長岡市医師会たより No.284 2003.11

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。

もくじ
 表紙絵 「初冬の河川敷」    丸岡 稔(丸岡医院)
 「故明石冨士子先生を偲ぶ」   会長 齋藤良司(斎藤皮膚泌尿器科医院)
 「苔、この愛すべき生命〜その2」杉本邦雄(杉本医院)
 「不学無憂」          田崎義則(田崎医院)
 「楽しかった医師会旅行」    小林眞紀子(小林医院)
 「京の異界を旅する」      郡司哲己(長岡中央綜合病院)

初冬の河川敷  丸岡 稔(丸岡医院)

明石冨士子先生を偲ぶ(弔辞)  会長 齋藤良司(斎藤皮膚泌尿器科医院)  

 本日ここに政明石富士子先生の御葬儀にあたり、先生の御霊前に額ずき、深く哀悼の意を表し、長岡市医師会を代表してお別れの言葉を申し上げます。

 去る11月8日、先生の急逝の計報も又突然でありました。最近は医師会の会合にも度々出席されその清楚なお姿はいつも印象的でありました。又「ぽん・じゆ〜る」 にも寄稿され、その淀みない文章からも心身共にお元気と拝察しておりましたのに、先生の計報は残念でなりません。

 先生は大正8年ここ長岡のお生まれで、自明堂医院の笛田藤蔵先生の御息女でおられ、才媛の誉れ高く、昭和16年帝国女子医学専門学校(現東邦大学医学部)を御卒業になりました。直ちに新潟大学小児科へ入局されました。しかしすでに戦時体制にあったことから長岡に帰られ、やむなく傷痍軍人が多数収容されていた長岡赤十字病院に勤務されたのであります。そして戦時下の昭和18年明石勝明先生と結婚され、勝明先生と共に朝鮮に渡り、終戦はピョンヤンで迎え、苦しい拘留生活を経験されたとのことであります。

 昭和26年勝明先生と共に明石医院を開業され、医師として主婦として多忙な中、三人の御子様を育て上げられました。しかし昭和58年勝明先生が倒れられ、先生の御苦労も加速的に増えたものと存じます。でも御子息明夫先生はすでに立派に成長されており59年には長岡に帰られ、平成元年には医院は法人化され、冨士子先生は理事長に就任されました。更に医院を平成11年には摂田屋に新築移転、現在医業は順風満帆と聞いております。

 先生の最近の随筆を読んでみました。平成9年の「女医の独り言」は自伝的随想で、なんとなく安堵した先生の気持ちが伝わってきて、先生自らの人生を「薔薇色ではなかったが、葡萄色くらいの人生かな」と語っておられ、杉村春子のように「死ぬまで現役」を願うと述べています。その後の「夢紀行」「太陽がいっぱい」からは旅なれた豊富な知識と流麗な語り口によりその楽しさと共に齢八十にして外国旅行何するものぞとの気概が伝わってきます。今年6月の「喜びも悲しみも」からは「人生の禍福はあざなえる縄の如し」と達観する一方でまだまだ老けこんではいられないと述べ、お孫さん達の応援団長を志願しておられます。

 先生の楚々とした容姿からは思いも寄らない気迫が伝わってきました。

 すでに明夫先生が医業を引き継がれ、お孫さんも産婦人科医師になられたとのこと、後顧の愁は全く無いと拝察しますが、先生を失った御家族の心痛は限りなく大きいと存じます。お慰めの言葉もありません。

 先生どうぞ浄土から明石家の皆様をお守り下さい。

 最後に重ねて先生の安らかな御冥福を祈り、追悼の言葉とします。

 

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苔、この愛すべき生命〜その2  杉本邦雄(杉本医院)

 平成7年の本会報に、このテーマで駄文を投稿しました。何が良かったのか県医師会報にも転載されました。又、かなりの方々が目を通して下さり、その後、いろいろと話のやりとりがありました。「第二報を書け」と何人かの先生、特に伊藤本男先生(先生には昔日子宮筋腫手術時、勝胱を損傷し、助けていただきました に云われ「その二」として気のつくまま独断も含め書き進んでみます。

 どこのダムに行っても渇水期には現水面から増水期満タン水位のところまでは土壁があらわになっています。陸生植物は水中では生活出来ないのでしょう。新しい土を盛り常に水分を提供しておくと、いろいろの植物が発生します。雑草も素晴らしい苔も、それに銭苔(以下ゲリラと蔑称)も。この三種が常に縄張り争いをしているのです。よい苔のみの鉢植えを見ますが、これは常に良い環境にあると他種を寄せつけない何らかの物質(環境ホルモン?)を出しているのだと思います。pHも変えてしまうのでしょう。水蒸気さえあれば良い、と成書にあります。空気から命をつなぎ、世を清めているのです。

