長岡市医師会たより No.310 2006.1
このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。
誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。
表紙絵 「小國早春」 丸岡 稔(丸岡医院)
「新年のご挨拶」 会長 齋藤良司(斎藤皮膚泌尿器科医院)
「新春を詠む」
「タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た その3」 田村康二(悠遊健康村病院)
「私の釣り遍歴」 石川 忍(石川内科クリニック)
「ラーメンはお蕎麦屋で」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)
翠玉の七草粥を炊き上げし 渡辺修作
日野原重明先生の説に共鳴して
新老人現役通す去年今年 荒井紫江
おどけにも雪見などとは言はないで 十見定雄
出来立ての星入りつらら召し上がれ 伊藤 洸
高麗犬の太き尻尾や初参り 石川 忍
中越地震後一年、復旧工事いまだ進捗せず
山古志の番地より来し賀状かな 郡司哲己
田村康二(悠遊健康村病院)
マサイ族とピグミー族を知る
「マエダさん、ピグミー族の人々に会えますか?」とガイドに聞いた。「難しいですよ。でも彼らはあちこちの木陰から我々をいつも見張っています。ただ我々の方からは、見えません」という。「じや、会うにはどうするのですか?」と重ねて尋ねた。「会うにはモルヒネを燃やすのです。かれらはモルヒネが欲しいので、臭いにつられて姿を現してきます。さらにモルヒネを手渡せば極めてよい友好関係ができるのです」と答えてくれたのには驚いた。
タンザニアには現在約125種類もの部族が仲良く住んでいる。その中の1つがピグミー族だ。かれらは中央アフリカを中心にして広く居住しているアフリカ最古の狩猟民族といわれている。未だに旧石器時代の生活をしているらしい。その他では西アフリカ、中央アフリカからタンザニアに移住してきたバンツ一系部族が多数派を占めている。内でもマサイ族が有名だ。マサイ族がタンザニアに定住したのは、紀元1世紀頃からと言われている。男性は180cm位の長身揃いで、すらりとした10頭身を古代ローマ軍の軍服に習ったともいわれる赤い布を誇らしげに身体全体に巻きつけている。かれらは実に勇敢な誇り高い種族である。今のマサイ族は古代と現代とが巧く交じり合った半狩猟生活を送っている。旧石器時代にタイムスリップした現代人とでも言うべきだろう。
エジプト、メソポタミア、インダス、黄河文明はいずれも滅びた。エジプトでガイドが「私達のお爺さんのお爺さんは偉かった」と話していたのは印象的だった。これらの古代文明がその子孫達に受け継がれなかったのは不思議である。
しかし一方では滅びていない文明や民族もたくさんある。アフリカのピグミー族ヤマサイ族などという狩猟民族は古代から栄えてきて未だに生き残って居る。注目すべき点ではかれらは外敵によって滅ぼされかけたが、自分たちの原因で滅びかけたのではないことだ。
自ら滅びることのなかった民族や文明は、もっと豊かにもっとたくさん手に入れたいという欲望が基本的になかったからだろう。だから彼らはその為の伝統的な知恵を持っている。例えば、たくさんの森の木を切ると災いが起きるとか、川の魚を取りすぎると水の神様が怒るなどである。彼らは必要以上に自然を壊したり、自然から余分に物を取ったりすることはしてこなかったのである。自給自足して自然環境を守り経済拡大や人口爆発をしないということが滅びないための知恵だったのだ。
マサイ族の生活をみていると、ダーウィンのいう『適者生存の法則』とはこういう人々の状態をいうのではないかと思った。釈尊の教えに究極の理想に通じた人とは「足ることを知り、わずかの食物で暮らし、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、諸々の貧ることがない人だ」とある。いつも煩悩に振り回されている私には耳の痛い教えである。この知足の理想は日本にも広く受け入れられている。ギリシアのストア派の哲人達が目指す人生の理想も同様であった。米国で医師の必読書であるマルクス・アウレーリウスの『自省録』には「哲人の理想とする生活とは、自己の人格の構成に従って行動するあるいは活動を控えることである。だからあらゆる職業人はその職業が作られた目的にのみ適応するように努めるべきである。」と書かれている。今のように医師達が「医師の双六の上がりは院長だ!」とその性が善たる医師として生きるのではなくてその性が悪である管理職になることを挙って望むような考え方をしていては、日本の医術の発展は望めないと考えている。
