長岡市医師会たより No.303 2005.6

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もくじ

 表紙絵 「美術館の裏から」    丸岡  稔(丸岡医院)
 「アルファベットを発明した国・レバノン」 田村 康二(悠遊健康村病院)
 「渓流吟行」           江部 達夫(江部医院)
 「心に残る温泉旅館 その1」   高木 正人(高木内科クリニック)
 「中村杯争奪マラソン大会開催記」 河路 洋一(立川綜合病院)
 「カラスの番人」         郡司 哲己(長岡中央綜合病院)



美術館の裏から   丸岡 稔(丸岡医院)


アルファベットを発明した国・レバノン  田村康二(悠遊健康村病院) 

 昨年レバノンへ旅した。「何故危険かもしれない国へ行ったのですか?」と問われる。私が若いときに三年間医者として働いた病院の名前がじつはCedars-Lebanon(レバノン杉)Hospital だった。そこでかねてからレバノンの杉を見たいと思っていたからだ。しかしレバノンは長く内乱が続いて危険な為なかなか思いを果たせなかった。たまたま機会に恵まれたので急遽レバノンへ旅した。
 レバノンは旧約聖書の時代から歴史的に大きな役割を果たしてきた。この国の自慢はレバノン杉、アルファベットを作った国、世界最古のガラスであるフェニキア・ガラスを造ったなどである。レバノン杉はレバノン国旗の中の模様になっている位だ。レバノン杉はかつてはレバノンの地に沢山生い茂っていたという。この杉の素晴らしさは地中海沿岸によく知れわたっていた。だから今に残るエジプトのミイラを入れているお棺もレバノン杉である。しかし長い歴史の中で次第に少なくなり、今では国定の自然文化財として少数が保護されている。だからもはや勝手に伐採などはできない。丁度日本の屋久杉のようなものである。訪れてみて始めて旧約聖書に遡る「レバノン杉病院」の由来が判明した。商人は逞しいもので、何処で手に入れたのかレバノン杉の工芸品を売っている。「これは本当にレバノン杉ですか?」と家内が聞いたら、内戦中に密かに入手した材料だという。ガイドが盛んに木の香を喚いで「これは確かにレバノン杉ですよ」と保障してくれたので、買い求めた。この店の周囲の家々の壁には未だに内戦中の銃弾の痕がなまなましく残っていた。その壁掛けを自宅の壁に飾って昔を懐かしく想い出している。
 レバノンのもう一つの自慢はアルファベットを造ったことである。正確にはレバノンからシリアにかけて住んでいた古代フェニキア人が造ったのだ。だからシリアのダマスカスでもレバノンのベイルートでもアルファベットを作った国という自慢の掲示をよく見かけた。アルファベットは人類最高の発明の一つである。約三千年前に発明されたこの文字は、他に類がない、極めて単純である、適応力に優れているという三点の特徴がある。アルファベットは古代中国人が発明した漢字と比べてみると明らかに優れていることが分る。だからアルファベットが今日のキリスト教やアングロ・サクソン人の世界制覇に大いに役立ったのである。
 紀元前二千年頃にエジプトでヒエログラフ(象形文字 が発明された。これをもとにしてフェニキア人が紀元前千年ころにアルファベットの基本を作ったとされている。しかしこの文字には母音が採用されて居なかった。なぜならば母音は一つの子音から次の子音へとわたって発音する時に必然的に生じる音とされたからだという。そこでギリシア人がこれに母音を加えて今日のようなギリシア・アルファベットが完成された。ちなみにフェニキア・アルファベットはそのままにヘブライ文字とアラビア文字の基礎になった。今では世界中で年間数億冊以上の書物が出版されている。その他の印刷物は数知れない。これらの内の60%以上がアルファベットで書かれている。医学でもアルファベットで書かれた文、特に英文は、今や世界の共通した知識の源になっている。だから我々は古代フェニキア人の造ったアルファベットの恩恵に皆が浴していることになる。
 ガラスも古代フェニキア人が世界で最初に発明したとされている。ダマスカスで泊まったホテルにあった骨董店に日本の古伊万里という大皿が飾ってあったのにひかれて立ち寄った。しかし目利きではない私の目には中国製のように思えた。かなり大きな店で様々な骨董品が並べてあった。店主は私が日本人であると知るや、「旦那、私の好きな日本の人には特にこれをおみせしますよ」と言葉巧みに後ろの机の引き出しを開けて骨董品の数々を見せてくれた。「レバノン内戦前は数万人の日本人がレバノンにいました。それが今では殆ど見かけなくなったのです」と嘆いて見せる。日本人は骨董好きが多いからだろう。この骨董商の甘言に乗せられて墓の副葬品だというガラスの小壷二点を求めた。「騙されているかもしれませんよ」という家内の言葉を背に受けながらカードの領収書にサインをした。私の求めた品が偽物なのかもしれないが、ベイルートの美術館でも同じょうにみえるガラスの壷を見かけた。「あの壷がそんなに貴重なのかしら」という家内の疑問に、美術館の学芸員は「内戦で美術館の収納品の多くは略奪されたが、幸いに残った貴重な品を展示しています」と説明してくれた。長岡の地震でもこの壷は幸い破損を免れた。
 レバノンへの旅は楽しかった。しかし帰国後再びテロ事件がベイルート周辺で頻発していることを知った。我々が恩恵に浴している歴史に残る様々な成果を上げてきた国が平和に発展できることを願っている。