 苔だけの庭にするんだと息込んでおりましたが、未だ雑草やゲリラ追放にはなっておりません。一寸、手を抜くと彼等が首を出します。まず一個のゲリラが発生し、悪環境を作りだし、他を排斥し繁栄します。酢酸や硫安が効くなど諸説がありますが、拙い体験から得たことは、やはり一個一個排除すること、そしてそのエリアのその後の良き環境を維持することが一番だと思います。コロニーを作っている処は可哀相でも、かなり広範にとる「全摘」が必要です。この場合、地面(ジズラ)が減る心配がありますが、いつの間にか他所と同じように苔で被われます。「優性手術」は死語になりましたが、ゲリラ追放にはこれが必要なんです。

 粘度を保持する雑草が生え出すとそこにゲリラがはびこり雑草を押しのける。こんな段取りのようです。ゲリラの好むものは粘度と乾燥、そしておのが世界を維持するには、他をおしのけることが必要です。時には共生することもありますが、何だか妊婦のシャイデでの生存を好むカンジダに似ているような気もします。

 遠くから見て(そんなに広い庭ではありませんが)一様に苔のみの世界は実に美しく感じますが、雑草やゲリラの混在しているエリアはその部分の色がやや不均衝でなんともいけません。ですので色の不均衝が強い所からの介護が始まります。

 苔は大変繊細な生物で遠慮勝ちなんです。又、ゲリラに遭うとすぐに席を譲ります。

 

 閑話休題

 人間の世界も益々ゲリラが横行するのでしょうか? イラクに派遣される自衛隊は大丈夫なのでしょうか? ゲリラとは長い戦いがあるのみ。それを敷衍する人の世からもゲリラはゼロにはならないでしょう。小泉総理よーく考えるんです。いずれの世界も同じなんだ。でも小さな努力でも継続して好条件を作り出す努力は必要なんでしょう。

 最近、ノラ猫が横行し、何の恨みがあるか苔をむしり取ったり、固体や液体のお土産まで持ち込んで下さるのには閉口しています。ノラ猫追放の術をご存じの方、ご教授下さい。

 さあ、今日も努力。庭仕事が出来る庭があるなんて幸せなんだから。苔は小さな生物です。でも酸素を多く作り出し、気化熱で夏の気温を下げてクーラー代わりもしてくれます。

 宇宙から見る地球は青いんよネ。いつまでもこれ以上汚さないグリーンでクリーンな地球であって欲しいと願う昨今です。

 

 現在考えたり行っている事項(前回とダブッているかも)

(1)少々小さな雑草もひき抜く。(成長した雑草は処置が大変です。)

(2)小石も大敵、こまめに排除。(小石があっても、そのエリアの気象状況が変わります。)

(3)つる性の雑草は二葉の付いている所が本拠地です。該部より摘除しないと再発します。

(4)ゲリラ地帯は可愛そうでも広汎切除します。

(5)池の排水は高カロリーのようです。時々水道水を与えます。

(6)ノラ猫対策。(忌避剤なるものがありますが、効果ありますか?吉報をお待ちします。)

(7)芝からの雑草の種の転移。(他部にある芝の雑草駆除。努力の結果、ラフがフェアウエイに変身。)

(8)雑草は子孫を残さないうちに除去。

(9)ナメクジも大敵。(あの陰浸な性格は苔にも芝にも大敵です。ナメクジトールなる製品があるのも頷けます。)

(10)シダ類も繁茂してくると苔をいじめます。

 

 そろそろ終りにします。最後に最近思うこと。

 世の中、広告見てもテレビ見ても何見ても大変雑駁になって来ています。民放は勿論、NHKまでが雑っぼい。雑は雑草の温床です。何とか明日から、否、今日から雑っぼさのないクリーンな世の中に変わって行って欲しいものです。

 

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不学無憂  田崎義則(田崎医院)

 何でも新しいものは気分の良いものです。落成した新医師会館に行ってみました。城門の扉が人を拒んでいます。間違ったかなと思って左のガラスの方へ二三歩踏み出してみますと、中はよく見えるものの入口はありません。慌てて対称的に右のガラスに走りましたが同じです。矢張り真ん中しかなかろう。覚悟を決めて正面に立ち、拳を上げて大音声に「頼もうーっ」とした途端、目の前がサーッと開きました。踏み込むともう一度同じ仕掛けです。平然とあしらって中に入ると、美しい階段が真っ直ぐ伸びています。見上げる先に仔んでいるジュリエット姫が「あ、懐かしいロメオ様!」と叫んで裳裾を翻えして駆け下りて来ます。幻でした。

