長岡市医師会たより No.278 2003.5

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もくじ
 表紙絵 「新緑に映える大源太」  内田 俊夫(内田医院)
 「開放型病床を利用して」     大貫 啓三(大貫内科医院)
 「私もピアノを始めました」    小林眞紀子(小林医院)
 「緑の蛇」            宮村 治男(前長岡赤十字病院)
 「蒲団」             渡辺 正雄(渡辺医院)
 「長岡市大荒戸の長谷川病院」   田中 健一(小児科田中医院)
 「新会館事業の動向〜その12」  会館建設委員会委員長 大貫啓三
 「バラ戦争と夢のバラ」      郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

新緑に映える大源太   内田俊夫(内田医院)

開放型病床を利用して  大貫 啓三(大貫内科医院)

 平成15年2月27日、会館青善において「オープンシステムに関するパネルディスカッション」が佐々木副会長の司会のもとに開催され、多くの会員が参加し活発な討論が行われたことは皆さん御承知の通りです。

 これらの討論を踏まえ、4月1日から長岡中央綜合病院と立川綜合病院の2病院において、オープンシステムがスタートを切りました。4月一杯は、いわゆる「お試し期間」として開放型病院共同指導料は算定出来ませんが、この期間中に3名の患者さんを開放型病床に入院させていただきましたので、その経験をご報告いたします。

 先ず3名の患者さんの概略をご紹介いたします。

 第1例目は76歳の男性で、当院では糖尿病で、立川病院では冠撃縮性狭心症で診ております患者さんです。4月4日に38度台の発熱と軽い咳吸を主訴に来院されました。聴診上、右背部にラ音を聴取し、胸部ィ線撮影で右下肺野に浸潤影を認め、糖尿病もあることから入院加療が必要と判断いたしました。立川病院の病診連携室に連絡を取り所定の用紙に必要事項を記入してFAXし、開放型病床への入院を依頼いたしましたところ、快く引き受けて下さいました。4月5日出の午後1時に回診に行って来ましたが、この日は立川病院が休診日であるにもかかわらず、救外受付で病診連携室の方が待っていて下さり、白衣と名札を用意していただき、4階の病棟へ看護師長の案内のもとに連れて行っていただきました。主治医の出雲先生の病状説明を受け回診いたしましたが、患者さんは熟も下がり元気になつておられ、私が行きましたら大変喜んで下さいました。一通りの診察をして帰って参りました。患者さんは、4月12日に退院なさいました。

 2例目の方は、60歳の女性の方で基礎疾患としてSLEと心筋梗塞がある方です。4月12日夜中より39度の発熱と全身倦怠感が出現し来院されました。検尿を行いましたところ、尿沈直に白血球が無数に見られ腎孟炎による発熱が最も考えられました。抗生物質の点滴を行った後キノロン系抗菌薬で外来で診ようと思っておりましたが、点滴終了後も発熱は下がらず待合室でも横にならなければならない状態でした。基礎疾患もあり、とても家には帰せないと判断し、立川病院の開放型病床への入院をお願いいたしました。4月15日の午後に立川病院に回診に行き主治医の津畑先生から病状説明を受けた後回診いたしましたが、熟も下がり大分お元気になつておられました。この方も4月22日元気に退院されました。

 3例日の方は、84歳の男性の方でパーキンソン病、甲状腺機能低下症、糖尿病などで往診にて診ている患者さんです。この方は4月17日にデイサービスから帰ってきてから悪寒が出現し40度の発熱を来したそうです。4月18日には熱も下がり咳嗽や喀痰の排出もないが元気がないとのことで家人から電話をいただきました。タクシーで来院していただき、診察いたしましたところ右背部にラ音を聴取し、胸部ィ線撮影では右下肺野に比較的広範囲に浸潤影が認められました。長岡中央病院の八幡先生から御紹介いただいた患者さんでもあり、長岡中央病院の病診連携室にお電話をいたし開放型病床に入院させていただきました。4月21日と4月28日の2回、回診に行って参りました。先ず医局の病診連携室に顔を出し白衣とネームプレートをいただき、病棟看護師長さんの案内で回診いたしました。2回とも主治医の佐藤(英)先生の病状説明を受け、2回目にお伺いしたときは、多数の大腸ポリープがあり、いちどきに取り切れずに残っている大腸ポリープのポリペクトミーも入院中にお願いしたい旨をお話いたしましたところ、快くお引き受けいただきました。この方も5月7日元気に退院されました。

