長岡市医師会たより No.264 2002.3

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。

もくじ
 表紙絵 「谷川岳遠望(沼田辺り)」 丸岡  稔(丸岡医院)
 「小学生といのちの授業を体験して」 富所  隆(長岡中央綜合病院)
 「自己紹介」            小林代喜夫(立川綜合病院)
 「長岡に辿り着くまで」       木口 俊郎(立川綜合病院)
 「呑ん兵衛のたわごと〜3」     福田 光典(悠遊健康村病院)
 「山と温泉48〜その34」       古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「新会館建設事業の動向〜その6」  会館建設委員会
 「海からの春たより」        郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

谷川岳遠望(沼田辺り)  丸岡 稔(丸岡医院)
小学生と「いのちの授業」を体験して  富所 隆(長岡中央綜合病院)  

 ひょんな事から、一昨年と昨年にかけて長岡市内の三つの小学校で、「いのちの授業」と題して話す機会を与えていただきました。当時、いわゆる青少年と呼ばれている世代の凶悪犯罪が新聞紙上をにぎわしており、いのちの大切さと、他人に対する思いやりを医師の立場で話して欲しいというのが趣旨でありました。

 哲学上の永遠のテーマである、生きることと死ぬことの意味を小学生にどんなふうに話したらよいのか、それをどんなふうに理解してくれるのか、正直さんざん悩みました。ほぼ同じ世代の我が子を見ても、いのちと生命の違いなど理解してくれそうも無く、同級生の小学校教師に相談したり、市立図書館に通いブック・トーキングなどという言葉を見つけたりして、なんとかやってみることにしました。

 初めての授業の時は、聴診器を数本持っていき、心音や呼吸音を聞いてもらったりしましたが、やはりその場の話だけでは死についての理解は難しかったようで、2回目と3回目は授業の数日前に、生きていることと死ぬことについての作文を書いてもらいました。

 驚くことに、殆どの子供達が身内の人の死や、育てていたペットとの別れを体験しており、その時の驚きや悲しみを新鮮な気持ちで書いてきてくれました。

 ブックトークの題材として選んだのは、「葉っぱのフレディ」(レオ・バスカーリア作 童話屋) という絵本で、この中には生きることの意味、死ぬことの意味、そしてそれぞれの個性ということがうまく表現されています。我が家の庭にある楓の葉っぱを大きな袋に詰めて持っていき、同じ形の葉っぱは一枚もないことを見てもらいながら、本を読み、いのちと生命の違いやいのちの大切さ、友達への思いやりなどについて話しました。

 作文を書くことによって、それぞれが考えてきてくれた、疑問や問題に対して、的確に答えられたかどうか不安ではありますが、僅か45分の授業とはいえ、みんなとても熱心に聞いてくれたのが印象的でした。

 以下は授業の後に子供達からいただいた感想文です。

 「ぼくは、命についての授業でとても感動しました。葉っぱのフレディを聞いて、生き物は生まれてから死ぬまでみんな誰かの役に立っているということを初めて知りました。みんなが生まれたのは、一人一人誰かの役に立つことをして欲しいと言うことだと思います。」…豊田小学校5年 たかゆきくん

 「私は、今日の話を聞いて、あーなるほどと思ったことがあります。それは″命″、″生きる″、″死ぬ″という言葉の意味が全部つながっているということです。それから私たちにとって大切な言葉″生きる″ということは、うれしいこと、悲しいことなど、いつもこころで何かを感じることなんだと知りました。」…豊田小学校5年 みさとさん

 授業は全学年を対象にしてほしいという学校もありましたが、内容が難しいと考えて高学年のみにさせていただきました。しかし実際にやってみて、その後のお便りを拝見すると、子供達は私の想像以上に、柔軟に物事を理解するものだと知らされました。今回の試みがほんの僅かでも子僕達の人生の役に立ってくれたらと願っております。

 

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自己紹介  小林代喜夫(立川綜合病院)

