長岡市医師会たより No.285 2003.12

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。

もくじ
 表紙絵 「水梨辺り」       丸岡 稔(丸岡医院)
 「不思議な出逢いとドイツへの旅」 木村 嶺子(木村医院)
 「三代目の飼犬」         一橋 一郎(一橋整形外科医院)
 「山と温泉48〜その35」    古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「妖怪天国」           岸   裕(岸内科・消化器科医院)

水梨辺り   丸岡 稔(丸岡医院)

不思議な出逢いとドイツへの旅  木村嶺子(木村医院)  

 四月下旬のある日、十数年来の友人から電話がかかってきた。

「本当にあつかましいお願いだけど、ドイツ人夫婦を二時間でいいから、預かってもらえないだろうか」と。

「土曜日の夕方二時間位だったら大丈夫だと思うけど……」と言ったものの、いったいどんな人達が来るのかしらと、話を聞いてみた。

 長岡技大の若い先生が、ドイツ留学中にお世話になった御夫妻がいて、その夫婦が長岡を訪れている。技大職員宿舎に泊めるつもりでいたけれど、あまりに狭いので、出雲崎の実家にホームステイをさせている。ところが二日目を迎えた時点で、実家の親達は疲れはててしまい、どこかに連れ出してもらいたいという事であった。お互いの面識はないけれど、年齢的に近いし、開業医だし、清治先生にはドイツ留学の経験もあるのでなんとか助けてあげてという話だった。

 夕方4時頃、仲人役の友人が例の夫婦と、乳のみ子を抱えた技大の若夫婦を連れてやって来た。私はおもてなしをしない方針で待っていた。もっとも、二十年前だったら上や下への大騒ぎをして、仕出屋からの大御馳走を取り寄せていただろうが、こちらのありのままを見てもらい、一緒におしゃべりをしながら楽しい時間を過ごすのが御馳走だと思っているので、私達もなんとなくワクワクしていた。

 二時間の約束で引き受けたが、夕食時にひっかかるのだから、いっそ皆で夕食を食べようという事になり、私は、初対面の人達にも手伝ってもらいながら、田舎風の醤油赤飯を蒸し、友人は鶏肉のパイナップル煮や竹の子ごはんを持って来てくれた。

 預かった夫婦は、夫はドイツ人で開業医、妻は日本人で結婚三十五年にもなる熟年カップルであった。食後は、男組は英語とドイツ語で、研究生括や医療の話に花が咲き、女親は、もっぱら懐かしい日本語での育児や料理の話、親の介護の話 (隣には車椅子に座って一人前の顔をしている介護度5の母が混じっていたのだが……) で盛り上がった。お腹をすかした赤ちゃんの泣き声に、気がついて時計を見たら十時をまわっていた。まだまだ話はつきず、泊まっていったらいいのにと思う程だった。

 帰り際に、「ドイツの開業医は定年制があってね。彼もあと、三〜四年でやめるのよ」と奥様が言った。

「え〜? 本当? 信じられない。この詰もっと聞かせて……」と私。

「今日は遅くなって出雲崎に帰らなければならないけれど、是非ドイツにいらっしやい。続きはその時に」と。

 そして、七か月後、ショートステイに出たがらない母の留守番役の手配ができた十一月下旬に、私達はドイツの田舎の開業医を訪ねる旅に出かける事になった。

「日本からのおみやげは何がいい」の答えは、「おみやげは食べ物のみ。持てるだけ持って来て下さい」だった。同年代の日本女性が好みそうな品々、お茶に羊かんはもちろん、米、酒粕、餅、きなこ等々、三十種もの食材が大きなスーツケースの半分を占めていた。主人に持たせずに私が責任を持って運ぶことにした。彼らの住む、カールスルーエは、人口27万人で、フランクフルトから南へ列車で約一時間の所であった。駅のホームで待っていてくれたが、航空便で送られて来ていた列車の乗車券が手元になかったら約束の時刻の列車には乗りそこねただろう。心遣いがうれしかった。駅から自宅までは、車で走ること十五分。まるで長岡駅から関原に向う様な感じであった。

 たった三日間の滞在だったが、とにかくシャベリまくった。ドイツ語でも英語でもなく、日本語で微に入り細に入り聞けるのだから、こんなに良い事はない。そこでの話のごく一部を紹介したい。

 まず気付いた事は、「○○内科」といった大きな看板は見当たらず、クリニックの入口に、決められたサイズのプレートに、医師名、診療時間、診療内容が明記されているだけだった。注意して見なければ一般住宅か医院かわからない。

