長岡市医師会たより No.289 2004.4

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。

もくじ
 表紙絵 「春の河川敷」  丸岡  稔(丸岡医院)
 「新しい出発」   会長 齋藤良司(齋藤皮膚泌尿器科医院)
 「一五一会」       岸   裕(岸内科・消化器科医院)
 「私の研修時代」     田村 康二(悠遊健康村病院)
 「会員著書紹介」     石川  忍(石川内科クリニック)
 「山と温泉48〜その37」  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「さくら」        岸   裕(岸内科・消化器科医院)

春の河川敷   丸岡 稔(丸岡医院)

新しい出発  会長 齋藤良司(齋藤皮膚泌尿器科医院)  

 この度、皆様のご推挙により、引き続き三期目の会長職を務めることになりました。日増しにその責任の重さを痛感する今日この頃です。新しい執行部共々これまでに変わらぬご指導ご鞭撞の程お願い申し上げます。

 新緑の季節を迎え、新会館は春風の中、一段と爽やかな景観をみせています。そのせいか今年は不思議に何か新しい風を感じます。テレビは毎日心が痛む中近東の混乱を報じる一方で、桜を長く楽しめた今年は景気が良くなるだろうとの予測を伝え、最近の景気指数も改善傾向にあるとメディアは報じています。我々の実感には程遠い気がしますが、医療経済の回復にも追い風となることを願っています。

 先日の日本医師会代議員会で圧倒的多数で植松新会長が選出され、日医の執行部も一新されました。植松新会長は所信表明で日本医師会の透明性と国民に理解され共に歩む医師会を強調されました。会員の納得できる新しい強力な施策が打ち出だされることを期待します。

 郡市医師会は直接住民と接する医師会活動の最前線です。個々の医師の活動は国民の信頼獲得に直結します。そのためにも医療情報の開示やインホームドコンセントは大切な手段となります。また、病診連携・診診連携は在宅医療に加え、患者の求めるセカンドオピニオンに対する有用な手助けとなります。そして無用の医事紛争への備えとなりましょう。

 さて、長岡市医師会の業務に目を向けてみますと、今年は多くの新しい課題が待っています。

 第一に市町村合併に伴う地域保健活動(住民検診、学校保健、乳幼児健診、予防注射、介護保険、救急医療、産業保健など)への対応があります。当初私見では、市町村合併が決着し、郡市医師会の再編が終了した後に地域保健の問題を考慮し、それまでは従来の区分で対応した方が良いと考えていました。しかし、この保健活動のなかには行政区分と一体化したものもあり、問題はそう簡単ではなく、早急に対応策の検討に人らなければならないことが最近わかりました。これに関する検討委員会を近く立ち上げる必要があります。

 次に先月号で内藤万砂文先生が解説しておられたACLSの研修会を、会員を対象に今年から実施したいと考えています。これは医師としてこれからの時代必ず習得しておかなければならない技術であり、また、これにより救急救命士へのメディカルコントロールも一層充実されます。

 最近話題になつている乳がん検診のマンモグラフィー、前立腺癌の早期診断の腫瘍マーカー(PSA)が平成17年度より住民検診に導入される予定です。それに伴い医師会の準備態勢の検討も急がれます。また今年からスタートする医師の卒後研修制度には、病院のみならず診療所での研修もカリキュラムに含まれ、その協力が求められています。

 禁煙推進活動のため長岡市医師会の新会館内は全面禁煙とし、先日も禁煙についての講演会を行ったところですが、日本医師会、新潟県医師会も今年は禁煙推進活動を大きく取り上げています。この3月20日県医師会主催の禁煙指導者養成研修会が持たれ、当医師会からも鈴木新理事に出席して頂きました。医師会員自身がその指導者になることが期待されています、近く全会員にアンケートをお願いし、今後の具体的活動の参考資料とさせて頂く予定です。ご協力お願い致します。

 今年度は多くの課題を抱えてのスタートであり、医師会の新しい出発の年を思わせます。役員の皆様と力を合わせ責務に努めますので、ご支援の程宜しくお願い申し上げます。

 

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一五一会  岸  裕(岸内科・消化器科医院)

