長岡市医師会たより No.312 2006.3
このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。
誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。
表紙絵 「早春の谷川岳」 丸岡 稔(丸岡医院)
「故江口進先生を偲んで」 杉本邦雄
「病歴管理学の祖? フランクリン」 西村義孝(長岡西病院)
「タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た〜その4」 田村康二(悠遊健康村病院)
「山と温泉48〜その44」 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
「子狐ヘレンの涙物語」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)
先日、『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書』(ジャパンブック)という本を一読した。目的は広島・長崎への原子爆弾攻撃の意義を小学生に教える記述確認である。それはそれとして、その本に合衆国建国の頃の記述としてベンジャミン・フランクリン(以下B・F)に関する事の多いのに気づいた。彼はジェファーソンと並んで当時最大の文化人であったからであろう。私はそのB・Fの業績のなかから表題の「病歴管理学の祖?」に関することを探した。
ここでなぜ私が病歴の話?と言われると思い、少し説明をしておくことにする。昭和40年後期は、「痛歴室のない病院は……」という議論が喧しかった。当時長岡赤十字病院にいた小林矩明先生と私は若気の至り?で病歴室の開設準備をかってでて、その後を江部達夫先生に託した事がある。私は昭和40年の当初から県の病歴研究会に出席し、定年後、約10年ほど医療秘書専門学校(川崎医療短大通信教育課程)で学生に病歴学の手ほどきをした。このような病歴管理との付き合いがあり、その時の使用した教科書に「B・Fが病歴管理学の基礎を作った」と書かれてありそのように教えていた。
さて、前述の小学校の歴史教科書にはB・Fが8、9歳の2年間の学歴しかないこと、優れた多くの研究をしたこと、政治家として活躍しアメリカ合衆国独立宣言書起草者の一人であったことなどは書かれてあるが、病歴管理の研究をしたことは書かれていなかった。10年間嘘を講義していたかとあわてて、早速かの有名な『フランクリン自伝』(岩波文庫)をあたってみた。1751年に病院建設をしたことは記載されているが、病歴管理については何もない。さらにあわてて病院の病歴士さんに聞いたところ、長岡でお馴染みの木村明先生が監修した教科書には記載されているので一安心した。次にそれらの記載を紹介する。
草信正志著『病歴管理学』(川崎医療短期大学)の記載は次のようである。
「今日の病歴管理の基礎を作ったのはアメリカである。1752年、アメリカで最初の綜合病院がフィラデルフィアに設立された。ペンシルバニア病院がそれで、この病院の事務長は科学者・政治家として有名なB・Fであった。彼は病院の事務長職の外、記録係も勤め、この当時における記録の多くは彼によって記されたものである。最初の50年間についての記録は、患者台帳に残されているが、それには患者氏名、住所、病名、入・退院年月日、転帰、患者の担保が記録されている。1803年からは、特に興味ある症例については詳しい記録を取っておくよう命令が出され、それらの多くはペン書きの挿絵入りであった。1873年からは診療録の保存が始められ、同時に患者索引も作られたが、この索引をカード方式で行うようになつたのは1906年からである。」
教科書の記載をそのまま転記したが、B・Fの没年は1790年であるから後段の事実は病院の方針として定着したということであろう。その他の病院についての記載も参考のために要約すると「ニューヨーク病院(1771年開設)は1793年から、マサチューセッツ綜合病院は開設の1821年から現在のような病歴管理が行われている。」ということである。
桜井勉著・木村明監修『診療録管理通論』(日本病院共済会)のB・Fに関する記載は次のようある。
「1752年フィラデルフィアにべンシルバニア病院が設立され、記録係としてB・Fが勤務、当時の患者の氏名、住所、入院、退院年月日、転帰が記録されている。」
