長岡市医師会たより No.252 2001.3

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もくじ
 表紙絵 「魚沼早春(中里)」  丸岡  稔(丸岡医院)
 「開業一年の雑感」       脇屋 義彦(わきや医院)
 「開業一年目の雑感」      加藤 英雄(加藤クリニック)
 「在宅診療の体験報告〜その2」 板倉 亨通(北長岡診療所)
 「お迎えがついに」       郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

魚沼早春
(中里)  丸岡 稔(丸岡医院)
開業一年の雑感  脇屋 義彦(わきや医院)

 平成12年12月に、ここ関原町にて開業してから早くも1年が経ちました。本来ならば昨年12月に本誌にこの文を掲載せねばならなかったのですが、父の急死のため編集部のご厚意で3月まで延期させていただきました。しかし結局この文を仕上げたのは締め切り間際になってしまい、相変わらずの自分に苦笑しています。

 昭和58年に長岡赤十字病院に赴任して以来、このぼん・じゆ〜る紙上にて長岡市医師会A会員がいつも100人を割っていたことから、まだまだ大丈夫かな、などと思っていましたが何で急に独立を思ったのか今考えてもよくわかりません。ただ、独立開業すれば生涯現役でいられる事や、自由時間が多くなるのではないか等と以前からなんとなく考えてはいました。また、勤務医時代から、論文を書かなくなったり、それなりの学会に発表する意欲がなくなったりしたらその時は自分の引き時と思っていましたので、最近の自分を見てみますとまさにその時がきたと残念ながら認めなければならなかったこともあるように思います。

 開業の場所選びはあまり考えませんでした。本来ならば父親の開業している場所にそのまま引き継いでやればいろんな面で一番楽なわけでしたが、何しろその地は私が高校を卒業したころに比べて人口は半分に減り、今後も減ることはあっても絶対に増えることの望めない地域でしたので、幸い我が家の土地があったこの地での開業としました。ただ裏通りで、しかもバス停から離れた場所である為に、先に開業した先生方や日赤病院の先生方からもあんな所で大丈夫か、などとご心配をいただきました。開業前にそういうことを言われると非常に不安になるもので、さすがにのんびり屋の私も因ってしまいました。

 野立ち看板や電柱の看板はどうか、バスの車内広告や車内放送はどうか、新聞の折り込み広告はどうかなどなど、しかしどれもかなり費用のかかることや、どれほどの効果があるか非常に疑問であった為に、わかりにくい当医院への幹線道路からの曲がり角の数箇所にだけ看板を頼みました。しかしその後も地域の回覧版の表紙、住宅地図、消火栓、電柱、バス停、ミニコミ紙その他数え切れないほどいろんなところからの広告依頼があり、あまりの多さに呆れるとともにどれを選択していいかわからず、すべてお断りをしてしまいました。結局、看板を見て受診をしたらしい患者さんはこの1年間でわずか二人だけだったことから、看板は少なくしていてよかったと思っています。今になつてみますと実家に近かったせいか、以前に祖父や父に診てもらった事があるという患者さんやその家族の方たちが受診してくださり大変に助かりました。

 開業準備にあたり多くの先生方からお話を伺いましたが、いろんな書類やら物品の準備やら手続きやらと、とにかく煩雑多忙を極め、開院直前には数時間の睡眠時間しか取れないので、少なくとも開院の一ケ月前には病院をやめて準備に専念しなければなどと教えていただいていました。しかし結局2週間前にようやく病院の仕事から離れることができ、これでは開院までに準備が終わらず大変なことになるのではと心配しましたが、案に相違して毎日夜になるとやることがなくなり、何か重要なことを忘れているのではないかと、不安になりました。結局開院後も特に何事もなく今日まで至りました。今考えるにきっとスタッフをはじめとして周囲の方たちの非常な協力があったからと思っています。

 開業してゆくにあたり一番肝心なことはスタッフと考え、人選には慎重を期しました。仕事熱心で、人当たりがよく、気が利いてと欲を言えばきりがないのですが、幸いにもとてもいいスタッフが集まってくれて患者さんからの評判も良く、ほっとしています。

