長岡市医師会たより No.296 2004.11
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表紙絵 「滝谷辺り」 丸岡 稔(丸岡医院)
「新潟県中越地震〜長岡市医師会の対応と活動」
副会長 大貫 啓三(大貫内科医院)
「医師ボウリング全国大会結果報告」窪田 久(窪田医院)
「柳田國男と南方熊楠」 福本 一朗(長岡技術科学大学)
「スズメ メジロ ロシヤ」 八百枝 浩(眼科八百枝医院)
「地震、地震、地震〜その1」 郡司 哲己(長岡中央綜合病院)
副会長 大貫啓三(大貫内科医院)
平成16年10月23日午後5時56分、震度6強の大地震が発生しました。地震発生後2時間以内に本震も含め、最大震度5強以上の強い地震が8回も襲い、その被害の甚大さは皆様ご承知の通りです。被災されました皆様には心よりお見舞い申し上げます。当医師会員の中にも、医院や住宅に多大な被害を受けられた方もおりましたが、ほとんどの医院で早期に診療に復帰することが出来ました。
長岡市医師会員各位には、「震災マニュアル」と「震災時救護所担当表」に従って、早速に市内の32カ所の救護所に駆けつけていただき、またその後はこの一ケ月間、その他の避難所となりました学校の体育館や地域のコミュニティセンター、合わせて112カ所の避難所に昼夜を問わず巡回していただき、病気の治療や健康相談、心のケア等にご尽力いただきました。心より感謝申し上げます。
避難されました長岡市民の数も、最も多いときで35,000人余りを数えましたが、11月22日の時点では、避難所も18カ所に減り避難者数も929人に減少してきております。
この間避難所では、脳血管障害のためお亡くなりになった方がお一人おられましたが、その他は肺炎等で病院に搬送された方が何人かおられた程度で、会員各位のたゆまぬ診療のお陰で、避難された方々も不自由ながらもお元気に過ごすことが出来ました。(肺炎ではなく肺結核と判明した人が一人おりましたが、排菌がなく大事には至りませんでした。)これも一重に各避難所で巡回診療をしていただいた会員各位のご苦労の賜と深く感謝いたしております。
ここで地震が起きてからの医師会の活動を、時間を追ってご報告いたしたいと思います。地震発生当初は、3病院を中心に翌24日の明け方までに外傷等で350名余りの患者さんが受診されております。そのうち、40数名の方が入院を必要といたしました。改めて病院の先生ならびにスタッフの方々に感謝申し上げます。
地震発生直後からの避難所での会員各位の活動は前に述べた通りでありますが、山古志村の1,400人余りの方々が移転された大手高校を初めとする6つの避難所では、山古志村の佐藤先生と全国の赤十字の救護班が診療に当たられ、赤十字の救護班は、村民が仮設住宅に入るまで診療を続けて下さるとのことで、本当にありがたく思っております。橋渡しをして下さいました長岡赤十字病院救急救命センター長 内藤先生に御礼申し上げます。
地震後一週間を過ぎる頃から、避難者の方々に風邪や不安、不眠、消化器症状を訴える方が出始めたことから、11月2日からは休日急患診療所から薬剤を供給する形を取り、各救護所を中心に3日を限度に無償で患者さんに処方していただくようにいたしました。
また、インフルエンザに備えて、避難所生活の長期化が予想される山古志村と太田地区の方々を対象に、各避難所で11月10日、11日の両日にインフルエンザワクチンの接種を行いました。また長岡市との協議の結果、長岡市の他の避難所でも11月19日、22日の両日にインフルエンザワクチンの接種を行いました。また小児を対象にそれぞれの2週間後にも接種を行う予定です。ワクチン接種に際しましては、お忙しい中また夜間にも係わらず、多数の先生方からご協力をいただき心より御礼申し上げます。(接種にかかる費用については、最終的には、災害救助法により65歳以上の方の自己負担金等を行政が負担することになり、避難されている方で65歳未満(幼小児を含む)の方の自己負担金は、お見舞い金として長岡市医師会が拠出することにいたしました。なお、この見舞金には、臨時理事会の承認を得て、長岡市の姉妹都市であります会津若松市の医師会から当医師会に寄せられました災害義援金の一部を当てることにしました。)
