長岡市医師会たより No.315 2006.6

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もくじ

 表紙絵 「棚田初夏(川西町)」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た〜その7」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「自己紹介」 小幡昌文(立川綜合病院)
 「山と温泉48〜その46」 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「夏よこい。冷えたビールに茹でたてえだまめ。とれたてもろきゅう」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



棚田初夏(川西町)   丸岡 稔(丸岡医院)


タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た〜その7

田村康二(悠遊健康村病院)

 人よりも動物が大切なセレンゲティ国立公園

 マサイ村を後にしてふたたびサバンナの中をまた2時間位走った。やがてセレンゲティ国立公園に到達した。360度見まわたすと遥か地平線の彼方まで果てしない見事な草原が続いている。しかしこの公園には殆んど立ち木が見当たらない。これでは草原に降り立ったヒトはたちまち肉食獣の餌になってしまっただろう。しかしこの広さは何という開放感だろう。その大きさは神奈川県、東京都、千葉県を合わせた位の大きさだと言う。マサイはこの広大な草原を大地がどこまでも続くという意味の「シリンゲト」と名付けた。それが「セレンゲティ」の由来になっている。

 自然の中で生きる

 赤道直下で照り付ける太陽光線は実にキラキラと輝き強烈だ。その恵まれた気候と地形があるセレンゲティ国立公園は世界でも最も野生動物が多く300万頭もいる公園の一つである。2004年には約25万人の観光客が押し寄せて、貧しいタンザニアには貴重な収入源となっている。何しろ入国税が1人50ドルもするのである。一方では公務員の平均月収10,000シリング(約12ドル)の国である。だが人が集まると動物との共存に大きな問題を投げかける。

 時間医学では「自然のなかで心と身体の調和をとることが治療の基本である」と考えている。この自然とは何んだろうか?古代中国や日本の思想では「自然とはただ自ずからある存在である」と考えてきた。しかし「自ずからは何故か?」「何故存在しうるのか?」という重要な問題は考えてこなかった。だから自然の中で暮らすとは、あくまでも存在している自然に身を委ねて暮らすことを意味している。古代中国でいう仙人の暮らしとはその代表的な例であろう。
 これに対して西欧のNatureという考えでは、ギリシア以来「自然は或る一定の規則性の元で存在している」と考えてきた。だから自然とNatureとは、実は全く違う思想である。この差は時間医学を説いても、日本の学者には容易に理解して貰えない一つの障碍となっている。いわんやマルクス・レーニン主義しか信奉していない現代中国の医師達には、到底理解できないことであろう。
 だから「自然と共生して暮らす」という考えは、西欧と日本では全く異なっている。タンザニアは英国の植民地であったので、マサイ族・野生動物・観光客の三つが共生してゆく考えには、Natureの考えがある。植民地時代にはセレンゲティで野生動物を保護するという考えはなかったらしい。そこで1980年代にはゾウは絶滅寸前に追い込まれた。しかし今では2,000頭を越すまでに回復している。一時これまた絶滅状態にあったライオンも3,500頭以上に回復してきた。
 この広大な公園の中をランクルで走ってると、インパラ、ガゼル、キリン、水牛などが決められた車道の左右の至る所でみられるような野生動物の天国に回復してきている。今では手つかずにいる自然へ回復して、生態系が一定の規則性のもとで機能しているようになってきた。だからこの地こそ自然の中で心と身体の調和を取れる場所だと思えた。
 しかし野生動物と人間が巧く共存できる未来はこれからだろう。かつてこの地は人もまばらであり、野生動物も狩られることなく暮らしやすいところであった。しかし20世紀に入るとケニアとタンザニアは人口が急増してきた。その主な理由は各々の国が独立後、狩猟生活から農耕生活に変貌してきたことによる。農耕生活は生活の安定をもたらしたが、同時にサバンナを焼き払い、森林をなぎ倒して農地を拡張するという自然破壊をもたらした。
 セレンゲティが国立公園に指定された後も、肉や皮を得るための狩猟や人の活動が盛んになってきた。そこで国立公園は周囲から押し寄せてくる人の波の中に取り残された野生動物の島と化したのである。

