長岡市医師会たより No.245 2000.8

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もくじ
 表紙絵 「オープンした 県立歴史博物館」 丸岡  稔(丸岡医院)
 「倉品信義先生ご逝去」
 「豪雪であった頃の長岡」    金子 兼三(長岡赤十字病院)
 「ズボン屋」          田崎 義則(田崎医院)
 「中央病院班近況」       波田野 徹(長岡中央綜合病院) 
 「山と温泉47〜その27」     古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)  
 「お地蔵さまのおにぎり」    郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

オープンした 県立歴史博物館  丸岡 稔(丸岡医院)
倉品信義先生ご逝去

 倉品信義先生(満86歳、市内表町1丁目2-17)が、8月12日午後5時15分永眠されました。

 ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

  ご略歴

 昭和20年 南満州鉄道撫順炭礦医養成所卒業

 昭和28年 医師免許取得

 昭和28年 長岡保健所

 昭和35年 与板保健所

 昭和44年 大島保健所長

 昭和51年 与板保健所長兼任

 昭和56年 十日町保健所長

 昭和58年 三島病院

 平成 4年 新潟県赤十字血液センター嘱託医(平成〜10年)

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豪雪であった頃の長岡  金子 兼三(長岡赤十字病院)  

 私は昭和59年5月長岡赤十字病院に赴任しましたが、当時の長岡は数年前から豪雪が続いておりました。

 急な赴任の決定で、急ぎ宿舎探しを始めましたが、研究室仲間で研修医時代に長岡で暮らした経験のある八幡和明先生(現長岡中央綜合病院)から、「同じ新潟でも新潟市育ちの先生には長岡の豪雪の凄さは理解できないと思います。一晩で1メートル以上の積雪も珍しくはありません。朝除雪をしていたら、掘り起こした雪の下から駐車違反の車が出て来たと言う信じられない様な話も聞いています。家を探す時は、家の前まで道路に融雪の水が出ていて、出来れば雁木のある家を探して下さい。」と脅しとも思われるアドバイスを受けました。幸いアドバイスにぴったりの、遠縁にあたる竹山道治先生の実家が空いており、住まわせていただくことになりました。

 長岡での一年目の不安とちょっとばかり期待の入り混じった冬が来ましたが、12月20日が過ぎても雪のかけらも降りません。「話と違うじゃないですか。」と和田寛治先生に申しましたら、「まだまだわからんぞ。」との返事でした.そしてクリスマス・イブの12月24日の夜、突然雪が降り始めました。桜の花びら大の雪が音もなく、休むことなく降り続きました。降り始めて2、3日は「さすが、さすが」と雪を楽しむ気持ちもありました。しかし、大晦日近くになっても間断なく雪は降り続き、屋根の積雪は1.5メートル近くに達しました。襖のいくつかが全く動かなくなり、わが家の住人は皆押し黙り、降り続く雪を見上げるばかりでした。

