長岡市医師会たより No.283 2003.10

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もくじ
 表紙写真 「長岡市医師会新会館」

 〜長岡市医師会新会館竣工式・竣工祝賀会〜
 「竣工式式辞」         会長 齋藤 良司(斎藤皮膚泌尿器科医院)
 「竣工式会館建設工事経過説明」 会館建設委員会委員長 大貫 啓三(大貫内科医院)
 「祝賀会会館建設委員長挨拶」  会館建設委員会委員長 大貫 啓三(大貫内科医院)
 「竣工式および竣工祝賀会ルポ」 広報担当理事 春谷 重孝(立川綜合病院)

 「アフリカ航空事情」      宮村 治男(中央アフリカ共和国在住:元長岡赤十字病院)
 「妖怪天国」          岸   裕(岸内科・消化器科医院)

長岡市医師会新会館

新会館竣工式式辞  会長 齋藤良司(斎藤皮膚泌尿器科医院)  

 本日ここに多数のご来賓をお迎えし、長岡市医師会新会館の竣工式を挙行出来ますことは、長岡市医師会にとりまして大きな喜びであります。来賓各位におかれましては、ご多忙のところ又遠路をおしてご出席いただき、会員を代表して心から御礼申し上げます。

 この度の建設に際しましては新潟県医師会、長岡市および新潟県当局には財政切迫の折にも拘わらず多大のご支援を頂き、会員共々厚く御礼申し上げます。

 今回の建設計画は激変する社会情勢、医療環境の中でのことであり、当初から多くの困難が予測されました。平成11年の準備委員会では五里霧中の中、話は長岡市医師会の過去、現在、未来に及び激しい議論が交わされました。そのテープを起こし何回も読み返して何とか玉虫色の報告書にまとめました。

 そして更に資料収集と内部の懸案事項の処理に務め、平成12年秋、大貫副会長を委員長とする正式な会館建設委員会を立ち上げたのであります。それ以後建設計画は、私も驚くほど順調に進みました。その要因を振り返ってみますと、幾つかのことに思い当たります。

 まず歴代会長はじめ役員一同が先見性をもって、十余年にわたり建設資金の積み立てを行っていたことであります。このことは会員全体の新会館建設への意欲を醸成させ、総会での会員の更なる負担を盛り込んだ資金計画案の全会一致の承認へと連なりました。また建設地の選定に際しては長岡市当局に貴重な助言と配慮を頂いたこと、旧会館の跡地の処分についても長岡三古老人福祉会から有りがたい申し出を頂いたこと、更に長岡造形大学の豊口学長はじめ専門の先生方を顧問にお迎えできたことも幸運でした。まさに幸運の女神が微笑んでくれたようでした。

 今回我々は設計にコンペ方式を用い、施工業者の選定には、長岡方式ともいえる独自の入札方法を採用しました。これにより透明性が確保され、その結果は満足すべきものでした。ご苦労をおかけした大貫会館建設委員長はじめ委員の皆様、並びにこれを支えた事務局の方々にこの場を借りて深く感謝申し上げます。

 最後になりましたが、厳しい予算上の制約のもと、誠意と情熱をもって新会館の設計とその監理に当たられたチーム・テラの皆様、並びに高度の技術を駆使して会館を完成された鹿島建設はじめ工事関係の方々に深甚なる謝意を申し述べます。

 会員の皆様、厳しい医療状況の中、新会館の建設にご協力を頂き、本当にありがとうございました。

 終わりに長岡市医師会は新会館を足場に、地域医療の一層の充実に努める覚悟であることを申し述べ、本日のご挨拶といたします。

 

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竣工式会館工事経過説明  会館建設委員長 大貫啓三(大貫内科医院)

 本日はお忙しい中、かくも大勢の皆様方にお出でいただきこのような竣工式を迎えることが出来ましたことは、会館建設に携わった者の一人として喜びに耐えません。ありがとうございました。

