長岡市医師会たより No.286 2004.1

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。

もくじ
 表紙絵 「屈斜路湖の夕日」    八幡 和明(長岡中央綜合病院)
 「新年を迎えて」         会長 齋藤良司(齋藤皮膚泌尿器科医院)
 「新春を詠む」
 「表紙に寄せて〜とっておきのリゾートをご紹介」」八幡 和明(長岡中央綜合病院)
 「園内紙「憩」より」       亀山 公平(サンプラザ長岡)
 「山と温泉48〜その36」    古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「この胸のときめきを」      郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

屈斜路湖の夕日   八幡和明(長岡中央綜合病院)

新年を迎えて  会長 齋藤良司(齋藤皮膚泌尿器科医院)  

 明けましておめでとうございます。厳しい医療経済の中、会員の皆様には如何新年をお迎えでしょうか。

 昨夏、財務省から早々に診療報酬の再引き下げのアドバルーンが上げられ驚きましたが、昨年は交渉の場は再び中医協に移り、日医は前回の改定後のレセプト調査の結果等を根拠に頑張り、診療報酬本体の改定率は0%に漕ぎ付けました。しかし細部についてはメリハリのきいた改定がなされるらしく、又薬価は診療報酬全体で1%の引き下げとはいえ、施設によっては納入価の問題もあり楽観を許しません。

 ここで当医師会の最近の活動を少し振り返ってみますと、先ず新会館の竣工が挙げられます。これは会員の皆様の一致団結の賜物であり、そのご支援とご協力に深く感謝申し上げます。ご承知のように新会館はこの度、長岡市の第一回景観賞を受賞いたしました。高い評価をいただいたことは名誉なことであり、会員の皆様と共に喜びたいと存じます。

 又、昨年四月から長岡市医師会内に地域医療連携運営委員会を設けました。これは開放型病床の円滑な運用を計るためであり、先ず長岡中央綜合病院と立川綜合病院が中心となり活動を開始しました。長岡市医師会会員のみならず、近隣の郡市医師会からの参加登録も増加しつつあるとのことで滑り出しは順調のようです。先に当医師会の医療機関機能マップも完成しており、各病院の病診連携室と相侯って在宅医療の力強い支援となると思います。

 次に昨年十二月、当医師会は新潟県より長岡地域リハビリテーション広域支援センターに指定され、その事業を委託されました。この事業は地域リハビリテーション従事者を広域的に支援することが目的です。その協力病院には悠遊健康村病院をお願いしました。昨年十二月に第一回連絡協議会が開かれ、本年一月から集合研修が始まります。

 今年は更に大きな難題が待っています、先ず小児救急医療充実の問題があります。この間題は県の行政レベルで何回か討議されており、当医師会でも二回ほど意見交換の場が持たれましたが結論に至っていません。その他に救急医療の際の病院前救護のメディカルコントロールの研修の実施、市町村合併に伴う地域保健活動の変化への対応等があります。

 長岡市医師会は新会館を拠点にして会員の皆様の円滑な診療のお手伝いをすると共に、行政や地域の人々と力を合わせ、地域保健活動にも積極的に貢献したいと考えています。今後とも会員の皆様のご協力とご支援をお願い致します。

 最後に会員の皆様のご健勝とご多幸を祈念し新年のご挨拶とします。

 

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新春を詠む

みそなはす 神の峰々 初スキー  渡辺修作

一筆の寸言 潔き賀状かな  荒井紫江

初日記 背筋伸ばして 立ち向かふ  十見定雄

恵方へと送る 外泊患者様  伊藤 洸

絵双六 上がるるまでの百年と  郡司哲己


表紙に寄せて〜とっておきのリゾートをご紹介  八幡和明(長岡中央綜合病院)

 数年前、夏休みの計画はどうなっているのと聞かれてはたと困ってしまったことがあります。毎度のことながらまだまったく予定が立っていなかったのでした。どうしよう、もうどこも宿が取れないのではとあわてている時とっておきの穴場を教えてもらいました。

 新潟からわずか1時間ちょっとのフライトで女満別(めまんべつ)空港に着きます。そうここは北海道、それも東のはずれです。北海道なんて何度も行ったという方も、意外に道東まで足を延ばした事はないのでは。車でちょっと走れば、あの歌で有名な霧の摩周湖や知床の岬、マリモが育つ阿寒湖などがあります。そうよく知っているようでありながらまだ訪ねたことがないという人は案外多いのではないでしょうか。そう思って考えると、アメリカやヨーロッパより遠いところがまだまだたくさん日本に残されているんでしょうね。

