長岡市医師会たより No.266 2002.5

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もくじ
 表紙絵 「新緑のプラーハ」     内田 俊夫(内田医院)
 「長岡・四季の愉しみ」       福本 一朗(長岡技術科学大学)
 「国上山にて」           山口美沙子(立川綜合病院)
 「自己紹介」            多田 哲也(立川綜合病院)
 「わたくしにおまかせくださりませ!」大塚 弘毅(長岡中央綜合病院)
 「ローレライの伝説」        郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

新緑のプラーハ  内田俊夫(内田医院)
 絵にそえてひとこと

 毎年ゴールデンウイーク近くなると、Prahaの友人から「また来て下さい。待っています」と云うメールが届きます。この文を見ると落ち着かなくなって、家内共々そわそわし始めるのです。私の診療所に通っていた時、5才だった子供がもう15才となり、女の子の取り合いで負けてしまい、悔しさのあまり壁の飛び出た所を右手でぶん殴り、骨折して前腕までギプスをまかれていました。父親が社長になっており、その社長室から眺めた新緑の景色を描きました。


長岡・四季の愉しみ  福本 一朗(長岡技術科学大学)  

 1991年4月1日にスウェーデンより長岡に赴任して既に満11年が経ちました。まさに光陰矢の如し、その間多くの越後の人々との交わりを持たせていただき、ただただ感謝でした。また同時に臨床医としても長岡市医師会の先生方の御協力のお陰をもちまして、長岡市休日急患診療外科当番医・乳癌検診医・予防注射医・長岡西病院内科外来担当医として今日までに5000人以上の患者さん方を診療させていただきました。そしてこの4月1日からは5年半御世話になりました長岡西病院を離れ、火・土の午前中だけですが桜の美しい田宮病院の内科外来を担当させていただくことになりました。この11年の間は余暇におきましても、他所者の小生にとってさえ長岡という町は本当に一年を通じて喜びを与えてくれる第二の故郷でありました。ここで紙面を借りまして長岡の皆様方に御礼を申し上げるとともに、諸先輩方におかれましては既に御存知のことばかりとは存じますが、小生の日から見ました長岡の愉しみを総復習させていただきました。書き足りないところや思い違いの個所も多いと思いますので、厳しい御批評をいただきますれば幸いに存じます。

春:桜吹雪の悠久山

 4月、冬の間雪に閉ざされてきた越後長岡の春は、暖かい日差しに誘われて雪の間に顔を出す様々の色の雪割草と真紅の雪椿の花から始まる。道路を厚く塞いでいた雪がすっかり姿を消すころには、木々の梢でギフチョウが恥ずかしそうに羽化し、日当たりのよい並木道では黄水仙と濃いピンクの芝桜が咲き誇る。八方台では恒例の山開き市民登山が行われ、栖吉城址の谷間にひそやかに咲くかたくりの花と大振りなこぶしの花が雪の消えた後の自を競い登山者の日を愉しませてくれる。桜は福島江と柿川河畔から開花し、悠久山と技大の桜吹雪で番わりを告げる。「悠久と 名に負う山に 老ゆるかな(松岡譲)」人生の価値は物理学的な時間の長さでは計れない。潔い桜花の散り際は古来より大和武士の鏡とされ、長岡の生んだ二人の悲劇の名将、河井継之助と山本五十六を思い起こさせる。5月になれば東山のふるさと農園で苺園がオープンし子供達はほっぺ一杯に苺をほうばる。日本全国行楽客で溢れる5月の連休もここ越後の国には無関係。「波の間ゆ 雲居に見ゆる粟島の 逢わぬものゆえ 吾に寄する娘ら (万葉集3167」と歌われた村上沖合の粟島は訪れる人もまばらで、周囲13kmの島全体を包む静寂のなか名物の鯛はこのころが一番の食べ頃のうえ、浜辺で焼いた石で料理する「わっば煮」の味もまさに最高潮に達する。平成12年まで毎年5月の最終日曜日の夕方には悠久山薪能が開催され、竹林に風染み渡る晩春の宵、長岡市民は一時の幽玄の世界に浸ることができた。長い冬に耐えかねたように越後の春は駆け足で夏に進化していく。