 私は平成9年4月に立川綜合病院小児科に赴任して今年の春で丸5年になります。長岡の出身で高校までは地元で(田辺医院の田辺一彦先生とは長岡高校の同級生)、大学は山形大学に進み昭和57年の卒業です。卒業後は同大学の小児科に入局し小児循環器を専攻しました。平成3年から米沢市立病院に勤務していましたが、平成9年の春に地元に戻りたいという希望がかない当院に赴任しました。

 当科は故・竹内衛先生が小児科医の立場で本県における先天性心疾患診療の先駆者として活躍された実績が有ります。私はその後任として赴任したのですが甚だ力不足で、内心上手くやっていけるか大変心配でした。「平常心と等身大」をモットーに、自分の出来る範囲でその仕事を引継ぎ、またその中で少しでも自分なりの仕事が出来たらと思い診療を始めました。赴任当初は週2回の心臓外来に県内各地から沢山の患者さんが受診し、外来を熟(こな)すのに精一杯でした。2年日当たりから少し余裕が出始め、新しい診療の試みとして県内ではあまり行われていなかった動脈管開存症のカテーテル治療を始めました。先天性心疾患の治療は、小児科医が診断し胸部外科の先生に手術をお願いするという大きな流れが有りますが、小児科医も治療に参加することが出来る新しい流れとしてカテーテル治療が近年盛んに行われています。小児のカテーテル治療は多くの種類が有りますが、患者さんが多く最も多く行われているカテーテル治療は動脈管問存症に対するコイル塞栓術です。開胸手術に比べて遥かに低侵襲で、短時間、低コストで行えます。小〜中程度の短絡の症例に限られますが、小児科で治療が完結するその達成感・満足感は、これまでに無い小児循環器医としての喜びです(症例が有りましたら是非ご紹介ください。)

 話題を変えて趣味の話をしたいと思います。今、最も夢中になつている趣味は「熱帯魚と水草」です。以前から興味を持っていて、8年ほど前に引っ越しをして少し居住スペースに余裕が出来たことが切掛で始めました。最初は60cm水槽からスタートし、ネオンテトラやグッピーなどの綺麗で小さな魚が群れを成して泳ぐ姿を見て喜んでいました。しかし、徐々に背景として植える水草に引かれるようになり、現在は熱帯魚より水草に興味を持って行っています。水草も熱帯魚に劣らず姿・形や色など様々で多くの種類が存在します。熱帯魚に比べると少し難しい所が有り、なかなか上手く育ってくれない種類があり、試行錯誤をくり返しうまく根付き成長を始めた時は大変感動的です。アマゾンの沼底などをイメージして緑や赤などの色、背の高さや葉の形などを考えて何種類かの水草をレイアウトし、順調に育ち始めると酸素の気泡を沢山着けて成長する姿はとても美しいです。そして水草水槽にはカージナルテトラやプラックファントムテトラなどのカラシンと呼ばれる小型でそれぞれ個性的な色をした魚が良く似合います。夜ビール片手に好きなジャズを聞きながらボーと眺めていると一日の疲れが取れます。あれもこれもとやっているうちに水槽は徐々に増え大小合わせて9本になってしまいました。水槽台として3段の棚を使っていますが耐震構造になっていないため地震が大変心配です。既に水槽を増やす場所もなく、将来開業するようなことが有れば待合室に大きな水槽を置いてみたいと思っています。

 最後に長岡市医師会の会員の皆様には今後とも色々お世話になるかと思いますがご指導の程宜しくお願いいたします。

 

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長岡に辿り着くまで  木口 俊郎(立川綜合病院)

 平成13年8月から立川綜合病院呼吸器内科へ勤務して半年が過ぎようとしています。とは言っても、最初に長岡に来てからは6年半が経ち、今回が3回目の赴任ということで自分では住み慣れた土地に戻ってきたという感じがします。今度こそはじっくりと腰を落ち着けて仕事をしようと覚悟して来たわけですが、これには今まであちこち転々として、しかも普通の医師とは異なった環境が長かったのが原因かも知れません。

