長岡市医師会たより No.265 2002.4

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。

もくじ
 表紙絵 「春の岸辺」        丸岡  稔(丸岡医院)
 「杉本芳彦兄を憶う」        渡辺 修作(渡辺医院)
 「二期目の出発にあたって」  会長 齋藤 良司(齋藤皮膚泌尿器科医院)
 「心療内科開院の記」        大橋 正和(おおじま心療クリニック)
 「開業一年を振り返って」      西脇 智弘(西脇耳鼻咽喉科医院)
 「役満の確率」           渡辺 正雄(渡辺医院)
 「新会館建設事業の動向〜その7」  会館建設委員会
 「初蝶の次に来たのは」       郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

春の岸辺  丸岡 稔(丸岡医院)
杉本芳彦兄を憶う  渡辺 修作(渡辺医院)  

 杉本兄との憶い出を辿ると、六十数年前の旧制新潟高校時代にさかのぼる。

 当時、兄は籠球の名選手として、全国にその名を識られていた。

 インターハイでは甲南高校に次いで準優勝に輝いた。

 逞しい丸い肩に汗を光らせて、ドリブルで突進する姿は、今も脳裡に再現することができる。

 スポーツの一流プレーヤーに時に見られる尊大さは全く無く、仲間から、「スギ」とか「ヒコ」とか呼ばれ、敬愛されていた。

 弱体だった我々のラグビー部の対外試合に、ウイングとして助っ人出場してくれと頼まれると、断り切れぬ人の良さがあった。

 タッチライン際から放つ、兄のオーバーヘッド・リターンパスは、ラテラルパスがラグビーだと教えこまれている当時のラガー達を瞠目させた。

 京大に進まれた兄は、籠球選手として大成され、全日本級のプレーヤーとして、東西対抗戦に選ばれる栄に浴している。

 昭和18年、繰上げ卒業で押し出された医学生達は、陸海軍に別れて、前線にバラ撒かれた。兄は北に、私は南に。

 終戦後、北大衛生学教室で研究、学位を取得して居られる。

 昭和25年、郷里長岡に帰り、津上診療所勤務を経て翌26年、千手3丁目で開業された。

 新潟国体の折は、長岡籠球協会々長となり、爾後25年在任された。

 昭和27年、私の中央病院勤務と共に、長岡の空の下で旧交を暖めることになる。

 雪の無い季節には、奥只見、銀山方面で渓流釣りをたのしみ、雪が降ると、我々のヘボスキーにつき合って、上越線沿線、志賀高原、八方尾根、妙高などに行を共にしていただいた。

 スキーよりも、アフタースキーの方が、たのしみだったのかも。

 和子夫人と二人で参加された白馬スキー場での会では、脚の具合が悪かったためか、2日間、白馬東急ホテルの暖炉の側で、本を読みふけって居られた。スポーツマン中のスポーツマンに、別のもの静かな一面のあることを見せていただいた気がした。

 平成元年頃、病を得て、不自由な身体となられた。

 兄の光彩陸離たる競技者生活と、晩年の身動きもままならぬ病床生活の落差を思い併せて、私は岩山に縛られた英雄プロメテウスを思い起さずには居られなかった。

 兄の口から、この事に閲し、愚痴めいた言葉を一切聞くことはなかった。

 心の強さと、やさしさとは一体のものだったのだ。

 兄よ 天界のバスケットコートで肩の珠玉の汗をほとばしらせて、獅子奮迅のドリブルで敵のゴール下に突入されよ。

 我々のラグビーチームが、天国で結成されたら、又賛助出演?をしていただき、鮮やかなタッチライン際の魔術を披露していただきたい。

合掌  

 

 目次に戻る   

二期目の出発にあたって  会 長 齋藤 良司(齋藤皮膚泌尿器科医院)

 この度、皆様のご推挙により引き続き会長職を務めることになりました。ご期待に応えるべく今後も微力を尽くす所存でありますので、新執行部共々変わらぬご支援をお願い申しあげます。

 この二年間を顧みますと、日常業務に加えてこれまでの医師会事業の見直しと、次々と出てくる内外の諸問題に押し潰されそうになりながら懸命に耐え、歩いてきたという感じです。そんな中、新会館の建設は大きな課題であると同時に又楽しい夢でもあり、活力の源となりました。幸い大貫副会長はじめ建設委員の皆様の努力により計画は順調に進んでおります。市民にも開かれ、21世紀に相応しい斬新な感覚をもった素晴らしい会館になると思います。新会館の完成のため会員の皆様の一層のご支援をお願いします。

