長岡市医師会たより No.257 2001.8

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もくじ
 表紙絵 「信濃川の源流を訪ねて(甲武信岳))」丸岡  稔(丸岡医院)
 「青柳司郎先生を偲んで」      高木昇三郎(高木医院)
 「青柳司郎先生を偲んで」      荒井 奥弘(社会保険長岡健康管理センター)
 「3度目の長岡…自己紹介を兼ねて」 吉川  明(長岡中央綜合病院)
 「立川綜合病院班近況報告」     上原  徹(立川綜合病院)
 「在宅支援のための診療所へ」    星野  智(神田診療所)
 「在宅診療の体験報告〜其の四」   板倉 亨通(北長岡診療所)
 「忘れられない八月」        田辺 一雄(田辺医院)
 「新・修羅場必携」         郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

信濃川の源流を訪ねて
(甲武信岳)  丸岡 稔(丸岡医院)
青柳司郎先生を偲んで  高木 昇三郎(高木医院)  

 青柳司郎先生の御霊前に謹んでお悔やみ申し上げます。

 7月16日長岡市医師会よりFaxで青柳先生の御逝去の連絡を受け、長い間お世話になった先生との永別の悲しみが胸をしめつけるようで、時間が経つにつれ、若い頃色々御指導を願ったことが昨日のように思い出されて来ました。

 それと前後して田辺先生より電話でぼん・じゆ〜るに先生の事を書きなさいとの連絡を受け唯々ボーとしております。

 謹んで先生の御霊前にささげます。

 青柳先生は明治35年4月26日、三島郡王寺川村(現在長岡市寺宝町)にお生まれになり、御父上は政治家で国会議員として活躍されたと聞いております。先生は四男で京都大学の独文学科を経て、九州大学医学部に入学、結核を罹って一、二年静養されましたが、持前の呑気者が幸いして元気になられ、九大卒業後医学の研究に励まれ、昭和20年4月敗戦の跡もなまなましい長岡赤十字病院の内科医長として赴任され、昭和26年1月、表町1丁目に青柳医院を開業されるまで病院の発展と患者さんのために毎日を過ごされ、お忙しき日々を過ごされました。小生も丁度その頃長岡赤十字病院に勤務させていただき、色々御指導下され、有難うございました。厚く御礼申し上げます。平成5年8月、老齢のため青柳医院を閉院されるまで42年間、それこそ心身共にお疲れの日々を体にむち打って働いてこられ、頭の下がる思いが致します。患者さんが入院されると時間を問わず見舞に、亦田宮病院関連のわらび園、こぶし園、亦療育園と一日中かけずり廻っておられ、夜は新潟市へ出かけ講演会に出席され新しい医学を勉強され、夜遅い電車で本を脇にかかえて、とぼとぼと駅のプラットホームを歩く姿を時々お見受け致しましたが、さすがに青柳先生だと、頭が下がる思いが致しました。その間、昭和57年10月15日御子息隆一先生(長岡赤十字病院内科勤務)を病魔で失い、涙の日々が続いておられましたが、御次男俊二さんの助けをかりて、ようやく自立され、元気に診療に朝早くからレントゲンの器械に取り組みがんばっておられました。

 先生は亦昭和60年2月「死生在命」の文をぼん・じゆ〜るに投稿されました。82歳の時です。

 平成元年6月老人性白内障の手術、平成2年10月Magen Tumorで手術、入院休養されましたが、見事に病魔にうち勝って自立快復され、晩年は学枚町の図書館に通って本を読む毎日でした。今先生とお別れし、転た寂莫の念に耐えませんが、御奥様も健在の由お喜び申し上げます。先生の御逝去を知り、まもなく我が身に来ることを思いつつ先生のご冥福をお祈り申し上ます。

 青柳先生、死の静謹にみちびかれ、おすこやかに私達を見守り下さい。合掌

 

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青柳司郎先生を偲んで  荒井 奥弘(社会保険長岡健康管理センター)

