長岡市医師会たより No.259 2001.10

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もくじ
 表紙絵 「栖吉側の源流を訪ねて」  丸岡  稔(丸岡医院)
 「だからプロ野球は面白い」     上村  桂(長岡保健所)
 「四度目の長岡勤務」        平原 浩幸(長岡赤十字病院)
 「自己紹介」            土屋乃理子(立川綜合病院)
 「長岡西病院・田宮病院班近況報告」 角   優(長岡西病院)
 「新会館建設事業の動向〜その2」  会館建設委員会
 「名月記を見に」          郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

栖吉側の源流を訪ねて  丸岡 稔(丸岡医院)
だからプロ野球は面白い  上村 桂(長岡保健所)  

 プロ野球のペナント・レースも大詰を迎え、ファンの諸兄姉も一喜一憂されている事と思う。この拙文が活字になる頃には、今年の日本一が決っている筈である。

 よく「野球は筋書きのないドラマだ。」と言われる。確かに勝敗だけを見ても、ありそうでない事が生ずる事がある。先年プロ野球狂の戯言を書かせて頂いたので、今回は記録の面からの楽しみ方を書いてみたい。

 勝負事である以上、勝敗が最優先する事は言う迄もない。しかし、プロである以上、チーム、あるいは個人のタイトル・記録も重要な要素である。プロ野球のルールは、長い歴史を経てかなり良く整備されていると思う。しかし、その盲点を巧みについて合法的に記録を作らせる事が行われる。勿論、監督の哲学による事が多いのであるが、記録を出来るだけ作らせてやろうという思いやりがあり、その気配りが選手のやる気を起こさせ、ひいてはチームの好成績につながるもののようである。

 宇佐見哲也氏は、その著書「プロ野球記録大鑑(平5)」の中で、作為的な記録作り、単なる話題作りの材料にする事を厳に戒めているが、どこまで許されるかの線引きは難しい。

 記録には、累積され減る事のないもの(本塁打、盗塁、投手の勝数、セーブ・ポイントなど)と、率を競うもの(打率、投手の防御率など。この場合、規定打席数や投球回数などが関係する)がある。

 記録を作らせる戦略は大別して、自軍におけるものと相手に対するものに分けられる。前者の例では連続試合出場数が最も分り易い。常時出場出来る力量を持つ事が基本条件であるが、怪我をした場合、極度のスランプに陥った場合の対応があり、代打、代走という手段がとられる(昭54、広島の衣笠の場合など)。この視点の延長でみると、指名打者制を採用しているパ・リーグの方が断然有利である。また、首位打者を狙う規定打席数に足りない高打率の選手のためには、主力打者であっても一番打者に据える事がある。盗塁王を取らせるため代走から起用する例も良く見られる。セーブを稼がせるために、セーブがつく場合に限って登板させるのは、シーズン中でも極く普通の事である。勝投手にするため先発投手に因果を含め(?)交替させ勝投手の権利を譲った例も多い(生涯・年間最多勝投手など)。

 首位打者争いの場合、率が優った時点で欠場、あるいは途中で交替させた例は枚挙に暇がない。極めて特異の例として、昭31、三原監督率いる西鉄(現西武の前身)の中西と豊田の例がある。最終戦を前に中西の本塁打と打点の二冠は確定し、打率は豊田にやや及ばないが逆転の可能性があり、三冠王の期待が持たれていた。しかし、三原は最終戦に両者共欠場させ中西は二冠に終った。中西が三原の女婿の事もあり、いろいろ憶測を呼んだものである。

 後者の相手に対する戦術の典型は打者に対する敬遠である。敬遠は日常的にも良く用いられるが、本塁打王を狙う打者は、打つ機会を与えて貰えなくては話にならない。昭40、野村と争った阪急のスペンサー、昭60、王の日本記録に挑んだ阪神のパースの例がある。相手が外国人の場合特に気楽に(?)行われるようである。今年、王の日本記録に挑戦している大阪近鉄のローズに対し、早い時期からのあからさまの敬遠が少ないのは、彼の人徳(?)によるものであろうか。米大リーグではこの手の敬遠は特に嫌われるようであまりきかれない。かつてのマクガイアーやソーサ、今年のボンズ然りである。また、今年イチローや新庄がカルチャーショックを受けたように、洋の東西でかなり異なる不文律があるようである。

