長岡市医師会たより No.314 2006.5

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もくじ

 表紙絵 「朝の幸町公園」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た〜その6」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「山と温泉48〜その45」 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「土佐の播磨屋橋」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



朝の幸町公園   丸岡 稔(丸岡医院)


タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た〜その6

田村康二(悠遊健康村病院)

 マサイの観光村

 オルドバイ渓谷を後回しにして、セレンゲティ国立公園に向ってひたすら山を下っていった。やがて辺り一面は枯れ草に覆われたサバンナになった。2時間ほど走った所でトイレ休憩となった。そこで「もう少し走ると、マサイの観光村に着きます。そこでは写真をいくらとっても大丈夫ですよ」という説明をうけた。広い野中の道を走っていると、ふと通りが交差している所へさしかかり、車がいきなり止まった。すると何処からともなく、マサイ族が現われて車を左へ誘導し始めた。間もなく緩やかな坂の下に彼らの部落が見えてきた。
 マサイは自分達の伝統的な生活に固執している。だから外界との接触は未だに限られているらしい。彼らは旅行者に写真を取られることを極端に嫌っている。「マサイ族の写真を無許可で撮ると一斉に石を投げられますから、注意してください!」とガイドから繰り返し忠告された。それでも部族によっては自分達の生活を見せて、観光収入を得ようとしている。それがマサイの観光村だ。入場料が一人当たり20ドルと高額なので、我々一同は彼らにとってよい収入となっただろう。
 マサイ族はここまでにも時折サバンナで見かけた。牛の群れを迫って移動している姿はかつて死海の高地で求めた旧約聖書時代の羊飼いの像によく似ている。かれらは貧しい食生活のせいで例外なくやせこけているが、不思議に背は非常に高い。そうして古タイヤで作ったサンダルを履いている。しかし我々のサファリカーには滅多には近付いて来ない。そのマサイに身近に接することができるのが、この観光村である。観光客やマサイと野生動物の共存の難しさを表している場所でもある。

 観光を売りものにする村

 村の入り口で、先ず酋長が流暢な見事なクイーンズ・イングリッシュで歓迎の言葉を話した。その後の対応から察すると、彼は流石に相当な教養がある人物だと思えた。流暢な英語を使って様々なことを話せるのは、立派な高等教育を受けている証拠とみた。先ず入り口には老人達が並んで腰掛けている。若者達〜モランと呼ばれている人〜は揃って男女別に分かれて迎えてくれる。30人ぐらいの長身揃いの男性達は、独特な甲高い掛け声を掛けながら有名なマサイ・ダンスを見せてくれる(写真)。垂直に1m位はらくらくと飛び上がって踊るのには驚かされる。一方の女性群は一列に横に並んでラインダンスをしながら、何やら歌を綺麗に合唱してくれる。家内と手を組んで踊ってくれたりもする。実に楽しい歓迎ぶりであった。
 次いで数人ずつ分かれて、かれらの住居内へと案内してくれた。家は潅木と牛の糞でできている。入った時には狭い家屋の中では暗がりで中はよく見えなかった。暗闇のなかでマサイの若者の白い日だけが異様に輝いているのが印象的だった。彼らの視力は5.0位もあるというが、この白目があるからかなと思った。私たちを自宅に案内してくれた若者は、ツアー客の誰よりも流暢な第一外国語である英語で質疑応答をしてくれたのは面白かった。ひとしきりマサイの生活をみせてくれた後では、自分達の手工芸品が並ぶ売り場へ案内してくれた。ふと酋長の胸元を見ると動物の大きな歯がぶら下げてあった。「それは何の歯ですか?」と訊ねたら。「ライオンの歯です。ここにある歯は私が殺したライオンからとった物です」と胸を張って説明してくれた。そこで求めた長さ5cm位の歯は、今では我が家の女王様である家内の胸元を飾っている