 以上、3名の患者さんを4月一ケ月で開放型病床に入院させていただきましたが、ここで開放型病床を利用しての感想を少し述べてみたいと思います。

 先ず第一に感じますことは、開業医にとって開放型病床の存在は非常に心強いということです。外来に患者さんが、肺炎や不明な発熱、イレウス、重篤な心疾患、突然の脳血管障害などで来院されたときに、今までならお忙しい病院の先生に直接電話で病態を申し上げ、入院を依頼するのが常でしたが、開放型病床に入院させていただく場合は、病診連携室にしかるべき方法で連絡を差し上げ入院をさせていただくことが出来ます。何よりのメリットは、開業医が入院が必要と判断した患者さんは必ず入院させていただけるという安心感です。反面、入院が必要か否かを判断するのも開業医ですから、的確な判断を要求されることは言うまでもありません。

 次に今回開放型病床を利用させていただいた期間はいわゆる「お試し期間」で、患者さんに開放型病院共同指導料の請求が出来ない期問でしたが、指導料を請求することになれば入院時にしっかりと患者さんにそのことを説明する必要があります。特に肺炎のような急性期の病気で、退院後の治療を必要としなくなるような疾患ではなおさら請求しにくくなるように思います。しかし5月からは、保険の規定に則り出来るだけ徴収するようにと思っております。

 次に病院側の対応ですが、職員ならびに担当医ともにすばらしく、病院側のこの制度に対する意気込みが感じられました。このままの状態をいつまでも保ち続けていただきたいと思います。

 次に回診に行ったときのカルテへの記載等について少し述べたいと思います。保険請求上、開業医が病院に行って患者さんを診察したことの証明をお互いのカルテに証拠として残しておく必要があると思われます。長岡中央病院では、自分の意見などを記載する3枚綴りの開放型病床共同診療録があり、1部は開業医の診療録に貼付することが出来ました。立川病院の場合は、2名の患者さんの場合とも来院医師一覧表に署名するだけでカルテに貼付する書類には記載しませんでした。やはりカルテに証拠を残しておく必要があるのではないでしょうか。

 以上長々と書きましたが、今回開放型病床を利用してみて最も強く感じたことは、病院との連携の中で、開業医はここに来て新たな「最も強力な安心」を手に入れることが出来たということです。

 

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私もピアノを始めました  小林 眞紀子(小林医院)  

 「ぽん・じゆ〜る」先月号の田村隆美先生の「ピアノとの出会い」を拝読し、嬉しくなつてしまい、ついつい私も投稿してしまいました。

 実は、私も今年の一月からピアノのレッスンを始めたのです。切っ掛けは「御嬢さんとピアノの連弾をなさいませんか?きっと来年になるとお母さんより遥かに上達されていると思うので今年の発表会が、一生にたった一度のすばらしい想い出になるとおもいますよ!?」とのピアノの先生の一言でした。娘は今年中学一年になります。「モーニング娘のような曲を弾けるようになりたい」との娘の一言から現在のピアノの先生と知り合いました。連弾が目標でしたので「暢気に取組めばいいさ」と最初のうちは考えておりましたのに、現在は夢中です。朝起きては弾き、帰宅しては弾き、まるでピアノに取付かれているかのようです。小学校時代に少々手解きを受けましたが、当時は両親に勧められて、何となく通っていた覚えがあります。まさか現在のようにピアノの虜になろうとは想像もしていませんでした。ピアノに向かっている瞬間は、現実とは全く別世界で、仕事の事も含め、日常の煩わしさなど全てを忘れる事ができるのです。主人に言わせると以前よりも愚痴が少なくなったとのことです。実際のところ愚痴る暇が無くなったというところでしょうか?