さてこれだけの記述でB・Fが「病歴管理学の祖」であったと決めるつもりはない。B・F自身も自伝に書くほどのこともないと考えていたと思う。しかし私は彼が病院管理者として病歴管理の必要性を感じ自ら実行した事実を重くみている。
大昔から医師が診療録を書いていたことは多くの医学史に書かれている。エジプト時代、ギリシャ時代の診療録のこと、中世期創立のロンドンのセント・バソロミュー病院の創立以来の診療記録保存など。私は診療録の保存だけでなく管理という発想が医師でない、合理主義者といわれたB・Fによって始められたことに意義を感じている。もっとも診療録を自身の備忘録、診察料金請求資料とのみ考えていた医師は少ないと思う。
以上の記述は、私からの話題提供として、読者各自が痛歴管理の意義、今後の方法等についてお考え頂きたいと思う。これから後は全く私の空想的意見である。
現在、病歴管理の状況は病院評価の大きな指標とされている。しかしそれは直接収入に反映しないため、病院経営者は診療録廃棄のことしか頭にないという状況も話題になっている。
一方、専門学校等における病歴管理学の講義では永久保存が望ましいということになっており、試験問題では病院管理の先駆者マッキーカン博士(1881〜1956の提唱した病歴管理の6つの価値「患者・病院・医師にとっての価値、法的防衛上・公衆衛生上・医学研究上の価値」を書かせるのが定番である。
私はB・Fが1750年代に病院管理者であった時なにを考えて病歴管理を提唱し、自ら実施したか不思議に思っている。合理主義の彼ならば何の不思議もなく考え、実施し、後は忘れてしまった日常の仕事の一つであったということであったのかもしれない。この時期はB・Fが稲妻の研究のため凧を揚げていた時、母と死別した時と重なっている。医学史上からはジュンナーの牛痘種痘法発明の45年前のことで、日本史上では田沼意次時代、天明の大飢饉と同時代である。どのような診療録であったか見てみたいと思うが、見ないで想像していたほうがよいかもしれない。当時の平均寿命約50歳からみておそらく死亡退院が多かったと思う。
ここで話を変えてB・Fの自伝からの推測を述べてみる。B・Fは合理的且つ楽天的であったのであろうか、自叙伝の第一章には自分の一生を肯定し「私は今までの生涯をそのまま繰り返すことに少しも異存がない」と言い、「それはかなわぬことであるから、それにもっとも近いことは生涯を振り返り、そして思い出したことを筆にして、できるだけ永久のものにすることではないかと思う。」と述べている。
このような考え方の人から見れば、死亡退院が多かったであろうその頃の診療録は「その人の自伝のように書いてあげたい」と考えたのではなかろうか。ともあれ診療録の歴史から見て、このB・F発想の診療録が全世界に広まって、現在まで続いていることになる。ペンシルバニア病院を見学したことがある方には、どのように連続しているか、お聞きしてみたいことである。話は変わるが、私がメイヨ一病院の病歴室を見学した時の感想は、我々の見本とはできないほどの人手で病歴を管理している、かけ離れたものであるというものであった。
ところで世の中にはB・Fのように一生を繰り返すに異存はない人ばかりではないと思う。重度の障害を生まれながらに背負い、父母兄弟と離れて一生を終わる人たちもそうであろう。私はそのような人を世話する施設に短期間勤務し、施設長(小西徹先生)のご厚意で診療録および
?線写真を詳しく閲覧する機会があった。今思い出してその診療録こそその人々にとってかけがえのない自伝であり、生きていた証であると思う。
この施設の診療録は開設以来大事に保管されていたが、我が国の現状では多くの病院の診療録は廃棄する時期を指折り数えて待たれていると思う。「病歴管理学の祖」と言われているB・Fがその有様を見たら何と言うか? 自伝から察すると「生き返ってものは言えない、今生きて
いる人が考えなさい。」であろう。
B・Fにしてみれば、あるいは思いつきで始めた病歴管理が250年後までも続いているとは、という感慨かもしれない。
ところで考えを個人情報保護に移すと、最近の診療情報は遺伝子検査データなどのいわゆる「センシティブの情報」をも含むものであり、これを現在のような病歴管理のシステムで守れるかは赤信号であろう。