 最後に実例を一つ紹介して締めくくりたい。今年の6月10日神戸でのダイエー・オリックス戦である (贔屓に免じてお許し下さい!)。

 背景として、ダイエーの抑えのエース、ペドラザは昨年のセーブ王であるが、今年は調子が今一つなのとライバルが多く、タイトル奪取に苦戦を強いられている。試合は7回表でダイエーが4−0とリードし、今日はペドラザの出番はないと思われた。因みにセーブのつく条件は、9回1回限りでは、ランナーなしの場合、3点差以内である。7回裏1死1、3塁となり先発が交替、中継ぎが登板、簡単に2死となったが、思いがけない暴投で1点入った。8回は両軍ともランナーを2人出したが無得点。9回表はダイエー無死1、2塁で3番打者が送りバント成功で2、3塁。4番、5番で追加点の入る可能性が極めて大であったが結局点が入らず0。9回裏はペドラザが登板し3者凡退でゲーム・セット。セーブもついてめでたし、めでたし。

 振返ってみて、7回の投手交替のあたりで監督はゲームの終り迄のシナリオが作れたか?断じて否である。だから、プロ野球は面白いのである。

 もし、今迄あまり記録に興味をお持ちでない方がおられたら、是非来シーズンはCS・TVに加入し、スポーツ紙を購読し(贔屓に合った選択が肝要)、記録欄を見ながら観戦する事をおすすめしたい。新しい楽しみが増すと思いますが如何でしょう?

 

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四度目の長岡勤務  平原 浩幸(長岡赤十字病院)

 本年4月より長岡赤十字病院心臓血管外科・呼吸器外科に勤務しています。平成元年に医師免許を取得してはや13年余り経過しましたが、平成2年(研修医2年目)に長岡赤十字病院・外科に1年間、平成7年(卒後7年目)に長岡赤十字病院心臓血管外科・呼吸器外科に6ケ月、さらに平成9年(卒後9年目) 長岡中央綜合病院呼吸器外科・心臓血管外科に1年間勤務させていただきました。生まれは、西蒲原郡分水町でしたので、長岡市とは30kmしか離れていませんが、なかなか交通手段がなくて医師として勤務するまで長岡市とはまったく縁がありませんでした。当然分水町も雪が降りますが、長岡市と比べて半分くらいなので、初めて長岡で1年間過ごしたときは、特に冬の除雪車の行った後、歩道脇に壁のようにそそり立つ雪壁と、市内の消雪パイプの行き届いた様子と、さらには不用意に車道に入ると足首の上までつかる消雪水の溜まりに驚き、膝近くまであるゴム長靴を初めて買いに走った覚えがありました。夏は夏で周囲を山に囲まれた土地特有のうだる様な著さを経験しましたが、その中で長岡まつりと三尺玉の大花火の盛大な賑わいを味わうことができたのも医師として長岡に勤務するようになってからです。

 長岡赤十字病院では、心臓血管外科・呼吸器外科外来の月曜日午前中の枠を担当しています。呼吸器外科副部長の肩書きですが、主に自然気胸の胸脛鏡手術と、末梢血管疾患の治療(閉塞性動脈硬化症のバイパス手術や薬物療法、腹部大動脈瘤の手術、下肢静脈瘤の硬化療法、深部静脈血栓症の薬物療法) の一部を担当しております。現在はどの施設もそうですが、自然気胸の手術は胸脛鏡という細いカメラを使用して、肺の部分切除も自動縫合器を使用して短時間で傷も小さくでき、入院期間も数日で可能な治療法になつてきています。また下肢の静脈瘤は、高張食塩水を静脈内に注入して静脈を潰してしまう硬化療法が中心で、日帰りでかなりの患者さんが治療できるので、「(静脈瘤の為)足がだるい、つる感じがする。」という方だけでなく、美容上で気になるという方でもかなり満足がいく治療となり、患者数も増えて来ています。