 開業したらとにかく仕事に専念することと自身にいいきかせ、そのために診療所と自宅は同じ敷地内とし、いつでも患者さんから連絡ができるようにとしました。それほど多くはありませんが夜間や休日にも時々患者さんからの電話や受診がありそれなりに対応しています。また勤務医時代は自分の専門領域に関する学会や研究会、講演会には可能な限り出席し、最新の知識を吸収するように努めていましたが、診療所を留守にしないという考えから長岡地区以外での会には極力出席を控えるようにしました。非常に残念ではありますがしばらくの間は続けようと思っています。ただその結果として体を動かすことが極端に減り、著しい運動不足に直面し、その対策を真剣に考えているところです。

 以上まとまりがありませんが開業1年の雑感を述べさせていただきました。最後に開業に際して、種々お教えいただき、貴重なご意見を賜った諸先生方を始め関係者の皆様、また開業間もない患者さんの少ない時期にわざわざ患者さんをご紹介いただいた諸先生方には、この紙面をお借りして心から御礼申し上げますとともに、今後もより一層のご指導ご鞭撞をお願い申し上げます。

 

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開業一年目の雑感  加藤 英雄(加藤クリニック)  

 長岡市の川崎6丁目に昨年3月31日に開業させて頂いてからまもなく1年が過ぎようとしています。私も周りの人に迷惑をかけつつ、かつご協力を頂き、開業2年目を無事迎えられそうでホッとしております。厚生連長岡中央綜合病院外科に6年間勤務させて頂いてからの新規の開業となりました。縁もゆかりもないこの地域に開業したということは、私自身自然に恵まれた長岡がかなり気に入ったためと思われます。

 私は、上越市(旧高田市)の出身で、高田高校卒業後、浪人生活の後、新潟大学入学、卒業後は新潟大学第一外科に入局いたしました。恩師、武藤輝一教授(現国際情報大学学長)のもとで、外科医として一番大切な手術の鍛錬のみならず学位まで取らせて頂きました。医局の事情で県内外の病院を転々と出張しましたが、長岡市では立川綜合病院に半年問お世話になりました。その当時大貫啓三先生が消化器内科をまとめておられたと記憶しております。大学医局時代は、肝・胆・膵グループ(OBには長岡中央綜合病院清水武昭先生、金沢医院金沢信三先生、神谷医院神谷岳太郎先生らがおられます)に属しておりましたが、画像診断に関してかなり絞られたような気がします。今では誰も信じてくれませんが、このころ食道静脈瘤に対する内視鏡的硬化療法を頼まれて出張したものでした。平成6年4月より長岡中央綜合病院に就職となり、佐々木公一先生(現在長岡西病院)のもとで乳癌、胃痛、大腸癌、食道癌の手術のみならず多くの肝切除術、膵頭十二指腸切除術を執刀できたことは身に余る光栄と思っております。長岡市にきた当初は開業することなど全く考えたこともありませんでしたが、色々考えるところがあり平成10年秋頃に開業を決意しました。よく世間では、開業は思い立ってから最低2年かかると言われていますが私の場合もそれに違わず約1年半かかりました。開業地の選定に一番時間がかかりました。他医院との距離はどうか、その専門性は何か、道路に面しているか、交通の便はどうか、周辺の世帯数はどのくらいあるか、など色々な問題点がでてきました。結局、長岡市は医療機関が多くなかなか開業に適した土地がないことがわかりました。女房も〃開業を止めたら〃と言う始末でしたが、丁度そのとき今の場所の話が飛び込んできて、条件面でも折り合いがつき川崎6丁目に開業が決まりました。

