長岡市医師会たより No.308 2005.11

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もくじ

 表紙絵 「晩秋(安曇野)」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た その1」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「自家紹介」 上原兼宗(上原医院)
 「第35回全日本医師ボウリング大会 20年ぶりの全国制覇」 窪田 久(窪田医院)
 「感動の24時間リレーマラソン」 阿部博史(立川綜合病院)

 「馬毛ブラシ vs へちまタワシ」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



晩秋(安曇野)   丸岡 稔(丸岡医院)


タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た〜その1

  田村康二(悠遊健康村病院) 

 「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る」鎌倉前期に生きた鴨長明の方丈記に書かれている言葉である。先頃あい次いで父母を亡くす一方で、無邪気に走りまわる孫をみているとこの言葉は身にしみてくる。
 医師に限らず自分のルーツを探ってみたい気持ちは誰にでもあるだろう。そんな考えから年来の希望であったアフリカのタンザニアにある人類発生の地を訪れることを思い立った。そのオルドバイ渓谷で死生観を考えてみたくなったのである。その余り人々が旅しないであろう土地への施行記に私の老いの繰り言を付け加えてご参考までに書くことにした。

私のご先祖はあなたと同じだ

 1859年にダーウィンが「進化論」を発表して、世界中が驚いた。それから100年後の1959年にイギリスの考古学者リーキーらは、タンザニアのオルドバイ渓谷で最初のヒトの化石を見つけたのである(写真1)。この200万年前の化石のヒトは、バラントロブス・ポイセイ(猿人)と名づけられた。ダーウィンが提唱した進化論の概念に、化石からの科学的な証拠を示したのである。そこで世界中の生物学者達は興奮した。
 ダーウィンの進化論は、サルからヒトへの進化という画期的な概念を提唱したのである。しかしこの猿人がやがて現代のヒト(新人)へと進化してきた仕組みについては、その後も系統だった生物学的理論や証拠は揃わなかった。私が長年研究している時間生物学はこのヒトの進化の過程を示す新しい系統的な生物科学なのである。生物時計にはヒトの進化の秘密が隠されていることが次第に明らかにされてきている。1967年にはサリッチやウイルソンらが分子時計理論を提唱してヒトの起源を明らかにした。分子生物理論はタンパク質の類似性から種の分岐を求めたのである。それによると例えばヒトはチンパンジーから500万年前に分かれたことが立証された。
 さらに分子生物学がヒトの起源についての新しい証拠をしめした。1989年にアメリカのカルフォルニア大学・バークレイ校にいる研究グループは、ミトコンドリアの分析から現代人の起源はアフリカで200万年前に生きていた女性に求められるとした。最古の人類の祖先は誰かという話になると、未だに議論はあるが300万〜400万年前のアファール猿人(ピテカントロプス・アファレンシス)、または440万年前のラミダス猿人(アルディピテクス・ラミダス)とされている。アファール猿人の女性の骨が1974年にエチオピアで発見され、そのお祝いの席でたまたま流されたビートルズの曲にちなんで「ルーシー」と名づけられた。これが有名な「人類の母、ルーシー」である。
 するとわたしのご先祖もルーシーおばあさんだということになる。このミトコンドリアは女性だけが継承する遺伝子である。その分析から地球上のヒトは単一の女性の子孫であることが立証された。この成績には世界中が驚いた。それまでは、1:ヒトは類人猿から一直線に現代人まで進化した、2:ヒトは世界中の多地域でそれぞれに進化した、と考えられていたからだ。そこでこの分子生物学の成果は20世紀の生物科学上における最大の発見の一つに上げられている。

