長岡市医師会たより No.309 2005.12

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もくじ

 表紙絵 「雪原の朝(信州)」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「故坂井信介先生の思い出」 斎藤 寛(耳鼻咽喉科斎藤医院)
 「木枯らしや何故急ぎしか座頭市」 中山康夫(南魚沼郡市医師会:中山医院)
 「タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た その2」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「私の人生とジョギング」 金子吉一(長岡市小国診療所)
 「Back To The 40's」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



雪原の朝(信州)   丸岡 稔(丸岡医院)


故坂井信介先生の思い出 斎藤 寛(耳鼻咽喉科斎藤医院) 

 11月29日の朝、お電話で先生のご訃報のお知らせを知りました。
 あまり突然なことでしたので信じられないと同時に、ただ驚きと悲しみに暮れました。長岡耳鼻科医会で、もう昭和一桁は、私一人になってしまったと言う寂しさもこみ上げてまいりました。最近は中越耳鼻科医会にもあまりお顔を出されることが少なくなりましたので、もしも、お体の御具合でも悪いのではないかとも心配しておりましたが、入院されているというお話でもなく、そのうちにお電話をしてみようかと思っている矢先でのことでした。
 今、この文を書いておりますと坂井先生の思い出が数多く思い出されてまいります。
 先生は私とは同窓でしたが、四年下級生でした。学生時代は新潟県から久しぶりに入学者があったので、嬉しくなり会いに行きました。見るからに育ちの良いおぼっちゃまという印象が残っています。その後私が卒業したこともあり、あまり交友がありませんでした。昭和34年新潟大学耳鼻咽喉科教室に入局され再会をはたしました。それから、親密な交友が続くことになりました。
 教室では先生は前庭班に所属され、めまいの研究に従事され、昭和43年学位を取得されました。その間多忙にもかかわらず教室の例により多くの病院出張もこなされました。
 秋田組合病院には私の後任としてきていただきました。私ごとになりますが、昭和37年には、気胸にて入院した私のために新潟労災病院に二ケ月にわたり出張していただきご苦労をおかけしました。私が長岡に開業してから先生は長岡中央病院に医長として赴任され、同じ町で暮らすこととなり公私ともにお世話になりました。病院の忙しい中でも坂之上小学校の野球部の顧問としても活躍され、人を選ばない穏やかな人柄は人気の的でした。
 そして、住み慣れた長岡で開業されることになり皆で歓迎いたしました。診療所も完成し数ヶ月後に開業と言う夫先に予期もしない脳梗塞を発病されました。先生の御無念さや御家族の失意は想像に余るものが有ったと思います。その後、先生はリハビリに専念され、完全とは言えないながらも、幾分の不自由さを克服され念願の開業を決心されました。その間の先生のご苦労は涙ぐましいものだったと思います。御家族の大きな支えと、ご自身の努力の成果と思います。
 まだ先生との思い出は尽きません。
 先生は、日本の伝統芸術の愛好家でした。歌舞伎、日本舞踊についての蘊蓄は医師会では右に出るものはいなかったと思います。私が最後に頂いたお電話は勘三郎の藤娘を見たいとのことでした。歌舞伎座まで忙しいなかでも、よくお出かけになっていました。
 先生は日本酒を愛し、飲めば飲むほど愉快になられ、人に迷惑をかけられたことはありませんでした。医局入局当時は、花菱アチャコの物まねで、「むちゃくちゃでおじゃりますわ」、その次は座頭市の物まねが有名で、私たちはよくリクエストいたしました。実に至芸で教授も喜んで指名しておりました。
 食ではカニが食べたいと寿司屋の主人と一緒に築地の魚河岸に徹夜で自動車で買いに行き、家の冷蔵庫の物を全部出して、カニで一杯になったなどの逸話もありました。
 先生の思いではまだまだ尽きませんが、楽しい話で終わりたいと思います。
 昭和一桁の私も間もなく逝く時がくるでしょう。おみやげは何にしましょうか。
 先生、長い間ご苦労さまでした。やすらかにお休みください。

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木枯らしや 何故急ぎしか座頭市

中山康夫(中山医院:南魚沼郡市医師会)

