長岡市医師会たより No.292 2004.7

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。 誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。

もくじ
 表紙絵 「パリ(モンマルトル)」 故 江部恒夫(江部医院)
 「江部恒夫先生を偲んで」  丸岡  稔(丸岡医院)
 「癌を患った話」      内田 俊夫(内田医院)
 「私の新入局のころ」    岡  吉郎(長岡西病院)
 「マイブームは中国ドラマ」 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)

パリ(モンマルトル)   故 江部恒夫(江部医院)

江部恒夫先生を偲んで  丸岡 稔(丸岡医院)  

 6月29日、江部恒夫先生が97年の生涯を閉じられた時、長い年月を経た巨きな木が、ゆっくりと静かに倒れて行く姿が思い浮かびました。

 一昨年、テレビで「95歳の現役」として紹介されたことがありましたが、仕事は勿論、絵を描き、音楽や文学にも造詣が深く、遊びにお何いした時など、話の盡きることがありませんでした。時には先生の手料理でお酒を頂くこともありました。

 「これはいちぢくの砂糖煮です。今年は良いいちぢくが手に入らなくて」と材料まで吟味しておられるのには驚きました。「絵を描いたり、本を読んだりしていると、つい火にかけていた鍋を焦がしてしまうんです。翌朝、目立たないように燃やさないごみに出すんですよ」と屈託のない笑顔で話されたこともありました。

 長岡市医師会報「ぼん・じゆ〜る」の文字のデザインは江部先生によるものですが、プロの人も絶讃したことは有名です。この会報が創刊されてしばらくしてから、表紙に絵を載せようということになり江部先生が担当されました。折々の花の絵は繊細な線描きで会報の格調を高めてくれました。

 「ぼん・じゆ〜る」と言えば忘れられないことがあります。

 ある会でご一緒した時、出されたビールの「冬物語」というラベルから話がはずみ、先生がシェークスピアについて碓々ならぬ知識をお持ちであることを知りました、因みに「冬物語」はシェークスピアの作品の名を引用したもので、ラベルには細かい字で有名なセリフが書かれてありました。「オセロ」で悲劇の発端となるハンカチの意味についての解説には心のときめくのを覚えました。

 その頃、私は会報の編集委員をしていましたので、忽ちに触手が動き是非先生にシェークスピアについて書いて頂こうと思いました、そんなことで連載「シェークスピア抄」が始まり、平成元年から平成3年12月まで、21回に及んだのでした。

 私はかねてから、将来暇が出来たら、青年時代に人間について深く考えさせられた漱石とチェーホフとシェークスピアをじっくり読もうと決めていましたので、そのシェークスピアに、こんな形で関わることが出来たのは幸運でした。「リア王」に登場する「フール」(王側近の道化的存在)の重要な役割について、又当時の劇場の仕組みについてなど、思いがけない興味深い勉強をさせて頂きました。

 連載が始まって一年ほど経った時のことです。

 先生の原稿をお預かりして帰る途中、ほんの1、2分立ち寄った店から出たら、原稿の入った鞄が無くなっているのに気づきました。ロックをしなかった油断からでした。血の気がさっと引くのを覚えました。すぐに近くの交番に駆けこんで事情を話したのですが、本署から係の人が来るというその間に先生に電話をかけました。交番からと聞いてびっくりされた先生は「エーツ」と大きな声を出されました。すぐその後で、「私のなんか又書けばいいのですが、それよりあなたの方に大事なものがあったんじゃないですか」と、却って私の方を気遣って下さるのでした。

 やがて本署から来た人が「よくあるんですよあの辺は。ちゃんと見られていたんですよ」と言います。「とった人は金目のもの以外は何もならないでしょうから、どこかに捨てられて出てくることもありますよ」と慰めてくれました。