 四月某日、目標としていたピアノの発表会がありました。前日まで必死に練習し、当日は二人ともドレスアップして本番に向かいました。その成果は?というと、娘は普段よりも遥かに落ち着いていたにもかかわらず、私の方は頭の中が真白になってしまい、曲の途中から、やり直しをさせてもらうような結果になってしまいました。終了後、私は恥ずかしさでいっぱいでしたが、主人、娘からは、「お母さんも上がる事があるんだね。まだ可愛いところが残っているじゃないの」とからかわれたり、励まされたり。数日前からやっとショックから立ち直り、二年後の発表会に向けて、レッスンを始めました。ちなみに連弾で演奏した曲は「チム・チム・チェリー」と「ミッキー・マウスマーチ」でモーニング娘とはほど遠いものでしたが、娘も私もステキな曲だったと満足しています。発表会の演奏者の中には私が取り上げた子供さん達も何人か含まれており、気恥ずかしいような何とも複雑な思いでした。二年後には「リチャード・クレイダーマンの曲あたりが弾けたらなあけ‥」と夢は日に日に大きく膨らんでおります。そしていつの日か、田村隆美先生の演奏も聴けたらなあ!?と夢みている今日この頃です。

 

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緑の蛇  宮村 治男(中央アフリカ共和国バンギ在住:前長岡赤十字病院)

 4月のある暑い午後のこと、診察室で診療をしていると隣の部屋からドスンと何かが落下する音がした。隣室は私の「研究室」になっていて、医学書や机・椅子があり、書き物・読書・昼寝の場である。診療を一時停止してドアを開けて覗いてみると、体長が60センチくらいの細身の緑色の蛇が床の上にいた。この蛇はどうやら棚の上で昼寝でもしていて床に落ちてしまったものらしい。どこから入ってきたのだろう。私の顔を見て恥ずかしそうに身をくねらせ、こそこそとロッカーの後ろに隠れてしまった。悪いやつではなさそうだ。新潟の田舎で見る'青大将'の子どもといった感じである。この診療所には小型のトカゲ・ヤモリ等はしょっちゆう侵入してくるが、とうとう蛇の子まで入ってきたか。とりあえず診ていた患者さんの診察を終えて、さてどうしようかと考えた。新潟の田舎には蛇を神様の化身として大事にする地方もあるそうだ。屋根裏に蛇を棲まわせている農家も以前はあったという。ネズミ退治に都合が良かったのだろう。私が以前勤めていた長岡の病院では「子どもの頃は蛇をいじめて遊んでいた」という手術場ナースも確か居たっけ。蛇の子ぐらいここにおいといても構わないが、やはり不気味だ。昼寝中にまとわりつかれたりしたら気持ちが悪いし、第一私は蛇が嫌いなのだ。