オルドバイ渓谷への夢

 私のご先祖もいたというアフリカのタンザニアの奥地のオルドバイ渓谷へ行ってみたいと思った。単なる知的好奇心からである。しかし今回そこへたどり着くまでには時間と準備が必要だった。何しろタンザニアやケニアは治安が悪い。旅の途中で強盗団に襲われるかもしれないのだ。加えて衛生状態も極めて悪い。デング熱、赤痢、A型肝炎への予防注射が不可欠だ。マラリアの流行地なので予防薬を服用していをくてはならない。蚊にさされるとマラリアだけではない。いま日本でも問題になっている西ナイル熱に握るかもしれないのだ。悪名高いツエツエ蝿にさされると眠り病になる。そこでニューヨークのアウト・ドア店で頭からかぶる特別のネットや服を予め調達しておいた。分かりやすく言えば蚊帳を頭からかぶっているような格好になる。これを被ってタンザニアヘ行ったら現地の人々に面白い格好ですねと盛んにひやかされた。大袈裟だというのである。
 ケニアやタンザニアで個人旅行をすると場所によっては冒険旅行まがいになる。それを実行するには、ケニアの首都ナイロビで現地ガイドと車を調達すればよい。しかしナイロビはかってのニューヨークのハーレム街以上に危険だとされている。だから日本からのツアー旅行に参加するほうが無難ということになる。確かにタンザニアへのツアーは時々企画されるのだが、申し込んでも客が集まらないので成立しなかった。それに施する時期も限定される。7月から9月にわたるタンザニアの冬季の乾季に限られるのだ。砂利道の山道を車で走るので、雨季には道がぬかって車が走り難くなるからだ。
 それやこれやで月日が過ぎた。たまたま私の日程にかなうツアーを見つけたので申し込んだ。このツアーは催行されたのである。ツアー参加客への旅の前の注意としては、1:派手な格好、色使いはしないで欲しい。例えば日本の山登りの格好がよい。2:原住民を刺激しないような慎重な言動への配慮が望ましい。3:日本人は強盗に狙われ易いので、女性のイアリングやネックレスなど金目のものは一切身に着けないで欲しい。4:持参する金は秘密の場所に隠しもって欲しい。5:身の回りにはなるべく盗られても悔いの無い物だけを持参して欲しいなどと恐ろしいことが求められた。

タンザニアヘの道

 関西空港からドバイを経由して、長岡出発から24時間後にようやくケニアの首都ナイロビに到着した。到着する前にナイロビには朝着きますが、昼食は抜きですからそのつもりで機内食を食べておいて下さいと言われた。「妙なことを言うわね」と横に座っている家内が呟いたのは無理からぬことだ。「場所が場所だけに、それもしようがないのだろう」と言って諦めた。「ダイエットをしようと思っていても、これじゃ出きそうもないな」と言い訳して腹いっぱいになるまで食べておいた。
 ナイロビの郊外にある空港に着いて、ツアー客11人は2台の車に分乗した。すぐさま車はサバンナという見渡す限りの草原の方向に一目散に走り始めた。ナイロビの市内は治安が悪くて身の安全が保障できないので、人の居ない方向に走りますという説明だった。ケニアのナイロビは標高1,661mの所にある。そのせいで平均気温は年中ほぼ同じで18度だというから真に快適な気候である。
 やがてあちこちにキリンやヌーなどの野生動物の姿が見られるようになり、「これこそ憧れのアフリカのサバンナだな」と実感できるようになった。途中の町々にも一切止まらずひたすら走り続けた。原住民の居る町々は必ずしも安全ではないからだという。途中まではアスファルト舗装の道で快適にトヨタのランドクルーザは一行を乗せて走った。「何だ、いい道じゃないか」と思っていたら、やがて砂利道を走るようになりでこぼこ道になったので、時速はせいぜい40キロ止まりとなった。後部座席に座っていてもシートベルトを硬く締めて手で車の取っ手に確りと捕まっていなくてはいけない状態に成ってきた。車は止まらず走り続けた。「もし草をとめて車の外に出ると、ライオンに襲われるかもしれませんから休憩はできません」と脅かされた。いや真実なのだ。「これがアフリカの大地か」と思った。
 サファリはすこし前までは西欧人の金持ちしか出来なかった贅沢な遊びである。しかし最近になって大衆化して誰でも楽しめるようになったのだ。さまざまなサファリの仕方があるのだが、この度の旅行のようにサファリ・カーに乗って楽しむのが一番手軽である。ケニアやタンザニアでは野生動物の狩猟は国立公園内などでは禁止されるようになった、しかし依然として狩猟が公認されている地区はある。それがGame reserveといわれる地区だ。タンザニアの北西部や海岸部にあるらしい。しかし多くの観光客は今では銃をカメラに換えて楽しんでいる。
 2時間位走ったら休憩所という土産物屋に到着した。鉄条網に囲まれた野中の一軒家で観光客だけを相手にしているらしい場所であった。更に2時間位走った所でアリユウシヤの町に到着した。そこから更に2時間位走ってアンボセリ国立公園に到着した。サファリ・ドライブを楽しみながら6時過ぎになってようやく今夜の宿営地のロッジに到着した。
 翌朝はケニアの国境を越えてタンザニアに入った。「日本人ですか?お元気ですか?」と入国審査官に日本語で聞かれる。何しろ東洋人でこのようなところヘツアーで来るのは我が同胞ぐらいなのであろう。日本人の知的好奇心は真に旺盛である。
 目指すオルドバイ渓谷にはもう800キロあるのでさらに2日がかりとなる。2日日は有名なキリマンジャロ山を遠くにみながらタンザニアの高地をひたはしりに走った。この高地は標高1,500m位の延々と見渡す限りの平らなサバンナ(草原)である。だから赤道直下でありながら、気温は最高20度位で乾燥しているので真に快適であった。これがアフリカかと思うのだ。この夜の宿はパオパオの木が生い茂るタアランギーレ国立公園の中の立派なロッジであった。(続く)