 翌朝、改めてお詫びに先生のお宅に伺いました。

 「あの原稿には少し不満があったんですよ。だから却って書きなおすチャンスが出来ました」先生の言葉に、私は益々心も身も縮まる思いをしながらも暖かいものに包まれていくのを感じていました。帰る時「ちょっと」と呼びとめて、「この草、何か知っていますか」と玄関先のプランターを指されました。「おおいぬのふぐりなんですよ。昔はこの辺にも沢山あったんですが、近頃見かけませんね。これは信州の子供が持って来てくれたんです」と、春になると可憐に咲くこの花には似つかわしくない学名にまつわるエピソードを、笑って話して下さるのですが、先生のお気持ちが分かるだけに、泣きたいような思いをこらえていました。

 数日後、先生から新しい原稿が届けられました。

 私は年に何回かスケッチで信州を訪れますが、春には「おおいぬのふぐり」の見事な群生によく出会います。そして、その度にあの日のことを思い出すのです。

 先生の学識は多岐に亘り、しかも深いものでしたが、医師としての勉強は生涯続けられました。90才を過ぎても市内で開かれる学術講演会にはよく出席され、しかも最前列に席をとって演題の核心に触れる質問をされたものでした。

 この度のご病気で入院された時、ご子息の達夫先生のお話では、病院を脱走され、ご自宅で学術書を読み続けられたそうですが、江部先生の面目、正に躍如たるものがあります。

 斎場には、先生が殊の外お好きだったフォーレの「レクイエム」が静かに流れていました。

 先生に心から感謝申し上げ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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癌を患った話  内田俊夫(内田医院)

 2年程前であったか、左口腔粘膜の殆ど中央部に指先大の tumor が出来て早速日赤口腔外科で組織を検査して頂き、扁平上皮癌の診断を受けました。その癌は摘出して貰ったのですが、何日か経って左下部で一番奥の歯にかぶさるように白い粘膜状の皮疹を見つけたので、再度日赤で摘出、10月頃これが2回あり、2回目の時、何でしょうかと尋ねた所「カビです」と云われ、安心しました。

 丁度その頃、オーケストラの本番が11月の終り頃にあり Beethovenの「田園」で、私の好きな曲でしたから、真剣に練習しておりました。演奏会が無事に終って休むひまなく12月半ばに今度はフォーレの「レクイエム」の練習が始まりました。

 12月2日の私の誕生日に前と同じような左奥歯に白いものを見つけたので、A歯科医に診て貰いました。此の若い先生は日本歯科大学新潟歯学部卒で専門医と博士号の論文を出された方で私の左奥歯の粘膜状の皮疹を診るなりすぐ日本歯科大学新潟歯学部宛の手紙を書いて下さって、早く行って下さいと云われました。家内と新幹線で日本歯科大学新潟歯学部に行きました。CT、MRI、PET(PETは立川綜合病院にあります)の検査を受け、PET診断の報告として「左側下顎歯肉、顎下リンパ節に強い集積がある。これまでの検査と同部位であり悪性腫瘍が考えられる。他に左側鎖骨上リンパ節、右側肺門部に弱い集積がある。この部位に関しては今までの検査では確認は出来ない部位であった。左側鎖骨上リンパ節に関しては入院してきてからのCT検査でも明らかなリンパ節はわからない。この部位に関しては術野に含まれているため手術で切除する。右側肺門部に関しては以前罹患した肺門リンパ節炎の可能性も否定出来ないがPET診断された先生のコメントから転移の可能性も考えられますのでその精査は必要です。また先生のタイプの癌は多発するタイプの可能性があることと、初発ではないことから上部消化器粘膜の精査のため内視鏡の検査も必要と考えています。今回は2つの検査が直ぐにはいるため(一週間遅くなっても)検査を受けてから手術に望んだ方が最善と考えられる。」と云うお話でした。初発ではないその他にも造影剤を注入して撮った写真もあり、頭から上の骸骨を前にして山口教授、広安先生、私の担任になられる伊藤秀俊先生が私と家内に、これは癌である事を細かく説明して下さいました。早く手術すべきだが手術室が混んでおり、1月7日に入院して22日に手術と決まりました。