 11月30日、坂井信介先生逝去の知らせを受けて驚いた。
 翌日お通夜に参列し、あらためて先生の死を実感した。

 昭和45年の中央病院大忘年会で新入医局員たる私は、「星のフラメンコ」を歌った。それが忘年会実行委員長古田島先生に認められて、翌年以後は何回か歌わせられたものだが、芸能部長という役目までももらってしまった。余興の取り仕切りを任せられ、常連出演者の坂井先生とも親しくなったのである。
 坂井さんの十八番は座頭市の真似だった。もちろん今は亡き勝新太郎の当たり役映画「座頭市」の物真似である。
 杖をついて舞台に登場し、時には板付きでじっと立っていて「あっしは目が見えないんでござんすよ。目くらに何をなさるんですか」と台詞を言い、仕込み杖に見立てた杖でぱっと人を切る仕草をする。それがなかなかうまかった。
 初めは一人芝居だったが、そのうちに樋口さん(栃尾郷病院長を経て現在は栃尾市で内科医院を開業)他何人かを拝み倒して切られ役をやってもらうようになった。ある時は、木枯らし紋次郎の扮装で立っていて、突然座頭市に変わり、絡みを切り倒してから、「あっしには関係ないことでござんす」と紋次郎に戻るということもやった。それが、にこりともしないで真剣にやるからおかしかった。
 忘年会の季節になると「芸能部長さん、俺さ、今度こういう筋書きでやろうと思うて」と私に相談をしにやって来た。何番目に出してもらう、音楽はどうするなど、こちらも真剣に考えた。
 ある年、原信社長原信一君が高校の同期会の時に私の隣りに来てお酌をしてくれながら言った。
「おめさんちの坂井せんせてやさあ。座頭市がこって上手んがーねー」
「そらまた。どーごで見たね」
「坂之上小学校のPTAの懇親会でやったがあてー」
 ついに坂井座頭市は坂之上小学校まで進出したか。さすが、さすが。
 そのうちに坂井さんはこんなことを言って来た。
「芸能部長さんて。俺こんど歌舞伎調でやってみたいと思ってるがさ」
「先生、歌舞伎なんか観なさるがかね」
「前に人に連れられて歌舞伎座で勧進帳を観てから病みつきになったがさね」
「へえ。実言うと、俺もそね。子供の頃よく歌舞伎観たがえね。小千谷には歌舞伎役者の家が二軒あってね」
「そら、いいね。行こえの。行こえの」ということで話がまとまり、歌舞伎座へ観劇に行くことが実現した。おまけにひぐっつぁん(樋口英嗣氏)も「俺もつれてけや」と言うので三人で歌舞伎座に行った。仮名手本忠臣蔵の通しだった。
 その後も何回か歌舞伎座や国立劇場に足を運んだ。やがて原信一君も歌舞伎を観たいと言い出し、原夫人の親戚で、当時長岡赤十字病院の耳鼻科部長をしていた井口正男さんまで誘って行くようになった。そして国立劇場の会員にもなった。
 ところが、大事件が起こつた。今から27年前の雪の朝のことだ。出勤前の我が家に電話が掛かってきた。奥さんからだ。ふらっとして倒れ、どうも左半身の効きが悪いようだと言われる。すぐ駆けつけてみると、意識はあるが確かに左半身麻痔がある。数値は忘れたが血圧が非常に高かった。脳出血と考えてすぐ救急車を依頼した。救急車が来るまでにまず血管確保を行い、ニコリンを加えた点滴を始めた。
 その後、中央病院の手術室で新潟大学医学部脳外科田中隆一教授の執刀による手術が行われた。幸いうまくいってその後は徐々に回復した。
 まもなく中央病院を退職した坂井さんは周囲の心配をよそに、医院を開業したのだった。倒れてからは一緒に歌舞伎を観に行く機会はなくなり、昭和61年11月に私は中条病院に移ったので、ますます縁が薄くなってしまった。

 坂井さんよ、いやさ座頭市さんよ。あの世に行くのはいくらなんでもまだ早いじゃないの。それとも冥土の勝さんと早く競演したくなったんでっか。でも寂しいね。  (合掌)

