長岡市医師会たより No.262 2002.1

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もくじ
 表紙絵 「くだもの」        八幡 和明(長岡中央綜合病院)
 「新年のご挨拶」          会長 斎藤良司(斎藤皮膚泌尿器科医院)
 「新春を詠む」
 「自己紹介とPET(ペット)検査紹介」  間島 寧興(立川綜合病院)
 「脳卒中センターをめざして」    竹内 茂和(長岡中央綜合病院)
 「川西班の近況について」      小林真紀子(小林医院)
 「山と温泉48〜その33」       古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「新会館建設事業の動向〜その5」  会館建設委員会
 「一枚の年賀状」          郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

くだもの  八幡和明(長岡中央綜合病院)
新年のご挨拶  会長 斎藤良司(斎藤皮膚泌尿器科医院)  

 初春を迎えるにあたり、会員の皆様に謹んで新年のご祝詞を申し上げます。

 期待をこめた2001年も激動する内外の情勢、とりわけ世界の不況とわが国のデフレスパイラルは医療界にも無関係でありえず、大きな影響を与えています。

 今回の医療関連の改定は日医にとっても苦渋の決断であったようです。危機的な医療保険の抜本改革が叫ばれながら、高齢者の医療費の自然増に対応する解決案の提示もなく、三方一両損の名のもと一時的な数字合わせに終始し、問題は又も先送りされました。医療供給側には診療報酬の引き下げと患者負担の増加による受診抑制が大きな影響となって現れることが危惧されます。ただ老人医療費の伸び率抑制は見送られたようです。診療報酬の引き下げは、この制度が出来て以来初めてであり、その詳細の公示はいつも実施日が迫ってからですので、どのような形の診療報酬引き下げ案が出てくるかは今なお不明です。

 国民に良質な医療を提供することは医師の義務であり責任です。それと関連して、カルテは医師と患者の共有物であるという考え方が生まれ、診療内容の開示が求められるようになりました。日本医師会はこれらの法制化は避け、一定の条件付きでの開示を自主目的と位置づけています。しかしレセプト開示一つとりあげても、長年政策誘導の具とされたこの複雑怪奇な診療報酬制度を患者さんに十分理解していただくのは至難と考えられます。それでもなお最近多くなった医事紛争を防ぐためにも、情報開示によって医師と患者の信頼関係の再構築を心がける必要があるのではないでしょうか。

 長岡市医師会内に目を移しますと、この一年間には准看護学校の閉校、保健衛生センターの業務の再検討、産業医活動の推進、新会館の基本方針の決定など、かねてからの懸案事項に執行部一同取り組んでまいりました。また対外的には乳幼児の医療費の助成拡大の要請、学校保健、地域保健への更なる協力、救急医療の充実、介護認定審査会への協力などに努めてきました。その他、医師会に入る情報は取捨選択して当会報「ぼん・じゅ〜る」、お知らせ(月2回)およびホームページなどで会員の皆様に出来るだけ速やかにお伝えするよう心がけています。

 病診協議会、病診委員会の努力が実り、日赤・中央・立川の三病院で病診連携室が立ち上がり、その外の病院も積極的にこの間題に取り組んでおられ、各々の連携室便りはユニークで有益であり高く評価されます。これに加え診・診連携も更に充実させる必要がありましょう。又最近はオープン病床の開設の提言も頂いており、これは病・診連携と共に在宅医療にも力強い支援であり、医師会としてもその実現に大いに助力したいと考えています。

 新会館の建設については大貫会館建設委員長が当会報などで逐次報告しておられますので詳細は省きますが、ようやく設計業者も決まり基本設計にはいりました。4月の総会でこの基本設計案と資金計画案の検討、承認をお願いする予定です。これからも新会館建設に会員の皆様のご支援とご協力を切にお願い申しあげます。

