長岡市医師会たより No.272 2002.11

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。

もくじ
 表紙絵 「左近辺り」        丸岡  稔(丸岡医院)
 「開業医一年生の雑感」       星野 明生(セントポーリアウイメンズクリニック)
 「医師会会員旅行記」        高木 正人(高木内科クリニック)
 「山と温泉48〜その34」       古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「ひとりわんこそば」        郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

左近辺り   丸岡 稔(丸岡医院)

開業医一年生の雑感  星野 明生(セントポーリアウイメンズクリニック)

 去年11月に開業して、はや1年近くが過ぎようとしています。ほんの数年前まで、開業のことは頭に浮かんではいませんでした。しかし、立川綜合病院に赴任して十余年が経過し、医療スタッフも2人から4人となり、また、私の専門分野である不妊、生殖内分泌だけでなく、婦人科腫瘍などの患者も増え、総合的な産婦人科医療も必要となり、私にとっては大変荷の重い事となってきました。他方、勤務医としての仕事も自分にとってはマンネリ化し、このままではいけないとも思っていました。そこで、開業するならここがタイムリミットと考え、周りの人と相談し開業を決意しました。開業を決めたといっても、そこまで行くにはどうしたら良いのかまったく分からず、暗中模索の状態が数ヶ月続いた後、ある業者が話を持ちかけてくれ、それに乗ることにしました。その業者のつてで、建物関係、設計関係、他の諸々の業者と知り合い、少しずつ青写真が出来上がっていきました。しかし、医療関係以外はまったくの門外漢で、いくら説明があってもその時はよく理解が出来なかったものです。さらに、開業手続きのような事務的な問題も多々ありましたが、業者の方で行ってもらい、ずいぶん助かりました。開業後のことですが、開院当初1日2日は、どっと患者が押し寄せ、これは大変だなと思ったのもつかの間、患者さんを待つ日々が長く続きました。「ぽん・じゅ〜る」の開業した先生方の感想の文章を読んで、最初はこんなものだと自分に言い聞かせてもいました。また、開業しておられる先輩の先生方にも、今は我慢のときだとご助言を頂きましたが、年が明けても妊婦の方はほとんど来院せず、分娩も月に一つ有るか無いかの状態でした。その代わり、肉体的には夜起こされることもなく、のんびりと過ごし、勤務医時代の垢が取れたような気がしました。3月に入ってようやく、ぼつりぼつりと妊婦の方が来院され、やっと産婦人科の医院らしくなってきました。

 ところで、話が少しずれますが、当クリニックの名称は「セントポーリアウイメンズクリニック」 と申しますが、セントポーリアというのはアフリカ原産の多年草の赤い花でして、花言葉は「小さな愛」です。この花言葉のような気持ちで患者さんに接しようと思い名前をつけました。

 夏頃には外来診療ペースにも慣れてきましたが、開業してしばらくは新しい看護婦を含めたスタッフと帝王切開などの手術が出来るか不安で、小手術のみしていましたが、仕事にも慣れ9月に入って帝王切開を数件することが出来ました。経営面では、電気、ガス、水道はもちろんのこと、薬剤、医療備品、厨房、医療廃棄物等の支払いがあまりにも大きく、現在をもってしても十分には把握できておりません。またレセプトは、以前は大の苦手で、今もずいぶん頭を悩ませております。でも何とか取り組んでいる状態です。今現在因っているのは、当然といえば当然の事ですが、一つは診療の曜日による来院患者数のバラツキがあります。もう一つは、当クリニックは夕方7時まで受け付けていますが、診療時間が終了する寸前の7時ごろ来院される患者さんが時々みられます。一日の仕事が終わったなと思った瞬間、受付の職員が「もう一人いらっしやいました」と言われると愕然とします。しかし、患者のニーズに合わせて7時まで診療時間を設定したので仕方ありません。泣きたいのは山々ですが、それを出さず診療に当たっております。

