長岡市医師会たより No.276 2003.3

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。

もくじ
 表紙絵 「早春の河川敷」    丸岡  稔(丸岡医院)
 「私の庭に集る鳥たちに想う」  吉田 鐵郎(吉田病院)
 「輪廻転生〜その1」      岸   裕(岸内科消化器科医院)
 「山と温泉48〜その35」     古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「開放型病床をめぐって」    理事 富所 隆
 「新会館事業の動向〜その10」  会館建設委員会委員長 大貫啓三
 「同好の士現る」        郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

早春の河川敷(水梨)   丸岡 稔(丸岡医院)

私の庭に集る鳥たちに想う  吉田 鐵郎(吉田病院)

 我が家の屋上ガーデン20坪には小鳥が来る。

 今年は雪が多く餌がないのか小鳥がしきりに来る。雀、四十雀、きじ鳩、むく鳥、うぐいす、鶺鴒、ひよどり、鳥、他に名も知らぬ小鳥たちが。

 雪で地面が隈なく掩われてしまい餌を探せないのだ。気の毒なのでパンの耳を買って来て細かく切って撒いて置くと、来るわくるわ、一時40羽近くの雀が来て早朝からチュンチュン鳴いてうるさい。雀は警戒心が強く、餌を夢中で啄ばみ乍らも決して油断していない。家の中で私が一寸動いてもパッと反応して逃げる。

 つがいの鴬が来たのは嬉しかったが、2月はじめからはたと来なくなった。幼鳥だったせいか無防備で、私が覗いても悠々と餌をつついて逃げない。蜜柑が大好きである。

 地上で餌を採る習慣を私が教えてしまったから、恐らく鳥に狙われて食べられてしまったのであろう。

 折角の初音を聞く楽しみが消えてしまい残念である。野鳥に餌を与える事はどうもよくないようだ。

 雉鳩は独得の郷愁をそそる声で鳴く。昔は山にしか居なくて山鳩と呼ばれていた。

 最近長岡は雀、燕、鳩が減って、猛烈な勢いで繁殖しているのが烏である。

 S教授の奥様は烏が黒いからと云って、いじめてはいけません。とおっしゃる。成程道理であって返す言葉もない。私も色が黒くて子供の頃、醤油団子と浮名されていやだった。

 又烏の鳴き声は悪くて不吉だと云って嫌う人が多い。これは囁の太い「はしぶと鳥」が声が悪いので、他種の烏に責任はない。私も子供の時からの嗄声でいい声でないから、この点では鳥に同情している。

 その鳥の殖え方は将に異常である。

 2〜3年前から夕方、日没から黄昏が迫る頃、北西方向より空を掩って飛来する烏の大群は、ヒチコックの映画「鳥」を思わせて恐ろしい程である。私が双眼鏡と白血球計算器を用いて我が家の屋上から数えた結果は、長岡駅から北へ新幹線の二重ケーブルの上に、少ない時でざっと三千羽、多い時は七千羽がびっしりと止っている。長岡駅周辺のビルの屋上、駅南側迄数えれば恐らく一万羽近くいるに違いない。夜だけだから人目につかない。

 こんなに多い鳥の群が新幹線のケーブルに止まって夜を敵に襲われる事なくすごす。これが毎晩続くのだから問題である。

 又屋上にたれ流す白色の糞便は直径5cmアルカリ性でコンクリートを腐蝕させている。

 たまに小鳥にも栄養をつけてやろうと、骨付き腿肉の食べ残しを置いてやると、何処で見ているのか、あっと云う間に鳥が持ち去る。

 農家の方々が畑に種を播くと、正確に見つけてほじって食べる。丹精こめて漸く出来た野菜を食べちらす。

 梅の実、柿、林檎のたぐいも、もう2〜3日で食べ頃だと思っていると、一足早くやって来てかすめ取って行く。

 烏は集団で行動するから天敵はいない。

 他の鳥のひなを殺したり、卵まで盗んで食べる。まさに強盗の大集団で私は烏を好きになれない。

 鳥の悪業はまだまだ続く。電力送電線に鳥が群れをなして止まり、巣の素材を接触させ、ショートさせた事件がおきて、年間数億円の対策費がかかっている。

 ふえる鳥にたまりかねた東京都は烏対策として、年間一万羽捕獲作戦を展開中であるが、あのずる賢い烏に通用するだろうか?

