長岡市医師会たより No.306 2005.9

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。
誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。


もくじ

 表紙絵 「安曇野(池田町)」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「長岡中央綜合病院の新築に祝意を表し、併せて長谷川亀之助先生を偲ぶ」 田中健一(小児科田中医院)
 「おわら風の盆見聞記」 星 栄一(長岡中央綜合病院)
 「山と温泉48〜その42」 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「没有、不知道」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



安曇野(池田町)   丸岡 稔(丸岡医院)


長岡中央綜合病院の新築に祝意を表し、併せて長谷川亀之助先生を偲ぶ

  田中健一(小児科田中医院) 

 かねてより着工した長岡中央綜合病院の竣功の運びとなった。
 二年余の前から工事が始まっていたが、今や国道17号バイパスから堂々とした近代的な建物が見られるようになった。通常の病院とは異なる外観に見る人々の想像を掻き立てるものがある。内部はどうなっているのだろうか。
 中央病院の建物を見ながら、いつも長谷川亀之助先生の温和な風貌を思い出す。
 戦後、焦土の長岡に、昭和25年頃、一内科医として、病院長長谷川亀之助先生は、中央病院に勤務していた。
 この9月17日に予定された新病院内覧会の案内状が送られて来た機会に、長谷川亀之助先生と、その一家のことを記したい。(以下敬称略)