※編集部注:中山医院院内誌「舞子の丘」平成17年12月号より転載させていただききました。

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タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た〜その2

田村康二(悠遊健康村病院)

 アフリカの大地溝帯に踏み出す

 2日目にアフリカの大地溝帯に到着した。これまで見た事の無い美しい風景だ。この大地溝帯は30億年前にできたという地球の巨大な割れ目である。この大地溝帯はヨルダンの死海から始まり南下してモザンビークを経てインド洋に抜けている。だから東アフリカの高原地帯は南北に6500キロにわたり両岸が切り立った断層が900m位下へ落ち込んでいる。溝の幅は50から80キロにも及ぶという。そこには多くの湖沼が点在して居り、野生動物の王国である。その西側には我々が目指す奥地がある。そこには有名なキリマンジャロ山などの火山が連なっている密林地帯がある。今もこの密林にいるサルは、太古の昔から今日でもチンパンジーやゴリラのままでいる。これに対して密林地帯から絶壁をおりて東側の大地溝帯のサバンナ(草原)に出てきた類人猿は、ヒトへと進化したのである。ここの地理学上の特徴は動物相や植物相にあり、生物学に重要な意味を与えている。
 この断層の東側を東アフリカ、西側を西アフリカという。この深部では今も活発な地殻変動があり割れ目は次第に広がっているという。だから数千年後にはアフリカは東西の縦に二分されて、東と西アフリカになるらしい。
 今から200万年位前は氷河期だったので、大地溝帯は今とは違って緑が生い茂る温暖な大地だったらしい。だから当時は今よりも植物も動物ももっと豊かだったのだ。この地溝帯を人類の祖先、猿人たちは、獲物を追って遥々エジプトから更にはヨルダンの高地へと散らばって行った。やがて彼らはアジアを始め世界中に広がっていって、現在のヒト(新人という)になったのである。時間と共に変化の一方的な方向性を是認してきたキリスト教は、ヒトの時間とその変化についての特異な概念(これを時間の矢とも言う)を教義としてきた。それ故に結局キリストの教義を脅かすダーウィンの進化論を生むことになったのだ。更に遺伝子の研究は今ではヒトの系時的変動は輪廻、つまり時間の輪である、である証拠を示している点でも古典的な生物学を揺れ動かしている。
 大地溝帯に降りると間もなく立派な舗装道路にでた。日本のジャイカの援助により、鴻池組が最近完成させたのだという。延長60キロ位だったと思う。道路の始めと終わりに日の丸が記された看板が立てられている。普通なら皆が下車してこの看板と記念写真を撮るのだろうが、車は止まらない。発展途上国へ行くとしばしば車は交差点の赤信号さえ止まれないのだ。止ると危険な場合があるからだ。一同の内で誰も止ってくれとは言わない。こういうところまで旅する人々は皆旅なれているのだ。一行の内の一女性はアフリカへの旅が今回で14回目だという。世の中には色々な人がいるものだ。
 タンザニアは1953年にイギリスの植民地の立場から独立した国である。そのせいで日本と同じように車は全て右ハンドルである。この国の車の実に95%は日本車の中古品だ。中でも傑作なのは○○市と胴体に書かれている救急車が乗用車として走っていることだ。その様な国なので、日本車のお客さんのためにこの道路が日本から寄付されたという。有名なムネオ道路は首都のダル・エス・サラームの近くに出来ていると聞いた。