 あ、字まちがってるんじゃないの、と思われた先生方、…すみません。でも今回はこれでいいんです。これはここ2か月余り私が毎晩いじくり回している楽器の名前なのです。アコースティック・ギター(エレキでないごく普通の木製ギター) の一種だと思いますが、“世界一簡単に弾き語りの出来る楽器”と言う歌い文句に、割と何でも新しいもの、変わったものに興味を示す(そして下手をするとすぐ厭きてしまうかもしれない)私としてはまだ厭きの来ていない代物なのです。

 数か月前に島村楽器店に注文したのですが、「出来てくるのに数か月から半年くらいかかります。日本のギター製作所でギター専門の職人が注文を受けてから一本一本作りますので…」という店員の言葉にやれやれと思いながら注文し、出来てくるまでしょうが無いから三線(沖縄の三味線)でも弾いていようかと考えていたところ、割と早めに出来てきたのです。

 それで何を弾いているかというと(もちろんほとんどギターと同じ音色なのでジャズでもクラッシックでも何でも出来る筈なのですが−上手なら)とりあえずは自分が歌える歌は全部弾けるようにとこころざし、一日一曲づつマスターすることを目ざし、まずは加山雄三の「お嫁においで」から始めて「憧れのハワイ航路」をカバーして Tああ、俺がものごころついた頃はハワイって一か月もかかって船で行ったんだUなどと感慨?を新たにし、あの青春のころのアリスの「冬の稲妻」や国民的愛唱歌の「晶(すばる)」へとマスター(と言うほどのもんじゃあ有りませんが)していくうちに次第にTなつかしのナツメロ歌謡番組の気分Uにどっぷりとひたっている自分に気づき、それじゃあと、ルイ・アームストロングの 「What a Wonderful World」やオードリイ・ヘプバーンがギターを抱えて歌っていた「ムーン・リバー」、サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」などをやってみてT英語の歌は難しいが、やっていくうちにだんだん発音も良くなるU(などと誰も褒めてくれないので)一人悦に入っているうちに、あの歌が流行っていた時は東京で学生生活をしていた、安い映画館であの洋画を見ていた、などと思い起こすと誰に聞かせる訳でもないが、とにかくこの曲を自分なりに弾けるようにしようと意気込んで練習し、ハテ、オリジナルはどんなんだったろうか、と本棚のうっすらと壌をかぶったCDの束をごそごそとかき回し引っばりだしてあらためて聞いてみるとさすがに一世風靡したものは違う、という圧倒的な凄さ、素晴らしさ(としか言い様がない位凄い)にもう一度改めて一人で感動しています(これがオタクと言うものでしょうか)。

 で、ギターでなくて一五一会を抱えて、やっぱり俺に合っているのは裕次郎かな?などと思いながら「夜霧よ今夜も有難う」をうなっていたりします。

 という訳で、練習は時に深夜に及び、当然の事ながらTうるさいUと文句の出ない様に消音器を付け、ピック(プラスチックの爪)はつけず指で弾いているので、およそ上手とは言える訳がありません(と言い訳をしているのです)。それでも乗ってくると次第に声がでかくなるのか、翌日に息子から「昨日夜中に猫が遠吠えしてたニヤ」などと冷やかされながら T猫じゃないわいUと頑張っています。

 この一五一会はBEGINという沖縄のグループ(「涙(なだ)そうそう」「恋しくて」「鳥人(しまんちゅ)ぬ宝」などを歌っています) が三線とギターをチャンプルー(合体)させて作ったという楽器ですので、三線の手軽さでギターが弾ける(チューニングが三線と同じなので直感的にギターのコード(和音)が出せる)ようにできている面白い楽器なのです。曲を知っていて歌詞さえわかれば自分でおおよそのコードを付けられるので、最近は「ララミー牧場」や「ローハイド」などの私達が子供のころのあの懐かしい国民すべてがテレビにかじりついて見ていたというTV西部劇のテーマソングを弾いてみて「あ、こんな曲でも結構弾けるんだ」と一人悦に入り、あのころを思い出し懐かしむのはまた格別です。

 で、いろいろと曲目を並べてみても若い人たちには親父たちのナツメロじゃないの、としか思われないでしょうが(でも「ゆず」だって弾けるんだぜい、なんちゃって)、あの歌を口ずさんだあの時を振り返り、あの時あの歳であの時代だったからあの歌が…と(やっぱりナツメロか)その曲ごとに一期一会の思いをかみしめています。