 長谷川家一族は代々医家の家柄である。それも日本を代表する医家であり、地域の医療に貢献したのみならず、日本の医療を左右したのである。
 長谷川亀之助は長岡市福井町に生まれ、明治45年に長岡中学校卒業後、東大医学部卒。医学博士。台湾の綜督付台北病院長、勅任官で終戦を迎えた。
 長谷川亀之助は長谷川家十三代である。又、亀之助、きく夫婦の長男、長谷川博は、十四代に当り、慶応医学部卒、国立がんセンター外科部長を経て、茨城県がんセンターの病院長となった。
 長谷川家の系譜を見るに初代は長谷川利右衛門住之で、慶長6年大阪表より新潟に着船し、爾来代々越後ノ国、古志郡、長岡領下組高(のちの橋井村)開発肝煎りとなった。寛文9年10月17日没。
 十代、長谷川宗済は、福井村の漢方医となったが、始め長岡藩医の阿部宗達に学び、後、京都に遊学、天保2年帰郷して、開業した。「天保11年5月5日医術心掛け厚く、療養親切貧窮者施業篤心多く奇特為褒美。嘉永5年12月19日同上褒美」とある。明治3年9月日没。64歳。
 長谷川宗済の長男が十一代の泰であるが、之は後述する。泰の弟が順次郎で嘉永5年に生まれた。
 順次郎は父が明治3年に死んだので、東大医学部教官の兄、泰を頼って上京した。この時、父の弟子の山崎元修(新潟県西蒲原郡横田出身)と同じく内弟子の石黒宇宙治(西蒲原郡吉田町出身)も上京し、三人とも東大医学部に入学した。
 東京大学医学部鉄門倶楽部の記載を見るに第一頁の明治9年卒業生31名の中に、長谷川順次郎と山崎玄修の名前が書いてある。第一回卒業生である。同10年11年は卒業生はなく、明治12年の卒業生17名の中に石黒宇宙治の名が見える。第二回卒業生である。
 長谷川順次郎は、後、栃木県立医学校校長、茨城県立水戸医学校校長、兄を助けて済生学舎教師、済生学舎の附属病院であった蘇門病院の院長を勤めた。著書に「普来氏組織学」「病理通論」上・下等がある。
 山崎玄修は東大卒後、新潟県立医学校校長、済生学舎副舎長、蘇門病院院長を務めた。著書に「医科全書解剖篇」「婦人病論」「朱子産婆論」「産科要論」等がある。
 石黒宇宙治は、東大卒業後、海軍軍医総監、済生学舎講師、成医会講習所講師を歴任した。
 尚、長谷川順次郎の娘、竹代は長岡市日越町の医師、大森篤次(東大卒)に嫁ぎ、その子は秀才であった。それは大森茂樹、大森幸夫等計3名
の医師である(内一名は戦死している)大森茂樹は新潟高校、東北大学法学部卒業後、慈恵会医大に入り直した。日越で開業医、長岡市医師会の理事、新潟県医師会の代議員等を
務め、長岡市の市会議員、市会議長として、本業以外でも長く活躍した。大森幸夫は新潟高校、千葉大学医学部卒業、新潟大学附属病院の堺外科当時の助教授を勤めた後、千葉県がんセンターに移り、同病院長を勤めた。三名の男児あり、何れも医師である。
 長谷川泰は十一代として、天保13年福井村に宗済の子として生れ、粟生津の鈴木文台の漢学塾に学び、佐倉の順天堂、佐藤塾に入門して、つまり医学部予科と云うべき最良のコースを遺憾なく通り、江戸医学所に入学した。(ここは後に大学となった)やがて教師になった折柄、徳川幕府は瓦解、戊辰戦争が始まった。泰は長岡藩の軍医として従軍の身となつたが、郷里の福井村は激戦地となつて、死傷者を多数出して、自分の生家は損壊して、財産は失われた。明治2年、大学に戻り再び教師として活躍を始め、東京医学校校長となり、又、長崎医学校校長となったが、直ぐに長崎医学校は廃校となったので、明治9年本郷に済生学舎を開設し、生徒の教育に力を蓋しながら、脚気病院、東京付病院等の経営に当る他、政界では衆議院議員に選出されること3回、官界にあっては内務省衛生局長、日本薬局方調査会長など医政に多大な功績があった。医学書の新書もあり、超人的な働きと云うべきだった。
 済生学舎は明治36年廃校になるまで入学した者2万1494人、中、9628人が医師となった。漢方医を除き、日本の医師の大半を占めたようで、その舎名は友人石黒忠実によれば、天下に轟いたのである。
 済生学舎は粗末な校舎で、バラック同様だったし、泰は服装に無頓着だったので、「豚小屋校舎で、乞食校長」と世評にある。しかし戊辰戦争で無一文になった身で、良く学校を開設したと、功労を賞賛すべきであろう。又、粟生津の学塾、鈴木文台塾主は良寛と親交があり、良寛の詩集を編集したり、高く良寛を称揚していたと考えられるので、泰はまともに文台の気持を学んだと思われる。泰は粗末な五合庵こそ学問の場所、文化の真髄と考えてそのまままねたのだと思う。泰自身、本郷の乞食と自称していたようである。
 済生学舎が後世に残したものは何か。野口英世も済生学舎に学んだが、彼の苦闘の人生は多くの伝記によって少年少女の心に残るものがあるであろう。
 吉岡弥生も済生学舎に学んだが、済生学舎が女子入学を中止するに及び、自分の医院の一室に東京女医学校を創設した。これは現在の東京女子医科大学となった。
 中村富蔵は明治元年、古志郡十日町村に生まれ、長岡中学校卒業後、済生学舎に学び、平壌に半官半民の同仁病院をつくった。現地の状勢を憂えて、優秀な青年を募り、医師育成を行い、苦労の末、十名余りの医師を誕生させた。これが動機となり、京城に医専、医大が出来ることになった。済生学舎の開校により、在校生達の教育所が出来て、これが現代の日本医科大学と発展した。
 卒業生の小口忠太は小口病を発見した。名古屋大学眼科教授である。同じく光田健輔は光田反応で知られ、ハンセン病医療、研究の中心的存在であった。
 長谷川泰は明治45年3月11日に死去した。71歳を以て没した。
 先に述べたように、明治3年十代の長谷川宗済が死去するに及び十一代の泰も弟の順次郎も東京で生活したままとなった。福井町の名家の跡を継ぐべく、近隣より親戚の者を迎えることになり、ここに十二代虎三郎、理(みち)夫婦が誕生した。その長男亀之助は十三代、その長男博は十四代となる訳である。
 現在、長谷川泰、長谷川亀之助のお墓は見附市本町三丁目の智徳寺にある。
 先年智徳寺を訪れた。雨に濡れたせいか、お墓の字も定かではなかったし、記憶も薄れたので、間違っているかも知れないが、一つは十三代長谷川亀之助のお墓のようで、昭和49年10月建之、十三代妻きく、長男博、次男松二郎とあるようで
あった。
 亀之助の妻きくとあるのは、当時の日本医師会長武見太郎の妹と云うことである。
 又、昭和8年8月長谷川亀之助建之と書いたお墓もあるようだった。之は長谷川泰のお墓らしい。
 又、明治38年6月17日長谷川泰建之とあるお墓もあったようである。
 最初の書き出しから最後まで、過ちは教えを乞うて筆を摘く。

  目次に戻る


「おわら風の盆」見聞記  星 栄一(長岡中央綜合病院) 