 都市と農村の暮らし振りをみる

 約10年ほど前にWHOから招かれてロンドンでのシンポジウム「都市と農村」で講演した。招待状を受け取った時に、社会学者ではない私が何でこのような会に招かれたのか?と不思議に思ったのである。その後に会の案内を手にしたら、農村から都市への人口集中が都市での貧困と病気を起こしているのでこの点を検討したいというのが会の主旨と分った。韓国のソウル、中国の北京、メキシコのメキシコ市、ケニアのナイロビ市等が、問題の都市として取り上げられていた。私が研究している「時間と病気、時間医学」をもとに、自然の時間で暮す農民の病(農村病)と人工的な時間で暮す都市居住者の病(都市病、文明病)との差異についての講演を頼まれたのである。
 その後間もなく第1回アフリカ時間生物学会の設立の記念講演をケニアのナイロビ市でするように頼まれた。この時の学会の主題の一つは都市化の問題であった。しかし余りにもナイロビ市の治安状態が悪いといわれて、この時は招待を辞退した思い出がある。
 タンザニアでは、内陸部に400km入った新しい都市ドドマ市に、ダニエスサラーム市からの首都移転が現在進められている。今の首都・ダニエスサラームヘの人口集中を避けるためである。通り過ぎたケニアの首都・ナイロビ市とその周辺にはケニアの人口3,000万人のうち85%くらいが暮らしているという。この地方から都市への人口流入は大きな社会問題となっている。人口の急増に対応するための各種都市行政、土地管理、給水管理、下水道管理、廃棄物処理、保健衛生等が十分に整備されていないことも問題である。日本でも東京への人口の過度の集中は、やがて国力を削いでしまうだろうと思う。
 西欧の近代文明に染まることなく、自然な田舎でいまなお暮しているのがタンザニアのマサイ族だ。マサイとはマ一言語を話す人々という意味だ。その数は30万から40万人もいる。そのうちンゴロンゴロ周辺には約4万人が住んでいる。彼らは固有の宗教を持っていて、伝統的に羊と山羊の牧畜で暮らしているので、年中緑を求めて移住している。乳とヨーグルトが主食である。マサイ族は単一の部族というより、歴史的・社会的に形成された部族の集まりの総称である。彼らにとって“真のマサイ”とは、“牛を飼う者”である。マサイ族は自分たちの神話のなかで、地上のすべての牛は神からマサイに与えられたと思っているので、その牛を略奪するために他部族を襲撃することがあるので、昔から東アフリカ一帯で恐れられている。

 家族とは?若者と年寄りとは?

 「マサイの年寄りは、どのように扱われていますか?」とガイドに尋ねた。「マサイでは年をとっている者は、尊敬される対象です。更にスワヒリ語のことわざに“年よりを笑ってはいけない。同じように自分が年よりになったとき笑われるようになる”というマサイの戒めがあります」と答えてくれた。「マサイは都会でも社会の一線から退いた後もお年よりがいつまでも実権を持っているのです。核家族化の傾向があるといっても、まだまだ、子どもが同居して親の老後の面倒をみることを、社会も親自身も期待しています」という。日本であったという戦前の家族の姿をみるようだ。敗戦時の占領政策により家族制度が壊された日本の現代社会では、かつてはマサイのようだった家族制度は既に崩壊している。
 私の母親も94歳まで独居を希望していた。例え本人のわがままであろうと、自立性は尊重されねばならない。しかし自立したままで生涯を送れる人はまずいまい。だからある時に突然扶養義務や介護を放棄しないことが、子供に倫理的に求められてくる。これは現在の老後の暮し方での大きな矛盾である。日本が社会福祉のお手本としているフィンランドでは、子の親に対する扶養義務が1970年に法的に廃止された。元々遺伝子の内の利他的遺伝子は親をして子の養育をさせるが、子には親孝行という遺伝子は無いのだ。いずれ日本でも西欧社会に慣らって、扶養義務は法的にも倫理的にも無くなるのであろう。我が行く末は西欧式にならざるを得ないと覚悟している。
 チンパンジーの寿命の約2倍にもなる70歳という年齢になった我が身を考えている。その1つは「ヒトには老後があるが、サルにはない」ことだろう。生物はすべて、子孫繁栄を目的として生きている。言い換えれば、子孫を作りさえすれば目的は達成されることになる。ヒトと99%は同じ遺伝子をもつチンパンジーも子を産むとその後約5年(40歳以前)で死を迎える。だが、ヒトは違う。ヒトは密林での生活をすててサバンナに二本足で降りた。そこで自由になった前足で道具を生み、言語や文字を作り遺伝子では伝えられない情報である記憶を次世代に伝えられるようになった。だから例え、繁殖する能力を失っていても、ヒトの叡智を次世代に伝えるべく老後が存在すると考えられている。私は医師としては既に半隠居している。あのローマ法王ですら、全てのカトリック司教は75歳までには引退するよう強くもとめる訓令をだしているからだ。しかし文筆は人に与えられた老後の務めだろうと考えて、こうして筆を執っている。