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渓流吟行  江部達夫(江部医院) 

 渓流にイワナやヤマメを求めて55年はたった。この間私の血となり、肉となったイワナやヤマメの数は知れずだ。釣り人は釣った魚は食べないとよく言われるが、私の渓流釣りは自給自足として始めたのである。
 昭和24年、中学生になった時から、夏休みになると毎年旧三国街道に、4、5泊の行程で蝶々採りに出かけていた。一夏で70種の蝶が記録される蝶の宝庫であった。
 三国街道は湯沢を出て芝原峠を越えると三俣村に出る。ここからは清津川に沿って二居、浅貝村を通り、三国峠に向かう。昭和30年代に自動車道が出来る迄は、河井継之助が江戸に登った街道そのままであった。
 昭和20年代の清津川はイワナの宝庫、村人以外はイワナを釣る者はいなかった。夕飯の仕度が始まると、村人から借りた釣り竿を持って川に出かけた。10分もあれば仲間達5人のおかずは釣れた。飯食で飯を炊いた残り火でイワナを焼いた。腹に味噌を詰め、朴の菓で包んだ朴葉焼きは贅沢な一品、村人から教えてもらった食べ方だった。

 薪焚き夕餉の仕度や岩魚釣り

 大学生の頃は大イワナを求めて、山形や秋田の山にも出かけたものだ。山は低くても大きなイワナが釣れる川があった。イワナを食べ飽きた訳ではないが、医者になってからは、イワナより旨いヤマメ釣りに転向。
 医者として初めて勤めた病院が岩船郡関川村の国保病院。関川村には山形県から流れてくる荒川があり、その支流になる大石川が飯豊連峰の北端の杁差岳から流れ出て、病院から2km上で荒川に合流している。大石川は夏でも水は冷たく、村内でヤマメが釣れた。病院から車で5分も走れば、ヤマメが群がる渕や、急流に身を隠す大岩が連続してあった。

 岩陰に餌待つ山女潜みいる

 大石川は昭和42年8月の羽越大水害ですっかり流れが変わった。護岸と堰堤工事の結果、コンクリートの川に変わってしまった。もう二度とヤマメは棲めないだろうと思った。
 しかし20年も過ぎる間に、度々の出水で川底から大きな石が浮き出たり、中州が出来たり、深みも出来て川は少しずつ変わり、自然の姿を取
り戻した。ヤマメも戻って来た。
 大石川は今ではヤマメの多い川として有名、5、6、7月の渓流釣りの最盛期には多くの釣り人が入っている。スポーツフィッシングの盛んな今日、大物を期待してやって来ている。ヤマメは川に育って4年も経つと、餌にたくさんありつけたものは30cmを超す大きさに育つ。尺上ヤマメと呼んでいる。強烈な引きで、渓流用のしなやかな竿で釣り上げるのは困難だ。40cmのイワナを釣るよりも難しい。
 大石川での私の記録は35cm、もうマスに近い(ヤマメはサクラマスと同種)ものであった。体にはうっすらとパーマークが残っていた。勢いが落ちるまで急流の中で遊ばせ、釣り上げた時には右腕は棒のようになっていた。5年前のことであった。

