長岡市医師会たより No.269 2002.8

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もくじ
 表紙絵 「初秋の海(笠島)」    丸岡  稔(丸岡医院)
 「夢が現実になる瞬間」       窪田  久(窪田医院)
 「だから私は飛行機に乗らない」   福田 光典(悠遊健康村病院)
 「悠湯越後長岡抄改」        福本 一朗(長岡技術科学大学)
 「大きなゴーヤー・小さな苦瓜」   郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

初秋の海(笠島)  丸岡 稔(丸岡医院)

夢が現実になる瞬間〜ボウリング パーフェクトゲーム

  窪田  久(窪田医院)  

 夢とは、現実にはほとんど起こり得ないほどすばらしい出来事。ボウリングのパーフェクトゲームは私にとってまさに夢であった。数多くの偶然の積み重ねによって、奇跡的にこの夢が現実となったとき、神の思し召しとも思える運命的なものを感じずにはいられなかった。

 平成14年5月1日夕方、アルピコボウル長岡でいつものようにボウリングの練習中、たまたま調子よくストライクが続いた。第5フレームまでストライクが続いたころ、隣のレーンで練習中の顔見知りの若者から「窪田さんパーフェクトでますよ」とのかけ声。苦笑いをしながら「無理、無理」と答える私。しかし、なおもストライクは続く。投球に関する迷いは全くなく、ボールを落とすレーンの板目のみに集中できている。そして、いよいよ最後の第10フレーム3投目。何故か私は投げる瞬間に思った。「パーフェクトはまだ早すぎる。夢をまだ失いたくない」と。ボールはきれいにフックしてジャストポケットに……。

 一瞬ストライクかと思ったが、右端奥の10番ピンが残った。夢は現実とはならなかった。しかし、この時私の心の中で、パーフェクトに対する漠然とした憧れのようなものが、現実的な目標に変わった。そして、残念な気持ちより、目標を持ち続けられることへの喜びを感じていた。

 私がボウリングにのめり込むきっかけは何の変哲もないことからであった。当時私は月に1回だけ長岡メディカルボウリングの月例会に参加するという、いわゆる月一ボウラーであった。平成13年1月にアルピコボウル長岡のハウスボールが新しいものに変更され、今まで自分が使っていた指に合うボールが倉庫にしまわれてしまったために、仕方なくマイボールを買うことにした。ボウリングのボールの大きさは直径約21センチですべて同じだが、その性能には大きな差があり、すべり方や転がり方や曲がり方やピンのはじき方などがまるで異なってくる。私のボールは比較的曲がりが少ないボールだったが、ハウスボールに比べれば格段に大きく曲がり、ピンのはじきもよくなった。ボウリングの一番の魅力はバーンと乾いた音を残して、一瞬にしてすべてのピンがはじき飛ぶ豪快なストライクにあると思うが、私はこの魅力にとりつかれてしまったのだ。

 昨年の5月頃であろうか、隣のレーンで練習している70歳過ぎの老人から、「あなたはきっと将来パーフェクトゲームをするよ」といわれたことを覚えている。当時の私はその人よりもずっと下手だったのに、私の何をみてそうおっしやったのかは今もわからない。

 私のボウリングの師匠は76歳のSさんで、シニアの県大会で9回優勝、シニアの全国大会でも5位という輝かしい経歴を持ち、現在でもアルピコ長岡の大会でよく優勝されている。ボウリング場で私が練習していると、後ろからみていてくれて、いい投球ができたときには指でオーケーサインをだしてくれる。

 師匠のご指導と月に百ゲーム以上という豊富な練習量で徐々に実力もアップし、平成13年8月からはアルピコボウルの公式大会に月に4回以上出場するようになった。(公認大会4回、24ゲーム以上投げると翌月の練習でのゲーム料金が一ゲーム250円になる。) 大会で上手な人たちと一緒にプレイするようになって、徐々にレーンコンディションの変化とその攻略法がわかってきた。

 始めてのビッグゲームは平成13年10月の266点、次いで平成14年2月の262点で、いずれも1フレームから8フレームまでストライクで、9、10フレームがスペアという内容であった。しかし、ここまではたまにビッグゲームが出る程度で、パーフェクトはまだまだ、遠い憧れであった。