 ここで新長岡市医師会館の 「建設竣工までの歩み」 について御報告中し上げます。皆様方にお配りしてあります「長岡市医師会館のご案内」の「竣工までの歩み」に沿ってご説明させていただきます。

 幸町にありました旧長岡市医師会館は昭和41年6月に建設され、当時の医師会長の林先生や丸山正三先生および多数の関係者のご苦労によるものであります。築後37年を経過し老朽化も進み、医師会機能も多様化し手狭になって参りました。

 そこで平成11年9月、高橋剛一先生が会長であられました時に、現会長の斎藤良司先生を委員長に会館建設準備委員会が設立され、新会館建設について討議され会館建設についての第一歩を踏み出したわけでございます。

 平成12年4月の医師会総会で新会館建設をご承認いただき、同年10月に私が委員長になり会館建設委員会を設置し、本格的に建設に向けて動き出しました。その後、旧会館跡地に新会館を再建する案も含め、候補地の選定をして参りました。

 その結果、多数の候補地の中から会館建設委員会で慎重に検討いたし、長岡市が所有する寺島町の現在地が会館建設の立地条件としては最適であるとの結論になり、平成13年8月の臨時総会に上程し、ご承認いただきました。

 また、承認と時期を同じくして、私を委員長とする会館建築設計小委員会と、現在北海道に転任されました佐々木公一副会長を委員長とする会館建設資金運営小委員会の二つの委員会を立ち上げ、各委員会ともそれぞれ総計8回、4回の会議を持ち会館建築設計ならびに会館建設資金運営について検討をいたしました。

 平成13年10月には6つの建築設計業者の参加をいただき、造形大学の豊口 協学長を委員長にお迎えして設計コンペを実施し、厳正な審査の結果、チーム・テラに設計監理業者を決定いたしました。

 その後、平成14年5月に長岡市と土地売買の契約を締結し、平成14年7月の臨時総会で新会館の基本設計と資金計画をご承認いただきました。

 平成14年12月には14の施工業者による入札を行い、その内上位4社から詳しい工事見積書の提出を受け、厳正に審査検討の結果、鹿島建設を施工業者に決定いたしました。

 平成15年3月1日に新会館地鎮祭を挙行し、同日より新会館の建設に着工いたしました。また、幸町の旧医師会館跡地は、建物も含め長岡三古老人福祉会に購入していただきました。

 その後毎月第一木曜日には施主、設計監理業者、施工業者の三者による定例会義を開き様々な討議を重ね、工事も順当に進み、9月30日に引き渡しとなり、本日の竣工式と相成りました次第です。

 会館建設準備委員会の設置から数えて丸4年の月日が経ちましたが、その間、医師会員を初め、多方面のたくさんの方々にお世話になりました。ここに謹んで御礼を申し上げます。

 新医師会館は、医師会員はもとより、市民にも開かれた会館として生まれ変わりました。また、記念事業として25年後と50年後に開封する未来に夢と希望と伝言を託したタイムカプセルの埋設も行います。多数のご参加をこの場を借りてお願い申し上げます。

 このようにたくさんの皆様のご協力によりまして新会館を竣工させることが出来ました。本当にありがとうございました。

 以上簡単ではございますが、新医師会館の竣工までの歩みをお話中し上げました。ご清聴ありがとうございました。

 

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竣工祝賀会会館建設委員長挨拶  会館建設委員長 大貫啓三(大貫内科医院)

 本日はお忙しいところ長岡市医師会館竣工祝賀会にご出席いただき、誠にありがとうございました。竣工式も無事に終了しこれから祝賀の宴に人らせていただきますが、会館建設委員長として、今までいろいろな委員会等を通じて会館建設に御尽力いただきました皆様方と、設計監理ならびに施工して下さいました皆様方を改めてご紹介いたし、一言謝辞を申し上げ、会館建設委員長としてのご挨拶に替えさせていただきたいと存じます。