 マサイ部落での生活ぶり

 マサイ族は他の諸部族より人数が多いわけではない。かれらの襲撃戦力はその美貌と勇敢さで知られる年齢階梯的な戦士階梯モラン達の力にある。マサイの年齢階梯は、大きく未成年・戦士(モラン)・長老・老人の四つに分かれている。モランはまだ結婚を許されぬ階梯で、長老たちとは対立する存在である。神から選ばれた印としての恍惚状態と不服従を美学とするモランを導くことができるのは、世襲的な予言者だけである。部族の長は勇気があり予言者が認める着でその持つ富、つまり牛の数の多さ、で決まってくる。彼らにとって“真のマサイ”とは“牛を飼う者”であり“農耕民となった部族はマサイとはみなされず”また鍛冶屋など職人氏族はマサイのなかで穢れた者とされているらしい。
 ライオン狩は現在では公式には禁じられているので、めったに行われないらしい。かつてはライオンを狩ることは英雄になるための通過儀礼だったが、ライオンが少なくなったため、この儀式にこだわっていては戦士がもう生まれないという。しかし、マサイ族が命の次に大切にしている家畜を殺された時には、禁令に反していまだにライオン狩りを行っているようだ。マサイ族の生き方は自給自足して自然環境を守っていることであり、それが滅びないための知恵だということを教えてくれた。