 隣の建物に出向いてアフリカ人の現地職員に蛇退治を頼んだ。「おれの部屋に蛇がいる。追っ払ってくれんか。」レスラーのようにがっちりした体格のマルクが怪訝そうに聞き返す。「蛇?どんな蛇だ?」「たいしたもんじやない。小さな緑色のやつ(Serpent vert)だ。」緑の蛇と聞いて、そばにいた現地人全員の血相が変わった。最年長者のルネが手配して瞬く間に5〜6人の現地人がそれぞれ手に棒やらレーキやら得物を持って集まった。たかが青大将の子一匹を追い払うのに、これは少し大袈裟すぎやしないか、と内心思ったが黙って彼らを部屋に案内した。彼らも暇なのだ、蛇退治は午後の暇つぶしに丁度いいのだろう、と思った。「このロッカーの裏に潜んでいる」と指さすと、皆でロッカーを取り囲んだ。全員真剣な眼差しである。この人達がこんなに真面目な顔をしているのを見たのはクーデクーの内乱騒ぎ以来である。ルネの指示で一人がロッカーを引き寄せると同時にテーブルの上に立ったフィデルがレーキで蛇の頭を押さえつけた。のたうち回る蛇にマルクが棒を振り下ろした。蛇は死んだ。その場に安堵の雰囲気が漂った。ルネが私に言う。「ドクトール、この蛇を知ってるか?」「…知らん…」「最も恐ろしい毒蛇だ。これに噛まれると誰でも数分で死ぬ。」うーむ、そんなに恐ろしい蛇であったのか。大騒ぎする訳がわかった。日本の毒蛇はマムシ、ヤマカガシなど茶褐色系統の色のものが多い。緑色だったので軽く見ていたのが誤りだったようだ。後で調べてみるとこの蛇は、Bitis nasicornis(サイクサリヘビ)というアフリカのみに棲む毒蛇で、この辺ではグリーンスネークと呼ばれているらしい。けばけばしい体色が特徴とある。その蛇毒は強烈な神経毒で噛まれると筋弛緩作用から呼吸筋麻痔で死ぬことになる。この国に人工呼吸器は無いから(有ったとしても使えるのは私しかいないのだから)、確かにルネの言うとおり噛まれたら終わりとなるところであった。危なかった。日本の常識はこの地では全く通用しない、という事をあらためて感じた次第であった。

 

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蒲団  渡辺 正雄(渡辺医院)

 「春眠暁を覚えず」。有名な孟浩然の春暁詩の一節である。今では冬でも暖房をきかせて心地よく眠れる時代になつたが、昔の人は春になってからようやく快眠をむさぼることができるようになり、なかなか蒲団から離れられなかった様である。今回は「蒲団」にまつわる雑話をいくつか。

I.蒲団のはじまり

 蒲団を「フトン」と読むのは唐音である。日本に入って来た唐音の言葉の多くは禅宗関係の用語であり、「蒲団」も仏教に関わりある語なのである。

 「蒲」は植物の「がま」で、「団」には丸く固める(団子)という意味があり、座禅を行う時に使う蒲の葉で編んだ円座を「蒲団」と言った。従って座布団の方がもとの意味に近い。

 現在「布団」という書き方が常用漢字で認められているが、これは当て字であって「蒲団」の方が正しい。「布団」の表記は、現在のような綿を布で包んだふとんが出来た江戸末期から用いられたようである。江戸末期の小百科辞典「守貞漫稿」 には「蒲囲」「布囲」の両様の表記があり使い分けされている。語源説のもう一つにフタン (布単、布毯)の転じたものというのがある。祭祀調度の一つで、遷宮、遷座の時の御霊代(みたましろ)の通行又は天皇の大甞宮(だいじょうきゅう)に行幸の際、その道筋に敷く白布のことである。

 発音のなまりとして、ヒトン(岩手、鳥取)、フットン(山形)、フトヌ(岩手)などがある。

II.文学作品

 といえば田山花袋の「蒲団」がある。明治40年(1907)発表で、中年の文学者竹中時雄の内弟子横山芳子に対する恋情と嫉妬の心理を赤裸々に描き、以後の自然主義文学に大きな影響を与えた。当時としては大胆な現実曝露の表現で文壇を衝動させた。文学年表には必ず載っている名作である。

III.蒲団を用いた言葉、言いならわし

 実に多くの言葉がある。敷き蒲団、掛け蒲団、煎餅蒲団、肉蒲団、矩燵蒲団、夏蒲団、三つ蒲団、小夜蒲団、貸し蒲団 等々。

 言いならわしには次のようなものがある。

●蒲団の上の極楽責め(あまり優遇してかえつて精神的に苦痛を与えること。又じわじわと苦しめること。真綿で首を絞めると同義)