 それなら行ってみようかなと思っている御仁へ一言……「地味です」。誰かの歌じゃないけど何もないところです。テーマパークがあるわけじゃなく、ショッピングできるわけでもありません。今日何をしようかと考えても別にたいしたことができるわけではないようです。

 ただあるのは風景のみ、あとは頬をなでる心地よい風とすきとおった大気と静寂のみです。

 なかでも私を虜にしたのは屈斜路湖の夕日です。夕闇のせまるなかなんとも心洗われる全く音のしない世界。余計なものはいらない、刻一刻と変わっていく空とそれを映す湖さえあれば。

 太陽が沈むまでスケッチブックをとりだしてパステルを走らせてみました。毎日の慌ただしいできごとや都会(?)の喧噪なんて一瞬のうちに全て消し飛んでいってしまいます。

 そしてそのあとには……宝石箱を投げ出したような満点の星屑。そう周り全部が360度星空です。まるで宇宙に一人仔んでいるようです。

 こんなとっておきのリゾート、思いついた時にいつでも飛んでいきたいのですが……でも新潟から女満別に行くのは夏の間だけの季節限定フライトなのです。今年の夏休みにいかがですか?

 

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園内紙「憩」より  亀山宏平(サンプラザ長岡)

はじめに

 私の現在勤めております老人保健施設「サンプラザ長岡」は平成元年9月に創立されました。その年の12月、利用者の家族と施設との連絡、協力関係の樹立を願って、家族会が創設されました。更に利用者及び家族会の方々と施設との連携強化を計る手段として、翌平成2年3月に園内誌「憩」が発刊されました。

 爾来毎年1月と8月の2回刊行が続いております。私は新年号に新年の御挨拶を述べるのを常としております。しかし平均85才で、生活経験もいろいろの130人余のお年寄り及びその家族に、どの様な御挨拶をしたらよいものか大変悩んできました。お年寄りが希望をもって毎日を過ごしていただきたいと念願して何とか毎年書いて来ました。

 最近の4年分を今月号と来月号の2回に分けて、先生方のお眼にかけ、お年寄りと話される折の御参考になればと願い、載せていただくことにしました。御笑読下さい。

新年の御挨拶

 明けましておめでとうございます。皆様方には御元気で新春を迎えられたことを御喜び申し上げます。

 昨平成10年は長びく不況の許、倒産・リストラ等の記事が多く、失業率も最高、金融界・経済界にも明るい話題はありませんでした。

 剰(あまつさ)え動機不明の毒物混入事件等、暗い世相を象徴する様な厭な事の多い年でした。

 明けて今年は兎年、兎年生れの運勢は天性心美しく、人に愛され、性格温和で従順にして云々とあります。兎年には明るい雰囲気が感じられるのですが、今年は諸情勢が好転し、社会に明るさが戻ることを期待したいものです。

 所で最近私は「老よありがとう」という詩集を読みました。著者は東井義雄氏と申され、55年教職・住職を勤められ、各種の教育関係の賞をうけられた方です。この本を一読し非常に感銘をうけました。特に「老を生きる身になってみて」と題する詩は皆様方に是非紹介したく、本紙面を借りました。長い詩ですのでその一部の引用に止めます。

 (前略)

 神戸の 全盲の六年生の男の子が 先生に

 「そりや先生/もし見えたら/まっ先に/お母ちゃんの顔が見たいわ/

  だけど/もし/見えたら/

  ぼくなんか/あれも見たい/これも見たいと/

  気が散って/ダメになってしまうかもわからへん/

  見えんかて/別にどうということもあらへん/

  先生/そりや/見えへんのは不自由やで/

  でもぼく/不幸と思ったこといっペんもあらへん/

  先生/不自由と不幸は/違うんやな」

 といったという

  大好きな/お母さんの顔さえも見たことのない/

  闇の世界を生きながら/何という/明るさだろうか/

  老いて見えにくくなってきたことは事実であっても/

  聞こえにくくなってきたことが事実であっても/

  まだ見えたら/まだ聞こえたら/

  それは充分/よろこぶに催することではないか

 (以下略)

 東井先生はこの後に自らの老いの身を顧み、身体の各部に不自由があっても、何とか自分の為に動いてくれている事に感謝したい。全盲の6年生の子が教えてくれた様に不自由と不幸は別なのだということに目覚めよう。そうすればたとえ姿・形を見る目は不自由になっても「おかげさま」と感謝する目が与えられよう。その日で毎日をみつめれば「老」でさえ「老のおかげさまで」といいうる世界が拓けてくるとのべておられます。