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自“家”紹介  上原兼宗(上原医院)

 自分に持つ誇りは、どこから来るのかと問われて、色んな答え方があると思います。自己紹介で、自分をアピールする時は、何を自慢するかと言われても、何の趣味もなく、何の技量もないので、特技などと言われても、普通自動車免許と答えてしまいそうな気がします。
 ある新聞に、新開の中での人の自己紹介に学歴を省略するという風に書いてありました。とある企業の入社試験に学歴欄を記入しないで面接をしたということも聞きましたが、人を見てどんな人か判断することに能のない自分には、他人の付けてくれた評価にたよってしまうことが多い気がします。過日、事務員を採用するにあたって、やはり成績や学校を見てしまいました。今になっても、不採用にした応募者の顔を思い浮かべてしまい、皆な良い人だったんだろうと思ってしまいます。私自身、名刺に医学博士なんて印刷しながらも、人を騙しているようで恥ずかしさでいっぱいです。
 散々前置きしてからの自家紹介ですが、何の能もない自分が、せめて自分の家の経緯を考えてみると、今の世で養子もせず、直系で千年を超える歴史を持つ家は、それも文献で確かめられるのは珍しい方の類だろうと思い、残っている過去帳をもとに書いてみました。
 今更、家柄でもないのではと思いつつ、その事ゆえ、豊臣秀吉は征夷大将軍になれず、徳川家康は三河のただの地方豪族だったのを無理やり系図屋に藤原一族に引っばって貰って幕府を開いたことを考えると、根強い家柄信仰があるのではと思ってしまいます。
 中大兄皇子と共に大化の改新を行った中臣鎌足は後に、藤原鎌足を名のり、その後藤原一族全盛をきわめた平安時代に、藤原一族の国司として、当家は信濃に派遣されました。裏千家書庫にある藤原家系図に、当時の当家の記載が見られます。諏訪で神官に任命され、家紋「立ち梶の菓」は、今でも諏訪神社の紋になっています。神官であったため神原(カミノハラ、カミハラ)とも名乗っており、その後、上原(ウエハラ)を名乗る様になりました。
 荘園は戦国時代とともに崩壊し、信濃は武田領となり、当家も武田家臣団に組み込まれました。前後11年に渡った川中島の合戦で、勝敗もなく、恩償もなく、多くの家来を失い、当家は疲弊し、松本に下り出家して僧となり、復興を期しました。しかし、武田家は長篠の戦いで廃絶した為、当家の家臣と共に当時開拓地だった新天地を求め、千曲川を下り吉田町に庵を定め、新田開発の拠点として寺請制度の開始もあり、隻林寺(そうりんじ:その後は 「寺屋敷跡」と古老が呼んでいたとの事で、現在では保育所が建てられていると聞きます。)を建立しました。当山の開祖は釈一入ですが、川中島で戦い僧となった、私から十五代前の上原七郎左衛門丞藤原正説その人です。「家来 金子、新田、長谷川の三氏召し連れ……」と古文書に記載されている三氏の子孫も檀家として現在もこの地に絶えることなく続いています。
 本堂向拝にあった一対の獅子は、解体した本堂を吉田から川舟で運ぶ時、暴風雨となり、舟が転覆しそうになったところ、一つが大きな獅子となり天に昇り嵐を静めたと伝えられております。今は残った片方のみが、本堂真に安置されています。
 今も当山の本堂は四百年を越えても、その姿のまま信仰の道場として現存しています。
 現在、境内で小さな診療所を開業しており、医師として、住職としての二足の草鞋を履いた生活をしています。結局どちらも中途半端で「新潟の名医」として雑誌に載る事も絶対あり得ず、また法話をたのまれる程の僧侶になることもできず、長男に、そっと住職の立場を譲り渡す事が出来れば、祖先に百点満点を貰いたいと思うピンチヒッターリリーフの様な生活をしています。
 戒めのない浄土真宗を選んでくれた祖先の一人、藤原正説の先見の明に心から感謝せずにはいられない愚者の自分です。