 近所では雪下ろしを始めた家々が見られましたが、私にはそのテクニックも気力もありません。雪下ろしは病院でやってくれる契約でしたが、正月体みに入っていた事もあり音沙汰なし。正月になり雁木の雪庇が大きく唾れ下がってきた頃、町内会長さんが訪ねてまいり、「雪を下ろさず家が潰れてもそれは自業自得、しかし雁木が潰れて歩行者が大怪我でもすることがあれば、それは罪つくりな事ですよ。」とおっしゃいます。そこで勇を奮って窓から雁木の屋根におりましたら、積雪は胸の所までありました。シャベルとママさんダンプを使い、汗びっしょりとなりながら雪下ろしはじめましたが、初めての体験と言うこともありこれはこれで結構面白いものでした。しかし、雪を押し落とす時、勢いあまってママさんダンプと共に雁木より落ちそうになり冷や汗もかきましたし、落とした雪が隣の家の玄関先に転がっただけで文句を言われたりもして、いやはや大変な所に来てしまったというのが正直な感想でした。1月5日になって、ようやく病院より6名の雪下ろし人夫が派遣されて来ました。私の家は表から裏までが凹型で大きく、中央部の雪は家の両脇のスペースのみでは下ろしきれず、雪をすべり台の様な板の上をすべらせて雁木の前に運ぶテクニックにはびっくりいたしました。運ばれた雪は雪の塊を積んで作られた空き箱状の枠の中に流し込まれ、たちまち人きな雪の塔が出来上がりました。雪下ろしは2日掛かりましたが、典の土蔵の雪下ろしの最中腐っていた庇が折れ、高い土蔵の屋根から落ちた人がおりましたが、豪雪が幸いしてずっぽり雪に埋まっただけで怪我がなかった事は幸いでした。結局この冬は1月も、2月も断続的に雪が降り続き、雪下ろしは3回行われ、下ろした雪は1階の屋根の高さまで達しました。下ろされた雪の山で4車線の道路が2車線となり、車での通院も一苦労でした。近所の人達は晴れ問を見て雪の山を少しずつ削って道路に投げ、溶かしておりましたが、私は忙しさにかまけて何もせず、雪の山は4月になっても残っておりました。また、近所の人が末て、「先生、長岡の名物になりますね。」と言いますので、渋々雪を砕いて溶かし始めましたが、雪が凍っていたため意外と時間が掛かり、雪が完全になくなったのはゴールデンウイークに入ってからでした。

 この年の経験から、町内でお金を出し合い融雪のための井戸を掘り、車も4輪駆動車に替えましたが、その2年後より暖冬続きで雪が少なく、それらのありがたみは少なくなってしまいました。長岡の豪雪はもはや過去の思い出だけになってしまったのでしょうか?

 

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ズボン屋  田崎 義則(田崎医院)

 今は昔、開院して程もない外来に、患者として一人の男が現れた。名前は○○秀○という。年はし70才を出たぐらい。中背の痩躯でギョロリとした目を持ち、やや大きい逆三角形の頭の髪の量は少ないもののきれいに櫛目が人っていて、いい匂いがする。格子縞の背広の少し開いたワイシャツの襟元には、水玉模様のアスコットタイが覗いている。この辺りでは稀な洒落者である。それより何より私が驚いたのは、彼は名前を呼ばれて診察室の戸口に姿を現すや、よく透る声で、都々逸(どどいつ)か何かを謡い出し、訴いながらゆっくりと進んできて、そのままスッと私の前に腰を下ろしたことである。私は嬉しくなった。患者が来てくれてというよりも、当時淋しかった私の外来が、(今とてさして変わりはないけれど)賑やかに活気づくようで嬉しかったのである。私が「皆んなに聞かせてやって頂戴」というと、秀○は処置ベッドに行って仰向けに伸びて、本当に〜薄(すすき)は萩と寝たという…などと粋なものを謡って看護婦たちを喜ばせた。帰り際に机の傍にやってきて、「先生こんなものは如何です」と言って、自分で画いたという縁起物の朱竹の色紙を示して、「差し上げます」と言った。事務員が寄ってきて感心して眺めたせいか、二度目の来院時に同じ様なものを持ってきて、彼女達にも配って帰った。三度目にやってきた時、秀○は患者椅子に腰を下ろすや私の短脚に目を落として「先生、ズボンを作りませんか」と言った。そういう職業だったのか……。私は服装に無頓着だけれど、ズボンには悩んでいたのである。つまり、販売店には色彩といい、生地といい取り取り豊かに商品が溢れているのに、腹に合わせれば脚にだぶだぶ、結局腹に合わせるしか道はないのだが、いつも不本意な結末になるのであった。早速二階の病室に移って計測を受けた。

 一週間ほどして、秀○は出来上がったズボンを持ってやって来た。値段を訊くと「7萬円です」という。この時初めて私は事態に気が付いた。高い。物知らずの私にも法外なことが判る。(今で言うなら弍拾萬円位か)。今なら何でも言えるけれど、その頃私は何も言えなかった。只、支払いを後日に約束した。