 マニヤラ湖国立公園の生物達

 やがて大地溝帯を横切って西側の絶壁の近くに到達した。絶壁を登る前に横道にそれてマニヤラ湖国立公園に立ち寄った。噴火以前の類人猿から進化したヒトが暮していた当時のオルドバイの風景は、今のマニアラ湖に似ているとされている。その点でも考古学者たちの関心を集めている所だ。
 この大きな湖はソーダ水で出きている。そこには無数のフラミンゴが群がっている。その周りを取り巻く広い沼地があり、河馬の大群などがひしめきあっている。その更に東側の外側に広がる大地溝帯の草原には、象やキリンの群れがあちこちに見られる。よくみるとかれらは地勢と自分の能力に合わせて巧みに住み分けているのだ。湖の西側は1000m近い断                       崖で遮られている。その断崖の上部3分の2位は密林である。下2分の1は潅木地帯だ。そこには木を登ってエサを待ち受けているライオン(木登りライオン)がみられた(写真1)。この地では、ライオンもそこまでしなければ餌にありつけないのである。生存競争の厳しさはライオンでも生き方を変えなければいけなくなるのだ。大木の上に横たわっている2頭のライオンの姿に一同は「ライオンが木登りするなんて!」と感嘆の声を上げた。猿の大群もいた。「あんな小猿を母親が背中におんぶしていて、家の孫みたいね」などと家内も満足である。
 このような土地でヒトはどのように暮らし適応したのだろうか? それ以前には密林で菜食動物として暮していた類人猿の仲間の内で、200万年前にこの断崖を恐る恐るおりて草原に餌を求めて出てきた群れがいた。その主な動機は氷河期に入ったことにあるとされている。標高3000mを越す高地に住んでいたため寒くなって森が縮小し餌に不自由するようになり、おそるおそる山から麓へと降り始めたのだろう。しかし類人猿が住み慣れた密林からあの絶壁を伝い降りてサバンナに出るには長い時間がかかったのだろうと推測する。高地で寒さと飢えに苦しんだ、他のサルとのエサの奪い合いに負けた、新たな土地への好奇が旺盛だったというような類人猿がサバンナに下りてきたのだろう。我がご先祖の苦労がしのばれるのである。

 「適者生存」を考える

 化石が出土した時の状態から類人猿たちは、今のチンパンジーやゴリラと同じように数十人からせいぜい100人位で血族の群れを造り集団行動をしていたらしい。サバンナは雨季には動植物に恵まれるので、類人猿達も食物には困らなかった。問題は1年の半分にあたる乾季での生存にある。私達が訪れた9月は乾季の終わりであった。観光は道路状態からこの乾季に限られてしまうのだ。この地では6月から10月までは雨は殆ど降らない。だから大地は乾燥しきっていた。先行する車があると少なくとも50mは離れていないと、土埃の中で何も見えなくなってしまう。だからマスクを掛け目には塵除けのゴーグルを掛けて単に乗っていなくてはならない。この地は膝から下ぐらいの高さの枯れ草であたり一面が隈なく覆われてしまっていた。
 乾季になると果実は手に入らない。サバンナには動物しか居なくなる。そこで生き抜くために肉食を始めたのだろう。枯れ草の上から草原を見張るには、どうしても立位を取る必要がある。そうしなければエサを求めるための見通しがきかないからだ。さらにはライオンなどの肉食獣から身を守りエサを得るためには2本足で歩かざるをえなくなったのだ。
 当時の類人猿達に捕まるようなのろまな動物は限られていただろう。武器や狩猟用の道具は未だ持たなかったのだから。そこで新しいエサを得る方法を考え付いたらしい。(1)ライオンなどの食べ残しや死肉をエサとした。(2)大な動物の死骸はいたるところにあった。そこで大きな動物の骨を石器で打ち砕いて中にある骨髄をたべた。そこで彼らはBone hunterと呼ばれている。骨髄は大量の蛋白源と成ったに違いない。しかも草原を移動する時に骨を弁当としての携帯食にすることで、狩猟範囲は著しく広がった。こうしてヒトは草食動物から肉食動物へと変化した。(3)湖の岸辺の沢山の貝類を石器で同じく叩き割り食べたらしい。この貝は他の動物は殻を破れなかったので、貝に対する取り合いがなかった。(4)植物の小さい種はヒトの手には手ごろな食物となった。(5)くるみや種は乾季にも沢山あったので、これも石器で打ち砕いて中の実をたべた(Nut cracker)。こういう事実は石器と共に砕かれた骨、骨にある肉を削ったらしい傷あと、貝塚、胡桃などが出土することから、推測されている。
 しかしサバンナで適した工夫を思いつかなかった類人達は飢えて滅亡してしまったか、或いは再びあの絶壁をよじ登って高地の密林に戻っていったのだ。この密林へ帰った類人猿は未だにチンパンジーやゴリラとしてアフリカの密林の中をさまよっているのだ。
 ダーウィンが唱えた「適者生存」という原理を、この風景を前にして考えてみた。適者とは新しい環境変化に巧みに適応できた生物、ヒトを言うのであろう。歴史的に見て常に環境の変化は急激に起きている。この様な環境の変化への適応力が生存への決め手なのだと思う。戦後の第2の黒船、更には最近の第3の黒船襲来で日本の環境は激変している。この急激な環境変化には化石化した人々は淘汰されている。これに対して巧く適応している新人類といわれる知恵者は、何時の世にも小数に限られていることへ思いを馳せる。(続く)