 私は昭和59年に防衛医科大学校を卒業しました。防衛医大は知っておられる先生方もいらっしやると思いますが、ちょっと(相当?)変わったところで、特に私が入学したころは出来て5年目の新設医大であり、一般にもあまり認知されておらず、将来がどうなるか不安で一杯でした。卒業後は9年間自衛隊に勤務しなければならず、そのうち4年間は大学病院でいわゆる総合臨床医となるべく、スーパーローテート方式で何でもやらされました。

 残りの期間は自衛隊の医務室や診療所での隊員の健康管理が主であり、私は航空自衛隊に所属していたため航空医学という不可解な分野を少しだけ勉強し、パイロットの健康管理が主な仕事でした。特殊な環境を体験するためにジェット戦闘機にも同乗させられたり、ヘリコプターで僻地に往診に行ったり、なかなか経験できないような楽しい?生活をしていました。

 ただいつまでも自衛隊にいると臨床医として取り残されてしまいそうな不安や焦りがあり、ちょうど卒後8年目に当時勤務していた札幌の自衛隊病院から次は沖縄に転勤という話がでたのを機会に、以前研修でお世話になつた東京医大の呼吸器外科からのお誘いがあったので、思い切って自衛隊を退職し東京医大へ入局し、平成4年から茨城県にある分院の霞ケ浦病院呼吸器科へ勤務となりました。そこでは外科の一員として肺癌や気胸の手術にも立ち会ったり、外科の研修医のような生活でしたが、今考えてみると貴重な経験ができたように思います。

 平成5年4月から東京医大第五内科として新しく講座が開設され、偶然にも防衛医大の時の恩師である松岡健先生が初代教授として赴任されたため、そのまま第五内科へ移ることができました。しかし開設当時は医局員がおらず、なんとか全国から防衛医大の卒業生を5人集め、さらにローテーションで勤務していた東京医大の研修医を半ば強引に勧誘して8人からスタート、私がいちばん古いということで医局長を任されました。全くのゼロからの出発でしたが、以前からの内科120床の患者は重くのしかかっており、まずは医局員を増やすことが至上命令でした。

 医局員および関連病院の確保に必死に動き回っているうちに最初の2年間が過ぎたころ、突然長岡への出張という話が舞い込んできました。立川綜合病院の理事長から教授へご依頼があったとのことですが、もちろん私をはじめ医局員は背反対でした。やっと医局が軌道に乗り始め、これから近くの関連病院と連携を作ろうとしていた時に、遠く離れた新潟県まで派遣を出すのは無駄だというのがその理由です。しかし教授からはしばらく新天地でリフレッシュしてみてはどうかと言われ、臨床に専念できるという期待もあったため承諾し、平成7年9月から長岡での仕事が始まりました。

 全くの見知らぬ土地で当初は不安でしたが、幸い病院のスタッフや市内の呼吸器の先生方から好意的に接して頂けたのと、長岡が馴染みやすい所だったため、いつの間にか離れがたくなっていきました。途中二度も医局の都合で茨城に戻りましたが、臨床医として医局の都合が優先され振り回されることに疑問を感じ、一か所でじっくりと患者さんとつきあっていくことが良いと思うようになり、今回は自分の意志で判断してやってきました。

 単身赴任でもあり、まだまだ完全に長岡に定住とは言い切れませんが、自分なりに納得の行くまで頑張ってみようと思っております。今後とも長岡市医師会の先生方にはいろいろと御指導のほどよろしくお願い申し上げます。

 

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「食事とか食べれますか」

〜呑ん兵衛のたわごと(3)  福田 光典(悠遊健康村病院)

 最近の日本語の乱れを嘆く中高年は多いが、かく言う私自身まぎれも無くその中高年の一人である。約15年前から「ラ抜き言葉」が横行しそれに不快の念を抱いていたら、そのうち思慮もなく何処でも何にでも「とか」「とか」を付け始め、最近では犬や猫はおろか花や食材にまで敬語を使う輩が増えて来た。言葉の乱れは文化の乱れを意味する(草柳大蔵)と手厳しい識者の声も少なく無いが、開き直って考えれば、多くの日本人が日本語を喋らなくなつた、ただそれだけのことかも知れない。即ち、今日若者達が喋っているのは日本語のようで日本語ではなく、実はガキ語−で悪ければ妖怪語とでも思っていればさして腹も立たないであろうが。