 以上取り留めの無い事を書きましたが、最後に立川綜合病院在職中は、病院の諸先生方には大変お世話になりました。この紙面を借りて厚く御礼申し上げます。今後は、医師会の大勢の先生方にお世話になると思いますが、その節は何卒宜しくお願い申し上げます。

 

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医師会会員旅行記   高木 正人(高木内科クリニック)

 私は、この度の医師会旅行で2度目の参加となります。不思議に思われる方もおられると思いますが、今から35年前、当時小学5年生だった私は、父に連れられ初めての医師会旅行に参加しました。当時は道路事情が良かったためか、みなさん自家用車で参加され、家族連れの先生も多く、私は鈴木伸吉君(鈴木丈吉先生の弟)と仲良くなり一緒に遊びました。記憶では伊香保温泉に宿泊し、女・子供は湖で遊覧船に乗り、男たちはゴルフでした。夕方ゴルフ場に集合して帰路に着いたのを覚えています。

 それで、医師会旅行には思い入れがあり、以前より参加したいと思っていましたが、昨年は一緒に参加してくれる方を探しているうちに、予定が入ってしまい、参加できなかったため、今年は満を持して参加させていただきました。行くにあたり若手医師(自分が若手と思っている人)の会やメディカルボウルで一生懸命にお誘いしたのですが、みなさん都合がつかず、あぶないところで、中学・高校と一緒だった阿部映一先生をお誘いすることができました。

 さて、今年の医師会会員旅行は、NHKの大河ドラマ「利家とまつ」で人気沸騰の金沢方面へのサロンパスで行く旅行でした。参加者は斎藤良司会長以下、大関忍先生、木村嶺子先生、小林眞紀子先生、児玉伸子先生、石川紀一郎先生、杉本邦雄先生、春谷重孝先生、中村敬彦先生、大貫啓三先生、神谷岳太郎先生、長尾政之助先生、阿部映一先生、そして事務の星さんと私の総勢15名でした。

 10月26日(土)朝は晴、出発が午後1時30分と早いため、遅刻してはいけないと思い職員に早出をしてもらい、早く診療を開始し、猛スピードで診察を行ったところ、私の気迫に驚いたのか、12時より患者さんがピタリと来なくなり、余裕で医師会館に到着できました。間もなく、阿部先生が旅行だというのに大きな傘を持ってバスに乗ってこられ、天気予報で大雨になることを知り、心配な出発となりました。

 バスが発車するや否や宴会が始まり、中村先生ご持参の久保田の萬寿の一升瓶が見る間に減り、鈴木しのぶ先生差入れの年代物の梅酒もどんどん減ってゆきました。大島で斎藤会長、西長岡で大貫先生と木村先生が乗車したころには、宴もたけなわとなり、サロンが宴会場に変わっていました。後は高速道路をひた走り、温泉と舞妓さんの待つ金沢へいざ出陣。

 車中では日本酒、ふぐひれ酒、佐渡のイカ酒、国産・外国産ビール、梅酒、カクテルなどその種類と多さはまるで居酒屋で飲んでいるようでした。

 金沢方面に向かうにつれて、大粒の雨が降ってきました。出発して2時間後、私は早くも飲酒ペースについて行けず、また夜の部での体力温存のため、後部座席の宴会場から脱出し、前部座席で小林先生の軽やかな笑い声を聞きながら睡眠タイムとなりました。

 午後6時ころ、北陸の名湯・金沢の奥座敷と言われている辰口温泉「たがわ龍泉閣」 に到着しました。

 午後6時40分には再度出発するので荷物を置くだけとのことでしたが、我慢できず私達数人はちゃっかりとひと風呂浴びてしまいました。大きなお風呂と中くらいの露天風呂で、なかなかの造りで、泉質は単純泉でさらりとした名湯でした。