 さて、この経済不況の中、医療界も経済至上主義の波に翻弄され、この度の診療報酬改定は診療側にとっては改定どころか革命に近いと云う人もいます。また行政改革、地方分権の名のもと市町村合併の足音が急速に迫ってきており、近い将来、郡市医師会の再編成も必至と思われます。どんな時でも我々の寄って立つ基盤は診療であり、専門的立場からの市民の健康管理への貢献です。もっともっと積極的に、目線を下げて市民の中に入り信頼関係をつくることがこの難局を突破する糸口となるのではないでしょうか。

 郡市医師会は医師会の最前線です。その発信は単なるガス抜きとしてではなく、十分に活用されねばなりません。極端な上意下達の偏重は医師会衰退への道と思います。

 救急救命士の気管内挿管の問題は当医師会のみならず県医師会全体の問題と考え、昨年12月県医理事会で提言しましたが、詰めの段階で何故か意見がまとまらず、結局県医師会としては状況静観の方針となったようです。理解に苦しむところです。それ故長岡市医師会は単独で日本医師会長宛に救急救命士の特定行為の制限の見直しに係わる要望書を提出することにしました。今後とも行政と協力して効果的な救急活動を日ざして努力したいと考えています。

 最近、学校保健会等でも学童の身体的検診のみならず校内暴力、家庭内暴力、不登校などに関連して学童の精神面のケアが大きく取り上げられています。学校医を派遣している医師会としても単なる身体的検診に止どまらず、精神面も含めた健康教育にも積極的な参画が求められていると思います。学校医としての意識改革と積極的助力が必要とされましょう。

 ここで医師会執行部の役員の交代について少しふれます。石川紀一郎先生は副会長を退任し、監事となられ、佐々木公一先生が代わって副会長に就任されました。神谷岳太郎先生、鈴木丈吉先生が理事を退任され、新理事として春谷重孝先生、長尾政之助先生、太田裕先生が執行部に入られました。ご活躍を期待します。立川厚太郎先生には引き続き県の理事も兼務して頂きます。理事の先生方にはいろいろな委員会の対外委員も併せて務めて頂くことになりますが、宜しくお願いいたします。

 以上二期目の就任にあたり、若干の感想と私見を述べました。これからも会員の皆様の忌憚のないご意見を頂きながら一歩一歩進んでいきたいと思っています。宣しくご支援のほど重ねてお願い申し上げます。

 

  目次に戻る


心療内科開院の記  大橋 正和(おおじま診療クリニック)

 開業半年前(平成12年10月頃)に急に開院を思い立ったころ、偶然同じ町内(市内循環バス:大島

小学校バス停前)に手頃の物件があり、駐車場もあり、2月末には空くと聞き、さっそくそこでやろうということになりました。今まで開業しようと考えたことは全くなく、開業の知識もなく、ただ心療内科では格別の設備が必要ではないので、何とかなるだろうとたかをくくっていました。

 部屋の間仕切りを決め、あとはレセコンを入れるだけで事足り、看護婦1人、事務員1人のこじんまりしたクリニックができあがりです。そういえば開業前に黒条内科診療所の大関先生が来院の折りに、「おまえの所は本当に何もないな」というくらい何もありません。

 3月はじめ斎藤医師会長の所に挨拶に伺ったところ、手続きはしましたかと聞かれたのを今でも思い出します。まだ開業まで1か月以上あると考えて、開業する月の1か月前の10日までに手続きをしなければならないことを全く知りませんでした。あわてて医師会に行き、いろいろと教えていただきながら、何とか手続きを済ませました。手続きがもう少し遅れたら1か月開業が遅れることになり、まさに冷や汗ものでした。

 当初は3月末で田宮病院をやめ、2週間くらいの準備期間をおき、4月中頃の開院を予定していました。その後、田宮理事長から私の後任の着任が2週間遅れるので4月15日まで籍をおいてほしいといわれ、翌16日1日休んだだけで17日開院とあわただしい日が続きました。

 もっとも突然訪れる様々な業者に会いながら、世の中いろんな仕事があるものだと感心しながら対応し、開業の忙しさも楽しんでやることができました。のんびりしているためか、体調も今までと同様、快眠・快食・快便で、開業前も何も心配しませんでしたし、開業後も勤務医の時と同様に、マイペースでやっています。

 ちょうど1年がたちましたが、レセプト関係では、田宮病院・長岡西病院の方々に教えてもらいながら何とかやっています。もっとも先日は支払基金もあきれたのかコピーを添えて書き方を直してくれました。