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私の人生とジョギング  金子吉一(長岡市小国診療所)

 今から思い起こすに、幼いころから走る事が好きでなんとなく得意だったように思う。保育園の運動会では、一度転んでしまい、びりから抜いて3番になった以外は大体一等賞だったような気がするし、小学校、中学校でもクラス対抗リレーではスタートかアンカーで走っていた。陸上競技部でもないのに引っ張り出されて、新潟市の競技場で学校対抗の400メートルリレーに出たこともある。高校、大学のころは時々、近くの浜浦小学校のグラウンドで鉄棒をしてから海岸まで出て、砂浜の上をジョギングしたり、ダッシュしたりした。砂の上は足が沈み、腿をあげるのに負荷がかかり良い練習になった。足がくたびれると波打ち際を走る。裸足で冷たい、ちょうど良い反発を感じる辺りを選んでひたひたと走っていると足裏が気持ち良かった。関屋分水ができていないころ、ずうっと走って内野まで行き電車で戻った事もある。海岸端にはまだ何の建物もなく、延々と長い砂丘が続き、植えられたばかりの防砂林の松も背が低く、ほんの膝か腰くらいのものが多かったようだ。誰にもまったく会わずにただ一人進んでいると、西部劇に出てくる砂漠の中にいるような感覚に襲われることがあった。
 長岡にいたころは町内運動会のリレーに30歳から自ら希望し毎年参加して、我がチームはいつも決勝進出、上位入賞を果たし、町内会長を喜ばせた。小国へ来てからも周りに煽てられて、年代別リレーに53の歳まで40歳代のところを走らされた。ここまで書いてくると、いかにも名スプリンターのように聞こえるが、実のところそう速くはない。なんとなく名誉名物選手のようになってしまい、みんな(うちの女房)も喜ぶので断れなくなってしまった。ちゃんと50代を走らせてもらいたいと思っていたが、転んで怪我をする人もおり、主催する側の責任問題にもなるとの理由で50代は無しとなった。
 短距離はいいが長距離は実は苦手であった。寄居中学ではかって関屋にあった競馬場まで往復約7キロのマラソン大会が毎年あった。当時、1学年700名くらいおり、少し時間差をつけて学年ごとにスタートするのだが道路は寄居町、松波町から競馬場まで2千人の生徒でつながった。いつも伸の良い友達とエッチラオッチラ走って、順位は200番か300番くらいだった。新潟高校の時はクラス対抗駅伝大会があった。巻、岩室、弥彦、吉田、三条、新津、横越と回って、90キロ程を十数人で繋ぐもので、警察の先導もある一大イベントであった。一ケ月も前から練習に嫌々ながら参加しなければならなかった。2年生の時に弥彦から吉田までの4キロを走った。走者に必ず自転車の伴走者もつき、予行演習もしていた。最初は緩やかな下りが続くので調子よく飛ばし、少しずつ前の走者に迫っていった。しかし途中からは逆に徐々に離されて行き、最初のオーバーペースが崇ったため、たすきを渡したとたん、そこに倒れこんでしまった。伴走の友人がサイダーか何かを買ってきてくれて飲ませてくれようとしたが、とても飲めず、それを頭からかけてもらった。周りの連中は次々帰っていなくなるのに、私たちだけが取り残されつつあった。その光景を見ていた人がいて、気の毒がって私たちを車で自宅まで乗せてくれ、親切にもベットに寝かせて休ませてくれた。なんとお嬢さんが新潟高校の生徒なので駅伝の応援に来ていたとのこと。折しも吉田の祭りとかで、赤飯なんぞをご馳走になり、すっかり元気にしてもらい帰って来た。ちなみに私が最初に追い上げていた男はなんと区間記録を出していたことが後でわかった。
 大学での研修医時代はまったく運動をせず、結婚をして長岡日赤に勤務してからも通勤で数分歩くくらいであった。おまけに、新妻の作ってくれた弁当を食べた挙句にラーメンを食べたり、飲み屋の帰りにみんなに付き合って寿司を食べたりしたので、見る見る体重が増えた。先輩には、君の顔のつやは脂ぎって異常だよといわれ、ブレザーを買いに行くとあなたは肥満体ですからと、細身のものを選ぼうとしても反対された。