 夕食の会場へは再度バスに乗り、金沢駅近くの舞妓さんの待つ御茶屋さん「松魚亭」に予定時刻に到着しました。窓から絶景が見下ろせるお部屋で、加賀料理の冶部煮などを食べていると、間もなくして金沢芸者のきれいどころのお姉さん3人がいらっしやいました。一通り御酌をた後、一人が歌い、一人が三味線を奏で、一番若くて美しい芸者さんが舞妓となり舞ってくれました。今まで私の知っている芸者さんは、17年前、かも川別館で会った方と毎年の青木楼での医師会新年会においでになるおばあさん(失礼)芸者さんだけでしたので、この度の舞妓さんの日本舞踊の美しさ、特に自分が見つめられていると錯覚するような流し目と、あの手と足のしなやかな動きには心を奪われ、今でもはっきりと脳裏に焼き付いています。残念なことは、記念写真を撮り忘れたことです。とにかく予想を遥かに超えた美しさで、かなりのお金が掛かったらしく、この旅行に参加して本当に得をしたと思いました。

 あっという問に2時間の宴は終わってしまい、後ろ髪を引かれる思いで今宵の宿辰口温泉「たがわ龍泉閣」にタクシーで戻ってきました。すぐに夜の宴会パート2が始まり、大きなステージのあるラウンジで、カラオケを大貫先生を中心にみなさん次々に歌われていました。午後11時30分頃、私はカラオケを引き上げ、患者さんには厳しく禁止している宴会後のラーメンを食べにいってしまいました。すると星さん達先客にお会いしました。普通のラーメンでしたが、深夜に大盛りはいけませんね!星さん。

 旅先で枕が変わると眠れない繊細な神経のため、泥酔しているにもかかわらずマイスリーを飲んで眠りました。気が付いたら一瞬のうちに朝になっていました。激しい大雨であいにくの天気のため、中村先生は早朝ランニングができなかったばかりか、私のイビキのために睡眠不足だったようです。

 2日目(10月27日)は大風、大雨の最悪の天気でしたが、兼六園散歩は強行されました。斎藤会長は体調不良のためバスで休息、春谷先生は本人日く「愛人との待ち合わせ」とのことで、どこかへ消えて行ってしまい、最後までお目にかかることはありませんでした。拉致されたのではないかと心配していましたが、後日、長岡のホテルで乾杯をされていたので安心しました。

 私と阿部先生は予め計画していた阿部先生ご用達の九谷焼専門の北山堂へ、雨、霧をものともせずに向かいました。そのお店は一、二階とも全て九谷焼づくしで、私のお目当ては晩酌用のぐい呑みだけ、阿部先生はお皿などの食器が中心のようでした。二階に上がると陳列棚には鍵付きのガラスの扉がありました。気楽に見物していると、私の目に底が深海の青で周りが珊瑚礁のブルーまでグラデーションがついたぐい呑みが入ってきました。これだ、これがほしいという衝動にかられ、そばに付き添っていた店主に「鍵を開けて下さい」と言って恐る恐るそれを手にとり、うっとりと眺めていると、店主が「これは良いものですよ」と言ってくれたのでそうだろう、そうだろうと思い、つい 「これをください」と言ってしまいました。まさに衝動買いでした。さらに店主が「重要無形文化財の徳田八十吉の作で、年代によって色が変化しているのですよ」というので、しみじみと値札を見ると、最初に見えた数字より丸がひとつ多かったのでした。さて、財布にはこんなにお金が入ってない、どうしよう、ふと出発前にいつもは持ち歩かないカードを持ってきたことを思いだし、きっとカード地獄はこうやって始まるのだろうと思いながらサインをしました。あと100年くらい先に割れていなかったら、「お宝鑑定団」に出せるかな。

 午前11時40分には雨の兼六公園を散歩された本隊と無事に合流、みなさん大きなお土産袋をもってバスに乗車されました。

 この頃には、時に太陽の日が射す晴れ間が見られるようになり、次に忍者寺として知られる日蓮宗妙立寺を拝観しました。私は27年前に一度来たことがあり、またかと思っていましたが意外に新鮮で、隠し階段、隠し部屋などとても楽しかったです。雨の晴れ間に、初めての集合写真(春谷先生は行方不明のまま)を撮ることができました。バスに乗るまでの街道沿いには、餅屋、らくがん屋、手作り蒲鉾屋などがあり、遅れて乗ってこられた小林先生と児玉先生は、両手にすごく大きな包みを持ち、お土産をこれでもかと買い込まれ、ご自宅で待っていられる方への愛情の探さが推察されました。