 昭和33年1月私が長岡赤十字病院へ赴任間もなく、医師会か内科懇話会の席上で荻間先生から紹介されたのが、先生との出会いでありました。それ以来時々朝早く、電話で起こされ「荒井君、最新医学の特集に〜〜と書いてあるが、君はどう思うかね」というお尋ねを受けることになりました。特に循環器系と動脈硬化関係にご興味をお持ちでありました。私がまだ読んでいないで、お答え出来ず失礼した方が多かったように思います。先生は純粋に疑問点を指摘されたのでしょうが、先輩に若僧が試験されているようでありました。長岡は勉強する先生が多く恐い所だと思い、大いに鍛えられました。また、患者をよく紹介して下さいました。その時には先生の往診帰りに病院に寄られ、検査成績などを中心に検討して頂きました。心底患者を大事にされ、最良の医療を施す事を心がけて居られました。

 先生は昭和6年九州帝国大学医学部を卒業され、第一内科で研究され、横浜で従事された後、郷里長岡の赤十字病院内科医長として勤務され、昭和26年1月から平成5年8月まで、表町で開業なさいました。先生のご祖先の事は伺ったことはなかったのですが、「ぼん・じゆ〜る」(昭60.2)に先生が書かれた「死生在命」によれば、初代青柳逸庵が漢方医として医家を創設し、二代逸庵がオランダ医学を学んだとのことであり、司郎先生はその影響と父君信五郎氏(国会議員)の希望に従ったためと説かれています。

 昭和53年ご良男の隆一先生が赤十字病院の循環器内科部長として赴任してこられました。司郎先生のお喜びようは大変なものでした。しかし運命の悪戯でしょうか、隆一先生は57年10月胃癌のため早世されました。期待が大きかっただけに先生の落胆振りはお慰めの仕様もありませんでした。それでも、この悲しみを克服され、80歳を超えても診療に精を出されました。

 長生きの秘訣を聞かれると、三つあると述べておられました。即ち、第一が精神的に「間のぬけている」こと。第二は「適当な運動」、第三は「適当な食事」であると。白寿までこの三つを実行されて、亡くなられる朝も健康でおられたとのこと、医者の不養生どころか、率先模範を示しておられたのであります。特別養護老人施設の理事会で、年数回お会いし、お元気なご様子を拝見して、昔ご指導を頂いたことを思い浮かべていたのですが、それも数年前ご辞退されてからは、お会いする機会がないまま失礼していました。長年にわたり先生のご薫陶をお受けし、また、ご長男隆一先生に活躍して頂いたことを感謝申し上げます。どうぞ極楽浄土で、隆一先生と楽しく団欒をなさって下さい。 合掌

 

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3度目の長岡…自己紹介を兼ねて  吉川 明(長岡中央綜合病院)

 早いもので昭和47年に卒業してから30年になろうとしています。卒後の内科研修を1年目大学、2年目秋田赤十字病院にお世話になり、その後第3内科に入局しました。昭和49年5月から11月まで3年目の義務出張を立川病院(現在の表町診療所)にお世話になりました。当時、非常に家族的雰囲気の医局で、立川信三先生、内科の藤中先生、外科の田崎先生、耳鼻科の加納先生などがおられ、覚えたてのゴルフを御一緒にさせていただきました。学生時代野球部貝だったこともあり、棒で玉を打つことが好きで、ついついゴルフにのめり込んでしまいました。半年でワンラウンド102までスコアを縮めたこともあり将来のシングルプレーヤーと嘱望(?)されたものでした。ただし、大学に帰ってからすぐに120に戻りました。理由は、学問と研究に追われた為でした……と本人は思い込んでいます。当時、昼休みになりますと藤中、田崎両先生の黙々と、かつ、相手方に嫌味を言いながら、黒石と白石がべタベタとくっつきあい、20分位で終了する囲碁を見学させて頂くのが楽しみでした。御二人の諷々とした御性格に心和まされたものです。

 昭和49年11月に大学第3内科に戻り、市田教授(現名誉教授)からB型肝炎ウイルスに関連する 「HBe抗原抗体系の臨床的意義」と題するテーマを頂き、研究生活に入りました。当時この系は外国の論文で発表されたばかりであり、まだ、海のものとも山のものともわからない状況でした。輸血部の小島健一先生(前新潟県赤十字血液センター所長)の御指導のもとに標準血清集めに精を出し、約3カ月かかって抗原抗体反応系を何とか確立できました。以降、B型肝炎患者のストック血清を掘り出しては反応させる毎日でした。同時に産科との協同研究で母子感染の実態調査も実施しました。その結果、HBe抗原陽性血はHBウイルス量が多く、母子感染の確立が高くなることが判明しました。その後開発されたHBグロプリンやHBワクチンを使い、水平及び母子感染の予防に研究の主眼が移り、約10年を経て感染予防法が行政レベルでマニュアル化されました。

