長岡市医師会たより No.246 2000.9
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表紙絵 「ヒメアカタテハ」 広田 雅行(長岡赤十字病院) 「開業一年目の雑感」 今井 春雄(今井整形外科クリニック) 「沖縄サミット救急医療チームに参加して」 田中佐登司(立川綜合病院) 「長岡赤十字病院班近況」 田島 健三(長岡赤十字病院) 「悠久荘の現在(いま)」 丸山 直樹(県立療養所悠久荘) 「初めての登山が日本一の山」 窪田 久(窪田医院) 「農の風景から」 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)
ヒメアカタテハ 広田 雅行(長岡赤十字病院) マミヤ 6×4.5 85mm エクステンションチューブ使用 F8 1/250
開業一年目の雑感 今井 春雄(今井整形外科クリニック)
平成11年9月に長岡市左近に開業しましたが、今後ともよろしくお願い致します。
昭和28年長岡市に生をうけてから、新潟大学卒業後医局人事という金縛りで各地の病院を点々とした後、平成2年に11番目の病院として立川綜合病院表町病院に赴任させて頂きました。当初立川厚太郎先生と二人で、主に指の再接着術などを深夜まで(時には翌朝まで)ぶつぶつ言いながらやっておりましたが、これがなかなかストレスフルで、手術後一週間はいつ再手術に呼び出されないかとドキドキしながら心労の多い日々でした。平成8年に悠遊健康村病院への移転を契機に、通勤が遠くなることと、そろそろ手術から足を洗い楽をしたいなどと考え開業を考えておりました。そんな折、ある業者からの紹介があり、周囲にご迷惑をおかけしましたがあっという閏の開業となってしまいました。
そんなわけで、平成11年9月より院長兼雑用係という身分になり、手術ストレスからは解放され、救急車の音も心地よく聞こえるようになりました。(病院の先生方、申し訳ありません。)開業準備は、周囲からあれこれ言われるままに何となく終わってしまった感がありますが、開業後は病院勤務時代とのギャップも大きく、なかなか適応できませんでした。病院時代は外来が少ないと、「今日はいい日だ」などと看護婦と楽しくお茶飲みしていたのが、「今日も患者が少ないね−」とため息をつく方が多くなり、看護婦が「これあのおじいちゃんじゃありません?」と訃報記事を持ってくる度に、また患者さんが少なくなったなと、いろいろな意味で悲しくなるようになりました。治療に関しても、いわゆる電気治療と称する低周波治療器等は、勤務医時代は効果があるはずないとばかにしておりましたのに、開業必須アイテムだと業者に言われるとそうせざるを得ず、これが開業医だと一種居直って借金を増やしました。もっともこれは腰痛のある家内に言わせれば結構気持ちが良いそうで、案外有効なのかなと後で思ったりしましたが。また患者さんの来訪が非常に気まぐれで、津波が(当院は小津波ですが)来るように一度に集中してきたかと思えば、今度はガラーンとして院内には職員しかいないという状態になり、暇つぶしに犬でも飼おうかと職員と真剣に相談したりもしました。もっとも勤務医時代も外傷患者は集中してきたことを思えば、世の常で仕方ないのかなと納得したりしていますが。更に予想外であったのは開業した方がはるかに時間的余裕ができるであろうと何となく予想していたのだがそうでもなかったことです。確かに時間外はほとんど自由なのですが、朝から夕方まで何となくだらだらと患者の診療に縛られ、めり張りのある時間的余裕はありませんでした。
開業一年を経過して、良かったかなと思うことは、病院時代には「年のせいで仕方がないでしょう。湿布で様子を見て下さい。」と冷たくあしらっていたお年寄りにも、効果がどの程度あるかは分かりませんが何らかの治療をして上げられるようになったこと、近所の常連患者さんが、駄菓子や桃(左近は桃の産地なのです。)などよく持って来てくれること、手術ストレスからの解放、休日を自由に決められること等でした。予想と違ったのは、一週間の夏休みが取れないのは当然として、職員の融和がなかなか大変なこと、患者数がなかなか伸びないこと、駐車場の掃除が大変なこと等でした。しかし一度しかない人生を、いろいろなことに挑戦してみたいという希望がかなえられたという点では、開業という選択も良かったのではないかと今思っております。