 ある日曜日の朝、久しぶりにジョギングしようと思い立ち、家の裏の信濃川の土手を長岡大橋まで往復3キロ弱を走ってみた。しかし、家に着くころには顔が青くなり、吐き気もして、とてもさわやかに朝飯を食べるどころの話ではなかった。さすがにこれには我乍ら、びっくりもし、情けなくなった。以後、コーラやケーキ、菓子は一切止め、弁当のご飯は底が透けて見えるほどにしてもらった。半年で10キロやせ、それまでのズボン、上着はブカブカとなった。家が日赤の近くから大島新町に移ってからは冬でも歩いて通勤し、暇をみつけてはジョギングする習慣がついた。
 昭和63年に小国に勤めるようになったが、いまも2キロ離れた診療所へ、よほどの悪天候でない限りは徒歩通勤し、長岡祭りの駅伝と浦佐山岳マラソンには毎年参加している。当初、診療所の事務員、放射線技師、運転手と一チームだけであったが、その後看護師、役場職員、保母さんらも交えて4チームに増えた。浦佐は20キロのアップダウンを途中走っているのか、歩いているのか分からない状態になりながらも何とか続け、毎年成績名簿の最後尾の方に名を連ねている。一度あまりに足がつるので、芍薬甘草湯を2包飲んで走ってみたら、何とも云えぬ足の倦怠感でえらい目にあってしまった。浦佐が走れなくなったら俺は診療所を止める、などと言ってしまっているので頑張って続けるしかない。
 旅行や研修など泊りがけで出かける時も、できるだけ走れる準備をして行き、早起きして、知らない道を30分行ってはそこから引き返すようにしている。
 昨年、待望のヨーロッパ旅行ができた。女房があいにく初孫の病気で行けず、大学生の娘がお供となった。ドイツのローテンプルグでは町を取り囲む城壁を登ったり降りたり、スイスのジュネーブでは夜明け前のまだネオンやホテルの灯りの残るレマン湖畔を、またパリでは、セーヌ川河畔やノートルダム寺院やオルセー美術館のめぐりを走って回った。パリの街は道路の辻は四つ角が少なく放射線状に枝分かれするため、ひとつ道を問違えるととんでもない方へとたどり着いてしまう。一日目は郊外のはずれの環状高速道路まで出てしまい、途方にくれながら心を落ち着け、じつくり地図とにらめっこして元の交差点まで引き返し、1時間半も走ってやっとホテルにたどり着いた。おかげで朝食を食べる時間を逸して市内観光へと出発する羽目になった。2日目はオルセー美術館をぐるりと回り、同じ道を帰るのが嫌なばっかりに別道へと進んだ。もう距離的にはさっきの道に出るはずが、またしても迷子になった。ルクセンブルグ公園まで行けばホテルヘは近いはずだが、道案内板も見当たらず、やたらと細い路地が枝分かれている。ところがなんとその私に、こっちも探しているルクセンブルク公園はどこかと聞く外人がいるではないか。私のランニングシャツと短パン姿からは近くの住民のジョガーと見えて不思議はない。イヤー、私もストレンジャーなんですと答えると、首を傾け、両手を広げるジェスチャーをしてどこかへ立ち去った。しようがないのでこちらではと思う方へ再び走り始め、またしても地図を広げていると、いかにも親切そうなハンサム青年が近づいて来た。“ソフィテルパリ フォーラム リヴォゴーゥシュ”と舌をかみそうなホテルの名を告げると、彼が指差している方は私が向かっている方向とはまったく正反対ではないか。なんぼなんでもそんなに方向が狂ったためしはない。半信半疑だったので、道を真横に折れ何とか大通りに出くわしたので、そこで道路工事をしていたおっさんにまた尋ねてみた。やっぱりあの親切そうな青年の指し示した方向とは180度違っており、私の勘は当たっていた。一体あいつはどういう奴だったのだ。その日はちゃんと朝食にありつけた。
 まだフルマラソンには一回も挑戦できないでいるが、暇になったらもっと鍛えて、できることなら外国へも遠征できたらと夢見ている今日この頃である。