 研究も区切りとなり市田教授の退官半年前の昭和62年10月、長岡中央綜合病院へ、内科医長として赴任しました。当時、同級生の鈴木丈吉先生(現開業)と戸枝一明先生(現見附市立成人病センター病院長)が既におられましたことは心強い限りでした。肝臓が専門ということで重症(激症)肝炎をみる機会が多く、盆暮正月とはよく言ったもので何故かこの時期に発症例が出ました。血漿交換の為2年連続で透析室で除夜の鐘を聞くことになりましたが、長尾(政)先生には大変御苦労をおかけしました。最も印象に残っている患者さんが」人おられます。HBウイルスキャリアの中年の女性ですが、1年近く入院しました。その間、3度も激症化し、意識消失(肝性昏睡)を繰り返し、その都度血漿交換を行い、覚醒し、結局退院されました。この時ほど女性の強さを実感したことはありませんでした。

 赴任して5年近くになった平成4年3月中旬、突然、同じ厚生連の豊栄病院長就任の話がまいりました。前病院長が3月に退官とのことで、随分おしせまった詰ではありました。ここまで数人の先生に打診があったらしいのですが全部断られたとのことでした。当時、豊栄病院は厚生連の中でも一、二を争う赤字病院で、御多分にもれず狭隘、老朽化がひどく、「風前の灯」「お荷物」病院のレッテルが張られていました。しかし、生来の楽天家を自認する小生にとっては、話がくるだけでも光栄なこととと思い、僭越ではありましたがお引き受けして勇躍赴任したのが平成4年5月のことでした。

 赴任と同時に事務長より「病院診断」と書いた小冊子を受け取りました。結論的には、「移転新築し、診療の質を充実すること」と書いてありました。もっとも、初めて病院の前に立った時、小生もそう感じましたが。いずれにせよ、その答申を受けて厚生連の中期計画には平成6年を目途に移転すると唱われていましたので、期待をしつつ、日々の診療に励んでおりました。

 しかし、世の中そんなに甘くはありませんでした。時まさにバブルが崩壊し、世の中が低成長となり、金融機関が不良債権を抱え、公金が投入される事態になっていましたので資金繰りが困難を極める時期を向かえました。移転計画が宙に浮き、見通しが暗くなってしまいました。それからが「大騒ぎ」です。職員一丸となって進んできた念願の移転新築が流れそうになってきた焦りから、職員の院長に対する風当たりが日増しに強くなって来ました。「おれが一番辛いんだ。」と心の中で叫べども、言う相手が居ません。とうとう厚生連本部に「辞表を書かせて頂きます。」と捨てゼリフを吐いてしまいました。いわゆる開き直りでした。今から考えますと、何と無責任なことを言ったものだと我ながら呆れています。若気(?)の至りというのでしょうか。

 その後、地元の行政、JA、職員を先頭に厚生連労組も加わり、小生も驚くほど強力に誘致運動を展開して下さいました。その結果、とうとう計画が決定しました。

 構想から12年、予定から遅れること3年で、ようやく新病院が完工しました。あの時の職員の晴ればれとした顔は忘れることができません。そのあとの引っ越しは何の苦もありませんでした。

 平成9年9月の再出発から4年近くになり外来、入院とも順調に増加し、軌道に乗ってきたと安堵するまもなく、再び長岡へ戻る話が聞こえてきました。長岡中央も移転新築計画が進められている最中でしたので正直いって「またか」との思いはありましたが、小生の初任地でもあり豊栄と同様愛着のある病院ですので、その大事業に加わり、今までの経験をお役に立てることができればとの思いから転勤を決意致しました。

 平成13年7月1日付で前任の杉山院長より引き継ぎをさせて頂きました。基本設計がほぼ固まっていますので、今後は土地問題、実施設計がスムーズに進むよう微力ながら頑張りたいと思います。

 何かにつけ医師会の諸先生方にはお世話になることと思いますので、御指導、御鞭捷のはど、よろしくお願い申し上げます。

 