また、長期化する避難所生活や震災後の「心のケア」についての勉強会を、11月18日に医師会館において県の福島先生、鹿児島県、広島県の心のケアチームの先生方をお招きして開催いたしました。会員の皆さんの関心も高く110名を超える出席があり、大変有意義な勉強会となりました。
11月22日の時点で、被害の大きかった地域に18カ所の避難所が残っており、929名の方が避難しておられます。それらの避難所には地震発生当初から、お近くの先生方に巡回診療をお願いし今もお願いしております。これらの先生方におかれましては、心身ともに大変お疲れのこととは存じますが、今しばらくよろしくお願い申し上げます。
今回の地震により、ACLS講習会や社会保険ならびに学校保健研修会等たくさんの勉強会が中止となりました。地震のためでありお許しを願いたいと思います。
順次、避難者の方の仮設住宅への入居が始まりますが、医師会員各位におかれましては、長岡市民の心のケアの方もよろしくお願いいたします。
以上、地震発生からの長岡市医師会活動の概略をご報告いたしました。
平成16年10月10日と11日の両日、新潟交通シルバーボウルにおいて、第34回全日本医師ボウリング連合全国競技大会が開催されました。前日は、強い台風22号のため、飛行機の運休が相次ぎ、多くのキャンセルが心配されましたが、台風をものともせず、ボウリング好きの医師およびその家族204名全員が参加されました。3回目の地元開催である新潟県からは24名、長岡市からは私以外に、茨木眼科の茨木政毅先生、幸町耳鼻科の佐藤充先生、日赤救急の内藤万砂文先生の4人が参加しました。地元新潟市の先生方の気合いは物凄く、8月から週1〜2回投げ放題の練習日を設け、一生懸命練習していました。私も可能な限り毎日練習し、レーンに慣れるためにシルバーにも高速で度々でかけ、やれることはすべてやったという気持ちでした。
1日目はまず、4人チーム戦ゲームが行われ、私、中平活人先生、滝沢慎一郎先生、塚田芳久先生の新潟Aチームが4位入賞と幸先良いスタートを切りました。内容的には、滝沢先生以外は不調でしたが、3ゲーム目の最後を4人全員がダブルまたはターキーで締めくくれたため、ようやく手にした入賞でした。初日の午後はダブルス戦で滝沢、塚田ペアが好調な出だし。入賞間違いなしと思われましたが、最終ゲームでつまづき、僅差でおしくも入賞を逃がしました。私のペアは絶好調の中平先生でしたが、2人とも調子が出ずに20位に終りました。
その夜新潟勢は長野勢と一緒に宴会を設け、その席で群馬・長野・新潟三県対抗で顔見知りになつた水戸野(みとの)先生と話す機会がありました。彼は私よりも若いのですが、ボウリング歴はほぼ同じで、3年半前にボウリングにのめりこみ、始めて約1年でパーフェクトを達成、現在のアベレージもほぼ同じで、よきライバルと思っています。しかし、初日の成績は大差で、彼は6ゲーム合計1298点でトップ、一方私は1145点と情けない点数でした。会話中、今年の「ぼん・じゆ〜る」2月号に私が投稿した「新年ボウリング大会優勝記」を意外にも彼がインターネット上で見ていて、「あれにはいいことが書いてありましたね、とくに、呼吸法はためになりました。」といってくれました。それは大きく深呼吸をして息を吐ききったところで投球にはいると、力みがとれて正確に投球できるというものですが、私自身は、最近ほとんど意識していませんでした。
それから後は、うまい日本酒を飲みすぎ、記憶がとんでいて、どうやってホテルオークラに帰ったかもよく覚えていません。翌日目覚めるとひどい二日酔い。顔は真っ赤で頭はぼーっとしたまま。朝風呂に入ってもなかなか酒は抜けませんでした。