 はじめから精神科に入院を勧めるような方も来ますが、入院では、長岡西病院、田宮病院、県立精神医療センター(旧県立療養所悠久荘)、柏崎厚生病院にはずいぶんお世話になっていますし、市内の病院、診療所の諸先生には様々な件でお願いをし、感謝しています。

 木曜日と第2・第4土曜日の午後を休診日にしており、木曜日の午後はある企業の精神管理医あるいは学校医として出かけ、隔週土曜日の午後は趣味の時間に当てています。

 このように開設の目的も漠としていますが、今後も細々とやっていくつもりです。よろしくお願いいたします。

 

  目次に戻る


開業一年を振り返って  西脇 智弘(西脇耳鼻咽喉科医院)

 約7年間の立川綜合病院勤務の後、平成13年4月20日蓮潟4丁目に開業し、早や1年が経とうとしています。あっという間に過ぎたようでもあり、もう何年も前から開業していたようでもあり、複雑な心境です。開業された諸先輩達から色々開業の苦労話を聞いていたのですが自分はそれらの苦労とは無縁と思っていました。しかし自分もその例外ではなかったようです。

 開業は数年前より漠然と考えてはいたのですが具体的な開業のノウハウは全く知らず、かと言って元々かなりの不精のため自分で調べて動いたり勉強したりする気もありませんでした。運良く耳鼻咽喉科開院を既に数件手掛けている業者の方に全面的に協力していただき、何とか開業にこぎつけられました。

 諸事情により開業が予定より1年程遅れたため土地探しには十二分の時間がありました。不動産業者の方から色々骨を折ってもらいましたが、最終的に友人の紹介してくれた現在の開業地に決めました。理由は、長岡大橋から近く分かり易い、バス停の目の前で交通の便が良い、医院裏に公園があり環境が良い等々ですが、これらは後で取って付けた言い訳みたいなもので実際には土地探しが面倒臭くなったためでした。事実、今の所は長岡大橋から近すぎ、医院を通り過ぎて江陽メディカルパークまで行ってしまう患者さんが多く、また良いはずの交通の便に関してもバス路線は殆どが蔵王橋、大手大橋を通っておりバス利用の患者さんにとってむしろ不便だと分かったのは開業した後でした。

 医院の設計施工は高田建築事務所にお願いしました。コンセプトは、小さな子供とその母親が親しみやすく受診し易い医院(私には小学生と幼稚園児の子供がいるのですが、家内の周囲を見ていると母親達のネットワークの広さ、噂の広まる速さは恐ろしいものがあります!)だったのですが私自身は何も設計には携わらずに殆どは家内が決めていたような気がします。私が決めたことと言えば院長室に掘り炬燵を作るという事位でした。それと医院の外観を洋館風、出来ればドラキュラの館のイメージで行きたいと提案したのですがその場で却下されてしまいました。

 私自身勤務医時代と比べて、手術がなくなったくらいで外来の患者層は殆ど変わらず仕事のスタイル、患者さんに対する態度を変える必要がなかったため戸惑いは全くありませんでした。以前より開業したらアレルギー性鼻炎に対するレーザー治療をやるつもりでしたので週に1回だけ細々とやっています。

 従業員は看護婦2名、事務3名で始めました。耳鼻咽喉科は聴力検査等の特殊な検査があり看護婦はそれらを覚えなければならず、事務も未経験者を採用したため彼女たちはかなりの不安とプレッシャーがあったようです。幸いトレーニングにちょうどいい位の患者数でしたので、最初の頃は比較的上手くまわっていたように思います。私は従業員全員が楽しくやれればいいなと思っていましたし、開業医は職員が家族みたいに仲良くやっているものと思っていましたが実際はそんなに甘くないと言う事を思い知らされました。また最近看護婦が体調を崩して退職し、人員が1人減ったところにスギ花粉症で患者数が人並みに増えてきたため残った職員の疲れがピークに達しており、また誰か倒れて休まないかとビクビクしながら診療している毎日です。

 開業して一年が経とうとしていますが内向的な性格のため、長岡市医師会の諸先生方とあまり面識のない私ですが今後医師会の行事等に徐々に参加して行こうと思っていますので宜しくお願い致します。

 

  目次に戻る


役満の確率  渡辺 正雄(渡辺医院)

 雀士にとって役満はこたえられない魅力ではあるが、そうそう滅多にお目にはかかれない。この役満が、果たしてどれ位の確率で起こるものなのか。大会の記録や自験例を集めてみたので御笑覧頂きたい。半荘一万回以上集まったので、信頼性はかなりあるものと思う。

