。民間業者が撤退したサービスは供給されないという可能性も出てくる。

 老齢化と少子化

 アメリカのあるリサーチ会社は、2050年には日本の平均存命は90歳を越えると報告している。新潟県には老年人口が全国平均で16%というときに、40%を越える高柳町や鹿瀬町のような所もある。2050年には老年人口が倍になると推定されているから2つの町は80%という計算になる。

 昔は、ある夫婦がいると8人ほどの子供達がいて、その子供達にも4人くらいの子供がいた。すなわち1人倒れれば41人の大家族で農作業という協同の仕事をしながら介護をしていた。現在は1組の夫婦からは1.38人の子供しか生まれない。また現在は推計上17人で1人を介護することになっているが、これらの人々も会外勤めで共働きであったり遠方であったりして、おじいちゃんが倒れた場合、現実に介護を受け持つのはおじいちゃんの配偶者、いなければ.長男の嫁という図式になっている。長男の嫁が勤めておりおばあちゃんが亡くなっている場合は、施設に人ってもらうか病院に入れてもらうかになる。それもできない場合は、長男の嫁が仕事を辞めることになる。このようになった嫁は、介護はするものでないと自分の子供に教えることになる。

 中国の一人っ子政策も介護において重大な問題をはらんでいる。すなわち、子供が大人になる頃には1人が多数の老人の介護をしなければならなくなる。日本はそのような政策を取っていないのに中国と同じ様な道を歩もうとしている。

 医療と介護

 今までは社会保障で行うところを俗に言う社会的入院という形で医療の制度に置き換えてきた経緯がある。医療行為のハードとソフトでは、車イスとかリハビリなどの生活行為のコンセプトが入った場合は無理が生じることになる。従って障害のある人がむしろ機能低下を来すようなこともあり得る。このようなことも鑑み介護保険制度が作られたわけである。

 介護サービスについて

 介護保険が施行されて市民が困ったという声が閉こえてこない。サービス提供者にも聞こえてきていない。このことは総選挙が終わるまで利用者の保険料の負担をゼロにしたことに起因している。保険料を全額負担するようになって初めて市民からの苦情が閉こえてくるのではないか。

 訪固入浴介護は今まで500円を支払えば15,000円ののサービスが買えた。介護保険下では単価が12,500円であり、その1割である1,250円を支払うことになり割高となる。民間業者と社会福祉協議会がこの事業を行っているがかなり利用が減ってくると考えられる。

 訪問看護は今は一時的に落ち込んできているが、医療行為の必要な人はかなリいると考えられ、これからは増えてくると考えられる。

 適所介護(デイサービス)はその内容にたくさんのバリエーションがあり、介護を必要としている人が何を望んでいるかをきちんと整理して施設に提供することが、ケアマネージャーの大きな仕事の一つである。またホームヘルプは、その種類も更に多く、その数は297種もある。この中から適切なものを選択して提供する作業がケアマネージャーの仕事の一つになってきた。これらの仕事は、ケアマネージャーとしての本来の仕事から離れるものと考える。

 短期入所生活介護(ショートステイ)も介護保険になって利用が低下したものの一つである。その理由はサービスの周知が遅れたことと、国が施行要領について施行直前まで決定出来なかったことによる。すなわち、他の介護は介護される本人の障害度にリンクしてサービスが支給されるのに対して、ショートステイは介護する側の都合(冠婚葬祭がある、旅行に出かける等)が優先される形で利用されてきた。これを他の介護項目と一緒の形で提供しようとしたところにおかしな格好を生ずることになってしまった。さらに、拡大枠や振り替え枠などの優遇枠の提示により、よけいに使いづらくなってしまった。

 区分別限度支給額についても同様なことが言える。通所系、宿泊系に分けて限度額を設定したが、これも拡大枠、振り粋え枠を作った時点で両者が一つになってしまった。

 サービスに地域格差があって、要介護5の認定を受けた人がこれを十分に利用できない地域もある。これは村にいる人が町のスーパーで買い物をすることの出来ない地域振興券のようなものである。

 サービス提供事業所の悩み

 意見書と調査表の双方の整合性を見て審査会で検討し、最終的にケアプランを作成するわけであるがこの作業が細々としたものがたくさんあって事業者の方ではその事務処理に追われているのが現状である。

 国がもたついているためレセプト請求等のまともなソフトが作られていない。従ってレセプト請求をしてその内容が間違っていても支払いをするという状態が生じている。これは当初、そういうソフトで送れ、手作きはだめだとの通達があったが、そのソフトが不十分なものであったためバラバラなレセプトが出てきた。そのため4月分のレセプト請求のため泊まり込みの事業所も多かったという笑えない話もある。

 現在のシステムでは、事業者が毎月1回介護される人の所を訪れて契約書に判を押してもらうというようなことになっている。これでは相手方も面倒くさくイヤがるのが現状である。