「ジャンボ Jambo(こんにちは)」とロッジで挨拶する
タンザニアの奥地で泊まったソパ系列のロッジは何れも立派だった。この国では独立後には共産国になり、イギリス人を始め外国人を国外に追放した。そこでイギリス人と共に入国していたインド人が経済の実権を握ったのだ。それにしてもこんな奥地によくまあこんな立派な建物と設備があると感心させられる。ロンドンの一流ホテルにひけをとらないからだ。世界を制覇したイギリス人は生活習慣をどこでも頑なに変えなかったことで知られる。スペイン人や日本人が現地人や現地の風俗に同化していったのとは対照的である。
ロッジでは「ジャンボ」と挨拶をする。ジャンボとは「こんにちは」と言う意味だ。スワヒリ語はアフリカ東岸部で広く使われている言語だ。ケニア、タンザニアでは公用語となっている。スワヒリという語は、アラビア語で「海岸に住む人」を意味する。アフリカ東岸では、アラブ人との交易が盛んだったため、アラブ文化と交じり合い、元々使われていたバントウ一語などがアラビア語の影響を受けて、普及した言語である。かつては文字がなかったのでアラビア文字が使われたが、現在ではローマ字表記をしている。私は言葉の時制に興味をもっているので、マユダさんに開いてみた。「スワヒリ語には過去、現在、未来の表現がありますか?」「ありますよ。例えば……」と聞いて驚いた。私の知る限りヨーロッパ言語以外で時制があると聞いたのはスワヒリ語が初めてだからだ。ちなみにアラビア語、ヒンヅ一語、中国語、韓国語、日本語には何れも時制がない。言葉に時制がないと言うことは、確かな歴史認識や未来展望を生み出せないことだと考えている。その意味ではスワヒリ語を話す彼らは未来を語れるのだ。
ロッジには必ずマサイの服装に身を包んだ長身の達しい若者がガード・マンとして宿泊客を野獣から守ってくれている。夕食後に食堂から部屋へ移動するときには、必ず彼らが護衛をしてくれる。「お客さん、さっきはバッファローや猿が通路のそばを通っていきましたよ」などと教えてくれる。バッファローは狂犬のように意味無く突然襲ってくるので、最も危険な動物なのだそうだ。その点ではすぐそこの庭先を横切ってゆく象の群れなどは安心らしい。「ライオンが来たら、どうやって守るのですか?」と尋ねたら腰に挿してある長い刀をみせて「これで必ず倒します」と誇らしげに答えてくれた。マサイは勇敢な誇り高い部族人なのだ。この写真(省略)から家内の身長が160cmだが、マサイの長身振りが伺えるだろう。
生存競争について考える
生存競争とは一般に理解されているように、一定の大きさに定まったパイを競って互いに奪い合うことではないだろうと思う。何故ならこのサバンナで同じパイを取りあった類人猿たちは、いずれも淘汰されたからである。ダーウィンは「進化は常に無目的で無方向におきている」と説いている。この地でその原理で結果として生き延びたヒトを、適者生存者というのであろう。その原則は今の医療界を含む社会にも適応されよう。何でも始まりの点、つまり根源的な点、を見つめると本質が分ってくると思う。
国連食糧農業機関の成績では地球上の約30%は森林に覆われている。太古の昔はおよそその倍は森林だったという。地球上の生物は約130万種類あるというが、その半分は熱帯雨林のなかにいる。熱帯雨林のなかにいる生物の研究はいまだに不十分で、最近では1000万から3000万もの動植物がいるのではないかと推測されている。つまり森林のなかにはサバンナに比べるとエサとなる動植物が多いし、動物性タンパク質を求める動物は相対的に少ない。だから密林は実は植物天国でサルが住みにくいようにできているのだ。
ヒトは密林での樹上生活という安住の地を捨てて、サバンナでナッツ、豆類や肉類を食べるようになったのではないか。肉食で類人猿の体も脳も大きくなり、二足歩行を始めたのだろう。新しい生活環境に適応して家族も増えて行ったのだ。いうならば負け組みが新しいところをどんどん開拓して、やがて最初の勝ち組よりもよい世界を作り上げていったと考えられる。現代の凄まじい速度で変貌している社会は勝ち組と負け組みと2分化された社会構造だ。医師を含めてその栄枯盛衰はヒトの歴史と符号してくるように思う。