 長岡中央綜合病院から比較的近いこともあり、今まで外来で診ていた多くの患者さんが来てくれました。遠いところでは、フランス(実は見附在住で留学している)、新潟市、十日町市、入広瀬村、和島村、分水町からも来てくれて、これらの患者さんのためにもよりよい医療を提供しなければと思い、開院に伴いCTを導入しましたが、案の定、癌の再発チェックのみならず日常の臨床診断にも非常に役立ちました。また、中央病院の消化器内科の先生方から週一回の割合で大腸ファイバーのテクニックを教えて頂いたことは、消化器科を標樗するためのみならず日常診療をする上でも非常に自信となりました。紙面を借りて厚く御礼申しあげます。(ポリペクトミーも病院勤務時代より腕が上がった?と自負しております。)また、最近増えてきた生活習慣病の患者さんの治療にあたり、開業前から出席させて頂いている医師会主催の講演会は最新の医療情報が得られ非常に有益で感謝しております。

 これからの時代、いくつもの病気をもっている高齢の患者さんが増えてくると予想されますので、幅広い知識を持った開業医となることが重要になつてくると思われます。病院勤務時代は手術と外来に追われ、癌に対する最善の治療を求めて没頭する毎日でしたが、今後は、自分の専門性を生かしながら、かつ、様々な病気に対しどのような治療法が最善か探っていきたいと思っております。そのためには、診診連携、病診連携がより重要になつてくるものと思われます。これからも諸先生方の御指導を賜りたく、何卒宜しくお願い申し上げます。

 最後になりましたが、開業に際し御助言を頂きました長岡市医師会事務局の皆様と御指導、御鞭捷を頂きました長岡市医師会の皆々様に心から御礼申し上げます。

 
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在宅診療の体験報告〜その2  板倉 亨通(北長岡診療所)

【症例2】

 この患者は右半身麻痺と構音障害を呈し、良導絡低周波治療により著明改善後、死亡迄経過観察出来た症例です。

 K・T 84才、女、無職

 1995年3月26日右片麻痺、構音障害にて病院の神経内科に緊急入院しました。退院後の診療情報提供書によれば「頭部CTでは病変を認めず、MRI上、半卵円中心と橋の正中に2mmX6mmの梗塞巣を認め、SPECTで右頭領菓と後頭菓の境界部に脳血流の低下を認め、MRI血管造影では両側内頚動脈サイホン部を含め全ての主要な脳動脈に著明な狭窄像を認めた』と言う事でした。同年6月30日、依頼により往診しました。

 患者はベッドに左側臥位で横たわり、血圧測定の為仰臥位を要求しましたが、寝返りが出来ず、嫁がベッドへ上がって抱えあげて漸く仰臥位にした状態でした。右半身は弛緩麻痺し、右握力は0でした。この患者に良導絡低周波治療を行なってみました。

 右半身麻痺と構音障害、腰背部の痺痛は漸次回復し、食事、入浴、便所への歩行がシニアーカーを押しながら可能となりました。同年12月5日にはシニアーカーを忘れて歩くようになりました。介護者である嫁の言によれば、一時は歩いて近所の家に遊びに行ける迄になつたと言います。併し、常時見ていないと、転ぶと一人では起き上がれないので介護の目は離せないと言う状態であったと言います。1996年10月15日頃再び行動が意のままにならなくなったので、自宅で長男に入れて貰っていた入浴はデイケアに入浴に行く事となりました。同年12月27日、突然腰痛を訴え、起き上がれない状態になり、同30日、食物の帳下が不能となり、経鼻栄養に切り替えましたが、1997年1月7日、死亡されました。

【症例3】

 S・M 85才、女、無職

 1997年4月22日、往診を依頼されました。診療情報提供書によれば、1993                                                              年10月から某院神経内科に通院していました。

(1)老人性痴呆、(ビンスワンガー型)

(2)高血圧症

 にて通院治療を受け、幻覚、パーキンソン症候群、痴呆を認められていましたが、症状は進行性であり、1997年2月28日、癲癇発作の為同院入院となりました。その後一度退院しましたが、気管支肺炎の為、同3月1日、再入院となり、この間にバーキンソン症状と老人性痴呆が高度となり、寝たきり状態へと進み、自宅療養を勧められ、筆者に病用依頼となりました。4月22日、在宅訪問をして診ると、手、足、脊柱が強直し、介護者である嫁や肉親の顔も判別出来ず、少量のプディングしか嚥下出来ない状態で、実子が見舞いに来ても反応が全く見られず、目も一点を凝視し、話もしない状態であり、子供も「植物人間になってしまったので、もう見舞いに来ても仕方がない。亡くなつたら電話を欲しい」と言って帰った程であったと言います。