夏:佐渡に横たう天の川

 越後の愉しみは四季折々の愉しみを与えてくれるその大自然の中にある。川は日本最長の信濃川が長岡の町を貫き、その川面の色と水量は毎日変化して一日たりとも同じ様相を呈しない。山は日本二百名山のうちその1割が新潟県内に存在し、技大からでも白山・粟ケ岳・守門岳・鋸山・越後三山(駒ヶ岳・中の岳・八海山)そして苗場の山々が一望できる。海は石地・寺泊をはじめとして多くの海水浴場まで車で半時間の距離内にある。海辺で泳いだり甲羅干しをしたりしたあと、空腹になれば浜辺でのバーベキューするもよし、打ち寄せる日本海の彼の音を聞きながらキャンプするもよい。「みやこをば のがれきたれば ねもころに なみうちよする ふねさとのはま(会津八一)」恋人達が寄りそう夕暮れの海は、水色から青を経て藍へとその色合いを変えていく大空に応じて刻一刻と表情を変えていく。澄み切った夜空に宵の明星が光りだす頃、沖合いでは漁火が瞬きだす。「たらちねの 母が形見と 朝夕に佐渡の島辺を 打ち見ゆるかも(良寛)」空気が澄んでいる日には俳聖芭蕉が眺めた天の川より流星が長い尾を引いて対岸の佐渡を越えて夜空に消えてゆく。「荒海や 佐渡に横たう 天の河 (芭蕉)」8月2日と3日は大空襲の慰霊のために再開された長岡大花火が行われ、人々は家族や友達と連れだって浴衣姿になり信濃河畔をそぞろ歩きながら、4万発の打ち上げ花火を楽しむ。

 夏の味覚は川の恵みの虹鱒つかみ取りと魚野川梁場のあゆ、清流に育まれた脇野の流しそうめん、そして馬高葡萄園の巨峰と山本五十六の愛した水饅頭と盛り沢山。技大キャンパスの片隅でりんどうがひつそりと咲きそめる頃、長岡市を一望できる八方台では池一面の水芭蕉とあやめが訪れる人々の日を楽しませてくれる。行く夏を惜しむように悠久太鼓の音が信濃川音楽祭の会場をゆるがす頃、涼風と三尺玉の炎が人々の頬を赤く染めて長岡の夏は市民にひととせの別れを告げる。

秋:紅葉錦の五合庵

 越後の秋はたわわに稔る黄金の田にはじまる。早い稲刈りが済めば村を挙げての秋祭りで祭ばやしの音に、人々の心は自然と浮き立ってくる。山車が村内を練り歩き、別け隔てない村人達は通りかかる人々に気安くお神酒をふるまう。秋は山。栃尾の山里の売店に茸や山菜が並び、コスモスの咲き乱れる山本山頂上からは夕焼けに浮かぶ越後三山と守門岳が展望できる。週末ともなれば県立近代美術館には美を求める人々があふれる。静寂を求める人は良寛(1758-1831)と貞心尼(1800-1872)の足跡を求めて紅葉の越後路を訪なうのもよい。良寛は出雲崎で生まれ18歳の時に出家し備中玉島円通寺で数年修行の後、二十数年問諸国を行脚した書家禅僧で、47歳の年に帰郷して以来13年間を故郷に近い西蒲原郡の国上山国上寺の五合庵に隠棲した。五合庵の名は毎日五合の米を給されたことによる。しかし訪なう人も稀な山腹の魔の生活は食物の届けられないときもあり、雪で托鉢に出かけられないときなど数日間も絶食の生活もあったようであるが、その時にも良寛は一人静かに書と読経に開け暮れたという。彼は国上山の紅葉をこよなく愛した。「形見とて 何を残さむ 春は花 山ほととぎす 秋は紅葉葉(良寛)」59歳で良寛は老衰のため下山し山麓の乙子神社の境内に庵を作って移り住み百姓の子供達の子守をしはじめた。これが日本で初めての農村託児所と考えられている。69歳の時に和島村に移住し、70歳のおりに29歳の美しい貞心尼と知り合い、その往復書簡は「蓮の露(1835」として貞心尼自身の手により書き残されている。「君にかく あひ見ることの うれしさも まだ覚めやらぬ 夢かとぞおもう(貞心尼)」「いついつと 待ちにし人は 来たりけり 今は相見て 何をか思はむ (良寛)」優しい良寛の人柄に傾倒した貞心尼は春夏秋冬ひたすら良寛を慕い続け、その情熱はただ一人住んでいた長岡福島の閻魔堂から、与板塩之入峠を踏み越えて徒歩で和島村に何度も通わせたほどであった。今日ではその閻魔堂は復元され傍らには榎の大樹と貞信尼の歌碑が静かにたたずんでいる。閻魔堂の裏庭からは現在でも西山連峰が望めるが、良寛師のおわした和島村の方に朝夕手を合わせて祈っていた貞心尼の思いが150年の時を隔てて伝わってくる気がする。4年後貞心尼に見取られて74歳でこの世を去った良寛は越後の風土をこよなく愛し、また子供のように純真な心で全ての人に愛をもって接した当時最高の在野の文人であった。「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉かな(良寛)」老子の「無用の用」の思想を実現したともいえる良寛の書と歌は、120年の時の流れを越えて現代人の忘れ去った素朴な日本人の生き方を教えてくれる。

