長岡市医師会たより No.291 2004.6

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。

もくじ
 表紙絵 「岩室にて」    丸岡  稔(丸岡医院)
 「禁煙指導・外来に関してのアンケート結果報告」 鈴木しのぶ(喜多町診療所)
 「理事に就任して」     大塚 武司(大塚こども医院)
 「婦長−看護婦−医者−小使い−インターン−モルモット」 長部敬一(長岡西病院)
 「私の研修時代」      江部 達夫(江部医院)
 「自己紹介」        金田  聡(長岡赤十字病院)
 「アスピリン・ローズ」   岸   裕(岸内科・消化器科医院)

岩室にて   丸岡 稔(丸岡医院)

禁煙指導・禁煙外来に関してのアンケート結果報告

鈴木しのぶ(喜多町診療所)  

 この度は禁煙指導・禁煙外来のアンケート調査に御協力頂き、誠にありがとうございました。88医療機関より御回答頂き(回答率77.2%)、貴重な御意見も寄せられましたので調査結果を御報告申し上げます。御挨拶が遅くなりましたが、この度理事に就任致しました。初仕事になります。前任者の小林眞紀子先生と比べ、スケールも体格も小さめですが宜しくお願い致します。

質問1.外来で、患者様より禁煙について質問を受けたことがありますか?

 1.ある 47/88(53.4%)

 2.ない 41/88(46.6%)

質問2.外来で、患者様に禁煙を話題にしたり、勧めたりしたことがありますか?

 1.ある 59/88(67.0%)

 2.ない 29/88(33.0%)

(質問2で 「1.ある」と回答された方は、質問3〜7についてご回答下さい。「2.ない」と回答された方は、質問8へお進み下さい。)

質問3.現在、ニコチンパッチ等の禁煙指導をされていますか?

 1.いる 26/59(44.0%)

 2.いない 31/59(56.0%)

質問4.市民等から照会があった場合、禁煙指導を行っている医療機関として紹介してよろしいですか?(質問3で「いる」と回答された方のみ)

 1.はい 21/26(80.7%)

 2.いいえ 5/26(19.3%)

質問5.過去1年間に、禁煙指導をされた患者様は何名ですか?

 451名

質問6.過去1年間で禁煙に成功した方は何名ですか?

 88名(成功率19・5%)(75・0%〜0%)

質問7.禁煙指導で大変だったこと、または成功の秘訣をお聞かせ下さい。

・禁煙を志す動機、本人の意志が最も大切である。

・今日から喫煙具(ライター、灰皿)全て捨てる。この場でタバコを捨てる事が必要。

・タバコの害について厳しく説明をして、キッパリ止める様に指導することが大切。

・タバコと肺ガンについて説明。

・医学的な危険性を粘り強く、繰り返し説得する。

・ストレス科の先生と協同して指導したことがある。

・患者(一般的な)をみながら思うことは「禁煙」でなくその方向に素直に気持ちを向かせること。その為には過去に経験した症例等役立つ。禁煙の決心が付いたら即刻一遍で止めること、その為に精神力を保つ援助も必要。少しだけ減らすということは絶対だめ。

・大変重要なことで必要なこととは思っているが、食事指導などの方を優先してやっており、生活規制が多くなるとかえってストレスが多くなるのでは?と思ってまだやってないのが現状である。

・ニコチン中毒より習慣性の方が難しい。

・非常に時間がかかり、外来の合間にやるのは大変である。

・家族の中で他にも喫煙者がいると禁煙が難しい。

・禁煙後の肥満の注意。うつの方やアルコール中毒の人には主病の増悪の可能性があり、指導しないようにしている。

質問8.今後、外来で禁煙指導のご予定はありますか?(質問2で「ない」と回答された方のみ)

 1.ある  1/29(3.4%)

 2.ない 28/29(96.6%)

質問9.禁煙指導を実施している医療機関として、長岡市の禁煙活動(禁煙に対する啓蒙、禁煙指導、児童生徒に対する禁煙防止教育等)にご協力をお願いできますか?

 1.はい 35/88(39・7%)

 2.いいえ 44/88(60・3%)

質問10.禁煙を実行した方々の離脱症状への対応、禁煙維持のための応援、継続のための対応として、コメディカル等で禁煙をサポートする組織が必要と思われますか?