 担当医から、「本来ならば、胃痩を設置して退院させるのだが、此の痴呆状態ではどうしますか」 と言われ、その侭退院する事にしたと言う事です。患者はベッドに仰臥位に横たわり、口を大きく開けており、介護者が無理に口を閉じさせても直ぐ口を開けてしまう状態でした。手、足、脊柱はミイラ状に強直し、患者輸送にはフルリクライニングの車椅子で無ければ輸送不能であったと言う事です。移動入浴させる時も上肢、下肢、脊柱が強直して居る為、移動用浴槽の湯に体が沈み込まず、体を洗うのに困難を極めたそうです。手背、足背は強く水腫状に赤紫色に腫張し、眼球は一点を凝視し、少しも動かさない状態でした。右下肢は股関節と膝関節で特に強く攣縮し始めていて、布団を挟んで攣縮の進展を予防していましたが、攣縮は進行を続け、踵が背部に接する迄進行していました。この患者に良導絡低周波治療を行なってみました。実は一切の延命治療はしないで欲しいとの家族の要望がありました。何しろ茶さじ数回のプリン投与で水も飲めない状態では、一過間は生存不能と推定していました。数回の低周波治療で、先ず手足の浮腫が消失し、口も閉じて来ました。水も飲める様になり、上肢、下肢も動く様になり、伸展不能であった右下肢が痛みを伴なわず、伸展してきた事は注目すべき事でした。やがて、「おはようございます」とか「有り難う御座います」等も言う事が出来る様になり、筆者に対しても笑顔で挨拶が出来る様になり、子供や家族の名前も分かるようになりました。入浴も移動入浴から施設のデイケアー入浴が可能となり、短期入所も可能になりました。患者のQ・0・Lも向上しましたが、家族のQ・0・Lも大いに向上した例と思っています。その後はテレビも見るようになり、悲しい場面で泣き、面白い場面で笑うという感情の回復が見られました。此の良好な状態が続いて居ましたが、1999年10月28日、原因不明の高熱により、元の病院へ入院させ、2000年1月18日、退院後、初訪問しました。患者は再び無表情、無関心となり、一語も発しない状態となりました。併し、入院前の1年半の正常化は、どう考えれば正解でしょうか?「死んでから電話を呉れ」と言って帰った実子が、感情が回復してから会いに来て、再会を喜んで泣き、別れる時は共に泣き乍ら見返りつつ手を振り見送った状態は感動的場面だった様です。(この情景は介護している嫁の報告を共の侭記載しました。)

 ビンスワンガー型痴呆と診断された患者が本例の如く、好転する可能性の理由は今後の検討を要しますが、在宅診療制度が普及するに従い多くの症例が現れ、病態が明らかになる事を楽しみにしたいと思っております。この症例は本年、8月25日肺炎を起こし、再入院、消化管出血を合併し死亡されました。

上述3例のまとめ

 例示した3例は、何れも発病初期に総合病院の神経内科専門医の診断、治療を受けており、病状の把握は信頼性の高い内容であると考えらます。此の3例の治療経過や改善度を見ると、明らかに可逆性の治癒過程を示していると考えられます。3症例共、良導絡治療を行わなければ症例1、2は寝たきり患者となる可能性は極めて高く、例3は2週間を待たずに死亡したでしょう。