 また長岡赤十字病院は救命救急センターの指定を受けていますが、本年4月より救命救急センターに24時間医師が常駐することになりました。救命救急センターでの勤務は初めてで、救急医の資格があるわけではありませんが、心臓血管外科・呼吸器外科医として12年間やってきた経験で、特に3次救急患者の初期治療(First touch)を、昼間の時間帯の一部と、当直業務の一部を担当しています。意識障害や胸痛、重症熱傷、多発外傷、薬物中寺、自殺未遂、心肺停止状態などバラエティにとんだ患者さんが搬送されてくるので、救急車が到着する時点ではいつもハラハラ・ドキドキして迎えていますが、当院では経験ある多数の専門医の方々がいつでもすぐに駆けつけて引き続き担当して治療を行う体制をとっている為、たとえすべてのジャンルに精通しなくとも何とか診断にあたりを付けて、呼吸循環を維持しながら専門医に引き継げばよい業務なので、まだ6ケ月ではありますが何とか勤めさせていただいております。

 現在は私の実家のある分水町で親と同居暮らし、長岡まで車で30分かけて通勤しています。酒は嫌いな方ではありませんが、職場と生活の場所が少し離れており事通勤という関係で、殆ど長岡の繁華街には顔を出す機会がなくもっぱら帰宅後にビールを飲む程度です。学生時代はテニス部にいましたが医師になってからはほとんどコートに立つこともなく、運動関係とは遠ざかっていまして、最近は自宅でコンピューターをいじることにはまっています。とはいってもここ数年非常に伸びているインターネットの世界ではなくて、医療業界の中ではMacintoshがまだまだ幅を利かせていますが、windowsのIBM/PC互換機をいじっているのが好きで、なんと言ってもCPUやマザーボード、メモリなどのコンピューターの部品をプラモデルを作るがごとく組み立てていけば1台のコンピューターが出来上がってしまうこと、さらに部品を新しいものに変えていくことで自分好みの最新のアップグレイドができてしまうのが一番の魅力です。これも6年前長岡で勤務していたときに千手のエールジャパンというパソコンショップを紹介されコンピューターを作ってもらったのを、その店主が癌で亡くなり閉店してしまったので自分でメンテナンスをしなければならなくて、本を読み漁って見よう見まねで始めたのが最初です。現在友人の自作マシンを手がけたりしていますが、今後は自作マシンでネットワークを構築したり、サーバーマシンを立てたりしてみたいと密かに思っていますが、いじり始めるとなかなか日のあたるところに出なくなってしまうのが難点で、少しは体を使う趣味も持たないといかんかな、と思いますが、自作パソコンの世界も現在の医療と同じで日進月歩で奥が深く当分の閉止められそうにありません。

 今までの長岡での勤務は短期出張という関係もあり一度も長岡市医師会に入会することなく過ごしておりました。今回初めての長岡市医師会に入会となり、自己紹介をする機会をいただきありがとうございます。今後とも諸先輩医師の皆様のご指導を賜りながら長岡赤十字病院での医療に励んでいくつもりでおります。よろしくお願いいたします。

 

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自己紹介  土屋 乃理子(立川綜合病院)

 前任の西脇智弘先生の御開業にともない、今年4月より新潟大学から派遣され立川綜合病院耳鼻咽喉科医長として勤務しております。長岡地区の数枚の学校医を担当します都合により医師会へ入会させていただきました。よろしくお願いします。