プライバシーの権利とは「自分に関する情報を自らコントロールする権利」と理解される時代になっている。
そのうち診療情報は個人がコントロールできる情報カードヘ移すか、最近はやりの「独立行政法人何とか機構」をつくり、そこへ移して、病院での保存はまかりならんとなるかもしれない。それらを合理的に解決してくれる「現代病歴管理学の祖」第二のB・Fの出現を心待ちにしている。
田村康二(悠遊健康村病院)
ヒトの進化
密林には居ない猛獣の習性をしらなかった類人猿達の多くは、山を降りた途端にライオンや豹の餌食になってしまっただろう。発掘されたヒトの化石には明らかにライオンに噛まれた骨の傷が認められるものがあるという。生存競争で敵対する動物達と真正面から戦いを極力さけて、巧みに餌を得てきた類人猿のみがヒトヘと進化できたのだ。
ここでたまたまライオンの群れが一頭のシマウマを襲って倒す狩を目にする事が出来た。狩をするのはメス・ライオンだ。彼女たちは巧みに左右に分かれ、突然同時に襲ってシマウマを倒したのだ。ライオンは10頭ぐらい家族の群れをなしている。ライオンがシマウマを食べているそばには必ず「草原の掃除屋」といわれるハイエナがいる。その周りの木には必ずハゲタカが群れをなして止まっている。その様な状態では類人猿がライオンの食べ残しに与かれる可能性は低かっただろう。
だが動物性タンパク質を食べることで脳が発達し、身体も大きく達しくなってきた類人猿たちは石器を作った。1964年イギリスの考古学者リーキーらはこの後で述べるオルドバイ渓谷で最初のヒトと化石と石器を発見した。このヒトをホモ・ハビリス(能力あるヒト)と名付けた。彼らの脳容量は平均780ml身長は130cm位、体重はオスよりは小柄なメスでも既に50kgを超えていた。世界最古の石器文化、オルドバイ文化を造ったのである。オルドバイ文化の石器は石を直接に石のハンマーで打ち砕いて石片を作って刃を付けた。これはチョッパーと名付けられている。オルドバイから石器と一緒に見つかった動物の骨には石器で傷つけられた跡が見られる。この証拠はエチオピアやケニアでも同様に見つかっているという。
ンゴロンゴロ自然保護区に着く
その昔類人猿が勇を奮って降りて行った断崖を、逆にランクルは喘ぎながらジグザグの坂道をゆっくりと登った。登りついたところにあるSerena Lodgeで昼食となった。このロッジの庭先からは、改めて広大な大地溝帯を見渡せた。食後ふたたび登って行き公園の入り口を過ぎるとView pointに到達した。ここからはンゴロンゴロの広いクレータが一望できた。はるばる来ただけの価値がある展望の素晴らしさに、一同は長旅の疲れを忘れて「ウアー、素
晴らしい!」歓声を上げた。
このクレータは世界第4位の大きさである。南北16km東西19kmの平坦なシルクハットを逆さまにした様な底の一帯が自然保護区になっている。我々が立っていたクレータの火口縁は標高1800m、そこから600から1200m下がった標高600mのところに264平方kmの自然保護区がある。その周を約20の火山が取り巻いている。活火山もある。その1つがキリマンジャロ山だ。ンゴロンゴロ山はかってはそれよりも1300m位低い4582mの山だったという。それが上約半分を吹き飛ばす大噴火で出来たのが、ンゴロンゴロ・クレータである。このクレータの特徴は火口周囲が完全に高い火口壁で閉ざされて、中央部が平らな草原になっている点にある。この様なクレータは世界でもここだけだという。その地形が動植物相の科学的に興味ある変化をもたらしている。
Lodgeと食事について
その夜からはSopa lodgeに2泊した。標高2385mの位置にあるので夕方から夜間にかけては5度位にまで下がり、赤道に近いのに冷え込みが強かった。今回の旅で泊まったどのロッジにも蚊帳がつられてあった。マラリアの予防薬を飲んでいるとはいえ、蚊に刺されると命取りになりかねない。私たちは持参した電池式の蚊取り線香をたいて蚊への対策を立てた。部屋の暖房は不十分なので、持参した寝袋にホカロンを入れて暖かくして寝た。
「冒険旅行もほどほどに」という熱帯医学専門医の忠告がある。タンザニアのようなマラリア汚染地域への非免疫者の旅行者は7人の内1人はマラリアに感染するという恐ろしい統計すらある。そこでマラリア予防薬であるプログアニルを旅行前から旅行後まで服用した。それと蚊に刺されることを避けるための可能な限りの細心の注意をはらったので、恐れていたマラリアには幸い感染しなかった。