 大きな問題の一つに情報不足がある。情報が末端まで届いていないため共通認識を持つことが出来ない。Q&Aができても一般化しないため解釈が違ってくる。情報は国がFAXで保険者に流して来るが、実際にサービスを提供する事業所にそれが送られてくるわけではない。待っていても情報は入らない。とまどいがありケアプランを作れない事業所も出てきている。

 いままではいろんなサービスについて提供する側もされる側もゆとりを持っていた。現在は件数確保に走り回っているのが現状である。

 居宅サービス計画を作る什事において、要介護度別にその仕事内容には大差はないが、報酬に差が見られおかしなことになっている。

 介護保険の問題点

 介護保険の中身についていろんな職種の人に聞くが、さっぱり分からないと答える人が多い。保険者側も十分に理解できていないのが実情のようだ。厚生省が敢えて分からなくなるように作ったのではないかと勘ぐりたくもなる。

 介護認定審査業務については、基本調査と意見書の不整合探しのようなことをやっている。

 介護保険の単価が分かってきた現在、その単価にふさわしいサービス内容かどうかを、再検討する必要もある。

 エリアの中でのサービス必要量の把握が重要である。ホームヘルパーの需要についての調査方法も十分でない。片寄った現在の調査方法では、真の需要量は得ることが出来ない。また、倒れる前の予防的な手段としての介護を考える必要がある。 

 医師に望むこと

 医師は、現在診ているお年寄りの方が急に倒れられたとき、どのような介護を提供したらよいかをすぐに判断して、介護保険を有効に利用できるように心がける必要があろう。

 

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愛妻弁当  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 最近流行の電子メールのメールリストで(仲間の寄り合いみたいなものです)、他病院に勤務するある友人医師がこんな発言をしました。

「不況のためか、勤務する病院の中で営業していた食堂、いわゆる院内食堂がつぶれちゃって、近頃は愛妻弁当になってしまいました。」

 愛妻弁当ですか…うーん、懐かしい言葉ですねえ。これは他人が奥さんの手作り弁当を見て、「おお愛妻弁当でいいですね。」などと声をかける状況で使用されるのが普通ですよね。

 「愛妻弁当」なる言葉をめぐり少し考察してみましょう。

 あなたは妻を愛しているらしい。だからその妻の作った弁当を嬉々として食べている…なんて、おめでたいやつなんでしょう。

 いやいや、そんなことはありません。なんてうらやましいかたなんでしょう、ですね。

 でも「愛妻」とは夫に愛されている妻のことですよね? 夫を愛している妻を愛妻というわけではありませんよね。わたしはここがこの件のキーポイントだと断じます。

 それは愛妻弁当の本当の意味合いは、その妻が夫を愛しているから一生懸命に健康管理や嗜好を考えて、こしらえてくれるお弁当なわけではないですか?

 ここで脇からわたしのこの原稿を書き込む画面をちらと覗いた家人がわたしの袖をひっぱります。

「ちよっと、そ、そんな、だいそれた意味合いがお弁当にはあったわけなの? わたしなにも考えないで、頼まれるままに作ってあげていただけなのに…。」とややびびりはじめました。

 まあこの反応は無視して、話を続けましょう。たとえば極端な例でいえば、夫婦仲が険悪となり離婚するしないなんて揉めているさなかに、夫のためにはたして妻がお弁当なぞ作ってくれるでしょうかしら?

 答えは否ですよね。

 つまり夫に愛情がなければお弁当なんてめんどうくさいものは、妻は作りゃしないんです。ただし「逆は真ならず」です。愛情は十分あるけれども、お弁当は作らないケースも多いわけです。たまたま奥さんが朝は若手とか、料理が苦手とか、子供の世話など他のところに手がかかるので…夫にまでは手が回らない…いかんいかん、元に戻ってしまうぞ、これは。夫が麺類などの外食好きなんてのもありうる。

 我が家の例でいえば、わたしは原則的には通年お弁当持参派です。でも冬の寒いときはよくラーメン、鍋焼きうどんを院内食堂に注文します。真夏もけっこう冷やし中華に凝りますね。ちなみに職場の同僚医師での弁当持参組は10名弱、全体の2割弱でしょうか。

「夜の会合があるので今日は晩御飯いらない」ですとか、あれこれで「明日はお弁当いらない。」ですとか、わたしが申します。それを聞いた家人はすごくうれしそうな顔で喜ます。「やったね。」

 毎日のわたしのお弁当は先輩O先生の奥様におみやげにいただいた秋田の曲げわっぱに人れ自家製の梅干を添えたごはんとおかず入れです。

 お弁当の楽しみのひとつは、ふたを開け「さあ、何がはいっているかなあ?」と見ることかもしれませんね。−この楽しみはわたしの場合はほとんどありません。なぜかといえば、お弁当を詰めてすこしふたをするまで冷ますあいだに、ついついわたしが覗いてしまうからです。

 弁当を手渡されゐる蝉の朝