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立川綜合病院班近況報告  上原 徹(立川綜合病院)

 長岡市医師会の諸先生方には、常日頃ご厚誼を頂戴しておりますこと、紙面を借りまして厚くお礼申し上げます。

 さて、立川綜合病院には現在77名の医師が勤務しており、急性期医療を行うことを中心に、スタッフの充実が図られてきております。しかしながら科によってはまだマンパワーの不足があり、医師会の先生方のご要望に必ずしも全面的にお応えできない部分があることも事実であります。今後とも新潟大学学士会をはじめとして、関係各大学等のご理解ご協力を得て、良質な医療人を確保し高品質の医療を提供するべく努力する所存であります。

 先生方ご存知のように、今般の医療法の改正に伴い、平成16年度から医師の臨床研修が必修化することになっております。当院では、平成8年に厚生省臨床研修指定病院に認可されており、平成12年度は2名、平成13年度は4名の公募による卒後臨床研修医を受け入れております。臨床研修医は2年間の研修期間中に、いわゆるスーパーローテーション方式により、内科、外科、産婦人科、小児科、救急医療などの必須科の他、個別のカリキュラムにより各科を回って研修を受けております。その中で、広く各科にわたる基本的な知識と技能を身につけ、緊急疾患に対しての初期治療も可能にすることを学んでおります。しかし研修医は医療技術の習得だけではなく、医療界を取り巻く法律、制度などについても理解しておく必要があります。また看護婦、薬剤師、検査技師などのコメディカルとの協力のもとにチーム医療のリーダーとなるべく、その資質の育成を図る必要があります。さらに医師は、患者、家族の状況を十分に考えた上での医療を行うことは当然であり、患者、家族とのコミュニケーションをどのようにとっていくかを学ぶ必要があります。これらは、技術的な側面として理解し習得しておかなければならないことでもありますが、むしろ「医師として」と言うより、「一人間として」の人間性の涵養を図る教育が行われる必要があります。このことにより、医療側と患者、家族との無用な、また不幸なトラブルを軽減させていくことが期待されます。これらのことを実現するために、現在の当院の研修医教育カリキュラムをさらに充実させるため、改編作業中であります。何しろ、若い研修医が病院内でがんばっていることは、病院全体の雰囲気を明るくし、我々自身の活性化にもつながります。2年間の研修後、さらに他の施設などで修練を積み、ひときわ大きくなって、当院に専門医として戻り活躍して欲しいと思っています。すなわち、「カムバック・サーモン」の心境であります。

 現在病院では、新しい動きとしてPET(Positron Emission Tomography)画像診断センターを建設中であります。PETにより、従来の画像診断では描出できなかった微小な癌などを診断できるとされております。また脳内や心臓内における微細な病変を機能の裏づけのもとに発見できるなど、色々な分野において、病気の早期発見につながることが期待されます。平成14年春に施設が竣工し、初夏からの稼動予定であります。もう少し近くになりましたら、同センターについてのご案内を申し上げたいと思います。医師会の先生方のご理解とご利用をよろしくお願い申しあげます。

 今後病院が、地域の中でその価値を認めていただくためには、患者さんにとってどれだけ納得のいく医療を提供できるかに尽きると思います。そのためには、病院は高度な機能を有効に用いて、患者さんに最短で最適な治療を行うことが要求されます。病院内には、それぞれの専門職がおりますが、現在の医療は病院内のみですべて完遂することはできません。患者さんには、なるべく早く生活の場である地域に戻っていただかなければなりません。そこで地域の他の病院、診療所との機能的な連携が必要になります。他の医療施設と医療情報の共有化なしでは、現在の病院医療は成り立ちません。我々の病院では、我々の施設をできるだけ他の施設の方々からご利用いただけるように、開放病棟なども視野にいれて準備中であります。医師会の先生方の、引き続きのご指導、ご鞭撻をよろしくお願い申しあげます。

 

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在宅支援のための診療所へ  星野 智(神田診療所)