◎確率は2.5%

 半荘(東北戦)10084回中、役満271回、半荘を1単位として確率は2.5%であった。半荘40回で1回起こる割合である。例えていえば10卓4回戟の大会で1回起こり得る率である。

◎役満の種類と発現率

 表示する。

      役満の回数 全役満中の比率    備 考
 四暗刻   116    42.8%   単騎待ちが9回
 国士無双   85    31.4%   13面張が1回
 大三元    33    12.2%
 四喜和    22     8.1%   大四喜は1回
 字一色     6     2.2%
 九連宝燈    6     2.2%   純正(9面待ち)はなし
 緑一色     1     0.4%
 清老頭     1     0.4%
 人和      1     0.4%
  計    271   100.0%

◎個々の役満について

(1)天和(テンホー)、地和(イーホー)、人和(レンホー)

 天和は配碑時での親の和り。地和は、チー・ボン・カンのない第1巡での子のツモ和り。人和は同じく1巡での子のロン和りである。

 この3役は100%運による役で、人為的操作の入る余地はないので論ずることもない。稀有な役で今回の調査でも、人和が1回あっただけで確率は1000分の4。

 ダブルリーチは、そう珍しくないのだから、もっと見られてもよさそうなものだが実際には少なかった。どなたか天和に遭遇された方はおありだろうか。

(2)四時刻(スーアンコ一)43%

 役満で最も多いのが、国士無双だろうと思っていたが、意外にもかなりの差で四暗刻が首位だった。我慢の要る役で、終盤になると鳴いてしまって対々和だけになってしまうことが多い。手引書によると、一方の4枚目が出ても鳴くな、和るな、もう一方のツモに期待せよという。そんな辛抱強い人がどれ位おられるか。

(3)国士無双 31%

 真ん中の好牌をどんどん切るのが目立つし、危険率も高い。終盤は警戒されるので、和れるのは中盤迄が多い。チャンタを狙いつつ手を進めて行く場合が多いが、リーチがかかった時など、どの時点であきらめるか。打ち手の頑固さが現れるようである。深追いして痛い目をみることが多いが、テン牌すると和れる確率は高い。

(4)大三元 12%

 三種類の牌で成立する役だから、もっと高率かと思ったが、案外少ない。暗刻があると、成功率はぐつと高くなる。

(5)四喜和(スーシーホー) 8%

 4種類の牌が必要なので、大三元より難しい。暗刻が一つ、二つあれば可能性は高くなる。大四喜は稀である。

(6)字一色 2%

 7種類中、5種類を集める必要があり至難の業である。しかも数牌の危険な所を、どんどん切るので振り込む比率が高い。目をつむって進むしかない。

(7)九連宝燈(チユウレンポートン) 2%

 極めて稀と思っていたが、6回もみられたのには驚いた。9面待ちの純正は1回もなく、いずれも和った形が九連のものであった。我慢の要る役で、眼の前に満貫がちらついているので鳴いて清一色になり下がることが多い

(8)緑一色(リューイーソウ)0.4%

 出来そうな役だが、実際は少なかった。この役はアメリカ生まれだそうで「オールグリーン」が原語で、緑一色は後からつけられた名前だと言われる。忍耐しないと、発・ホンイチで終わってしまうことが多い。

(9)清老頭(インロートー)0・4%

 6種類中5種類を刻子(コーツ)で集めなければならず極めて難しい。今回も1回だけだった。純チャンだけで終わってしまうことがほとんどである。

 

 以上、個々の役満に寸評を加えてみた。

 勝敗を度外視して役満だけをめざせばもっと確率は上るだろうが、麻雀はやはり勝負の世界、勝利あってこその役満である。勝敗のかけひきの中で常に役満の夢を抱いてその醍醐味をかみしめたいものである。

 

  目次に戻る


新会館建設事業の動向〜その7  会館建設委員会委員長 大貫啓三

 建物平面図の最終案もまとまり、現在、基本設計の真っ最中ですが、多少スケジュールを変更する必要も出てきましたので、改めてお知らせいたします。

 ●基本設計 〜14年5月末

 ●概算作成 〜14年6月末

 ●設計調整 〜14年7月中旬

 ●実施設計 〜14年10月末

 ●現地説明会 14年10月末

 ●施工見積 〜14年11月末

 ●設計調整 〜15年1月下旬

 ●工事契約  15年1月下旬

 ●施工準備 〜15年3月中旬

 ●着工    15年3月中旬

 ●竣工    15年9月末

 以上のとおり基本設計作業が少し延びて、臨時総会に提案するのが7月中旬頃になる見込みです。(竣工の予定は、当初と変わっておりません。)

