長岡市医師会たより No.316 2006.7

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もくじ

 表紙絵 「雨上がりの美術館」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「長岡市中越こども急患センターの設立について」 副会長 太田裕(太田こどもクリニック)
 「県アマ将棋二段戦優勝記」 玉木満智雄(玉木整形外科クリニック)
 「タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た〜その8」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「“純情きらり”の次の番組」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



雨上がりの美術館   丸岡 稔(丸岡医院)


長岡市中越こども急患センターの設立について

副会長 太田裕(太田こどもクリニック)

 はじめに

 小児救急体制の整備の必要性、重要性についてはこの10年全国各地域で検討、論議され、国の重要課題として取り上げられるまでになってきました。小児救急について考える時二つの視点があります。一つは、子育てする人々に対し、小児救急体制の提供を行い安心して子育てができる環境を整備し、急速に進む少子高齢化への歯止めの一助とする点です。もう一つの視点は、こどもの救急を担当する小児科医が少ない点です。こどもの救急は病院に集中し、その対応に追われる小児科医は疲弊しています。そして過重労務の小児科を倦厭して小児科医のなり手がいなくなっています。更に少子化による患者の減少、病院での不採算が追い討ちをかけ、悪循環に陥り、その結果小児救急に必要な小児科医を確保することができなくなっています。この二つの点を軸として小児救急体制についていろいろと検討がなされてきました。
 そして岩手県の一ノ関で起きた救急での幼児の死亡事故が、大きな社会問題としての口火となり、国も小児救急に対し本腰を上げることとなりました。国はまず、全国で小児救急関係についての国の補助金を受けていない県を洗い出し、5つの該当県を指摘しました。そのうちの一つが新潟県でした。これを受け新潟県も何らかの施策の必要性に迫られ、小児救急体制整備に関する委員会が立ち上げられ、そこで論議されることとなりました。この委員会の中では、各地域の小児救急の現状と今後の方針が検討されました。また広島県の小児科医会で進められていた、こどもの救急電話相談事業が紹介され、この事業を全国展開してゆくことが示されました。
 このような状況の中、長岡市医師会でも小児救急体制の整備の必要性が現実のものとして論議され、紆余曲折はあったものの4年の歳月をかけ中越こども急患センター設立の運びとなりました。これまでの経緯について触れ、開設後の状況、今後の課題をまとめてみました。

 経緯

 これまでの設立へ至るまでの経緯について時間を追って記載してみました。国の小児救急への取り組み、それを受けた県の対応そして地域へと小児救急体制の整備が行われていく姿が浮き彫りにされています。またトップの判断が如何に重要かが、示されています。

2002年春 全国紙で小児激急体制が最も遅れている県の一つに新潟県が挙げられる。しかし実情は小児救急医療支援事業が県内で行われていないだけであって、新潟市ではすでに小児科医による365日24時間の一次救急体制が整備されている。

2002年4月 長岡地区小児休日診療素案(中越小児科医会)

2002年9月 広島県小児科医会による「小児救急医療電話相談事業」

2002年11月19日 第1回新潟県小児救急医療検討委員会
 委員長‥内山聖教授
  1.新潟県小児救急医療体制整備状

  2.県内の小児科医師数
  3.広島県小児科医会による「小児
救急医療相談事業」
  4.熊本県小児救急医療体制につい

  5.長岡赤十字病院中期計画「小児
救急医療の充実」

2002年12月 厚労相全国の二次医療圏ごとに整備するとした「小児救急医療支援事業」の実施報告

2003年3月 第2回新潟県小児救急医療検討委員会
 平成15年度新規事業として
 「小児救急医療整備事業」
  地域別小児救急医確保整備会議
を新設し、実行可能な地域から整備を開始