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第35回全日本医師ボウリング大会結果報告
20年ぶりの全国制覇 
 窪田 久(窪田医院)

 平成17年10月9日と10日、第35回全日本医師ボウリング大会が187名の参加のもと大阪のイーグルボウルで開催された。前年度は地元新潟での開催で、5つの入賞と5人のオールエペンツ参加者を出し、新潟勢は大いに盛り上がった。しかし、今年は開催地が遠く、前年より新潟県からの参加者は少なく、関根会長、筑井京子さんペア、滝沢先生と県立吉田病院の原先生ペア、高畑先生と田沢先生ペア、永田先生と滝沢葉子さんペア、そして私と中平先生ペアの10人であった。今年の会場であるイーグルボウルは木製のレーンでなく、新潟にはまだあまりないプラスティックレーンで、3年前の高崎での全国大会では早いレーン変化に多くの選手が苦しめられている。新潟からの参加選手は皆一抹の不安を感じていたことと思う。
 前日午後6時頃に大阪人りした私たちは明日からの大会に備え、早速イーグルボウルに向かった。アプローチのすべり具合は普通だったが、レーンのオイルは長く、量も多く、両サイドまでしっかり入っており、一番曲がるボールを投げてもほとんど曲がらなかった。大会に向けて、より膨らむ不安を感じながらも、景気付けに北の新地に呑みに行った。いろんな地方に行っては、その土地の料理と酒を楽しめるのも全国大会の大きな魅力である。ビールで乾杯のあと、何を飲もうかと日本酒の品書きを見れば、新潟の酒がずらりとならんでいた。気軽に新潟のおいしい酒が飲めるわれわれは恵まれているんだなあと思いつつも、地元の焼酎を飲むことにした。翌日は朝早くから4人チーム戦があるので、ほどほどに切り上げ、大会第1日目に備えた。
 1日目の4人チーム戦は、筑井さ
ん、関根先生の両ベテランと若手実力者の中平先生と私のチームで、うまくかみ合えば入賞を狙える。しかし、全員が出だしでつまずき、後半追い上げたものの惜しくも7位で入賞を逃した。私も1ゲーム目は168点と大きく出遅れたのだが、曲がりを大きくするためにボールのスピードを抑えるようにフォームを調整して、2ゲーム目は215点、3ゲーム目は7連続ストライクが出て、246点と盛り返すことができた。初日午後からのダブルス戦は、中平先生とのペアで、実はこれが一番優勝の可能性がある種目だと思っていた。事実、今年に入ってからの彼の強さは新潟県勢の中では群を抜いていた。特にそれを証明したのは三県ボウリング大会の大活躍で、ダブルス戦で私が足を引っ張らなければ、すべての賞を独り占めするところであった。しかし、9月に入ってから10日間の海外出張で調子を落とし、残念ながら今大会では実力を発揮できなかった。私の方は好調を維持してダブルス戦ではストライクを量産した。1ゲーム目は5連発と3連発で224点、2ゲーム目は8連発で265点、3ゲーム目は6連発で221点と点を伸ばした。
 1日目の夜には恒例の懇親会があ
り、今回は余興としてジャズの生演奏が行われた。その後高齢者表彰が行われたが、新潟県からは古希を迎えられた関根先生が表彰された。その後に1日目の入賞者が表彰されたが、新潟からはダブルス戦で4位に入賞した私と中平先生が壇上に上がった。その後二次会にも参加して、ほどよく酔っ払い、グッスリ眠ることができた。