 平成14年3月に今をときめくカーバイド系のリコシュカーバイドというボールを購入してから、ストライクの率が格段に高くなり、平成14年4月には230点以上のゲームが10ゲームを数え、初めての1ゲーム11個のストライク(266点)も経験した。このボールは切れ味よく鋭く曲がり、今までのボールに比べて、1ピンずつ多く倒れるという印象を与えた。

 そして迎えたのが、冒頭に書いた5月1日のセミパーフェクト、299点のゲームであった。このゲームを経験して、パーフェクトに対する考え方が夢から目標に変わり、今度チャンスがあったら是非達成したいと思うようになった。

 そんな折、平成14年5月25日に私の母校である順天堂大学同窓会新潟支部総会が上越の燕温泉で行われた。3月くらいからずっと咳、疾、鼻閉がひどく、体調は最悪であったが、次期から会計を任されることになっていたためにこの会に出席した。その宴会の席で、近況報告として、私は次のように述べた。「相変わらずボウリングに凝っています。先日セミパーフェクト299点のゲームを経験しました。来年のこの会までに是非パーフェクトゲームを達成したいと思います。」しかし、まさか翌日にこの快挙が現実のものになることなど誰が予想できたであろうか。

 燕温泉で一泊し、翌平成14年5月26日(日曜日)は私にとって生涯忘れ得ぬ日となつた。車で午後2時頃に帰宅。温泉の効果か、鼻閉、咳疾もややよくなったので、夜に行われる支配人チャレンジマッチに出場することにした。普段は参加していない大会だが、この月はレーンの改修工事のために大会の数も少なく、この時点であと2つの大会をこなさなくてはならなかったため、なかばしかたなく出場する消化試合のようなものであった。

 夜8時に大会は始まり、1ゲーム日はストライクが3個だけの163点というローゲームで、まったく緊張感はなかったが、ストライクコースはある程度つかめていた。いよいよ2ゲーム目、21レーンでは右から板目20枚目に立ち、10枚日を通す。22レーンでは13枚目に立ち8枚日を通すと決め、スパット付近の板目のみに集中できていた。5フレまでジャストポケットの連続で、心の中でパーフェクトモードに入ったなと思っていた。7フレあたりまでストライクが続くと周りの人たちから注目を浴びるようになる。9フレでブルックリンヒットがラッキーなストライクとなり、「これはついている。いけるぞ!」と思った。10フレの1投目がストライクになったところでお決まりの場内アナウンス。「21レーンの窪田選手あと2投でパーフェクト達成です。皆さんご注目下さい。」いらんこと言うなあと思いつつ投げたその直後の一投はど真ん中に入り、これで終わりかと観念した。しかし、スプリットになりかけていた2本のピンが同時に倒れて、運良くストライクになつた。(余談になるが、この悪魔のアナウンスのあとにパーフェクトを逃した場面を私は少なくとも3回は目撃している。)いよいよ10フレ3投目、最後の投球である。背後からの多くの視線を感じ、さすがに緊張のために右手の筋肉ががちがちに硬くなっているのに気づいて、「ボールは置きに行かずにしっかり投げよう」と心がけた。そして、心からストライクを出したいと願いつつアプローチに立った。最後の一球はきれいにフックしてジャストポケットにはいり、私は思いっきりガッツポーズ。そして10本のピンは一瞬にしてはじけ飛んだ。投げ終えて戻るアプローチの上には、大きな拍手の中で、両手の挙を高々と上げ、まるで映画の主人公のような私がいた。その後、周りの皆さんからの祝福の握手を受けながら、人生最高の喜びに浸ることができた。後日行われた表彰式では表彰状2枚と表彰楯と記念のカップ、副賞の腕時計と置時計を頂いた。