 

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私の研修時代   田村康二(悠遊健康村病院)

 1960年に大学を卒業したので、私の研修時代はすでに半世紀も前の事になる。この間に時代は大いに変わってしまっている。更に目分の考えは自分にしか通用しないと思っているので、若い研修医に役立つ昔話は出来そうも無い。しかし編集者の依頼があるので筆を取る事にした。

 当時はインターン制度があったので、米国海軍基地の横須賀病院で研修を始めた。米国人の患者を診るので基本的には米国内の病院で働くのと同じであった。「君は大学で本当に臨床医学を学んできたのかね?」としばしば問われた事には困惑した。卒後5年目に米国内の病院で働き始めたときに「君は心臓病学を本当に日本で学んできたのかね?」と同じように問われた事を思い出す。私の同級生である斎藤良司医師会長に或る時「日本の臨床のレベルは未だに極めて低い。」といったら、「そうかな?」と彼は半信半疑であった。彼にしてもそう思うのは無理からぬことと思う。実態は経験した者でないと分からないからである。この時のインターン仲間でたまに会って昔話をすることがある。その時皆が異口同音にいうことは「50年前に我々が受けた様な優れた研修を、未だに今の医師達にしてやれない。」という感想である。してみると日本での臨床研修は少なくとも50年以上も米国に遅れて居ると言える。その理由は何だろうかという事を長年考えている。答えは医療や研修をする構造とシステムの悪さにあると思っている。更にはこの悪いシステムを作り上げて来た考えに根本的な間違いがあると考えている。研修医を引き受ける施設や医師達は「そうかな?」と思って、共に将来への打開策を考えて欲しい。

 曹洞宗の開祖である道元は中国で禅宗を学んで帰国した時に「自分は日常生活をする上では中国語は何ら不自由しなかった。しかし禅の教えとなると七割しか中国語を理解できなかった。だから中国の仏典を翻訳する時には残り三割は私の推測で書いた。」と書き残している。医療も禅と同じく文化である。だから私にも米国の医療やその背景にある文化の七割も把握していないだろうと思う。米国へ毎年旅していても、その度に米国の変化の速さにはいつも驚かされるからである。ただ日本での研修制度が米国並みに稼動するには今後少なくとも100年は掛かるであろうと思っている。余りにも多くの様々な障害があるからである。

 しかし今の人はそれを待っては居れない。研修医に助言できることは研修のための良いシステムがある施設でよい指導者に巡りあえる様に自助努力をすることであろう。さらに能力のある者は一人でも多く米国での臨床研修をうけて良い指導者に育って欲しいと念願している。

 

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会員著書紹介 杉山弘道著「物忘れ ボケ 痴呆」

石川 忍(石川内科クリニック)

 杉山弘道先生が「物忘れ ボケ痴呆」という本を出版されました。執筆のきっかけは介護保険の開始にあったようですが、後書に「痴呆を中心に自分の考えている事も交え、少し新しい知識も加えて自分の頭の中をまとめてみました。」とあるように老化や痴呆について一生懸命に勉強されそのエッセンスを私達に分り易く教えて下さったという感じの本です。

 内容は五章に分れ第一章「老化」、第二章「記憶と判断」、第三章「物忘れ ボケ 痴呆」、第四章「痴呆をもたらす疾患」、第五章「介護」となっています。どの章を読んでもその充実した内容に目を見張ります。調べられた書物、文献は膨大なものになったに違いありませんが、これらの文献の受け売りでなくきちんと著者の考えによって取捨選択されています。面倒な表や図は最小限にして面白く読めそれでいて老化、痴呆、介護についての広い知識をいつのまにか得ることが出来るようになっています。要所要所に自ら経験された症例が要領よくまとめられていてそれが理解を一層深くしてくれ、大切なポイントは筒状書にされていて正に痒い所に手が届くようです。細かい内容は省きますが「徘徊も事情が許せば一緒に歩いてあげるのも一つの方法かもしれません」とか「痴呆老人は寂しく不安感をもっているのです」、「痴呆老人が暴力を振るったり介護に抵抗を示すのは脳の障害による中核症状ではなく現在の環境、或いは過去の処遇に対する反応性の症状である事がしばしばです。」などの指摘は大切で著者のお年寄に対する深い思いやりを感じます。