 野生動物とマサイ族との摩擦

 タンザニアは長引いた共産主義のために貧しい農業国となっている。しかし平和裏に共産主義を捨てて民主主義に移行してからは、繁栄への道にあるという。実はガイドにきくとタンザニアの地下の鉱物資源は石油を含めて豊富らしい。しかしナイジェリアのように鉱物資源、特に石油、で列強の勢力争いに巻き込まれることを避けて開発は中止されているのだという説明を受けた。だから日本企業も今の内からこの資源を狙って参入している。
 タンザニアでは自然を保護する国策で国土の1/4が自然保護区に指定された。マサイ族がかつては気ままに常的に採っていた植物や動物の採取が一方的に禁じられた。セレンゲティの公園内に侵入して調理用に森林を伐採し、野生動物を密猟することが絶え間なく起きる様になつた。しかし耕地は僅かに国土の5%しかない。だからまずマサイ族が変わってきた。狩猟から農耕へと移行するにつれて、これまで接触してこなかった外部社会の影響を嫌でも受けざるをえなくなった。そのことは伝統的なマサイの衣装の下にスニーカーを履いたり、TシャツとGパンの若者が増えているのを見ても分かる。
 もう1つの問題は、世界中からこの野生動物の最後の楽園を目指して増え続ける私たちのような観光客である。現地ガイドの一人、ヨナさん、は獣医で筑波大学へ留学した経験者だ。だから日本という国はよく承知している。しかし多くの国民は日本を知らない。地球の反対側から彼らにとっては驚くような巨額をかけて、わざわざライオンを見に来るなどは考えにくいだろう。しかし現実的には観光客は彼らの大きな収入源となっている。すると観光客の与える影響もまた大きい。
 この公園から狩猟と農業を無くす対策が考えられている。その対策には二つある。一つは野生動物を二分化する対策だ。まず狩猟できない野生動物の生息地では観光客は銃をカメラに換えて観光する。しかし増え過ぎる野生動物が人の生活を脅かす事態も生じてきた。こうして野生動物と人との間のあつれきは増してきた。そこで狩猟できるリザーブズと名付けられた生息地がある。こごでは観光客は銃の獲物にした動物毎に一定の料金を払うしくみになっている。これは狩猟民族である欧米人には好評である。こうして得た収入で生態系を崩さないで地元経済への援助ができるという。得た資金はマサイの生活援助、野生動物の保護、公園の維持・管理などに使われている。
 二つめには金持ちの観光客からもう一層の利益を上げようとする試みである。観光客の数が増えると、自然公園の維持が難しくなる。そこで観光客の一人あたりの単価を上げようと目論んでいる。まずロッジは2連泊以上を禁じる。その上で今でも1泊300ドル以上もする宿賃を1,000から1,500ドルに値上げしようと計画している。それでも日本を含めお金持ちの観光客は世界中から殺到してくるだろうと踏んでいる。だからツアー料金が高騰する前にこの地を訪れることをお勧めしたい。

 サファリに行く

 夕暮れまでは様々な野生動物に出会うサファリをした。「サファリってな〜に?」元来はスワヒリ語で“出掛ける”と言う動詞が名詞化されて使われている。今やこの言葉は世界中で使用されるほど有名になった。もとのスワヒリ語では野生動物を見るために車や徒歩で移動する事や、ちょっとした旅へ出掛ける際の意味に使用されているのである。
 その夜からは小高い丘の中腹にある眺めの良い快適なセレンゲティの宿(Serengeti Sopa Lodge)に2泊した。宿は実に立派である。「このような施設への給水や排水問題はどうなっているのでしょうか?」と尋ねた。「それが大問題なのです。自然との共存は難しいのです」と答えてくれた。日本でも富士山への登山客のし尿の処理が大きな問題となっていることからも、共存の難しさは推測できる。問題は観光客に留まらない。タンザニアでは1960年の独立以降、農業に従事して定住する人々が増えたので、人口は急増して3倍に膨れ上がっている。その人々がこのサバンナに広がってくるのも問題だという。WHOでの医療の最大のテーマは人口問題だと言うのもうなずける。マサイにとって自然保護と農業は相容れないことになっている。だからここでは動物のほうが人間よりも尊重されているのが現実である。
 日の出とともにサファリは始まった。赤道直下とはいえ標高1,000mを超す高原地帯の朝は肌寒い。朝日が広い草原に徐々に広がって行く時、ここで爽やかな風を感じるだけでもはるばる来た甲斐があると思う。シマウマは十数頭が群れを成している。シマウマの近くにはヌーの大群がいる。シマウマは草の上の部分をたべ、ヌーはその下部を食べるので互いが共存しているという。少し走ると1mぐらいの高さがある蟻塚の上に豹がいた。足が速い豹でさえエサにありつけるのは1週間に1度位らしい。10m位に近付いてもびくともしない。ランクルに乗っている我々を全く無視して、エサを探しているのだ。だが、見つからない。この様な地では生きて行くのは肉食獣でも大変だ。
 ここでの主役はライオン、豹、犀、象だ。オスとメスの夫婦はどの動物でも家族の元である。オスとメスや家族の関係は動物では一様ではない。草原を走っていたら、突然象の大群に遭遇した。少なくとも50頭位はいる。我々の車が近づくと、たちまちオス象の数頭は横に並んでメスと子供の群れを守る態勢をとる。「象は敏感ですから、声を立てないで下さい。興奮すると彼らはこの車を一斉に襲ってきますから」と注意される。