シルバーに着くと、すでに前の組は最後のゲームとなっていました。二日酔いのためにむくんだ親指の抜けが悪く、あわててボールの穴を調整しているうちに、私達のシングルス戟の開始時刻となりました。レーンはちょうど水戸野先生の隣で、互いを意識しながらの投球となりました。酒臭い匂いを振りまきながら深呼吸を行い、投げる板目に集中しました。1ゲーム目は序盤でスペアミスがあったものの後半ストライクが続き226点でまずまずの出だし。2ゲーム目は最初からずっとストライクが続き、多くの声援を頂きましたが、9フレで惜しくも7番ピンが残り、パーフェクトはならず、268点でした。水戸野先生も好調で2ゲーム終了時、私に10ピン差で続いていました。私は3ゲーム目も好調でしたが、8フレでスプリット。逆転されたかと思いましたが、それを見ていた彼も次の投球でスペアミス。結局私は合計698点で、わずか5点差で彼に勝ちました。ひょっとすると優勝かとも思いましたが、神奈川県の高橋先生が最終ゲームで257点をだし、年齢ハンディ90点も大きく、優勝されました。私は準優勝、水戸野先生が3位、滝沢先生が4位で、2位から6位までがわずか16点差という激戦でした。また、9ゲームスクラッチでの合計で順位を決める種目総合では安定した力を発揮された滝沢先生が2位、私はシングルス戦の
得点がものをいい4位に入賞しました。
その後、ハンディ込み9ゲームの合計点の上位30人によるオールエペンツ3ゲームが行われ、全12ゲームの合計で個人総合が争われました。新潟からはオールエペンツに5人が残り、最終的な個人総合の順位は滝沢先生が11位、私が12位、筑井京子さんが13位、岡田和子さんが26位、塚田先生が27位でした。
皆様からのご支援とご声援のおかげで、地元新潟での全国大会も無事終了でき、新潟チームが入賞5個、オールエペンツ参加5人というすばらしい成績をおさめられ、また私自身も三種目での入賞を果たせたことを心から感謝しております。
1.民族学の創始者柳田國男
日本の民俗学の創始者といわれる柳田國男(1875?〜1962)は、明治八年、兵庫県神東郡田原村辻川(現在の神崎郡福崎町辻川)の、曽祖父・左伸以来100年におよぶ村医師松岡家に父・松岡操と母・たけの六男として生まれた。松岡家には男子八人が生まれたが、貧窮のため養子に出されたものが多かった。筆者の曽祖父も松岡家から姫路城城代家老の山内家に婿養子に入り、亀井小町と称された一人娘松枝を儲けた。しかし松岡家の兄弟は先祖伝来の学才があったのか、他家に貰われた後も勉学に励み、後に松岡家五兄弟としてその俊英ぶりが世に謳われるようになった。國男より十五歳年上の長男、鼎は故郷の昌文小学校校長から東京帝国医科大学則科医学科を卒業して医師となり、のち千葉県で郡会議員、布佐町長などを歴任した。国文学者で歌人の三男井上通泰、言語学者であり民族学者であった七男の静雄、日本画の大家として名を残す末子輝夫(桧岡映丘)と、それぞれに日本の近代文化史上、欠くことのできない業績を残し、その名をとどめている。そして六男國男は東京帝国大学法科大学政治科を卒業したのち、農商務省農務局に入り、貴族院書記官長・国際連盟委任続治委員を勤めるかたわら朝日新聞の論説委員も勤め、また日本民俗学の創始者として、日本人の精神世界の領域にまで踏み込んで日本の民衆文化の再発見を通して日本人の歴史、原風景を構築し、民衆の日本史を構築した功績で学士院会員となり1951年には第10回文化勲章を受賞した。