 捕獲出来たとしても皆殺しにするのも可哀想だ。

 烏の知能指数は高くて我が家の庭に来た時、家内が迫っても逃げない。私が大声を出すと悠然と逃げる。処が玩具のピストルを向けるとバッと逃げる。

 カラス博士藤田昭栄教授の言を借りれば、烏の知能指数は人間、イルカ、チンパンジー、猿、鯨についで6番目で、学習能力、記憶力ともに抜群によいと云う。ただ辛い物が大嫌いなので、ゴミ収集袋の内側を辛い物質でコーティングする技術を開発中であると云う。

 併し烏をふやし過ぎて公害に迄してしまったのは我々人間である。

 人間が贅沢になり、どんどん食べて食べ残しをだらしなく捨てるから、彼等はゴミ箱から溢れている餌を充分食べて子孫をふやしているのである。

 これを防ぐには徹底的な兵糧攻めしかない。残飯を出さない。出た残飯を収納出来る大きな箱を沢山用意する。これをしっかり管理する。

 大阪府はゴミ収集を午前3時にやって、早起きの鳥の朝食をなくして、鳥退治に成功したと云うが、とは云ってもゴミ処理を午前3時にやる清掃員を雇えるだろうか?

 烏がこれ以上ふえて生態系が崩れて、長岡の空が黒い鳥で掩われて、可愛いい小鳥の囀が聞かれなくなるのは淋しい。鳥にも云いぶんがあると思うが、あん畜生め何とか減らす方法を本気で考えなければいけないのではなかろうか?

 食物を街の中に無くしてやれば、追わなくても烏は餌のある山や森へ帰り、少なくとも異常な繁殖は喰い止められると考えるが、いかがなものでしょうか。

 

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輪廻転生〜その1  岸  裕(岸内科・消化器科医院)  

 ぼん・じゆ〜る編集委員の先生から「何か楽しい話を」とのお手紙を頂いたので、去年の家族旅行で行ったタイの事を。この寒いのに夏休みの詰も無いかもしれないが、まあ常夏の国だからいいか?

 と言うわけで、それは「夏休みの旅行、タイに行かない?」という家内の言葉で始まった。英語が胆のう、いや単脳(どうなつているんだ、このワープロは?)、堪能な私は子供達の英語教育を兼ねて英語圏へ、と目論んでいたのだが、それを尻目に女房殿はつぎつぎとパンフレットを収集していたようであったが、意識的にか皆、非英語圏のものばかり。

 言い出したら聞かない女房殿の気性を心得ている私は、オーストラリア、ハワイ、グアム、サイパンなどの資料収集をあきらめて東南アジアの旅行本をまず数冊読んでみた。ところがこれがなかなか面白い。ちょいとすました西欧旅行記などよりはこっちのほうがずっと肌に合う。身近で生き生きと、ナマナマしく?、魅力的。まあしばしば食いたくなるのはフランス料理よりは、ラーメンや寿司のほうかもね。

 「タイ人は旅行者には友好的で、ニコニコと微笑みの国」「はっきりと断らないので本音に気付くまでに何回か手間取る」「王室を大変に尊敬している」「同じ仏教国である」「外国の植民地であったことが無いから英語が下手」「王室は”アンナと王様”に代表されるようにイギリス王室を模範としている」「人件費が安く、物価がとても安い」「屋台に代表されるような外食の料理がとても安くておいしい」「バンコクにはとってもオカマが多い」「そしてそんなことはだれも気にしない。そもそもタイ語には”男性的”というような言葉自体が無いこと(本当か?)」などなど。いいじゃないの。

