長岡市医師会たより No.251 2001.2
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表紙絵 「蔵王辺り」 丸岡 稔(丸岡医院) 「新年ボウリング大会優勝記」 福本 一朗(長岡技術科学大学) 「新年麻雀大会優勝記」 鈴木 丈吉(鈴木内科医院) 「新年囲碁大会優勝記」 太田 裕(太田こどもクリニック) 「山と温泉47〜その29」 古田島昭五(こたじま皮膚科クリニック) 「大菱喰と菱の実」 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)
蔵王辺り 丸岡 稔(丸岡医院)
新年ボウリング大会優勝記 福本 一朗(長岡技術科学大学)
生来の運動音痴のため、野球は「打てば三振守ればトンネル」、テニスはラケットを壊しネットをぶち抜き、ゴルフは7番アイアンでボールをネットにぶつけるのみならずクラブを折りボールを失い、散々周りに迷惑をかけてきたため、ほとんどすべての球技は「縁無き衆生は度し難し」と諦めてきた小生が、今までただ一つ続けることができたのはメディカルボウリング・クラブに平成5年から参加させていただいているボウリングだけであった。「続ける」といっても、まさにアベレージは「下手の横好き」を証明して低空飛行を続けハンデは逆に上昇に転じて今年から大台の200点をいただくようになった。さらにとどめは昨年12月の大会でついにメディカルボウリングクラブ最下位の15位という成績を記録したからには、「もう引退するしかない」と落胆し「今生の投げ納め」と思って参加した今年の新年ボウリング大会に、並み居る上手先輩諸氏をさしおいてどういうわけか優勝してしまった。しかも216ピンというお恥ずかしい成績であったが、今まで一度も取ったことのないハイゲーム賞もいただいてしまった。その翌日にはまさに「晴天の霹靂」「瓢箪から駒が出た」「弾みというものは恐ろしい」「神をも恐れぬ所業」「天変地異の前触れ」「世も終わり」「あっと驚くタメゴロー」「えつ−、ストライク4回以上続けたことの一度もないパパが!!」「うっそ−、マジ?」「信じらんな−い!!」などなど家族や同僚の驚愕・称賛・誹謗中傷・悪口雑言の嵐であった。大先輩の茨木先生は常々「ゴルフではビギナーズ・ラックでホールインワンなどまぐれで入ることはあるが、ボウリングは技術がなければ好成績は上げられないために、パーフェクトはプロでないと無理。」とおっしゃっておられるが、今回の優勝はまさに「嘘から出た誠」「偶然の産物」としか思えない。大体1月12日は第1ゲームも第2ゲームも昨年度のアベレージの134点をすれすれクリアしていただけだったので、「今年も参加賞だけはいただいて帰ろう」と、リラックスして後半に臨んでいた。特に最後の第4ゲームは、「二球目はない、ただこの一投と定むべき」とスペアを取ることを一切考えず、スコアも気にしないで、ただひたすらいつもの右第1スパッツにボウルを優しく投げ込むことだけを心がけて投げた。いつもは邪念妄想に捕らわれていらいらしながら投げていたのが、この度だけは虚心坦懐にひたすら10本のピンの芯だけを見つめていたのが幸いしたのか、終わってみると既に200アップされていてハイゲーム確実と思われていた茨木先生はじめ諸先生方のハイゲームを上回る216ピンであった。およそ大会賞品と名のつくもので、生まれて始めていただいた賞品は、「インスタントコーヒー6瓶詰め合わせ」と「御菓子の詰め合わせ」 で、家族ともども大喜びで有り難くいただいた。
小生とボウリングの出会いは1968年の春に大学入学して上京した年から始まる。そもそも日本におけるボウリングの歴史は、1861年6月22日長崎・出島の外国人居留地内で「インターナショナル・ボウリング・サロン」がオープンした時から始まったとされている。その時から百年後の昭和47年に日本ボウリング場協会は、日本人が初めてボウリングと出会った記念すべきこの日6月22日を「ボウリングの日」として制定している。1864年幕末に開港した横浜で1864年5月にボウリング・サロンがオープンし、1869年4月には開港間もない神戸に外国人社交クラブが誕生してボウリングレーンが設置され、明治30年代は日本人の間にも広まって学校の運動会で行われるようになり、大正時代には各地のYMCAでボウリングが行われたという。