 その後パーフェクトの余韻に浸っているうちに約一ケ月があっという問に過ぎ、七夕様の前日のこと、昨年私が書いた短冊がでてきたので、それをみて驚いた。そこには「めざせ、パーフェクト300点 久」と書かれてあった。その当時公式戦にも出場していなかった私にとってパーフェクトゲームは夢のまた夢で、七夕様に願掛けをしていたことさえも忘れていた。しかし、現実に一年もたたないうちに公式戦でパーフェクトゲームを達成でき、自分でも本当に驚いている。なぜなら、私よりもずっと上手くて、しかも長年一生懸命練習している人たちは山ほどいるからである。30年間県アマトップクラスでボウリングをやってきた私の師匠のSさんでさえもまだ、パーフェクトの経験はないそうである。パーフェクトゲームという夢を達成してみて、夢は熱心な練習や努力なくしては実現できないことは当然だが、それだけではなく、実行に必要な良い道具をそろえること、様々な幸運の積み重ね、夢を実現したいという強い願望から生まれる集中力、そして何らかの神頼みをすることが必要なのではないかと感じている。

 今年の七夕様はもう終わりましたが、来年は皆さんも実現したい夢を短冊に書いてみてはいかがでしょうか。今年私が書いた夢は何かですって?。それは実現したらお話しすることにしたいと思います。

 

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だから私は飛行機に乗らない〜呑ん兵衛のたわごと(四) 

福田 光典(悠遊健康村病院)

 今を去ること25年前、富山に勤務していた私は学会発表のため九州は福岡に向った。当時山陽新幹線はすでに開通していたが、その日のうちに福岡に着く為にはどうしても空路を利用せざるを得なかった。富山から福岡まで直通便があって皆はそれに乗ったが、私ひとり大阪までは北陸線で行き伊丹空港から飛行機に乗った。その交通手段の選択は後日、皆の笑いの種となり、しばしば酒の肴にされた。

 搭乗したのがジェット機だったかYS−11だったか全然覚えていないが、そんな事はどうでも良い。記憶にあるのは機が滑走を始めて徐々にスピードを上げるにつれ、底知れぬ不快感(気の弱い人は恐怖感とも言う)に襲われたことだけである。離陸して数分経ち浪花の街灯りが眼下に拡がる頃、私の不快感は頂点に達した。まさに「足が地に着かない」とはこの事で、いても立っても居られず「降ろしてくれ」とも言えず、思わず合掌しお念仏が口をついて出た。「なまんだぶ……」浄土真宗の寺に育った私が心底仏の慈悲に縋ったのは、この時が最初でかつ最後であった。

 帰路は地べたを這うように走り、絶対に地球と喧嘩することのない国有鉄道を乗り継いだのは言うまでもない。それ以後は何処へ行くにせよ誰と行くにせよ、この不快な乗り物を一度たりとも利用したことはない。あのような巨大な金属の塊が空を飛ぶことが、私には極めて不自然に思えてならないのである。

 世界で最も大きな旅客機はアメリカ製のボーイング747(通称ジャンボ)で、エンジン4発を装備し総重量は400トンにもなる。もしエンジンの力だけで400トンの巨体を飛ばそうとすれば当然400トン以上の力が必要になるが、実際のジャンボ機のエンジン推力は4発合計でも100トン程度でしかない。それでいて空を飛べるのは翼に働く揚力のお陰で、ジャンボ機はいわば他力本願で飛んでいる訳である。

 揚力はおもに主翼に働くが、主翼には補助翼やフラップ(下げ翼)がついていて機体の浮揚と安定を助けている。そのフラップが上下する様は、剥れかけたトタン屋根が風に煽られてパタンパタンと揺れているようで、故郷の庵を思い出し不安感を一層増す。

 操縦室の中を見ると、計器やスイッチの多さに目を奪われる。乗務員がこれらの機器の操作を熟知しているとは思えず、かといって目測で操縦しているのでもないようだ。因に飛行機の現在位置を測定するには、自機の三軸方向の加速度を検出し、それを積分して速度、さらに積分して距離を求めるという、言うなれば高校数学IIbの応用でしかない。

 驚いたことに機体外板のアルミ合金は僅か2〜3ミリの厚さだそうである。胴体を密閉構造にして圧力をかけ、高空を飛行中でも機内は地上に近い気圧にセットして、機体をいわば臨界前の不安定状態に置いているのである。また真夏の炎天下に置かれた機体はステーキが焼けるほどに超高温になるし、高度1万メートルまで上がれば外気は冬の北極なみに下がる。飛行中にしばしば原因不明の事故が起きているのも、この機体が強いられている自然に対する抗いと無関係とは思えない。事実今年の5月に中華航空の旅客機が、飛行中に4つに空中分解した悲惨な事故はまだ記憶に新しい。