最後に、開業に際していろいろご迷惑をお掛けした立川メディカルセンターの諸先生方に、この場をお借りして感謝致します。また、今後いろいろお世話になりご迷惑をおかけすると思います病院・診療所の先生方、今後ともよろしくお願い申し上げます。
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沖縄サミット救急医療チームに参加して 田中佐登司(立川綜合病院)
先日、九州・沖縄サミットが開催されたが、7月18日〜7月24日まで厚生省救急医療チームの一員として側面よりサミットを支援するという貴重な機会を得る事が出来たので御紹介致します。また、紙面をお借りいたしましてチームの一員に選定していただいた東京女子医科大学付属日本心臓血圧研究所循環器外科主任教授小柳仁先生、ならびに快く出張を許可していただいた立川メディカルセンター理事長 立川晴一先生、立川綜合病院循環器センター長 春谷重孝先生に深謝致します。
霞ヶ関でのサリン事件以来、集団テロや災害に対し危機管理の重要性が問われるが、今回日本で初めて大規模な救急医療チームが編成され、沖縄サミット開催期間中、各国首脳の有事に際し出時間体制でバックアップを行った。
具体的には厚生省健康政策局指導課が中心となり、日本救急医学会、日本救急医療財団、中毒情報センターの協力を得て伊藤健康政策局長を医療対策本部長、真栄城ハワイ大学教授を副本部長兼統括指揮者とし、医師、看護婦、臨床工学士等を含め約160名が参加した。それぞれA班(本部)、B班(各国首脳対応医)、C班(専門医療チーム)、D班(中毒・感染症専門家)、E班(ホテル・救急車添乗医)、F班(ドクターヘリチーム)、G班(緊急患者収容者チーム)、H班(ブセナホテル診療所チーム)に分れ、各国首脳の日本到着時より離日まで昼夜を問わず待機を行った。その中でもC班(専門医療チーム)は合計18チームより構成され、12時間又は24時間交代で万国津梁館(サミット会議場)から事で数十分の距離にある沖純県立北部病院で待機をしたのである。ご存じの方は少ないと思うが、その病院での待機の様子は7月22日のNHK19:00のニュースで放映され、なんと私はテレビに映ってしまった。18チームの構成は 1.外傷外科チーム(10チーム):札幌医大、日本医大、慶応大、杏林大、国立東京災害医療センター、東京女子医大、東京医大、濁協医大、大阪大学、久留米大学、2.脳神経外科チーム(2チーム):日大板橋、北里大、3.整形外科チーム(2チーム):岩手医大、奈良県立医大、4.心臓血管外科チーム(2チーム):東京女子医大日本心臓血圧研究所循環器外科、国立循環器病センターより構成され、私は心臓血管外科チームの東京女子医大日本心臓血圧研究所循環器外科の一員として参加させていただいた。女子医大心研外科チームは小柳仁教授を筆頭に川合講師、田中助手(私)、島袋助手の医師4名、手術室看護婦2名、人工心肺技師1名の計7名より構成され、国立循環器病センターチームと24時間交代で県立北部病院で待機し、万が一各国首脳が心筋梗塞で倒れたり、急性大動脈解離を発症した際に手術適応と判断され、日本での治療を希望した場合やテロ行為により心臓、大血管の手術が必要な場合、手術が行える様に体制を整えたのである。県立北部病院はもともと開心術は行っていない病院のため、人工心肺装置、人工心肺回路、心筋保護回路、人工弁、人工血管、手術機械、築剤等は事前に国立循環器病センターよりトラックにて運び込み計3例の開心術が行える体制で望んだのである。