冬:雪の東山

 長岡交響楽団の奏でる第九と教会のメサイアが街に響き渡るころ、長岡の町人は冬支度に追われる。家々の軒には大根が干され、寺泊では蟹と鮟鱇の水揚げで賑わい、正月の買い出し客で溢れている。信濃川に白鳥が訪れ、大手通りにクリスマスツリーがライトアップされる頃、初雪が静かに降り初める。不思議なことに長岡では降雪の遅い年でもクリスマスだけは雪景色であることが多い。冬タイヤにはき替え、年内に一度はスキー場を訪れるのも越後ならではのこと。近辺では小千谷の山本山スキー場が手頃。アフタースキーに対岸の木津温泉のひなびた湯舟から信濃川を眺めて雪見酒というのも冬の愉しみの一つ。

 年が改まれば雪に覆われた田に青竹を組み上げて点火する「歳の神」が各町内会毎に行われる。子供達は笹の先にするめを付けて焼き上がるのを愉しみにしてはしゃぎ回る。ここでも訪れる人には誰彼の差別なく甘酒とお餅の入ったお汁粉がふるまわれる。ハイプ長岡では恒例の「雪しか祭り」が開催され雪合戟などの雪上ゲームも行われる。根雪となった雪は長岡の町を白銀のしとねに包み、昼間は色とりどりのスキーウエアで溢れた東山市営スキー場も、深夜ともなればしんしんと雪が降り積むだけ。「さよふけて かどゆくひとの からかさに ゆきふるおとのさびしくもあるか(会津八一)」夜の雪は人にもの思わせる。雪はそこに住む人々にとってはただ美しいだけの存在ではない。玄関の雪掻き、屋根の雪下ろし、野外駐車場では車の掘り起し、雪崩そして交通渋滞と事故。北越雪譜の作者鈴木牧之が雪を「白魔」と呼んだ事態は、21世紀を迎えようとする今日でも今だ解決されてはいない。町の人々の技大工学者に対する期待の大きい所以である。せめてウインタースポーツくらい愉しまなければ雪国に住むもとがとれない。スキーリフトから雪山を見下ろしていると、雪兎の足跡が点々と雪面につけられている。ここ越後にはまだ大自然が残されており、人間は自然と調和して生きていけるのではないかという希望が生まれてくる。人生は静と動のフェーズがあると言われるが、冬は毎年規則正しく人に「静の期間」を与えてくれる。雪掘りで心とからだを整えて来たるべき「動の季節」に備えることも長岡に住む「四季の喜び」 の一つといえよう。

 

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国上山にて  山口美沙子(立川綜合病院)

 はじめまして。立川綜合病院で呼吸器内科をやっております山口と申します。6年前にこちらにお世話になって以来、息切れの患者さん達と息の長いお付き合いをモットーに働かせて頂いております。

 などと申しましても昨年、私自身、鉄欠乏性貧血を治療して息切れの改善を自覚してからは鑑別診断・治療方針のひとつとして貧血を忘れてはならないと肝に銘じた次第です。

 改善度の評価に役立ったのが、休みの日によく登る国上山の登頂所要時間です。以前、温度、湿度、体調にかかわらず登り口から頂上まで30〜40分かかっていましたが、最近は何度登っても17〜24分の間なのです。最初は自分でも信じられなかったのですが、この頃は密かに記録更新を狙っています。(邪道と知りつつ)