 2日目の午前中のシングルス戦では爆発できなかったもののまずまずの調子で、3ゲームで623点であった。4人チーム戦とダブルス戦とシングルス戦の各3ゲームの合計に年齢ハンディ、女性ハンディを加えた点数の上位30人が最後の3ゲーム(オールエペンツ)に進むことができるのだが、この時点で、私の順位はトップと48点差の5位であった。今にして思えば、優勝を意識して硬くなるほどの位置ではなく、しかも、十分逆転可能なべストポジションにつけていたと思う。ボウリングは技術面もさることながら、精神面も大きく作用するスポーツで、いろんなことを意識してしまうと微妙にタイミングがずれて失投してしまうことが多い。
 いよいよ上位30人による最後の3ゲームが開始された。1ゲーム目は8フレでスペアミスをしてしまい、苦しかったが、何とかその後ストライクを3連発し、無難に208点でまとめることができた。新潟の先生方からの大きな声援と拍手を力に、2ゲーム目は最初からターキーのスタート。4フレで7本スペアとなったが、その後はまた、ストライクラッシュ。応援の先生方は昼食にビールがはいっており、ストライクがでるたびに盛り上がり、お祭り騒ぎとなってきた。皆さんの声援のおかげで周囲の状況を全く気にせず、投球に集中することができ、2ゲーム目はセミパーフェクトの277点を記録した。しかし、大声援の恩恵を被った人が私以外にもう一人いた。同じレーンで投げていた香川の杢保淳子先生である。新潟の先生方は私だけでなく公平に杢保先生にも大きな拍手を送っていたのだ。最初の2ゲームは低調だったが、3ゲーム目は最初からストライクを連発。大きな声援に乗って第10フレームの1投目までずっとストライクが続き、なんと289点!ハンディの30点をたすと実に319点にもなる。昨年のシングルス戟でも同じレーンで投げていたハンディ30点の高橋先生に大逆転で優勝をさらわれた苦い経験があり、それが頭をかすめた。しかし、その日の私は最後のゲームも集中力を切らすことなく236点、3ゲームで721点を叩き出した。こんなに気持ちよく投げられたことはいまだかつてなかったと思う。ゲーム終了から結果発表まで、30分ほどあったと思うが、すべて力を出し切ることができた満足感から、ただただ呆然としていた。いち早く結果を見に行った中平先生が「優勝!優勝!」と叫びながら小走りに戻ってきた。やった!。個人総合優勝だ!。新潟の皆さんと握手をかわしながら、優勝の喜びは心の中で大きくひろがっていった。しかし、もっとうれしく、もっとありがたかったことは自分のゲームが終了したあとなのに、新潟の先生方は一人も帰ることなく全員が私を暖かく応援して下さったことだ。この大声援がなかったら今回の優勝はなかったに違いない。今大会では個人総合優勝(年齢ハンディ込みの12ゲームの合計)に加え、種目総合準優勝(年齢ハンディなし9ゲームの合計)、ダブルス戦4位、それに加えてハイゲーム賞まで頂くことができ、望外の好成績に自分でも驚いている。
 今回の大会を振り返って、極端に早いレーンコンディションに対応できず、十分に力を発揮できなかった選手が多いなか、私がうまくアジャストできたのは、昨年の中越大地震で私の通っていたセンターが閉鎖され、半年以上にわたり見附や柏崎や新潟のボウリング場を転々として、いろんなレーンコンディションに慣れたことが大きかったように思う。新潟県選手の全国大会個人総合優勝は、滝沢慎一郎先生のお父様の故滝沢修三先生が第15回新潟大会で達成して以来20年ぶり2回目で、日を重ねる毎にその重みを感じている。しかし、ボウリングは楽しむためのスポーツ。来年のこの大会でも気負うことなく十分に楽しみたいと思う。

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感動の24時間リレーマラソン  阿部博史(立川綜合病院)