今回泊まった宿、ロッジ、の問題は風呂にある。バスタブがついているが必ず風呂の栓がない。お湯は貴重なので、宿泊客がお湯をためて入浴しない様にと企んでいるのだ。だからこれに備えて風呂の栓は予め日本から持参したものを使った。お湯は5時から8時までしか出ない。そこで先ず家内が入る。その後に私が入ろうとすると、もうお湯は出なくなっていた。このロッジの宿泊客数は約100人である。だから人々が一斉に入浴すれば、お湯は当然無くなつてしまう。この地にある6つの宿泊施設を合わせた全収容人数は800人位だという。やはりこのような辺境の地へ、世界中から来る観光客はまだ少ないのだ。世界中どこへ行っても多く出会う我が同胞の姿も殆んど見かけなかった。それでも自然環境を保護して行くために、これ以上の観光客数を今後は受け入れない方向で検討されているという。
このような辺境の地の宿でも食事は日本の一流ホテル並のメニューだった。朝食はいわゆるバイキングで、昼は宿で作って貰った弁当を食べた。夕食は前菜からデザートまでは選択メニュー、メインの食品は何時も牛肉、豚肉、魚、ベジタリアン(パスタ類)を選択できた。この内の牛肉は乾燥牛肉のように固くて歯が立たない位であった。だが豚肉は美味しかった。家内はもっばらベジタリアンで通していた。問題は食物の衛生状態にある。ヨーロッパ基準にあると言うが実際は違っていた。私も注意に注意をしていたが、一度ひどい下痢をした。翌朝には治った所から、飲んだ果物ジュースが悪かったらしい。とはいえこのような山奥で満足の行く食事を求めるのは無理というものだろう。それにしてもこのような宿や食事を作ってきたイギリス人の自国の文化への誇りにはほとほと感心させられる。
ンゴロンゴロのサバンナは素晴らしい
翌朝は朝早く火口壁の急な坂をジャングルから潅木帯を過ぎてサバンナへと下っていった。火口源では平らで見晴らしが利く。決められた道だけを車は走る。注意して見ているとライオン、象などはほぼ決まった地域に生息している。野生動物は互に巧く住み分けているのだ。この火口源には115種類もの動物が住んでいてその数は25000匹余りだという。キリンとインパラを除く多くの動物が住んでいる。ライオンを始め多くの動物はこのクレータ内で一生を過すという。だから動植物の生態を観察できる貴重な世界遺産である。しかも今では人間は住むことを禁じられている。
昼食は湖畔に指定されているピクニックの地で食べた。安心できる場所だが万が一に備えて、車中で用意されたランチ・ボックスを食べるように注意された。この湖畔で思わず拾った石は、巧く加工されている按配から石器ではないかと思った。1964年以後タンザニアから古代の遺物は国外へ持ち出すことは厳重に禁じられている。そこでガイドに見せたら「化石かどうかは分りませんよ」と言われた。今ではこの石は私の机の上に飾ってある。類人猿は右利きと左利きは略同じぐらいだという。だからこの石のように殊更に右利き用の石器は作らなかったという。
今から3000年位前までのこの地の旧石器時代に、人は住んでいた証拠があるらしい。しかし1000年位前に忽然と姿を消してしまった。その後マサイ族が僅か150年前から遊牧民として入って来た。第1次大戟まではドイツ人の入植者が牧畜をしていた。その後は英国の植民地となり、英国人の絶好の狩場となった。しかしタンザニアが独立してからは、国定の自然公園として保護されるようになったのだ。
ンゴロンゴロでの生物の自然生態系を見る
川、湖、草原、沼地、森林などの自然環境と、そこに生息するすべての生物で構成される空間を自然生態系という。自然生態系は多様な野生動植物がいてそれを取り囲む水、大気、土壌、太陽エネルギーが重要な役割を果している。これらの各要素でンゴロンゴロでの自然生態系が構成され、微妙なバランスで維持されているのである。季節毎に火口の中の状況が変わるので、草原を時計方向に動物たちは一斉に住みかを変えてゆく。生体系は循環している。その自然の巧みさには驚かされる。
山梨医大に居た時に入試の試験科目に生物学と国語を必須にするようにと繰り返して主張したが、多くの教授連の賛同は得られなかった。数学や物理がどこの医系大学でも偏重され生物学は軽視されている。日本ではHuman Biologyは未熟である。医師で数字、数値、方程式をやたらに叫ぶ人が居るが、これらの基になっている生物学的な意味を忘れているように思う。欧米、特にアメリカでは物理数学的な社会観が横行していると思う人が多いようだが、それは誤解である。生物学的な社会観こそが欧米の基本である。だからこの旅でヒトをその成り立ちから観られるこの地を訪れて、改めてヒトという生物を考えみたいと思ったのだ。(続く)