 飛行機が減速する際はエンジンを絞り主翼のエアプレーキで空気抵抗を大きくするが、更に減速が必要になればエンジンの逆噴射を行う。「機長、何をするんですか!」と副操縦士が叫んだ、あの羽田沖の事故で当時の流行語にもなった「逆噴射」である。

 機内食は専用の工場で調理、盛り付けされて、客室各所の小部屋に保管され、食事の際は必要な部分が加熱されて配膳される。各社のパンフレットに「空の旅の楽しみである機内食」と謳ってあるが、写−具で見る限りそのトレイは学校給食とさして違わないように思える。

 かくなる理由で私は飛行機に乗らないのだが、将来孫達と遊園地にでも行って、せがまれれば一緒に飛行機に乗るやも知れない。なぜなら遊園地の飛行機は不自然な動きをしないし、飛行経験何万時間という超ベテランのおじさんが操縦しているうえに、悪天候では絶対に飛行しないという固いポリシーがあるからである。

(参考文献)飛行機解剖学入門 阿施光南

  

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悠湯越後長岡抄改  福本 一朗(長岡技術科学大学)

 アイスランドは北欧五か国の中で最も古いバイキング時代の言語と文化を残している人口40万人の島国である。北極圏に位置するこの島はメキシコ暖流に洗われるとはいえ中央の山々には万年雪と氷河が残り、森や林の全く見られない国土には僅かな草を求める山羊と羊が生息するばかり。しかしこのアイスランドには北ヨーロッパでは唯一とも言える火山と温泉がある。特に首都レイキャビク郊外のブルーラグーンと呼ばれる温泉は氷河の蒼い水が地熱によって湯となり地熱発電所を賄っている。人々はこの蒼い湯に冬でも浸かり暖を取る。このアイスランド以外の欧州では、温泉とはサナトリウム、つまり医学的な療養所と見倣されていることが普通で、単に楽しみのために健康人が湯浴みするという習慣はむしろ例外に属する。北欧での9年間の生活を経て長岡に赴任した当初、市内に17ケ所も温泉があると知って暇ある毎に一家で温泉巡りを試み、一巡するのに3年を要した。市内には川東に北から桂・東山・スパー・愛隣・成願寺・長岡・湯沢・かまぶろ・蓬平の9温泉があり、川西には宮本・三島谷・灰下・寺宝・アクアーレ長岡・三ツ郷屋・墓間・西谷の8温泉があるが、そのうち昭和天皇の行幸をみたという三ツ郷屋温泉は老人保健施設サンプラザとなり今は一般には開放されておらず、愛隣・成願寺の2温泉は宿泊しなければ入浴させてくれない。このうち残念なことに東山温泉・湯沢温泉は当主が亡くなられたために、現在は営業していない。また長岡市の近隣市町村まで足を伸ばすと、見附の見附温泉・名木野温泉、栃尾市の大野鉱泉「謙信の湯」・荷頃温泉、与板の志保の里荘、野積のホテル飛鳥、分水の手鞠の湯、岩室の 「よりなれの湯」と「だいろの湯」、弥彦の湯、小千谷の木津温泉・鴬巣の湯・地獄谷温泉・上の湯・ちぢみの里、十日町の千年の湯と真人温泉、柏崎の白鷺館・栃窪・柏崎温泉・ソルトスパー・アクアバーク、西山の地蔵温泉・広田鉱泉・白鷺の湯、高柳村じょんのび村、角田山の湯乃腰温泉・じよんのび館、下田村の越後長野温泉と「いい湯らてい」、湯之谷村の大湯・葎沢、守門SL温泉と寿和温泉、入広瀬の洞窟温泉・浅草山荘・櫓木風呂など数え上げるのも困難なほど枚挙に暇ない。もちろん弥彦・咲花・月岡・湯沢の大温泉群もあるが、余りにも有名すぎて東京からの遊び客にほぼ占拠されているので、ここでは考えない。このように見てくると越後は温泉の宝庫と言えよう。