表向きはこの様に実に綿密、かつ大掛かりな準備を行ったが、ロシアのエリツィン元大統領がメンバーでない現在、よほど運が悪く無ければCABGを行ったり急性大動脈解離の手術を行う事は無いのではないかと思われた。しかし、テロ行為だけは予想がつかずとても心配であり、特に集団テロがあった場合は、専門医療チームの心臓血管外科チームではあるが、他のチームの応援をしなくてはならないため、サリンやVXガスならまだ良いが、天然痘をはじめとする生物化学兵器を使用されると命がけだなというところが本音であった。事前に厚生省から配布された数百ページのマニュアルには事細かく各種薬剤、病原体曝露に対する対処法が記載されていたが、読めば読むほど恐ろしくなった。
照りつける太陽の下、数台のバスに分乗し、県立北部病院へ到着し、まず目を引いたのは玄関前に大きなテントがいくつも張られ、除染装置(薬剤や病原体に感染した人を大量の水で洗浄する装置)が置かれ、さながらどこかの軍病院という感じであった。施設見学の後、事前に送った機械、薬剤等をチェックし、手術室にてすべて電源を入れ、停電しないか、うまく作動するかどうかをチェックし、後は長い長い待機、当直体制に入った。当然、やる事は無く、食べる事しか楽しみは無く、2日間かけて病院食堂の全メニューを制覇した。何事もなく朝を迎え、朝9時頃、交代要員の国立循環器病センターチームが登場し、ビールとつまみを土産にバスでホテルに帰るのである。ホテルは英国のプレア首相が滞在していた事もあり、警備が厳重でIDカードが無いと絶対にホテルに入れず、入り口には金属探知器ゲート、X線装置が設置してあり、手荷物は全てチェックするという徹底ぶりで、中に入れば各階に私服警官が数人ずつおり、外は警察犬がうろうろし、数メートル置きに警官が立っているという状況であった。我々はオフの時もホテルからの外出は禁じられており、ゴルフなんて以ての外(メンバーを聞いた時ゴルフが大好きなメンバー構成のため絶対にゴルフはあると思っていたが…)、敷地内のプールに行く事くらいしかやる事は無く、しかも一般客は宿泊していないため、数メートル置きに立っている警官を見ながら野郎だけがプールで泳いでいるという沖縄にいながら実に滑稽な、まるでどこかの体育会系クラブの夏合宿かと勘違いしそうな状況で前日の疲れを癒したのである。沖縄なのに何かが違うという状況で、お国のためという大義名分のもと、厚生省医療チームという貴重な数日を過ごす体験を得た。何も無くて当たり前という状況のなか、サミットが終ってみて大きな事故、事件が無く本当に良かったと痛感している。
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現在の当院の医師数は95人ですが、その内医師会員は63人となつております。
当院も長岡市の川西地区に新築移転して早3年になろうとしております。旧病院に比べ患者さん用の駐車場がかなり広く確保され、外来患者数は一日ほぼ目一杯の約2000人となっております。また救急救命センターを訪れる患者さんも増加しており、とくに長岡市以外の近郊地域および南魚、十日町方面からも搬送されてくる頻度が増えている現状です。しかしセンター専任の医師がいず、本院の各科の医師が兼任して診療に当たっているため、なかなか満足のいく対応ができない状況も見受けられ、特に内科系では小児科、外科系では整形外科など患者数が多く診療に当たる医師の疲労度もピークに達しています。厚生省からの指導もあり、今後早急に専任医師を確保する必要に迫られており、対応に当たっておりますが、市内各病院の先生方および市医師会の先生方の一層の御協力をお願い致します。