 単身赴任のアパートの未明、在宅の患者さんの呼吸が停止したようなので確認してほしいと連絡をうけました。とうとうきたかと、真夏のまだ薄暗い街に飛び出して行きました。もともと脳出血と痴呆で10年以上の寝たきりで、本人も介護するご主人も80歳をこえる老人二人暮らしでした。ある日突然食事をとれなくなったのですが、血液検査では異常なく笑顔を浮かべたまま何も話そうとせず、食事を差し出しても一向に口を開こうとしません。まるで自らの意志で食べることを拒否しているかのようにも見えました。一度は点滴をしましたが効果はなく、その後ご主人と相談の上自然経過でみていくことにし2週間目に逝ったのでした。苦痛の表情もなく眠ったままでしたが、自分にとっては長い待ち時間でした。在宅でとくに悪性疾患ではない方を看取るのは、昔からごく普通のこととして行われてきていることなのに、実際はとてつもないエネルギーが必要とされることだと実感しました。

 私は新潟大学を1986年に卒業後すぐに新潟勤労者医療協会下越病院(新津市)に就職し、昨年6月にここに赴任するまでの10年間は循環器を中心に救急と内科診療を担当しておりました。地域の循環器病棟というのは他の疾患からは生き残った超高齢者の集まるところで、まさに人生の終末期という患者さんを次々と受け持ち、いったいどこまで医療を施すべきなのかという問題に直面することがしばしばでした。人院医療の中では自然に近い形で死を迎えさせたいと考えてみても、多くの患者をかかえた病棟では心電図モニターは当然つける、点滴ラインは確保しておく、何人もの家族が寝泊まりできるスペースもないといった状況下で、結局は急変コールで発見されあわてて家族を招集し、その間蘇生処置を施すといったことの繰り返しで、どうやってみても自然死とは無縁の世界だと思わざるをえませんでした。

 診療所の一年間で10名ほどの患者さんが在宅で亡くなりました。死顔はどれもかつて見たことがない穏やかさで、たとえクーラーがなくとも、また介護力が不十分であっても、自分の家で死ねるというのは自然でいいことだと感じました。家族にしても一日中患者の死と向かい合っているわけですから大変な負担には違いないのですが、その分、充分し尽くしたという気持ちになってもらえるのではないでしょうか。予想以上の感謝の言葉をうけてしまい、面食らうこともよくあります。しかし私自身の中では、本当に万事これでいいのかという不安が常につきまとっているのでした。とくに体制的に、呼ばれていつでもすぐに行けるわけではないため、救急車で病院へとお願いしなければならない時は、患者さんや担当される救急病院スタッフの方々には本当に申し訳なく、自分の力のなさを感じるのでした。

 やはり今の時代の高度な医療を、独りでやっていこうというのは無理な話で、他施設と連携のネットワークを強めていくことがどうしても必要なのだと思います。神田診療所は創立48年をむかえましたが、そういう点での不十分さを感じざるをえません。とくにこれからも在宅医療を充実したものにするためには、医療と介護福祉を総合的に考えなくてはならず、意識的に取り組んでいきたいと考えています。

 最後に私自身のことを少し書き足しておきます。私の趣味は一も二もなくとにかく山登りです。たまの休みも家族を放っておいて山に出かけてしまいます。長岡からだと守門岳がいい山で半日あれば行って来られるので何度か登りました。近くの山ばかりではなく、時間があれば全国どこへでも、また雪のある時期でも出かけます。残雪の山でスキーをし、温泉に浸かるのが最高の楽しみです。

 山の世界はかなり前から完全に高齢化していて、こんな人が、と驚くような年輩の方が結構険しい稜線でも闊歩しておられます。しかも女性が圧倒的に多い。私が学生時代には見られなかった光景です。元気で多彩な趣味や活動をしている高齢者がどんどん増えてきていて、時代は確実に変わったということでしょう。みなさん経験豊富で大変礼儀正しく、決して無理をしないで自分のペースでがんばっています。多少にぎやかなのは心から楽しんでいて、童心に帰ってしまっている証拠なのでしょう。山ではどこに行くにも自分の力で歩く以外ありませんから、誰もが一定の達成感を得られ、自信を持てることが最大の魅力なのだと思います。人間にとって理想的なあり方なのかもしれません。下界においてもそういった社会になってくれることを願ってやまないのですが。

 神田診療所では今後引きつづき在宅医療を主軸にして、高齢者医療福祉に取り組んでいきたいと考えています。思いばかりが先行し、まとまりのつかない文章になり申し訳ありませんでした。地域の諸先生方におかれましては、今後ともいろいろな点でご指導、ご支援をいただくことになると思いますが、なにとぞよろしくお願い致します。

