長岡市医師会たより No.311 2006.2

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もくじ

 表紙絵 「魚沼早春(中小沢)」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「バンコク短訪」 須藤寛人(長岡赤十字病院)
 「新年ボウリング大会優勝記〜センチメンタルな美酒」 野村権衛(野村内科医院)
 「新年麻雀大会優勝記〜来た、見た、勝った!?」 鈴木丈吉(鈴木内科医院)
 「囲碁大会・雑記」 新保俊光(新保内科医院)
 「村の正月」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



魚沼早春(中小沢)   丸岡 稔(丸岡医院)


バンコク短訪 須藤寛人(長岡赤十字病院) 

 決 断
 昨秋9月、週に2日の「旗日」があった。かつ、その週は第4土曜日で病院は休みであった。すなわち、週日に3日間休むと連続して7日間の休日がとれることになる。当院では、「夏期鍛錬休暇」と名付けられた有給休暇を3日間(ただし、労働組合との決まり事としては5日間)とることが勧められている。普通は「夏期」というと7月と8月と思われるが、日赤本社規定では6月より9月までであるとのこと。この単純な決まりを知るまでに私はおよそ15年もかかった。若造達には、早々と「鍛錬」を済まさせ、私は9月未のぎりぎりに「夏期鍛錬休暇」を取ることにした。

 何処に、誰と行くか
 行き先は前々より東南アジアに決めていた。ベトナムに多少の興味があったが、JTBでバンコク行きのパックツアーが多種あったので、その一つに決めた。この手の海外旅行は、通常、二人が最少催行人数であるし、割安である。娘の一人に一緒に行かないか?と誘ったら、「行ったことがあるので、遠慮する」とのこと。もう一人の娘に電話したら「ママと行けば。」とそっけない返事。女房に話したら「あんた何を考えているの!」。結局、古女房と一緒にと相成った。女房と飛行機に一緒に乗るのは実に25年ぶりであることが分かった。

 バンコク市内
 バンコクの宮殿や寺院の見学は予想以上の圧巻の連続であった。ワット・プラ・ケオの金の塔を一つとってみても、日本の金閣寺に遜色はないように感じた。茶色と緑の二重、四重の瓦が美しく映える寺院や王宮の建築物は日光の東照宮にひけをとらないもの、という印象をもった。バンコクにはお寺の数は2万以上あるとのこと。大きな建物だけでなく普通と思われる家でも敷地の隅に「土地神様」の飾机を見た。全く信心深い国民である。市内の繁華街から高架鉄道スカイトレインが十字形に2線走っている。バンコクは人口200万人、街中の交通渋滞が酷いので、大変便利になったとのこと。電車は山手線より静かできれいであった。昨年、多額の日本よりの援助金を基に、はじめて地下鉄が完成したとのことであった。
 バンコクの町はチャオプラヤー川に沿って発達したようである。川幅は新潟の信濃川の2倍はあるが、水量はきわめて多く、流れも速かった。行き交う船は大小多数、満載状態で水上交通が未だ重要であることが窺えた。川の水の色は茶色という違いはあるが、東洋のベネチアとでもいえそうである。

 アユタヤと象乗り
 アユタヤ遺跡へはチャオプラヤー川を4時間のクルーズで行った。雨期で川の水かさが通常より1mくらいも高いとのこと、あちこちで電信柱の頭だけが見えた。川岸の家々の1階は土台だけで造られていて、家の入り口は2階となっている。家の下に水が来ても、洪水ではないとのこと。そこには、ニューオーリンズと違って、数千年にわたる東洋の経験の蓄積と智恵があるように思われる。
 世界遺産にも指定されている古都アユタヤは予想以上に荒廃していた。山田長政のいた日本人町跡などもたいして視るべきものが残っていなかった。熱い国で、ジャングル化が早いのだろう。この点、メキシコのマヤ文明の遺跡と似ているように感じた。
 遺跡の脇で象さんに乗った。女房がいち早く「メス象でお願いします。」と言ってしまった。それでも、背の上は思った以上に高く感じた。のっしり、のっしりと、「王様の乗り物」に揺られた。20分で400バーツ(1200円くらい)であった。タイの平均月給が2000バーツくらいとのことであるから、それなりに高い。昨今の機械化で、象も働くところがなくなったそうで、仕方ないわけである。出発前、長岡の旅行社は、「象乗りは貴方のパックには入っていませんので無理です。」の一点ばりであった。クライアントの気持ちをどうにかしてやろうという態度が見られなかった。社員は、田舎者であるから、怒ってもしょうがないか。ところで、私も「田舎の病院の医者」と言われないようにしなければ。