 家内は常々私に「あなたは騙され易い人です、顔に描いてあります」といっている。これには色々心当たりがあるので黙っておいた。バツが悪いけれど、以前スーツを作ったことがある弓町の洋服店を訪ねた。主人は物を手に取るなり、「ああ七阡円ですよ」と事も無げに言い切った。帰宅すると家内が「私に任せて下さい」と言う。任せろと言ったって、それは私の博物館を一夜にして空っぽにした腕力は恐るべきものだが、それとこれとは訳が違うと思ったけれど自分で何も出来ないのだから、お任せにした。

 所用で終日留守にした日曜日の夕方帰宅すると、家内が「○○さんが見えました」と言う。勢い込んで首尾を聞くと、別段のことは無い、彼女が玄関に座って「ハイ七阡円です」と言って恭々しく包みを差し出すと、秀○の顔に一瞬驚きの色が走ったがそのまま受け取って帰って行った由。一件落着。

 その後暫くして、瑣細(ささい)な疾患で秀○は外来を訪れた。診察を終わって帰り際に戸口まで歩いて行くと、立ち止まって半身に振り返って、「奥さんによろしく」と言って大きな目でじっと私を見つめた。勿論ここでは、微笑さえ禁物である。私もこの上無く真面目な顔で相手を見つめ返して「ハイ」と答えた。それから暫くしてもう一度、全く同じ場面が再現されて秀○の姿はパッタリ消えた。地域に陸続(りくぞく)と出現した医療機関の方を回っていたのかも知れない。

 子供の頃、仕立屋銀次という有名な掏摸(すり)の名を聞いたことがある。あれは仕立屋、これはズボン屋と言うべきか。存命であれば九十を越えているだろう。仮にこの一文が彼の目に入っても、私は怖くない。いわば「我れに正義あり」だから。

 近頃しみじみ鏡に見入ることがある。やたらに増えた不純物と弛んだ皮膚があるだけだ

 

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中央病院班近況  波田野 徹(長岡中央綜合病院)

 本年4月より長岡中央綜合病院班長を務めさせていただくことになりました。よろしくお願いします。また日頃、病診連携を中心として医師会員皆様にお世話になりこの場を借りて御礼申し上げます。

 卒後、新潟大学での内科研修および消化器病学(主として肝疾患)の研究、関連病院を経て平成5年5月より当院消化器内科に勤務しました。長岡に来てあっという問に7年が過ぎてしまったというのが実感です。

 この間良き上司、良き同僚に恵まれ、忙しい中にも楽しく仕事させていただいております。

 一般消化管疾患はもちろん肝胆道系疾患においても貴重な症例が数多くあり、大学時代には経験できなかった様な稀な症例にも時々遭遇しました。その中には多くの紹介患者さんが含まれています。

 さて中火病院に来てまず驚いたことは福島江の桜並木の目の覚めるような美しさでした。特に桜が川面に映る姿には感動しました。医局の研究室からは桜が幾重にも連なって見え、最高の観覧席と自負しております。研究室が花見宴会場となることもしばしばでした。桜につられめっきり日本酒が好きになってしまいました。

 夏になると毎年ヤナ場にでかけ、アユを手づかみにして取るのを楽しみにしております。ちなみに釣りは全く不得手で、船酔いには極端に弱く釣り舟にも乗れません。

 冬になると、楽しみは何といってもスキーに出かけることです。温泉もあれば最高ですが近場のスキー場が主体です。学生時代とは違い、翌々日には足に疲労が出て階段の昇り降りが辛くなるのが悲しいかぎりです。このように長岡の四季を楽しんでおります。

 中央病院の近況ですが、この数年問に形成外科、胸部外科が新に標傍され、診療部門のはばが広がりました。また内視鏡室および透析室の増改築、外来透析の拡大、救急室の拡充、訪問看護ステーションの開設等、医療サービス面での充実が図られております。さらに院内移動図書文庫(さくら文庫)がボランティアの方々により運営されるようになり、入院患者さんに好評を得ております。

 また院内の廊下の壁には絵手紙が飾られ、病院内の雰囲気があたたかくなっております。このように医療以外の面でも地域の方々とも協力して様々な取り組みがなされております。