 昨年から新しい研修医制度が始まり現在15人の研修医らが日々奮闘している。やはり若い力は活力を与えてくれる。私自身は昭和57年新潟大学脳神経外科入局であるが、当時の新入医局員の最初の仕事は、医局対抗運動会の看板作り、リレー、仮装の練習であった。その後も医局旅行、医局対抗野球、海開き……といろいろ医局行事があり、それらを通して同級との結束が深まった。入局1年目の思い出は今でも強い。しかし、今の彼らには、そのような特別な医局行事はなく、研修期間が終わると“立川”を離れ、それぞれの道を選択して歩むことになる。折角“立川”に来てくれたのだから、忘れられない共通の思い出を作ってもらいたいと、ここが自分勝手ではあったが、自分が日頃走っていることもあり、24時間リレーマラソン参加の話を彼らに持ちかけた。すると、予想以上にresponseがよく、実に快く乗ってくれた。元研修医?の中村整形外科医院の中村敬彦先生にも声をおかけしたところ然りであった。その後はロゴ入りトレーナー、垂れ幕等々、こちらが知らないうちに着々と準備がなされた。そして8月27日朝、12人の研修医を含む総勢16人は長岡を発ち、愛知県豊田市で開催された24時間TVチャリティーマラソンに参加した。参加は87チーム。極暑の中、あの丸山弁護士より4時間早い3時にスタート。その後の詳細な奮闘の記録は研修医らに譲ることとして、なんと女性2人を含む12人の軍団は300kmを突破し堂々の16位を獲得したのである。これはマネージャーも含めた素晴らしいチームワークの賜物である。こちらがむしろ驚き感動させられた。実はリレーマラソンのメンバー数は充分と判断し、ひとり24時間個人マラソンの部に挑戦した。400mトラックをネズミのように回り続けたわけであるが、彼らの暖かい声援と若々しい走りに力づけられ何とか160km弱を走ることができた(男性84人中13位)。こちらが思い出を作ってもらったと感謝している。これからの医療はチームワークである。彼らは自分たちの可能性とチームワークの必要性を再認識したにちがいない。是非来年も、そしてこれが“立川”の夏の研修医の恒例行事となることを強く願っている。

研修医たちの奮闘の記録 勝見明彦先生(マネージャー)記

「24時間で300kmを走る?」

 ルールは、設定されたコース(1周約1.5km)をチームの作戦で自由に走順を入れ替えて周回するものである。我々研修医チームは大会前の壮行会での「目標300km」を合言葉に大会へ臨んだ。300kmを24時間で走るには、1km5分を切るペースで24時間走り続けなければならない。はっきり言って素人集団の自分たちには高すぎるハードルだと思ったが、若さとノリで思い切った決断をしてしまった。

「いよいよ本番」

 8月27日午後3時スタート。1人1周で襷を繋いでいく作戦で、最初はみんな快調に飛ばした。夜8時の時点では第10位。300kmは確実にクリアできる位置であった。しかし夜が深まるにつれて気温も下がり、足が悲鳴をあげてきた。タイムも徐々に遅れ、周回を終えて帰ってくる仲間たちの走り方や表情がとても辛そうになってきた。ほとんど仮眠もとれない中でのレースを必死に励まし合いながら、夜は更けていった。

「One for all,all for one」

 夜が明け太陽が昇り始めると、また夏の日差しが戻ってきた。みんなひたすら自分と戦いながらチームのために頑張った。しかしペースは思うようには上がらず、目標の300kmは徐々に遠ざかっていくかに見えた。ところが、諦めかけた終了2時間前に計算し直すと、1周8分を切るペースをあと2時間キープできれば300kmに届きそうだと気付いた。するとそれまで疲れ果てていたみんなの顔に燃える闘志が甦ってきた。気分はすっかり学生の頃に戻り、考えられないようなペースで次々に襷をつないでいった。ついに終了直前に300kmを突破。全員が拳を突き上げ歓喜の雄叫びをあげた。結果は300.44km、87チーム中16位。予想以上の大健闘であった。