そして1952年(昭和27年)12月20日、現在の秩父宮ラグビー場付近に米軍の格納庫を利用して開場した東京ボウリングセンターは、昭和62年3月には吉祥寺第一ホテル地下に移転し、北青山の跡地には記念碑が建立されたという。昭和40年代には第一次ボウリングブームが到来し、1967年(昭和42年)に男子プロ、1969年(昭和44年)に女子プロが相次いで誕生した。その翌年の1970年に第1回全日本女子プロ・ボウリング選手権で中山律子女子プロ初の300点ゲームで優勝したことなどを契機に、ボウリング関連のテレビ放映が週14本という大ブームが到来した。小生が東京で学生生活を送っていたのはこの第1次ボウリングブームのまっただ中であった。時はまさに昭和元禄・明治100年・GNP自由世界第位・失神女優ブーム・ラジオ深夜放送ブーム・スカートめくり(漫画「ハレンチ学園」から)・三億円事件・札幌医大教授和田寿郎先生による日本初の心臓移植・川端康成先生のノーベル文学賞受賞・金嬉老事件などなど昭和史に残る様々な事件が一度に起きていた。しかし上京して始めた下宿生活に戸惑っていた孤独な18歳の田舎者には、東大医学部自治会が登録医師制度に反対し無期限ストに突入して安田講堂を占拠することで始まった東大紛争のお陰で、駒場の教養学部に登校してもストライキで授業は中止。さりとてノンポリを決め込んでいた身ではデモ・アジ演説・オルグ・ゲバルトなどには全く興味をそそられなかった。しかたなく夏休みには故郷で自動車学校に通い、学期中は少林寺拳法部で激しい稽古に明け暮れ、週末ともなれば友人の下宿に転がりこんで大家さん一家と近くの八幡山ボウルに出かける毎日を過していた。この頃の東京では駒場と渋谷とのわずか2kmの間に10ケ所以上というように雨後の筍の如くボウリング場が林立していたが、週末ボウラーはそれを上回って雲霞のごとく押し寄せ、待ち時間3時間などざらであった。プレー中のBGMには「誰もいない海 (トワ・エ・モア)」「知床旅情(加藤登紀子)」「The Circle Game(パフィ・セントメリー)」などが流れており、そして映画館では「いちご白書 The Strawberry Statement」に女学生が押し寄せ、テレビでは森光子・堺正章・天地真理・松原千恵子の「おかみさん、時間ですよ!」とアニメの「あしたのジョー」が人気を博していた。その時に毎週通い詰めていたボウリング場で一番安かった16ポンドのボウルとシューズを買って、30年を経た現在も後生大事に使っている小生である。9年の海外留学を終えて1991年にスウェーデンから帰国赴任した長岡では、幸い医師会のメディカルボウリングクラブに入会させていただき、毎月第2月曜日に愉しくプレイさせていただけることは、普段なかなかお目にかかれない開業医の先生方の御話を伺えることや、重鎮の先生方好みのコンパニオン嬢とともに12月の納会で杯を酌み交わせることと並んで、今ではすっかり小生の年中行事となって定着している。平成5年には我が国のスポーツ参加人口の第1位となつたボウリングは、1ゲーム投げると40分の散歩に相当する運動量があるといわれているが、高齢化社会に誰でも楽しめるスポーツとして定着しハイテク化の進行とともに、ノンガターが普及してますますエイジレスなスポーツに進化してきている。またボウリングは既に国民体育大会・アジア大会種目となっており、今後はオリンピック正式種目にも採用されようとしている。老後にも続けられる「身体と環境に優しいスポーツ」として今後ともボウリングは国民の健康に寄与してくれるものと期待されており、特に冬期に高齢者向けの適当なスポーツが少ない雪国では、医師たるもの患者さん達の運動療法として、週1〜2回のボウリングを処方されるべきかと信じています。小生も身体の動くかぎり続けてゆきたいと願っておりますので、今回のような良い成績は2度ととれないと思いますが、この生来の不器用者を御許しの上、今後ともよろしく御つきあいいただけますよう、ここに御願い申し上げます。御声援、有難うございました。Viva Bowling!!