2003年6月10日 中越地域小児救急医療体制についての私案(斎藤前会長)をたたき台に三病院長、県市そして医師会三役の間で議論される

2003年6月23日 第3回新潟県小児救急医療検討委員会
 各地域での進展状況

2003年9月 中越小児科医会より中越地区小児救急医療体制整備の試案が出される

2003年10月20日 中越地区小児救急医療体制整備について長岡市医師会より試案が出される

2003年11月 長岡市医師会の試案に沿って、新潟県医薬国保課、長岡市と具体的な予算措置が行われる

2003年12月 県財政の逼迫を理由に、新規事業の凍結が平山知事により決定され、本事業も中止となり、事業全体が頓挫した。

2004年3月5日 中越地区で中越小児科医会会員による「小児救急医療電話相談事業」が2ケ月間施行される

2004年10月 泉田知事が就任され、公約にもあったように、小児救急の整備を行うとの方針の下準備が始まる

2005年3月17日 第4回新潟県小児救急医療検討委員会
 各地域での検討状況と今後の取
り組み
 小児救急医療従事医師研修事業
 小児救急医療電話相談事業

2005年7月 中越小児科医会より中越地区小児救急医療体制整備に対する提言がなされる

2005年8月 長岡市医師会より中越地区小児救急医療体制整備に対する提言が県福祉保健部に提出され

2005年10月 10月中旬より、県、市町村、医師会、各病院そして小児科医会との問で協議がなされ、諸々の調整、検討の末、ようやく開設の見通しとなる

2005年12月 新潟県全域を対象に小児科医会会員による「小児救急医療電話相談事業」が施行される。参加小児科医約70名

2006年3月20日 長岡市中趣こども急患センター開設

 全国で行なわれている小児救急医療体制

センター方式 (医師会が主導)
 A 開業の内科医、小児科医が参加
 B 開業の小児科医が参加
 C 開業の小児科医そして病院の
小児科医が参加

病院による救急
 D 初期救急に対応
 E 開業小児科の応援を得て初期
救急に対応
 F 本来二次病院であるが、初期救急に対応
 G 一次より三次救急の全てに対応 (徳島赤十字病院)

 現在行われている小児救急体制は上に挙げたAからGのいずれかの形態をベースにしているものと考えられます。一番多いのはFの本来二次である病院が、初期救急に対応している形態と思われます。このため病院の負担が大きく、小児救急体制の整備を病院側から行政そして医師会に強く求められてきました。これに答えるものとして最も多い形態が医師会主導で開業の内科医、小児科医が出務するAのセンター方式です。この方式は医師を集めやすく、小児科医の少ない地域では、大きな役割を果たしています。しかし都市部では、開設当初はセンターに患者が集まりますが、徐々に小児科の専門医の勤務する病院へと患者の流れが強まっていき、本来の子どもの救急の役割を果たせなくなっていく傾向にあります。この現象は、育児不安の下、いつでも何処でも最高の医療を求める親御さんが多いことによると思われます。この反省に基づいて、最近では小児科医が主体となるBまたはCのセンター方式が採用されるようになって来ました。Bの開業小児科だけで運営することは中々難しく、Cの開業、病院を問わず参加できる小児科を広く多く集める方式が主流となってきており、また、この方式は小児救急の機能を十二分に発揮することができます。この方式の代表が新潟で行ってきた365日24時間の救急体制です。次に現在最も注目されている方式は、徳島赤十字病院が行っている、一次より三次救急の全てに対応するG方式です。ここでは7人の小児科医が2交代性で、24時間の勤務を行い、完全週休2日制、週40時間の勤務時間をも実現し、そして、昼間は外来を制限し、紹介入院を主体とし、夜間の救急に力を注ぎ、診療収入を36%増加させています。この方式をベースに開業医の応援等いろいろの工夫を行うことができれば、これからの小児救急医療体制の一つの良いモデルとなるのではと個人的には考えます。

 中越地区の小児医療の特徴

 では当地区ではどのような状況にあるのかといいますと、開業小児科医が少なく、病院小児科医が多く、二次病院が充実している状況です。具体的には開業医10人 (長岡7人、見附2人、小千谷1人) 勤務医24人(長岡赤十字病院9人、長岡中央綜合病院4人、立川綜合病院3人、小千谷総合病院2人、魚沼病院2人、長岡療育園4人)
 この状況で開業医だけで運営するとなれば、Aの開業の内科医、小児科医が参加するセンター方式ですが、これは前に述べたように、作ったとしても本来の機能を果たせず、病院の救急は減ることはないと思われます。次に考えられるのは、Eの開業小児科の応援を得て病院で初期救急に対応する形式ですが、長岡の場合は、3病院が平等に2次救急を担っていますし、規模もあまり変わらず、また経営的にも1病院に集中させてよいものかわかりません。ということでCの開業の小児科医そして病院の小児科医が参加する方式が現時点では最良と考えられました。