 近時、寝たきり患者が増加して居り、其の社会的対応も充実して来つつありますが、筆者も保険診療に従事し、許される範囲内で脳血管障害に有効とされる内服薬、注射薬等で患者の診療を行なって来ましたが、保険診療内では症例1、2、3の神経内科の担当医と同様な診断基準で診療し、今迄全く疑問を感じないで来ました。供しながら、保険診療の流れを見ると、筆者を例に取れば、脳卒中を起こした患者に往診で呼ばれ、紹介状を持たせて救急車で病院に送り込み、退院して家族が報告に来て一回は往診しても、後は病院から指示された薬を忠実に投薬するだけで、其の後は家族の介護に任されて、発熱等で往診の依頼がなければ患者との接触の機会はなく、医療的空白であったと言える様です。従って脳血管障害のリハビリは、今流行り言葉の自己責任で片付けられて来たのではないでしょうか。従って、脳血管障害の大病院における急性期治療からリハビリに移り、自宅療養から養護老人ホームに到る間は、社会制度のエスカレーターシステムによる流れ作業の様に運営されて来た様に感じられます。この間に何か医療手段が欲しいと兼々考えていたのは筆者だけでは無い筈です。今迄は担当医がこれ以上改善が難しいと判定し、以後は自宅療養として医療の手から放れると、回復の可能性の有る症例1、2、3の様な患者でも廃用性萎縮、拘縮、棒瘡が急速に起って来て、名実共の寝たきり重症患者になってしまいます。過去4年程の短い在宅診療の経験による推論に基づき、リハビリの一分野として良導絡低周波治療の応用を考えてみました。第一に、寝たきり患者の症状の悪化を促進しているのが神経痛様の筋肉痛や痺れ、脱力と考えられます。症例1に見られる様に、上肢、肩、背の痛みは整形外科に受診させられても原因不明と言われ、リハビリも不能でした。其の痛みは妻が誤って前腕に触れても飛び上がる様な激痛であったと患者は言っていました。症例2のビンスワンガー型痴呆では、末期に除脳硬直を示す事があると教科書に記載されていますが、其れに近い症状が見られました。高齢になれば足腰が痛む事は当り前で、消炎、鎮痛剤か筋弛緩剤を対症療法として投与しているか、或いは諦めて放置しているのが現状ではないでしょうか。良導絡治療法の作用機転は各種の推定がなされていますが、対症療法としては、これらの筋肉痛、神経痛、関節痛、褥瘡、浮腫、筋肉の脱力、痺れには、現在のところ最善の適応であると考えています。亦、疼痛の消失も持続的であり、週1回、或いは2週に1回の低周波治療を行う事により、数年間に亘り疼痛の再発や脳血管発作を認めていません。(2週に1回の実施患者に脳血管発作を2例認めたので、2週に1回法は避けております。)これ等の疼痛は症例1に見られる様に手足、体幹の疼痛の為、リハビリが全く不能であり、リハビリの前やリハビリと併用して、良導絡治療で痛みを除いて行く事が大切と考えられます。これらの疼痛に対する良導絡療法の有効性は、良導絡治療を行った経験のある医師であれば、すべて首肯出来る事です。これ等の治療をしているうちに症例3の如く、精神状態の改善が同時に見られる事は興味が深い事です。又、表2Bの87.5%の老人性精神障害の患者全例に有効でした。但し抗精神病薬は併用して居ます。今回、良導絡低周波療法を適用してみて、後述する中谷氏の経験した「劇的効果のあった一例」と言う患者群が、高齢化対策の充実と共に多数見出される事が予想されます。この他、寝たきりになる前の過程としての歩行困難や筋肉の痛み、脱力、痺れに勿論有効であり、此れ等の事例も稀を改めて事例します。

其の二の結語

 良導絡低周波治療は、神経麻痺症状、神経筋肉痛症状、精神症状、手、足背に見られる水腫、浮腫、及び褥瘡に対し、かなり有効と考えられる観察結果を得ました。症例を並べて見て気が付いた事ですが、今回、検討した寝たきり患者の平均年令が83才と高く、40才から70才の患者が欠如している事でした。脳血管障害を起こし易い疾患としては、脳底動脈循環不全、無症候性脳梗塞等が挙げられますが、これらの患者に対し、出来る限り血小板凝集能の測定を行い、高値を示す患者には抗血小板凝集能薬を適量に投与して、正常値の範囲に維持管理して数年になります。此の為に、此の症例検討の中に70才以下の寝たきり患者が少ない(現在は皆無)のかも知れないと推測して居ます。以上は在宅医療の患者群ですが、現在は更に多くの在宅診療や外来患者に対しルーチンに此の療法を実施し、一定の効果を挙げて居ます。興味のある先生の御追試、御批判をお願いします。