 一階ではまだ居住性の調っていない会長室に入りました。西側の大きな窓を見て感嘆しました。外は石庭です。それも竜安寺のような貧しいものではありません。大小沢山の巨石が雄大な景観を呈しています。つまり、見下ろす向うは、造園業の石置場でありました。図らずも見事な借景は優れた設計者の演出でしょうか。石があまり売れないように祈りながら、イシャの向うにイシヤありかと楽しんで吹き抜けの開放的な廊下を移動していますと、近くに居られた事務のお嬢さんが「お手洗いですか?」とまるで前立腺を見透かしたように訊ねられたので、「否々、見学です。」と厳そかに答えると「ではこちらが洗面台です」と嬉しそうに案内して下さいました。成る程浅く滑らかに起伏した曲面に形成された。今まで見たことも無い斬新なデザインでした。私は子供の噴から親しんだ昔風の蛇口を一杯に捻って、その口を遮って四方八方を水浸しにする楽しみはどうなるだろうなどと考えていました。

 勉強の方は別の日の夕方から講演会に出席しました。大平原の一軒家のように昼間はどのようにしてでも行かれますが夜になるとあの辺りは明りが少ない上に目が悪いため、進入路に迷って舗道に入ってしまいました。どんどん進んで行くと会館の玄関脇に横付けになりましたが、一線が越えられません。幸い右手がエプロンのように、暗い道路に開いていると見えたのでスィと出た途端にガッタンと来ました。日頃思っているように私は乗用車でなく、ブルトーザーか戦車が相応しいと痛感しました。

 新会館の駐車場は各スペース毎に大きな丸い誘導電球が地面近くに点いています。ちょっと眩しいですが華やかな感じです。バックで入れたら自分が螢になったような気がしました。螢の光と学術団体の連想は仲々粋な設計です。ただし、頭尾を逆にすると今どき見かけない鼻提灯になりますから要注意です。

 立派な大ホールです。私の唯一の不満は後方に出入口が無いことです。学生時代に培った鮮やかな進退と最後列での神妙な静態を可能にする大事な構造なのです。

 机の感触と広い巾は気に入りました。天井の高さには驚きました。空中大サーカスに向いていると思われます。スクリーンを見て30秒もすると首が痛くなるのは何故か分かりません。それにしても正面に映っているのが(椿三十郎)であったり、私が見逃した(カンダハル)などであったらどんなに楽しかろうと思いました。気の散る癖は場所を替えても治らないようです。

 今考えますに、大ホールは映画館構造にすべきでした。そうすれば何れの日か会長殿が「諸君!巨大な利益が発生しました。向後会費は無料となります。賦課金はお返し敦します。この度東京ディズニーランドを借り切って大パーティを開くことに決定致しましたあーっ!」と絶叫される光景も夢ではないでしょう。

 どうも私の知慧は後から出て来るので役に立ちません。

 肝腎の勉強の方は、全てに堪能の人など在る訳が無いと分かっていても、全方位家庭医には苦しくなるばかりです。

 先日、越後一の宮の近くを車で通りかかった時、美術館を見つけて入ってみました。芸術は解らないなあと回っている内に、一幅の掛軸の前で足が止まりました。雄渾な墨跡で 不学無憂 とあります。仰天しました。学ばざれば憂い無しと読みましたが、こんな読み方でいいのでしょうか。書家は長岡の人とだけ分かりましたが、一体どんな心境でこれを書かれたものでしょう。何か出典があるものでしょうか。皆様どうか敢えて下さい。私が来るのを待っていたかのようなこの書は、所柄神慮であったかも知れません。

 教わりついでにもう一つお願い致します。数年前、小学校の養護教諭の先生から頂いた辞任の挨拶状の中に 生薑未だ辣を得ず 云々とありました。生薑はしょうが、辣は辛味ですから文意は何となく分かりますが、私には初めての語句でした。これも典拠があるものでしょうか。

 馬齢を重ねた付けが回って来ました。学ばざれば憂い 有り になりました。

 

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楽しかった医師会旅行  小林眞紀子(小林医院)