 「Linasmita教授
 Linasmita医師に35年ぶり!の再会ができた。身長180cm、やせ形で美男子の顔面は、白髪交じりになっただけで、昔のままであった。私たちは1年間、ブルックリンのユダヤ病院でインターンとして一緒に働いた。私達は同じ26歳であった。彼は、他のアジアの国からきた医師とは、明らかに異なっていた。英語は下手であったが、性格が穏やかで、紳士的であった。私たちはすぐうち解けた。彼は頭脳明断であった。100人から集まったインターン・レジデントの婦人科病理の試験でただ一人満点を取ったことがあった。超音波が linear でいまだ研究中で、三つ子や腹腔妊娠の診断ができそうになった頃で、私たちは二人で力を合わせてそれらの患者の管理にあたったこともあった。今に名前の残るShirodkar手術のシュロッカー教授(インド人)やApgar Scoreのアブガー医師(麻酔科女医)の講義を聴いたのもこの年であった。
 彼は、レジデント終了後、同病院のSchiffer臨床教授(New York State University at Down State Medical Center)に請われてそのままinstructorとして残ったことがわかった。12年間のアメリカ生活にピリオドをうって、彼は38歳でバンコクに戻った。「Why did you come back to your country ?」と聞くと、「 I have a mother to take care of.」「 I have a father to take care of ……」。なんとも孔子的、儒教的な返事であった。彼はアメリカ移住権(Green Card)まで取ったが、アメリカ市民権までは取らなかったとのこと。Schiffer臨床教授はその後Yale大学の家庭医学の教授に栄転したと聞いた。死別後再婚し、ご夫妻でバンコクまで訪ねられたとのこと。そして3年前に亡くなったことを開いた。

 Mahidol大学
 Linasmita教授は、バンコク市内にあるMahidol大学の臨床教授であった。大学の産婦人科部門には正教授以下6人の教授がいるが、その一人であるとの事であった。大学に隣接するRhamothibodi病院(900床の市民病院)の婦人科腫瘍部門の長を兼任されていた。敷地に接してタイ国立ガンセンターがあった。彼はアメリカより戻ったはよいが、収入は1/10以下となり、3人の子どもの教育費も大変で、プライベイトクリニックをもっているとのこと。タイは人口およそ2000万人、6つの国立大学と1つの私立大学があるとのこと。医学生は一学年100人で、女性が半数。教授によれば「医者を作りすぎている」ようだとのことであった。Mahidol大学は、医者でもあったMahidol王子が、米国留学より戻り1960年代に作った、比較的新しい大学だそうである。Rhamothibodi病院の方は、超大部屋、空調なし、電動ベッドなしであった。このことより、タイ国民は貧富の差がかなり大きいように伺い知れた。分娩数は月400件(平成16年の当院の分娩数は年間882件、新潟大学は381件)であるから、臨床経験は豊富であろうと推定された。陣痛・分娩室に旧式のエコーが一台あった。休日であるにもかかわらず、医学生、レジデントが忙しそうに働いていた。教授を見ると、胸の前に両手を合わせて、おじぎをして「サワツデーカー」と挨拶する。全く礼儀正しい国民である。

 戦場に架ける橋
 バンコク市内からは、山は見えない。バスで2時間ほど、遠くに岡が見える所にカンチャナブリがあった。第二次世界大戦時、日本軍はタイからビルマに侵攻するために、この地に鉄道建設を急いだ。クアイ川にかかる橋の建設には連合軍捕虜を酷使した。マラリアなどもあり、死者の数は枕木の数だけと言われたくらいに多かった。近くに連合軍墓地があり、6000柱がまつられていた。墓石から20歳位の若者が多いことが知れ、家族の短い墓碑文に胸を打たれた。映画「戟場に架ける橋」のクアイ川マーチは戦無派の私たちにとってそれほど強烈なものではなくなっている。その鉄橋を歩いて渡った。アメリカ人の若い観光客も多く、橋の上で道を譲り合う時、複雑な気持ちになった。