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新年麻雀大会優勝記 鈴木 丈吉(鈴木内科医院)
今年も、1月の最終土曜日である27日に開催されました。場所も例年通り、雀荘「しらかば」です。何年ぶりかの大雪が一休みしたところでしたが、東京では大雪、という日でした。
今回は出場者が8名、2卓でした。人数からみると寂しい感じですが、いずれも一騎当千というすごい先生方です。そんな中、1回戦はちょぼちょぼ。2回戦もあまり大きな手をあがった記憶はありませんが、運良く振り込むこともなく、トップにたってしまいました。いつもだとここで腰が砕けます。状況判断ができず、無理をして結局墓穴を掘ることがほとんどです。ただ、今年は最終メンバーに助けていただきました。最後まで何とか点棒が出ていかないですみました。
一昨年、昨年と高橋剛一先生の大きな手(四暗刻、国士無及)が出ましたが、今回は二塁打クラスの応酬だったようです。そんな中で、取られる方に入らず、漁夫の利をいただいてしまいました。
闘争心なく、研究心もなく、ただ運を天に任せて楽しんでいる、というのが私の麻雀です。それでも稀には勝つことがあるため、なかなか足を洗うことができません。私が医師免許証をいただいた頃は、病院の中もまだゆったりとした感じがあり、仕事が終わった後は和気あいあいと牌を握ることが多くありました。昭和50年代まではそんなだったと思います。卓を囲みながら、人間的なふれあいを多くいただいてきました。その後、病院業務が増えるにつれ、時間の無駄遣いをする余裕はなくなってきました。それに歩調を合わせるようにして、人間関係も何となくギスギスしたところが出てきたように思います。開業してからは、さらに牌を握ることが少なくなりました。
平成5年、当時医師会副会長だった高橋先生から幹事役を仰せつかった時に、「優勝したら、幹事役を勘弁してやる」というお言葉をいただいていました。まるで、永久幹事になるように、という印象でした。その後、期待されていたとおり、地下鉄並に下位をキープしてきました。これでようやく何とかなるかな、といった思いでおります。
とはいえ、にぎやかに世間話をしながら卓を囲んでいる、というのはやはり楽しい時間です。もっと参加者が増えて、賑やかな大会になることを願っております。
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新年あけましておめでとうございます。
医師会恒例の新年碁大会で幸運にも優勝する事ができました。皆様ありがとうございました。何か一言という事ですので、この碁会について簡単に紹介したいと思います。
医師会新年碁会に参加されている先生方は、関根光雄、斎藤良司、杉本邦雄、増村幹夫、小林矩明、斎藤古志、黒川和泉、金沢信三、大塚武司、太田裕の常連組みと八百枝浩、後藤千之、高須達郎、三間孝雄、吉田正弘、福田光典の新鋭上昇組みの皆さんです (敬称略)。
皆さまの棋風はそれぞれ非常に個性的でご紹介したいところですが、以前この欄で斎藤古志先生が各々の先生の特徴を的確にそしてユーモラスに紹介しておりますので是非一度ご覧ください。この会は「和を以って貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ」をモットーとし、囲碁の戦いはするものの和気藷々とした楽しい集まりです。実力はといいますと六段三人、四段六人、三段二人、初段一人、その他若干名、なかなかの実力者ぞろいです。今回も対局が始まるとすぐに「早く宴会やりましょうて」との小林先生の提案で、1時半に対局が始まり、5時に宴会開始が決定。宴会の乾杯は少し遅れて来られた大塚先生。