 一度は行って見たいと思っていた越中八尾の「おわら風の盆」に、医師会の会員旅行で訪れることができた。
 9月3日出、お祭りの最終日に、一行16名で出かけた。長岡からバスで約3時間、交通規制に入る午後5時前に、街の中心部の宿泊場所に到着できた。八尾の町には宿泊施設は8箇所、600名分しかなく、民宿もない。私どもは料理屋の二階に泊めてもらうことになっていた。
 午後7時にぼんぼりに燈が灯り、踊りが始まることになっていたが、七時前より雨が降り出した。おわらの踊りは、衣装や楽器がナイーブで、小雨でも踊りは中止になると開いていた。おわらは、観光客のために踊るのではなく、八尾の人々が大切に守り育んできた行事であり、自分たちの生命ともいうべき特別な存在だそうだ。11の町内ごとに連を組み、南北3キロの区域の中で小路を移動しながら「町流し」をして踊る。
 7時には相当に出来上がってしまった人もおり、踊りを見に出かけるのに手間取っているうちに雨が一時上がり、鏡町のおわら踊りを見せてもらうことができた。
 鏡町は昔の色町で、ここの芸妓たちによって「おわら」が発祥したともいわれている。この最初に見た鏡町の地方(ぢかた)だけに太鼓が入っていた。私がこの夜に見た他の町内では太鼓はなかった。
 そうこうしているうちに再び雨が降り出した。街には七万人?の観光客があふ
れ、路という路に人、人、人。玄関先や軒先で、雨が上がるのを待つ人々。私は
宿に帰り、一寝して12時過ぎに目覚めると雨は上がって、宿の下を踊りの行列が通過して行った。
 町内毎に踊り手の衣装もちがい、行列の順序もちがう。踊り手の男衆が先頭
であったり、女衆が先であったり。地方(ぢかた)は踊り手の後方だが、唄い手が先であったり、三味線、胡弓が先の町内もある。
 私は地方の人達の粋な着物姿に興味があった。揃いの着物の町内もあったが、地方は銘々がそれぞれの着物で、着慣れておりとても個性的
でぴったりはまっていて感心した。
 12時を過ぎると、宵のうちの三分の一位の観光客になっており、あちこちの町内からおわらの哀愁を帯びたメロディーが聞こえてきた。諏訪町通りは、幅4メートル位の石畳の路が南北1キロメートルほどの直線で、ゆるい坂となって続いている。路の両側は、京都を思わせる格子戸のある二階建ての町屋が建ち並び、電柱もない。道路の中央は人払いをして、50メートルも先から諏訪町の踊りの列がゆっくりと近づいて来る。私語もフラッシュも禁止だ。目の前を美しい情緒たっぷりな幻想的な踊りの列が通り過ぎて行った。踊り手も地方も陶酔しているようであった。
 朝5時には、踊りの列はそれぞれの町内の踊り場にもどり、輪踊りをして今年の風の盆は終わった。また宿に戻り、朝食まで一寝した。八尾の土産は「おわら玉天」。マシュマロを薄焼き卵で包んだお菓子だ。、店には長い行列ができていた。包装紙の図柄は棟方志功作だ。
 9時に八尾を後にし、帰路は朝日ICより30分ほど山間に入った小川温泉で、昨夜の半徹夜の疲れを癒した。ゆっくりと昼食を摂り休憩し、予定よりも早く午後3時46分に医師会館に着いた。
 旅行の幹事の先生方が、数年前から準備をしていただけあって、とてもすばらしい旅行でした。事務局の星さん、添乗員の金井さんのきめ細かな配慮で、楽しい旅行ありがとうございました。また、「ぼん・じゆ〜る」七月号の福本先生の「おわら風の盆考」も参考になりました。
 八尾から帰った9月4日の深夜、NHK総合TVアーカイブスで、1988年に放送された高橋治原作「風の盆恋歌」のドラマ化「越中おわら風の盆」の再放送があった。このドラマで「おわら風の盆」が一躍全国的に有名になったといわれている。ドラマでは、諏訪町の道路は普通の舗装であった。恐らくこの放送の後に街並み保存で石畳の道路にし、電柱も地中埋設にしたのだろう。
 八尾の人々が、三百年の間大切に守り育んできた「おわら風の盆」が、これからも俗化することなく続くことを願う。