 伊藤秀俊先生から疾患の内容及び治療方法に関する説明文を頂きました。それによると診断名は 【左側下顎歯肉癌、左頚部リンパ節転移】今まで行った各検査画像診断から他への転移は認めない。上記腫瘍に対して手術療法を1月22日に予定する。手術は左側下顎歯肉切除術、下顎首辺緑切除術、左側頚部郭清術、腹部遊離皮膚移植術、プレート再建術を予定する。内容は左側下顎歯肉から頬粘膜、一部は咽頭側壁の口腔粘膜を切除する。同部の首も辺緑部を切除する。同時に頚部郭清術を行い口腔内の腫瘍を一塊として切除する。(切除による播種を防止するため)切除後は腹の皮膚を移植する。骨切除が大きい時は一部プレートにて補強する。頚部に関してはそのまま縫縮する。

 手術の注意点、及び合併症については次のような事が書かれてありました。手術は全身麻酔で8〜10時間を予定する。輸血は行わないが出血量が増えれば輸血の可能性がある。切除範囲が広いことから術後の嚥下障害、発音障害が発生する。切除した部分には皮膚移植するが、生着するまでは約2週間を要する。そのため食事はしばらく経鼻から行う。移植した皮膚は一部壊死する可能性もある。頚部郭清を行うため頚部の伸展、感覚の麻痺、硬結は必然、出来るだけ神経、血管は温存するが、手
術に伴いストレスがかかる為嗄声、出血、腫脹などの合併症も出現する可能性もある。首の切除の量によっては神経も切断しなくてはならなくなる。この場合、左側下口唇、顎部の知覚麻痺が出現する。術後は約1ケ月の入院加療が必要である。左側頚部郭清に伴い、左側内頚静脈は結紮する。左側の循環障害、腫脹、頭痛が出現する。下顎首は切除するため、その後は義歯の安定が悪くなる。顔面神経は温存する。

 このような話の他に文章も書いて下さり、なんと云う親切さなのだろうか、私が患者さん方にこれ程心を込めただろうか恥入るばかりでした。

 前夜の9時に睡眠剤を内服し、いよいよ当日22日となり午前8時に洗面、着替え、排尿を済ませ、8時15分点滴、筋肉注射してから8時50分手術室に入りました。殆ど同時に全麻をかけられ全く意識は無くなりました。翌日早朝少しずつ意識が回復し始め病室で待っていてくれた家内から手術に11時間かかった事を知らされました。意識が回復するにつれて少しオーバーですが堪らない痛みに悩まされ、その痛みの為に家内と大喧嘩してしまいました。とても口では言い表せない程の痛みで自分でも情けなくなりました。

 日が経つにつれて少しは楽になる筈だと思っていたのに相変わらず痛みは続き、持って来たCDの聴ける装置の助けで、Bruno Walter の Pastoral Sym.や Boem の Schubelt など聴いていましたが、痛みの為に中断ばかりしていました。それにもう私は Violin を弾く事は出来ないのではないかと思い、そうっと鎖骨のくぼみに手をやってみるとがっぽりと削られていて残念ながら不可能な事が分かり、下手なくせに悲しく無念でした。

 術後しばらくして新潟や長岡から又東京からは日帰りで見舞いに来て頂き沢山の美しい花束や読み易い本や写真集を頂き、感謝の言葉もうまく言えませんでした。新潟大学皮膚科の伊藤雅章教授まで見舞って下さり、此の場を借りて心からお礼申し上げます。私の診療所の従業員が5人揃って見舞いに来てくれた時も嬉しく、この5人が私を見て喜んだり嬉しがって泣いたり笑ったり賑やかな一時を過ごしました。それでこの5人に下手ですが人形の絵を描いてやる約束をしたので、2月24日退院の許可が出て長岡の自宅に帰りましたが、入院中の食事は毎日お粥と流動食で55kgあった体重はいまだに45kg以上に上がらず3月一杯は寝たり起きたりしておりましたが、3月はこの絵を描くのに時間をかけて、週1〜2回診療所へ行きました。薬だけの方が殆どでしたので従業員にまかせておきました。月一度は新潟歯科大の検査を受けに行き、4月2週頃に入ってからA歯科医院に義歯を作って頂きましたが、噛み切る事が巧く行かず、時間をかけてゆっくりやる事にしました。