 1.はい 57/88(64・7%)

 2.いいえ 17/88(35・3%)

その他の御意見

・システムだった指導はしていないが、危険性については説明している。

・ニコチン中毒を疾患として保険診療ができるようにすべきである。

・ニコチンの慢性中毒である自覚のない人には不可。

・家族(親、子、孫、妻)の熱意次第である。

・教師(男性)の校庭、校舎内での喫煙止める必要あり。児童教育より喫煙教師宛に指導することが望まれる。

・カリフォルニアのように県又は市全体で公共の場、その他受動喫煙の可能性のある所は禁煙にすることが望ましい。千代田区(?)などの「歩きたばこ」条例等を県と市に働きかけたらどうか。

 

 以上、3病院を含め26施設で禁煙指導が行なわれ、禁煙成功率は平均19.5%(各施設により75.%〜0%)という結果でした。外来で禁煙が話題になるものの禁煙指導→禁煙成功に至る道は厳しいようです。厚生労働省の調査では、喫煙者の3人に1人は時期は未定だが「タバコをやめたい」と答えています。外来での禁煙指導には時間もかかりますし、ニコチンパッチ処方は保険外診療になるという問題もあります。が、禁煙の動機付け、アドバイスには医師の力が大きく作用します。今後当医師会としてどのように禁煙と取組んでいくか具体的な計画はありませんが、今回のアンケートを第一歩とし、市の健康課等と連携し進めていきたいと思っております。禁煙対策に閲し御意見がありましたら是非、お聞かせ下さい。又、医師会に禁煙指導の為の資料・パンフレット・CD−ROMがありますのでご利用下さい。

 

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理事に就任して  大塚武司(大塚こども医院)

 この度、初めて長岡市医師会理事を務めさせていただくことになりました。小児科医会の関連でこれまでも予防接種や乳児健診、小児救急医療体制の検討などで、市の医師会活動にも時々参加させていただき、小児科に関連した業務内容に関しては、少しは解っていた気がしておりましたが、理事会に出席してみて、改めて医師会活動の業務量の多さと多面性に圧倒されており、更に明年に迫った市町村合併に伴う福祉行政の統合に、医師会が果たすべき役割を考えますと、与えられた職責を遂行できるか不安になる毎日ですが、職務を与えられたかぎりは、非才でありますが2年間精一杯がんばる所存ですので、会員の皆様には今後ともご指導ご鞭捷を宜しくお願い致します。

 さて、恒例ですので簡単に自己紹介をさせて頂きます。生まれは長岡市の隣の小千谷市で、縁があり高校生活は長野市で過ごし、東京での一年間予備校生活の後新潟大学に入学しました。卒業後は小児科学教室に入局、大学での研修の後、県立小出病院の勤務を経て故郷の小千谷総合病院に10年勤務しました。この間、10年前に長岡市に自宅を新築、長岡市民になりました。本年2月に亡くなられた桂敏夫先生のご好意で8年前の平成8年10月に医院を継承、現在、台町で小児科を開業しています。

 振り返ってみますと東京の一年間を除き、小千谷市、長野市、新潟市、小出町、そして長岡市と信濃川かその水系の流れる街で過ごして来ました。川辺から眺める信濃の山々や魚沼三山、山本山などの風景が心に残っていますが、長岡に住んで10年、この頃は両川岸から見る西山や東山山系も何故か落ち着く心の風景になりました。もう此処から離れることは無いと思います。医師会の一員として、少しでもこの地域の発展や医療の充実に貢献できればと思っておりますので、今後とも宜しくお願い致します。

 

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婦長−看護婦−医者−小使い−インターン−モルモット

長部敬一(長岡西病院)

 私たちが医学部を卒業した昭和35年当時「研修」という言葉は存在しなかったので、「わが研修時代」といわれても、どの時代のことをさすのか私のなかでは極めて曖昧である。そこで、「研修」のとらえ方について何人かの先輩・同僚・後輩に聞いてみたのだが、その答えはいろいろで、私のなかで暖味なのも当然のことと思われた。

 インターン制度が廃止された昭和43年卒のY氏によれば、当時「自己研修」という言葉が仲間内で頻繁につかわれていたということからインターン制度の廃止に伴って発生したものではないかということである。事実医師法にはインターン制度の廃止後において有効適切な卒後教育をおこなうために「臨床研修」を行うことと定められ、研修という言葉が出てくる。