青年時代の國男は上京後、森鴎外と出会い、松浦萩坪に師事し、自然主義の文学青年と交流して、「文学界」に新体詩を発表、斬新な詩作で仲間を刺激したが、「なぜに農民は貧なりや」という言葉に示されるように、社会構造に対する鋭い疑問から、文学への傾倒を絶ち、農政学を志したといわれる。東京帝大卒業後、農商務省農務局に勤めるなど官僚の職に就くかたわら、「遠野物語」などの民俗学への道となる書を著していった。雑誌「郷土研究」の創刊は民俗学が独自の領域と主張を持つための基礎づくりとなった。大正8年(1919)官界を去り、翌年朝日新聞社の客員として全国を調査旅行し、「雪国の春」「秋風帖」「海南小記」の三部作が生まれる。昭和5年(1930)同社を退職、ますます民俗学に専念、自宅で民間伝承論講義を行うようになる。「国史と民俗学」や雑誌「民間伝承」を創刊させるなど、昭和37年(1962)心臓衰弱で死去する日まで民俗学に心血を注ぎ、研究し続けた。
國男の生家は「日本一小さな家」で、“私の家の小ささは日本一だといったが、それもきっちりとした形の小ささで、数字でいふと座敷が四畳半、間に唐紙があって隣が四畳半の納戸、横に三畳づつの二間があり、片方の入口の三畳を玄関といひ、ほかの三畳の台所を茶の間とよんでゐた。(故郷七十年)”、この小さな家に、両親、弟と長兄夫婦が住んでいた。この生家の小ささが長兄夫婦の離婚につながり、國男が十歳の時には経済的困窮からその家さえ手放すことになる。そして國男は十一歳の時に親の元を離れ生家にほど近い大庄屋三木家に預けられる。「故郷七十年」で國男は“かうした兄の悲劇を思う時「私の家は日本一小さい家だ」ということをしばしば人に説いてみようとするが、実はこの小ささ、という運命から私の民俗学への志も源を発したといってもよいのである”と続ける。國男は、この住まいの小ささ、それゆえの庶民の暮らし方、助け合い、悲しみ、喜び、そこから生まれてきた伝承、伝説、民話など、すなわち日本の庶民の生活の基本型、その源流の追求から目を離せなくなったのだ。
今でもこの「日本一小さな家」は福崎町辻川の鈴ノ森神社の近くの高台に移築されて残されており、「遠野物語」など優れた作品を残した柳田民俗学の出発点として大切に保存されている。高台の下には國男が預けられた大庄屋三木家の建物も、当時とほとんど変わりなく残っている。生家のすぐそばに建てられている柳田國男・松岡家顕彰会記念館には、俊英ぞろいだった松岡家の兄弟の業績が、その作品や、資料などを通して紹介されている。記念館には兄弟の著作物のほか、医師であり、かつ文人であった父、祖母の遺里笠退稿なども展示されている。
この柳田國男が師として終生尊敬し、私財をもってその活動を援助したのが日本の産んだ偉大な博物学者、南方熊楠であった。南方熊楠は、海外で15年におよぶ独自の研究生括を送り、1900年(明治33)に帰国して、以後郷土和歌山県に住み、とくに1904年からは田辺に定住して、亡くなる1941年(昭和16)まで37年間の後半生をこの地で過ごした。その間、粘菌や民俗の研究に没頭し、自然保護などにも尽力し、偉大な学者とあがめられ、また、たいへんな奇人とみられていた反面、「南方先生」とか「南方さん」と呼ばれて、町の人々に親しまれた。
2.我が国エコロジーの創始者「南方熊楠」
1867年(慶応3)4月15日和歌山市橋丁の神主南方弥兵衛の次男として生まれた南方熊楠(1867?〜1941)は和歌山中学校(現桐蔭高校)卒業後、1884年(明治17)東京大学予備門(現東大)に入学、1886年大学予備門を中退、同年12月渡米。1887年ミシガン州立農学校へ入学。1888年10月同校退学、アナバー市に移る。この頃ミシガン州産諸菌(151種)を集める。1891年キューバに渡り、植物採集をつづけ、地衣新種「グアレクタ・クバナ」を発見。1892年9月渡英、翌年天文学に関する論文を「ネイチャー」に寄せる。1895年大英博物館の嘱託となり、東洋図書目録を編纂。1897年孫逸仙(孫文)と交際を深める。博物館蔵書の抜書を継続し、全53巻に達する。1899年(明治32)大英博物館をはなれる。この頃「ノーツ・アンド・キュウリーズ」に寄稿をはじめる。1900年(明治33)ロンドンより帰朝、和歌山市内に居住し、終生を故郷の紀州で過ごした。