 人の血統

 そこでガイドのマエダさんに問いてみた「マエダさん、馬でも犬でも純系は優れていますよね」「その通りです」と彼は言う。「じや、人類の純系に最も近いあなたがたは他の我々のような雑種と比べて何が優れているのでしょうか?」と尋ねた。博学なマエダさんも、「?」とこの問いには答えてくれなかった。
 血統という漠然としたものを、例えばどう馬券予想に生かせばよいか?それはひとくくりに考えることだと予想屋はいう。「お父さんが同じ馬はだいたい似たような性格の馬と捉えてみることです。馬の一頭、一頭の能力や性格を把握するだけのデータと時間があれば、そんなことしなくてもいいでしょう。しかし例えば、名馬マイネルラヴはスピードこそは超1級だが揉まれると案外弱いとか、キングヘイローは流れに乗れないと大ボケするとか予想が立つのです。しかし出走する馬の数は膨大で重賞クラスの馬ならまだしも、未勝利クラスになるとそんな馬一頭、一頭の能力や性格まで把握しきれるはずはありません。だから出走してくる馬のお父さんを考えれば、せいぜい数十種類で、血統から予想すれば数種類で済むわけです。だから馬では血統をみます」そこで人の純系としての血統も馬に習って考えて見たい。
 おそらく純系の持つ能力は、(1)劣悪な自然のなかでも食物を確保できる、(2)子孫を安全に繁栄させられる、(3)外敵からの防御に長けているなどにあるのだろう。我々は新人(ホモ・サピエンス)と呼ばれているが、既に始まっている大氷河期には我々新人は絶滅して、いずれかつてのネアンデルタール人のように化石化した“旧人”と呼ばれるだろうと全ての人類学者達は考えている。歴史的に繰り返されてきた人類交代劇はそろそろ始まっているのである。近くに到来すると予測されている大氷河期には、現在の我々の新人(ホモ・サピエンス)に代わって、再びより優れた脳の処理能力を持つ新しい人類が目前にいるマサイ族やピグミー族の問から生まれてくるだろうと推測をしてみた。進化の時計は加速度的に早回りしているのだ。そんな事を考えながら、マサイの部落を眺めた。これは前から出版社から頼まれている時間医学をもとにしたタイム・マシンのSF小説のネタになりそうだと思った。
 部落の裏手には、20人くらいの幼稚園児くらいの子供達が集まっていた。そこは野天の木陰の下にある学校があった。〔Twinkle twinkle little star...〕歌って歓迎してくれた。私はこのために持参した筆記用具やノート類を、先生に直接寄付した。すると酋長は机の上におかれた品物を私せず、手も触れずにただ眺めて大変喜んでくれた。後で聞くと「酋長に直接ボール・ペンを進呈したら、自分の懐にしまい込んで子供には行きませんでした」という方がおられた。そこで以前にペルーでの体験を伝えた。ペルーのチチカカ湖には、湖上で生活しているインディオがいる。アメリカのガイド・ブックによると、こう書いてあった 「フジモリ元大統領はこの地の手芸産業を育成した。それはインディオたちが手芸労働により観光客から正当な料金を受け取る仕組みを作りたかったからだ。いかにインディオが貧しくても観光客からのお恵みのお金やお菓子を貰っては、彼らは乞食になってしまう。だから観光客は彼らへのお恵みをしないで欲しい。彼らが作った手工芸品を買って上げて欲しい。」
 しかし、日本からご一緒した観光客達は、インディオ達に挙ってキャンデーやら小銭を与えていた。現地のガイドにアメリカのガイドブックの話をしたら「その通りなのです。だからフジモリさんはこの地では失脚後も絶対の信奉をえているのです。しかし、この話を皆さんにする前に、既に“施し”を始めてしまったんです。残念でした」と唇を噛んでいたのである。日本の後進国への医療支援の多くは私の知る限りではこのお恵み型である。これでは現地の人々の医療や福祉には役立たないばかりか、現地の識者の反感を買うだけになるだろう。マサイにとっても必要なことは教育であり、そのために私が寄付した少しばかりの文房具が役立つことを願っている。

 旅の安全性を心配する

 個人旅行はツアー旅行よりも不経済であり、行動も限られてしまう。現役の時はツアー旅行をしたことがなかった。他人と歩調を合わせて長旅することは苦手だし、目的とする旅に巧く合うツアーも見つからなかったからだ。そこで現地では必要に応じてガイドを手配して貰い観光は済ませていた。しかし半隠居している今の生活は実に自由なので、目的に適うツアーが選べるようになった。ツアー旅行してみると、このガイド付きの旅行は実に快適である。日本のツアー・ガイドは実に有能な人が多くて、ツアー客をまるで幼稚園児を引率する先生の様に至れり尽くせりで案内してくれる。

1)旅行保険、事故・外傷

 サバンナを走っているときに、一度車が窪地に突っ込んでしまった。このとき車の天井に頭をしたたかに打ちつけた。実はその瞬間には、うとうとしていたので何がおきたのかが咄嵯には分らなかった。幸いいまだに頭部外傷の後遺症は無いようだ。発展途上国に限らず移動中の車の事故が怖い。ご参考までにいえば海外旅行保険はアメリカの保険に限る。今回のように発展途上国に行くときには特に注意しなくてはならない。こういう国の僻地で病気になったらどうしようもないだろうからだ。だから今回ももし事故に巻き込まれたら直ちにチャーターしたヘリコプターで信頼できる医療施設に搬送し、更には日本へ移送してもらえる保険契約を特別に契約しておいた。こういう保険を使うような事故に遭わなかったのは幸いだった。
 この地で一番怖いのはライオンよりも密猟者だという。ここでは野生動物を狩ることは禁じられているが、実際には年間20万頭もの動物が犠牲になっている。この密猟者達はときに強盗に変わりうるので危険この上もない輩である。