 尺山女釣り上げ煙草の手は震え

 一昨年7月下旬のこと、夕方5時に大石川に出かけた。私の釣りは早朝か夕方、日の高いうちは出かけない。釣り場についた時、上空は灰色の雲で覆われ、突然スコールのような大粒の雨が降り出した。夏の夕立である。雨は10分程で上がった。川に入り毛針を投げ始めた。強い雨の中は鳴きやんでいた蝉が、川岸の林の中で、一匹、二匹と鳴き始め、やがて大合唱に。

 雨上がり瀬音かき消す蝉時雨

 雨の復しばらく射していた夕日は山陰になった。川面が暗くなり始めるとヤマメは水面を飛ぶ小さな虫を追って躍り出てくる。こんなにたくさんいるのかと思った。

 日は落ちて虫追う山女数増せり

 私の毛針にも次から次へと食いついてくるが、10cmにも満たない2年子が多く、針からはずして逃がすのが面倒な程。目的は20cmを超す中型
のヤマメ。もう竿を仕舞う時刻になっても10匹も釣れていない。これでは長岡で私の帰りを待っているヤマメファンに充分にご馳走できない。
 暗闇でねばっている中に、東の山から月が顔を出した。満月に二日足りないが、結構明るく川面を照らした。大型のヤマメが騒ぎ出した。月明かりでヤマメを釣るのは初めてのことだった。

 月照りて山女激しく毛針追う

 月明かりの下でのヤマメ釣り、30分で20匹は釣り上げ、予定の数になり竿をたたんだ。
 その晩は関川村の友人宅に泊まり、釣りたてを塩焼きで楽しんだ。二日後行きつけの鮨屋に私の診療所の職員と私の家族10人が集まった。塩焼き、てんぷら、姿造りのお鮨と全員満足してくれた。どうも仲間を喜ばせるために釣りをしているようだが、美味しそうに食べている顔を見ているのも私の楽しみ。この日は満月、東の山から大きな月が登って来た。

 月見酒姿造りの山女鮨

 胃を全摘して7年、ダンピング症状、癒着による腹痛、夜間の強いアルカリ腸液の口の中までの逆流症状に未だ悩まされながらも、残された人生を楽しんでいる。7月にはまたヤマメに会いに出かけるが、ヤマメにしてみれば川には来て欲しくない奴に違いない。

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心に残る温泉旅館 その1  高木正人(高木内科クリニック) 

 この度、編集委員の方から「旅行」について書くように依頼されましたので、思いつくままに書かせていただきました。
 最近、贅を尽くした温泉旅館をテレビや雑誌が沢山紹介しておりますが、超高級旅館のもて成しや料理が素晴らしいのは当然のことと思います。また、ラーメンの好みが人によって違うように、温泉も何を評価するかによって良さが違ってくるように思います。そこで、まず宿泊料が休日前料金で家族4人で泊まった場合一人1万8千円以下(絶対に2万円を超えない)、自動車で県内外を問わず2時間以内で到着できること(土曜日の午後に出発しても5時までに到着して明るい内に入浴する)、そして露天風呂があること。以上の条件で温泉旅館に宿泊してみますと、やはり当たり外れがありスリルもありました。
 まず、最初は私の大好きな露天風呂が良い宿からお話いたします。
 1番目はご存知の方も多いと思いますが塩沢町の大沢温泉・大沢館です。最近は 「たけし」が監督をした映画「はなび」のロケ地として有名になってしまい、トップシーズンには冷えた料理がでたりして大変残念ですが、露天風呂は健在です。母屋から露天風呂への渡り廊下は板が千鳥に渡らせてあり、その下が他になっており、とても優雅です。途中に休憩場所があり、そこから新緑の
巻機山(日本百名山)を眺めると、心が洗われて思わず涙がでてきます。また、丁度良くそこには煙草と灰皿が置いてあり、湯上りには、煙草を止めて18年になる私もおもわず手を出したくなるくらいです。その展望露天風呂に入りながら望む巻機山も絶品です。泉質は確か癖のない単類泉だったと思います。この露天風呂は豪雪地域にあるため当然屋根が付いていますが、ものすごく開放感があります。その秘密は、二方向に全く壁がなく外までぶち抜けになっているからでしょう。さらに露天風呂の入り口だけでなく内湯にも扉というものがなく、なんとも開放的な温泉になっています。ついでに、ご家族づれで行った場合、女性や子供たちが喜ぶ仕掛けが用意してありました。それは、玄関先にある自由に食べられる「焼いも」の壷や、冷たい井戸水に浮いているトマトやキュウリなど、さらに囲炉裏では自由にお餅を焼いて食べることができ、甘酒も飲み放題で用意してありました。補足ですが、きれいな別館は早く満室になりますが、古い本館は余裕があり、嬉しいことに廊下には持ち込み専用の冷蔵庫まで用意してありました。四季をとわず楽しませてくれる露天風呂と思います。
 2番目は、水上温泉郷小日向(おびなた)温泉天狗の湯・きむら苑です。上越新幹線水上駅より僅か2km程利根川沿いの旧道を南に進んだ山里にある小さな宿です。三百年の古さを残す母屋で夕食が食べられるほかは、露天風呂以外に取得のない宿です。客室は古く、料理も記憶がありません。しかし、小さな温泉旅館なのに湯量が豊富で、内湯は当然かけ流し、旅館の規模に似合わない自然石に囲まれた大露天風呂が庭にありました。この露天風呂の大きさは、宝川温泉ほどだだっ広くなく情緒と品があります。一部屋根付ですので冬も入浴できそうですが、庭を横断するのが大変でしょう。山里の温泉なので露天風呂の出入り口と更衣室は男女別ですが、中で一緒になっていますので、女性の方は暗くなってから入浴するかタオルを巻くか、それなりの覚悟と準備が必要です。ともかくも、新緑の季節ともみじの葉が浮かんでいる紅葉の季節が最高でしょう。泉質は単類泉で温度はぬるめなので長時間入浴ができます。
 3番目は、南志賀温泉郷信州山田温泉・風景館です。ここは少し遠いのですが、高速道路を使えば2時間以内でしょう。収容人員200名の中規模旅館ですが、紅葉の季節はかなり早くから予約をしないと取れないようです。この宿の露天風呂はさほど大きくはないのですが、松川渓谷に迫り出しており、谷川で入浴しているような錯覚にとらわれます。やはり新緑、紅葉の季節に入浴するのが最高です。ご忠告ですが、露天風呂まで渓谷沿いのかなり急な階段を下りなければならないので、酔っている方や足腰の悪い方には危険です。翌日の観光スポットは定番どおり善光寺参りと小布施の栗でしょう。(つづく)