 さて、昼食は金沢市医師会御推薦の石亭で御膳料理(加賀料理)をいただきました。やはり鴨の冶部煮がでました。帰り際にお店のパンフレットを見たところ、私達が食事をしたお部屋が石亭で一番良い部屋でした。バスに乗るときには大粒の霞が降っていましたが、あとは無事に長岡へ帰るだけとなりました。

 さて、今年の参加者は15名、例年と同じ位の少数精鋭でした。私は2回目の医師会旅行でしたが、星さんら事務局のみなさんと幹事の先生方のお蔭で、すごく楽しい大名旅行ができました。若手(自分が若いと思っている)医師の方も5人参加されましたが、来年はもっと多くの若手医師のみなさん参加しましょう。事務の星さん、3ケ月くらい前に期日が決まると助かります。また、新会館建築のために出費が多いと思いますが、一度、参加費を1〜2万円の格安料金にしてみてはいかがでしょうか。

 以上だらだらと長文になつてしまいましたが、来年の医師会会一員旅行が大盛況でありますよう祈っています。

 

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山と温泉48〜その34  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

 穴藤温泉

 穴藤はケットウと読む。地籍は中魚沼郡津南町穴藤。中津川左岸のこの集落は、古くは、下結東と言っていた。また同じ中津川上流左岸、逆巻の先の結東は、上結東と呼ばれていた。この集落は、大正9年(1920)から13年(1924)にかけて行なわれた信濃川電力(現東京電力)の発電所工事で3千人の労働者が入り、商店が軒を並べ、急拵え花街の街灯眩しく、殷賑を極めたと言う。工事は、上流の切明でも、この発電所に送水するためのダム建設が、同時に行なわれた。この工事のため、中津川左岸の断崖・岩壁に、大割野(津南町)ら切明に物資輸送のための軽便鉄道が出来た。集落は、その起点となり、集落の中に現在の発電所が出来上がった歴史があります。現在見られる其の当時の名残りは、発電所の建物と広い敷地、穴藤吊橋、軽便鉄道跡の線路敷道路で残っています。この軽便鉄道跡を利用して、津南町から切明に、富山県黒部川・黒部峡谷の断崖を縫って走る「黒部峡谷鉄道」のような観光鉄道が出来ないものでしょうか。名付けて「中津川険谷軌道」は如何。

 因みに、切明発電所は、昭和28年に建設工事が始まり、中津川支流魚野川上流に渋沢ダム、同じく支流魚野川上流白岩付近より取水、昭和30年11月完成しています。従って切明発電所の用水は、下流、穴藤の中津川第一発電所に送られた後、中津川本流に戻されます。

 穴藤温泉への交通。津南町の中心部から、国道405号線を秋山郷に向う。穴藤から先、十三集落を 「秋山郷」と地元の人は言います。町の南端、「眼病の不動尊」のある見玉を過ぎ、中津川左岸、川と河岸段丘に依ってつくられた屏風岩岩壁が見え、東京電力中津川発電所が見えると、直ぐ黒滝橋がある。この橋の手前を右折、中津川渓谷に向かい急坂を下る。2トン迄の重量制限の吊橋を渡ると、穴藤集落。もう一つ、集落の入口として利用している路は、発電所の入路で、電力会社の私道を集落の人たちが許可を得て、緊急用として使わせて戴いていると言う。其の路は、黒滝橋を渡ると間もなく、右道路端真下に発電所が見え、「この先行き止まり」の看板、発電所に向かい落ちて行くような狭い急坂を下る。途中ゲートがあるが開いている。ダム堰堤を渡り発電所の中には入らず、裏手の路を直進、広場に出る。発電所職員の住宅跡。先が穴藤集落。路は狭いが、前記の吊橋と繋がっている。集落は10戸。温泉は、ボウリングによるもので、各戸で入浴用として熱を加え、沸かし湯で使っている。一部は、融雪用として利用している。以前に温泉があると聞いた時は、赤い屋根の家が温泉旅館かと思ったが、全くの間違いで、普通の民家でした。温泉の確認をしたいので集落を訪れました。集落の人の話は次のようでした。「温泉の始まりは、未だ20軒以上の家のあった時分、村の集まりで、呑みながら、温泉でも掘ってみようや、と言う事になって、シガさんと言う人が掘ってくれた。まあ簡単に湯が出るもんで驚いた。もう30年前の話になるか。何年か前に発電所の会社が、川岸に融雪用の湯井戸を掘ったら、村の湯が半分になった。こりや大変と、村の衆が発電所の会社に交渉して湯井戸を埋めさせた。(ここで高笑い)。今度は、川の向う岸、桐の木の在る処に湯井戸を掘って家を建てた。なんか温泉旅館みたいだったが、いつのまにか無くなった。国道近くにある家がそうだかな?。十日町辺りの人がやったと言う話だが?。この辺りは何処掘ってもお湯ぐらいでるもんだ (ここで高笑い)」