 必要な所だけ読んでも充分役立つのですが通読することで見えてくる事があります。本の目頭に「ここでは長寿になった故に問題が大きくなった痴呆、ボケ、物忘れについて、自由な発想で若干の偏見も交えて書いてみたいと考えます。時々話が横道に逸れて読みづらい所があるかもしれませんが御容赦下さい」と書いておられますが、この「若干の偏見」や「横道」がこの本のスパイスとなって単なる教科書とは違ったものにしているようです。著者がこの本を書きながら老いるという事はどういう事なのか深く思索している姿が浮かんできます。私の両親も高度の痴呆を経て亡くなってゆきました。患者さんとして呆けたお年寄はたくさんみていたのですが自分の親が呆けていく姿をみるのはまた別な辛さがあります。自分もやがて老い呆けていくことは避けられないことです。この本はその時の道標のようにも思われます。

 活字が大きくて老眼の始まった私としては読みやすく助かりました。ごちゃごちゃと書き過ぎたようです。原著を読んでいただくのが一番と思います。

 

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山と温泉48〜その37   古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

 上の原温泉

 地籍は、長野県栄村大字堺字上の原。「上の原」か、「上ノ原」か、「上野原」のいずれか? 観光案内書は「上野原」になって居るので「野」のほうがいい。深い渓谷から国道401号に登り詰め、二つ回りで東側斜面に集落が現われる。津南町から中津川の峡谷を通って来ると、舞台の幕が開いてゆくように風景が変わる。小赤沢、屋敷集落を過ぎると明るい空が広がる。深い谷は視界から消え、東の苗場山は遠くなり、開けた斜面に22世帯の上野原集落がある。この上野原一帯の地層は「上ノ原溶結凝灰岩」といわれ、鳥甲山が火山活動で生まれ、高温の火砕流上の原温泉「のよさの里・放之の宿」として流れたものだそうです。(秋山郷の地学案内)約130万年から70万年前の事だそうです。気の遠くなるような話です。近年まで、巨木を混じえた深い原生林に蔽われた山の斜面であったのでしょう。県内の秘境とされている、三面、銀山平も、巨木の深い森であった。森の僅かに空いた 「森の隙間」からは、焼き畑の煙が立ち昇っていたのです。日本国内の秘境とされている郷は、二重三重の山並みに囲まれた桃源郷を思わせると伝えられていた。しかし、生活は苛酷で、生きて行くだけで精一杯、何故こんな処に住んでいるのか、の疑問も与えない悲惨さであった。九州の椎葉、四国の祖谷、信州の木曽谷、いずれも、清らかな水が堅い岩を削り、深い峡谷となり、又高く、奥深い山は重なり合い、その連なる山並みの鞍部は、峠となって秘境の入口にも、出口にもなつている。岐阜の白川、富山の五筒山、福島の檜枝岐、その隣の栗山、湯西、奈良の大台ケ原、熊本の五家荘、等々。このように、隔離され、外界との往来を拒んだ郷は、数多く見られる。これ等の郷は、それぞれに、落人伝説が語られている。真偽は別にして、伝説後の歴史は、切なくて悲しい話が残されたのです。平成の秘境の空は高く、明るくなりました。しかし、巨木の森は消えました。

 明るい空の下、連なる苗場山の山据に、上野原温泉はありました。「のよさの里・牧之の宿」。経営は、栄村振興公社。小赤沢温泉楽養館、切明温泉。雄川閣、苗場山頂ヒュッテ等の経営は、すべて栄村振興公社。上野原集落のバス停から左折、東に向かって急坂を上る。仮舗装の車道は暗い杉林の中を行く。間もなく右に広い路があり、右折、其の先が駐車場広場になる。右折せず直進すれば、間もなく舗装は切れ、砂利路となり、天地を過ぎ、更に登ると、路は広くなり小赤沢からの苗場山登山道にでる。この林道の展望は、秋山郷東山麓での好展望の一つ。東方の苗場山前衛峰、西方の鳥甲山の景観は抜群。同じ景観を望めば、この上野原から森林帯を苗場山に登るか、小赤沢から苗場山に登るか、その登山道の木々の開から眺めるしかない。