 

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在宅診療の体験報告(其の四)  板倉 亨通(北長岡診療所)

 ここでは、主題とは少し離れますが、良導絡治療法の一分野として末梢神経筋肉糸に起こつたトラブルの治療の数例について述べ、寝たきり老人の回復過程を推測する参考にしてみたいと思います。

 第一話

 筆者の友人が突然手術を受けられ、お見舞いに行ったのですが、其の時「右足の背屈が不能になり車の運転が出来なくなり、往診に行けないので弱った」という話がありました。其の時、同行された外科医の先生も鍼を勧められ、お身内の整形外科の先生も鍼を勧められていたとのことです。奥様のお話では後遺症による心の落ち込みが見ていられない程で、強く其の回復を望んで居られました。そこで、その後、低周波治療器をお貸しし奥様に使用法を説明して来たのですが、退院されてから二人でおいでになり「低周波は素人では無理だったよ」、とのことで、ノイロメーターで治療させて頂きました。治療一回目から好転し始め、二、三回目からはご自分で車を運転されて来たのには内心少し嬉しくなり、七回で治療を中止して様子を見ることになりました。

 第二話

 同じく友人の某院の外科医長ですが高校生を手術の後、同様症状が起き、症状が消失しないので、訴訟となり、其の外科医は訴訟が片付いても精神的ショックでメスを捨てたと聞きました。

 最近、中堅の整形外科医が遊びに来て第二語の話が出て「其の患者は大儲けでしたね。放置しても元に戻るのだから」と大笑いして居ました。第一話も第二話も「放置しても、其のうちに良くなる」筈が患者にとっては大変迷惑な故障だった症例です。此処で、所謂、ペロネウスレームングは本当に放置しても常に完治するものでしょうか? 「ナーニ、正座を長くさせられた痺れと同じだよ」とか、「腰掛けて脚を組んだ時、よく起こる」とか、しばしば聞く説明ですが、筋肉の機能的障害は相当長く続くことがあるように感じます。例えば1月20日ぼん・じゆ〜るの本稿の第一症例は、第二回の左半身麻痺の時、左足の背屈が出来なくなり十年後の右半身麻痺を治療中、右足の背屈が出来る様になつた事を喜んで報告して呉れました。どういう機転で背屈が可能になつたか知りたいところですが、遡って研究出来ないのが残念です。また簡単な症例では二十歳位の女性が左腕の痛みが二年間続く事で外来され、理由を聞いたところ、二年前に満員の新幹線で子供を抱いたまま身動きが出来ず二時間立ち続けで同じ姿勢をして居た時からの痛みであると知らされ、医者にとっては取るに足りない詰まらぬ筋肉痛が、如何に長く続くか教えられ、印象に残りました。勿論数分間の加療で一回で痛みは消失出来ました。

 第三話

 多発性神経炎(一時はギラン・バレーを疑われた)で下半身が麻痺し、某病院神経内科に入院し加療を受け、退院時、四、五十歩位しか歩けず、これ以上の回復はあまり望めないと言われたということで外来した患者が、七回の良導絡低周波治療で二時間位は連続してテニスが楽しめる様になり、忘れた頃息子とインフルエンザの予防注射に来て、その後全く健康を取り戻している事を報告して帰りました。

 第四話

 筋肉痛に限定した症例としては、幼児期に先天性股関節脱臼の整復を受けて殆ど完治し、陸上部で短距離は苦痛無く走れたが、少し長距離を歩くと下肢に痛みが生じていた児童が、長距離歩行後の痛みが毎年強くなり、十六歳頃から歩行時の筋肉痛が著明になり、大病院の整形外科や著名な整形外科を歴訪したがィ線撮影で異常なしとされ、三十才になると、四、五十歩位しか痛みの為歩けなくなった患者が外来したので、良導絡治療を行った所、一回の治療で寝返りが打てる様になり、七回の治療で二時間以上歩行しても筋肉痛が生じなくなつたので、治療を一応打ち切ることが可能になりました。

 