2)風土病、病気

 タンザニアでは蚊が媒介する病気が多い。そこで蚊への防御服、蚊帳、蚊取線香、電池式蚊取線香、携帯用渦巻き蚊取線香、嫌気剤などとあらゆる準備をした。水や食物には十分に注意した。しかし、前に述べたように一度は下痢をした。ロペミンとラックBを飲んだら一晩で治ったので腸管の感染ではなさそうだった。しかし、原因は分からなかった。同じものを食べても家内はいつも下痢しないのも不思議だ。「あなたは、自分の虚弱を売りものにしているから」と笑われるともうどうしようもない。こういうのを旅行者下痢症などともっともらしい病名をつけるのだろう。一行のうちでどうも男性は皆一度ならず下痢を経験したようだ。所でツアーでは今では自己紹介はしなくなった。男女のカップルが夫婦でないことなぞ稀ではないからだろう。私は特に自分が医師であることは言わないことにしている。外国で医療行為をすれば例え善意からでも問題が起きうるからである。だからツアー客で発病した人を見るのは辛いことがある。しかし、これは止むをえないことだ。
(続く)

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山と温泉48〜その45  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

 鷹の湯・湯本温泉の無残

 松之山温泉の中でも古い「鷹の湯」は、自然湧出の湯であったが、利用する湯量が増えたため、ボーリングするようになった。昭和39年ボーリング、一号泉では、深度182米で、温度98度。二号泉は、深度263米で89度、共に含硼酸塩化土類食塩泉と「新潟温泉風土記」にある。現在も、湯本川の川辺にある二号泉は、白い噴煙を上げている。最近、三号泉掘削の計画があると言う。
 温泉とは、と言うと堅苦しいが、「温泉」自然に湧き出し、または、人工的に汲み出したとき、その地域の平均気温よりも高い水温をもつ地下水で場所によって平均気温が異なるため、わが国では、摂氏25度以上と決められている。(『日本国語大辞典』)
 昭和23(1948)年、温泉法が制定されている。この法律では、自然湧出される地下水とされている。一般に、25度より低い場合は、冷泉、また鉱泉とも呼称されている。さらに、温泉法第二条には「温泉・温泉源の意義」として「地中から湧出する温水、鉱水及び水蒸気その他のガス(炭酸水素を主成分とする天然ガスを除く)で、別表に掲げる温度又は物質を有するものを言う。」(松田忠徳氏の『温泉教授の温泉ゼミナール』)。物質は18種類としています。昭和53年、療養温泉として、更に追加、改正されています。島津光夫氏の『新潟温泉風土記』など、温泉の本は沢山ありますので御覧ください。
 温泉の開湯話は伝説の域を出ません。鉱物資源開発(水資源も含めた地下資源)の途中で湯が出たもの、現在のような温泉発掘の目的で開湯されたものを除き、自然湧出の温泉は、動物、鳥類開湯伝説が多い。杣人(そまびと)、猟師、修験者、修業僧が、動物の湯浴みを目撃する事が多い。又、修業僧(旅僧・修験者を含めて)は、火山の噴煙近くの温泉開湯が多いのは日本諸国の鉱物探査、諸国の情報探査が本来の秘用秘命で、同時に温泉発見があったと言うのです。諸国行脚に必要な手形は、旅僧侶には不要の特権があったのです。