当院も今年の5月より院外処方箋の発行に踏み切り、現在30%程まで増えてきております。所謂門前薬局がない当院の事情もあり、急に増やすのは難しい面もありますが、今後は入院患者の薬剤管理、服薬指導に薬剤部の業務を集中し、外来患者さんについては根本的には市医師会の先生方の御理解と御協力を得て今後は病状の安定した患者さんや、手術後の経過の順調な患者さんについては御紹介をさせていただき、投薬を含めた治療をお願いしたいと思います。そして当院の本来の目標のひとつである高度医療の実賎、重症患者さんの受け入れと治療を中心とした急性期の医療をより積極的に進めていきたいと考えております。そしてそのためには病診連携・病病連携をより緊密に進めさせていただく必要がありますので、医師会の先生方との間での患者さんの紹介及び御相談の窓口として以前より「病診・病病連携室」を設けておりますが、今後より一層充実させ先生方の御要望に応えさえて傾きたいと考えておりますのでどうか御利用お願い致します。
各班の先生方には、常日頃から、お世話になっております。紙面をお借りして、悠久荘の近況を紹介させて頂きます。昨年3月に長い間、院長を務められていた増村先生が御退職されて、4月からは、小坂井院長、高須副院長が就任されて、今に到っております。
さて、悠久荘と言えば、先生方は、コンクリートの塊の様な建物を思い起こすのではないでしょうか。建築当時の昭和30年には、「東洋一の精神病院」と言われた事もありましたが、40年以上もたちますと、傷みの激しい黒ずんだ建物となつてきました。過去には、「病院廃止か」と言った状況がありましたが、長い間の働きかけの結果、平成9年より新病院の建築が始まりました。昨年2月には、一期工事が終了し、新病棟が2単位できまして、一部の患者が療養しております。続いて、第二期工事が行われ、この9月には、全部の病棟と外来・管理棟が完成し、10月から使用開始となります。その後、三期工事が着手され、平成14年には、体育館・デイケアー棟が出来て、すべて完了となる予定です。今回の新病院の特徴をあげれば、(1)総べて(閉鎖・開放)が、男女混合病棟である事、(2)一床面積を広くし、個人のプライバシーが保たれるようにした事、(3)アルコール依存の治療を中心とした嗜癖治療棟の設立と言ったところでしょうか。
次に、医局を構成しているメンバーですが、全員で11人おります。
小牧井院長ですが、長い間、成人精神医療の中心となつて、患者の社会復帰に力を注いでこられましたが、今も頑張っておられます。その上、対外的な仕事も増し、多忙な毎日の様ですが、その疲れをゴルフと美術館巡りで解消されている様子です。
同じく成人精神医療で活動をし、当院のデイケアー創設・運営に力を入れてきた高須副院長は、デイケアー、訪問着護、OT部門などを取りまとめ、長期入院患者の退院促進やその後のリハビリに力を注いでおります。以前には、テニス・ゴルフに興じられた先生ですが、今はその回数が減ったため、体重増加と格闘中のようです。
増村前院長と一緒に児童、青年期の精神医療に携わってきた結城先生ですが、現在も様々な疾患をもった子供達を相手に頑張っておられます。その忙しさの間を縫って、魚釣りや畑作りを楽しんでおられるようです。
中垣内先生ですが、当院の中毒性精神障害、特にアルコール依存症の治療の流れを根づかせ、現在は、地域の啓蒙活動を様々に行なっているようです。又、その合間を縫って、趣味のゴルフに腕をふるってるようですが、成績の伸びに悩んでいるようです。
稲井先生ですが、成人の精神医療で活動をしております。その一方、テニスをはじめ、シーズンになればスキーと体を動かし、運動好きな面を見せております。
アルコール依存症治療のもう一人の担当者である加藤医師ですが、地域の啓蒙活動に参加したり、一般の成人精神医療にと活動しております。学生時代には、テニス部で活躍していたのですが、現在は、長い休息期に突入してるようです。
中沢医師ですが、成人の精神医療でカを発揮し、活躍しております。
昨年4月からは、小柳医師が、若き紅一点として、医局に加わり、現在は児童・青年期病棟で、持食障害や人格障害、被虐待児の症例に格闘中です。その合間には、好きなピアノを弾いたり、コンサートに出かけたりして、ストレスを解消してるようです。
又、今年の↓月からは、群馬精神医療センターに居た桑原医師が加わり、成人部門に従事し、患者宅訪問など活躍しております。