 昨年から、ドイツでは家庭医と専門医の二つに分けられて、必ずどちらかを選択しなければならないという。彼は消化器内科であったが、熟慮の末、家庭医を選んだため、内視鏡検査を行う事が出来なくなったという。(検査をしても、請求出来ない)主な医療器具は、心電計とエコーであった。ィ線の装置は、どこを見てもない。レントゲン撮影が必要な患者は放射線専門医に紹介するとの事であった。

 ”Sprech zimmer”の札がかかっていた部屋が、いわゆる診察室だった。机を中にして、ゆったりと患者の話を聞いてから、診察に移るようだ。

 このスタイルは、田舎町の医者だけかと思ったが、大都会のミュンヘンのど真ん中でビルの二階で開業している医師 (このクリニックは、主人の留学時代にお世話になつた教授の好意で見学)についても同様であった。高度な医療機器を駆使して診療されている開業医の先生方に比べ、私は患者さんの話をじっくり聞く事しか出来ないので、日頃肩身の狭い思いをしていたのだが、ドイツの家庭医(一般医)が私とほぼ同じスタイルだと知って、何だか目の前がパ〜と開けた様な気持になった。

 最後に、最も知りたかった開業医の定年は、65才だそうである。

 話し足りない事が、まだまだ沢山あるので、来年の三週間の夏休みに、お墓参りに日本に来る折、長岡に泊まってもらう事を約束して別れた。

 

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三代目の飼犬  一橋一郎(一橋整形外科医院)

 飼犬二代目の愛犬「ちろ」が三年前の暮に亡くなってからは、金輪際もう犬は飼うまいと思ってみたが、やはり犬の可愛さが忘れられず、それを知っている知人のAさんが新しい犬を世話してくれたのが昨年六月末のことで、何でも栃尾の辺りで野良犬となつてウロツイテいたのを彼地の警察が保護して長岡の動物保護センターに連れて来たといい、あと数日で引取り手が無ければ安楽死となる運命だったらしい。実はAさんが犬を我が家に連れて来る前に某獣医院で検診を受けたところ、犬フィラリアの感染が判明し、こんな犬はとてもおすすめ出来ない、悪いことをしたと電話口で泣いて謝ったが我が家としてはそんなことで可哀そうな運命が待っている犬を見捨てる訳にはいかぬと強硬に申し立てて引き取った。

 連れて来られた犬はシバとコーギーとの雑種かと思われる成犬で、可成り痩せており、一寸オドオドした様子からは野良犬時代を大変に苦労していたのだろうと思った。よく見ると数個の乳首が腹部にあり、仔犬を産んだことのある雌犬と判った。

 後に、改めて精査を受けたS動物病院のO先生からは、推定年齢7〜8才で、犬フィラリアの寄生はあるが体力的には内服治療で充分大丈夫だろうとの診断であった。家内は雌犬なので出産を懸念して不妊手術の是非を問うた処、もし仔犬が生まれても引き取ってあげるし、現状では手術はせぬ方が良いとのことで止めにした。斯くしてこの犬は我が家の一員として迎い入れることになった。

 三代目の飼犬の誕生という訳である。

 過去には恐らく飼犬だったと思われ、当然名前も付けられていただろうが、旧名を探り当てるなどは到底無理な話だから、我が家では先代ちろに面影が似ている処から 「ちろ2(ツウ)」と名付けた。初めは車庫内に新調したプラスチック製の犬舎に馴染まず、直ぐにマイカーの車体の下に這い込んで隠れていたが、次第にこちらの好意が通じたらしく、間も無く馴れて来て食べ物を貰う時は指示通りにお坐りをして食べるようになった。でもお手だけは過去の飼主が教えなかったのか、或いは野良犬時代に何か前肢に手ひどい仕打ちでも受けたのか絶対に肢に触れられるのを嫌がり、今でも無理に仕込もうとしてもサッと前肢を引っ込めて逃げるので諦めた。

 面白いのは野良犬時代の名残の習性か、コオロギ、バッタのたぐいのハンティングは抜群で、夕闇濃い頃の散歩での路傍の草むらに虫達の微かな気配を察知するのかサッと一跳ねして鼻づらをその辺りに突っ込み、顔を上げた時には捕まえた虫をもう噛み潰してその侭食べてしまうのには聊か閉口し、家内は 「ちろ2ちゃんは此をしないと良いんだけど。余程、野良犬暮しの間、食べ物に飢えていたのかねぇ」と半ば呆れ半ば同情するのである。

 当初の痩せは、我が家に次第に馴れてストレスから解放され、食生活も安定したせいか、一ときは丸々と肥えて来たのに、今夏の盛り頃に少しスリムになって来た。その上、矢鱈にボコボコと脱け毛が始まり、あまつさえ腹部の乳首が目立って大きく膨らんで来て、その周辺の皮膚に湿疹様のただれが広がって来たので家内も心配して前述のO先生に診察を乞うた処、何と先生日く「やあ、ちろ2ちゃんは想像妊娠しているなあ」 ですと。何でも女性ホルモンの変調で、犬にも起るものだとか!?