 平成12年4月の医師会総会で新会館建設の御承認をいただき、同年10月に会館建設委員会が発足いたしました。斎藤会長より私に会館建設委員会の委員長をやれとのご命令がありまして、果たして私のような者に大役が務まるものかと不安ではありましたが、ご命令でありましたのでお引き受けいたしました。

 この時の会館建設委員会のメンバーをご紹介いたします。(※祝賀会当日は、各委員会の先生方にはその場にご起立いただきました。) 石川紀一郎先生、石川先生には委員会の副委員長をお願いいたしました。石川忍先生、市川健太郎先生、佐々木公一先生、佐藤敏輝先生、鈴木丈吉先生、高橋剛一先生、立川厚太郎先生、森下英夫先生です。諸先生方大変ありがとうございました。

 会館建設委員会は、会館建設の最も中枢になる委員会として総計5回の会議を開きましたが、最も中心的な議題は会館建設の候補地の選定であり、十分な検討の結果、長岡市所有の現在地に決定いたしました。

 会館建設委員会での、寺島町の長岡市所有の土地が最適であるとの結論を受けて、平成13年8月の臨時総会に上程し、ご承認をいただいたわけですが、ご承認後直ぐに実務的な二つの小委員会を立ち上げました。一つは会館建設設計小委員会であり、もう一つは会館建設資金運営小委員会です。

 それでは会館建築設計小委員会のメンバーをご紹介いたします。委員長は互選により私がならさせていただきました。委員の皆様を御紹介いたします。

 石川紀一郎先生、石川忍先生、市川健太郎先生、岸 裕先生、木村嶺子先生、後藤哲男先生。長岡造形大学教授の後藤哲男先生には建築設計のご専門家として、顧問としてご参加いただきました。佐藤敏輝先生、鈴木丈吉先生、永井博子先生。諸先生方大変ありがとうございました。

 会館建築設計小委員会は総計8回の会議を開き、明るく快適な市民に開かれた会館にするためにはどの様にしたらよいかなど、建築設計に関する諸問題を討議いたしました。

 もう一つの会館建設資金運営小委員会の方は、現在北海道に転任され本日は残念ながら御出席いただけませんでしたが、佐々木公一副会長に委員長をしていただきました。それでは会館建設資金運営小委員会のメンバーを御紹介いたします。石川紀一郎先生、大塚武司先生、高橋剛一先生、立川厚太郎先生、土田桂蔵先生、西村紀夫先生、森下英夫先生、山井健介先生、それに私も加わらせていただきました。また顧問として、長岡赤十字病院長 金子兼三先生、長岡中央綜合病院長 吉川明先生、立川綜合病院長 上原徹先生にも参加していただきました。諸先生方大変ありがとうございました。

 会館建設資金運営員会では、出来るだけ少ない予算で素晴らしい会館を建設しようと努力を重ね、また、医師会員に応分のご負担をどの様な形でお願いするかで腐心いたしました。

 次に、明るく斬新なデザインと機能性を重視して設計に当たられたチーム・テラの設計士の皆様と、卓越した技術と誠意を持って施工に当たられた鹿島建設の皆様を御紹介いたしたいと存じます。皆様大変ありがとうございました。

 その他にも会館建設に当たりましては、県ならびに市当局の皆様や、多数の医師会員の先生方のお世話になりました。謹んで御礼を申し上げます。

 新会館は開かれた医師会のシンボルとしてデザイン的にも機能的にも素晴らしい会館に生まれ変わりました。皆様に可愛がっていただき、更に充実したものに作り上げていこうではありませんか。本当にありがとうございました。

 これを持ちましてご挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。

 

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新会館竣工披露式典および竣工祝賀会  広報担当理事 春谷重孝(立川綜合病院)

 平成12年4月長岡市医師会総会で新会館建設が承認され、平成15年3月1日新会館地鎮祭を行い、ついに10月4日長岡市医師会新会館竣工披露式典を挙行いたしました。秋晴れの好天に恵まれ、まず新会館正面玄関で斎藤良司医師会長による定礎除幕式を行い、同時にテープカットを華やかなファンファーレの下に行いました。