腹ごしらえが終わるとそれぞれお酒を持って対局室へ。会が終わる時、初参加の福田先生曰く「こんな楽しい会だとは思わなかった!」 この言葉からこの会の雰囲気が伝わってくるものと思います。囲碁は、右脳を鍛え、右脳に住むもう一人の自分と対話ができます。そしてボケを防止し、若さを取り戻し、人間関係を滑らかにし、人生を楽しくしてくれます。欠点は親の死に目に会えない人が稀にいることでしょうか。いずれにしても人生を楽しく豊かにしてくれます。碁をされていない方は、新しい楽しみを捜しに囲碁を始めてみてはいかがでしょうか。
前々回の、大赤沢からの苗場山頂への「大赤沢道」は、最近の情報が解らず説明が不十分でした。私も登路の「横山」辺り迄は確認したのですが、横山から上部を確認しておりませんでした。二つの旧道は既に廃道となり、新しい登路が伐開されているのですが、所謂山案内書がありませんでした。しかし、この11月15日に案内書が発刊されました。「山と渓谷社」刊行の「分県登山ガイド・新潟県の山」です。ご覧ください。大赤沢・横山・猿面峰1832mから直接山頂三角点に立つ登路です。標高差約1600米、硫黄川と小赤沢川に狭まれた長い尾根を登ることになるので、隣の「小赤沢道」に比べて距離が長くなります。しかし、登山者が少なく、静かで長閑な登高が出来るようです。
ホ:上ノ原・栃川高原(和山道)道
上ノ原・(栃川高原道(和山道)・上ノ原道)二道合流点・栃川徒渉点・平太郎尾根・坪場(小赤沢道分岐)九合目
国道405号線を小赤沢集落から3キロ、途中、屋敷集落を右に分け、間もなく左の山腹急斜面に張り付くように世帯数25の「上ノ原」集落があります。地籍、長野県下水内郡栄村大字堺字上ノ原。
この登路の登山口は2ケ所あって、一つは上ノ原と小赤沢を結ぶ林道から、もう一つは上ノ原から国道を更に和山・切明方面に向い、栃川高原から入る。共に登山口の標示はなにもないので、上ノ原集落の外れにある「のよさの里・牧之館」(栄村振興公社経営)、栃川高原の民宿「ヒユッテひだまり」(相沢博文氏経営)で確かめてください。相沢氏は秋山郷観光協会会長だそうです。いずれにしても、地元の人達に聞くしかないようです。私も「のよさの里・牧之館」「ヒユツテひだまり」で登路を確かめて入山しました。
「越後の山旅」下巻に「上ノ原道」の記載があります。2ケ所の登山口も同じです。上ノ原集落・栃川高原共に登山口迄の路が変わっています。注意してお読み下さい。
上ノ原道:国道のバス停左折集落の中の舗装道路をジグザグに急登、集落を抜けると右に「のよさの里」の看板、ついで、右に「のよさの里キャンプ場」、と林道は東南に向い延びている。「天池」を回り、展望が開け、鳥甲山の雄大な姿が間近かに迫る。「天池」 の水面に鳥甲山が写ると言う。間もなく狭い砂利路の林道に変わり登りになる。大きく左、右に二曲がり、南に向い少し行くと緩やかに左に向う林道の右側に、雑木林に入り込む2本の轍跡のある幅2〜3米の路、これが登山口。登山口から約5〜600米で2合目、栃川高原からの登路合流点。杉の混じった暗い樹林帯を緩やかに登る。林道は整備されていないので車の場合は注意。登山口周辺の林道には駐車可能な空き地はない。ここより5〜600米先の林道に駐車可能な広さのある場所があるので其処を利用するしかないようです。