 病院の新築移転等いくつか乗り越えなければならない問題がありますが、これからも地域に根ざした病院をめざし、一同一致団結して努力していきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。

 

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山と温泉 47〜その27  古田島 昭五(こたじま皮膚科診療所)

ハ:大赤沢・硫黄川・横山・猿面峰道

 「越後の山旅」にある「大赤沢・柳平・霧ノ塔」の登路は、現在では廃道のようです。大赤沢集落迄が新潟県、硫黄川が県境になり、津南町の中津川右岸南端になる。苗場山頂から霧ノ塔を経て、鉱山の赤茶気た硫黄川を下った事がある。しかし、この路を登った事はない。今回、津南町役場観光課に登路について尋ね、次のような返事を戴きました。

 現在の大赤沢からの苗場山頂への登路は、大赤沢(770m)・硫黄川右岸より左岸・横山(1370m)・猿面峰(1832m・サルツラミネ)・苗場山頂(遊仙閤裏手に出る)。昭和63年(1988)大赤沢新道として伐開されたもので、最近版の地図には訂正されてあります。この新道は、毎年、6月の最終日曜日に登路の刈り払い、整備を行っている。詳細は、津南町役場観光課(0257−65−3111)に問い合せてください、との事。又、長岡ハイキングクラブは、この地域に詳しく、主宰者の室賀輝男氏を始め会員の方々が多くの山案内を書いておられますので、会にお尋ねになれば最新情報が得られると思います。

 大赤沢へは、国道405号線を清水川原で中津川左岸に渡り、結東、前倉を過ぎ、前倉橋で右岸に渡り返し、急坂を登り、左から入る東秋山林道と合流すると大赤沢集落。一方、清水川原手前で左の東秋山林道に人ると、新しい広い道を見倉、風穴、見倉トンネルを通り、国道に合流。この林道は標高700米の中腹を走るので、平坦で広く断崖の縁を走り、道は狭く、カーブの連続、急坂、と危険な国道に比べて、自家用車でも安心して走れる。しかし、前倉橘からの美事な渓谷美を観る事が出来ない。林道は、通勤者のためのものと言う。この道は、旧い秋山草津街道川東線に当たり(鈴木牧之の歩いた草津道とは少し連うのではないかと言われています。)中津川左岸(対岸)川西線とは大赤沢で合流し、切明に至り、切明からは、魚野川を遡行し、更に、山越えをして野反湖・草津に到る関東への最短距離の街道であったのです。

 大赤沢登山口:国道405号線、東秋山林道が合流すると、間もなく左に小学校、神社を見て、大赤沢集落に入ります。右に土産物やがあり、その手前を左へ山側に人る。立派な道標があるので迷うことはありません。この登路・大赤沢新道は、登山口から6、7時間を要するのではないかと思います、先日この登山道に当たる林道に入ってみました。車で凡そ15分の所にゲートがありました。その先硫黄川があり、硫黄川を渉り南に向い、横山へ急登する行路が大赤沢新道です。現在、盛大な硫黄川防災工事が行なわれています。

 私は、この大赤沢新道を「横山」付近までは入山していますが、「横山」より上部の新道に入っていませんので、集めました最近の登行情報で説明いたします。

 「霧ノ塔」にでる大赤沢旧道は、硫黄川迄は同じ林道になりますが、その先で右岸の南面山腹を捲くように緩登・急登を繰り返し、霧の塔で小松原湿原から神楽ヶ峰・苗場山頂の登路に出る路で、廃道となりました。この他に、硫黄沢を渉り返しながら登る路が2つあったそうですが、いずれも林道の完成で廃道になったと言います(越後の山旅)。新道の登路は硫黄沢を渉り暫く左岸を行く所から始まります。この付近は、硫黄川の防災工事用道路、林道とがかさなり紛らわしい。工事用道路は、主に、国道405剛線の大赤沢・小赤沢集落ほぼ真ん中辺りの国道左側が入り口となり、硫黄沢工事現場にのびています。残念ながら関係車両以外進入禁止。新道は、沢から離れるに従い急登となり横山(1379m)の肩に出る。ここからは、側斜が緩くなるが、只管雑木林の展望の無い登路を約3時間半、漸く猿面峰(1832m)に着く。猿面峰からは、展望は開け緩登となるが、最後の比高200米余は、苗場山特有の喬木、灌木帯で急登となる。2時間半、空が見えると問もなく山頂、遊仙閣が見える。苗場山平頂に到る5登路の内、直接苗場山頂一等三角点に到る登路は、唯一この大赤沢新道のみです。