 東の魚沼丘陵と西の東頚城丘陵に挟まれた信濃川の狭い河岸段丘に位置しているにも関わらず、長岡の17の温泉はどれ一つとして同じ泉質の湯をいださない。醤油色の三島谷温泉、コーラ色の灰下温泉はその類いまれな湯の色を見るだけでも湯治客を楽しませてくれる。特に技大に最も近い灰下温泉は大正時代より住民に愛されてきた鄙びた湯治場であるが、春は桜・夏はほととぎす・秋は紅葉・冬は雪見酒と四季を通じて美しい自然の中に溶け込ませてくれている。我が国の温泉法による狭義の温泉とは、「地中から湧出する温水・鉱水および水蒸気その他のガスで、摂氏25度以上の温度を有するか、または溶存物質を規定量以上含有するもの」となっており、この規定に照らせば市内では桂温泉と寺宝温泉だけが「本当の温泉」だと言える。桂温泉は市内唯一の大露天風呂を備えているが、初夏など鳶の舞う青空を眺めながら硫黄泉の湯に浸かっていると、露天風呂の板塀を通して耕転機で農作業するお百姓さんが挨拶してくるという田舎ぶりである。長岡温泉には3軒の温泉旅館が集合しているが、そのうち外湯をつかわせてくれることがあるのは湯元館だけである。湯質は単純泉でかすかに硫黄臭がするだけであるが、ゆったりとした楕円形の揚舟に苔と軒忍が生い茂る岩風呂はスキーで疲れた身体を癒すのに最適である。変わり湯としては、江戸時代に大繁盛し「風呂」という名前の由来となった日本式サウナの長岡釜風呂温泉がある。百度近い乾いた土室の席に横たわり身体中の汗を絞りだしたあと、広い湯舟に飛び込む醍醐味は格別である。これで白樺の小枝を滞らしたもので身体を打ち、氷の張った湖に飛び込むことができればまさにフィンランド気分。ここは曜日と時間によって入浴料が3倍から違うのでよく確認されてから訪れたい。もし人山沿後の料理をも楽しみたいという御人には、寺泊直送の魚料理が自慢の野積ホテル飛鳥と、川面にはり出した舞台での若女将の踊りが有名な蓬平温泉「よもやま館」の山菜料理が控えている。長岡近隣の温泉では、湯面の一番広い見附温泉・信濃川岸辺にある小千谷木津温泉・山奥の地獄谷温泉なども輿深いものがあり、それらすべてを語るには長い秋の夜でも足りないほどである。

 温泉に浸かることは人生の楽しみであるばかりでなく健康にもよいが、近年その科学的な研究が行なわれるようになつてきた。まず入浴することによる物理的な水圧・浮力・温熱作用が挙げられる。湯に体を沈めると成人で約1200kgの静水庄が体表面全体にかかるが、これは末梢に貯留した血液やリンパ液を心臓に戻す働きをして四肢の浮腫と鬱血を取る効果がある。また人の比重は1.036なので入浴中の体重は約9分の一に減少し筋肉の緊張を除去するのに役立つとともに脂肪除去にも効果があるといわれている。温泉の熱が皮膚の温点を刺激すると脳は皮膚の血管を拡張する指令を出すため、体内の血液循環が盛んになる。そのため摂氏40度位のお湯に約10分ほど浸かっていると身体の芯までぼかぼかと暖まってくる。冬でも入浴後4〜5時間はこの温熱効果は続くので、温泉に頻繁に入る習慣を持つ人は風邪をひきにくいと言われている。身体が芯まで暖まると汗腺から汗が盛んに出るとともに、脂肪腺からの皮脂の分泌も盛んになるため、毛穴に詰まった汚れや体内の老廃物が排出される。湯上がりの爽快感はこの皮膚の浄化作用も寄与しているといわれ、また越後に美人が多い理由の一つは温泉の故であるという説もあるのもうなずける。温泉の身体に対する作用はほとんどの人が実感しているところであるが、精神に対する作用も決して無視できない。機械文明に適合せねばならない現代人の精神的ストレスは、神経性胃潰瘍などの精神が体に害をなす心身症を例にひくまでもなく、心とからだの健康を脅かしている。温泉場に赴くことはささやかな転地療法ともなり、職場で阻害されていた自然と触れ合えることにより人生の実存感が回復される。またタイムマシンのように悠久の時の流れをとめる湯舟の中は、過ぎ去りし日々の回想の場となり、もつれた心の糸を解きほぐす精神的余裕を与えてくれる。浴後の爽快感とも相乗的に作用してストレスは垢とともに流れ去ってくれるため、温泉は精神的なサナトリウム(療養所)ともなっている。