 始めは気乗り薄だった私もだんだんその気になつてきて、遂に昨年8月のお盆休みには家族3世代6人そろって新潟空港から機上の人となったのでした。乗り込んだ大韓航空機は新潟−ソウル便で、周りは日本人旅行者で一杯。こんなに大勢タイに行くのか、と思ったがほとんどの人が韓国への旅らしく、ソウルでバンコク行きの便に乗り換えると日本人客は私達だけで周りは皆韓国の人ばかり。韓国の男達は男性的イメージを大切にするということでほとんど笑ったりすることは無い。ちょっとこわいくらいである。もちろんそれも立派な文化だと思いながらしばらくそのなかにいると、しばしばニヘラニヘラと愛想笑いを浮かべている自分がまったく馬鹿みたいに思えて来さえする。

 バンコクの空港に着く。日いっぱい観光と食事の付いたバンコク・アユタヤ5日間のツアーである。交通費、食費は極めて安いので観光ツアーや食事は付けても付けなくても大して違わない。それでも移動のバスは大型2階建てで2階部分だけを20人ほどのツアー客のみで使用する。だからひろびろと良く冷房が効いていて快適。空港、ホテル、バスの中は快適だが表に出るときつい日差しとまとわりつく湿気が熱帯であることを再確認させる。タイの観光のベストシーズンは1〜2月で、そのときは爽やかだそうです。(要するに今、8月は最もなんぎな季節らしい)ガイドはすばらしく日本語のうまい中国系タイ人のブーン・チャイさん。「ミナさま。ブンちゃんとよんでくださーい。」と愛想よくニコニコと東洋的微笑みをたやさない。やっぱり僕はこの暖味な微笑みの方に親しみを感じるな。ちょっとあやしげな日本語とこちらが忘れ去ってしまったような丁寧な日本語が入り混じって、いやが上にも異国情緒を盛り上げる。ブーン・チャイさんは大学は日本語科卒業とのこと。

 バンコクは大都会で交通渋滞もすごい。が、高架道路のすぐ下の脇道を調教師を乗せた象がのどかに駆け回っていたりする。感心してバスの窓から眺めていると”あの象かわいそですねえ。山から連れてこられてたいして餌も貰えないで調教されたりものはこびさせられたり”とのこと。

 そのブーン・チャイさんのガイドよろしく、三島由紀夫の暁の塔の舞台となつたワット・アルン、金びかのエメラルド寺院、王宮や皇室貴族の別荘を見て回り、チャオプラヤ川(王様の川の意味でバンコク市内を貫き海にそそぐ大河−慢性的な交通渋滞となっているバンコクではこの川はいまでも重要な交通路として大小さまざまな船が気ぜわしく行き交っている。)をクルーズしたり、象に乗ってアユタヤの遺跡を巡ったりと暑さも忘れる素晴らしさ。結構楽しめました。特に白い陶器の飾りを貼り付けた巨大なパゴダが立ち並ぶワット・アルンの美しさは近くにいって登ってみても、船上からその朝日にきらめく様を眺めても素晴らしいとしか言いようが無く、筆舌に尽くしがたい。

 そんなわけであっというまに最終日前日のナイトツアーとなつてしまった。屋台の灯りとあの食欲をさそう焼き魚系の匂いのただよう夜の街にくりだした人、タイ式マッサージに行ってみる人、ムエタイ(タイ式キックボクシング)を見に出かけた人などさまざまでしたが、私達は「バンコクに来たら是非見てください。子供さんもOK。きれいですよー。ここのが一番面白い。」と言うブーン・チャイさんの言葉に乗せられて、「見てみたいねー」「行ってみるか」とミーハー的興味を抱きつつニューハーフショーを申し込む事にしたのでした。(つづく)

 

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山と温泉48〜その35  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

 結東温泉

 現在、結東集落は、旧く上結東と呼ばれていた。これに対して、前記の穴藤は川の下手になるので、下結東と呼称されていた。地籍は、津南町結東。この地域は広い。結東子(結東)・結東丑(逆巻)・結東寅(前倉)・結東卯(横根)・結東辰(大谷内)・結東巳(下日出山)・結東午(上日出山)。