 一空ちゃん
 一空ちゃんは1年前に私どもの病院で生まれた男の子である。一空は「イソラ」と読む。
 母は中越地区出身の日本人で父はタイ人である。母の母を私が手術をし、そのまた母の治療にもあたった。即ち、この家の4代に渡って私が医療のかかわりをもった。婦人科医冥利とでもいえよう。母は、東京で仕事中、気が付いたら良き彼は留学中のタイ人であった。結婚し、現在はバンコク市に住んで、ご主人は日本語を活かしてトヨタに就職が決まったとのこと。この方も控えめで、温厚なやさしい方であった。いやな顔ひとつせず、ドライバー係をやってくれた。母は長岡高校出身だけあっ
て、優秀で、2年で既にタイ社会に良く順応しているようであった。「イソラとは初めて聞いた名前ですね。」と問うと、「一空とは日本もタイも空は一続きという気持ちで付けました。イソラはタイ語で『自由』という意味がありますし……」。いつの世も、「強きもの、汝は女なり」は真実であろう。

 想い出
 ホテルはThe Peninsulaを選んで当たり!であった。市街に出るのにいちいちホテルの渡し舟で行き来するのが珍しかった。食事の開始の時間だけが告げられただけで、部屋の鍵を見せたり、サインをしたりすることなくリッチな気分にさせてくれた。ココヤシの木の下、川辺のテラスに寄りかかり、「王様と私」のシーンを思い返したりできた。
 シーロム通りは東京でいえば銀座。落ち着いた雰囲気のアニータというタイシルクの店にいた。一空ちゃんの母が「バンコクで一番」というものだから、女房は、「パパ、ちょっとお願い」なら良いが、「パパ、カード、クレジットカード」である。私は常時はクレジットカードを持たない(実は日赤の給料では持てないと言う方が正しい)が、海外旅行の時にはカードを持っていくことを女房は知っていた。既に仮縫いも出来ていたのには、してヤラレタリ!である。「日本の3分の1」ですか……ハイハイ。「結婚しても服一着も買ってやらなかったのか?」と三途の川で閻魔様に問われた時、申し開きができればと考え直して奮発した。

 サワツデー
 タイ語で「おはよう」も「今日は」も「今晩は」も「さようなら」まで「サワツデー」で済むとのこと。丁寧語尾として、文の最後に、男性であると「クラップ(実際はプの発音は聞こえない)」、女性であると「カー」をつける。これが、会話を大変柔らかくしていて、心地よく聞こえるように思われた。
 Linasmita教授は再び私たちに会いに来てくれた。前夜、彼の退官記念のパーテーがもたれ、200人の人が集まってくれたとのことであった。「大学としては、自分を教授に再任してくれたが、もう62歳、タイの平均寿命は68歳のこともあり、教授職は辞退した。バンコク市の郊外に小さな家を造ってゆっくり過ごそうと思う。」「長男は内科医、次男は獣医、長女はJALに努めているが、まだ誰も結婚しようとしない!……」。国は違えど、私たちは同じ時代を生きている。「We'll see you again.」、「Sure, in two year in Japan」、「サワツデー Linasmita、サワツデー 一空、サワツデー バンコク」。(平成17年暮れ)

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新年ボウリング大会優勝記〜センチメンタルな美酒

野村権衛(野村内科医院)