 先生の指示通りに体をシャンプーしてやったり外用剤を丁寧に塗ってやったりした結果、一寸秋立つ気配の頃に漸くこの奇態な症状は癒えた。

 本当に吃驚させられた事件であった。

 ところでこの犬はお坐りするとき前肢をやや内またに構え、後肢は一寸横坐り崩しのポーズをとることが多く、それが何とも女性らしい。

 体毛は頭部と腰から尻にかけては赤褐色の柔毛で、頭頂中央に縦長な菱型の灰色毛の紋様が浮ぶ。のどから尻の腹側それに四肢の内側は全て白色の柔毛である。胴周りは淡灰褐色の少し硬い荒毛で、殊に背すじの前半に黒い剛毛の縦帯を散らす。奇抜なのは肩口と両股背側とに黄白色のモアモアの毛あしの長い柔毛の束がモールのようにあしらわれ、さながら縁飾りのようでカッコいい。尻尾は赤褐色で太く、先っぽが黒毛で立派な巻き上りである。

 散歩も元気良く引きづなを引っ張ってグイグイ先頭を往くが、モンロー・ウオーク宜敷く小ぶりなお尻を振りふり歩くので、すれ違う女子高生が「超可愛い!!」なんて言ってくれる程なのだが、一寸おしっこスタイルは、申し訳け程度に腰を落とすものの、雄大のように片脚上げで、時には両方の後肢を挙げての逆立ちポーズまでとることがある。

 又、吠え声は、先代ちろはいかにも女性らしい疳高い声だったのに、ちろ2は、ど太い、割と低い声で吠え立てるので、いきなり発声されると一瞬怖い。それに、過去に余程嫌な想い出でもあるのか背広や婦人スーツ姿の人間が近寄ると身構えて吠え、さらにバックなど手荷物を下げているとこれ又吠え掛かるのである。そしてその行為は家人でも同様なのが不思議である。

 最後に、ちろ2を我が家に迎えて私が一番嬉しいことは、数年来の私の持病である腰部脊柱管狭窄症の自覚的な改善である。とにかく散歩時の最大の苦痛であった間歇跛行の出現が、生真面目にも疎経活血湯EXの服用も欠かさずに使命感に燃えて、晴れても降ってもちろ2と散歩を続けて来た処、随分と散歩の距離と継続出来る時間が延長して来たことで、ちろ2様々と感謝して可愛がっている訳である。願わくば、ちろ2が元気で長生きしてくれんことを心から祈る毎日である。

おわり

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山と温泉48〜その35  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

 小赤沢温泉

 地籍は、長野県下水内郡栄村大字堺字小赤沢。信州秋山の中心地。栄村役場支所(出張所)がある。59世帯。民宿が多い。小赤沢の地名由来は、大赤沢同様判りませんが、赤い水が流れていたためでしょう。此処が、信州・越後の国境(クニザカイ)となったのは何時の時代なのか、これも判りません。しかし、12世紀に平家滅亡、16世紀始めに、上州より人が入っています。16世紀後半には人が住み付いたと言われています。市川健夫氏の「平家の谷」によれば、1598年、それまで支配していた上杉氏の会津移封後、信州秋山は、飯山城主関氏の管轄に入る、とあります。この辺りからでしょうか。

 享保九年1724年には、飯山藩より天領に組み入れられました。明治維新後は長野県下高井郡堺村となり、昭和31年下水内郡水内村と合併、現在の長野県下水内郡栄村の行政区分となつています。

 国道405号線は、大赤沢集落に入り、右に木工所兼観光物産店、「蛇淵の滝」(註):入り口の小さい標識を過ぎると、左にほぼ直角に曲がる。曲がると、右下に、流れの激しい硫黄川の流れる急斜面を削って出来た直線道路。約二百米前方に、硫黄川に架かるコンクリート橋が見える。橋迄の路は狭く、仮舗装は荒れ、車の交換が出来ず、交互通行になりますので注意。橋からは広く、道路舗装はしっかり出来ている。橋からは、長野県。道路端に「信州秋山郷」の立派な木製看板が建ててある。此処から先の信州秋山郷内に見る国道405号線は、2車線道路で立派に舗装されています。それにしても、越後秋山郷内の道路は、狭く荒れているのは、どうした事でしょうか?