 もう少し若いM氏は「専門医」に認定されるまでを研修時代ととらえているということであるし、更に若いO氏は教室で定められている2年間の研修スケジュール期間を研修時代と考えているという。

 私たちの時代は「医科大学卒業後さらに一年以上の実地修練(インターン)を経ること」と医師法に定められていた時代である。このことはあくまでも「医師国家試受験のための要件」にすぎないものであり、今年はじまった臨床研修とは似ているところもあるが、基本的に非なるものといわざるを得ない。かといって「医師たるものは生涯研修するものだ」などと言い出すと話にならないので「実地修練(インターン)」時代の、あまりタメになるとは思われないエピソードを紹介して、ご勘弁をお願いすることにしたい。

 44年前、長岡赤十字病院でのインターン時代の話である。

 病院には広々とした医師専用の風呂があった。外科外来の前にあったから外科系の医師専用のものであったかもしれない。早々に仕事の終ったある晴れた日の午さがりのこと、同僚のW君とその一番風呂に入り幸福感に浸っているときのことである。突然入ってこられた整形外科のO部長が、私とW君に発せられたのが目頭の言葉である。先輩をさしおいてインターンごときが一番風呂に入ることの非を答められたのであった。部長はインターンの20数年も先輩であり、その性格は竹を割った如くに明快で、声は朗々と響く人であった。言葉の意味は解説するまでもなく病院内の序列におけるインターンの位置が示されたものである。今時であれば差別語といわれそうなところもあり、私たちの序列がモルモットの一階級上というところには多少の悲哀と抵抗感を覚えたものの、その明快な言い方と語呂のよさのせいか妙に納得したことが今でも明確に記憶に残っているのである。

 敢えて教訓めいたことのいえるエピソードではないかもしれないが、気のおけない親子のなかで親父が子供の非をたしなめるような雰囲気であったと思ってもらっていい。

 優れた指導医のもと、よく練られたカリキュラムに則った「臨床研修」などと聞くと、私などはいかにも厳しいものを感じてしまうのだが、カリキュラム通りの医学の研修だけにとどまらず、優れた先輩の背中から上下の関係を超えたよき人間性をも感じとって、自身を肥やしていくことも若き医師時代を過すうえで重要と思う。

 私どもの同級生には、より厳しいものを求めて横須賀の米海軍病院でのインターンを選択したものもあったが、昼間から風呂につかって叱られるというような、今風にいえばスローな研修もそれなりに悪くなかったと思っている。

 

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私の研修時代  江部達夫(江部医院)

 昨年秋、大学卒業後40年日の同級会が開かれた。40年という節目のためか、生存同級生の7割が集まった。学生時代の思い出話に楽しい一夜を過したが、皆良く遊び、良く学んだ(?)仲間達であった。

 当時の医学教育は、卒業直ぐに国試がある訳ではなく、卒業はトコロテン方式で、医師になるんだという厳しい自覚を持たせてくれず、勉強不足のまま社会に放り出された。今でいう自己責任がなかったのだ。

 さて放り出された先は、当時の研修制度であったインターンであった。インターンを終了しなければ国試は受けられない。同級生全員各地にインターンとして散った。

 インターン制は米国の医師教育の制度であって、昭和21年に始まった。ある程度の規模を持った病院ならばインターン生を自由に受け入れた。しかしそこにいる医師達、指導医としての資格など問題にされていなかった時代であったためか、年上の医師は皆指導医的存在であった。

 私は38年3月中頃から、1年間のインターン生活を長岡赤十字病院で送った。当時の長岡日赤はインターン制度下の病院としてはスタッフも揃っている方であったが、各科のばらつきはひどいものだった。医師免許はないので責任を持った事はさせてもらえず、お客様で過した科もあった。病棟ではカルテは見れても記入は出来なかった。短期間で各科を廻るため、何か身に付いたものがあったかというと、何も思い出せないのが現実。外科の手術では鉤引きが専門、夏暑い手術場で立ったままの居眠り、足を下駄で蹴飛ばされた痛みが思い出される。

 インターン生活が始まって数日後の夜、インターン当直として初めて病院に泊った。寒い夜であった。夜間内科病棟の患者さんが3人亡くなった。3人とも解剖に廻った。解剖の手伝いはインターンの仕事。冷たい解剖室で臓器の取り出しを手伝い、一睡も出来ずに朝を迎え、さすがは日赤と思ったが、病理の執刀医もこんな事は初めてであったと。