  目次に戻る


山と温泉48〜その42  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

鳥甲山

 標高2038米、地籍は下水内郡栄村。中津川渓谷の西方に吃立する、特異な三峰を保つ山。鳥が翼を広げた容。中津川右岸から見て左の南峰を白●(※山かんむりに品)1944米と呼ぶ。右の北峰は赤●(※山かんむりに品)1840米と呼ぶ。岸壁がみせる色から、呼称された。中央の主峰が、鳥甲山本峰。
 日本登山大系(白水社刊)には、「……この山里の名を高めているのが中津川の左岸に吃立する鳥甲山の存在であろう。中津川をはさんで対略する苗場山がゆったりした山であるのに、和山を臨む鳥甲山の東面は荒々しいルンゼが数本駆けあがっている。いわゆる白●(※山かんむりに品)、赤●(※山かんむりに品)、といわれる岩場である。……第二の谷川岳と宣伝された時代もあって、慈恵医大山岳部、独標登高会……(中略)などのパーティーによる開拓や集中登撃で全貌は明らかにされているが、訪れるクライマーは現在でも多くない。高距五〇〇米、幅二粁と称される岸壁帯も草付きが目立ち、石英安山岩質集塊岩の脆さには手を出しかねるというのが、正直なところだろう。……」。このように記載されている。実際に、中心の白沢は、上部の崩壊激しく、入谷禁止です。
 日本山嶽志・鳥甲山テウコフサンと読む。「信濃国下高井郡ノ東型ニアリ、堺村字箕作ナル屋敷組ヨリ三里二十町ニシテソノ山頂に達ス。標高七千二百六十尺」
 清水栄一氏の「信州百名山」(昭和五十四年刊)をみると、「鳥甲山で心残りなのは、……日頃から私淑していた深田久弥先生に、この鳥甲山をご案内する約束を果たせなかったことである。……」とある。なるほど、深田百名山には入っていない。旧くからの、信仰の影のある 「やま」を選んで居る故ではないか、と言う人もある。どうだろうか。この本の欄外に、町村誌の記述がある。
 町村誌(明治7年・明治政府が各町村の郷土誌担当の調査資料を報告させたもの。)の上木島村の項に「木島山ノ内、高凡六百丈、周回未だ実測を経ず。本村の東方にあり全山本村に属す。……登路一条村東南方字糠平より燕山の東麓の経、平石峰の北麓より、又、東して南に上がる。高七里、最嶮路なり。……とある。この登路は、信州木島から尾根を辿っている。かなり、長い距離のようだ。
 この山を「東洋のマッターホルン」とした記述を見たことがある。しかし、白●(※山かんむりに品)・赤●(※山かんむりに品)の巨大な翼をもつ怪鳥の頭、の記述方が言い得ている。いずれにしても、登る人は少ない。だから不遇の山と言うのでしょう。
 鳥甲山は、静かな山、孤高の山と言われ、滅多に、この山の話を聞かない。それは、次のような、山の様相のためであろうか。
 山の崩壊が激しい。谷は崩落し、谷の頭は、しばしば登山道を寸断する。尾根は、岩峰が並び、大白槍曾、米栂が交じり合い、倒木が登路を塞ぐ。漸く着いた頂上は、樹林の中で展望はない。展望が望めるのは、痩尾根の断崖が続く頂稜の一角だけ。
 登山口は、二カ所、いずれも、中津川左岸の秋山林道にある。屋敷集落を抜け、林道に上がると、標示板が目の前に立つ。切明温泉からは、中津川を渡り、発電所の横を通り、林道を上がり北に向かう。間もなく秋山林道と、左折して南に向こう奥志賀林道の分岐に着く。奥志賀林道に入ると、直ぐ、右側台地に登山口表示板がある小広い平らがある。この一帯が貉平1050米である。和山温泉800米からは、宿の横から中津川を渡り、左岸の旧線路敷を越え、秋山林道に出る。標高差約200米、急登を覚悟せねばならない。
 登路は、鎗平から登り、白●(※山かんむりに品)より屋敷道に合至、頂上往復、赤●(※山かんむりに品)を経て屋敷集落に下る。屋敷道からの登りは、登山口より直ぐ、急登になり、標高差600米登るのがきつい。この路は、屋敷山直下1460米までが勝負。この登路・下山路は、昭和34年に新伐開されたものと聞く。他の登路は廃道となった。又、大小の沢は、崩落が激しく登降禁止、入谷禁止である。