 さて、山登りの楽しみを紹介させて頂きたく。

 雪解けまもない山道を泥を撥ねながら長靴で登るも良し、全山可憐なカタクリの邪魔をしないように頂上を極めるも良し、緑の風や木洩れ日達と戯れるも良し。

 蒸し暑さで自虐的な気持ちになるのも快感、流れる汗が山頂の風でスット消えるのも良し。

 中腹からの越後平野の実りの大地を眺めるも良し、山頂で飛行機雲を見上げるも良し。

 国上寺の境内で良寛様と話した後、雪を被った地蔵様達と語らうも良し。

 是非皆様一度お出掛け下さい。今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

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自己紹介  多田 哲也(立川綜合病院)

 平成8年10月より立川綜合病院外科に勤務しております。長岡市に生まれ、新潟大学を卒業し、新潟大学第一外科に入局いたしました。出張した病院は県内8か所、県外3か所でしたが、最初に出張した秋田赤十字病院で妻と出会い、大学院在学中に結婚し、現在長女11歳、長男8歳、二男4歳の5人家族となりました。約3年前に家を建て、腰を据えて仕事をしたいと思っております。

 私は今年1月に40歳となりましたが、腹腔内の脂肪がわずかに増加したためか、体が重く感じられるのが気になります。スポーツは年に数回、ゴルフ、テニス、スキーをする程度ですが、体を鍛えなおし、若かった頃の体力を回復するのが最近の夢です。

 さて、立川綜合病院外科は通常4人体制です。もう少し人数がほしいところですが、医師不足のおり、少人数ながら地域医療にすこしでも貢献できるよう努力しております。腹部・一般外科、乳腺・甲状腺外科疾患を扱い、腹部救急、緊急手術も積極的に行っています。週に1回ほど新潟大学から鈴木力先生(保健学科教授)に御来院いただき、食道癌や肝胆膵悪性腫瘍など、やや大きな手術の助手をしていただいております。また、当院には循環器センターがあるため、専門医の指導をうけ、心疾患を有する患者さんにも積極的に手術を施行しています。当院で今年夏頃より稼働する予定のPETには、癌の発見、治療の推進を期待しています。

 長岡赤十字病院、長岡中央綜合病院の先生方、長岡市医師会の諸先生には大変お世話になっております。

 まだまだいたらないところも多く、なにかとご迷惑をおかけすることがあろうかと存じますが、今後ともご指導のほど宜しくお願い申し上げます。

 

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わたくしにおまかせくださりませ!  大塚 弘毅(長岡中央綜合病院)

 私は、福岡県の筑豊という石炭産業と栄枯盛衰を共にしてきた地域で生まれ育ちました。その中でも私の家のある町は人呼んで「筑豊のスラム」。私の同級生における大学進学者は3人のみで、しかも理系進学は私1人という環境でしたので、この町において医者を目指すなどということは前代未聞の暴挙となりました。そんな暴挙を決心させたのは、幼い日、幾度と無く通院に付き添った祖母が辿った誤診による不幸な転帰と、ずさんな診療の為寿命を縮めた祖父の姿です。その苦い経験が私に、純粋にいい医者になりたいという思いを貫かせました。

 鹿児島大学医学部に無事入学し、アインシュタインなどの科学的な事柄に非常に興味を持った私は、先だっての名医になる!ということはもちろん、ノーベル賞に値する医学者・科学者になりたいと夢を膨らませておりました。その一方で、幼い頃からやっていた柔道を続けるべく柔道部に所属。こちらでも夢は大きく膨らみ、1年生の頃からOB会では先輩方を前に「西日本の大会で優勝してみせます!」と大法螺を吹きまくっていました。とはいえ、大法螺通り最終学年には大将として我が鹿大柔道部を初の西医体優勝の栄冠に導く事ができました。大法螺吹きの面目躍如です。

 夢を抱きつつの卒業後は、鹿児島大学OBであり慶応閥であった国立がんセンター中央病院肺外科で他大学出身者として初のスタッフとなられ、その腕はブラックジャックとも評される現・杏林大学第二外科教授の呉屋朝幸先生 (先日、手術の為来院、来る6月8日には新潟大学第二外科主催の講演会開催の予定)を慕って上京。杏林大学第二外科へ入局し、医学者への一歩を踏み出すこととなりました。嬉しいことに、その後も鹿大柔道部の後輩が複数人局して来てくれています。怒涛の研修医時代はサボることなく、熱心に採血当番など与えられた仕事に取り組む毎日でした。がんの診療をやりたい、との熱意がそれらの行動から伝わったのか、研修後は2ケ所のがんセンターで修行する機会を得ることができました。