松之山温泉
古くから、世に言う「名湯」と言われている。「越後の三名湯(関・燕温泉と)の一つの松之山温泉は薬湯といわれていますが、事実、塩類の総量が一キログラム中十五グラム
の高張性泉で、硼酸の畳も新潟一、二です。」と島津光夫氏は『新潟の温泉風土記』で紹介している。実は越後三名湯どころか群馬県の草津温泉・兵庫県の有馬温泉と共に日本三名湯とされ、草津・有馬・松之山温泉は、共に薬湯として古くから利用されていました。
現在は平成17年から十日町市に編入されていますが、旧松之山町では次のような温泉があります。
鷹の湯:湯本
鏡の湯:天水越字千ノ坂
庚申の湯:兎口温泉・兎口
翠の湯:兎口温泉・兎口
じょうもんの湯:黒倉
湯田の湯:浦田(二四度)
湯山温泉・ナステビュウ湯の山:湯山
鷹の湯(湯本)は自然湧出で、開湯(湯の発見)は古い。他の温泉は明治時代以後、石油掘削または、近年にみられる温泉掘削・ボーリングに依る温泉(湯田の湯は冷泉)。
温泉の地籍は東頚城郡松之山町で現在は、十日町市に編入。隣の松代町も同じ十日町市に編入された。古文書、古地図に登場する於之山町は松代町の一部と記している。
交通
東頚城丘陵の真ん中、西に出れば海に、東に信濃川を越えて二千米余りの山々が壁になって当たる。山古志に似た地形ではあるが丘陵とは言い難く、矢張り山間地と言った方が間違いないように思う。東頚城丘陵は標高三百米からせいぜいで五百米迄。その丘と丘の問は深い沢と成り谷となり、その急斜面に集落が点在する。松之山中心よりの出入りは、いずれも集落を縫い、沢・谷を渡り、丘陵の峠を越えてそれぞれの平らに向かい、平らから丘陵に向かう。
上越線(在来線)・六日町で乗り換え北越急行線で松代下車、湯本行き・頚城バス。
飯山線・北越急行線・十日町下車、松之山行き?越後交通バス。
直江津、高田から、松之山方面行きバス?(頚城バスに確認して下さい。)夏期に、津南町から国道117号線から信濃川を渡り、国道353号線を直接「鏡の湯」、湯本「鷹の湯」に向かう臨時バスが運行された事があります。バスの運行は、各バス会社に問い合わせて下さい。
豪雪地帯の松之山町は、古くから北越線の開通運動を必死に続けていた。車時代になり、豪雪の中を自由に車が動ける道路整備をと必死に続けた。豪雪克服が住民の悲願であった。北越急行開通、町内道路無雪となり漸く悲願が叶えられた。従兄の元町長は胸を張って無雪道路計画を話したが、計画は達成出来た。冬、山のような雪の壁の中、高温の湯に浸る事が可能になった。
松之山町には親戚があるので、子供の頃に魚沼の山中から山を越えて同じ山中に遊びに行った。冬は国道117号線から信濃川を渡り、『しかわたり』から雪の峠を二つ越えて松之山町にはいった。慣れているとはいえ、長靴での雪道は辛かった記憶がある。
敗戦後、病後であった事もあって『湯本鷹の湯』に数日間逗留した事があった。温泉はどんなものか、全く知らない。家の風呂を大型にしたもの、そんな程度の温泉知識しかなかったので、朝から晩まで十三回入浴。その晩から下痢して寝込んで仕舞い、楽しみにしていた親類宅の夕食招待を断り、伯母に散々笑われた。以後、温泉の入浴回数は、一日六回迄と決めている。高温で、食塩濃度の殊更高い松之山温泉は、せいぜい一日三回の入浴が至適と宿の女衆に教えられた。温泉での湯治入浴では、一般に午前に一回、午後一回、就寝前に一回が普通であると。但し、就寝前に一回は直前で無い方が良いと言いますが? 勤務医時代、三カ月余り入院し、退院後、リハビリの積もりもあって、栃尾又温泉に自炊しながら湯治と酒落た。
栃尾又温泉は、冷泉に近いので、寝湯。湯槽の縁に用意された解剖台の木枕(のような)に頭を載せ、朝を迎えた。下痢はしませんでした。その後数日間逗留、快適でした。
車で松之山町に入るのも出るのも難しい事はない。道は多く冬季間も無雪ですので入りやすいし、出やすいのですが、道の分岐が多く、方向を間違う事が多いので注意。十日町に出る積もりが何時の問にか直江津に出て仕舞う事があります。私は二回失敗しました。注意!!