 「とか」は物事を例示し列挙する時に用いる助詞であるのに、近年は一語の例示にも「とか」を付けて話すのはとても耳障りである。実例を挙げれば、看護婦が患者に「おトイレとかは独りで行けますか?」と尋ねるのは今や日常茶飯、医師同士の会話でさえ「学会とかに行けば」などと平気でやっている。先日、回診の途中で食堂のテレビの前を通りかかると、民放の或るバラエティ番組でこの 「とか」を取り上げていたので、足を止めてしばし見入っていた。元グループ歌手のYと知性派女優のOが司会する番組で、「とか」は所謂″若者言葉″であり正しくない用法であると二人は力説していた。我が意を得たりと感心して聴いていたら、やがて話題が次のテーマに移ったところでYがO嬢に向かって 「ところで岡江さん(実名を出しちゃった)、旅行とかは好きですか?」と尋ねたので、思わず吹き出してしまった。その後の2人のやりとりを聴いていると、約1分間の会話の中に前述の「とか」が3度も出て来たのには、只ただ呆れた次第である。

 次に、表題の「食べれる」は所謂「ラ抜き言葉」であり、私が最も耳障りと感じている妖怪語である。中学の国語で習ったように可能を表す助動詞は、五段活用する動詞に付く時は「れる」で良いが、上一段活用、下一段活用、カ行変格活用の場合は「られる」を付けなければならない。即ち「見れる」「着れる」「食べれる」「来れる」は全て誤りで、各々「見られる」「着られる」「食べられる」「来られる」が正しい日本語である。因みにサ行変格活用の場合は、「れる」も「られる」も付かない。

 近年、「朝食を食べる」という重複表現を多く耳にする。気にしない人は一向に気にならないらしいが、私には「馬から落ちて落馬した」と同じ位に気になるのである。

 「朝食を食べる」は気にならない人でも、表題の如く「食事を食べる」と書けばおかしいと気付くであろう。「食事」には「食べる」という行為そのものが含まれているから、「食事を食べる」は重複表現なのである。

 「お花に水をあげる」「猫に餌をあげる」「息子に小遣いをあげる」、これらの言葉を奇異に感じる方はどのくらい居られるだろうか。先日NHKのクイズ番組で、司会者が「肉を包丁で叩いてあげると」などと平然と喋っていたが、私には奇異どころか不快にさえ感じられた。「あげる」は元々は目上の者に献上する意味で「与える」の謙譲語−即ち「さしあげる」に近い言葉であり、私は動植物や目下に対しては本来の「やる」を使うべきであると思っている。因みに「水やり」は情緒ある美しい日本語であるが、「水あげ」と書くと花街(カガイ−ハナマチは誤読)のイミシンな符帳になってしまう。「水をあげる」のは神様や仏様だけにしておく方が無難である。「やる」に抵抗を感じるならば、「水をかける」「餌を与える」「小遣いを渡す」と言い換えれば問題はない。

 ところで丁寧な言葉遣いと誤解されている「とんでもございません」は、若者よりも中高年の男女に好んで使われているようだ。「とんでもない」の「ない」は「はしたない」と同様に漢字で書くと「甚い」となり、文字どおり甚だしいという意味で上の語を強める働きをする。これを「無い」と勘違いした上に丁寧に「ございません」と変換したのが誤りのもとである。「とんでもない」だけでは粗野な感じがするなら、「とんでもないことでございます」とすれば美しい日本語になる。

 「あげる」も「とんでもございません」も誤用としては罪が軽いが、現代の若者問に蔓延する敬語の乱れは目を覆うばかりである。戦後の民主主義教育が悪平等を生み横並び人間を育てた為に、正しい敬語を使えない日本人が若者を中心に急増している。世間の若者に注意をすると仕返しが恐いなら、せめて自分の子供達には厳しく指導して、美しい日本語を話す本当の日本人に育てたいものである。