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中村杯争奪マラソン大会開催記  河路洋一(立川綜合病院)

 さる6月4日土曜日、第五回中村杯争奪マラソン大会を、開催いたしました。長岡市医師会会員の先生方に、第五回という節目をむかえたこの大会を、紹介したく、投稿しました。
 中村杯の「中村」は、御存知のかたも、いらっしやると思いますが、私たち立川綜合病院整形外科の、2代目主任医長、中村整形外科医院の、中村敏彦先生のことです。先生は還暦をむかえた現在も、日々の精進をおこたらず、フルマラソンランナーとして、活動されています。その先生の名前を戴き、立川綜合病院整形外科が中心となって、開催、運営している大会です。
 中村杯の始まりは、5年前私と中村先生との某寿司屋での会話から始まったのです。ちょうどその頃、私が、ランニングにはまっていた頃で、私が酔った調子で、「先生今度(マラソン大会)やりますか」と言ったところ、中村先生が、「よしやるか」と即同意され、「コースは、交通事故の危険のない、信濃川の土手がいいかな」など、話がどんどん具体的になっていって、開催が決まりました。その頃立川綜合病院整形外科では、ゴルフコンペは、私の先代医長の頃から、開催されていましたが、マラソンをやろうという動きはなく、中村先生にしてみれば、「やっと言ってくれたか」という思いでいらした様に感じました。とりあえず十キロのコースで、始めようということとなりました。スタートは、大手大橋のたもとの陸上競技場前とし、長生橋を渡って、長岡大橋を目指し、これを渡った後、大手大橋を往復して、スタートの陸上競技場前に戻ってくるということになりました。
 平成13年に第一回が行われ、年一回だいたい6月の第一か二土曜日の午後に行っています。参加者は、立川綜合病院のランニング好きの医師と、出入りの業者の方で、健脚自慢の方にも、参加していただいています。それと病院とは全然関係のない、中村先生のランニングチームの方にも参加していただいています。
 今回は、23名の参加があり、年々盛んになっています。またレベルの上昇も著しくコンデションが良好だったせいか、優勝タイムは39分10秒で、9位の方までが50分を切る好結果でした。ただこの中村杯の主旨は、単なるタイムトライアルではなく、初夏の長岡の、美しい自然を眺め、新緑の香りを胸いっぱいに吸い込みながら楽しく走るということになっています。実際長岡大橋から近代美術館にいたる千秋が原の緑は、いつ走っても素晴らしいものがあります。
 終了後は、シャワーを浴びてさっぱりしたのち、表彰式をかねた懇親会をおこないます。ランニング後のビールの味は格別で、中村杯の楽しみの一つとなっています。この懇親会で、中村先生は「新潟でも柏崎でもフルマラソンの大会があるのに、この長岡でないのはさびしいので、この中村杯を発展させて、長岡米百俵マラソン大会にしたい」と今後の抱負を語られました。私はいきなりフルマラソンでは、私も含めて参加が困難になるので、できれば年二回紅葉を見ながら走る大会ができればなどと思っています。
 医師会会員の先生で興味のある方がいらしたら、是非参加してください。年齢制限等一切ありません。唯一の参加資格は、「走ってみたい」それだけです。