 1月16日(月)午後7時30分、恒例の長岡市医師会新年ボウリング大会がドリームボウル長岡(旧アルピコボウル長岡)を会場に開催されました。本大会での優勝は、昭和57年(1982年)の第13回大会以来のことで、実に24年振り、通算5回目の優勝であります。優勝トロフィー(会長杯櫛谷敏夫先生)を持ち帰って、一人祝杯を上げながらしみじみ眺めてみますと、ビスがとれていたり、部品が損傷して傾いていたりと、まさに満身創痍そのものの姿(よく言えば歴史を感じますが)でありますが、当時のトロフィーをオーダーした一人として、懐かしい我が子と久しぶりに再会したほのぼのとした気持ちになりました。数ある優勝ペナントの中からも、私の名前が書いてある、今はお星さまになっている妻の筆跡をみつけた時には、何んとも一瞬センチメンタルな感慨に浸ってしまいました。
 尚、今年度より、新しい優勝トロフィーとレプリカができる予定です。この長岡メジカルボウリング大会は、昭和47年(1972年)当時副会長でありました工藤辰夫先生からのご指示で、茨木政毅先生と全日本医師ボウリング連合新潟県長岡支部を立ち上げ、同年11月26日に第1回大会を第二ミナミボール(現立川綜合病院場所)で開催したのがそもそもの始まりであります。
 爾来、営々と今日まで続いている歴史を顧みる時、まさに感無量であり、いつの問にか参加者中最年長者となっていることに愕然としながらも、いささか面映い気持ちでおります。
 大会当日はプレー直前にレーンメンテナンスがあり、私好みの「速いレーン」が予想出来内心喜んでおりましたが、実際投げてみるとボール・コントロールのきかない難しいレーン・コンディションでした。スパット、スタンディング・ポジションをかえなければと焦りながらもその決心がつかないまま、151点、157点と、あっと言う問に2ゲームが終わってしまいました。今日もダメかと思いつつ思いきって、3ゲーム目よりスタンディング・ポジションを左に5枚移動。アロー・スパットも10枚目から15枚日にかえ少し膨らませ気味に投げたところポケット(1番と3番の間)に入りだし、ハイ・ゲームは名手窪田久先生にとられたものの210点、197点と、H・Cにも助けられ、常勝窪田先生の本大会四連覇を阻止、まさに久しぶりの優勝にこぎつけることが出来ました。
 体力的には昨年の夏頃より何となく下肢の衰えが気になり、これは何とかしなければと思いながらも、昔とったきね柄(づか)の空手はもう無理、歩くのも時間が掛かって億劫と結局はその場で手っ取り早く出来るスクワット運動を9月より始めてみました。その効果でしょうか、昨年の10月、11月の月例会は5位、4位、12月は不参加でしたが、今年の新年会は優勝とたまたまの偶然なのでしょうか!? かって名球会の大御所金田正一氏が「下半身を鍛えることが財産につながる」と口酸っぱく言っていたことが思い出されます。
 四季、天候にとらわれることなく、一人でも、短時間に楽しみながらストレス解消と体力アップにつながるボウリングをお勧め致します。最後に同伴プレーヤーの茨木、高野(吉)、高木各先生に気持ちよく投げさせて頂きありがとうございました。

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新年麻雀大会優勝記〜来た、見た、勝った!?

鈴木丈吉(鈴木内科医院)

 今年の新年麻雀大会は、1月28日(土)に行われました。昨年の会場は、殿町の「雀荘しらかば」 でした。富所先生が優勝されましたが、「しらかば」はその日を最後に閉店いたしました。富所先生が、その店の最後の優勝者、ということになります。
 今年は、新たに焼肉屋さんの上の、「トップ」という雀荘に場所を変えて行われました。3卓、12人のツワモノが集まりました。
 私の麻雀は、100%つき麻雀です。牌の来るまま、あっちが来たらこっち捨て、気が向いたらボンやチー、たまにどんな組み合わせがよいか頭を使うくらいです。
 麻雀で勝つ条件としては、
 一、「何が何でも勝つ」という強い意識。
 二、押すとき、引くときの冷静な判断力。
 三、自分の手と同様、相手の手をよく見極める。
 四、時には、一番運の悪い人から徹底的に搾り取る。
 五、運を招き寄せ、うまくそれに乗る。
 なんてところがあげられると思います。
 私ができるのは、来た牌を数えて、組み合わせを作るだけ、以上の条件からは見事にはずれています。
 それでも希には勝てることのあるのが、麻雀の魅力。囲碁や将棋なら、間違っても段を持っている人にはかないませんが、麻雀では運だけで、強い人に勝ってしまうこともあります。この辺が、「へた」と自認しながらもなかなか離れられないところです。
 今年も歴代の優勝者や、初々しい先生方がお見えになり、賑やかに始まりました。
 合計3局の勝負ですが、第1局の中程から、つきはじめたようです。きれいな手はできず、高い手も、ドラがたくさん乗った1回だけでした。でも、ついているときは、振らないものです。勝負したときはあたり牌にならず、たまたま止めていたのがあたり牌だった、など、「貯めるには、かせぐことより、使わないこと」を地でいくような感じで優勝させていただきました。
 同じ卓を囲ませていただいた先生方に感謝感謝です。
 連戦連勝だったユリウス・カエサルと、私の場合を比べてみました。
一、カエサルの場合
 来た…闘いの場所に来た。必勝の気持で勝負に望む。
 見た…メンバーの腕前を見る。自分の手とともに、勝負の流れを見る。自分であがれそうな牌、
  相手の危険牌を見極める。
 勝った…計画通りに勝つべくして勝つ。
二、鈴木丈吉の場合
 来た…欲しかった牌が来た来た(ほくそ笑む)。
 見た…今の手で和了ることを夢見る。必然的に周囲の状況は見えなくなる。
 勝った…たまたま、ラッキーが重なって勝つことができた。
 こんな違いでしょうか。こんな腕前でも、勝つことができる魅力的な遊びですが、欠点は、4人そろわないとできないことです。そのために幹事さんが苦労されることになります。今年から幹事役をお勤めいただいた高橋暁先生、ありがとうございました。今年は気を使うことが多く、勝負どころではなかったことと思います。来年もまた楽しい会を設定してくださるよう、お願いいたします。
 また来年、より多くの雀士とお会いできるのを楽しみにしております。