 

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山と温泉48〜その34  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

 辰の口温泉

 この温泉はわかりにくい処にある。地元(津南町三箇乙字辰ノロ) の人達に聞くと、ちかくの鹿渡温泉と一緒に教えてくれる。しかし、同じ集落のすぐ近くにあるのだが見つからない。

 JR飯山線駅が目標になる。鹿渡駅一つ手前の越後田沢駅を出た列車は、信濃川を渡り、信濃川左岸を走る。この辺りの信濃川は峡谷。

 国道117号線からは、列車と同じく信濃川左岸を走り松之山温泉に向かう国道353号線に入るのが起点。

 バスは、田沢、津南町バス営業所に問い合せられたい。時間が良く分らないのです。

 車では、中里村田沢を過ぎ、清津大橋を渡り津南町に入り、間もなく「松之山温泉」方面の標識に従い右折する。道路が急に狭くなる。ためらわず進む。峡谷の信濃川を渡り、飯山線のガードをくぐり、坂道にかかるがこれを直進する。左側に「辰ノロ郵便局」、三叉路突き当たる。

左・「松之山温泉方面」、右・「JR鹿渡駅」。そして、突き当たりの谷間に温泉宿がある。道路からは、見えにくい。「渓泉荘」の看板。突き当たって、谷間に下りなければならない。三叉路を右折すれば、数分でJR鹿渡駅、そして駅前に鹿渡温泉。駅は無人駅。駅から辰の口温泉迄歩行約十分、近い。

 辰の口温泉について、「越後の湯」(青冬社刊)によれば、「松之山町との境にある豊原峠のふもと。切れこんだ谷を渓流が走り信濃川にそそぐ、わずか二十米ほどの幅しかない狭い谷底を埋めるように一軒の旅館が建つ。竜の口が空に向かっているように見えるこの谷間から温泉がわき出ている。これが辰の口温泉の由来だ」とある。ここの地籍は津南町。国道から温泉宿を見下ろすと、さもあらん、由来そのもの。温泉は江戸時代中期には自噴していたようです。場所は谷川の上流。現在は昭和30年掘削の源泉からの引湯。鹿渡温泉も同じ源泉から引湯している。温泉旅館は「渓泉荘」、狭い谷間に狭い駐車場があり、車で行ける。湯は、42度、PH7.5、単純泉(「新潟温泉風土記」より)

 鹿渡温泉

 JR飯山線「鹿渡」駅前、と言うより駅構内。駅は昭和56年から無人駅となつています。地籍は辰の口温泉と同じ津南町三箇、同じ集落と言って良い。この駅は、古くは、松之山町に入る玄関口であったので、かなりの乗降客があったのです。松之山町へは一日がかりの行程のため、旅館は繁盛したと言います。人影の無い現在では考えられない事です。駅前の旅館を買取った人が、昭和30年、辰の口温泉源泉削を機会に、同じ源泉から引湯し、現在の温泉旅館「鹿渡館」を開館したのが鹿渡温泉の由来。従って、湯は辰の口温泉と同じ湯です。

 段野温泉

 津南町の端、国道117号線中津川大橋を渡り、中津川左岸の台地に温泉センター「御陣荘」がある。昭和60年、津南町と地元の共同出資に依る第三セクター「津南町地域活性化センター」の運営となり、湯浴だけでなく、会議、結婚式等に利用されている。ボーリングによる、単純泉・加熱。

 小下里(こさがり)温泉と津南町温泉スポーツランドクアハウス津南

 国道117号線中津川大橋を渡り暫らく行くと、狭い洞門に入る。ここを出ると間もなく、右手深い谷川となった信濃川河岸段丘上に小学校のような建物が眼にはいる。これが「津南町温泉スポーツランドクアハウス津南」。小下里温泉は手前、小下里・バス停、又は、クアハウス・バス停より、右に入ります。