 まず、茨城県立地域がんセンター・外科において修行させていただきました。この病院の外科を率いておられる吉見富洋先生は、ピッツバーグ大学で肝移植を学んでこられた方でとても厳しく、かなり激しくしごかれました。(その厳しさは外科医を諦め、宇宙飛行士になつたDr.が出たことからも想像できるかと思われます。)当時は毎日が大変でしたが、今になって思うと、ここでしごかれたことで外科医としてかなり成長することができたと感謝しています。

 2年間の茨城生活を終え、その後は国立がんセンター中央病院にて修行しました。殆ど家にも帰れず、精神的にも肉体的にも辛い日々でしたが、3年間賢明に臨床に取り組みました。多くの業績は残せなかったものの、同僚からは「多くの逸話を残した男」と評されています。ではここで、逸話の一部をご紹介…。論客として知られる浅村尚生先生との手術中のやりとりをみて「グッド・レジデント!」と評して下さったのはソウル大学胸部外科教授。「お前をフランスに連れて帰りたい!」とはフランスがんセンター肺外科から視察に来ていたDr.の弁。両方とも修行中の私にとって、非常に励みになる言葉でした。現国立がんセンター副院長である土屋了介先生にもお心をかけていただき、"GENERAL THORACIC SURGERY"の著者であるDr.Shields御夫妻が来日の折には、鎌倉散策に同行いたしました。会話はままなりませんでしたが、持ち前の愛矯で鎌倉山のローストビーフはちゃつかりおかわりし、Dr.Shieldsがお好きなジンライムも数杯飲み干しました。後にアメリカ胸部外科学会に私の上司が参加した際、Dr.Shieldsが私のことを憶えていてくださり、話題にされたそうです。その上司日く「どんなに学会発表してもなかなか憶えてはもらえないのに、うらやましい。(?)。」他にも好奇心旺盛なためNCC-CIAとあだ名されたことなどなどございますが、とりあえずこのあたりで逸話披露は止めておきます。

 国立がんセンター中央病院での修行を終え、大学に助手としてもどった矢先、相馬先生の辞職に伴う長岡中央綜合病院呼吸器外科勤務の話が舞い込み、急遽赴任することになりました。2001年12月1日付けで勤務開始のため、家族と共にご当地長岡へやって参りました。初めての新潟ですが、食べ物・日本酒、全てが美味しく(低GIダイエットの効果もでずに困るくらい)、脳神経外科の竹内副院長先生のおかげで早速この冬からスキーも楽しめ、また、この春には福島江の素晴らしい桜を朝な夕なに目にすることができ、大酒飲みで大の祭り好き人間としてはこの上ないくらいいい処に来られたと思っています。南国生まれで、はじめは今回の赴任に戸惑っていた妻も冬場の肌の調子がいいとご機嫌で、鉛色の空もなんのその、長岡生活を娘と満喫している様子です。

 さて、長岡中央綜合病院の吉川院長先生からは、本院をより素晴らしい病院にしていこうという熱意が非常に感じられて、こちらも自然、やる気が出て参ります。また、外科の清水副院長先生、脳神経外科の竹内副院長先生はじめ諸先生からは大学・医局・科の枠を越えて、若輩者の私達に呼吸器外科発展のためのご助言・ご協力を常日頃よりいただき心強いかぎりです。今、学生の頃のように大法螺を吹かせていただくなら、長岡中央綜合病院呼吸器外科を長岡一、新潟一にしたいという気持ちで燃え滾っております。私の大法螺は柔道部優勝で証明した通り、決して達成不可能なものではありません!

 当院の呼吸器センターは、(1)日本有数のCT下肺生検の技術を持ち、素晴らしい診断能力を誇る塚田先生を中心とする放射線科 (2)新潟で1、2を争う気管支鏡下ステントの技術を持ち、ともに診療していく上で非常に心強いほど優秀な岩島先生を中心とする内科 (3)相馬先生が築いた優れた外科の診療環境と、直伝の技を引き継ぐ古屋敷先生のいる我が呼吸器外科 (4)優秀なスタッフの揃った外来・病棟と、他院に負けない条件と環境が十分整っております。(この環境があればこその、私の大きな大きな大法螺なのです。)

 祖父母の様な患者さんをつくることなく一人でも多く救いたいという強い思い、厳しい修行で身に付けた技術、がんセンターで学んだオンコロジーの知識、NCC-CIAともいわれた旺盛な好奇心、スラムで培った向上心など私の全身全霊を傾けて、長岡の、ひいては新潟の呼吸器疾患に立ち向かいたいと思います。

 ではここに、以下五つの心構えを宣言いたします!