 松之山温泉、湯本温泉・通称「鷹の湯」の開湯、湯の発見伝説は南北朝時代前期(1336〜1392年)と言われている。伝説は、湯本川の谷底に舞い降りた「鷹」の谷底の岩間から湧出している熟泉で湯浴み姿を見た木樵の話。この話を、木樵から聞いた土地の人たちは、早速に、湯に浸りに谷底へ通う事になったと言う。この伝説から、土地の人達は、古くから「鷹の湯」と呼んでいた。(『松之山町誌』・『松之山町を訪ねて』)この話は、温泉発見伝説として、いろいろな書物に登場する。ところがこの伝説を裏付ける文献が存在した。(詳細は、『桧之山町誌』に記載されている。)明治6年、温泉源の地主と温泉宿宿主との紛争の際、新潟裁判所に提出された上申書に、『松之山温泉の由来と概要』が、伝説としながらも、古い温泉の姿を伝えている。「永和4(1378)年頃ヨリ湧キ出シ、永禄七甲子(1564)年ヨリ温泉役上納致シ候由、土人ノ言ヒ伝へこ候。右年間実際詳ラカナラズ侯。」(『松之山町誌』)
 その後、明治9(1876)年湯本村高頭与忽太は裁判所の求めに応じて「温泉発見ノ事柄、年寄ノ伝説ニヨリ」としながらも、その由来を次のように上申している『松之山町誌』。「該村ノ儀、古ハ雨溝(地名・湯本・上湯)ト唱へ、貞治年間(1362〜1368年)草創ノ土屋庄三郎祖先勧左衛門祖先、両人幽谷渓問ヲ見分セシ処、勃然トシテ湧キ出ル湯アリ両人喜悦シ、コレヲ開発シテ小屋ヲ建テ、近里ノ人ヲ浴サシメ、温泉守護ノ神トシテ少彦名ノ小社ヲ建築セシ由、コレ即チ温泉発見ノ原由卜申ス事二候。永和4(1374)年山崩レノ為、該温泉ロヲ始メ少彦名ノ社マデ土中二埋り、領地頭上杉家へ上申シ、御見分ノ上御普請仰七付ケラレ、近郷ノ助力ヲ請ケ、土石ヲ掘流シ、数年ヲ経テ除カリ元ノ温泉場再興セシトナリ」(『松之山町誌』)
 永和4(1374)年は南北朝時代後期にあたる。この山崩れの話からは、この時代に、温泉場が存在した事になるのです。『松之山町誌』には、これだけ古い時代に、温泉場にして活用されていたかどうか、疑問が残る、としています。
 開湯伝説が文書に記載され、残されている事は珍しい。しかも、伝説ながらきわめて古い、珍しい温泉ではある。
 深い渓谷の岩間から白い煙が見えたら、皆さんならどうしますか。崖上に住む村人は、密かに渓谷に降りたでありましょう。白い煙は、時折冷たい空気のなかに立ち昇っていたのでしょう。時は14世紀、南北朝騒乱時代、入浴がままならぬ時代(入浴習慣の無い時代?)に鳥が傷(創傷?)を癒す湯浴み話は、村人達にひろまります。温泉発見の二人は、岩を掘り起こし、動かし、石を並べ、小屋掛けまでして、人間の湯浴み場を作り上げたのです。そして、近くの村人にこの温泉を利用させたと言います。
 可哀相に鷹はどうなったのでしょうか。
 この源泉は現在の白川屋旅館の裏手であろうと言います(『松之山町を訪ねて』)。
 湯本川の渓谷は温泉発見当時は可成深い渓谷で、川岸は狭く、湯小屋を建てるには苦労したものだろうと想像されます。当然の事ながら、湯小屋は共同浴場であったとされています。湧出する岩間の泉源から、木製樋を使って、湯小屋に引いた簡単なものであったのでしょう。従って、男女の区別はありません。武将の湯治には、湯小屋を別に建てたといいます。『松之山町誌』に「湯小屋は和泉屋旅館の隣にあった。まだ一面川原であり、山裾を縫うように細い道があった。」とある。
 文亀3(1503)年当時の越後守護上杉房能が娘「かみ」の「腫れもの」治療のため、薬効があると信じられた「鷹の湯」で湯治しています。温泉の薬効が近隣では高く評価されて居たものでしょう。この話は、後日、悲劇が加わるのです。守護の娘「かみ」の湯治の4年後、永正4(1507)年、父の越後守護上杉房能は、守護代長尾為景(上杉謙信の父)と争い、府中(現在の直江津)より逐われ、皮肉にも湯本近くの、天水越で、家臣数百人とともに自刃して果てた。現在「管領塚」の石碑がある。善光寺街道が近くにあったにしろ、戦国時代は、武将の湯治、近隣の村人が骨休みに利用するにすぎなかったと思われます。(『松之山町誌』)