ヒトの祖先の犬歯はサル並だった。しかし石器という武器を使うようになってからは、サバンナで牙の無い肉食獣へと変化して行った。夜行性から昼行性へと行動も変わっていった。更にサバンナでは共同して狩猟し互いに防衛しあうことの大切さを会得するようになった。ここに集団生活が始まったのだ。そこで血族からやがて氏族を作りあげていったのだろう。サバンナに残れた類人猿は異質の環境のなかにいうなれば放り出されたので、生存競争に勝って飛躍的に進化出来たのだろう。(続く)
子どものころよく魚捕りをした。ミミズを餌にフナ釣りもしたが、もっぱら網か手づかみで捕った。川の中に入り杭のある所を底の方からそっと手を上げてくると上手く魚が捕れる。その時の魚の感触が忘れられない。捕ってきた魚は、殆ど小鮒だが、一昼夜真水に泳がせてから母がこんがりと焼いて醤油と酒の入った出し汁に浸けてくれた。これは私の大好物だったが、父の酒のつまみにもなった。もちろん骨も頭も丸ごと食べる。中学へ入る頃から魚捕りはしなくなった。
再び釣りを始めるきっかけになったのは30歳も半ばを過ぎてから、たまたま職場の知人に鮎釣りをしている人がいて連れて行ってもらった。道具も仕掛けも全て借りておとり鮎まで付けてもらった。その時掛かった鮎の感触が忘れられず、道具を全て買い揃え、川へ通ったが、鮎釣りのシーズンは短くすぐに終わってしまった。しかし一度火を点けられてしまった心は落ち着かず、その時々の旬に合わせて川でも海でも何でも釣ってみるようになった。釣り方もウキ釣り、脈釣り、投げ釣り、毛ばり、ルアーと何でもやってみた。一番難しかったのはフライフィッシングで、道具を買った釣具屋のマスターに教わり、後はひたすらオイカワを相手に練習した。しかし結局自分の気性に一番合ったのは鮎毛ばりを使う山女釣りとルアーだった。鮎毛ばりは金沢などで作られる美しい小さな毛ばりで、色や形で、お染、青ライオン、苔虫、など様々な名前が付けられている。この毛ばりを3本付けて浅い所は玉ウキを付け、深い所は脈づりで釣ると山女やウグイが意外とよく掛かる。不思議な事にいつも魚が掛かるのは真ん中の鈎で、かといって鈎を一個や二個にしたのでは途端に釣果が減ってしまう。何よりも準備が簡単でお手軽なのが良い。同じくお手軽なのがルアーだ。
釣りの秘訣の第一は情報だ。どんな名人でも魚の居ない所では釣れない。初めての川で釣り人に会ったときは必ず声を掛ける事にしている。
「どうですか?」
「ちょぼちょぼだね。」
「この辺では何処が良いでしょうかね?」
「あの橋の下流で大きいのが釣れたらしいよ。」
とこんな調子で話が進む。釣り人はみんな『正直者』だからめったに嘘はつかない。とっておきのポイントは絶対に教えないが4番か5番目位のポイントは教えてくれるものだ。それでも魚の居ない所で釣るよりはずっと良い。ついでに仕掛けも見せてもらう。
そんな会話の中で小千谷の辺りではブラックバスが釣れるらしいという話を問いた。早速釣具屋に行って「ブラックバスを釣りたいのだけど」と言うと9センチの細長い魚の形をしたプラグというルアーを選んでくれた。小千谷の信濃川の河川敷にある野池は、片側はテトラポットで護岸されもう一方は水草で覆われていた。釣るとしたらテトラ側しかない。しかしきれいに約5メートル間隔で鮒釣りの人が入っている。やっと鮒釣りの人の迷惑にならないような場所を見つけて入り込み後はひたすらルアーを投げ続けた。1時間2時問と投げ続けたが全く掛からない。今思えば全く釣り方がなつていなかったのだが初めての事とて仕方がない。もう止めようと思った夕闇迫る頃突然掛かった。跳ねる、引っ張る、沈み込む、初めて味わう素晴らしい引きだ。やっと取り込んだときには興奮して手がぶるぶる震えた。35センチでブラックバスにしては普通サイズであったが、バス釣りの虜に成るには充分だった。其れからは寝ても覚めてもブラックバス。釣り場で会う同好の人に問いたり、本、テレビ、ビデオ等で情報を集める一方、土日はおろかウィークディまで駆けつけて夕まずめのひと時、勝負に掛けた。この魚は平らな所には居ない。急に深くなる場所や、杭、テトラの影など必ず何らかの変化のある所に居る。初めての所では先ず
鈎のない重いルアーで水底の構造を探る。ルアーの種類はいろいろあるが、例えばワームと呼ばれる柔らかいプラスチックで出来たものは、餌釣りと同じで魚の活性の低い時に使い、アタリももぞもぞとくる。一方スピナーベイトは金属風車にフラダンスの腰巻きが付いたような物で、どうしてこんな物に魚が掛かるんだという様な代物で、元気の良いブラックバスが餌としてではなく興味本位か喧嘩相手としてかかってくるらしい。このスピナーベイトによる釣りが一番好きだ。このルアーのアタリは向こう合わせでガーンときて、ワームのように合わせに気を遣う必要もない。