 集落の(村の)名称について聞いてみた。「此処が、結東ではなく穴藤と言うのは、この崖の上の平らに長者がいて、穴藤の長者と呼ばれていたのでそうなったと言うね。伝説だがね。穴の中に藤があったのでそう呼んでいたんじゃないかね。その穴が此処だと言うがね。(北越雪譜には下結東と記載されてあるのでそれ以前の話か?)今、集落の(村の)名が穴藤になったのは何時だったのだろうねえ。」「此処はね、いいとこだよ。椅麗な清水が多くて美味い、飲み水に困らない。困りものは、「玲羊(カモシカ)」、小さい畑の野菜をみんな食べて踏み荒らす、困ったもんだ。黄色いビニールテープで畑を囲うと入らなかったんだが、慣れたら効果無いね。」こんな話を聞いて、集落を後にした。最近、此処の断崖に魅せられて、集落の外れの廃屋に関東から移り住んだ外人がいると言う。会えませんでした。

 逆巻温泉(さかさまきおんせん)

 地籍は、津南町結東丑

 逆巻温泉は国道405号線を、前項の見玉を過ぎ、黒滝橋を渡り、右に発電所に下る急坂を分け中津川右岸を行く。中津川は、此処から両側が切り立った岩壁の峡谷となる。そのため、国道は、いきなり岩壁の基部に造られた曲がりくねった狭い路となる。対向車との擦れ違いには注意。スノウセットを過ぎると、石川越え、中津川左岸断崖の中程に、へばり着くように青い屋根の家が見えてくる。逆巻温泉。路は緊張のとれる程の広さになると、川津屋と書いた大きい看板があり、そこから右折、峡谷に向かって少し下るとコンクリートの猿飛橋があり、これを渡る(橋からの中津川峡谷の眺めはなかなか。水量が多いと、峡谷の岩盤に砕け散り、豪快な滝となる美事な自然を観せる。橋を渡ると、最近広くなつた路を、右にカーブしながら急斜面を上る。間もなく、青い屋根の温泉宿前に着く。峡谷に落ち込む急斜面の路は、幸いに、潅木の混じる雑木林で転落の恐さは感じない。