 御依頼ですので自己紹介をさせていただきます。新潟大学平成4年卒、34歳シングルです。生まれは佐渡で、やはり新潟大卒で耳鼻科医である父の転勤により、幼少期を新潟と佐渡で、小学2年生からは茨城県水戸市で過ごしました。水戸第一高校卒業後昭和60年に新潟大学医学部に入学。一人暮らしで気侭な生活がこの時から始まりました。大きな音を出して楽しみたかったので軽音楽部に入部。ドラムを始めました。昼間は友人に会うために授業にでかけ、日が傾くと部活に顔を出し時間を費やし、夜は街へでかけるかドライブか音楽の話で夜が明けるか。おかげで?人よりも一年多く学生をするはめになりましたが、おかげで?同級生が倍に増え、多くの知人友人を得ることが出来ました。講義室にいた時間はカリキュラムより明らかに少なく、自分では新潟大学医学部通信教育講座卒業だと言っています。

 そんな私でも医師免許を獲得でき平成4年、当時中野雄一教授が率いる耳鼻咽喉科学教室へ入局させていただきました。2年間は大学で研修。平成6年には3ケ月間だけでしたが、ここ立川綜合病院へ派遣され西脇先生に御指導いただき、長岡の3つの橋の名前や殿町の名はその時覚えました。

 その後は大学から県立中央病院へ2回、一人医長として木戸病院へ2回、燕労災病院へは1回ですが派遣され診療に従事いたしました。学生時代の私から考えるとまともに勤務していることが不思議なようですが(いまだに年に1、2回寝坊するのですが)いつしかこの世界に適応したようです。

 大学では聴覚班に所属し外来を担当しておりました。幼児難聴の領域では長岡聾学校等の先生方の御協力を得て難聴児の診断および聴覚管理を行っていました。また平成10年に高橋姿教授が御着任され、平成12年から新潟大学でも成人の人工内耳手術が行われておりますが、その貴重な症例にも携わらせていただきました。

 残念ながら当院では現在、乳幼児の聴力の精査を十分に行うこと、また人工内耳手術自体はできませんが、脳波聴力検査での難聴の判定、疾患や治療法の御説明、大学へのルート付け等はできますので、難聴の疑われるお子さんや高度難聴でお困りの方がおられましたら御紹介下さい。

 もちろん一般の耳鼻咽喉科手術、急性炎症疾患等の入院もお受けしておりますので症例がありましたら御紹介いただきたく存じます。

 以上、大分支離滅裂ではありましたが、地域のお役にたてるよう頑張る所存ですので、引き続き諸先生方の御支援を賜りたく御挨拶がわりに自己紹介をさせていただきました。

 今後ともよろしくお願いします。

 

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長岡西病院・田宮病院班近況報告  角  優(長岡西病院)

 日一日と日暮れが早くなり、朝夕めっきり肌寒くなってまいりました。医師会会員の皆様には、病診連携などを通じまして常日頃より大変お世話になっております。この場をお借りしあらためて厚く御礼申し上げます。

 さて各病院の現況を会員の諸先生にお知らせして病診連携をすすめる企画ということで、今回は当班の近況について御報告させていただくことになりました。(紙面の都合もあり今回は主に西病院についての内容となりますことを予めお断りしておきます。)

 長岡西病院は平成4年5月に開設され今年で10年目を迎えました。開設当初は長岡赤十字病院が移転する前で、川西地区にはまだ総合病院がなく、各種介護福祉施設の協力病院としての機能も求められ、限られた数少ないスタッフで対応せざるを得ず、外来も午前中しか開けない状況でした。その後徐々に常勤医も増え、現在内科、外科、神経内科、整形外科、リハビリテーション科、皮膚科、精神科、心療内科、婦人科、放射線科、ビハーラ(緩和ケア)外来、ペインクリニック外来、眼科、泌尿器科などの外、さらに人間ドックや一般・企業検診外来が開設され、主要な科の外来については毎週土曜日を含め午前午後の診療を行っています。

 病院の基本理念として院長の田宮先生は『自分自身や家族、友人が病気になつた時、選ばれる病院』ということを掲げておられます。具体的には、地域や関連施設からの急性期の疾患に対応可能であること。なかでも頻度が高くスタッフも多い消化器領域の疾恩や神経内科領域の疾患、心身症や軽度のうつ病を含めた心療内科・精神科疾患、さらにビハーラ病棟を中心とした終末期の緩和医療に特に重点を置くこと、また介護保険の導入に伴いより重要性を増したリハビリテーションや在宅医療サービスの一層の充実を図ることなどを病院の運営方針としています。