 次に最近マスコミで取り上げられた救急救命士の気管内挿管行為について若干の私見を述べます。これは長岡の救急医療のプレホスピタルケアにも関係しています。

 平成3年救急救命士法が成立し、この10年間で約17000名の人が救急救命士の国家資格を得ています。またこれと共に高規格救急車の配備も進んでいます。これまで救命士の業務に心肺停止患者の気管内挿管が認められなかった理由は法律への抵触と技術の習得に時間がかかることで、時期尚早と判断されたことであったようです。しかしこの10年の間に支援病院の協力体制も整い、地域差や個人差こそあれ救命士の技術も格段に向上しました。それ故、研修の段階に応じて一定の条件下で救急救命士に挿管の資格を与えてもよい時期がきたと思います。これにより救命士の使命感、責任感も更に強まり、その結果、地域の救急医療のプレホスピタルケアが一段と有効に機能し、患者の社会復帰を可能にするような救急救命活動になると確信しています。それ故、可急的に早期の法改正を望むものであり、これについての国民をはじめ医療関係者、マスコミのコンセンサスが得られ法改正が実現することを切望します。

 最後に救急救命士法成立当時のジャーナリスト黒岩祐治氏の主張に強い感銘と共感を覚えたことを付言したいと思います。

 以上この一年の医師会の動きを若干の私見を混じえてお知らせし、合わせて会員の皆様の益々のご健勝を祈念して年頭のご挨拶とさせて頂きます。

 

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新春を詠む

元朝の雪嶺カメラを据えて待つ    渡辺修作

初詣護国の色の褪せにけり      荒井紫江

子の帰国指折りて待つ煤拂(すすはらい) 十見定雄

初雪や胸の高さに消火栓       伊藤 洸

この年も身にあふれたる初湯かな   郡司哲己


自己紹介とPET(ペット)検査紹介  間島 寧興(立川綜合病院)

 10月1日付けで立川綜合病院放射線科に赴任してきました間島寧輿(ましまやすおき)と申します。立川綜合病院での仕事内容は、PET(ペット)検査を中心に放射線業務を行うことで、東京慈恵会医科大学放射線科より派遣されてきました。

 生まれは、雪と緑のない四国香川県高松市です。京都府立医科大学を卒業し、同大学の放射線医学教室に入局しました。その後、虎ノ門病院の放射線科、東京慈恵会医科大学放射線科、東京都老人医療センター核医学診断科(東京慈恵会医科大学放射線科よりの派遣)を経由し、立川綜合病院の放射線科にまいりました。今までは日常の読影を中心とした業務をしてきたため、専門と人に言え領域はありませんが、RI、MRI、CT検査を中心に、頭、心臓、血管系等の研究を少し行っております。また、私とPET検査の出会いは、今から20年前に東京大学医科学研究所のサイクロトロン(放射性物質を製造する装置)を実験に使用させていただいたときからと思われます。その後、東京都老人医療センターに就職し、隣接する東京都老人総合研究所のPET検査室との共同研究を行い、現在に至った状況です。

 このように、色々なことに頭を突っ込んだ状況で仕事をしているため、深い専門の知識はありませんが、ヒトの身体の画像診断を何となくこなしてしまう器用貧乏な放射線科医になっております。また、画像と機能、画像と加齢、画像と早期病態、画像と予防医学という、一般の放射線科医が興味を示さない所に興味を持っている放射線科医でもあります。今後、画像を通じて、皆様方とお会い出来ることを楽しみにしております。

 さて、今回の私の赴任に関する大きな仕事の一つは、PET検査の立ち上げ、稼働開始であります。このため、このPET(ペット)と言う略称で呼ばれています検査についても簡単に紹介させていただきます。PETとは、positron Emission Tomography(ポジトロン放出断層撮影法)の頭文字をとったものであります。臨床の現場にては、画像診断領域の核医学検査部門(RI検査部門)に含まれます。さらに、最先端医療検査機器の一つであり、新潟県下には、初めて導入されることになります。