休日の早朝まだ鮒釣りの人の来る前にテトラの側をザ一っと釣ってゆく。一箇所に5〜6回投げたら直ぐに場所を移す。一回りする間に必ず何回かいい思いが出来る。この頃はまだバス釣りの大ブームの前で人も少なく、鮒釣りの人とバス釣りの人は上手く共存していた。しかし数年すると若者達の車が土手に並ぶようになり、釣り番組から出て来たような出で立ちのバス釣りの男女が釣り場を占めるようになつた。はてはボートやチューブまで浮かぶようになり、其れと共に鮒釣りの人達は姿を消してしまった。その後日本中のあちこちの湖で不法に放流されたブラックバスのため、ヒメマスやワカサギ等漁業の対象となる魚が減っている事が報道されるようになった。釣りは遊びだ。漁民の生活を脅かしてまでやるものではない。今はブラックバス釣りは止めて、美しいルアーを眺めながら本場のアメリカで釣る日の来る事を夢見ている。今の相手は専ら山女やウグイ。スプーンという正に匙の形をしたルアーで楽しんでいる。
「はい、おまちどおさん。」と運び屋の親父さんが湯気をたてるラーメン丼を卓上にふたつ置きます。
「来た、来た。でき上がりが早いよね。いただきまーす。」と家人に声をかけながら、割り箸を手にします。醤油味の澄んだスープは煮干し系のダシの香りがします。家人とふたりでこしのある細麺を殴り込み、ふむふむと途中でコショウを入れてまた別の風味でいただきます。
「ごちそーさん。きょうもおいしかったです。」と2杯分900円を払います。お嫁さんが「粒は小さいけど甘いから、よかったら食べて。」と蜜柑を2個くれました。
「待ち時間の短さと値段とうまさのコスト・パフォーマンスでここのラーメンにまさる店はないね、満足、満足。」とわたし。めざすは新潟女池IC近くのU映画館。これから本日封切りのお正月映画『有頂天ホテル』を見に行くところです。
「きょうはデザートまでいただいちゃったわね。」とあっさり味のラーメン好きの家人もにっこりです。
以前に栃尾の辛み大根を使った手打のおろし蕎麦の店を本欄で紹介したことがあります。その「み○ほ」という店も品書きにカレーライス、親子井、ラーメンなど、店番に赤ちゃんおぶった可愛いお嫁さんはいるは、という田舎町の食堂でした。
ここでご紹介するのも小○蕎麦店というごくごくふつうの町の食堂なんであります。東バイパスで見附手前の某大手M家具店やタイヤ店の交差点を右折してすぐのところ。皮肉にも先のうまい手打ち蕎麦の店はラーメン屋で、うまいラーメンだと推薦するこの店、その名も蕎麦店。
そもそもは三条の友人のS先生の推薦で、見附で開業のラーメン好きのH先生も賛意を表しました。
「あっさりした細麺のうまい支那蕎麦ならここがおすすめ。店名は蕎麦屋なんだけど蕎麦はけっして食わんでよろしい。」
「そうそう、あそこの支那蕎麦はいい味出してる。」
長岡界隈では青○食堂、安○亭、そして最近のい○井まで、かなりこってり味のラーメンが人気の主流です。わたしたち団塊世代前後のい
わゆる熟年層から上は、あっさりした昔の支那蕎麦がお好きなかたも多いのではないでしょうか?
昨年までは中之島町の地番でしたが、現在はれっきとした長岡市内。大きな看板に『ラーメンとうどん』と書いてあり、自他ともに認めるのか、日本蕎麦はあまりメインではないようです。でも親父さんが出前注文の電話を受けるときの受け答えを聞いたことがあります。「へい、そばやです。ああ、毎度どうも。」ちなみにこの店でお蕎麦を頼むひとはまだ見たことがありません。紹介者のS先生、H先生は日本蕎麦も試食すみとのことでした。
わたしもたまには別メニューもと注文したことがあります。献立にあった「ソース焼きそば」はとにかく綻被りな一品。運ばれた大皿の麺の浮くウスター・ソースの海に溺れそうでした。「よーし、これが清濁併せ呑む器量というものだ。」と自分自身を叱咤激励しながら、B級グルメの面子にかけて、麺だけでもと涙のほぼ完食。深皿には具の浮いた大量のソース…。『食の冒険』などせず、定番のラーメンをおいしく食べ終わった向かいの席の家人から、『ドクター(を)ストップ』の合図。小さな声で健闘を讃えられました。「もう十分がんばったわ。」
…こんな日もありましたけれど、ここのラーメンはお試しあれ。