 私も70をすぎ身体の衰えを常に感じますが、東井先生の言われる様に老を受止め、願わくば「老のおかげさまで」という心境に近づきたいと願っています。皆様方にも老を明るく受止め、本年を心豊かにすごされます様お祈りし、新年の御挨拶といたします。 (平成11年1月)

高らかに老いの産声を上げよう

 利用者の皆さん、家族会の皆さん、職員の皆さん、明けましておめでとうございます。平成13年は21世紀の初めの年として、期待を持って迎えられましたが、世界的の大不況は改善されず、むしろ悪化の傾向を辿り、剰(あまつさ)え9月には米国に於いて、同時多発テロが発生し、ひき続きアフガニスタン紛争と暗いニュースが続きました。ところが12月1日には皇太子殿下御夫妻に王女御誕生という明るい知らせに国民はほっとし、幸せな気分に浸ったことでした。

 新年に際して皆様にお贈りする御挨拶にと、本を見ておりましたところ、「抜萃のつゞり」と言う本の中に「老いのうぶ声」という言葉を見かけました。何という響きのよい言葉でありましょう。老いてから新ためて生れ出て来て声を上げる。このことを「老いのうぶ声」と言うのだそうです。昔は年寄りの冷水と言い、年寄りは何かにつけ控えめがよいと言う考えがあり、それでも敢えて何かしようとする時、テレかくしに年寄りの冷水と言ったものです。

 「老いのうぶ声」は自分の稚拙さを自身認めてはいるものの、積極的な意志が感じられ、今後どこまで成長するか楽しみを感じさせます。

 長寿社会を生きておられる利用者の皆さん方にはお一人お一人自分の老いのうぶ声を上げていただきたいと思っています。この言葉は92才になられたお茶の水女子大学名誉教授、波多野完治先生の最初の句集の題名とのことです。先生は80才で俳句を始め、12後に初の句集を出されたのです。俳句に限らずどんなことでもよいと思いますが、希望(目的)を持って生きることが、産声を上げることに通ずるのです。字を上手に書く、手芸で何かを作る、生き抜いて孫の花嫁姿を見たい、百才を迎え、総理大臣表彰を受けたい。何でもよいのです。それぞれのうぶ声を上げましょう。王女さまの「うぶ声」に合せて皆様方の「うぶ声」がサンプラザ棟内に高らかに響合うことを念じて、年頭の御挨拶と敦します。 (平成14年1月)

 

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山と温泉48〜その36  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

 屋敷温泉

 地籍は小赤沢と同じ長野県下水内郡栄村大字堺字屋敷。37世帯。屋敷集落は、小赤沢集落とは、中津川を挟んで、対岸・左岸の台地に連なる鳥甲山の急斜面にあります。温泉は、集落の更に下った中津川左岸河畔にあり、宿は2軒。小赤沢から半里、約2キロ、平坦な国道を行くと間もなく、右下の中津川河畔に白い鉄筋の小学校を中心に、両河畔で数件の家が見えてくる。国道から右に奇麗に舗装された急坂の路を下る。川原近くになると、路は分岐、右折すれば、小学校に入る。直進し、狭い橋を渡り右折、中津川左岸を川沿いに下ると、先ず、「かじか荘」、ついで「秀清館」の前に出る。先は行止り。橋から直進し急坂を上ると、屋敷集落に入る。屋敷集落は、和山、小赤沢、などの集落よりは新しいと言う。集落の北にあった 「大秋山村」は天明年間の飢饉で餓死し、墓石を残して消えた。鈴木牧之の「秋山記行」に記述がある。

 「秋山郷の地学案内」(島津・関沢)に、屋敷温泉に就いて次のような記述があります。「屋敷温泉は自然涌出と200メートルほどボーリングした源泉を利用しています。硫化水素の臭いが強く、湯の華が顕著です。秀清館とかじか館は同じ源泉を利用しています」。温泉の温度54度・含塩化土類硫化水素泉・硫黄泉(秋山郷の地学案内)。「かじか荘」のお内儀さんは、「お湯は裏の崖下から出て(涌出)、53度だったそうだ」と言っていた。温泉行脚で有名な、亡き「美坂哲男」氏は、昭和57年、鳥甲山に登り、「かじか荘」に泊まっている。この時以来26回も通っている、と「山のいで湯行脚」に書いている。私も、3回「かじか荘」にやっかいになつた。お内儀さんは「美坂さんは、毎年、正月に泊まってくれます。」と話しています。鳥甲山2038メートル、登山の登路は、和山道と屋敷道の二路。大変難儀な山です。標高差1300メートル。秋山林道の和山登山口から登り始め、痩せ尾根を唯ひたすらに登る。梯子、鎖場はあるにしても、登りは脚は痛まない。しかし、頂上から、屋敷集落に下る屋敷道は、急坂の連続。ノゾキ迄はゆらゆらと降りるのですが、1600メートル付近から、屋敷道登山口の林道迄は、叩き堕ちる様、膝を痛めます。漸く林道に降り立つ、さあ温泉と、意気込んで集落に入ると、これから更に、標高差にして100メートル余の下り、中津川の川原迄、なんとも時間のかかる事、砂利道が頭に響きました。結局、登り時間、降り時間、殆ど同じ時間で、11時間かかって仕舞いました。硫黄泉は肌触りが良く、匂いは脚の痛みの治療薬になりました。数年後、和山より登り、屋敷に降りる、同じ登行をやりました。30分早くなりましたが、膝は同じでした。露天風呂ができていました。しかし学校の横合いにあった危なつかしい吊橋は、上流に橋が出来たためなくなりました。