南方熊楠は記憶力抜群で、19ケ国語に通じ、生物、民俗、鉱物、文学、宗教学などほとんど独学で研究した。2004年の夏、新潟市の万代美術館で開催された大英帝国博物館の秘宝展にも熊楠の研究ノートが展示されているが、英語:フテン語・ギリシャ語・フランス語・ドイツ語などに単語が自由に駆使されており彼の語学力の高さが一見できた。特に粘菌の研究は粘菌新属を「ミナカテルラ」と命名するなど「日本に南方熊楠あり」と日本の生物学のレベルの高さを世界に知らしめた。日本に初めて「エコロギー」を学問として伝え、人間は大自然の密接な連関の中で生存しているという考えを喧伝し、2004年「熊野古道」を世界自然遺産とする基をつくった。生物学者でもあられた昭和天皇が南紀行幸の際、生物の宝庫である田辺湾神島を訪問された時には南方熊楠が御進講係を命じられ、紀州で採集した粘菌150数種を陛下に献上した。昭和天皇はいたく喜ばれ、「雨にけふる 神島を見て紀伊の国 生みし南方熊楠を思ふ」の御歌碑が残されているという。
3.柳田國男と南方熊楠が救った「阿田和の大楠」
1905年明治政府は日本古来の宗教である民間神道を、天皇家を頂点とする国家神道に吸収整理するため、全国の神社を整理統合する神社合祀令を発布した。それは村々の鎮守の森を伐採し、樹齢千年を越す大樹を建築資材や鉄道の枕木などとして売却する経済的利益も伴ったため、各県知事は争って全国で5万個所にも及ぶ神社と鎮守の森を破壊した。この暴挙に対して、400年の歴史を持つ神主の家に生まれた南方熊楠は「神狩り」と称して反対運動を行ったため、明治42年には田辺警察署に投獄された。
獄中、柳田國男が差し入れたその著書「石神問答」に熊楠は強く引かれ熟読し、二人の文通が始まった。世界に著名な博物学者であった南方熊楠も、当時の日本では地方に住む一変人として見られただけで、那智や熊野の森を守る神社合祀反対運動もまったく効を奏さなかった。折しも明治44年、幹の周囲15.7m、樹高31.4m、樹齢1500年をこえる「阿田和の大楠」が売却され伐採されることが決定された。この危機に際して南方熊楠は柳田國男に緊急支援を求め、「音に聞く 熊野楠日の 大神も柳の陰を 頼むばかりぞ」と書き送り、これに対して柳田國男も「願わくば これからの生涯を捧げて 先生の好感化力の伝送機たらん」と応えて、熊楠の著書を自費で出版し政財界の重鎮に配付するとともに三重県知事に阿田和の大楠の助命請願を送った。知事も中央官庁の高級官吏であった柳田の要請を無視できず大楠伐採は中止された。南牟婁郡御浜町大字引作字宮本の市木保育所には、今も東西18.4m・南北18.2mに渡って一木で森を作る阿田和の大楠の傍に、熊楠と國男の助命嘆願により伐採を免れたことを後世に伝える石碑が残されているという。
熊楠と國男は片や生物学者、片や官僚としてその社会的地位や活動範囲は大きく異なるにも拘らず、その共通点も少なからず存在する。まず二人とも東京大学(の前身)に在学中から農業と農民の生活に興味を引かれ、熊楠は後にミシガン州立農学校に入学し、國男は農商務省に奉職した。また二人とも市井の一庶民の目から見た日本の風俗習慣を克明に実地調査し記録に残して、我が国民族学の礎を築いた。そして何よりも、急激な近代化とそれに伴う自然・風俗の破壊を嘆き、偏狭な国粋主義に陥ることなく、自然と調和した日本人古来の文化と伝統を国際的視点に
たちつつ民族としての誇りをもって保存すべきことを主張した。さらに両者とも卓越した先見性と不屈の忍耐力をもって、自らの為すべきと信じたことを生涯を通じて遂行し続けた人であった。まさに「Eccehome! (この人を見よ)」と聖書に説くごとく、熊楠・國男に象徴されるような明治の先人遠から学ぶべきことは多いと言わねばならない。
スズメ メジロ ロシヤ ヤバンコク クロボトキン キンターマ マ一口ーフ フンドーシ シメタタカジャツボン ボンポロリン リクグンノ ノギサンガ ガイセンス
スズメ メジロ ……。
こういう戯歌をどなたかご存知ですか。私、昭和十三年生まれの六十六才で、幼少時覚えたものです。