 当時のインターン制、医師の資格がない研修は決して実りの多いものではなかった。今にして思えば無駄な1年間を過したような気もするが、外科で簡単な縫合をさせてもらった事は、田舎の病院にアルバイトで行っていた頃、軽い外傷の治療に役立った。

 医師は終生研修であると思っている。新しい技術、新しい薬がどんどん生れてくる。いくら勉強しても追い付かない。開業してから新しい事を少しでも学ぼうという気持ちはあっても、つい遊びに費やす時間が長くなっている。戒めないとと思いながらも趣味の世界により入って行っている。

 この春から新しい研修制度が始まった。この2年間の研修が実りのあるものになるかどうかは、(1)に研修医自身の心掛け、(2)に研修病院での指導医の責任感と資質、(3)に研修医を見る患者さん達の厳しい眼、にかかってくるものと思う。

 良い医師が生れるかどうかは、この2年間が大きな分岐点になって来るものと思っている。

 長岡市内三病院で研修医として過される若者達よ、長岡でやって良かったという思い出を持って、次の段階に進んで頂ければ幸いである。

 

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自己紹介   金田 聡(長岡赤十字病院)

 この4月1日より、長岡赤十字病院に勤務することになりました小児外科の金田聡です。昭和63年新潟大学の卒業です。出身は東京都で、都立三田高校、駿台予備校経由で新潟に参りました。学生時代は硬式テニス部に所属していましたが、現在はすっかり足を洗っています。

 外科学教室に入局後は、秋田赤十字病院、下都賀病院(栃木県栃木市)、太田西ノ内病院(福島県郡山市)、荘内病院(山形県鶴岡市)などの県外の病院の出張が多かったのですが、長岡赤十字病院にも12年前に半年間お世話になりました。その頃、元気であられた和田寛治先生に薫陶をうけました。ここに来る前は5年間大学におりましたもので、久しぶりの臨床最前線で気が引き締まる思いで、毎日緊張しております。

 今回、自己紹介ということですので、唐突ですが好きなものをいくつかあげてみたいと思います。

1.日本酒

 新潟に来て日本酒を飲むようになりました。個人的には、大吟醸よりも純米酒の方が好きです。本当の酒飲みはぬる爛を好むと言いますが、まだ未熟なもので、冷やを好んでいます。学会などで地方に行くときには、入念に文献を調べ、その地方の地酒を飲むことを楽しむことにしています。中越地方にはすばらしい酒蔵がたくさんありますので、今後も研錬をつみたいと思います。参考文献などありましたら、ぜひ教えてください。

2.野球観戦

 プロ野球観戦がすきです。がちがちの巨人ファンでしたが、最近風当たりが厳しいため、松井ファンと名乗っております。一昨年の日米野球は感動ものでした(東京ドームで2試合観ました)。しかし、巨人の補強はバランスが悪くて無駄使いとしか思えません。どうにかならないものでしょうか。野球理論にはうるさいのですが、実践は全くの素人です。まず、キャッチボールから初めてみましょうか。お相手募集です。

3.相撲観戦

 以前は、なかなかの相撲通で、力士の組み手にも詳しく、組んだ瞬間に結果が予想できるくらいでしたが、最近は個性のある力士が少なく寂しい限りです。朝青龍には期待をしています。和田先生も相撲通で、ビールを飲みながら組み手を実際にまねしつつ解説されていたのが懐かしく思い出されます。

4.花火

 夏の花火をみながらのビールは最高です。中でも、長岡花火の雄大さはすばらしいものです。妻の実家が長岡ということもあって、ちょくちょく見に来ていました。花火の醍醐味は、華麗な光と大音響の体感にあります。光と音は同時でなければなりません。そのためには、打ち上げ場近くまで足を運ぶ必要があります。長岡の住居を探す際に、花火の打ち上げ場近くという条件をつけたため、土手から徒歩30秒という絶好の地に住むことが出来ました。当院は、花火の日は半ドンと聞いていますので、午後2時の場所取り解禁時刻には、大きなビニールシートをもって並んでいることでしょう。