 湯治場として活用するようになったのは江戸時代に入ってからのようです。
 江戸時代に入り、湯本村・上湯一帯が、寛文9(1669)年、村山家分家・村山九郎衛なる者に、村山本家より庄屋役・出湯役を譲られ、「鷹の湯」は湯治場として年金二分の出湯役(上納金・税)温泉利用の課税が始まる事になったのです。
 天和元(1681)年、改易となった高田藩にかわり、江戸幕府の直轄地となり、天和2(1863)年に検地が行なわれています。検地担当は信州松代藩真田伊豆守、更に、元禄11年再度検地が行なわれ、公儀により、湯治場として認められ、泉源、湯小屋の土地所有者(地主)が認められた事になりました。同時に、湯治場には公儀制札を立て、出湯役(上納金・税)徴収を行なっています。
 温泉が実際に、湯治場として活用されたのは、湯小屋の周りに湯治宿が建ち、湯銭をとり、宿代をとり商売として宿を提供する形態となってからです。庄屋は、泉源・湯治場の管理、出湯役(課税)・湯銭の徴収を行なった。庄屋は、湯宿からの湯銭で、出湯役を上納、湯小屋、薬師堂の維持・補修の費用に充てていた。(『松之山町誌』)この頃、温泉の薬効が近隣に知られる処となり、薬湯として近隣だけでなく、京の都まで知れたといいます。現在の高田、直江津、善光寺街道からの旅人、参詣人などの湯治客が次第に増えた。湯治人の増えた事で湯小屋に替わって、宿泊可能な湯宿が増えた。湯小屋では、自炊であった湯治生活が、食事を提供するようになり、湯宿が湯小屋の周りに建てられ、商売として成り立つ事になってゆきます。
 湯小屋時代の湯治は、自炊生活が原則。湯治人の支払うのは、木賃(宿料=薪代・寝具借り賃)及び湯銭(入湯料金・灯明代・出湯役=税)であった。
 逗留は7日間一回で、十五文であったが、百年後の享保年間(1716〜1736)には、木賃・湯銭共で、逗留7日間一回り、一座敷を三百文とある。
 当時、三百文の値段が安いか高いかわからない。「文」は「銭」で、中国唐時代の通貨、中央に穴のある貨幣。江戸時代初期から流通され、明治時代初期に円単位制となり消えた。「十厘を一銭、百銭で一円」とした。
 千文・千銭は一貫(重量単位の基礎)。金貨・銀貨とは流通が異なる。穴に紐を通し、束にしてある。「銭形平次の投げ銭」がこれ。
 江戸時代に入ってから、温泉は公的に認められ、整備され、江戸時代中期でもっとも繁栄した。
 湯治場が整備され、温泉入浴者が多くなると、事件が、争いが起こってくる。
 結論から言うと、泉源と湯治場の土地所有者と湯宿の経営者との、永い確執、争いである。泉源・湯治場を所有、管理する庄屋は同時に、湯銭を各湯小屋、湯宿から徴収し、上納する。公儀に認められた出湯役は、公儀への年貢であるだけに、これを納付する義務者は当然ながら、この土地の支配権が与えられている。庄屋九郎兵衛と、湯宿の宿主との間には、「宿を増やし、宿仲間の営業を妨害しない」こんな意味の不文律があったのでしょう。庄屋九郎兵衛は、この不文律に反したので、ここから確執、争いが始まった。
 享保14(1729)年、宿主側に、致命的と言える事件があった。そして、文政元(1818)年の温泉騒動に繋がって行ったと考えたい。この確執、争いは、昭和29(1954)年12月、当時の湯本温泉の温泉・泉源の権利、土地所有権は、松本市の赤羽氏にあったが、氏より松之山町に譲渡された事で終焉を迎えた。譲渡のきっかけは、同年8月に起こった温泉街を鞣尽くした大火であった。大火後の温泉復興のためには長い間の争いの解決が先と住民の力が原動力として働いた。確執、争いが始まってから、実に140年余後の事である。(『於之山町誌』・『松之山町を訪ねて』)