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囲碁大会・雑記  新保俊光(新保内科医院)

 長岡市医師会の皆様こんにちは、新保俊光と申します。
 私は、平成17年10月に長岡市医師会の仲間に入れていただき、古正寺地区で内科を開業させて頂きました。
 本来囲碁大会の様子をお話しすべきなのでしょうが、何を書いても良いからとの先輩のアドバイスを頂き、新人ですので、少々自己紹介もさせていただくことに致します。

(医師になるまで)
 私は、昭和40年に小千谷市で生まれ、現在40才です。地元の小千谷高校を卒業し2浪後、新潟大学医学部に進学しました。大学時代は六花寮に入寮し毎日友達と遊び暮らしました。囲碁も麻雀も酒もこの時に初めて覚えました。多くの誘惑に留年しそうになりましたが、運良く6年間で卒業できました。卒業学年は平成4年になります。

(医師になってから開業まで)
 卒業後は内科を専攻しました。大学病院の他、秋田組合病院、糸魚川総合病院、県立がんセンター病院で研修させていただきました。
 その後、荒川第二内科呼吸器班に所属し、主に肺癌の診療に当たりました。平成7年に大学院に進学し、木南第一生化学教室で癌抑制遺伝子の研究を行い、学位もその分野で頂きました。その後は第二内科に籍を置いたまま、再び県立がんセンターにお世話になり、現副院長の横山晶先生のもと、肺癌の臨床を2年間みっちりと勉強させていただきました。かけがえのない経験で大変感謝しております。ここでは多くの患者様の死を看取る経験も致しました。早期発見し手術で助け得た方もいらっしやいましたが、進行癌を化学療法や放射線療法で助け得た患者様は少なく、内科医として忸怩たる思いがありました。
 平成13年4月に郷里の小千谷病院に就職致しました。親も喜んでくれ、希望と責任感に燃え、定年まで勤める気持ちで赴任いたしました。同院では呼吸器の他、アレルギー、内分泌、循環器、消化器、脳神経内科、膠原病と多くの診療に携わることが出来ました。
 毎週気管支鏡やGTFも行い、検査好きの私としては嬉しいことでした。患者様が全治し元気で退院される喜びも多く得ることが出来ました。

 (地震)
 小千谷病院時代は充実していましたが、疲れもしました。現在、水原郷病院が医師の大量離脱で機能不全に陥りかけていますが、医師不足はこの規模の病院でどこもが抱える問題です。3〜5万人程度の住民を抱え2次救急を一手に担う総合病院がそれです。小千谷病院もご多分に漏れず、私が在任中も医師数は減り続け、残った医師は日毎に疲弊し、心に余裕が無くなつていくのを実感しました。そのような中、平成16年10月23日夕方に中越大地震が起きました。その後の2ケ月間は無我夢中で我ながら頑張って働いたと思いますが、気がついてみると疲れ切った体調不良の自分がいました。心の中にも不平不満が募ってしまい、勤務を続けてゆく自信も意欲もなくなっていました。2年後や5年後の自分の姿が想像できないのでした。
 同僚や職員が苦労しているのが良く分かりましたので、自分がドロップアウトしてはいけない、男らしくない、と心に言い聞かせてはみたものの、12月下旬には院長に辞職願を提出していました。この時点では、先のことは考えられませんでした。
 そうはいえ、妻や2人の娘もおり働かなくてはなりません。教授は、他院への転勤も勧めてくれましたが、前向きな気持ちで仕事をすることは出来ないように思えました。このように、開業はいわば消極的で衝動的に選択したものでしたが、地震が大きな契機になつたのでした。