 一階大ホールヘ移動し、約130名の御参加の下で、太田裕医師会理事による開式の辞で式典が始まりました。

 最初に斎藤良司医師会長による式辞が述べられました。まず新会館建設に際し、新潟県医師会、長岡市および新潟県当局の御支援に対して感謝を申し上げ、次いで新会館の設計とその監理に当られたチーム・テラの皆様と高度の技術で会館を完成された鹿島建設に深甚なる謝意を表しました。新会館を足場に地域医療の一層の充実に努める覚悟を表明いたしました。

 御来賓の祝辞を戴きました。新潟県医師会長倉品克明様(代理渡部透副会長)、長岡市長森民夫様(代理二澤和夫助役)、新潟県福祉保健部長神保和男様(代理大竹幸一医薬国保課長)、長岡造形大学長豊口協様よりそれぞれお祝と励ましのお言葉をいただきました。

 大貫啓三医師会副会長(会館建設委員長)より工事経過説明がありました。平成11年9月当時の高橋剛一医師会長の時に会館建設準備委員会が設立され、5年を経てようやく竣工式に至った経過を詳しく述べられました。

 新会館の設計とその監理に当られたチーム・テラ様と高度の技術で会館を完成された鹿島建設株式会社北陸支店様に斎藤良司医師会長より感謝状が贈呈されました。

 チーム・テラ様と鹿島建設様より御挨拶があり、次いで坪井栄孝日本医師会長を初め多数の祝電を披露し、大貫啓三医師会副会長による閉式の辞で式典予定通り終了いたしました。

 会場を長岡グランドホテルに移動し、新会館竣工祝賀会を行いました。

 太田裕医師会理事の開宴の挨拶に始まり、斎藤良司医師会長挨拶があり、大貫啓三会館建設委員会委員長による会館建設のための各委員会のメンバーの紹介があり、深く感謝の気持を述べられました。

 長岡市議会議長小熊正志様(代理恩田正夫副議長)による祝辞をいただきました。

 祝宴の前に長岡市芸姑総出演による祝舞が披露され大喝采を浴びました。

 鏡開きの後に新潟県医師会副会長渡部透様に乾杯の音頭をとっていただき、祝宴に入りました、お酒が入るにつれ大いに盛り上がり、あちらこちらで輪が出来、話し声、笑い声や記念撮影であっという間に時間が過ぎてしまいました。

 長岡市医師会顧問鳥羽嘉雄様による万歳三唱の後、大貫啓三副会長による閉宴の挨拶でお開きとなりました。素晴らしい長岡市医師会新会館竣工式典、竣工祝賀会であったと思います。関係各位の皆様に深く感謝するとともに、長岡市医師会の益々の発展のため会員一同一丸となつて努力いたしましょう。

 

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アフリカ航空事情  宮村 治男(中央アフリカ共和国バンギ在住・元長岡赤十字病院)

 7月の始めに仕事の関係で中央アフリカから隣国カメルーンの首都ヤウンデにある日本大使館に出張することになった。アフリカの国はどこも国境付近は紛争地帯になっていて治安が悪く、陸路での移動は危険が伴うので航空機を使うのが通常である。だからと言って空路が安全というわけでもない。この大陸ではしばしば飛行機が燃料不足(!)で墜落する。10ケ月前には中央アフリカの東部で貨物輸送機が落ちたが、3日後機体が発見されたときには、そこには身ぐるみ剥がれて裸になった乗務員の遺体と飛行機の骨格しかなかった。衣服や計器類はもちろん座席・窓ガラスに至るまですべて原住民に持ち去られたものらしい。2ケ月前の事故では、コンゴで飛行中の軍用機の後部ドアが開いてしまい乗員は皆大空に投げ出された。異常に気づいたパイロットが空港に引き返したとき、機内にはパイロット以外誰も居なかったという。だからここで乗る飛行機はそれだけでスリリングな体験となる。今回私が利用するのはカメルーン航空というアフリカではかなり信用のある航空会社である。カメルーンと言えば、W杯の時、代表サッカーチーム選手を乗せた飛行機が迷走してなかなか日本に到着せず、中津江キャンプ村の人達をやきもきさせて話題になったことがあるが、定期航空便は信頼できる……はずだった。悪い予兆はあった。出発の前日、ヤウンデ直行便のチケットを買いヴィザをとり、トランクに荷物を詰めていると電話で妙な噂を聞かされた。ラジオ放送によると、カメルーン航空はリースしている飛行機のリース料を長い間支払ってないのでリース会社が機体の多くを引き揚げたという。リース料を払わず平気で飛行機を飛ばし続ける航空会社の根性も見上げたものだが、全般にここの人達は借りた物をきちんと返すという感覚に乏しい。いつか返せばよい、と思っている。その「いつか」がいつになるかは誰もわからないのだが。いずれにせよ、こちらに何の連絡もないのだから少なくとも明日の航空便は定時に出るものと考えた。