 小下里温泉は昭和34年(1959年)ボーリングされたもの。津南町温泉スポーツランドクアハウス津南は、昭和61年(1986年)ボーリングで開湯、珍しくドイツ式入浴方法をとっていますが、日本式入浴も勿論あります。津南町からのバスは便利。便数の少ないJR飯山線からは、越後田中駅下車、信濃川を渡れば歩いて十分と掛かりません。「疥癬」の流行のきっかけを作ったと噂されました。約35度、単純泉、加熱。

 田中温泉

 前記の小下里温泉・津南町温泉スポーツランドクアハウス津南から信濃川を渡った左岸にあり、あまり知られていない温泉。JR飯山線越後田中駅から田中集落を横切り、信濃川河岸段丘の縁に、田中温泉「しなの荘」があります。歩行5分、少し判りにくいのですが、最近、看板を建てたようで、迷うことはありません。車では、国道百117号線を、「津南町温泉スポーツランドクアハウス津南」過ぎて間もなく「小下里」のバス停、「田中方面」の標示があり右折、橋を渡る。田中の集落に入り2つ目の角を左折、少し下ると田中温泉「信濃荘」の前の広場に出ます。バスの場合は、津南町からのバスで、「小下里」のバス停下車。眼の前の橋を渡る。2階建の古い宿。此処の名物は、宿の周りの「よしの桜」、温泉からの花見です。宿の開館は昭和40年代と言う。32度、単純泉、加熱。

 この近くには、近年温泉・鉱泉が多くなつた。国道を車で走っていると看板が眼につく。一軒宿が多い。「富野原温泉・宝山荘」も其の一つ長野県との県境にあります。一浴は如何でしょうか。

註 新潟県内の温泉・鉱泉は、近年多くなりました。最近刊行された「新潟県温泉風土記」 によると次のような数になるそうです。

昭和34年 46 (鉱泉:16)

昭和50年 56 (鉱泉:27)

平成元年 170 (鉱泉:80)

平成12年 259 (鉱泉:103)

(つづく)

 

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新会館建設事業の動向〜その6  会館建設委員会委員長 大貫啓三

 当初の計画より多少遅れ気味ではありますが、新会館の各スペースの検討も最終投階を迎えております。3月15日付の「お知らせ」に掲載しましたように、3月28日の第6回会館建築設計小委員会で最終的な平面図を確認し、いよいよ本格的に基本設計作業に入ることとなります。

 基本設計図面の作成には約2か月程かかり、この基本設計図面を元に設計上の建設費用概算が作成されます。その後、必要に応じて調整(修正)作業を行い、6月中旬頃の臨時給会にて基本設計及び資金計画の詳細を提案する予定です。

 これまでの検討の過程を振り返ってみますと、まず新会館に求めたことは、公益法人として、中越地区医師会の拠点としての医師会館に相応しい建物ということでありました。

 幸い敷地については、ご承知のとおり、ハイプ長岡西側の市有地を好条件にて取得できることとなりました。駅からは少し遠くなりますが、交通アクセス、環境は申し分なく、まさに医師会館に相応しい場所であると考えております。

 建物の中身については、開かれた医師会、バリアフリー、災害時への対応、IT化をはじめ、検討を重ねれば重ねる程あれもこれもということが出てまいりました。医師会館の建設は何十年に1回の大事業ですので、将来的なことも考えておく必要があり、予算的な制約の中でどこまで取り入れるか、この辺の兼ね合いが大変雄しいところであります。予算の問題につきましては、基本設計後作成される建設費用概算で具体的なものとなり、建設資金運営小委員会で検討されることですが、長岡に相応しい医師会館を建設するためには会員の皆様からの応分のご負担が不可欠になります。ご協力をお願い申し上げます。

 3月28日の建築設計小委員会で最終確認をする平面図は、後日改めて配布いたしますが、現時点での新会館と現会館の簡単な比較を文末に掲載します。

 基本設計作業に入りますと、膨大な関連作業を平行してして進める関係で大きな変更は難しくなりますが、可能な限り会員の先生方の意向を反映させたいと考えますので、ご意見等がありましたら引き続きお寄せ下さるようお願いいたします。