 現在、病棟は一般病棟134床、療養型病棟106床でこのうち緩和ケア病棟は従来22床でしたが、紹介による入院希望者の増加に伴い一時満床状態が続き入院待機中にご希望に添えずお亡くなりになるケースもあり、本年6月より27床に増床され病棟常勤医も2名になりました。(もしこの様な患者さんをご紹介いただけるようでしたら、病院のソーシャルワーカーまでお気軽にご連絡ください。病名告知の有無は特に問いません。)

 一方前述しましたように当院は併設介護老人保健施設、特別養護老人ホーム、ケアハウス、グループホームなどの医療面をサポートする基幹病院としての役割も担っております。このため基礎疾患に脳血管障害など慢性疾患を抱えた元々ADLの悪い方が急性増悪し入院となる例が多く、入院の原因となつた疾患は改善しても元の施設に帰れなくなるケースもしばしば見受けられます。特に夏季、冬季にはこの傾向が顕著となり、新規入院患者のベッド確保に四苦八苦する有様で、ご紹介いただいた諸先生方にも御迷惑をおかけし大変申し訳なく思っております。本来は医療行為が必要になった方と介護行為が主に必要な方のトリアージが適切に行われ、医療施設と介護施設の間で弾力的に患者さんの移動ができればより効果的で、より適切なサービスが提供できると思うのですが、残念ながら各施設の事情もありなかなかスムーズにいかないのが現状です。

 当院でも一昨年より院内(病歴室内)に病診連携委員会を設置し、ご紹介いただいた先生方に対し紹介時および退院時の対応に問題がないようチェックを行っています。ただ現在のところ実際の患者さんの紹介につきましては病診連携室は通さず、直接該当する各科外来へ来ていただくか、急を要しない場合はソーシャルワーカーを通じてご紹介いただいております。またMRI、CTなどの画像検査のご依頼につきましては、放射線科受付へ直接ご連絡いただき予約をお願いしています。

 長岡西病院はまだ歴史も浅く、病院の規模、設備、マンパワーなどの点から見ても、残念ながら当院ですべての領域の疾患に対応できる状況にはありません。しかしこの病院で出来ることは堅実に行い、その積み重ねによって初めて地域の人々から信頼していただける病院になると確信しています。それとともに長岡市の医療全体のなかで当院が担って行くべき役割は何かという点にも配慮しながら今後も病診連携を進めて行きたいと考えています。何かと至らない点も多いことと思いますが、今後とも医師会の諸先生方のご指導、ご支援をよろしくお願い申し上げます。

 

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新会館建設事業の動向〜その2

 会員の皆様、新会館の設計案はご覧になりましたでしょうか?

 市内7社※から提出される新会館設計案に対しての「会員投票」(10月27日〜11月1日)及び「選考委員投票」(11月1日)を経て、いよいよ設計監理業者が決まります。(※その後、1社から辞退の申し出があり、6社になりました。)

 この会員投票では、図面のほか模型も見ることができますので、まだの方はぜひ実際にご覧なってください。(各設計案は選考終了後もしばらく展示する予定ですので、都合がつかず会員投票できなかった方は、この期間にご覧ください。)

 実際に図面や模型をご覧いただくと、いろいろな考えがでてくるものと思いますが、それらのご意見・ご要望が、これから具体的に新会館の基本設計も詰めていくうえで、大変貴重なものとなります。

 新会館建設は、数十年に一回の大事業です。開かれた医師会館を目指しておりますが、やはり根本は「会員のための会館」ですので、ぜひ会員の先生方から建設的なご意見・ご要望を多数いただきたいと思います。(会館建設委員会委員長 大貫啓三)

【臨時総会後の動き】 ※一部予定

●9月5日 市側と土地購入の手続き等について初回の交渉を行う。(大貫委員長・事務長)