 PET検査は、従来の核医学検査のSPECT検査に似ています。放射性医薬品(検査薬)を体内に投与し、PETカメラと言うリング型の撮像装置でデータ収集を行います。この出来上がった画像を診断する検査であります。それでは、SPECTと大きく異なるところというのは、検査薬の放射性物質にポジトロン放出核種を使用することと、検査薬にヒト生体内の代謝物質類を使用することができる二点であります。この二点にて、PETはSPECTより、より高い分解能の画像を撮像し、機能、代謝、血流画像等を作成することが出来ることです。今までのPET検査は、脳、心臓の機能および代謝を中心にした研究領域で使用されてきました。しかし、数年前より、クリニカルペットと言う名称で、一般臨床の領域で頻繁に利用される状況になってきました。このクリニカルペットの中で代表的な検査、FDG−PETに関して、説明させていただきます。FDGとは、フッ素−18標識フロロデオキシグルコースのことで、ブドウ糖に似た物質に放射能をくっつけた放射性薬剤です。すなわち、ブドウ糖を多く取り込む細胞(癌、脳、心筋等)にこの薬は集まり、PETカメラで撮像すると集積像として見えるわけです。特に、臨床の現場では、数ミリというサイズの癌の検索に利用される様になりました。この癌の早期発見(微小癌の発見)は、早期治療に繋がり、多くの人々に痛からの不安を軽減さす現状となっています。診断治療医学の面では、癌の早期診断、転移病巣検索、再発診断等に、予防医学の面では全身の癌検診ドックに使用されています。

 立川綜合病院では、このクリニカルPETを中心に、研究的PET検査を平成14年7月頃より稼働させていく予定にしております。

 このPET検査部門のスタッフは、私と共にこの雪の多い冬に土台を作り、平成14年度からは大きくはばたこうと考えております。現在のところ、地域医療を支えている皆様方に、どのようにすれば、このPET検査を簡便に且つ有効に利用していただけるかを検討している最中であります。皆様方からの熱いご指導、ご助言をいただき、頑張って行きたいと考えておりますので、宜しくお願い申し上げます。

 

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脳卒中センターをめざして  竹内 茂和(長岡中央綜合病院)

 平成13年9月1日付けで、新潟大学脳神経外科より長岡中央綜合病院へ赴任して参りました。新潟大学では助教授の6年間を含めて18年余勤めましたので、おそらく私の医師人生の中で大学が一番長く勤めた施設ということになるでしょうか。その次におそらく長く勤めることになる当院には前部長の青木先生から引き継ぎ、赴任致しました。これまで、脳血管障害を専門として臨床や研究を行ってきましたので、当院でも脳卒中を中心に取り組みたいと考えております。もちろん、大学病院では脳神経外科で扱う手術は殆ど全てを手がけてまいりましたので、手術治療が必要な疾患は何でもお引き受け致します。赴任後は院内連携が重要と考えて、神経内科との合同検討会を開始し、脳卒中患者の心臓評価を循環器内科に依頼するシステムを作りました。脳卒中は全身病との認識からです。放射線科やリハビリテーション部門との連携も良好で、院内のシステムは脳卒中センターとしての機能を開始しております。いつの日にか、名実共に中越地域の脳卒中センターとして成長していくことを心に期しております。長岡市医師会の諸先生方からのご支援を賜りますれば幸いに存じます。

 私自身は、昭和53年4月から54年6月の1年3ケ月間を長岡日赤で過ごして以来、22年振りの長岡勤務です。当時、中越地区には日赤にしか脳神経外科がなく、年間手術300例以上(脳動脈癌80〜100例)という、現在から考えますと、気の遠くなるような症例数をこなしておりました。渡辺正雄部長のご指導のもと、多くの手術を経験させて頂きましたが、今から思えば技術の未熟さから必ずしも良い結果を出せなかったと反省しております。とても忙しかったと記憶しておりますが、私の人生の中で、あれ程酒を飲んだ日々もありませんでした。殿町全盛の頃で、昔の日赤からは歩いて出掛けることが出来ました。毎週、月曜から金曜日まで予定手術が組まれておりましたが、毎夜出掛けておりました。よく体が持ったものだと思いますが、何よりも家内に逃げられなかったものだと今更ながらに家内には感謝しております。宿舎の隣も脳神経外科医の家で、彼も私と一緒に飲み歩き、二軒揃っていたのが幸いしたのかも知れません。