更にこの6月からは、犀潟療養所に勤務されていた不破野医師もメンバーに加わり、これからの力量発揮を期待されています。
最後に私、丸山は、デイケアーや精神分裂病の家族教室に携わり、社会復帰・リハビリにカを入れているところです。
この様な11人の医師達で、地域の精神医療や県の基幹精神病院としての機能にカを注いでいるのが、現在の悠久荘であります。
平成12年8月、お盆の三連休を利用して、私と妻、小6の息子と小4の娘の家族四人で河口湖に車で2泊3日の旅行をしてきた。丁度、台風が関東を襲っている最中、高崎にさしかかった頃にはどしやぶりであったが、川口湖畔のホテルにつく頃には小雨となっていた。渋滞のため、予定より大分遅い到着だったが、3時頃から上九一色村にあるガリバー王国に向かった。方リバー王国は富士の裾野に広がる広大な敷地のテーマパークで、体長45メートルもある巨大なガリバー像がシンボルとなっている。ガリバーの人形劇や、動物ふれあいランド、ボブスレイ、リユウジユなどで2時間ほど楽しみ、ホテルに戻った。
翌朝は前日の雨がうそのような快晴で、ホテルの窓から残雪のない緑褐色の富士山が一望できた。私も妻も弥彦山くらいしか登ったことはなかったが、富士登山にでかけることに決めた。環境保護のため、一般車は交通禁止となっており、スバルラインの入り口の駐車場に車を置き、そこから、富士急のバスで5合目まで登った。9時半頃に5合目に到着。そこには広い駐車場、ホテルやレストランがたくさんあり、お盆休みの観光客がひしめきあっていた。眼下に雲海が横たわっていたが、頭上には雲ひとつなかった。樹木も5合目付近まではあるのだが、そこからは姿を消し、丈の低い高山植物がところどころにあるのみであった。売店で杖1本とペットボトル入りのお茶を4本買い、午前10時頃に登山開始。富士山といえばツアーの宣伝にもよくあり、比較的楽に登れるとの認識しかなく、ハイキング気分で出発したのだが、後で大きな間違いであったことを思い知らされる。5合目から6合目はなだらかで、ここまではたいしたことはなかった。6合目から7合目は徐々に傾斜がきびしくなり、4年生の娘が遅れ始めた。この頃ようやく、登頂にはやはり杖が必要であることを痛感し、7合日の売店につくと、3人分の杖を買った。8合目までの間はさらに傾斜も一層急になり、岩場で危険のため鎖を渡してあるところもあったが、鈴のついた杖を持った娘は元気を取り戻し、私と一緒に登った。息子と妻は高山病にかかり、頭痛と嘔気のためペースが落ちてしまった。本8合まで登ったときすでに午後4時頃となっていたが、「頂上まで1キロ約60分」との案内看板があり、勇気づけられた。はるか眼下にいる妻と息子に「もう少しだから、早く上がってこい」と手招きしたが、「先に行って碩戴、そこの山小屋まで登ったら休んで待っている」と返事があり、ここからは娘と2人だけで頂上を目指した。まわりの酸素が薄くなり、少し登ると息があがる。少し休んでは息を整えまた登るの繰り返しで、ほとんど言葉も出ない。気温もかなり下がっており、長袖を重ね着して登った。8合5杓のご来光館を過ぎると霧がでてきて、吐く息も白くなるほど寒くなつてきたので、娘は私の大きなウインドブレーカーを着て登った。スキーでひざを痛めていた私の足はもう限界であったが、頂上を目の前にしてどうしても引き下がれなかった。浅間大社の鳥居を2つくぐり、ようやく午後5時頃富士山頂に到着した。周りも霧で薄暗くなっていたため、10分ほど達成感に浸った後すぐに下山を開始した。下山では息は苦しくなかったが、かなりひざには負担がかかり、徐々に痛みがましてきた。また、登山道と違うところを歩くため、妻と息子にうまく出会えるかと不安になり、ご来光館から妻の待つ携帯に電話をかけてみたが通じなかった。午後6時ごろ、ようやく本8合の富士山ホテルで暖をとっていた妻と息子に合流し、すぐに4人で下山を開始した。日も沈み、満月の月明かりがたよりの下山。もちろん懐中電灯など持っていないので、月が雲にかくれると下山も困難となる。「お盆休暇の富士登山で一家4人遭難」の新聞の見出しが頭をかすめた。