 食べ物が逃げてゆく

 ライオンの狩をみていて始めて気付いたことは、“ライオンがエサの動物を追う”こととは客観的な視点だ。しかしライオンの主観的な目から見ると、“食べ物は何時もドンドンと先へ先へと逃げてゆくもの”ということになる。サルで肉を追えた者のみが、ヒトになれたという。現代では「歳月人を待たず」「自然は早く移り行く」等と言う言いかたをする。だから我々は目的とするものを、時間と共に常に変わるものを追い駆けて掴もうとしているといえる。それは食べ物であり、異性であり、物と言う限に見えるものである。しかし限に見えないものも追っかけている。それは夢、希望、愛、理想、幸福などではなかろうか?それを掴むには一際優れた「加速度」が必要だ。ゆっくりと歩く「速度」で、ふと道端でこれらを拾える機会に出くわすことはまずあるまい。だからヒトでもライオンの視点を持てる前向きの者こそが、指導者としての資格を持っているといえると痛感した。医学でも医療界でもそういう資質をもっている人こそが貴重なのだ。

 「追い駆けて、追い駆けぇて、追い駆けぇーて」

 ライオン達が食べ物の動物を追っていた。ガイドが「ライオンの下腹を見てください。痩せて肋骨がみえるでしょう。彼らはもう1週間以上も餌にありつけないので、飢えているのです。この機を逃すと飢え死にするかもしれないので、必死です」と解説してくれた。百獣の王・ライオンといえども、必死に逃げてゆく動物を命を賭けて追い駆けて行く。捕まえなければ生き延びれない。それに失敗すれば餓死するのみだ。だから一人勝ちのない自然界で生き延びることは実に過酷なのである。
 その彼らがつけ狙っていた1頭のバッファローをついに倒すという驚くべき光景を日にした。ライオンはメスが狩をする。3頭のライオンが逃げるバッファローに左右から同時に襲い掛かった。さしものバッファローの巨体もどさりと倒れた。「凄いもんだな!」と一同あっけに取られる。ライオンの走りは初めは早く走れるが継続して走る走行距離は限られている。だから餌を捕るのはスタート・ダッシュで決まる。この瞬間を免れれば、餌の動物は逃げ延びられるのだ。
 オスは何時もメスの後から狩に駆けつける。「ライオンのオスは、気楽なもんだね」と眩いた人が居た。そのオスライオンが単に寄ってきた。みると左の後ろ足を怪我して引きずりながら歩いている。車の直前を足を引きずりながら横切って反対側の水辺に行く。「やがて群れの外から監視していた別のオスライオンがくるので、このオス同士の戦いになるのです。勝敗は目に見えているでしょう。その後は勝者がマスオさんという気楽な位置に納まる仕組みになっています。だから弱肉強食の世界のオスは大変ですよ」と日本から一緒に来ている勇ましい女性のガイドが、我々男性一同に釘をさした。ここサバンナでは絶えず命は循環している自然の摂理を見て取れる。ヒトの社会でも男女の役割が激変しているが、こうした動物の社会生物学の現場を見ていると、改めてヒトのジェンダーの問題についても考えさせられる。(続く)

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自己紹介  小幡昌文(立川綜合病院)