(1)患者様にとって最良の事は何かを常に考えて診療いたします。

(2)患者様をご紹介下さる先生方と密に連携をとりながら、当地域の呼吸器診療の向上に努めます。

(3)可能な限り科学的で、世界的にも通用する質の高い医療を目指します。

(4)できるだけ患者様に負担をかけず、尚且つ根治性も落とさない手術を目指します。

(5)周術期管理をしっかりとして、合併症のない手術を目指しつつ、更には早期の退院を可能にしたいと思います。手術死亡は0を目指します。

 当院に着任して日は浅いのですが、手術死亡はありません。在院日数も昨年同時期と比較すると短縮に成功しております。少しずつではありますが目標に向かって努力しております。この「長岡宣言」を胸に、更なる努力と進歩をして参ります。

 今話題のNHK大河ドラマ「利家とまつ」からの引用で恐縮ですが、「わたくしにおまかせくださりませ!」 でこの稿を終わりにしたいと思います。

 

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ローレライの伝説  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 もちろん御存知のかたがほとんどでしょうが、「日本い醫事新報」(なんと大正十年の創刊)なる医師向けの全国版週刊雑誌があります。わたくしは勤務先の病院の図書室に置いてあるのを、毎週おもしろおかしく拾い読みしております。医学の啓蒙記事がその主な内容ですが、その他に求人・お見合い情報まで多彩な内容です。質疑応答という欄があり、医学関係でない「雑件」という項目がなかではユニークです。

 全国の医師である読者から寄せられた雑駁な質問・疑問に編集部の選んだ識者・専門家が、一頁前後の解説できわめてまじめに解答してくれます。たとえばここ数ヶ月で面白かった質問はこんなのです。

(1)イカやタコの寿命

(2)ツバメの雛をカラスから守る方法

(3)晴れ・曇りの定義

 先日の第4058号で、わたしの興味をひいたのは、ローレライのドイツ語表記は如何?

 某医師がライン川下りで、かのローレライの岩を見物してきました。その現地の文字表示やハイネの詩とインターネットの表示の綴りが違ったが、どれが正しいのかという疑問でありました。LoreleiとLoreleyの違い、ですと。

 早大文学部の屋敷先生の解答の一部を要約すればこうです。最近の独逸語では一般にアイの音はeiとつづることが多くなつたが、十九世紀まではeyが好まれたらしいです。ちなみにloreは中世独逸語で「森その他に住む霊」のこと、leyは「岩」のことだそうです。

 美しい歌声で船乗りたちを引きこむ妖精のローレライの岩。これはその近辺でライン川の川幅が最も狭くなっていて、水面下の隠れた七つ岩のためもあり、座礁する舟が多かったことからできた伝説なんだそうです。

 実際に行って見れば船から見上げると、百メートルほどのただの草木の茂った岩壁なんですけどね。そこに「現在は」どうやらLoreleyなる表示があるらしいのです。

 実は二十年前、ライン川下りの観光をしました。ハノーヴアーで専門学会があり、わたし自身は初めて外国で研究演題を口頭発表しおえた翌日でした。緊張も解け、主任教授らもご一緒でしたが、ワインなど愉しみながらのひと時でした。たしかザンクトゴアとかいう、ローレライの近辺の街の古城ホテルに宿泊しましたでしょうか。

 ところで当時の仲間内で語り草になっておりますのが、このローレライの岩で見た標示板なんです。

 その際は家人も同行しておりまして、二人の四つの日でたしかに見ました。観光船旅でこの岩にさしかかると、ローレライの歌の音楽が流れましたが、そのとき岩岸で日に入ったのは、驚くなかれ片仮名で大きな文字の手書きされた五枚の板が…。

 ロ・−・レ・ラ・イ

 この雑学記事のコピーを家に持ち帰り、家人に見せました。

「こんな記事があったんだけど、あのライン下りのローレライの看板のこと覚えている?」

「ああ、カタカナのね。かっこ悪かったよねえー。」

という具合で、家人も二十年経っていてもすぐに思い出すくらいのインパクトでありました。

 それが今は正当な綴りによる独逸文字でLORELEYと掲示があるということで、日本人としてなんだかホッとしたことでありました。

 

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