(開業)
 決心してから開業するまではわずか10ケ月間でした。地震で苦しむ小千谷病院の仲間や患者様から逃げるように辞めてゆく自分に後ろめたさがありました。出来るだけ迷惑をかけずそっといなくなりたいと思い、開業の地は小千谷以外の場所を探しました。また、開業の手伝いを申し出てくれた小千谷病院のスタッフにも感謝しつつお断りいたしました。そして、多くの方のご協力を得て平成17年2月に長岡古正寺地区に開業する目途が付き、10月15日より診療を開始することが出来ました。

 (日曜診療)
 開業するなら日曜診療をしたいと思いました。理由は幾つかあります。一次医療を担当する開業医は、二次、三次医療を提供する病院以上に、患者様に利便性とサービスを提供すべきとの思いが勤務医時代からありました。また、勤務医の大変さを実感し、そこから逃げ出すように開業した私としては、今も奮闘している仲間たちに申し訳ないとの思いがあります。毎月数回、当直を挟んで30時間以上も連続勤務することや、365日24時間緊急コールの拘束を受けることを考えれば、日曜診療は苦にならないのでした。
 幸いにも、看護師である家内も積極的に協力してくれています。休日診療を了解の上で、優秀な看護師、検査技師、医療事務者を採用することも出来ました。調剤薬局さんも日曜営業をしてくれています。当初反対を覚悟していた医師会からも理解を頂きました。この様に皆様の協力と理解を得て日曜診療が出来るのであり、これからも感謝の気持ちを忘れず続けて行きたいと思います。出来れば、他の医師とも連携し365日間、休日のない一次救急の出来る診療所を作ってみたいと思っています。連携すれば、お互い余裕を持った勤務が出来、研究や社会見聞を広めるための時間も作れると思うのでした。

 (囲碁)
 囲碁は大学で友達から教えて貰いました。囲碁部に所属しましたが医学部だけではメンバーが揃わず半休部状態でした。他学部とは五十嵐と旭町にキャンパスが別れていたため時々交流する程度でした。大会には参加しましたが勿論勝てるわけもありませんでした。ただ、仲間と遠征し、大会後に酒を飲みながら囲碁を打ち、観戦するのは楽しい限りでした。棋力は大学卒業時には自称三段で、今は自称四段ですが免状はありません。武宮正樹のフアンで大模様が好きな割に力が弱く、よく破綻してしまいます。模様碁は向いていないのかもしれませんが、アマチュアですので一向に気にしていません。現在はもっばらインターネットの「パンダネット」という囲碁サイトで楽しんでいます。ここでは、四段と五段を行ったり来たりしています。何時でも打てること、外国の人と打てることが嬉しいです。インターネット碁をするようになってから少し読む力がついた様に思います。
 私はゲームが好きで、トランプ、花札、将棋、麻雀と何れも熱中した時代がありました。麻雀の麻は麻薬の麻で、その魅力は抗しがたいのですが、時間がかかること、メンツを揃えるのが大変なこと、ゲームの後味が少し悪いことより社会人になってからはほとんど打っていません。囲碁はその棋力において次々と楽しみが湧きだし、飽きることを知りません。またゲームの後味も良く“手談”を交わした後は、相手に非常に親近感を覚えるのも囲碁の持っている徳なのだと思います。将来、子供の囲碁教室をやってみたいと思い、手始めに6才の長女に教えていますが、囲碁は教えるのが大変難しいのでした。