 中越こども急患センターの概要と特徴

1 設立の目的
 (1)子育て中の親御さんの不安解消を図り、住み易く、子育てしやすい中越地区となるよう
 (2)これまで二次病院、特に小児科勤務医に大きな負担を強いてきたが、ある程度の負担軽減が図れる

2 実施主体
 新潟県および当該地区の市町村(長岡市、小千谷市、見附市、出雲崎町、川口町)

3 業務委託
 長岡市医師会、小千谷市魚沼市川
口町医師会、見附市南蒲原郡医師会と業務委託を結ぶ

4 診療に関する業務を行う医師および看護師は長岡市の嘱託員とす

5 診療などにアドバイスを行うサポート医をもうけ、連携して入院などの二次救急への橋渡しをスムーズに行えるようにする

6 実施場所
 長岡市健康センター

7 実施時問帯
 診察時間は、平日19時から22時まで

8 診療体制
 医師1名、看護師2名、事務2名、
 電子カルテにて運用

9 出務医
 中越地区の病院勤務および開業小児科医

 以上に挙げたのが中越こども急患センターの特徴ですが、まとめてみますと「中越地区という広域な地区の市町村が県の補助を受け、当該の医師会に平日準夜帯のこどもの救急を委託した。出務する医師は開業および病院勤務の小児科医で、センターで生ずる医療訴訟などに対する保証を十二分に確保するために医師および看護師は長岡市の嘱託員となった。そして診療などにアドバイスを行うサポート医をもうけ、入院などの二次救急への橋渡しをスムーズに行えるようにした」となります。

 開設3ケ月間の利用状況

 3ケ月間の利用状況をまとめますと、平均患者数が16名。これは開設当初としては予想をかなり上回っています。時間帯別の来院数は、7時から8時が50%、8時から9時が30%、9時から10時が20%で、やはり早い時間帯に多く来院する傾向にあります。年齢別では、0から3歳未満が47%、3歳から6歳未満が36%、6歳以上が17%で、低年齢ほど多く来院し6歳未満が実に83%にも上りました。これも予想とは少し異なっていましたが、小さい子どもの病気に対する不安が大きいことを物語っているものと思われます。地域別では長岡市が91%、見附市が5.6%、その他となりました。二次病院への紹介転送は4.4%(49名)でした。全国的には3%前後の子どもが二次へ転送されていますので、これと比べるとやや高い値でした。この急患センターの設立趣旨にありますように、二次病院の負担をそして病院小児科医の負担を減らすことを目的にし、点滴設備などを充実し、二次救急を目指していますが、まだその目標を達成できていないものと思われます。
 次に電話相談についてですが、来院
患者の4割近くが電話で相談後に来院し、また、その他の電話相談が139件ありました。現在県全体で小児救急医療電話相談事業が行われていますが、一次救急の受け皿を持った施設での電話相談が本来の姿ではないかと思われます。

 今後の課題、問題点

 「小児科専門医の確保が今後もうまくできるのか」に今後の課題、問題点が集約されています。開設の準備段階でもこの事をクリアするために、ほとんどの時間を費やしましたし、今後の医師二人体制、開設日時の拡大など全ては小児科医の確保に掛かっています。例えば、インフルエンザなどで来院数が30名を超えた場合、医師2人体制が組めるのか。また市民からの要望、二次病院からの要請などで、開設日時を土曜、日曜祭日に拡大するなど今後考えられる事項と思われます。次に今懸案であります小児救急に対する二次救急医療体制整備支援事業が施行されるのかについてですが、県もこの件には積極的な姿勢を示しています。その他、事務、看護師などの確保、手狭な診療施設なども問題になつてくると思われますが、現在のところ何とか運営できそうです。

 最後に

 長岡市中越こども急患センターの設立の経緯を中心に述べてまいりましたが、ここに至るまでに、多くの皆様方のご理解と、暖かいご協力を賜りまして誠にありがとうございました。今後も皆様に相談しなければならないことが多々あろうかと思いますが、宜しくお願いいたします。

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県アマ将棋二段戦優勝記  玉木満智雄(玉木整形外科クリニック)