「夏の思い出」

 そもそもこのレースに参加することになったきっかけは、阿部先生から「2年間の研修医生活の中で、何かひとつみんなで思い出作ろう。」という言葉をもらったことである。将来を考えた時「もうみんなと一緒にここで働くことはないのだなあ。」と改めて考え、「こいつらと何か一緒にやりたい。」と強く心から思うようになった。しかし、実際のところわざわざ愛知まで行って辛い思いをすることに賛同してくれるのだろうかと不安であった。ところが、みんなが快諾してくれ、更に300kmをも達成できるとは全く予想していなかった。素晴らしい宝物となつた。この夏の興奮はずっと忘れることはないと思う。この企画を立ち上げてくれた阿部先生、僕らと一緒になって頑張ってくれた中村先生、それからすごい仲間たちに心から感謝している。

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馬毛ブラシ vs へちまタワシ  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

「トントン、生きてる?」と家人。

「おう、だいじょうぶ。今夜は白骨温泉に入っている。」とわたし。

「よかったわね、安上がりの温泉ツアーが家のお風呂でできて。あら、またDVDなんか見てるの? そろそろ、上がれば…。お鍋の用意もできてますよ。」

 めっきりと冷え込む季節になりました。今朝はここ長岡でも初霜が庭先に降りていて、水甕には薄く初氷が張っておりました。すでに東山にも初冠雪がありました。そんな時期のお風呂はささやかな愉しみ。

 こどもの頃は「おふろなんか、だいっ嫌い。」というタイプでした。両親と五人きょうだいの総勢七人という大家族。毎日がとにかく作業効率重視型生活だったので、「さっさとお風呂に入れ。」と強制されるのが、テレビを見たいこどもには嫌だったような気がします。

 齢を重ねるにつれ、いつのまにかお風呂好きになりました。これは自分のペースで入浴してよいようになったからかしらん? ついでにいつのまにかお酒も好きになりました。

 お風呂のお伴といえば、泳ぐカエルや金魚のジョウロでなく、わたしの場合は本の持ち込み。ときにラヂオや小型DVDプレーヤー。同じく高町で中越地震の被害にあわれた先輩の?先生は、ご自宅の補修で浴室にオーディオ装置を設置したとのこと。

 「ながら入浴」に安らぎを求められる方は多いのかもしれません。

 入浴グッズでは、ボディブラシとへちまタワシがお気に入り。

 まずは数年前の出張帰りに新幹線の大宮駅のテナントで、偶然に目にとまった柄付きブラシを愛用中。

「このブラシください。」

「お客さん、これ天然の馬の毛でこしらえているんですけど、使い心地ええですよ。」

「ふーん。試してみるね。」

 そう期待感もなく、傷んだブラシの代わりに購入。ところがこれがなかなかのすぐれものでした。女性の肌にはちょつとコワそうですが、適度な硬さの毛が肌触りがよく、わたしの背中が洗われるごと喜んでおります。木製の柄に『マーブル』とのみ刻印。いかにもローカルな手作り品の店という風でしたが、機会を見てまた購入したい良品です。

 もう一つは自家製へちまタワシ。これはこの秋から使用開始というまだ歴史の浅い愛用品です。

 今年の春から夏の我が家の家庭菜園の栽培のメインは、オクラ・ズッキーニ・ゴーヤ・夕顔の四種。病害虫に強く、比較的長期間美しい花が咲き続け、その実は食用になるという点が共通。この番外編で庭先のプランターで、へちまを育てました。庭から二階のベランダに細いロープを張り、蔓を絡ませて、夏は黄色い花がたくさん咲きました。へちまの実は数個なったが、30センチほどに育ったのは結局一個。これが完熟して枯れるのを待ち収穫。プランターに水をやらぬ究極の天然乾燥が功を奏し、外皮を剥くとあっさりと乾いた繊維層だけになりました。さらに中の種を突っき出して、水洗いで自家製へちまタワシの完成。

 さっそくお風呂で使用開始。これがこすると石けんの泡立ちもよく、やや堅めの肌触りもじつに快適。いつかブームになったインチキ『海藻石鹸』のように、洗えば体脂肪がみるみる減少なんて効能書きでもあれば、最高なのですがね。

 馬毛ブラシとへちまタワシは究極の二択?背中はあれ、おなかはこれと使い分けておるんであります。

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