 これらの症例の様に、神経、筋肉系の言わば詰まらないトラブルで苦痛のまま放置されている症例に時々出会います。寝たきり老人の身体的障害にも、前述した筋肉系障害の発生機転と似たような要素が含まれているのではないかと疑っています。この治療方法のほか、若槻文吉氏の神経ブロック法が洛陽の紙価を高めて居ますが、共の割りには恩恵に与かる患者は少ない様です。兵頭正義氏も麻酔学教授としてペインクリニックに良導絡を併用されて居り、更にSSP法(無鍼良導絡低周波治療法)も開発されていますが、未だ一般的普及には到っていない様です。

 

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忘れられない八月  田辺 一雄(田辺医院)

 日露戦争に勝ち、中国より日本が租借したアカシヤの街、大連に私は育った。

 英国の香港のように当時は99年間の租借は貰ったのと同じだと教えられた。

 二〇三高地、東鶏冠山、旅順港、金州城、水師営などの日露戦跡が遠足の地で、満州事変の発端となった柳条溝、北大営の崩れた煉瓦作りの兵舎も訪れた。

 満州国の建国、三国同盟に日独伊の旗を振り、スターリンと日ソ不可侵条約を結んだ小さな体で顎を前に出した得意満面の松岡外相をそれが日本の敗戦への序曲とも知らずに熱狂的に迎えた。

 中学では満州国皇帝の一族の愛親覚羅姓の数人の生徒もいた。

 当時の満州国全権大使兼関東軍総司令官梅津美治郎大将のただ一校の査閲を受け、率いる大勢の将官、任官、尉官に直立不動、身じろぎも出来ず「幼年学校をみるが如し」の講評を受けた。

 次々と上陸してきた兵隊さんを一般の家に民泊で次から次にお泊めしていたら、これが関特演、一触即発の緊張した状態だった。

 陸士、海兵、一高、浦和高、静岡高、五高、七高、建国大などに入った先輩が学校を訪れ、短剣や白線帽に憧れたがその多くの先輩は後に予備学生として学徒出陣し沖縄戟で特攻隊で戦死した。

 後で分かったのだが、昭和19年に関東軍に入隊した先生や先輩は何時の間にか沖縄、比島などに送られ玉砕し、その穴埋めに18才から45才の第二国民兵として召集された旅順高文科生などには6割しか小銃が渡らず、ソ満国境に配備され、まだ訓練初歩の段階でソ連の圧倒的一方的侵入で戦死した。

 20年5月から7月にかけて、関東軍は最後の根こそぎ動員をし、男は病気あがりも動員された。

 それでも精鋭関東軍は無敵と称し、北の守りは鉄壁と言われ我々は安心していた。

 8月9日のソ軍の満州侵入に慌てた関東軍は理工系の18才以上の学生を木銃持参で召集し、通化方面に後退した関東軍のあとを埋めるべく国都新京防衛に散開させた。

 ソ軍の侵入は急激で8月14日、海軍軍医委託生であった17才だった私にも木銃持参で15目召集入隊の命令がきた。

 入隊に先だち海軍軍医中将の向山美弘校長閣下の惜別の辞、名を惜しめ、今こそ天皇陛下に一身を捧げるとき、などの檄に身奮いがした。

 旅順の部隊では15日無条件降伏の玉音放送を聞いたに関わらずまだ関東・軍は無傷と称してソ連とは戦うつもりでいた。

 だが日の丸で埋まっていた街が、一夜にして何時用意していたのかソ連と中華民国の青天白日族の赤旗で埋められた。

 22日入ってきたソ軍兵士は囚人兵や少年兵で野蛮で汚い破れた軍服で、字も読めなければ書けない無学の徒で、乱暴狼籍、略奪、強盗、強姦お構い無しの状態で、筆舌に表し難く抵抗すれば射殺される最悪の状態であった。

 抗議した市長に司令官が「敗戦国民に処女なし」と敗戦とはどんなことかも知らない日本人に侮蔑の眼を向けた。

 物に不足していたソ連兵には日本人の家庭は宝の山に入った如く、自動小銃を突きつけ土足で押し入り我先に物を取り放題、「マダムダワイ」と女を犯した。

 私もソ連兵に街で自動小銃を突きつけられ時計、万年筆、お金を「ダワイ」と取り上げられた。

 巨大な戦車を先頭に轟々と進駐してきたソ連兵が持っている兵器は自動小銃で一辺に何十発も弾がでた。

 木銃持参で集められた兵隊にどう戦えと関東軍は考えていたのであろうか、日本人の命など虫けらと同じで気に入らなければ殺された。

 食糧、衣服、文化財、家具、工場の機械など片端から皆戦利品として接収され、降伏した兵も帰国と称して数名の自動小銃を持った兵に囲まれ、接収した満鉄でソ連に毎日どんどんと送られた。