 はじめまして。出身は新発田市で、県立新発田高校、埼玉医科大学を卒業し、耳鼻咽喉科医になって10年目であります。この度当地に勤務することとなりまして、病院の方からのお勧めもあり入会させていただくことにしました。所属は新潟大学耳鼻咽喉科学教室で、今年4月から出張医として立川綜合病院耳鼻咽喉科に派遣されております。当地長岡市に来て約2ケ月が過ぎようとしておりますが、毎日がただただ忙しくあっという間に過ぎてしまい、人口の多い長岡にきているのだなという感じがします。県内の耳鼻咽喉科医の少ない状況のなかで長岡市は常勤医のいる病院が三つありこれもまた心強い限りです。それでもなお私のポケベルは時間外によくなってくれます。社会に必要とされているのだなと実感します。
 人にはなぜ病む人と病まない人がいるのでしょうか。私に答えは出せませんが、ある確率で病む人が出るのは人類にとって避けられないことなのでしょう。そうであるならば、たまたま病まずにすんでいる我々がお世話をするのは当然なのかもしれません。
 休日には家族と一緒に過ごしたり、自分の道楽として日本刀剣保存協会長岡支部の鑑賞会に参加したり、市内の柏町にある某刀剣店に寄せてもらったりしています。
 このような形で長岡に来て公私とも充実した日々を過ごしております。
 このような私ですがどうぞよろしくお願いいたします。


山と温泉48〜その46  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

 松之山町誌を参考に、争いの経緯を解り易くするため、年譜にしてみる。

貞治年間(1362〜68年) 開湯?
永和4(1378)年 南北長時期 山崩れ。泉源、湯治場破壊。
寛文9(1669)年 庄屋没・出湯役(上納金) を譲渡された村山九郎兵衛、この年から、出湯役・「年・金二分」上納。「湯治場の誕生」(町誌)
享保14(1729)年 「六助の災難」事件(町誌)
 京都乗鞍寺の下男六助、高田に滞在中、足痛を来した。足痛湯治のため湯本に向かい、辿り着いたところ、宿を頼んだが、湯治宿四棟に断られ、挙げ句の果て、湯峠に置き去りにされた。幸いに、兎口の百姓に発見され、一命を取り留めた。
享保20(1735)年
 年番庄屋の前記事件再調査。宿屋宿主一同、詫び状を年番庄屋に差し入れ、役所による追放を免れた。(町誌)
文政元(1818)年 文政温泉騒動
 宿支配人四名、庄屋九郎兵衛、浦田口村庄屋他二名を相手取って、代官所に訴える。湯本の土地、泉源土地地主を、湯宿主が訴えた。湯宿仲間には、かねてから必要以上に宿を増やさない不文律があったが、庄屋(湯主)九郎兵衛がこれを無視した事が、争いの始まり。(町誌)
文政2年 仲裁人をたて和解。
慶応4(1868)年 年号明治となる。
明治5(1872)年 地券交付。
 壬申地券:明治新政府は、旧幕府時代の「年貢制度」を廃止。これに替わる「地租制度」とした。この制度の基礎になる土地は、所有者に地券を交付し、「名寄地価書上帳」の提出を求めた。源泉、土地所有者である九郎兵衛家の当主は、文政二年の和解に反して九郎兵衛家所有として、新政府に提出した。これを違約として、宿屋一同新潟県地券課に訴えた。地券課では処理出来ず、司法省裁判所。東京上等裁判所にて、審理が行われた。明治九年、九郎兵衛家の勝利で結審。
明治20(1884)年
 温泉地は、浦田口「田辺」家の所有となる。長期に渉る裁判は、九郎兵衛家、宿屋一同共に、莫大な裁判費用を支払った。費用の融資は、田辺家が行い、その弁済不能のため、泉源を含めて温泉地所有権は、田辺家に移った。(町誌)
大正8(1919)年
 田辺家の温泉地所有権は、松本市肥料商赤羽商店に売却により移る。田辺家の石油事業などの失敗により、赤羽商店・赤羽茂一郎に売却された。(町誌)
昭和12(1937)年 「鏡の湯」開港。
 十日町・島田久吉により、掘削、深度402米、摂氏90度の湯を得た。
昭和13(1938)年
 温泉源脇に掘削。赤羽茂一郎により松之山温泉一号井完成。深度170米。摂氏92度を得た。
昭和29(1945)年 8月19日
 湯本温泉大火。温泉街、温泉宿、一夜にして全て灰塵に帰す。ただちに復興計画策定に入り、その第一の問題は「温泉地とここに湧出する温泉の権利を村有とし、村営の共同浴場を建設する」(町誌)の強い要望を解決する事にあった。村では、そのために、松本市在住の赤羽氏と交渉、温泉の泉源の権利土地代金「地籍内より湧出する温泉の権利共地代金・百十万円也」(町誌)で譲渡に応じた。これで1818年より続いた争いは、1954年で終焉した。権利を含めて地籍内凡て、松之山村(当時)の所有となった。