 技大の菅野元学長は新潟県内のすべての温泉を楽しまれた粋人であられたそうであるが、その足元にも及ばぬまでも、折角この宝の山に住む幸せを得たからには是非、この楽しみをご同輩諸氏と共に味わいつくさんとこの拙文を呈する次第である。

 「深くこの生を愛すべし」秋艸道人・会津八一「学規」第一条

 

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大きなゴーヤー・小さな苦瓜  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 苦瓜のぼーんと裂けたってんがな  哲己

 のっけからおかしな拙句の紹介で恐縮です。先日庭先の景を見て、口を突いて出ましたが、いちおう十七音で、苦瓜なる秋の季語も入っております。中七以下は越後の昔話の語りのパロディです。「ぼーんと息が裂けたってんがな。」と話のしめくくりに、「…なんちゃって」的に言うんですよね。

 大きくなった苦瓜が黄色の体をまくれ返らせ、中の赤い種を地面にまいていたのです。瓜の仲間ですから、このはじけた苦瓜の薄い果肉は、食べられるそうです。試しにそのまま生で皮ごとかじってみると、ほんのり甘くかつまた苦く、複雑な味。とても食用には向きませんな。油断しているとすぐにこんなふうに熟し過ぎてだめになる、これは収穫のタイミングがけっこう難しい野菜なのです。

 我が家ではここ数年は、夏に苦瓜(またの名をゴーヤー)を育てています。ウリ科の一年生の植物で、丈夫に育ち、甘い南方系の香りの黄色い花を蔓にたくさん咲かせてくれます。ただし収穫できる実は大きくても12センチと小さめ。せいぜいスーパーで売られる本場の沖縄産のゴーヤーのサイズの半分です。

 沖縄料理の「ゴーヤー・チャンプルー」の食材です。薄切りにして、豆腐とあわせて油で妙めて塩で味付け。家人はこの素朴な味覚が好きです。わたしは九州でアレンジされて広まった豚肉、カツオブシ入りの醤油味系が好みです。どちらの料理が食卓に供されるかは、その日の家人の気持しだいであります。

 知人が初めて苦瓜を育てるというので、栽培経験をお教えしました。お返しに「ゴーヤー王国」なるJA沖縄経済連園芸部のホーム・ページがあると教わりました。さっそくヤフーで検索して発見しました。

 その質問コーナーで「大きい実を収穫するコツ」が載ってました。それには実の数をたくさんつけ過ぎないこと、花・実のころにも適当に化成肥料を追加すること。

 そこまで読むと、わたしはすぐに立ち上がりました。物置に行き、棚の袋から化成肥料を一掴み取り出すと庭の畑に行き、苦瓜の根元周囲にそれをばらまきました。すたすたと居間に戻ると、他の項目に再び日を通し始めました。この間数分のできごとです。

「どうしたの、突然立って外に行って何をしてきたの?」とそばにいた家人がたずねますので、これこれと理由を説明します。

「きっと毎年元肥だけで追肥しなかったのが悪いんだね。」

「そうかなあ。売っている大きなゴーヤーつてイボも大きく緑も濃く、うちの薄緑系のきれいな苦瓜とどうも違うものの気がするわ。」

 その後HP記事をさらに検討し、あっさりと以下の事実が判明。

「沖縄で出荷しているゴーヤーは栽培品種が異なるのである。」

 沖縄産は「群星」と「汐風」という品種改良されたFl種。この種・苗は沖縄限定で、門外不出的に「管理栽培」されているそうです。

「ふーん、やっぱり。沖縄のゴーヤーは大きくて、よその苦瓜は小さいってことかしらね。」と家人。

 沖縄では苦瓜の仲間のヘチマ(あのタワシの材料)もナーベラと呼びよく食べると、食文化の本で最近読んだばかり。よーし来年の夏は小学生の頃のように、ヘチマのプランター栽培に挑戦してみることに。こちらも品種が?と不安も。

 

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