 洪水はどうでしょうか?

註:秋山郷の地質・温泉については、島津光夫・関沢清勝氏の「秋山郷の地学案内」・「新潟温泉風土記」など、参考にさせて戴きました。(つづく)

 

 

 

 

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この胸のときめきを   郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 長岡駅から歩き始めると、にわかに胸に異常な動惇を感じました。

「おわっ、心臓発作。わたしの太く短い人生もこれで終局か?」…と瞬時に思いました。人間の思考回路はおもしろいです。ほとんど同時に事の真相にも思いあたりました。

「ああ、なんだ。胸のケ一夕イが俺を呼んでるぜ。」

 恥ずかしながら、わたしはこれまで携帯電話を常時スタンバイで持った経験なしでした。あわててワイシャツの胸ポケットから新品の携帯電話を取り出しました。呼び出しをマナーモードの振動に設定してあったわけです。アンテナ内蔵型で、わずか百グラムの手のひらサイズです。

 携帯電話を開くと、相手は留守電吹込み中と画面表示。通話ボタンを押すと、家人の明るい声が聞こえて来ました。

「もしもーし。あたしでーす。」

「どうした?なにかあったの?」

「ううん、今日は午後から新潟で会議って言ってたわね。夕食の準備の都合でお帰りは何時か聞こうと思って。今はどこなの?」

「ああそうか。たった今長岡駅に着いたところ。だから20分後の帰宅予定かな。それで晩御飯のメニューはなんだい?」

「あすか鍋とぎんなんごはんよ。」

 飛鳥鍋? 銀杏ご飯? なんだそりや? 「夫婦ふたりの健康ご飯・一汁一菜」とかいう本が食卓にあったが、その献立ででもありましょうか?

 ケ一夕イに話は戻ります。新年はまさに元旦の買い初め品です。大型家電店のY電気で購入、正確には数年ぶりの買い替え。それまで出張時は携帯電話を所持、必要時のみ電源を入れてかけていました。もともと電話嫌い。自分の番号は誰にも教えていません。かかってくる心配はなし。めっきり見かけなくなった公衆電話代わりの使用でした。

 買い替えの際、VF社(元DT改めJP社改め)の窓口のお姉さん、わたしが差し出した古い機種に目を丸くしていました。

「まあ新品同様ですね、4年もご使用なのに。わたし、なんか感動しました。ていねいにご使用くださりありがとうございます。」

「いえ、どういたしまして。そのなんていうか、月に数回しか使用していませんでしたから。」

 こんなオジサンですから、多機能より簡単コンパクトが選択基準。ところがないんですね、シンプルライフ向け機種が。みなデジカメつき。先ほどのお姉さんには「お客様がその機能はないつもりで、お使いになればお邪魔になりませんわ。」とていねいにお教えいただき…とほほ。

 留守録、Eメール、カメラ、動画記録、スケジュール手帳ありです。「基本操作」のマニュアルの厚さ500頁。こんなもの読むか。でも何も知らなくても、電話機の画面の便利な基本指示に従い、番号選択するだけでけっこう使えちゃうんです、これが。携帯電話が日本中に普及しているのも納得です。

「あたしもケ一夕イを持ってみようかな?」と家人。家族契約は半額割引で家人の携帯電話機も購入。

 かくてオジサンとオバサンも最新機能満載のケ一夕イを持つことになりました。さしあたり外出先での待ち合わせ連絡にはその威力を発揮することが判明しました。あいかわらず他のかたに電話番号は教えていません。ですからケ一夕イがかかって来ますと、画面の表示を見なくてもその相手が誰かはすぐにわかるんであります。

 

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