 同じく臨時給会に提案する資金計画につきましては、資金運営小委員会(委員長 佐々木副会長) で検討が行われております。

 会館建設に要する費用は、各設備のグレードにより大きく異なります。特に、基本設計時にまで決定しなければならないものとしては、会館全体の空調設備と会館のインターフェース空間の東側の稔硝子張り壁面をどのような素材にするかという問題があります。空調設備は大ホールをどの程度の室内騒音レベルにするか、またどの程度の音響設備を持ったホールにするかによってもその仕様が異なり、それに掛かる費用にも大変な開きが出てきます。また、インターフェース空間の壁面の硝子をシングル硝子、ペア硝子、Low-Eペア硝子のどれを選択するかによってその経費も大きく異なり、熱効率にも差が生じ、将来のランニングコストも違って来ます。従って、基本設計と資金運営の双方から慎重に検討する必要があります。

 臨時総会には、十分な検討を経た計画案を提出できると思いますのでよろしくお願いいたします。

 

  目次に戻る


初蝶の次に来たのは  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 数ヶ月前に、デジタルカメラを初めて買いました。ど素人のわたしでも簡単な操作で撮影ができ、画像情報をパソコンで加工したり、自宅のプリンターで写真用紙にきれいに印刷できて便利でした。

 その日我が家で今春初めて咲いたサヤエンドウの白い花を、撮影していました。まだ50センチの丈の蔓苗が6本の小さな畝です。隣りの畝は菜の花が咲いています。モンシロチョウがひらひらと飛んでいます。

 「初蝶来何色と間ふ黄と答ふ」という高浜虚子の句があります。ほんとうは黄色の代表キチョウは、その春一番の初蝶ではないようです。この里山では、初めて姿を見せるのはモンシロチョウか、アカタテハの仲間です。

「そうそう、昨日のお昼にうちの庭にきれいな蝶が来たのよ。捕虫網を取りに行って、戻ったらもういなくって。きれいだったからあなたに見せてあげたかったのに、残念。」と家人。と言いつつも、彼女は目についた不倶戴天の敵たる庭の雑草をかがむなり手早く抜いております。

「どんな蝶だったの?」とわたし。

「モンシロより大きい黄色系できれいな模様があったわ。羽を広げてとまったようだから、タテハの仲間かしらね?」

「ふーん。」とその蝶の正体は見当のつかないわたしです。

 その日のお昼は、最近『お気に入りに追加』した越路町の蕎麦屋へ出かけました。

 よいお天気で、ちょうど満開の山桜がそよ風に散り始めております。連翹、雪柳、水仙などが花盛りの庭に、水車の回る音が響きます。

「ふうー、ごちそうさん。お蕎麦はきょうもおいしかったね。」と大きなおなかをさするわたしです。ほんとうに、蕎麦はダイエット食かしらん?山菜天ぶらも食べたしねえ。

「ひさしぶりのお休みだから付き合ってくれないかしら?」

 そこから車で15分ほどの宮本地区の「雪国植物園」に寄りたいという家人の希望でした。

 日曜日の午後、春の山野草シーズンでなかなか賑っておりました。自然の里山を生かした広い園内には、たくさんの山野草があります。花盛りは、シラネアオイ、イワカガミ、イカリソウ、エチゴルリソウ、ミズバショウなどでした。

 なかにチョコレート色の花が地面に半ば埋もれて咲くコシノカンアオイもありました。

「これはギフチョウの幼虫の食草でね、葉っぱにちょうど産卵する季節なんですよ。」とガイドさん。

「あっ、ほらそこに。飛んできましたね、これがギフチョウですよ。」

 指差した先で舞った蝶が静かに近くの葉で羽を休めます。羽は広げたままで、表の美しい模様がよく見えます。ホーツと感嘆の声が周囲から洩れます。

「うわー、あれよ、きのううちの庭に来たのは。そうか、ギフチョウだったんだわ。」と家人は驚いています。我が家にモンシロチョウに次いで来たのは、なんとギフチョウだったらしいのです。

 植物園内でその後も数箇所で、春の舞姫と呼ばれるギフチョウを見ることができました。

 翌朝わたしはルーペを片手に庭に出ました。実は我が家にも実家から貰って植えたコシノカンアオイが数株あり、花も咲いています。ひょつとして?と期待がこもります。地面にしゃがみこみ、一枚ずつ葉を裏表とも丹念に観察しましたが、なんにもなしでした。うーん、残念。

 

  目次に戻る