 次回、【其の三】 に兵頭正義氏(京大卒−大阪医科大学麻酔科教授)が著わしたSSP療法(無鈍良導絡低周波治療法)と、筆者が診療の合間に、中谷氏の良導絡治療を追試した事例と比較しながら、御報告したいと思います。

 

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お迎えがついに  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 「お帰りなさい。お父さんが電話くださったわよ。今日の新聞にあなたの橇の俳句が載っているのを見たと喜んでいらしたわ。」と家人が教えてくれました。この日は3月5日で新潟日報の中原道夫選の俳句投稿欄に次の拙句が掲載されました。

  鈴音はお迎へに来し橇なるか

 一読しても意味がお読みとりいただけないかもしれませんね。じつはこの俳句は投稿時は前書きがつけてありましたが、掲載時は省略されておりました。新開投旬では前書きなどつけないのが習慣かもしれませんが、初心者のためよく存じません。

その前書きは次のようです。

 〜クリスマスに愛犬コロ太 16歳で大往生す〜

 このコロ太というのは、10年間にもわたり間歇的に本誌に掲載させていただきましたわたしの「犬にまつわるエッセイ」の主人公でありました。犬好きの皆様にもお気にかけていただいておりました我が家のコロ太(柴犬一家の父犬)が昨年末12月25日にとうとう天寿を全うして、鬼籍に入りました。(犬は鬼籍には入れてもらえないかも?)

 この犬の加齢性の内耳障害やら重症肺炎やらを無事に乗り切ったエピソードを一年以上前にお伝えしたのがその執筆の最後でした。その後も重度介護というほどでもなく、けっこう元気に散歩もできて、老後をゆったり暮らしておりました。

 さすがに足腰が弱り、階段は上れなくなったり、主な居場所たる愛用のソファーヘ上るのも失敗しがちとなりました。そこで専用の丈の低い小さなソファーを新調してあげたばかりでした。

 そこへ12月のある寒い朝、突然目が醒めなくなりました。やすらかに息はしているのですが、ぜんぜん瞼が開かないのでした。

 「もうだめだね、このまま眠らせてあげようよ。」と涙のなかで家人と話し合いました。その後わたしが出勤してからの家人の話です。

 数時間してから、コロ太が少し身動きしたのだそうです。家人が試しにと大好物のハムのひと切れを鼻先に持っていくと、ふんふんと匂いをかいだかと思うと口を開けパクリ、もぐもぐ、ごくりとゆっくり飲み込んだそうです。しばらくして目を開け水を飲んで、家人の介助で外に抱かれて行くと、ふらつきながらが立ち上がり、排尿もできたのでした。

 「臨終騒ぎから食い気で立ち直るなんてね、飼い主似の食いしん坊コロ太らしい。」とその時はふたりで笑ったことでした。でもほんとうの別れの近いことも感じたのでした。

 二週間ほどして、クリスマスイブに急に多呼吸となりました。わたしが買って帰ったケーキも今度は食べられませんでした。未明には目を開けてわたしと家人を正気な目でじっと見て、最後の別れを告げているようでした。そして翌朝クリスマスを迎えて息を引き取ったのでありました。

 もう四十九日も過ぎました。亡くなって、東山にある動物霊園で丁重に火葬していただきました。現在はまだ白木の箱の包みのままで居間に安置されております。

 雪が解けて土が乾き桜が咲く頃に、家人とふたりで、コロ太を庭の桜の木の根元に埋めてあげようということに決めております。

 謹みまして、私的なことで恐縮でもありますが、この欄をお借りして、「犬だって」シリーズという連載を通して、生前にお寄せいただいた愛読者のご厚情に心より感謝申し上げる次第です。

 

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