 平成18年度県アマチュア将棋二段戦が6月11日、新潟市ユニゾンプラザにて開催され、幸運にも優勝することができました。
 県アマ将棋入昇段戦は毎年、新潟日報社が主催し、入段、初段、二段、三段戦の四クラスに分けて行われます。二段戦の出場者は県内より十三人が参加し、例年に比し少数でした。三年前と一昨年は、続けてベスト4まで進み、昨年は最後の40才代ということもあり、優勝を狙っていましたが、二回戦で負けてしまいました。例年なら将棋大会が近づくと今まで読んだ将棋の本の中から、自分が指しそうな将棋を選んで復習したり、また、プロの棋譜を並べたりして準備していたのですが、今年はあまり熱心ではありませんでした。かえって肩の力が抜けていたのが良かったのでしょうか。3回戦まで良い将棋が指せ、決勝に進むことができました。決勝戦は相居飛車の戦型となり、中盤では少し不利で考慮時間(決勝戦は考慮時間が片方30分で、なくなると一手30秒以内で指さなければいけない)がどんどん減り、少し焦りましたが、残り時間が約3分となつたところで勝負手を見つけ、これ以降はうまく指し進めることができ、念願の優勝を遂げることができました。
 私が将棋を始めたのは幼稚園の年長の頃で、将棋が上達するには十分早いスタートでした。将棋を覚えて一年も経たない頃、近くの親戚の御爺さんが誘ってくれて、負けてもらうこともありました。後で考えますと御爺さんはわざと力を抜いて勝たせてくれるのですが、当時は分かってか分からずか嬉しかったことを覚えています。プロ棋士は、小さい頃から将棋の専門書を読んだり、将棋道場に通ったり、また、大会に出場して腕を磨いた人がほとんどのようですが、私が小学生の頃は、近所の友達数人と将棋を指すばかりで少しずつしか上達しませんでした。それでも小学4年の時には、私の出身地である巻町(昨年、新潟市と合併)の将棋大会の小学生の部で優勝し、これが切っ掛けで熊倉さんという方に月に一回ほど教えていただくようになりました。その方は、プロの養成機関である奨励会の三段までいきましたが、プロとして認められる四段に昇段できなかった人でした。この頃から、新潟日報の将棋欄に目を通すようになりましたが、将棋の本を買うこともなく、将棋道場に行くこともほとんどありませんでした。勧められて、一度、大人の大会の一番下のクラスに出場したことはありましたが、成績は少し勝ち越すほどであったと思います。この頃、あまり上達せず、また、プロになることに対してあまり興味がなかったので、小学5年で将棋をやめてしまいました。再び将棋を指すようになったのは、平成2年秋、厚生連長岡中央綜合病院に赴任したのが契機でした。病院では、現在、市内で開業している窪田先生が中心となり、夕方以降に医局で将棋の対局がたまに行われ、それを覗くようになり、赴任して一年ほどで実際に対局するようになりました。窪田先生は大学時代、将棋部に所属していましたので私より強く、初めの頃は、教えてもらうことがほとんどでした。平成4年春には、「羽生の頭脳」という全十巻の本が出版され、この頃より将棋の本を読破するようになりました。平成6年には、日本将棋連盟の月刊誌である将棋世界の昇段コースに応募するようになりました。初段コースと二段コースを卒業した後、三段コースから四段コースは、連続9カ月にわたり満点で卒業することができました。しかし、免状料を払わず、免状を取得しませんでしたが、今回の優勝で三段の免状を頂けることになりました。平成11年春、開業しましたが、仕事に慣れた平成12年秋より、長岡将棋センターに通い始めました。将棋道場で実戦を多く指せるようになり、実力がついたと思います。
 今年の4月25〜26日、第64期将棋名人戦第2局が蓬平温泉和泉屋にて開催されました。その前日、前夜祭が蓬莱館福引屋にて行われ、私も参加しましたが、好きな棋士のひとりである谷川九段の色紙がくじ引きで当たったのは幸運でした。また、下田先生が奥様とご一緒に来賓として出席されており、森内名人と谷川九段の名人戦記念扇子を二本頂いたとのことでその内の一本を、県アマ将棋二段戟の約10日前に頂いたことも今回の優勝に繋がったのかもしれません。
 今後は、県代表戦ベスト8を目標に精進したいと思います。

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タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た〜その8

田村康二(悠遊健康村病院)