 桧之山町誌に次のような一文がある。それにしても、なぜこうまでに争われたのか。文政の争いもそうであったが、いずれも湯小屋と泉源地に隣接する土地が焦点となっている。これはその所有権があいまいだったために生じたもので、今回の地券法の施行に伴って、地券を受けた者が所有権を得るため、互いに天和の検地にまでもさかのぼって自己の帰属を主張したのである。」
 様々な容での土地、権利争いは、数世紀に渉るものである。いずれも結末がなんであれ、悲惨は味わなければならない。温泉地での、136年もの長期に捗る裁判沙汰の争いは、無惨ではないか。

 追記

 於之山温泉二号井:湯本川沿いに噴煙をあげている源泉。昭和39(1964)年掘削、深度264米、摂氏90度。過日の新聞報道で、次なる源泉の掘削予定が決定したと、ある。

 松之山町(十日町市)の温泉、鉱泉
 松之山温泉・湯本・鷹の湯
 兎口温泉・庚申の湯・翠の湯
 鏡の湯
 松寿荘(鉱泉)
 湯田温泉(鉱泉)
 笹の湯
 湯山温泉

 道路地図、旧松之山役場観光課で、所在地をお確かめのうえ、おいで下さい。         (続く)

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「夏よこい。冷えたビールに茹でたてえだまめ。とれたてもろきゅう」

岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 先日、テレビ番組で、ある発展途上国の診療報酬を、お金で払えない患者が自分で払える物で支払っていた。…病院の清掃、野菜や果物、米や肉、自分の血(献血)などで。
 そういった物は病院内の給食や輸血用の血液などに使われるという。
 結構な取り組みと思う。
 日本では治療費を払えない人はほとんどいないし、生活保護等で補われているので、医院に迷惑がかかることはほとんど無い。(今のところは…と、少し心配になることもあるが。)
 それでも我が長岡市十日町地区は農村地帯であるため、患者さん達のまったくの善意で、時々うちの玄関先に折々の収穫物を頂いている。

 「○○さん、もうキュウリとれたんですか?」
 「先生、キュウリに味
噌つけて食べてください。…はい、朝のうちに採ってきました。」

 キュウリやアサヅキに少量の味噌。これがどんなに食べても飽きないのは採れたて、無農薬(だよね…。)の十日町産のたまもの。

 「先生、炊きたてのめしがうまいのは当たり前。うちの米はさめても美味しいから。おこわ。すこしおいといたの。」
 「なんぎしたのをすいま
せん。」

 都会の米はまずかった。新潟米はうまい。ただの白米でもうまい。水も空気もいいからかなあ。同じ米を東京に送っても米の美味しさが違うという。十日町の水は水道水でもうまい。(地震後はさすがに塩素臭かったですが。)良い水でよい米を炊くのだからうまさが違うのは当たり前でしょう。
 最近美味しい野菜を頂くうちに自分でも作ってみたいと思うようになった。幸い、歳をとってもう作れなくなったから、とお貸ししていた畑を返してくれた人がいたりして、作る畑はありすぎるほど。草だらけの畑をみかねて、おとなりさんが耕運機で畝(うね)をうってくれた。草だらけの土地が広く柔らかな畑となっている。
 早速家内と見附に出来た「プラント5」に苗を買いにいく。キュウリ、トマト、かぼちゃ、ピーマン…。初めてなので試しに数個づつ苗を買う。
 漬け物用のナシなすを探すが無い…。ほかの買い物客に「ナシなすってどれでしょう?」と聞くと「十全なす、と書いてあるのがナシなすですよ。」と教えてくれる。「何を買った」「これは育てやすいか」など雑談を楽しむ。
 この「プラント5」、コメリとハラシンとシマムラをくつつけたような大規模ショッピングセンター。なんでもそろい、広大な駐車場が車で一杯になる混みようでした。ところで、ここはなんで女子高校生がこんなにたくさん集まっているんだろう。きっと若い子むけファッショングッズがお買い得!…なのかも。
 買ってきた苗を取り合えず植えてみる。好物のえだまめは欲張って3袋、丹波の黒豆、茶豆、早生豆と種より蒔いた。30cm間隔と書いてあるので足で一歩づつ間隔を測って蒔いてみた。とにかく初めてのこと、うまく出来るかどうか、収穫期が楽しみです。
 今年の夏は自分で育てた採れたて、茄でたてのえだまめでビールを楽しむ予定。これぞ最高!…ですが、まだ芽がでたばかりでは鬼もさぞかしおかしくて、鼻でわらっていることでしょうて。
 しかしながらまだ土地があまっています。どなたかなにか植えたい方はいらっしやいませんか?どうぞご一報ください。現地にご案内いたします。

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