 当日の朝、子分の現地人マルクに車を運転してもらいンポコ国際空港に着いた。別に運航状況の変更などの知らせは出ていない。マルクに搭乗券の入手と荷物預けを頼んで待合室でコーヒーを注文した。ちなみにアフリカの人は行列をつくつて順番を待つという事が苦手のようである。受付窓口が開くと、そこらにたむろしていた人間が一斉にわっと押し寄せて我がちに手続きを始めるので、私のような奥ゆかしい人間はなかなか入っていけない。こういう場面は95kgの巨躯のマルクに任せるに限る。ところがコーヒーを飲んでいるとマルクが怪訝そうな顔でやって来た。「ドクトール、この飛行機はどうもヤウンデには行かないようだ。」そんなバカな。俺はちゃんとヤウンデ行きの便を確認してチケットを購入したんだ。何かのまちがいだろ、もう一度確かめてくれ。しぶしぶ戻るマルクの後ろ姿を見ながら、やっぱりなあ、何かヘンなこと起きる気がしてたんだよなあ、と思った。「ドクトール、やはりこの便はヤウンデに行かない、ドアラ行きに変更になったそうだ。」ドアラはカメルーンの最大の貿易港で首都ヤウンデからはほど遠い。観光クルーズ船ではあるまいに、いったい当日の朝になって航空機の行先が変更になって良いものであろうか。乗合いバスだって簡単に進路変更はしないぞ。

 怒ってばかりいても仕方がない。この国ではどんな事態に出会っても慌てず冷静に対処しなくては。取り敢えずこの飛行機に乗ってドアラに行き、そこからヤウンデに移動する方法(車?至適便があれば飛行機乗り換え?)を考えよう。マルクにドアラまで行くことを告げ、約束時刻に遅れることを当地大使館を通じて在カメルーン日本大使館へ連絡してもらった。ところが、である。携帯電話を通して不思議な情報が少しずつ入ってきた。「その飛行機、コンゴのキンシャサヘ行くみたいですよ。」どうなってるんだ!空港のカウンターで聞いてもドアラの着時刻がはっきりわからないようだ。ここバンギからドアラまで直行なら2時間なのだが。その後の外からの連絡情報を総合すると、こういう事らしい。機体を多数引き揚げられたカメルーン航空は窮余の策として、突然一機で3路線を肩代わりさせる事にした模様だ。バンギ発ヤウンデ行きは、急遽バンギ発キンシャサそしてブラザビル経由ドアラ行きに変わったのだ。ドアラ・ヤウンデ間は接続便があるとはいうがあてにはならない。ドアラ着は夕方になりそうだ。困ったな、今夜はドアラ泊か、ホテルはどうするか……などと考えているうちに出発20分前になつた。心細い。ちゃんと今日中にカメルーンに着くだろうか?と、重大なことに気付いた。空港内にカメルーン航空の飛行機が見当たらない。出発20分前なのに、この狭いンポコ空港のどこにも機体がない!こりや駄目だ。おいマルク、カメルーン行きは中止だ、チケットとトランクを取り返してきてくれ、私は叫んだ。(2003年7月2日 記)