 大赤沢から二粁半で小赤沢。山の中では少ない平坦な路を行くと、間もなく山の斜面に在る秋山郷最大の集落、長野県下水内郡栄村小赤沢に入る。国道から左折、僅かに上ると、学校を思わせる、大きい建物の前に出る。これが「秋山郷総合センター」 です。この中に、栄村役場秋山支所、秋山郷観光協会、小赤沢簡易郵便局、福祉施設、などが入っています。秋山郷全般の情報が集まっているので利用したい。ここのまわりに、苗場山神社、十二神社もあります。小赤沢温泉へは、一旦国道に戻りすぐに左折、傾斜のキッイ路を上る。左右に3〜4回廻ると、急傾斜の屋根をもつ背の高い建物「楽養館」前に着く。小赤沢温泉栄養館は、集落の一番高い処にある傾斜地の平らに建てられたもの。標高約九百米。西側の景観は抜群、殊に、深い谷を作る中津川を挟んで対岸に従耳える「東洋のマッターホルン」?鳥甲山(2038m)が迫る姿は、なんとも言いようもない。

 

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妖怪天国〜ルーナティック・ドーン(竜の背に乗って)4

  岸   裕(岸内科・消化器科医院)

 そのあと竜はどうなつたか、ですって。私は前述の関栄吉さんから直接伺った事もあるのですが−(以下マイスキップ2002年8月号から抜粋) 立弦は他の主になつてからも霊験をあらわし、貧しい村人が池のほとりに行って「立弦さま、立弦さま、あさって、よびごったくで十人前の膳椀がいるんだが、どうか貸してくらっしやれ」とお願いするとその朝には、池のほとりにちゃんと膳椀が揃えてあった。この折、借りたそ椀を返さない不心得者がいたが、そこの家には悪いことが続いて起こったので、村人の立弦様への信仰は益々篤くなった。しかし、時が経つにしたがって、立弦の教えもひとびとの心から忘れ去られ、人の心がいよいよすさんでゆくのを嘆いた立弦は、吉谷(よしだに−小千谷市)の郡殿(こおりどの) の他に移ってしまった。主がいなくなった立弦池は、どんどん小さくなつて影も形もなくなってしまった−ということです。

 現在私が時々往診に行っている高島町(高山 には鎮守の神明社がありその境内に「立弦池王宮」と彫られた立弦碑が残されています。今は大池は無いものの、もともと高山の水は大変美味しく、私達の水道は三十年程前までは水源に高山の湧水を使っていたので冬暖かく夏冷たく、暑い日など水だけで正に甘露の味わいだったのですが、世帯数と使用量の増加に供給量が追いつかず結局信濃川からの給水に切り替えられ、途端に味が悪くなり大いにがっかりした事を憶えています。

 この竜の話は古くからこの辺りに伝えられたものらしく、私も子供のころに年寄りの人から教えて貰いました。特に膳椀の話が印象に残っていますが、説教じみているからでしょうか。当時でも何となく納得のいかない感じ(つまりは神様というものはお賽銭を払って願い事をすればそれをかなえてくれるものという時代にあって、貧乏人が膳椀を返さなかったくらいで回復不能のダメージ(罰)を与えるという)があったのですが、いま考えてみれば神様というものは本来は信賞必罰の存在ということなのでしょうか。

 関栄吉さんは、最近は若い人にはこの話を知らない人も多くなってきていることを憂い、なんとかこの話を地元に残したいと地元の岡南中学の生徒たちに機会があるごとに話している、と仰言っていました。

 この地区はずっと昔から変わらない農村地帯ですので、伝説とまではいかなくともさまざまな地元にちなんだ話も残っているようで、当方が開業した当初は地元のお年寄りからそんな話を伺ってみたいと思っていたのですが、まだなかなかそんなゆとりができません。

 山の話川の話そして人の話、そう、私の家のすぐ”かみ”の方(南がわ)にも浄土川というなにやら所縁(ゆかり)有りそうな名前の川があります。小さいながらも以前は暴れ川で、数年前に護岸工事が完成するまでは台風シーズンになるとしばしば氾濫し、だから当方が町内の役員に当たった年などは秋になると台風が来ないようにひたすら祈ったものです。

 そんな土地柄ですから私がしばしば少し酔っ払って半酔眼状態で見るちょつと風変わりな生き物たちはやっばり本物の妖怪たちに違いないと思っています。

 え、でアルジャーノンはどうしたか、ですって。彼は私がその半酔眠状態で″ぽん・じゆ〜る″の事を考えている時に限って私のところへ来るようです。今日はどこかへ遊びに行っているようですがまた戻ってくることでしょう。(次回へ続く)

 

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