柏崎・岡野町より・国道252号線、又は国道353号線。目標は松之山町役場(十日町市松之山支所?)のある浦田口が中心。国道353号線から山方向(傾斜の高い方)に入れば、「兎口温泉・じようもんの湯」に着きます。郵便局近くから、国道353号線は分岐し、谷向かいに下る。南に直進すれば県道80号線となり、峠に登り湯山「湯山温泉」。県道は崖道となり下り、下り着いたところから谷間に入る。
「松之山温泉湯本」。深い谷間、道路左に「越道川」(湯本川)が流れ、道は狭く、両側は旅館や土産物屋が並ぶ。湯本の道は、以前、行き止まりであったが、現在は湯煙を上げる源泉二号井の脇を抜け、急坂をのぼり雑木林の中を行くと「湯峠」「大松山六七二米」から兎口温泉方面に抜けられる。
県道80号線を湯本(鷹の湯)に入らず直進、問もなく山際に「鏡の湯」。
更に直進すると国道405号線に合う。国道405号線は南に安塚町、東に津南町に出る。
直江津・高田・国道253号線、405号線から403号線(松之山街道)。
十日町市・国道117号線、国道253号線、403号線、松代経由国道353号線、県道80号線。
津南町・国道353号線。
松之山温泉は湯本を中心に湯に浸り廻って歩くのも一興。(続く)
「子狐ヘレン」はこの3月に封切りの於竹映画の題名。先月家人と県央シネマでJ.フォスターが主演のサスペンス映画「フライトプラン」を見に行った際、予告編のスポットを見ました。もうその数分間だけで家人とふたり涙ぐんでしまいました。
「こりや、泣かされそうで見に来られないな。」と苦笑です。
予告編によれば、竹田津実(たけたづみのる)さんの「子狐ヘレンの残したもの」という原作本の映画化だそうです。竹田津さんならその著作を以前から知っています。彼は北海道に働く現役の獣医さん。九州の出身ですが、大学卒業後に北海道で獣医をされながらすぐれた自然写真家、著作家でもあります。また自然保護活動にも取り組まれているようです。著作でわたしのお気に入りは動物の写真が大人にも愉しい科学絵本「森のお医者さん」シリーズ(国土社)の3冊です。
同じ北海道にはテレビ番組でも評判だった動物王国の主、ムツゴロウこと畑正憲さんがいます。このひとの読み物もおもしろいです。とくにお薦めは「ムツゴロウの青春記」。ちなみに『二大青春記』はこれと北杜夫「どくとるマンボウ青春記」…わたしの独断ですが。この方は東大理学部卒で獣医さんではなく、あくまで動物好きの個人趣味が超拡大したもの。
むしろ竹田津さんは英国ヨークシャー地方の開業獣医であった、獣医奮戦記の主人公であるJ.ヘリオット先生に似ています。その診療の苦労は飼い主たる人間、患者の動物の性格もおもしろく描かれ愉快です。
じつはわたしがこどもの頃に大きくなってなりたかった憧れの人物はドリトル先生。井伏鱒二の名訳(岩波書店)で有名ですが、英国のH.ロフティングの動物と話ができるお医者さんの物語です。全12冊のシリーズですが、原書のペーパーバックもあわせて、ぼろぼろになるとまた購入を繰り返している愛読書です。40年前の小学校の卒業文集に将来の抱負に、当時本命のドリトル先生の代わりによい子ぶりっ子して「シュバイツァー博士のようなお医者さんになりたい」と書いてしまったことを今も後悔しているわたしです。現在ではいくつかの外国語は片言理解できますが、まったく動物語はできません。たださいわいに体型だけは、ロフティングの措く挿絵のまるまるとしたドリトル先生によく似ております。
さて書店の新刊書コーナーでこの竹田津実さんの「オホーツクの十二ケ月」−森の獣医のナチュラリスト日記−を見つけました。奥付けは2006年3月25日、福音館書店発行。すてきな動物や自然の写真を混じえて、身辺の季節の話題が淡々と語られてゆきます。
出張の帰路の新幹線の車中でさっそくに読み進めます。60頁過ぎで思いがけず子狐ヘレンの話題。拾われたキタキツネのちびが目も見えず耳も聞こえず、かのヘレン=ケラーから、その名がつけられます。食べ物を受け付けずに弱ってその短い生を終える。奥さんに抱かれ看取られる写真に涙が…。昼の新幹線車中で本を片手にハンカチに涙している中年男の図。かっこわりいー。
家人が先日近所の涙もろいYさんと映画の話をしたら「子狐ヘレン」の題名を問いただけで、スーパーの店頭で涙ぐんだそうです。このY家も昨年愛犬がなくなったばかり。
というわけでこんな泣かせる映画は映画館には絶対見に行かないつもりです。なんだ、そりゃ?