 顔見知りの患者さんと会うと「先生どうしたの」と嬉しそうな顔をするものだから、私まで嬉しくなって握手までしたりして…。私は父の後を継いで開業してから40年になります。この40年は大きく、患者さん達も私が忘れていても覚えていてくれて、心がつながるように思います。有り難い事だと感謝しております。このごろになつてもいまだに左肩が痛んだり左首を締め付けられているようで辛いです。でも患者さんの事を思うと元気が出ます。

 今までは1ケ月に一度新潟へ行き、これからは2ケ月に一度位になりましたが、今度はCT、MRIで調べる事になっていますから、どうか無事に痛が見つからないように願っております。

以上

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私の新入局のころ  岡 吉郎(長岡西病院)

 私たちの頃はまだインターン制度がありました。あの一年間にいろいろな診療科を回って先生方や看護婦さんたちの邪魔になりながら、たくさんの経験をさせていただいたのは自分にとって貴重なものだったと思っています。これがなかったら、私が胃癌の手術やお産の助手を務めるという経験はないままだったでしょう。インターンの終わり頃になってもまだ自分が何科を専攻しようかを決めかねていたころ、先輩の猪股先生から皮膚科へ来ないかというお誘いを受け、よく考えもせずにその場で入局しますとお返事してしまったというのが私の皮膚科医としてのスタートでした。

 そして当時の田中教授にご挨拶に何ったら、同期入局の諸橋君(現富山医薬大教授)が大学院に入るので同期生の間に差をつけたくないからお前も入れといわれて、そんなものかと思って大学院に入れていただきました。院生としての研究は「カビでもやれ」ということで、結局皮膚真菌症とその原因菌に関する仕事が私のその後ずっと続いたテーマになりました。こうして改めて振り返っ
てみると、私の人生はずいぶんいい加減に決めて来たものだと思いますが、皮膚科学も真菌症も、多分ほかの何であれ一生懸命やっているとそこに興味も面白さも出てくるものだ
と感じています。

 私の論文第1号は内容はどうということのないものでしたが、当時の佐藤助教授(後に教授)が校閲されました。最初は字句の訂正や文章の挿入をしておられましたが、考察のところになったら原稿用紙の全体を×にされて、全面的に新たに書き直させられたという苦い、でも懐かしい思い出になっています。佐藤教授は論文の記述にはうるさく、学会発表原稿を「何枚だ?長すぎる」の一言で中身を見ないで返されたこともありました。学会報告や雑誌投稿の原稿がフリーパスになるまで何年くらいかかったことでしょうか。

 新人の頃の臨床の方は大学院生でありながらあちこちの病院に出ていました。ある診療所で肛門周囲の腫瘍?を診て見当もつかず、翌日先輩の先生に再診していただいたら「扁平コンジローマだよ」といわれて、あの診察の後に手を良く洗ったかしらと心配になったこともありました。これが私が顕症梅毒を診た第1例です。

 症例も多く、オーベンの先生がいるという点で勉強になったのはガンセンターと長岡日赤の出張でした。当時日赤の皮膚科外来では一つの机の両側に医師が座って一緒に診察をするというスタイルでした。プライバシーが尊重される現在では信じられないでしょうが、同時に診察を受けている2人の患者さん同士が医師との会話も病状もお互いに丸見えという状態で、よく苦情がでなかったものだと思います。しかしこれは医師の教育にとっては非常に良いやり方で、常にオーベンの先生がネーベンの診察をチェックしていて適宜にアドバイスでき、またネーベンはオーベンの診療を傍で見ることができて勉強になりました。でも当時の皮膚科部長の日戸先生は私が診断に困ってお聞きしても、簡単には教えてくれません。発疹と経過の特徴を列挙して、「だからアレだろう」。アレといわれも!。一生懸命指摘された特徴から考えてやっと 「……ですか?」とお聞きすると、「なあそうだろう」というような調子で、発疹の特徴をきちんと把握することを教え込まれました。

 いま思うと、多くの先輩に影響され、見習って何とか一人前になれたように思います。私が日戸先生の後任として日赤に赴任してきてから下に来てくれた若い先生たちに、私自身が先輩方から受けたような影響を少しでも与えることができたとすればいいのですが。