 11月8日(土)、9日(日)の一泊二日で医師会旅行に行ってきました。行き先は「信州渋温泉」。メンバーは、斎藤良司会長をはじめとする総勢11名。参加者(五十音順、敬称略)石川紀一郎、大関忍、大貫啓三、春谷重孝、児玉伸子、斎藤良司、杉本邦雄、鈴木しのぶ、森下美知子、事務局星、そして小林真紀子。

 私は、今回連続4回目の参加です。医師会旅行というと、とても堅苦しく感じられがちですが、実際に参加してみると、とても気楽で、楽しめ旅行です。私は元来、人間も好き、お酒も好き、そして宴会も大好き人間ですが、医師会旅行は、その中でも特に楽しめるイベントの一つです。今回の参加人数は、例年よりもやや少なめでしたが、内容はなかなか充実しており、とても楽しい旅行となりました。

コース

一日目‥午後2時15分医師会館前出発 → 午後4時45分湯ったり宿「ホテルさかえや」

二日目‥午前9時「ホテルさかえや」出発 → 地獄谷野猿苑 → 渋温泉 → 岩松院(拝観) → 小布施(十万庵で昼食)・盆栽美術館見学 → 北斎館など(見学・自由行動)→ 須坂・田中本家(見学)→ 医師会館前着

 11月8日(土)午後2時15分、あいにくの小雨もようのなか、新医師会館前を予定通り出発いたしました。いつも診療に多忙な、森下美知子先生、大関忍先生が一番のり、この旅行にかけておられるお二人の意気込みが感じられます。バスは例年通りマイクロサロンカー、しいていえばサロン部分がやや小さめだったでしょうか? 途中から斎藤会長、大貫副会長が乗り込まれ、そのころから宴は盛り上がりを見せはじめました。車中には事務局が趣向をこらして用意して下さった日本酒、カクテル、ヒレ酒、ビールの他、鈴木しのぶ先生特製の「年代物の梅酒」、春谷先生からさし入れていただいた「得月」、「高級な紹興酒」などアルコール類が所せましと置かれました。目的地「信州渋温泉」に到着するころには、みなさんほろ酔い気分のように見うけられました。

 渋温泉とは、湯に鉄分が多く含まれており渋味があるということから付けられた名称であるとのこと。そして九つある外湯を巡湯(めぐる)ことにより、九(苦)労を流すとのいいつたえがあるとのことです。

 私達女性陣は、宴会前に外湯をできるだけ多く巡湯(めぐる)ことを考えましたが、結局3ケ所しかまわれませんでした。男性陣の中には5〜6ケ所もまわられた先生もいられたとか。

 外湯巡湯(めぐる)の後は恒例の宴会。斎藤会長の挨拶から始まり、リラックスムードでカラオケ開始、大貫先生と信州中野から出張してきたというかわいいコンパニオンさんとのデュエットのころには宴もピークに達しておりました。斎藤会長のカラオケも次から次へと飛び出し、いつの間にこんなにレパートリーを増やしておられたのかと、ビックリ。こんなにリラックスしていられる会長を拝見するのははじめてでした。きっと

「新医師会館完成」という大事業を成しとげられ、ほっとされたからでしょうか? 一次会の最後には、ホテルの女将が、アコーディオン弾き語りで「湯田中渋温泉小唄」を披露。一次会終了後、会長、杉本先生、石川先生の3人は囲碁をされたようです。勝敗はいかに? 二次会は、森下先生の「青葉城恋歌」から始まりました。いつ聞いても清楚で可憐な歌声です。児玉先生の「お富さん」も絶品です。その淡々とした歌い方は、先生ならではの味わいです。大貫先生の「桃色吐息」は、いつ聞いてもプロの歌声です。先生にかかると歌えない曲はなさそうです。星さんが「悪女」を歌われたのにはビックリ。なぜなら最も悪女と稼がなさそうな人物だからです。大関先生は聞き上手。なぜか先生が微笑んで傍に居て下さるだけで元気が出るから不思議です。さて、鈴木先生は?というと、実はこっそり外出しておられたのです。目的地は、渋温泉のさらに奥にある角間(かくま)温泉、先生の母方のおじい様の生家が秘湯角間温泉の旅館であったとのこと。御自分のルーツがやっと解ったと、感無量の御様子でした。二次会終了後、お一人でどこからか帰ってこられたグルメの春谷先生のお誘いにより「究極のそば」に出会うことができました。「玉川」というその店は、ホテルの斜め前にあり昼は行列ができてなかなか食べることができぬほど有名な店とのことでした。「究極のおそば」と出会え、これだけで旅行に来たかいがあると思えるほどでした。旅行第一日日の夜は満足感いっぱいに終りました。