 私は愛知県豊橋市の出身で、昭和50年3月に京都府立医科大学を卒業後、新潟大学脳研究所脳神経外科に入局致しました。卒業前に脳神経外科をやろうと決めた時、京都府立医科大学には独立した脳神経外科学教室がなく、外科の一部でやっておりました。そこで当時、学長で神経解剖学教授でおられた佐野豊先生に相談に行ったところ、新潟大学には脳研究所があり、植木幸明教授を知っているから、紹介したら行くかと言われ、深く考えもせずに、次男ですからどこでも結構ですと答えて決まりました。新潟には一度も来たことがなく縁もゆかりもありませんでしたので、あまり先のことを考えずに新潟に来たというのが本当のところです。当時の医局長に挨拶に伺った時、みぞれが降っており、とんでもないところに来てしまったなというのが最初の印象でした。私の両親は愛知県に居て欲しかったようですが、大学は京都、卒業したら新潟ということで、この息子は何を考えているのだろうかと思ったようです。実は何も考えておりませんでしたが、あれから26年間を経て、いまでは新潟県の風土、食べ物、酒などが大変気に入っております。冬の天候の悪さもそれ程気になりません。むしろ、春が来たときの喜びは太平洋側で過ごしている者には分からないものだと思います。

 スキーは学生時代から好きで、信州のスキー場には夜行バスや列車でよく来ました。新潟に来てからも、大阪の国立循環器病センターに勤務した2年間とカナダに留学した2年間を除くと必ず毎年行っております。長岡は新潟よりもスキー場に近くなり、今シーズンも行こうと考えておりますが、なかなか暇が取れないかも知れません。高校時代に軟式テニス(今のソフトテニス)をやっておりましたが、あまりうまくならず、大学では琵琶湖でヨットに乗っておりました。大阪から戻った15年位前に、家内がテニスを始めたこともあって誘われるようになり、新潟では12年間程テニススクールに通いましたが、出席が不規則なため技術の向上はさっぱりでした。長岡に来てから3ケ月間は全くテニスから遠ざかっておりましたが、インドアテニスコートが出来たのをきっかけにスクール生として入会しました。しかし、出席がままならないのは大学時代と変わりません。

 長岡中央綜合病院脳神経外科は現在、私以外に加藤俊一(平成元年入局)、藤本剛士(平成7年入局)の3名体制です。私の赴任以来症例が増えたこともあり、忙しくなっておりますが、臨床活動で大切なことは症例の数だけではなく、治療成績であろうと考えております。普通に治せる病気はきちんと治すことが、患者さんにとっての幸せであると考えております。手術適応を厳密にして手術成績を向上させることが外科医としての使命と思い、無理をしない姿勢を貫こうと考えております。大学時代も私はどちらかというと手術適応には慎重な立場であり、その姿勢は今も変わりはありません。長岡市医師会の諸先生方のご支援と綿密な連携により、私どもを育てて頂ければ幸いに存じます。よろしくお願い申し上げます。

 

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川西班の近況について  小林真紀子(小林医院)

 父が他界して、満11年になります。父は昭和21年に川西地区の槙下町で内科を開業いたしました。私の「真紀子」という名前は地名をとって、父が名付けたと開いております。

 当時は長岡市街地と川西地区を繋ぐ橋は、長生橋と蔵王橋の2本しかなく、川西地区といえば、広大な田園を背景とした典型的な農村地区でありました。また開業医もほとんどなく、川西地区から与板付近まで、毎日毎日昼夜を問わず往診していた父の姿が今でも目に焼き付いております。またこの地域は、ツツガ虫との戦いの地であったとも聞いております。現在の西部班と北部班の一部であった川西地区が川西班として独立したのは昭和63年とのことです。現在、長岡大橋、大手大橋の2本の橋が掛けられ川西地区は大きく変わりました。長岡技術科学大学、造形大学、ハイブ長岡、県立美術館、リリックホールと、次々に文化施設が出来、それを境に人口も急増加いたしました。背景も農村地帯から新興住宅地へと様変わりいたしました。