 “アダムとイブ”は加速度をつけて追えた

アダム(Adam)とイヴ(エバとも、Eve)は、旧約聖書の『創世記』天地創造に登場する最初の人間である。ヤハウェ・エロヒム(主なる神と訳されている)が天と地を作ったとき、地に木も革もまだはえていなかった。ヤハウェ・エロヒムは、土の塵(アダマ)から人(アダム)を作り、エデンの園を管理させた。アダムが動物の中で自分に合うふさわしい助け手をみつけられなかったので、神はアダムを眠らせ、あばら骨の一部をとって女をつくったという。中世の聖職者や冒険家は、エデンの園の特定を図ったが、その現在地を決定することが出来なかった。発音の近いメソポタミアのエディヌー、アラビア半島のアデンであるとする人もいたが、それも推測である。この楽園は現実に存在する場所の特定は不可能である。
 結局の所“エデンの園”はキリスト教徒の信仰の中にしか存在しなくなったのである。しかし生物学的にはオルドバイ渓谷で“アダム”と“イブ”は人類の祖先となったのである。加速度を持っていたアダムとイブは肉食の昧を覚え子孫を増やし、やがて逃げる食べ物を迫って世界中へと広がっていったのである。

 豹は大木の上の枝に伏して餌を待っていた(写真)。豹はライオンよりは長い間餌の動物を追い続けられるらしい。しかし豹の狩は夜間が主なので、狩を目撃することはできなかった。
 逃げてゆくシマウマの群れを、ラ
イオン達が凄まじい加速度で襲って狩をする所を目撃した。群れを左右からメスライオンが同時に襲い、逃げ遅れた子供のシマウマを倒した。その子の母親らしいシマウマが遠くで暫く立ち止まって、ライオンに食べられている我が子を悲しげに見つめていた。「ああ、あのシマウマのおかあさんは可愛そうだ」とその姿はツアー客一同の涙をさそった。親子の関係は、母親の子への利他遺伝子で種が保存されていることがよく分かる。どの動物の群れをみても、母親が子供を我が身に代えても守っていることが見える。「ヒトの遺伝子は利己的である。但し例外として母の子に対する愛情だけは利他的だ。」という説はドーキンスに代表される動物社会学者の一致した見解である。夕暮れの時、真っ赤に染まる大地の動物たちの影が動く。時間の感覚は鈍くなり、悠久のアフリカ時間を体験する。やがて夕暮れになると我々は埃まみれになり、日没間近の太陽が真っ赤にサバンナを照らす頃、ランクルで凸凹道を揺られながら疲れて帰路につく。サファリは夜間には危険なので日没と同時に終わるのだ。ロッジの門は7時には閉められて、夜間の野獣の危険を防ぐ仕組みになつている。
 その夜のロッジでの夕食では家族や親子問題がひとしきり話題になった。「シマウマの親心には感動しましたね。でも私達は子持たずですから、子供心はわかりません。」と神戸から来たA夫妻はいう。それを聞いた年配のB氏は「子供は当てになりませんよ」と答える。30代の若い夫婦に「親孝行はどうですか?」と話を向けると「さあ、どうでしょうか」とはぐらかされる。親の持つ利他的遺伝子さえ疑われる今の世である。親のためのみならず、先輩の顔を立てて・医局のため・学閥のためなどという台詞は、これまでの倫理・道徳が造り出したものだろう。だからそれらは倫理・道徳の変化とともに、崩壊するのは当然であろう。それが良いか否かは、動物には無い大脳皮質が生み出す新しい価値観が決めてゆくことになる。