もちろん日露戦争のときにつくられたものでしょう。もしどなたかご記憶しておられ、間違っているようでしたら、ご一報ください。
このなかで、クロボトキンはロシアの著名な歴史上人物です。ところが、マ一口ーフという言葉とタカジャツボンというのがわかりません。わたしにとってこれが長年の謎なのです。
もしもどなたか教えていただければ幸いと存じます。
この他このような類のものに、
トントントンカラリントトナリグミ ショウジヲアケタラ ネイサンガコシマキヒロゲテ シラミトリアアミタミタ ……。
とか
オカカ フンドシ マヒラー マヒラー
とか
イマハヨナカノサンジゴロ デコボコオヤジガユメヲミル ミトレテソレトハシラヌマニ アットイウマニ ネショウベン
なんて、いろいろありますけど、あまりに馬鹿馬鹿しいので、やめます。
これは人生最大のピンチだという気がしながらも、妙に実感がないのでした。「落ち着いて対処しないといけないぞ。」などと考える、妙に冷静な自分も一方にありました。
10月23日夜、「中越地震」直後の長岡に向かうタクシーの車中にありました。
同日午後より新潟市で気管支喘息の研究会がありました。シンポジウムのさなかに会場Nホテルがぐらぐらと大揺れしました。さらに数分間横揺れが続きました。振動にきわめて弱い体質のわたしは「船酔い」状態になりました。いったん手洗いに行って吐き、すぐに会場に戻ったところで再度の地震。
「これはだめだ。」とわたしは会場を後にしました。そのフロアですれ違った医師仲間S先生が地震に関する第一報を教えてくれました。
「Gセンセイ、この地震はすごいらしいです。震源地は小千谷、長岡方面らしいとカーラジオで言っていたから、早く帰ったほうがいいよ。」
タクシーで新潟駅に行き、新幹線に乗ろうとしました。ところがすべての電車の運転はすでに中断。駅の待合室で見たTVニュースで、地震による上越新幹線の脱線事故が大きく報じられました。我慢して情報を待つと、2時間後に駅当局から在来線も含め本日中の復旧は不可能という判断。高速バスも同様でした。だめかと思いながらも、新潟駅前のタクシー乗り場で頼んでみました。
「すまないけれど、この地震で家族の安否がしれないので、長岡まで行ってもらえますか?」
「うーん、…。」と困った顔。たまたま壮年の人の好さそうな個人タクシーの運転手さんでした。
「ちょつと母ちゃんに電話しておくさ。」携帯電話を使いますが全くつながりません。
「だめらねえ。」
「そうなんですよ。地震以来ずっとかけ続けているんですけれど、電話もまったく通じないんです。お願いします。」と頭を下げます。
「よし、行きますか。」
常套的な言い回しですが、ほんとうに「地獄で仏」に会ったような気がしました。
「わたしの家は長岡の東バイパスに近いので、途中でだめならあとは歩くので、行けるところまでお願いします。」
「わかりました。」
ニュースで不通だという高速道は避け、国道8号線を主にさまざまな迂回路を経て、3時間半の行程で我が家のある高町団地にたどり着きました。この運転手さんには一生感謝ものです。
「あー、センセエ、無事に帰ってきたよお。」 「おかえりなさい…。」
家人もいっしょに蝋燭の明かりを囲み、路傍にうずくまっていた数名が毛布を巻き付けながら、出迎えてくれました。被災の留守部隊の唯一の男だったとかで、ご近所の心の支えになった隣家の若いご主人は、
「いやあセンセも、無事でよかった。」 「ご苦労様でした。」
(…ほんとは無事でよかったのは、自分ではなく大地震の被害をもろに受けたあなたたちなんだけどね。)
「みんなで寒いから抱き合って、励まし合っていたのよ。」と声をつまらせながら、家人が言いました。
地震が起きたのは、ちょうど夕方に家人がお風呂に入り、洗髪のさなかであったという。瞬間で停電し真っ暗になったが、無我夢中で衣服を探し、割れたガラスを踏みながら跣で外へ飛び出たらしいです。
次回、その2へと続きます。