●9月18日 第1回建築設計小委員会を開催。委員長は互選で大貫会館建設委員長の兼務を決定し、設計事務所の選定等について協議。市内7社による設計コンペを行うことを了承、実施にあたって必要となる「新会館の概要」を定める。

●9月25日 指名した市内7社に対する設計コンペの説明会を開催。提出物は図面及び模型とし、期間は約1か月とした。

●10月26日 設計コンペ提出物受付締切。

●10月27日〜11月1日 各設計案を会員に公開、会員投票を実施。

●11月1日 選考委員会を開催、投票により過半数を得た設計案を採用する。(予定)

 

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名月記を見に  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 ついに日本史の教科書の訂正や削除も余儀なくされた、藤村何某による東北地方の旧石器時代の遺跡の捏造事件でありました。おかげですっかり、昨今の考古学ブームに水を差す格好になりました。

 ところで地元の長岡市の関原地区に、県立の歴史博物館が数年前にできていました。なつかしの新潟国体でのシンボルにもなつた例の(これは真正の)火炎土器の出土したところで、縄文時代の遺跡が発掘されています。評判はよいようでしたが、なんとなく機会が無くて同館を訪れぬままでした。昨年なぞ同僚のH先生は同館のパンフレットや年会員申し込み書まで、わざわざ手渡してくださったのです。

「雪下しシーンや縄文時代の生活の大きな展示などなかなかおもしろいから、ぜひ行くとよいですよ。」

 もうしわけなくも、そのままでした。頂戴したパンフもおそらく、わが研究室の机に地層をなす雑書類の山に、指標化石のように埋もれているでありましょうな。

 そんなところに、この秋九月、冷泉家展が同館で催されました。国宝である藤原走家の日記「名月記」の公開とその他の由緒正しき冷泉家の名品の展示とあっては、ぜひに見学をとあいなりました。

 冷泉家は平安後期から鎌倉時代に活躍した藤原俊成・藤原定家父子を祖に、今日まで八百年余り歌道の家として伝統を受け継ぐそうです。手書きの歌集や年中行事に使う名品約百点展示の企画。一ケ月の期間で半月ずつ前半、後半で展示品を入れ替えとのこと。そこで律儀にも、わたくしも家人と忙しい日程を遣り繰りし前後二回参りました。

「あれ、ぜんぜん前回の展示と変わんないじゃん。」 「はんとよね、もう一回会場回ってみようか。」

 中年惚け夫婦の濁りかけた四つのまなこで会場を見渡しましたが展示は同内容に見えました。つまり期間限定の国宝「名月記」の展示のあるなしの一点の違いだけかと思うんです。誇大宣伝と苦情など関係当局に申して確認したわけではないです。たとえば「あの展示コーナーの歌がるたの一枚がね、違うんですよ。」なんて釈明はありうるんです。

 まあ素敵なものを二度も見せていただき、大満足ということで。

 ところで新古今集で名高い藤原定家であります。有名な秋の歌では次の二首なんか、いかがでしょう。

  見渡せば花も紅葉もなかりけり

   浦のとまやのあきの夕ぐれ

  暮れて行く形見に残る月にさへ

   あらぬ光をそふる秋かな

 八百年前に定家卿の書かれた(自筆の)「名月記」は、ガラスの展示ケースの中にありました。越後の使いが云々という部分が開かれていました。原文そのものは理解できませんでしたが、色褪せず保存状態は良好でありました。

 定家卿は1241年になんと80歳で亡くなつたそうです。すごく長生きだったんですね。ちなみに父の俊成卿も90歳で没と記載されています。長命の血筋なんでしょうか。

 その定家郷が几帳面な方で、18歳から延々と46年間も身辺雑記を記録しつづけたのが、今回公開された「名月記」。もっとも本エッセイなどと違い、公事、故事、歌道などに関する当時の見聞で、その歴史的意義がきわめて高い資料であるとのことで、国宝です。偏執的粘着気質を持ち合わせた稀有な抒情詩人でいらしたのかも。

…おっと歴史博物館は常設の展示のほうもよかったので、次回にでも。

 

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