 鈴木牧之の「秋山紀行」の中の「秋山之図」には、上結東・二十九軒、清水川原・二軒、三倉(見倉)・三軒、前倉・九軒、中ノ平・二軒(現在、この名称の集落は見当たらない)、大赤沢・九軒、甘酒・二軒(現在はこの集落は無い。大赤沢集落より東、硫黄川を遡った処に在ったものと推定される)。更に、湯本(切明)迄記載されてある。秋山に鈴木牧之の入った文政二年(1828年)、既に大赤沢迄が越後側の支配となっている。中でも、この結東村は、可成り広大な地域で、結東九ケ村と呼ばれていたようです。

 温泉は、結東の中心部、結東集落に平成三年、観光施設「萌木の里」が建設され、其の一部として、開湯されたもの。平成四年、同じ結東集落の入口に「かたくりの宿」が開湯された。「かたくりの宿」は、廃校になつた小学校の跡に造られたもの。二階への階段に「津南町五結東分校」と、白いペンキの文字板が飾られている。いずれも新しい温泉。泉源は、昭和62年(1987年)700米掘削されたもので、40度、両施設に給湯されている。(新潟温泉風土記より)この泉源は集落の断崖の下にあるという。「かたくりの宿」前の国道沿いに、「結東苗場郵便局」がある。結東郵便局をわざわざ「苗場」を入れて名称としたのは面白い。この結東中心集落は、深い中津川渓谷に叩き堕ちるような急斜面、山腹の僅かな平坦な土地にある。旧くこのような土地を見付け、そこに住居、暮らしの施設を造り上げた人達の悲惨が眼に見えます。中津川渓谷左岸、川西のこの集落は、背後頭上には鳥甲山(2037m)が聳える。この鳥甲山は、東側に深い渓谷を作り、西側には緩やかな山腹が、平坦な山麓を作りながら、信濃川・千曲川に向かい下る。平坦な地形は牧場に適しているのでしょう、幾つかの牧場があり、北海道の牧場かと錯覚するような地形が観られます。

 前項の逆巻温泉「川津屋」看板前の国道405号線を過ぎ、下りにかかると、道幅は広くなり、間もなく路は左右に岐れる。右折は、コンクリート橋を渡り結東へ、左折は、平成11年完成の国道405号線バイパスで、中津川右岸東側山腹を、見倉・見倉風穴・見倉トンネルを通り、大赤沢集落に直接通ずる車道。通勤者用に造られたものらしく、道路幅は広く危険なところはトンネルとなり、国道を行くよりはるかに安全、時間的にも短い。しかし展望はない。観光は風穴があり、登山は小松原湿原を経て苗場山登山の登山口となっています。但しこのバイパスは、バス道路になっていません。国道を右にとり、橋を渡って急坂の狭い路を3、4回廻りながら上がると、結東集落に入る。入るとすぐに、左に結東苗場郵便局、右に二階建ての学校校舎風の「かたくりの宿」がある。集落の他の家々の殆どが、急斜面に建てられているが、宿の前だけは広く平坦で、駐車場になっている。冬期の生活が思いやられる。ここは結東村の中心。国道を更に進む。大きく上りながら廻り込むと、「萌木の里」の看板が見え右折、急斜面を上ると平坦な広場に出る。山の階段上の平坦地を利用したものでしょう。渓谷とは思われない広い空の下に「栃の実館」(売店・レストラン・内風呂)があり、更に、宿泊棟五棟、露天風呂一ケ所が点在する。展望は言う事なし。宿泊は、離れ屋となっているので、利用方法が色々あるようです。湯の温度は適温と言うが、私は入山沿していないので入浴された方はお聞かせ下さい。

 

註 最近は、温泉と冷泉の区別がつかなくなり、温かければ温泉になって仕舞いました。それと一緒に温泉がプールになりました。二年位前から、循環湯の話が新聞、雑誌に記載され、話題となってきました。レジオネラ菌感染が引き金になったわけです。この騒動がなくとも、銭湯には塩素投入はあったわけです。温泉では、塩素投入で、その薬効がどれただけ変化するのかの表示も説明もない。更に、消毒剤や殺菌剤の投入もやっているとの報告もあり、掛け流しの温泉が欲しいのですが。温度の高い温泉は大丈夫といいます。いずれ、調べてご報告します。