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「Back To The 40's」  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 昭和45年12月、暮れも押し迫った頃、当時早稲田の学生だった僕は小千谷のスキー場に来ていた。
 小千谷駅のすぐ東側の山に位置し、コンパクトだが緩急の変化のある斜面がいくつかあり結構楽しめる。
 運良く今日は晴天。真っ青な空と、雪を被った山すそに広がる広大な越後平野。雄大な信濃川の流れが一望できる。ダイナミックな雪景色だ。
 そして何よりも良いのは有名スキー場よりもリフト待ちの時間が短い事。石打あたりでは正月休みにはリフト待ち2時間くらいはざらだった。
 前日朝7時ころに仲間達と東京を出て夕方暗くなったころこちらに着いた。車は友人の日野コンテッサ。格好の良い車だった。イタリアの有名カー・デザイナー、ミケロッティ作で、これまで作られた車の中でも最も格好良い部類だと自分は思う。
 すっきりとした線でまとめられ、車高も低いように見えるようなデザイン。いかにも伯爵夫人が今そのドアを開けて出てきそうな雰囲気。
 しかし日野はご存知のとおりトラック主体のメーカー。東京あたりではその繊細なデザインの車体のなかでダボシャツに首から手拭い、くわえタバコのいかにも土建屋といったふぜいのおっさんが歌謡曲をうなりながら運転したりしていた。
 きっとトラックと抱き合わせで格安で買ったのだろう。しかしそれでも似合ってないでもなかった。
 RR(リアエンジン・リアドライブ)だから雪に強いだろう。ルノーと同じ。あのアルペンラリー常勝の。
 …と思ったものの現実は違った。雪道では荷重の軽い前輪はわだちにとられてすぐに右に左にすべりまくった。チェーンを付ける時は低い車体と深くタイヤにかぶさったタイヤカバーはその取り付けをきわめて難しいものにしていた。
 しかしこの事にはまだまだ取り得がある、と友人は主張していた。RRのため座席が前の方に位置するから前席の足元にまで大きくタイヤハウスが張り出していた。自然に膝頭と身体が中央の方に向かって、やや斜めを向いて運転する格好となる。
 「で、ギアをバックに入れると彼女の膝のところに手が行くんだ。」と得意そうに話していた。確かにバックに入れるにはニュートラルから大きく外側に叩き出してから後ろに引くというギアチェンジ方式だった。
 まあそのしばらく後で彼は結婚したから、あのコンテッサが仲をとり持ったのは間違いない。
 その時の仲間は5人共翌春の卒業を控えて、卒論は提出し終わっていたし就職はとっくのとんまに決まっていた。神武以来の好景気、高度成長のさなかだったから5月頃には皆決まっていた様だった。
 大学もこの好景気を逃しては、と相当成績の悪い学生でも(俺の事?)むりやり卒業させてくれていた。
 …皆でひとすべりした後、レストハウスで休憩。小屋板の上でじっちゃんが巨大な角砂糖をほうり投げるように雪下ろしをしている。日焼けした顔、ぶっとい腕、長い胴。ひ弱な都会の若者じゃかなうわけないね。
 超満員の食堂で、首からうえあたりで渦を巻くようなタバコの紫煙にまかれながら食べたうどんの旨かったこと。
 表へ出て、雪原のなかをきらめきながら悠然と流れる信濃川を眺めながらズボンのポケットに手を突っ込み、裕次郎のように格好良くタバコをふかし、加山雄三のように「僕は幸せだなあ」とつぶやいたのでした。

 …そのスキー場も今は無い。山本山も閉鎖。山古志も無理。…今年はスキーはどこに行けば良いんだ?

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