(大会)
 大会当日は12名の先生が参加されました。私は、四段で参加させていただきました。初戦は、中盤の劫変わりで地合不利になりましたが粘り勝ちしました。第2戦は私の大石に日がない苦しい碁で、あきらめ気分で打っていましたが、その空気が伝わったのか相手の先生に落手がでて逆転勝ちになりました。2回戦終了時点で、私と黒川先生と斎藤先生の3名が勝ち残りました。決勝はくじ引きで私と黒川先生の対戦になりました。
 決勝戦は大模様を張ったものの、黒川先生の確定地が大きく、苦しい碁になりました。明らかなつぶれ筋が有りましたが、優勢な先生が自重されて、難を逃れ、その後粘って逆転勝ちをしました。以上のように何れも内容は悪く、優勝したのが不思議です。大会後のオープン戦で、私は六段の斎藤先生に2子置いて挑戦しましたが、歯が立たなかったのでした。結局、諸先生方も得体の知れない新人が相手では打ちづらかったのが、私が優勝した理由だと思います。来年は全敗しそうな気がしています。
 長い文章になりましたが、地域医療のため長岡市医師会のために今後も精一杯取り組んで参りますので、ご指導、ご鞭撻をよろしくお願い申し上げます。

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村の正月  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 昨年末カマキリの卵がさざんかの高いところに産み付けられていたので「大雪かな?」と思ったとおり既に3回の雪下ろしをした。
 えらいこった。と言っても医院も自宅の新しい部分も自動落雪なので雪下ろしをしなければならない部分はそれほど広くはない。
 丁度良い運動、てな訳で雪下ろしのあとの風呂あがりの一杯が美味しくてこれがほんとの雪見酒。
 なんて書けるのも下ろす面積が少ないからで、家の一軒分全部や医院も……なんて言ったらとてもやってられない。
 降る雪も駅周辺から宮内あたりで“かなり積ってるかな”なんて思って見ていると私達の村のあたりへ来ると雪の量が倍くらいに増える。さらに小千谷へ行くとその倍、川口ではさらに倍に、という感じで増え続ける。……小千谷、川口の患者さんなど本当に雪に苦労されているご様子。お見舞い申し上げます。
 さて我が十日町(古志郡十日町村)では、元旦に村中の四つのお寺様に年始参りをすませると「賀詞交換会」なる集まりがあり村人はそこで新年を慶び祝うのである。(要するに酒を酌み交わすのだ)。
 その年始参りの返礼として四つのお寺様方が一月三日に村中を歩いて回り返礼をされる「ものもう」というしきたり(お寺様ご年始)が未だに続いている。
 今年も大雪の中、袈裟衣姿のお寺様が数人の先ぶれとお供を伴い村中の家々を回られ、村人はその行列を玄関先で待ち受けたのである。一月三日、もう「ものもう」の来る頃か、と気にしつつ雑煮のもちを食べ終えると予感どうり(例年おおよそ同じ時間なのであたり前。)二人組の先ぶれががらっと玄関の戸を開けて「ものもーう」(お知らせ申します、の意味なんでしょうか。)と大声をかけてくる。
「どーれい。」と返事をしながら玄関に出てお互いに「おめでとうございます。本年も宜しく……」と挨拶を交わす。
 この先ぶれのスタイルがなかなかトラディショナル!。すげ笠に手甲、脚絆、黒か紺の襦袢に半纏である。
 昔は(と言ってもさほど昔ではない。)さらに黒足袋にわらじ履きで腰に予備のわらじもくくり付け、わら蓑まで着込んでいたこともあったようだが、さすがに近年はゴム長に変わったようだ。
 当然こちらも紋付、羽織はかまに雪駄がけで玄関から門の前に出てお寺様の行列を待ち受ける……としなければならないかとは思いながら(誰もそこまではやらないから)普段着に適当な防寒着を着込み、門の前で行列が通って来られるのを待ち、ご挨拶と行列のお見送りをするのである。
 行列は先ぶれと同様の格好をした七人程度のお供が先に歩いてきてその人たちと順々に挨拶を交わしていって最後に立派な袈裟と衣のお寺様にご挨拶をするのである。
 これが我が十日町地域の三が日の古き良き風習である。
 笠以外は黒づくめの数人のお供と数歩遅れて歩いて来られるお寺様の行列が、雪の降りしきる中、遠くから雪の壁をぬけて次第に近づいてくるのを待ち受ける気分は十分にBack To The Edojidai なのでありました。
 一月三日にこの重要な儀式を終えてからこたつに入り、ぬくぬくとしてお屠蘇を頂く。これが有難く由緒正しい日本のお正月、などと悦に入るとさらに酒の味が上がる。今度「元旦しぼり」でも買ってこようか。

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