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カラスの番人  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 「ついにカラスの子がきょうは巣立ちしたわ。お向かいの木の上の巣から、うちに向かって飛行練習してくるみたいなのよ。」
 帰宅すると家人からきょうの身辺重大ニュースの報告。わたしは芋焼酎をオンザロックで晩酌しながら夕食です。これはつい先日、酒の道では先達と仰ぐT病院のK先生に芋焼酎がうまいとうかがってから、試してみております。
 さて家人の目撃情報です。飛行練習中の子ガラスは二羽。親カラスがかいがいしく面倒をみるそうです。うちの庭先に降りて、ぎや、ぎやと鳴き大きな口を開ける子ガラス。親ガラスはよしよしと、地面を掘り返してつかまえてきたミミズを食べさせてやります。
 えっ、動物の親子の情愛あふれるいいお話ですな、ですって?……とんでもありません。自宅の庭先で毎日そんな喧嗅なシーンが続けばうんざりであります。以前からカラスには我が家のミニ池と睡蓮鉢は水飲みや水浴びに無断使用されて怒っているくらいですから。
 「うーん、カラスはさくらんぼの番人の件では、ありがたいと思ったりもしたのにねえ…。」

 我が家の庭には三本のさくらんぼの木があるのです。自分でいただきものを移植したり、苗木を買って植えてから、十年以上が経過し大きく育ちました。毎年美しい花をたくさん咲かせます。それなりにさくらんぼの実もなります。ただしいつも熟して赤くなる前に、小鳥の来襲に遭い食べられてしまいます。
 「今年はなんかさくらんぼが赤くなってきても無事なようだね?」
 「あら、わたしもそうかな、つて思っていたの。ほんとね。」
 この春から、我が家のお向かいの庭にカラスが営巣し子育て中です。ここ数年、春の繁殖時期になると、カラスが我が家と隣家の中間地点の一本の電柱に数日がかりで枝木を集めて営巣。通報するとT電力会社の保全作業員が来て、数時間で巣の撤去作業です。愛の巣作りを邪魔されたカラスの夫婦は、バカアー、バカーとうらめしそうに鳴きながら、南の空に飛んで行くのが常でした。
 この春も撤去作業が恒例行事のようにありました。ところが今年のカラス夫婦は 「ど根性ガラス」。泣き寝入りせず、なんとお向かいの庭のドイツ唐檜の木に巣作りを始めました。近所住民の多少の邪魔(…我が家の賛同を得て、隣家のKさんがこれまた恒例のエアーガン射撃でいやがらせ)にもめげず、堂々と巣を完成させたのでありました。
 これまでさくらんぼの実を盗み食いしていた常連の犯人はスズメとヒヨドリでした。巣作りをしたカラスは巣の周りの縄張りの警戒が厳重です。おそらく小鳥たちはびびつて、近寄れないものと思われました。
 思わぬ「さくらんぼ番人」の登場でした。おかげでここ十年来ではじめて、おいしく熟したサクランボをすでに二百個ほど収穫することができたのでありました。カラスには以前からトマト、西瓜などの自家菜園の収穫を荒らされ放しでした。今年だけは、意外といい奴かも?と見直したところでありました。
 しかし巣立ちの翌日にはカラスの親子の犯行を目撃。甘そうに赤くなったさくらんぼを、大きな体で細い枝に無理にとまり、突つく現場に出くわしました。しよせんカラスは自分の生活のペースで暮らしているだけでした。鳴き声が聞こえます。
 ♪カラスの勝手でしょ。♪

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