偶然にも、7合目あたりで休んでいた懐中電灯を持った3人の男性に出会い、一緒に下山してもらうことをお願いし、ようやく無事帰れると安心した。6合日付近まで降りてくると登山道と合流するが、そこから登山道を見上げると急な坂道に、山小屋の灯りが山項に向かってほぼ直線上に美しく輝いていた。まだ小さな娘があの山頂までよく登ったものだといまさらながら感心した。午後8時頃、6合目を過ぎると明朝のご来光を拝むツアーの行列と何度もすれ違った。ツアーの人たちはみな坑夫がかぶるような電灯つきのヘルメットをかぶり登ってくる。案内人の「これから宿泊所まで、約3時間登ります。」との説明の声が聞こえ、富士山ツアーも楽じやあないなと思った。ようやく5合日のバス乗り場に着いたのは午後8時50分で、4人とも疲れ切っていた。
河口湖のホテルで迎えた翌朝は雨で、昨日登った富士山は雲に隠れてまったく見えなかった。一家は脅威の回復力を見せ、食欲も普段通り。河口湖付近にある野演公園でリスや猿やウサギなどとふれあう楽しいひとときを過ごし、帰宅の途についた。
大変な家族旅行であったが、自然の美しさと怖さ、登山のおもしろさと大変さを知り、家族みんなにとって貴重な体験であった。もし、今度登るとしたら、鈴のついた杖と懐中電灯を準備し、山小屋の予約をして、2日がかりで登りたいと思う。
朝食前のひととき、近所の山里の道を歩く毎日である。
秋の朝いつものひとのすれ違ふ
葛の花に風薫るなか、青栗や青胡桃を眺め、朝の空気の中を歩くのは爽快である。
こんなふうに自分の身体ひとつで田舎の里山の自然に触れると、また新たに見えてくることもある。
たとえば百姓家の庭先には、必ずと言ってよいほどいろいろな花が咲いている。わたしの古里であるこうした田舎で、昔からの農民の伝統の生活のなかの文化や心の豊かさに思いめぐらされる。
百姓家畑の傍の白桔梗
真夏のさなかに、わずかに穂色がつき始め、いよいよこれからという段階の稲を刈り倒してしまう青田刈りの景を目撃したことがあった。
夏の朝、田んぼ道を散歩していると、軽トラックが止まつた。降り立った男の持つのは肩に下げた草刈り機であった。こうるさい機械音を立てるが、全体には黙々という雰囲気で、水田一枚そっくりと稲を刈ってしまつた。
炎天に青田を刈れる農夫の背
その農夫の心情はさぞやつらいものと思う。ここまで育ち来た稲を刈ることは、我が子を捨てるようでもある。青田刈りで生産調整しての補助金交付など擬問だらけの農業政策であろう。
夜の田んぼ道を散歩すると、昼に刈り倒された稲が乾燥して、乾し草の良い香りが漂い来て、さらに郷愁と哀感が誘われる。
刈り後の乾し草の香や夏の月
その後も稲の好むえらく暑い気候が続き、稲穂はみごとな黄金色となつた実りの秋の訪れである。
おそらく兼業農家が多いためであろう。晴れ続きの九月初めの週末、あちこちでいっせいに稲刈が行われたのであった。
ところでご存知ですかしら? 最近の稲刈りの機械のハイテクぶりったらすごいですよ。
わたしは「う−む、秋の風物詩じやわい。」と見物していて、すっかり驚いたんです。このコンバインとか言うやつ、最新型のは稲刈りと同時に籾米を毟り取り、一気に袋詰めまでしちゃうんですよ。稲藁のほうも同時に切り刻んで、袋詰めまたは田圃に撒くというオプションつき。
この籾米を、夕方からは今度はうなり声をあげる乾燥機で一気に人工乾燥というわけである。
以前から、農家では自分たちの食するお米だけは、稲架(はさ)に稲藁を架ける天日干しをするということも聞いていた。この自動機械刈りではもうそれもないであろう。
ふと百姓の老父と中年になった後柩ぎ息子の関係や会話などが想像される。
「とうちゃん、めんどくさいからさあ、はさ立ては今年からもうやめようてえ。」
役所勤めと兼業だが、御先祖さまからの田畑農業を後継してくれた息子に、無言で同意する老いた父。ともかく、今年も無事に収穫できたのが、ありがたい、ありがたい。
自家米もつひに止めたる天日干
稲刈りの手足のばせる湯船かな