 先日、必要があって過去の発表を確認しようとしたら、保存してあったはずの数十編の別刷などがそっくり見つかりません。どうも間違えて処分してしまったようです。それらの報告の一つ一つにその症例や書いていたときの思い出がまつわっています。どうせ「おれが死んだら捨てていいよ」とは言ってましたが、これまで皮膚科医として生きてきた証が消えてなくなったような感じがして、今なにかさっぱりしたような、心残りなような気がしています。

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マイブームは中国ドラマ   郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 「ああおもしろかったねえ。」

 「黄蓉の少年の扮装はかわいいけど女の子なのはバレバレだよね。」

 湯上がりに枝豆とビールで、レンタルT屋で借りたDVDの鑑賞。このたびは中国の金庸原作の武侠小説「射雕(しゃちょう)英雄伝」の最新ドラマ化された第3巻まで見終えたところです。黄蓉(こうよう)はヒロインで、どうやら桃花鳥のお姫様らしい。演ずる女優が中国が舞台であるフランス映画「小さな中国のお針子」(2002年)のヒロインで有名になつた周迅(ジョウ・シュン)でした。

 「射雕英雄伝」をインターネットで調べると、全11巻で日本語字幕版の続編の発売は8月の予定とのこと。うーむ、待ち遠しいです。

 最近では「冬のソナタ」が人気に火をつけて、韓国ドラマが大流行です。ひねくれているようですが、マイブームは中国ドラマですな。

 きっかけはこの5〜6月に、中国語を短期集中講座で学習したこと。「初級中国語講座」なる『長岡市民大学』というカルチャー教室のひとつでした。毎週月曜、金曜に一回に2時間で全12回ぶっ通しの開催。講師は北京大学日本語科卒の文化人の李先生(長岡大学教授)。まさに『老師』(皮肉にも中国語ではたんにセンセイの意味ですが)の敬称がふさわしいかたです。わたしも仕事後に疲労困憊しながらも、がんばって受講。ついに最終回のみ、運悪く急患診療で欠席で残念でした。

 以来、マイブームは中国です。日本語字幕つき映画やドラマを見て、少しでも聞き取れると喜ぶというたわいもないレベル。

 じつは3年前に出張の東京のホテルの早朝、偶然に見たNHK教育テレビ。変なオジサンが人気の古畑任三郎役の田村正和の物まねで中国語を教えている。アシスタントも美人ぞろいの浅川椎広、陳涛。教材ドラマの『ときめきの上海』の主人公も美人。その日から突然に勉強開始です。そのオジサンはお茶の水女子大教授の相原茂という有名な学者でした。もっとも不純な動機で開始した語学学習ですから、後で見るはずのビデオはどんどんたまるは、出演者が変わればやめちゃうは…。

 ところで「門前の小僧習わぬ経を読む」のたとえもありますが、なにも受講していないが、天性の「語学耳のよい」家人であります。

 「トイブチーってのは、ごめんなさいってことだよね。」なんて聞き取っていたりするんです。そうそう、「対不起」ですな。

 さてビデオ、DVDのレンタルを探しても、中国語の作品はそうたくさんはありません。この2ケ月ほどで鑑賞しまくったなかのマイベストはなんだろう? 家人にもたずねてみましょう。つきあいでいっしょに見てましたから。最も感動したおすすめの名作は「北京バイオリン」(2002年)であると意見は一致。

 冒険活劇的なおもしろさではこの「射雕英雄伝」でしょう。「グリーンディステイニー」と「風雲」もシリーズの連続ドラマで楽しい。共通に出演の水霊(=蒋勤勤)という女優が美しい。女優といえば…。「西遊記」(香港、台湾合作テレビドラマ、2002年)の第6巻。土蜘蛛のきれいな妖怪役を見て、家人いわく「この女優ってあの日本のタレントによく似てるね。」

「ああ、ほんとだね。」

 念のためインターネットで調べる。なんと飯島愛、そのひとの出演と判明。…あら出稼ぎしてたんだね。国際女優かあ。

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