【新会館の概要】 ※( )内は現会館

◆敷地…485坪 (220坪十別区画駐車場100坪)

◆構造…鉄筋コンクリート2階建 (同、増築部分は鉄骨2階建)

◆延床面積…250坪 (180坪)

◆大ホール…58坪 (2階講堂部分は40坪)

◆会議室…14坪 (8坪)

◆事務室…13坪 (4坪)

◆書庫・倉庫…11坪 (8坪)

◆駐車場…25台 (別区画の駐車場を合わせて15台前後)

※以下省略、面積は大まかなものです。

 

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海からの春たより  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 混雑した外来診察を終えた土曜日の午後、帰宅して遅い昼食です。半日勤務でも流感の流行時期ゆえわたしの帰りは遅いと予測した家人は、すでに12時過ぎにお昼は済ませたとのことでした。わたしに給餌、もとい給仕をしてくれながら、家人「Yさんから、ついさっき海の帰りだと言って、こんなにアオサをいただいたのよ。」

 ボールに入ったアオサを持ってきて見せます。水の中にたくさんおりかさなった海藻は、透明感のある緑がきれいです。

 Yさんがお仲間と連れ立ち、海に遊びに出かけたところで、たまたま浜の漁師のかたが取りたてを分けてくださったんだそうです。

 万葉調に申せば、山野での「摘み草」と並んで、春の季節感あふれる海辺の「磯菜摘み」でありますな。

 Yさんはご近所に住む、もともとは「犬ともだち」の女性。我が家に筍、きのこなど、自分で採取された山菜をしょっちゅうおすそ分けくださいます。また木の芽やワラビとりといったお手軽初心者コースなら、わたしども夫婦も誘い、山野に連れて行ってくれます。いわばわたしどもの「野遊びの師匠」 ですね。

「アオサって名前は有名だけど、生のは食べたことはないねえ。夏の砂浜で、大きいのが打ち上げられているやつだよね。」

「岩のりみたいに、若いうちに海岸の岩に生えているのを刈り取るんだそうよ。食用にするのはもっばら若芽の育つ春先なんですってよ。」

「どうやって食べるの?」

「お味噌汁か、ガーゼに包んで味噌漬にしてもおいしいって、Yさんは言ってらしたわ。」

 今晩の味噌汁の具に決定ですな。メカブや岩のりと似てますから、煮過ぎずにさっと煮立てる感じかな。

 さて家人は味噌汁のダシはニボシがよろしいか、カツオブシがよろしいかと質問してまいります。

 うーん、イメージとしては…「カツオブシでやってみましょう。」

 今度は、このアオサ、洗ってもなかなか砂が細かなところに入り込んでよくとれぬと、家人はぼやいております。長さ十数センチの幅細の薄い海藻です。

 ところで本で調べると、アオサは石●と書くんですね。難しい読みです。ついでに前後の海藻の名前でクイズ。いかがでしょうか?

 和布、海雲、鹿尾菜。

 順番にワカメ、モズク、ヒジキが正解です。

 アオサは日本全国の沿岸の浅い海にどこにでも産する海藻で、岩石などに付着して20〜30センチに育つそうです。なかには漂流して育つものもあるそうです。アナアキアオサという種類が一般的で、成長すると体に円形に穴が大小不同にあく不思議な性質があるんだそうです。

 我が家にある観葉植物のマドカズラなどもそうで、変なヤツです。

 成長過程で組織の一部が消失して形成されるのは、いわゆるアポトーシスが起こるように遺伝子に組み込まれているのでしょうね。

 さて我が家の夕食の献立は、蕗と揚げ豆腐の煮物、カジキマグロのレモン風味ソテー、ポテトサラダ、小茄子漬、そしてアオサの味噌汁でありました。

「アオサの味噌汁、かすな磯の香と色と食感がおいしいよね。春の海が直送って感じ。」

「そうそう、お味噌汁はお椀の底まで飲まないでね。海から春の砂もついて来て、沈んでますから。」

 

注)アオサの漢字が表示できないため、「石●」としております。ご了承下さい。

 

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