 温泉の開湯は、古いと言われながらはっきりしていない。「北越雪譜・秋山記行」(1837年刊)には、猿飛橋は記載されてあるが、温泉の文字はない。挿絵図の「信越境秋山之図」に逆巻・四軒とある。図中、逆巻とならんで下結東の記載がある。猿飛橋に就いて秋山記行には「……底は千尋と見、此処のみ千雷が落ちても崩れぬ犬の額合わせのように狭き故、此方何方と猿も飛越る風情に名附たるべし。何ぞ猿の飛越すとハ、思いも寄らず、川幅秋山第一にせまき改名附けたるべし……」(鈴木牧之全集現代語訳・中央公論社)著者の鈴木牧之は、川の左岸から右岸に渡るのにこの芝橋を利用したが、難渋している様子が記されている。しかし、温泉の話は記されていない。実は北越雪譜の著者鈴木牧之が秋山郷を訪れたのは文政11年(1828)。その後、嘉永7年(安改元年1854)に旧中深見村・中沢慶右衛門が泉源を開拓、翌安政2年浴場が建てられたと、津南町町史にある。鈴木牧之の訪れた時は温泉はなかった事になる。この根拠になる文献は中深見村・中沢家の古文書「逆巻温泉場諸記」。この覚え書きに記載されている。しかし、この記載以前の事は、「往古のことはわからないが」(津南町町史)の但し書きがあるのだから、開湯は千人百年代になるのだろう。湯は無色透明、含芒硝重曹食塩泉。風呂場の外は断崖(其れ程ではないのですが)、山間の深い峡谷を見下ろす景観、まさに絶景、一浴は得難い経験と思って、どうぞ。

 この山奥の温泉に、交通事情の悪い、昭和30年代の初めに大勢で旅行に来た人々がいた。大学の皮膚科教室の旅行団であった。当時は、十日町市よりバスであった。誰が計画したのか……。大変でしたねぇ!

 註‥「川津屋」の屋号は、かわづ・蛙から「加輪津屋」となり「川津屋」になったのだと言う。(越後の湯・朝日新聞連載)

(つづく)

 追記

 「穴藤」という集落・村の名称は旧くから在ったと言う事は聞いていたのですが、いつの頃からであったのか、調べてみました。津南町公民館に「現在の穴藤は、穴藤、下結東と言い方に二つあるようですが、穴藤と言う名称になつたのいつの時代だったのでしょうか?」と、聞いてみました。この問いに「津南町誌をご覧ください」との教示があり、町誌を読み直して、判りました。実は、前に秋山郷を書いた時に、津南町誌を調べていたのですが……。調べ損ねは悲しいものです。「穴藤」の名称が文書上に見られる古文書は、元禄7年(1694)に書かれた「妻有組村名書上帳」。この文書に「穴藤村・枝村無之」と記載されてありました。書上帳には当時の村々が書き並べてあり、村の新田開発も記されてありました (津南町誌)。又、平凡社の日本地名辞典1986年刊には「穴藤・赤沢村枝村・中津川左岸にあり。正保国絵図1644〜1648年には、下結藤村・高三石余」とあります。昭和30年、町村合併で、通称津南南郷六ケ村が合併、津南町誕生、この時も、「穴藤」と記されてある。中世「妻有荘」「波多岐」荘園時代から、近世の高田藩、幕府領時代に到る頃には既に「赤沢村・枝村穴沢」とされている。これからみて、鈴木牧之の「秋山紀行」にある「下結東」は通称であったのでしょう。鈴木牧之が秋山に入ったのは文政11年(1828)で「妻有組村名書上帳は元禄7年(1694)に書かれているので「穴藤」の集落は、約130年前にはその名称で在った事になります。

 穴藤集落は、現在戸数10戸余、しかし、中世から近世初期には、30を超す家があったといいます。又、大正8、9年頃には、発電所工事のため、3千人を越える人々が動き廻り、寝起きしたのであった。こんな歴史が面白いのです。

 鈴木牧之は、「……川西の下結東ハ往ずして横にながめ、やや見玉村の持山近くなりぬ」(鈴木牧之全集上巻・秋山紀行)と記し、下結東穴藤には立ち寄っていないのです。

 津南町公民館のTさんから、津南町教育委員会・郷土研究サークル「津南郷の地名」に「結東と穴藤」の記載があると教示を受け、FAXで記事を送って戴きました。感謝いたします。次のようです。