貉平登山口

 杉の植林地から樵林に入る。登路唯一の水場を過ぎると、急登になっていく。十万仏岩の岩塔は見事。痩尾根の急登が始まる。展望はよいが路は歩きにくい。なお登ると、樹林の白●(※山かんむりに品)1944米頂上に着く。展望無し。此処まで3時間。白●(※山かんむりに品)頂上から、汚く、歩き難い路を下る。1908米地点から、この登路最大の難所、剃刀岩登路が始まる。崩壊した痩屋根、細く、足場がない。ワイヤーロープが張られているが、白●(※山かんむりに品)沢へ落ちる絶壁は、さすがにすぎまじい。脚が震える。此処を難なく通過すると、平坦な屋根の路となる。直ぐに急登になり、間もなく屋敷道と合流。20分程で、木立に囲まれた鳥甲山頂上に着く。展望望めず。下山は、和山道(貉平道)と屋敷追分岐を、左に採り、赤●(※山かんむりに品)を経て、転がるように下る。秋山林道に降り立つと、脚が笑って、笑い停まらず、屋敷温泉湯槽で、漸く停まる。
 この山に登山の場合、事前に必ず現地の「栄村役場秋山支所」に、鳥甲山登山情報を得、確かめて、山行計画を建てたうえで、入山してください。

 長野県下水内郡栄村小赤沢
  栄村役場秋山支所、
  秋山郷観光協会
   0257−37−2202

追記
 鳥甲山は、老年期の山の放か、崩壊が激しい。私もこの4〜5年は入っていないので登路の状況はわからない。小赤沢の栄村支所コミュニティーセンターで聞いて下さい。入山禁止の事もありますので……。
 支所、センターに、山の案内、山の情報パンフレットが置いてあります。御利用下さい。

  目次に戻る


没有、不知道  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 Eメールが来ました。ネット上の中国関連の某書店からです。購入したVCDドラマの一部が再生不能なので商品を交換できないものか?というわたしの問い合わせに対して、ようやく二週間ぶりに届いた返答でした。
 ちなみにVCDは日本ではあまり馴染みがありませんが、中国ではポピュラーなメディア。いわば旧式DVDみたいなもので、通常は日本のDVD機器で再生可能です。
 ちなみにそのドラマ名は『長纓在手』(2000年の作品)。清朝末期を時代背景に、侵略した日本軍に纂奪されそうな宝物の龍頭の行方を巡るラブロマンスありの冒険活劇です。もちろん中国語です。
 この作品は中国語(簡体字)の字幕が付いていて、よくわからないなりに類推でなんとかストーリーが追えるものでした。
 いっしょに見始めていた家人には第一巻が終わり、すぐ第二巻目で映像が出なくなったので「また安物買いのなんとか…かしら。」と笑われてしまいました。
 返答の内容は以下でした。「…44枚のシリーズのうち4枚が不良品とのことですが、メーカーに問い合わせて再生確認したところそのうちの3枚のみ交換可能な良品があります。残念ながらNo.26は中国のVCD再生機のみで利用可能でDVD再生機やパソコンでは再生できないとのことです。以上ですがお客様の返品または一部の交換希望に応じますのでご連絡ください。」この中国輸入品を扱うネット書肆は一応誠意ある対応をしています。問題はそんな製品を作る中国の会社で、天津市文化芸術音像出版社と記載があります。立派な装幀からは海賊版ではなさそうなんですが。
 製品の製造過程で上記のような事態が生じることが、日本でならとても考えられませんよね。
 TV連続ドラマの主演はもっかわたしのお気に入りの中国人女優の許晴(シュイ・チン)。
 『笑傲江湖』(2001年中国中央電視台制作)は人気作家金庸の武侠小説(日本でいえば時代劇)のTVドラマ…NHK大河ドラマみたいなもの。某T書店のレンタルDVDで見ました。日本語字幕を付けて国内向けに販売したものですが、おもしろかったです。その主役女優の許晴のお茶目なキャラクターの大ファンになりました。いつか中国語の勉強にもなるしなどと思いまして、このDVDも購入しなおしました。
 原作小説の設定ではヒロインの任盈盈は18歳。ネットで調べると、女優許晴は1969年生まれ。現在36歳で撮影当時32歳とは驚き。とてもブリブリして可愛い役柄です。その年齢不詳ぶりは日本なら松田聖子か?森光子か?というくらいであります。
 他にもいくつか許晴の主演ドラマの中国製VCDをネット通販で購入しました。今回のドラマが『笑傲江湖』に次いで面白く、許晴のブリブリ演技も可愛いだけに10%部分欠落の鑑賞となりそうなのがいかにも残念であります。
 ところで中国の仕事のいいかげんさと人のしたたかさについては谷崎光「中国てなもんや商社」(文春文庫)なんてオモロイ本を以前に読み笑わせてもらっておりました。
 ちなみに今回の題名は中国語でメイヨウ、プーチ一夕ウと読みます。無いよ、知らないよという意味。日本人が彼の国でもっとも耳にする言葉だそうであります。

  目次に戻る