(続く)

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土佐の播磨屋橋  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 3月下旬に高知で某研究会がありまして、空路で出張してきました。この四国も交通手段としては、九州、沖縄と並んで自分の苦手な飛行機に乗らざるを得ない地域です。
 まだ庭には雪の残る我が家を出発の際も、着て出かける衣類、コートに家人が悩みます。わたしのほうはいたって無頓着。さすがに雪国仕様の長靴は履いて出かけませんが。
「四国は暖かいんでしょうねえ。新聞では気温が22度なんてくらいで実感がありませんものね。」と家人がぼやきながら着替えを用意してくれます。「駅のホームや空港では風があったりするから、薄目のコートで。あなたは暑がりだから、上着やズボンも薄くてしわになりにくいものにしましたから。」
「ヘーい、了解です。」
 まるでこどものようではないかと苦笑される読者がおありでしょう。すみません、わたしほんとに「こどもの医者」なもんですから。
 東京は羽田経由で高知空港まで、ちょうどお昼時のフライトで機内食が出ました。それが新潟のかの「行成亭」の特製弁当で、驚きました。ただしおかずは合格でしたが、肝心のご飯が輸送のための冷蔵で硬くなっており、いまいちでした。
 高知空港からホテルまでのタクシーからは、道路、市街にチューリップ、パンジーなど色鮮やかに咲き乱れる花々、半ズボンの少年など。南国土佐は、雪国のおらが越後より完全に一ケ月半は季節が先行していました。
 飛行機内で走り読みした観光ガイド本によると有名な播磨屋橋が近くにあるようでした。といっても記憶にあるのは高知民謡『よさこい節』の歌の文句だけ。

・・・・とさのこうちのはりまやばしで、ぼうさんかんざしかうをみた。・・・

「運転手さん、はりまや橋に寄って行ってくれますか?」 「はい。」
「お客さん、左に見える赤い橋なんだけれど、停車して渡るかね?」見やれば、ひとまたぎのできそうな(短足でありますから、もののたとえですよ、もちろん。)小さな朱塗りの太鼓橋でした。
「いや一瞬にして全貌が見えた。そのままホテルへお願いします。有名な割には、ちいさい橋ですなあ。」
「そうなんですよ、観光客のかたはみんな驚かれなさる。全国でも観光の三大がっかり名所とか言うんだそうね。」
「あはは、他の二カ所はどこ?」
「たしか札幌の時計台ともうひとつは沖縄の守礼門だったかのう。」
 守礼門はそうでもない気がするが、この播磨屋橋と札幌の時計台はガッテン、ガッテン。
 ホテルから、すぐそばの高知城の木造天守閣に上り、さわやかな風と満開の夕桜を満喫しました。ところで放映中の大河ドラマ「功名が辻」の立身出世男、山内一豊がゲットしたのがこの土佐二十四万石の高知城主の座だったのでした。そんな戦国武将や内助の功の妻千代が馬と並んだややどん臭い印象の銅像が立っていました。……仲間由紀恵の端正な容姿とはかけ離れて。
 ひとり旅の夜は某郷土料理店で名物のどろめ(生のいわしの稚魚)、のれそれ(生のあなごの稚魚)、うつぼのたたき、くじらの刺身など。注文した同店オリジナル「土佐藩の吟醸純米酒」は、成分ラベルに醸造用アルコールとあり、驚きました。それって純米じゃないぜ。結局B級グルメの旅。ただし翌日の学術研究会はAクラスでした、念のため。

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