 「結束と穴藤」

 「ケットという実に奇妙な地名である。喜田吉博士の説によれば、ケットは毛人の意で蝦夷人(同化しない人々)すなわちアイヌ人種を示し、マットは心具人、つまりマビトの本当の日本人・日本民族をさすというアイヌ人種は、多毛人種で白色人種の一種である。わが国は太古、全国津々浦々に住んでおり、迫々、大和民族と同化したり、または迫り拂われて山奥の不便の地に住むようになり、後世にまでその遺跡として残っている所がある。秋山には‥・(略)村名ができたころには、きっと内地に二つの異民族が生活していたのであろう。地域の人とは結東を「カミケットウ」といい、穴藤を「シモケットウ」と区別している。文字は異なつても、音読みにすると、前述のケットとなるからであろう。」

 余談でありました。

 

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ひとりわんこそば  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 11月初めに学会で盛岡に行きました。片道で上越・東北新幹線を乗り継ぎ4時間あまりかかります。遠いです。出発の前夜に急遽、インターネットで情報調査を…いまだに直前準備の「泥縄」派です。

 盛岡名物といえばわんこそばが有名。なんと冷麺も名物だそうです。今回まで全然知りませんでしたが。昼の観光ができない分、夜の食事はせめてこれらの名物を食べようと決意しました。どこかB級グルメ的ですから、ウチの財務大臣に相談してもお許しが出そうですし。

 まず学会前夜の第一夜はわんこそばでスタートです。老舗のA家本店と決めました。なんと観光マップで見てみると夜は八時までの営業ではないですか。あわててタクシーに乗り、中ノ橋通りへ。

「いらっしやい。」

「ひとりですが初めて盛岡に来て、わんこそば体験したいんですが。」

「だいじょうぶですよ。じやあ、お二階へどうぞ。」

 大きな座敷に長いテーブルが並びます。場違いを実感しながらぼつりと一人で座ります。首から汁はね対策用の前掛けをし、薬味、つまみの小鉢、小皿が並ぶと、つい条件反射でお酒を注文。(中津川という地元の冷酒でおいしい。)

 店のお姉さんと中年客の一対一の珍妙なわんこそば食いの場面です。おまけにこの男は蝶ネクタイなぞして、酒のグラスを傾けている。わんこそばを食べては、つまみに箸を伸ばし、お酒を飲み、またわんこそばを殴りこみます。

「なんだか。ゆっくりペースですまないね。」

「あ、ちょいさ、じやんじゃん。…いや大丈夫ですから。…あ、ほらさ。」と丸眼鏡の人のよさそうな仲居さんが、合の手を入れながら給仕してくれます。わんこそばはつゆが少しくぐらしてある小盛。その15杯がざるそば一枚相当のそばの分量とか。ふつうの男性では60杯平均と聞けば、それ以上はぜひ…と思います。兄が去年盛岡出張の際に69杯食べたそうです。ただし薬味は物足りないとてんぷらを2人前別注文。兄はオカズが少ないとだめなタイプで、わたしを上回る巨漢です。

 「店の人も69杯はざらだが、てんぷらまで食ったひとはいねえ、と驚いていたのさ。が、は、は。」

 わたしは75杯で、ドクター・ストップ。(と言っても、自分自身ですけどね。)旅枕で夜に胃が重苦しいのはいやですから。静かな蕎麦会席膳なぞが似合う年齢になったのを実感しました。

 やがて哀しきとでも言うべき「ひとりわんこそば」の果てた直後。なんとこれまた一人でわんこそばに挑戦という若者が、新たに隣の席に登場。全国を自転車旅行中だとかのハンサムボーイでした。

「もう少し早く来てくれると二人でにぎやかにやれたのに、残念。」と言い、わたしはそば茶を啜りながら見物です。

 早い、早い、真剣です。噛まずに飲みます。百杯を越えて初めて薬味に手を付けました。すごいです、若いということは。結局225杯で終了でした。彼は野宿の予定が同情した仲居さんに泊めてもらえることになり、うれしそうでした。

 盛岡冷麺は翌日に駅前のM亭にて食べました。まず和牛のカルビ焼、生ビールで攻めておいて、冷麺をいただきました。これは文句なくおいしく、辛味が苦手でない方は機会があればぜひお試しください。

 晴れた盛岡市内から見える岩手山もすでにきれいな雪景色でした。

 

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