 現在川西班の医師の総数は、病院の先生方を除くと、最長老の高木昇三郎先生をはじめとし38名にのぼります。そしてさらにほとんどすべての専門医が揃っております。父の時代からは到底考えられないことです。さらに長岡市医師会長(斎藤良司先生)、副会長(大貫啓三先生)も川西班におられ頼もしい限りです。また長岡赤十字病院、長岡西病院、田宮病院と綜合病院もバックに控えており、病診連携、診診連携もうまく行われ安心して診療できるすばらしい環境でもあります。女医の多い事も特徴のひとつでしょうか? 木村嶺子先生(木村医院)、小林三千先生(江陽医院)、鈴木しのぶ先生(喜多町診療所)、武田さち江先生(たけだ眼科医院)、森下美知子先生(森下皮膚科医院)、そして私(小林医院)の6名です。また今年度中に4名の先生方が新規開業されました。阿部良興先生(あべ内科クリニック)、大橋正和先生(おおじま心療クリニック)、西脇智弘先生(西脇耳鼻咽喉科医院)、星野明生先生 (セントポーリアウィメンズクリニック)。

 新医師会館も川西地区に移ることが決定いたしました。独立してからの歴史の浅い川西班が、今後益々発展し、充実していくであろうと期待しております。

 私の思い出も含め、川西班の近況を報告させていただきました。

 

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山と温泉48〜その33  古田島昭吾(こたじま皮膚科診療所)

 瀬戸口温泉

 国道353号線を越後湯沢、石打方面から十二峠を越えると、清津峡小出温泉のある「清津峡温泉入口」、ついで小学校を過ぎ、昭和57年(1982年)完成の「清津トンネル」に入る。このトンネルの中里村田沢側出口左側にバス停と瀬戸口温泉の看板があり、清津川に下る道路、狭いが立派な鉄橋、そして其の先に古びた一軒宿が見える。看板が無ければ少し大きい民家にしか見えない。清津トンネル完成以前の道路(旧国道)は、清津川の「瀬戸峡」と呼ばれた峡谷の断崖を刻んだ所謂「へつり」で、へづって作られた危険な路を人々は往来していた。観光としては、明るい瀬戸峡の絶景とされていたようであったと言う。現在も橋の下流から上流の眺めはなかなかのもの。車で通過することが多いため、この景色は温泉と同様に知る人が少なくなった。

 瀬戸口温泉は「清津峡ホテル」。清津川左岸に建つ一軒の温泉宿。温泉案内書には必ず記載されている。かなり古い温泉と言うのだが、はっきりした由来はわからない。「弘法大師の授け湯」としての言い伝えが専ら。弘法大師開湯の話は、それはそれで良いのですが、「北越雪譜」には見当らない。「越後薬泉」「越後野志」にも記載がないようだ。もしこの温泉の由来がおわかりでしたら教えて下さい。温泉宿としては昭和10年からと言う。ひっそりと滑津川左岸に建つ温泉宿の情景は、揺れる吊橋があった頃では、山水画のようであったと聞く。記憶を辿ると、十数年前、あそこに温泉があるなら行ってみようと言うので宿に開い合せたことがある。大学の合宿だけやっています、との返事であった。おかしいな、そう思っただけでした。後で解った事ですが、お客の殆どが、ユース会員、大学の合宿であったためでした。

 湯は、41度、PH7.5、食塩泉(新潟温泉風土記より)

(つづく)

 

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新会館建設事業の動向〜その5 会館建設委員会委員長 大貫啓三

※平面図は、「新会館関係動向」コーナーのものを併せてご覧ください。

 1月24日、第3回建築設計小委員 会を開催し、コンペ採用のB案について、前回の小委員会で指摘された問題点を踏まえた第一次修正案の検討を行いました。コンペ案から修正された主な点は以下のとおりで、( )内は当日出された関連の意見です。

*駄事場側事寄せの設置(庇(ひさし)など更に利便性を考慮する必要あり)

*大ホール=・出入口の圧迫感解消、配膳室の設置(冬場のコート類の扱いを考慮する必要もあり)

*映写室:・150インチスクリーン背面投影に対応 (大きなスペースを占めるため有効利用についての検討も必要)

*書庫・倉庫…2階にも設置、充分な広さを確保

*事務・管理諸室…広さと相互機能を確保(6〜7人想定の応接スペースが必要。相互調整により確保)