 上野原温泉「のよさの里」は、平成元年3月完成、秋山郷を江戸に紹介した鈴木牧之に因み「牧之の宿」と命名した。この温泉の源泉は、栃川高原温泉で、300メートルのボーリングにより56度の温泉を得、「のよさの里」と和山温泉民宿に引湯されている。この宿は特異な宿で、湯風呂は主に野天風呂。内風呂はあるが、鳥甲山を眺めながらの野天風呂は格別。「牧之の宿」 の本館は、本家と言い和室、他に、分家と言って7棟の「離れ家」があり、各一棟に八畳間、四畳半があり、更に炊事施設が付き、真ん中の板の間には囲炉裏が切ってある。定員6名としてあるが……、家族、仲間達の温泉遊びに利用価値がある。

 この他、宿より東側に、オートキャンプ場もある。

 

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さくら   岸  裕(岸内科・消化器科医院)

 「ねえ。桜って不思議だと思わない?春になると枯れ木のような大木に新芽より先に花が咲くなんて…」と庭の山桜を眺めながらつぶやく家内。…「梅も挑も葉っぱより花がさきでしょ」と息子。

 「チューリップとビオラが椅麗」と家内。…「お母さん、雑草も育ててるんだね」と息子。

 二言余計な事を言って不興を買うのは誰に似たんだろう。

 ともあれ次々と訪れる花便りに誘われて、桜の散らない内に、とうちのスタッフ一同とTランチと花見の会Uに繰り出しました。

 午前の診療終了後、直ちにニューオータニ2階の酒造会社経営の日本料理店へ。

 春のミニ会席。そら豆のすり流し汁、ふきみそ、春小飼の粕づけ焼、海老しんじょと新筍のはさみ揚げ、さくらちらし、葛桜、と眼にあざやかな季節の料理を堪能。会話も進む。

 「先生、高田の桜はご覧になりました? 私、2日前にツアーで夜桜を見て来ましたけど、もうそれは椅麗で、人出もすごくて、駐車場は東京方面からの観光バスでいっぱい。高田は日本三大夜桜の一つなんですね。」と教えて頂きました。

 高田公園は蓮の花の頃に行った事はあるのですが、桜の頃は行った事が無いので来年は是非、と決めて満腹となり張り切った腹の皮をなでながら車で駅前通りから福島江沿いに中央病院方面にゆっくりと車で向かう。

 おとぎ話にでてきそうなぶっとい桜の古木が立ち並ぶ。花咲かじいさんも枯れ木にせっせと灰をまいた様で、どの桜も満開。吹く風に花びらがひらひらと川面に舞い落ちる。すばらしい桜日和。

 橋のあたりにさしかかると中央病院の看護師さんでしょう。患者さんの車椅子を押しながら花見がてらの散歩中。

 車は超ゆっくりと進む。うしろの車もせかしたり追い抜いたりしません。みんなのろのろ。

 桜の花の下を歩く人々も超スローモーションで動いています。

 みんな笑っている。みんななぜか微笑んでいる。

 桜だけが気ぜわしく花びらを散らす。

 桜たちは昭和を見てきた。大正を見てきた。明治を見てきた。江戸も見たかもしれない。

 中央病院を見てきた。ここに来た人たちの笑顔と涙を見てきた。

 膨大な仕事量に追われて忙しく立ち回る医療スタッフを、医術を振りかざす医者たちを見てきた。君たちには小賢しく見えただろうか。

 かつて僕はここに勤務していた。研究室の中には福島江側の窓から通路から桜の花びらが舞い込んだ。

 病室の中にも、そして窓にも花びらが張り付いた。

 夜になると、闇のなかにぼうっと白く浮かび上がった。福島江側の退院玄関に花びらで真っ白なじゅうたんを敷いてくれた。

 その中を白いバンに乗って静かに帰って行く人。

 ふかぶかと礼をする看護師と医者。

 そんな事が何度繰り返されたんだろう。あの時の未熟な医者が君の心を騒がせたのなら、僕は謝らなければならない。

 そんな想い出が浮かんだのも一瞬だったようです。車はまだゆっくりと中央病院の脇を抜け、フロントガラスに優雅に数枚の花びらを貼り付けて走っていました。

 その病院も来年その使命を新しい病院に引き継ぐ。

 そこにも桜があってほしいな。

 

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