 

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開放型病床をめぐって  理事 富所 隆(長岡中央綜合病院)

〜オープンシステムに関するパネルディスカッション報告〜

 いよいよ4月1日より始まる開放型病床の運用に先立ち、2月27日会館青善にて表題で長岡市医師会主催のパネルディスカッションが開催されました。周辺の医師会の先生方も参加され、予想を上回る100名を超す方々の参加をいただき、その関心の高さに担当理事として身の引き締まる思いを致しました。

 さて会議は、冒頭、斎藤良司医師会長より開放型病床運用にあたる医師会の基本姿勢について挨拶をいただき、佐々木公一副会長の司会のもと5名の演者の基調講演で始まりました。長岡中央綜合病院の殷熙安先生、立川綜合病院の阿部博史先生は開放型病床の意義、開設までの経緯、実際の運用方法などについて説明いたしました。鈴木内科医院の鈴木丈吉先生は自らの専門を生かした病床利用の可能性について、玉木整形外科クリニックの玉木満智雄先生は、訪問診療はその時問的な負担から難しいとしながらも、医療機器の共同利用や、精密検査などにその利用の可能性があることを話されました。済生会第二病院の登録医である、さとう内科・青山クリニック(新潟市)の佐藤万成先生は、副主治医として病院で診療に加わることで患者さんに安心を与えることができることを力説されました。

 5名の基調報告の後、会場を交えて質疑に入りました。具体的な運用に関する質問や、入院した患者さんの顔を見に行くことには賛成だが、そこに診療報酬が発生することに抵抗をおぼえるという意見が述べられました。

 最後に、長岡にはすでに全国に誇るべき輪番制の救急体制が布かれており、今更開放型病床が必要なのかという意見もありますが、これは病診連携を更に強化する一つの手段にすぎず、病院と診療所の垣根を取り払うためのステップと考え、ひいては地域の住民により質の高い、安心な医療を提供する為の方法と考えて参加していただきたいと呼びかけて、約2時間半にわたる会を終了いたしました。

※掲載写真は省略

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新会館事業の動向〜その10  会館建設委員会委員長 大貫啓三

地鎮祭、そして着工

 平成15年3月1日(土)大安の日に、新会館建設工事安全祈願のための地鎮祭が挙行されました。

 お昼頃よりポツポツと降り出した雨が午後2時の開式の頃には本降りとなり、あいにくの天候でしたが、建設関係では「雨降って地固まる」ということでとても縁起が良いということでした。

 ご来賓の森長岡市長、二澤助役さんを始め、本会から齋藤会長以下役員、建設委員会関係者等28名、設計監理チーム4名、鹿島建設から徳田北陸支店長以下10名余のご出席を得て、蒼柴神社の永井宮司の執行により神事は厳かに行われました。

 当日の次第は、以下のとおりです。

 一、開式

 一、修祓

 一、降神の儀

 一、献饌

 一、祝詞奏上

 一、切麻散米

 一、地鎮の儀

    刈初の儀式(斎鎌)

    穿初の儀(斎鍬・斎鋤)

 一、玉串奉奠

 一、撤撰

 一、昇神の儀

 一、閉式

 一、御神酒拝戴 

 地鎮の儀の、刈初の儀(斎鎌)は設計チームから、穿初の儀(斎鍬)は齋藤会長と鳥羽先生、関根先生、高橋先生の歴代会長から、同じく穿初の儀(斎鋤)は森市長と鹿島建設徳田支店長から行っていただきました。

 約40分ほどで神事は無事終了し、公務により退席される森市長から御挨拶をいただいた後、直会(なおらい)※の会場へと席を移しました。

 直会では、齋藤会長の挨拶の後、設計監理チーム代表の小川氏、鹿島建設徳田支店長から御挨拶をいただき、鳥羽先生の発声による乾杯で宴が始まりました。終始和やかな雰囲気のなか時は過ぎ、関根先生の中締め、高橋先生の本締めでお開きとなりました。短かい時間ではありましたが、設計チーム、鹿島建設の方々とじっくり歓談することができ、今後の連携に大いに役立つものと考えております。