●蒲団の端を少し曲げておくと夢を見ない(日向北部の迷信)

●蒲団返し(宿屋荒し。盗人仲間の隠語)

●蒲団釜(茶釜の一つ、尻部の平らな釜)

●油揚げ豆腐(盗人仲間の隠語。蒲団のことを言う。形が似ているからなのだろうが、蒲団を盗む泥棒もいたのだろうか)

●蒲団蒸し(又は蒲団巻き。こらしめのため人の身体にふとんをきつく巻くこと)

IV.外国語

●寝具全体〔英〕bedding bed clothes 〔ド〕das Bettgeug

●敷布団〔英〕maattress 〔ド〕die Matgatge

●掛蒲団〔英〕quilt,comforter 〔ド〕die Bettecke

 欧米ではベッドを用いるので、日本とは蒲団の使い方が異なる。敷蒲団(mattress)はスプリングの入ったもので通常ベッドに附属しており、その他の蒲団もベッドに敷いたり掛けたままにしておき、いちいち上げ下ろしはしない。従って 「床(とこ)をとる」「床をあげる」という日本語の表現は、欧米の日常的な会話にはない。

 蒲団を外国語で表記してみると味もそっけも無い。日本語は表情豊かである。

V.通夜で聞いたいい話

 先日親戚の通夜に参列した時の話である。天寿を全うし他界された祖父の面倒を見ていた20才の孫娘がいた。普通、亡くなられた時に使っていた蒲団は燃やしてしまうのだそうだが、その娘さんは、私が使うから燃やさないで欲しいと懇願したそうである。きっとおじいちゃんを大切にし、そしておじいちゃんから可愛がられていたのだろう。こんなに老人を大事にする若者がいるのかと深く感動した。まだまだ日本の将来は捨てたものではないと思った。

VI.座蒲団

 蒲団の原型は座蒲団にあることは前述した。座蒲団と言えば我が愛する日曜夕方放送の笑点大喜利である。

 落語用の座蒲団は家庭用のものに比べてかなり大きめで、しかも正方形ではない。縦67cm横77cmで長い方の面を前に敷くと、客席から見て安定感がある。縫い目の無い方が前である。客との「切れ目」が無いようにとの縁起かつぎだという。重さは新品で2kgだが、だんだん重くなり3kg位になるそうである。使いこむにつれて座りぐせがついて何とも言えない安定感と情緒が渉み出てくるという。綿の量も普通の座蒲団の二倍以上あり、綿が寄らないように中にもう一つ小さな座蒲団があって二重構造になつている。生地の材質はちりめんで三万五千円するという。一般に市販はされておらず「萩原舞台」という美術制作専門業者が作っている。古くなった座蒲団は「座蒲団供養」をお寺で行い、十枚だけは燃やし、他は抽選でファンにプレゼントされるそうである。

 こんなことを知っていると、一段と奥深く番組が楽しめそうである。

 

 私はどうもベッドが苦手である。背中が痛くなって寝苦しい。やはり日本式の蒲団が一番である。毎日厄介になる「蒲団」。今夜もよろしく。

(以上)

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長岡市大荒戸の長谷川病院  田中 健一(小児科田中医院)

 大荒戸は当時古志郡大荒戸村と称した。その大荒戸に医家三代の長谷川病院があった。初代は長谷川敬斎(1819〜1885)であって、漢方医で自宅で医業を始めた。続いて医家二代の譲(譲斎)(1848〜1918)は早くから医家を志し、医学は江戸に出て幕府の御目見医師浅田宗伯の門下生となった。やがて門下生代表となり、宗伯の代理を勤めるまでになった。江戸滞在中長崎にも足を伸ばし、蘭学を学んだと云うことである。