 間もなく旅順要塞化に伴い秘密保持のため日本人の一斉退去命令が出たがソ軍に接収されて汽車が使えない我々は雇った荷馬車に揺られ大連に戻った。

 ソ連の無謀な支配下からやっと解放されて22年3月帰国、すぐ新潟を受験し、入学して新潟に住みついてあっという問に54年が過ぎた。

 だが昭和20年の悪夢の8月のことが何時までも忘れられない。

 

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新・修羅場必携  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 買ってきたばかりの新しい本を見て、なんだか家人が怪訝そうです。

「何か、調べもの?ヤクザ関係の本なんて。例の宮崎なんとかの『突破者』みたいな?」

「えっ、書道用に昔からの有名な漢詩を集めたアンソロジーだけど。」

「だって修羅場がどうって。」

 本の表紙を見返し思わず噴き出しました。そこにある題名は『新修墨場必携』であります。新修・墨場・必携。なるほど、たしかに似てますよねえ、…『新・修羅場・必携』!

 若いモンが「修羅場」をクグルための心構えや、身に付けておくべきドスなんかの道具も記載されたマニュアル本でありましょうか。いろんなハウ・ツウ物が出版されてはおりますが…。

 この書道の題材の手引書は、三十版を重ねているロングセラーのようです。わたしは有名な五言絶句のおさらいに便利そうと買いました。むしろ書道といえば、このボケをかました家人のほうが詳しいです。しかし『修羅場必携』ね。似たもの夫婦とは昔からよく言ったものですな。

 たしか数年前から書道塾に通っている家人が、何段になったなんて言っています。といっても特別に習字をするときに色付きの鉢巻を締めるわけではないので、段位がどうと言っても素人にはわかりません。

 いっぽうわたしの方は中年向非運動性趣味では、最近俳句を始めました。この句会というのに参加すると「清記」という字を書く苦手な作業がありました。数人で分担してみんなの俳句をまとめて清書することです。これは別人が筆写して、どれが誰の作品かわからなくする目的があります。ところが字そのものがあまりに下手では、この十七文字を清記したとき具合が悪いのですな。下手な字の俳句は、どうも下手に見える気がする。また本来の作者がわからぬどころか、何が書いてあるかもわからぬことすらありえる。それでは「清記」ならぬ「濁記」でありますな。

 これまでの人生、下手でも癖字でも、…そんなの字なんて読めればよいさー。だいじなのは中身さー。 …と人気のNHK連続ドラマ「ちゅらさん」の沖縄訛り風に明るく…

 小学入学以来、G家の家訓を四十年間守ってきたわけですが。ちなみに兄は輪を掛けた悪筆。わたしが楷書型癖字なら、兄は草書型悪筆で彼の秘書は絶対泣いていますよ。

 先月に俳句仲間で某海辺の温泉に泊りがけで、初めての吟行。ギンコウと読みます。(−銀行とは無縁の面々。)もちろん句会や懇親会はとても楽しく、夜中まで俳句談義。

 先輩の達也さん「蒼弓さん(わたくしの俳号ですな)、酔ったから言わせて貰いたいことがある。」ぎくり、何でしょ?思い当たることと言えば…。

 入門者なのに、先輩にもずけずけ物を言うのは、まあしかたない性格として…。他はけっこうまじめに励んできたつもりだが。あまり滑稽過ぎる句は品がないぞとか?

 いやいや俳譜味のある句ではこの達也さんがむしろうわ手だし。うーん…?

 それはわたしの字が読み辛いから俳句と共に習字も練習するのがよいという暖かい助言でした。

 その場では善処を約しつつも、実に難題です。なんせわたしの好みの書体は、漢字は隷書、仮名は丸文字体。いつも画面ではポップW3体なんて非正統フォントで書いているしだいですしね。「新美字清記必携」なんてのがあれば買いたいですな。

 

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