 いよいよ着工です。

 3月20日現在、現地では基礎工事が着々と行われておりますが、実際に現場を目の前にいたしますと、いよいよ始まったという実感とともに改めて身の引き締まる思いがいたします。どうぞ、会員の先生方も積極的に工事状況をご覧いただき、気のついた点などありましたら医師会の方へ是非お寄せいただきたいと思います

 なお、現場事務所では週一回設計監理チームと鹿島建設との打合せが開催されており、最低月一回は当医師会からも出席して経過報告を受けたり、必要な協議を行うことにしております。

 

※編集部注 直会(なおらい)…神事が終わって神酒、神饌をおろしていただく酒宴のこと(広辞苑より)。掲載写真は省略しました。

 

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同好の士現る  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 夕方の病棟回診で、「先生に電話が入りました。」とK看護師長に受話器を渡されました。(婦長と従来どおりに呼びたいなあ。「看護師」より「看護婦」がことばとしては絶対に好きですね。)

「交換手さんから(某お役所の)K所長さんからのお電話ですって。」

 その医療管理系の某お役所もこれまた今風に言うと、けっこう実態不明の長い名前になるわけです。

−えっ、なんの用件だろう?

 先日のなんとか助かってくれたインフルエンザ脳症の届出の件? 感染症サーベイランスの件?

 電話のお相手が以前大学で教鞭をとられておられた時代に教えていただいて以来、知己の仲のお方です。それでも先方がお偉い立場の方ですので、こちらは思わず緊張いたします。

「はい、もしもし、お電話替りました。Gでございますが…。」

「ああGさん、わたしKですが、ごぶさたですね。いつも医師会報ぼん・じゆ〜るは楽しみに読ませていただいております。届くとまっさきに裏返して、先生のエッセイを読みますくらいでしてね。」

「ああ、ありがとうございます。」

−ところで本題は??ドキドキ…。

「じつはですねえ、先月号で”剣客商売”のこと書かれましたよね。」

 先月の本欄で確かに池波正太郎の”剣客商売”のことをわたしは書きました。それがなにか新潟県の医療行政上の問題にでも波及して・・・わけはないですよね。

「そこにテレビ時代劇も同好の士がいて見ると、さらに楽しいとありましたよね。その、わたしも同好の士でありまして、また我が家の家内も同じく大好きでしてね。」

 なんでも有料のPテレビで「時代劇チャンネル」なるものがあり、そこで放映された”剣客商売”のシリーズを録画して、K先生のお宅では愉しんでおられるのだそうです。その気があればごらんになりませんか?というのが、かいつまんだ電話の用件なのでありました。

−なあんだ、一挙にほどける緊張。

「ぜひ見せていただきたいです。」

「じゃすぐに病院にビデオ届けますから。奥さまが二枚目の俳優が好きだとか、書かれましたよね? この古いシリーズは、息子の大治郎が主役なんでして、その配役が加藤剛ですから、奥さまにぜひ見ていただきたいとお伝えください。」

 切れた電話の向うに、あわてて頭を深々と下げたのでありました。

 1巻に11話ずつの番組が入ったビデオが2巻、その後届きました。これはすごい家人へのお土産です。翌日の土曜日の夕方から二人でビデオ鑑賞会であります。3時間ほどで休憩にしました。

「後は明日にしようよ、この”剣客商売”もとても面白いけれど、見るのに疲れたでしょ?」

「ううん、でもいつまで借りていていいの? はやくお返ししないといけないんでしょ?」

「ああ奥様が録画されたのをね、なんとK先生、おんみずから圧縮ダビングしたとおっしゃっていたから、返さなくていただいていいんだよ、これ。」

「うれしいよー。」と、女房のお春の口調をまねる家人でありました。

「K先生って、なんて親切なよいお方なんだベー。」とにっこり。

 家人も「ぽん・じゆ〜る」の本欄脇役で登場してずいぶんになります。

「そのおかげでこんなにすてきな目にあったのは、は・じ・め・て。」

 

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