 譲斎は明治5年に帰って来て、自宅で当時最高の漢方医として医療活動を開始した。敬斎の死は明治18年、67歳であるから、親子二代で医療活動をしていた。浅田宗伯直伝の医師として、稀に見る名声を博したに違いなく、患者はこの地方一帯、遠く与板や寺泊からも来たようである。

 医家三代目の長谷川弘一郎(1878〜1920)は医家の家柄に生まれた秀才として、長岡中学から一高を経て、東大医学部を卒業して大学に残り、病理学、解剖学を学び、訳書「ハイツマン解剖図譜」を著わし、明治42年(1909)郷里で開業するまで、内科、外科、眼科その他を学んだ。その間吉岡弥生の医学校で教鞭をとった。

 東大卒業は明治38年であるから、僅かな年数で「ハイツマン解剖図譜」を書き上げたことは驚きである。秀才であることは勿論であるが、如何に刻苦勉励であるかを証明するものであろう。知らずその刻苦勉励が彼の寿命を縮めることになったと思われる。卒業当時は東京帝国大学医科大学と云ったが、同級生には日本歯学界の先駆者となつた島峰徹がいる。島峰徹と長谷川弘一郎は長岡中学校同級生である。明治25年の入学であるが、当時私立長岡学校と云った。その年学制改革が行われ、県立中学校は一県一校にすべしとなり、県立は新潟中学校のみとなった。徹の父、島峰悔斎は長岡藩医として戊辰戦争に従軍していたが、廃藩後は三島郡片貝村に居を移していた。私立長岡学校は古志郡町村立長岡尋常中学校に変わったので、そのためであろうか、島峰徹は県立新潟中学校に転校した。当時勉学の苦心の一端が分るのである。島峰徹は後に東京医科歯科大学と発展した昭和3年設立の官立東京高等歯科医学校の校長となり、現職のまま昭和20年世を去った。

 長谷川弘一郎は臨床医として、当時最も基礎的な分野から、一番良いコースを進んだと云うべきであろう。解剖学、病理学から始めて、外科、内科、眼科とその頃必要なものを凡て学んだ。最高の学歴を経て、郷里で良い医療を実践したいと、自然に医家三代目としての抱負も身につき、心中大きな病院を作る計画や決意が確実なものとなり、一家にもそれに応えるものがあったに違いない。

 大荒戸の病院開設は明治42年(1909)で長谷川弘一郎数え年32歳であった。大きな病院である。一階が診察室、手術室、薬局、待合室、院長室、研究所等であり、2階の室数は中央の廊下をはさんで12室くらいで、入院室としたものであろう。午前診療、午後は往診とし、代診、薬剤師、看護婦、賄婦、俥夫などを傭って、盛大な医療活動をしていた。

 病院建設当時、父の譲は62歳で、大正7年71歳で死去した。それから僅か2年後の大正9年(1920)院長弘一郎は弱冠43歳で急逝したと云う。多忙で過労が原因と想像される。

 附図の写真に見るような堂々とした病院も今はない。広大な敷地は整理されていて、年を経た松や杉が昔の盛時を偲ぶよすがとなっている。道路から入る道も広々としている。その後長年屋敷内の土蔵に多数の医学関係資料が残されて来たらしい。弘一郎の子息健氏から、1557点のこの資料が平成10年長岡市に寄贈された。この資料を整理して長岡市立科学博物館から「長谷川家医学関係資料日録」が発行されたのは平成14年である。そして長岡市医師会はこの本の寄贈を受けている。

 本年7月には悠久山公園にある長岡城を模して造られた長岡市郷土資料館に於いて長谷川家の資料の展示会が開かれる予定と云う。秀才一家の集めた資料は参考になるであろう。今こうして紹介をかねて取り急ぎ拙文を書いた所以である。