5.新しい趣味の予定

 新潟では、小さなマンション住まいで生活にもいろいろと制限が多かったのですが、こちらにきてオンボロながらも庭付き一軒家になりましたので、土いじりなどをしてみようかと思っています。きれいな花もいいけど、やっぱり収穫が楽しめる野菜がいいかなと、現在文献検索をしているところです。しかしながら、生来の面倒くさがりやのため、進展しない可能性も大と思われます。

6.少しだけ仕事のはなし

 当院は、小児外科の新潟県内地図によれば、下越の新潟大学病院、新潟市民病院、上越の県立中央病院とならんで、ひろい中越地区の基幹病院であります。地域の子供たちのために頑張りたいと思いますので、よろしくお願い致します。外来も月から土までひらいております (土曜日は隔週)。何なりとご連絡頂ければ幸いと存じます。

 

 まとまりのない文章になってしまいましたが、今後、ご指導のほどよろしくお願い致します。

 

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アスピリン・ローズ   岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 「アスピリン・ローズという薔薇の苗をこの春いただきました。早速医院の花壇に植えたところ、6月に入って中型のかすかにピンクがかった白い花を咲かせてくれました。家の者は「こんな美しいバラにアスピリンなんて薬の名前をつけなくてもいいのにね。」とケチをつけています。「アスピリン・スノーと言うでしょ。サラサラと真っ白に光り輝く…」と私は思ったのですが…。

 そんな折、越後給料公園、イエイエ越後丘陵公園でバラ祭り開催中と聞いて早速行って来ました。

 ぼかぼかと風も無く穏やかな日曜日とあって結構な人出、車も入り口からかなり離れたところに止めてやっと中に入るとそこは蓄薇の園でした。パンフレットによると330種、710本。家内も娘も感嘆の声を上げ、他の人の真似をしてケ一夕イで写真を撮るのに余念がありません。歩き疲れた所にハーブティーコーナーがありました。イングリッシュガーデンの中の緑色のあずまやの前にテーブルが並べられ、わずか200円でクッキーとおかわり自由のハーブティーが飲めました。この日のティーは「ラベンダー」、「アップルミント&パイナップルミント」、「ローズ&ローズヒップ&ハイビスカス」の3種類。すべてのお茶をいただきました。隣の方が「ラベンダーとミントティーを混ぜると美味しいですよ。」と教えて下さったので自分でブレンドしてみるとなかなかいけます。皆さん風も無く穏やかな春の日の下でバラとお茶(酒ではなく)の日を充分に楽しんでいらした様子でした。

 丘陵公園に行ったのは今回始めて。(これができてすぐのころ、子供と一緒に入ってみようかと思い、入り口までいったのですが、あまりに人っ気がなく、がらっとしているので恐れをなし、加えて、何故、私達の給料から天引きし、税金で作ったであろう給料公園に駐車料金や入場料がいるのだろうと思ってひき返してきたことがあったのですが)本当にきれいで広々として、小さい子供達がはしゃぎながら水遊びをしている人工の浅い水辺あり(“越の池”“水遊び広場”)、“緑の千畳敷”というゴルフ場並みの広い芝生のグリーン(で、下手くそが打ったボールなど飛んでこない)、緑にあふれた木陰もあり(皇太子様御夫妻お手植えのコブシがありました)、気分良くすごせました。

 穏やかな日差しにさそわれた様な老夫婦や、小さい子供さん連れ(小さい子供達は“ふわふわドーム”なる大広間ていどの空気圧で膨らませた饅頭のようなものの上で厭きることなく飛び跳ねていました。あとで気持ち悪くならなければ良いが、とよけいな心配をしたほど)などでいっぱいで、夏の花火を別とすれば長岡でこんな大勢の人出を見たのは何年ぶりかと思ったほど。これならば年間パスポートを購入しようかと思った位、気持ち良く過ごせました。

 帰りには、越路町にある朝日酒造のそば所「越州」に寄って酒蔵自慢の越州そばを食し、みやげに新発売の“そばみそ”と清酒“越州”を購入。ここはそば屋のとなりに陶芸所を開いており、時間があれば何か造っても面白そうと思いつつ、次回の楽しみにとっておきました。

 翌日からはうって変わって雨降り。新潟県は梅雨入り。バラはさし木がよくつくそうなので我が家のバラも試しに地面に挿しておきました。これで根付けばいいのですが…。なにしろ素人の私達、無農薬、無肥料ではこれから先もきれいな花を咲かせ続けられるのか、郡司先生に教えを請いたいと思っています。

 

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