 付記:硫黄川探険記

 明治39年9月、小赤沢から苗場山頂に登高、神楽ヶ峰経て硫黄沢(川)に下り、大赤沢から小赤沢に帰着の記録があります。この記録は、同年新潟新聞に掲載された「新潟県の秘境、三面、秋山郷、銀山平の探険踏査」そのルポルタージュ記事として報告されたものです。報告者は、民俗学者・小林存氏。小林存氏は新潟新聞の客員記者として在職中(在職8年9カ月)に自ら秘境の探検、踏査を行なった記録を記事とし連載された一部が「秋山集落の探険」で、この記事の中に「惨憺たる下山行」として硫黄川探険が書いてあります。平成2年刊行の「越後秘境探検記」.小林存著・曽我広見・訳(原著は旧漢字・旧仮名遣いのため、口語、現代語仮名遣いに改めたもの)から要約してみます。

 「苗場登山」明治39年(1906)9月18日午前8時、一行11名、山案内・強力として杣人2名を加え総勢13名で小赤沢出発。目的は、当時既に登山者が増えて登路のはっきりしている路を登り、苗場山の山頂から秋山郷を眺め、硫黄川一帯を探索して大赤沢を経て、小赤沢に戻る日帰りの日程。このときの小赤沢からの登路は、現在の新道ではなく、集落の背に聳え立つ「桧ノ塔」(1882m)へ急登する廃道になった旧道と思われる。山頂まではなんなく達し、昼食を摂り、下山は路の無い沢を下る事になります。「惨憺たる下山行」の項では遭難寸前であった事が記事にみられます。一行は「荒砥石を逆さに立てたような険路を互いに戒めあってどうにか下った…。三国山脈に属する諸山は北東を走り、渓間はるかに浅貝駅の蕎麦畑が見え、双眼鏡で望むと三国街道は一条の帯のように、山腰を巡って渓谷に消え、人も馬も豆となって動いている。……お花畑に着いた。……ここを過ぎると、「この先は眼下に見える渓流を目指して、道のないところを下って、下ったところで道を探すのだ」と言うのが案内の強力の意見である……。これはまさしく惨憺たる下降であったようで、滝の上に出てしまい立往生している。硫黄の匂いで、歓声をあげる思いと記されてある。この記事からみると、神楽ヶ峰かられ直下の「一の沢」に下ったもので、頂上直下の硫黄川源流本沢ではないように思う。「一の沢」から本沢に人り下ったものであろう。「一応この山中で生活している人々の伝えとして、四ヶ所で異なる温泉が湧き出ている。白水、紫水、赤水、塩水で、塩水は富山氏らの経営しているもので、大赤沢よりは女の足で半日で往復できる距離で、この間には道らしい跡があるそうである。しかも、今回の探険に備えて、この道をいくらか修理させておくと知らされていたので、一行は少しでも早く塩水の発見を期待していたわけである。しかし、行けども進めども塩水は発見できず、脚力は衰えるとともに日は暮れてくる。……」この後塩水と言う温泉源は発見できたものの、時間は過ぎ、日暮れて闇となり、強力の蝋燭を頼りに進み、疲労困憊、空腹、硫黄川は硫黄のため水が飲めずの夜間行軍となったようです、更に、硫黄川の暗闇の渡渉があって漸く大赤沢集落石沢氏宅に着き、酒とトウマメを得て、小赤沢に向かい帰着した。「時に、午前零時」と記されてある。温泉と硫黄山は見ることは出来たようで「左岸に一個の山があり、上の半分が夕陽を受けて黄彩色に輝いているではないか、明らかに露出した硫黄の山である」、かなり大きい崩れた山肌が見られたであったろう。今もその名残と思われる山肌が見られる。温泉は見あたらない。しかし、温泉は至る所にあるのではないかと思うのですが、見ることは無いのだろうかと、大赤沢の人々に尋ねてみたい。