 尚この文章、及び写真は「長谷川家医学関係資料日録」に凡てよっている。記して感謝したい。

 この目録にもあるが、長谷川家の系図から見ると姻戚には各界に一流の人物が輩出している。初代長谷川敬斎の娘は長岡市摂田屋の川上半四郎に嫁ぎ、その子の川上漸は慶応大学の病理学教授となった。漸の弟の川上四郎は一世を風靡した童画家となって、童心豊かな格調のある作品で少年少女を喜ばせた。三代弘一郎の弟、篤の女婿の長谷川(那須)弥人は慶応大学内科教授となった。弘一郎の姉ヱヒは長岡市河根川の衆議院議員青柳信五郎に嫁ぎ、その子の青柳司郎は長岡赤十字病院の内科医、青柳医院長で、その子の隆一は長岡赤十字病院の内科医となつた。信五郎の兄逸之助は蘭方医学を戸塚静海に学び、医家となつたが、その父の逸庵は河梶川村の医師であった。逸庵の姉の己の夫青柳(吉川)剛庵は河梶川で私塾音義学舎を開いた。

 石黒忠悳が「懐旧九十年」に記しているが、文久3年彼自身小千谷在の池津で私塾を開いていた折、越後を巡回しながら、当時有名だった青柳剛斎、刈羽郡の藍沢南城、柏崎の原修斎、入軽井の遠藤軍平や粟生津の鈴木文台の諸塾を訪問している。青莪学舎には長谷川泰や入沢達吉も在学していたと云う。青柳剛斎は篤学にして寡黙、饒舌ではなかったが、長岡藩の小林病翁と親交があったと云う。以てその人物を知ることが出来る。剛斎は弱冠20歳で江戸に出て、幕府直轄の学問所、昌平黌に学んだ。青柳家では後にもう一人昌平黌に学んだ者があると云う。

 長谷川家を取り巻く人々は骨秀才である。そもそも大荒戸と隣村河根川は北は与板方面へ、南は上除から越路町へ通る街道上にあって、往来も中々ある所である。人の往来が良い刺激を与えたと思われる。

 明治42年から大正9年まで大荒戸にあった当時稀に見る病院、秀才の院長、秀才を育てた環境、11年で終わった病院、その後今日に引き継がれた周辺の医療事情、いろいろ教えているように思われる。

 本年7月には悠久山の郷土資料館の展示会に是非とも行って、長谷川一家の集めて学んだ江戸、明治、大正時代の一流であろう医学書籍類を見学して、医療の越し方、行く末に思いを廻らしたいものである。

 

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新会館建設事業の動向〜その12

会館建設委員会委員長 大貫 啓三(大貫内科医院)

 既に現場をご覧になった方も多いと思いますが、5月20日現在、1階部分の配筋・型枠作業はほぼ終了しており、間もなくコンクリートが打込まれ、その後2階部分の作業へと進むことになります。工事は引き続き順調に進んでおり、5月末には全工程の約3割が終了する予定で、6月中旬には上棟となります。

 さて、先日4月24日に現場事務所にて第1回目の総合定例会議が開催されましたので、簡単に報告いたします。この会議は、施主を含む総合定例会議としては第1回目ですが、毎週開催されている設計監理チームと施工側との定例会議としては第8回目となるものです。

 議事は、前回(第7回定例会議)の議事録確認、指示書の確認、工程の説明、施主・設計監理側の指示連絡事項、施工側からの連絡事項でありました。特に問題もなく比較的短時間で終了しましたが、施工上の疑義等について些細なことでもきちんと設計監理側と施工側とで随時協議し、決していい加減にはしないという姿勢を改めて確認させていただきました。また、現場事務所2階の建設現場を一望できる一画は設計監理チームの詰め所となつており、常時チームのだれかが詰めて監理作業を行っているとのことで、大変心強く感じた次第です。

 なお、当日は会議の前に建築現場を案内していただきましたが、やはり外側から眺めるのとは違います。これまで何回となく図面を見ては頭の中で想像してきたものが基礎の部分だけとはいえ現実化しているのを目の当たりにしますと、ちょっとした感動を覚えました。