*トイレ=・閉塞感の解消・大ホール利用人員に対応(前室と本室に分け、利便性を向上させるべき)

*ギャラリー…2階にも設置

*職員厚生…事務室脇に更衣室設置

 その他の意見としては、

*会議室の変則的な形状の解消(検査室との位置交換を含めて)

*北側の駐車スペースが不便

*東側インターフェースガラス面の結露への不安

*2階ギャラリーと調和した階段位置の調整

などがありました。

 なお、改善点の多くはランニングを含めたコストとの兼ね合いもあり難しい部分もありますが、「最高の医師会館を」と委員一同更に鋭意検討を加えていく所存ですので、引き続きご意見、ご要望をお寄せ下さいますようお願いいたします。※次回は2月15日開催予定です。

 

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一枚の年賀状  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 仕事始めの病院に、年賀状がいくらか届いておりました。その中に一枚、やや異色のものがありました。と申しましても、中身はふつうの文面です。ありきたりの印刷した賀詞に、手書きで以下のあいさつが添えられていました。

「昨年は本当にありがとうございました。先輩の益々の御健康と御発展をお祈りいたします。新大キャンパス新聞会」

 ちょうど部屋にいた同僚のN君にその年賀状を見せました。

「いつか無理に寄付させられた学生新聞なんだけど、ちゃんと挨拶の年賀状を寄越したよ。いまどきの学生さんにしては感心だなあ。すこし見直したよ。」

「きっとまた寄付頼む気なんでしょうね。」とN君。

「まさか一年だけでいい、ってあれだけ言ってたんだから。」

 昨年の春、病院に突然電話がありました。交換手が「新潟大学の学生新聞だとおっしゃっていますが、おつなぎしますか?」

 病院にも『節税対策マンションの購入』のお勧めなど、いろんな電話がかかるんです。診療中の外部電話は交換手が厳しくチェックです。いつか大学の主任教授に「Gくん、先日もきみに電話したんだが、身元の返答にまごついたらもう交換手に取り次いでもらえなくてね。」と苦笑されたこともあるくらいです。

 この件は医学部学生教育の取材かなんかだろうかと思い、電話を繋いでもらいました。それは「新大キャンパス新聞」なる学生新聞の購読と十年間縮刷版の購入の勧誘でした。

 WHY、ME? もちろんその活動に関係したこともないし、興味がないとお断りしました。

「そうおっしゃらないでください。じつは活動資金が不足なんで、本音としては、ご寄付いただきたいわけなんです。一年だけでいいんです。お願いします。」と真剣な声。

「そう正直に懇願されるとなあ。わかった。きっとまじめな活動なんでしょうから、では今回だけ。」

 数日後に勤務先に郵便振込用紙を送って来て、幾許の金額を払い込みました。縮刷版新大キャンパス新聞が送られてきました。ただしその発行日は3年も前なのでした。つまり在庫一掃と活動資金調達をかねて活発な活動を、商才に長けた新聞部員が企画したんでしょうね。もちろん隔月にこれは「新しい・新聞」も送られて来ました。

 さて次の日の夕方、病棟で入院患者のカンファランスの最中に電話が入りました。

「新大キャンパス新聞会ですが、今年もご理解いただいた先輩に引き続きご寄付を…。」

 う−む、やはりそういう計算づくの年賀状かとがっかり。

「一年だけの約束でしたから。また他の理解ある先輩をさがしてください。」とお断りしました。

 中座から戻りN医師に報告です。

「N君、今回の学生の年賀状に関しては、完全にきみの読みが正しかったよ。さっそく学生新聞の今年度も購入依頼の電話だった。なんだかがっくりで、ノーと答えたさ。」

「え−つ、意外ですよ。やっぱりG先生のキャラクターとしては、しようがないなあと言いつつ、また寄付しちゃうかと思ったです。」

「そうだ、残念。学生の活動に理解あるN君を、ぜひ代りに推薦しとけばよかった。…そうか、きっと知り合いの誰かに、こんな状況で、ぼくも売られたのかもねえ。」

 

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