 私が旧道の下山途中に湯煙をみた沢の記憶は、この次の沢であったか?(つづく)

 

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お地蔵さまのおにぎり  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

「ただいま、面白い物を見たよ。」

「あら、なにかしら?」と家人。

「うん、最近の散歩コースの坂道にあるお地蔵さまね。よくお供えがあるんだ。土のついた新ジャガとか、トマトとかね。」

「きっと熱心に信仰する農家のおばあちゃんがおられるのね。」

「そう思っていたんだよ。今朝のお供えが、なんとコンビニおにぎり。包装のままひとつ、ちょこんと置いてあったんだな。越後の辛い味噌味とラベルには書いてあった。」

 まずその謎のおにぎりそのものをめぐり、わたしと家人は論議した。うん、我が家は平和でありますな。

 味噌を塗った焼きおにぎりのようなものか、一部に佃煮のようにげ辛味噌が入れてあるのか。家人は全体に味噌がまぶしてある混ぜごはん説を主張した。それは腐りやすいのでは?と反論すると、そうかもねと頷いた。ちなみに家人は先頃、次の川柳を作った主婦である。

 賞味期限無視して夏の肝試し

 次いでいったい誰が、そのおにぎりを路傍のお地蔵さまにお供えしたのであろうかという問題になった。

「農家のおばあちゃんも、この暑さで自分でごはん炊かなくなったのかなあ?なぜこだわりの辛い味噌味なんだう?」とわたし。

「買って見たら意外とおいしかったんで、自分の好物としてお地蔵さまに差し止げたのじゃないかしら。」

「あの坂は近道で通学路にしている学生がかなりいるみたい。受験生が気まぐれでお供えしたとか。」

 このふたつの謎の真相はいずれもまだ不明なままである。

 ところで「お地蔵さま」は、ほんとうは「地蔵菩薩」と言うんだそうですね。なんでも仏教では「地蔵と閻魔は一」なんて言葉もあり「阿弥陀仏」の憤怒を表す分身がかの「閻魔」であり、慈悲を表す分身が「地蔵菩薩」なのだそうです。鎌倉時代から、わが国では根強く民間に流布している信仰仏とのこと。なんでも「地蔵の十福」と言い、地蔵尊を信仰すると、たとえば安産とか豊作とか長寿とか病気にならぬとか十ものご利益があるとか。

 さてわたしはいささか事情があって、この春から夏にかけて、ゴルフも止めたほど、静養にあい努めていたのであった。静養も度が過ぎたらしい。一時落ちていた体重と脂肪率(この言葉を打ち込むとワープロではたいてい死亡率が先に表示され、ガクッ)が再び上昇していた。これはいかんと、せめて涼しい時間のウオーキングでもと数週間前から再開した。朝夕と毎日40分ずつ近所の山道を速足で散歩。退屈なので俳句の本などを持ち読みながら歩く。トイレや風呂でも読書するわたしには当然な「ながら読書」であるが、近所の方からは二宮金次郎のようと噂されているらしいと家人が言う。

 その路傍に三尺足らずのお地蔵さまは赤い帽子を目深にかぶり赤い衣服で温和な笑顔で立っている。

 わたしは無宗教だがなぜかそこを通るたびに足を上めて、お参りをするようになった。

 かぶった帽子をとり、屈みこんで手を合わせる。さいわいその時間はまずだれも人通りはない。別段後ろめたいことではないが、お地蔵さまにお参りする姿はあまり他人に見られたくはない気もしている。

 欲張ってあれこれお願いしているが、まずは自身の健康回復がご利益であれぱよいなあというところ。

 お地蔵さまコンビニおにぎり供えられ

 

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