 次回の総合定例会議は、6月5日(木)午後1時30分からの予定で、この際も現場の視察を行うことにしていますので、会員の先生方もご都合がつきましたら是非一緒に見学してください。詳細は、別途御案内させていただきます。

 新会館運営規程の検討や竣工式の準備も始まりました。懸念されていた現会館及び敷地の処分も決まりました。万事順調に進んでおります。

 

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バラ戦争と夢のバラ  郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

 5月の風薫るような気候の中、夫婦で庭に出て、それぞれ園芸仕事です。わたしはラズベリー類の剪定と鉢換え、肥料やり。家人はやっと咲き始めたバラの手入れです。

 小型の花が房咲きするフロリバンダ種は地植えで垣を這わせてあります。病弱なハイブリッドティー、イングリッシュローズは鉢植えです。なるべく消毒薬を使わぬ方針で試行錯誤しましたが、最近は地植えはあきらめ、株の根元を過湿から防ぎやすい鉢植えにしています。現在は十数種類の品種のバラを家人が育てております。

 バラと蘭と雪割草は管理の難易度が中級レベルで家人の担当。うーむ考えてみると、鉢の土換え、畑の耕しなど単純作業はわたしなのか。

「あらー、このバラの蕾もいくつもしおれているわ。」と家人の大声です。

「いまいましいあいつのしわざよ。」

 あいつと申しますのは、もちろんわたしのことではありませぬ。病害虫のバラゾウムシです。家人はただいま「バラ戦争」のまっただなかにあります。と申しましても、15世紀英国の王権争いのあれではありません。今年はとくに5月になつて発生が目立ち、被害が多いバラゾウムシと家人の戦いであります。

 こうした昆虫に有効かつ安全な薬剤はないのが現状で、つまりは用手での物理的除去しかないようです。この虫は鼻が長いからゾウムシと呼ばれる昆虫の仲間です。比較的有名なコクゾウムシそっくりの体長3ミリ程度のミニサイズです。

 ぼやきつつ家人は花が咲く直前に被害にあったバラの蕾を切り取ってはポイと捨てます。あいまにすばやい動きで発見した数匹のバラゾウムシをつぶしているもようです。

「あれあれ、バラゾウムシは蕾のすぐ下に穴をあけて中に卵を産み、孵化した幼虫は地上でそのゆりかご状の蕾や葉を食べるそうだよ。だからやられた部分はけっして地面に捨てずに袋詰でゴミに出すか、焼くかせよと書いてあったな。」と園芸本で調べたばかりの蘊蓄を講釈します。

 家人はあわてて数日前から投げ捨てておいた虫入りの菅の残骸を、全部拾い集めて捨てに行くのでした。

 ところで二人で咲くのを心待ちにしているバラがあります。まだ小さな苗ですが、蕾がいくつかふくらんでいます。その名前はブルー・ヘブン…青き天上。

 そうです、園芸家の夢であったい幻の「青い蓄敢」に最も近いT園芸の自信作だそうです。郊外に出来たばかりのP園芸店で購入しました。

「まだ入荷したばかりです。他の品種のバラ苗木の倍の値段であまり売れてなくて…。」と若い店主。プランター土をサービスで袋詰めしてくれました。

「この土は元肥が入っています?」

「入ってます。大丈夫ですよ。」

 ううむ、熱心そうに見えるが、まだしろうとなのかもしれない…。

 バラ苗の鉢での植え替えは肥料なしが原則で、根回りが安定してから追肥をやるとよいとされるのです。

 このバラ苗はシルバー・スター系の青色の強い交配品種とのことで、近い品種で我が家にあるのはブルー・ムーンです。これは香りもよくお気に入りです。ただしこの花色は育というより紫なんですけれど。家人はチアノーゼ色のバラと呼びます。

 さてこのどこか病弱そうな新顔のバラ苗は、うまく育って「健康的な蒼白の笑顔」を美しく咲いて見せてくれるでしょうか。

 

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