 

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妖怪天国〜ルーナティック・ドーン(竜の背に乗って)3

  岸   裕(岸内科・消化器科医院)

 ハーイ、センセ、元気?アルジャーノンだよ。どしたの。さえない顔して。休診日だから久しぶりにゴルフにでも行こうかと思ってたら急に雲行きが怪しくなって来たって?…だよねえ。米山さんの方、小千谷あたりの空が薄暗くなって来た。ピカツと光ったよ。来るね。雷もどしゃぶりも。…でね。竜も来るよ。竜のRyugenだよ。僕たちの仲間さ。まえ、この辺に棲んでいたんだ。…本物の竜だよ。…大粒の雨の音。空がゴロゴロうなりだした。いいねえ。Ryugenが来るまえぶれさ。テーマソングみたいなもんだね。…知ってた?センセ?このあたりには、まえ、竜が棲んでいた大池があったんだ。城もあった。合戦(いくさ)もあったんだ。ほら、じっと耳を澄ますと雨音の中に合戦の響きが聞こえて来る。叫び声、蹄の音、刀のぶつかりあう音。…今は一面の田んぼで城も大池も無いけどね。ちょっと前までは石垣が残っていたところもあったんだけど。大池はね、Ryugenがみんな飲んじゃったんだ。酒に変えてね。高山の水は美味しいからね。

 Ryugenは今、郡殿(こおりどの)に棲んでいるから。…ほら、そっちの方に黒い雲が。…今、光ったよね。Ryugenに背中に乗っけて貰うんだ。振り落とされない様にたてがみにしがみついて行くんだ。…嵐が来るから、川が暴れるから、美味いのが喰えるんだ。頭からばりばりと喰うんだよね。腹子のいっばい詰まったのをね。じや、僕はもう行くからね。またね。

 (以下センセイ注)…という訳でアルジャーノンは一目散に跳んで行ってしまいました。竜と一緒にさんざん遊び廻った後で、川が荒れると大漁になる築場(やなば)で鮎を食べるつもりなのでしょう。男山の簗場にでも行くのでしょうか。アルジャーノンはすぐ話をあちこちに飛ばすので少し注釈を加えますが、彼の言っている事は全て本当です。前回の罠にかかった狐や、いたちのショートサムの詰もごく最近当家の周囲で実際におこったことです。そもそもこのシリーズはれっきとした事実にもとづいたノンフィクションなのであります。竜の詰も詳しくは十日町公民館の館長の関栄吉さんのお話 (長岡ミニコミ紙マイスキップ2002年8月号に載っています)や「新潟県伝説集成・中越篇−小山直嗣著−恒文社」等の本をお読みになって下さい。ご存知無い方のために簡単に説明致しますと、私の住んでいる十日町地区のとなりに高島町地区(昔は高山と言っていました)があり、その北側に高山城がありました。現在の中越自動車学校の南側です。天正の末 (戦国時代)、高山に信濃国から流れ着いた立弦(竜玄と書いたものもあります)という高僧がいて、徳が高く、大男で武術にも優れていたため、村人や城主からも篤く信頼されていました。上杉道民一揆という戦がおこり、城主・堀将監(しょうげん)が出兵した留守のすきをねらって、栖吉城に立てこもっていた敵方が攻めてきたのです。立弦は残った城兵を指揮して良く戦いましたが多勢に無勢、城が囲まれてしまった時、立弦は不思議な術を使って囲みを破り女子供を城外に逃がし、そして自分は最後まで残った将監の姫と共に城の東側の大池に入水しましたが、その時立弦の姿は竜に変わり天に昇ったと言われています。

 その後も竜神となった立弦は村人の災難を防いだり貧しい者を助けたりして村に尽くしますが、大池は次第に小さくなり竜神は小千谷の吉谷(よしだに)の郡殿の池に移ったと伝えられています。 (次回に続く)

 

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