栃川高原道(和山道):もう一つの登山口は、国道405号線の栃川高原にあります。前記の上ノ原集落からの登路とは、栃川を渡り急登後合流します。上ノ原道2合目。上ノ原集落から国道405号線を更に和山・切明方面に向う。近代的な栃川橋を渡ると長い急坂となり、登り切ると三叉路となります。国道は左折、間もなく栃川高原。直進すると、新道経由で和山(温泉)・切明(温泉)への近道。と言うより、国道が喬木、潅木の深い森を走るので展望は利かないのと違い、新道は深い中津川渓谷を創った山の樹林帯の無い山腹を走るため、展望は抜群、鳥甲山を中心とした西側の山並みが一望出来ます。国道の三叉路を左折、更に左に回ると栃川高原で、右に小さいキャンプ場、左に使われていないテニスコート跡がある。道は右に大きくカーブする、その右手に「ヒユッテひだまり」、カーブした先の高台に「温泉休憩所」があり、この2軒の民宿の中間、国道左側の草叢に車の轍跡がある。これが登山口となっているようですが、標示、標識は見当りません。草叢の路は工事用道路であったらしく、北に向い延びています。路の左側は、設備の取り払われてしまった広いテニスコート跡。路は200米先で東に向きを変える。此処に鉄鎖のゲート。車は此処まで。バス停は国道三叉路。此処まで歩行15分。ゲートからは、草叢の無い、潅木の森中の広くしつかりした路となり、約20分で栃川の広大な石河原に出る。路は、栃川の左岸を上流に向い300米程行くと、本流に架かる二本丸太の丸太橋(写真1)。不安定なので渡るより本流を徒渉したほうが安全。右岸に渡る。右岸山腹の登路取付き点、登り口は浸食のため5、6米余りの崩れ落ちた崖上に山頂への標柱が漸く現われることとなる。これが登山口と言う事になります。
上ノ原道は、上ノ原小赤沢林道の登山口から、杉の混じった暗い森中を緩く登る。登路は歩き易い。2、30分で和山道との合流点1160mに着く。
和山道は、栃川を徒渉後、右岸の崖の登路が分かりにくいので注意。右岸の崖は浸食のため高く、度々の本流増水、氾濫で抉れ、崩れ落ちてしまっているため登路がみつからない。屋上の露出した樹の根に結ばれ垂れ下がっているナイロンロープと、雑木の赤いビニールテープを見付けなければならない。雑木の枝に捲き付けられた赤いビニールテープを目標に、雑木に捉まり5、6米余の崖を崖上に這い上がると、林の中に標柱と細道ながらはっきりした登路に出る。此処から比高150米の上まで見通せる林の中の一直線の急登、約一時間。登路は露岩混じりで歩きにくい。しかし、山毛欅、楢に楓が混じり素晴らしい美林、しばしば立ち止まり、眺め、辛い急登も時間をも忘れさせてくれる。二道の合流点は太い山毛欅木(写真2)、幹に「和山方面」、根元に古い看板が置いてあり、消えかかった字で「二合目」と読める(写真3)。此処からは、緩い登り下りを繰り返し、幾つかの沢を渡る。登路は刈り払いがされていないので沢と気が付かないような小さい沢を足探りで渡る。再び栃川の支流ヨモギド沢の石河原に出る。右岸より左岸に大きい石を伝い徒渉。石河原より見上げると尾根が壁のように見える。これより上は水は得られないので、十二分に補給しておく事。この登路の最大難関は此処からの急登、頂上台地下段1800m等高線まで約600米、唯只管一直線の急登。先ず、平太郎尾根4合目1480mまで林の中の一登り、尾根筋は森林、登路は整備されてはいないが、歩きにくい事はない。いくら登っても登っても、平らに出ない。展望もなにもない、難行苦行3時間半、距離は短いがこの急坂は登山の醍醐味なのだろうかと思う。座り込むようになって、急坂が終わる。と言ってもまだまだ比高200米を緩やかに登る。この辺りの登路は荒れている。間もなく「梯子沢」の涸れ沢に降り立つ。この辺りでは、珍しくスラブ状の岩、岩の間を登る。登路は分かりにくく間違いやすい。岩に印が残っているので注意しながら登ってください。涸れ沢を過ぎると漸く最後の崖、これを登り、暫く行くと小赤沢道との合流点に達する。この上之原・和山道は、苗場山登山道中最短距離、そのため急登を強いられるのは仕方の無い事、しかし登山の醍醐味ではないだろうか。殊に頂上稜線近くの涸れ沢は必見。私は疲れてカメラを出すのを忘れた。残念でした。登路は整備されていませんが、お薦めコースです。