 二日目は朝風呂からスタート。予定通りのコースで帰路につきました。サロンパスの中まで女将が見送り、唄を披露して下さりとても感激いたしました。杉本先生の買われるおみやげには、いつも愛情を感じます。今回は新鮮な野菜とお漬け物が奥様へのプレゼントのようです。さすがに帰路の車中ではみなさんややお疲れの様子で、ガイドさんの明るい声が心地よい子守唄のようでした。

 今回の医師会旅行は約半数を女性群が含めることとなりました。仕事からも開放され、日常の雑用からも離れたこの一泊二日の旅行により明日からのエネルギーをもらえた、そんな気がいたしております。来年度は男性群も、もっと参加されたらいかがですか?楽しいですよ!!

 心ひそかに憧れている石川先生とデュエットができなかったことと、大貫先生おすすめの「みすず飴」を買いそびれたことだけが、心のこりの、今年の医師会旅行でした。

 

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京の異界を旅する  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 晩秋の京都で研究会が催されました。わたしは例により飛行機嫌いです。東京経由の新幹線乗継で片道4時間半。ほとんど現地での観光時間はないんですが、到着した午後に足を向けた場所があります。

 めずらしく前日に書店に寄り、基本文献調査を施行。購入して通読したガイド本「京都歩いてます」(人文社、2003年10月発行)に37の散策コースがありました。ありきたり観光でないのがポイントで目に止まったのが、これ。

「異界をゆく」4時間コース。

 夜が真の暗闇だったころ、呪祖と迷信にまみれた貴族たちは魑魅魍魎が跋扈する…そんな時代のヒーローが、阿部清明と小野篁。なんて宣伝に興味をひかれました。えっ、小野篁ってあの小野篁?

 安部清明はここ数年の岡野玲子の漫画「陰陽師」に火をつけられた陰陽師ブームで有名となりました。わたしもこの漫画も原作である夢枕獏の小説も読んでおります。まあ今昔物語を愉しむようなもんですな。そうそう狂言師の野村万斎の主演で映画にもなっております。

 もうひとりの小野篁(たかむら)ですが、百人一首にある歌は隠岐に流されるときに詠んだといいます。

 わたの原八十島かけて こぎいでぬと 人にはつげよあまのつり舟

 参議篁(802−852年) 先月長岡市内の古書店の百円均一本コーナーに、一冊だけ変色したいかにも「古典的」な代物がありました。そのなかに十頁ほどの短編ですが「篁物語」があり、読んだ矢先でもありました。ふつうの書家、文人だと思っていました。

 さて鳥辺野に煙立つさまなど見るのは省略。まずはこの篁ゆかりの六道珍皇寺を訪ねました。

 ガイド本によると篁は嵯峨天皇に仕えた官僚で、昼は宮廷に、夜は閻魔大王に仕えたという伝説があるそうな。夜ごとに冥界に出入りしたという井戸が本堂の庭に残る。門前に六道の辻があり、かって葬送の地鳥辺野に通ずる界隈はあの世とこの世の境界線とされたとか。

 五条坂バス停を降り地図を片手に歩きました。清水寺へ向かう観光客の大集団とは反対方向に、ひとり裏路地を歩きました。はやもミステリーワールドに陥ったか?といささか不安になったころ、「六道の辻」と刻まれた古びた(ように見える)石柱が。おお、これか。さっそく写真撮影など。ついでにぐるりと周りをめぐるとその背面になにやら大きな文字が…。なんと、平成7年、何某女寄贈とな。

 本堂でのくだんの冥界につながる井戸は数メートル向うにかろうじて遠見、篁と閻魔の巨大木像はのぞき穴から見物だけ。京にめずらしく拝観料をとる人員もいないくらいですからご推察ください。

 次に行った安部清明の清明神社はおそらくブームで建て直したばかりの土産店中心。これもハズレです。

 もうひとつの篁ゆかりの千本閻魔堂もハズレ。タクシーの運転手さんのたまわく

「お客さん、えろう渋いとこ回らはるね。長いことタクシーやってるけれど、初めてだな、えんまどうに来るのは。」

 京の異界という裏観光で、これがハズレの連続では、苦笑いでした。

 よく「土産物にうまいものなし」と言うが、「旅行ガイドにおもろいことなし」と悟りました。

 ただし帰りに慌しく京都駅で買った下鴨茶寮の「ちりめん山椒」はおいしいお土産でした。

 

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