登られる方に注意。コース全体が全く整備されていません。古いままです。二ケ所の徒渉点は、対岸の登り口が変わります。標示を確認してください。河原のケルンはあてになりません。又、小赤沢道との分岐点から滑れ沢(梯子沢)、滑れ沢の入口付近は、霧などで視界不明瞭の場合は迷い易く、慎重な行動をお願いします。来た道を引き返せるように気を配って置いて下さい。(つづく)
「お帰んなさい。福島潟も寒かったでしょう?」
「ああ朝出がけは晴れてたけど昼食時はすごい雪風巻で設営のテントが一部飛んだくらい。でも晴れ間にオオヒシクイと白鳥と鴨の群は望遠スコープで観察してきたけど、素人には写真撮影は無理だった。」
「それで潟鍋コンテストはどうだったの?」と家人は興味津津。
「いろんな種類があっておいしかった。でも投票はごったがえしていて適当だったよ。お楽しみ抽選もあったけど残念賞の竹とんぼ。そうだ、これはお土産だよ。」と家人に小さなポリ袋を渡す。
「一緒に味見しようと貰ってきたんだ。これが菱喰の語源の有名な菱の実なんだな。」
「まあ、ありがとう。あらあ、本当に菱形しているのね。」
「そうかな? 先が尖ったりしてあまり菱形じゃないなあとぼくは思ったんだけど。」
家人が示す向きから改めて眺めてみる。辣状の細部は無視すれば、その数センチの硬い歪な黒い実はたしかに菱形をしているのであった。
すこぶる硬い殻をもつ菱の実だが木の実ではない。図鑑で調べたら菱は一年生の水草なのである。この硬い実が泥の中で春には芽吹いて、葉を茂らせる。夏に葉の脇から伸びたところに白い小さな花が咲く。秋に実が成るのを採取して、古来食用にしてきたのだそうだ。古くは 「紀記万葉」にもその菱の名が出ている。
わたしはその祝日に「オオヒシクイの里」と呼ばれる豊栄の福島潟に冬の水鳥の探鳥と、開催される鍋物コンテストの見物がてら出かけてきたのであった。
オオヒシクイとは菱の実を喰うことから付けられた名前で、ちなみにやや小型のコヒシクイという種類もある。大型の鴨の仲間でガンとか雁と呼ばれる有名なマガンのいとこみたいな種類である。最近ではマガンもオオヒシクイも数が激減していて日本では天然記念物に指定され保護されている。
数千キロの旅をして、秋にカムチャツカ半島方面から飛来する。厳冬を日本の北国で過ごして、春先にはまたお国へ帰ってゆくという冬の渡り鳥である。産卵、繁殖はロシアでするわけだから、新潟には避寒に来るお客様なのだ。
どうせならもっと暖かい地方まで行けばよいのにと思うが。
この冬シーズンも野鳥観察ネットワークによれば約7000羽のオオヒシクイが日本に来て、そのうち6000羽余りが福島潟に暮らすのだそうだ。
さてその菱の実であるが、どんなものであれ、なにかを生れて初めて食べてみるのはわたしにはとても愉しみな体験である。
塩茹でしてある菱の実の硬い殻を鋏で端を切りこじ開ける。中身は白いロウのように見えるのをほじくり出して家人と分け合い口に入れる。
「なんだかロウみたいな味ね。」
「そうかな、微妙な味わいが塩味の中にもあるじゃない。もう少したくさん食べてみなよ、松の実が近いかもね。」
菱の実は5個しかなかったので、すぐに無くなつてしまった。
「食べ足りなさそうな残念な顔付きですね。」と家人。
菱の実は甘栗、南京豆に似て癖になるタイプの食い物であったのだ。
そうだ。もうひとつの名物はオニバス。夏になつたら、この大きな蓮の小さな花を観賞にもう一回福島潟に行こう。たぶん保存食の菱の実も置いてあるんじゃないかしらん。
夏に来て菱の実探すオオメシグイ