 人の生物学

 人の起源からさらには地球上での生命誕生へと歴史を遡って考えてみたい。そこで読者にお尋ねしたい。「生物とは何か?無生物とは一体何が違うのか?」「目の前にある物が生物であるか?否か?をどうやって判断しますか?」これらの問いへの答えをお持ちだろうか?実は大学の教養課程で習ったような生物学ではこの間いに答えていない。いや答えられないのだ。これに対して時間生物学者は「自力で一定のリズムで振動を続ける物は生物である」と明快に答えている。
 「人の生物学」については、いまだに殆ど我が国の医学校で教えていない。アメリカでは高校の生物の教科書にさえ「人の生物学」の十分な記載が見られる点をみても大違いだ。この「人の生物学」の分野の研究者も日本には殆どいない。医用統計学という学問分野がある。その基本となる生物学的な統計学も日本では未熟である、もう10年も前のことだが、コペンハーゲンで開催された国際生物続計学会に招かれて、「時間生物学における時系列のデータの処理について」の講演を依頼されたことがある。医学や生物学の統計学者達の大きな集まりだった。しかし日本からの参加者は僅かに2名であった。ちなみに生物学のレベルが低いのは共産圏と封建社会の国々である。いずれも例えば生物の多様性を国民が知れば体制維持に困る国々だ。中国では未だに高校に殆んど生物学の教師は居ないが、物理・数学の教師は必ず居るという。日本もこの部類に入っている。大学の受験科目に生物を選ばない受験者が多く、生物学を知らない者が医学校へ入学してくる始末である。これでは応用生物学である医学を理解できないだろう。
 セレンゲティ国立公園を後にして今まで来た道を逆に帰国への道を走った。再び大地溝帯に戻ってきた。改めて大地溝帯の北側に延々と続く地平線の彼方を眺めると、アフリカ大陸とヨーロッパやユーラシア大陸に繋がる道が見えてくるように思えた。かって訪れたイスラエル、ヨルダン、シリア、レバノンなどへと猿人たちがこの道を経て広がって行ったのである。その後これらの地に氷河期の危機から避難して来たネアンデルタール人(旧人)が栄えた。その遺跡をイスラエルのウベイディア遺跡など、ヨルダンのペトラ遺跡付近に数多くある洞窟や谷間、シリアのパルミア遺跡付近の洞窟、ヨルダンの死海周辺の洞窟内などに見たことがある。しかし大氷河期に再び発生したクロマニオン人(ホモ・サピエンス、新人)はやがてこの恵まれた地でネアンデルタール人に代わって繁栄し、広くトルコ西部のアナトリアやイランというユーラシア大陸でメソポタミア文明をつくり日本へと広がっていったのである。(続く)

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『純情きらり』の次の番組  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

「おかえり。午後にNHKから電話があって、俳句王国の出演依頼の件で、夜にまた電話くださるって。」と家人。「どうして平日のお昼に自宅に電話して本人がいるものと思うのかしらね?」
 番組ディレクターの思いこみも無理もないかもしれません。俳句をやる人は、趣味人生を楽しむ熟年または高齢のかたが多く、自宅に悠々自適と鎮座しておられる確率もかなり高いものと推測されるからです。
 約束通りその夜8時きっかりに連絡電話。番組収録予定である翌月の週末日程は、さいわい仕事にも支障なく、よろこんで受諾。じつは今年はわたしども夫婦の銀婚式の年。以前からNHKドラマ「花へんろ」の舞台、道後温泉に憧れていた家人も同行をと希望したら、経費は別だが宿泊、飛行機チケット等は一緒に手配するとのこと。
 手続き書類をあれこれ出し、道後温泉のホテルを自分で予約したり、銀婚記念旅行兼初の俳句テレビ出演を待ちました。
 というわけで、六月上旬にNHK松山のBS2の「俳句王国」にテレビ生出演してまいりました。
 新潟空港から伊丹空港で乗り換え
て松山空港という苦手な空の旅。とくに新潟−伊丹便はなんとプロペラ機。悪天候で機体は大揺れして、かなりこわかったです。…家人が一緒ゆえ後顧の憂いがない、老父母は自立生活しているし、獣医さんに預けた犬はなんとかなる…など考えて、杷憂に終わりました。
 夕方に集合でカメラリハーサルと打ち合わせ、その夜は当日の主宰である鷹羽狩行先生(俳人協会会長、もっとも著名な俳人のおひとり)とともに懇親会。松山名物の鯛飯をいただきました。これがなんと炊き込みでなく、お刺身の鯛を薬味とまぶして食べる生卵ごはん。おいしかったです。席がまぢかだった司会の板倉卓人アナと神野紗希さんも飾らない性格で歓待してくださいました。
 俳句は兼題(課題)と自由題の二旬を提出。生放送開始の十分前に初めて投句一覧が渡され、これはいささか意外。もっとはやくに選句できて、批評コメントも事前に準備と思っていました。この点はNHK的ヤラセなしの生句会そのものでした。
 自分では落ち着いているつもりでしたが、「前半は日頃よりも緊張した表情で、滑舌が悪かった。選句コメントは立派だった。」と、当日番組を見た東京の姉がその夜Eメールを寄越しました。
 印象に残ったのは、ゲスト参加のタレントの高見恭子さんが、親しくお話をしてくださり、気配りのあるやさしい女性でした。選句でもわたしの旬を二句選んでくれました。句会成績は狩行主宰が高得点を独占で実力通り。わたしも選句眼だけは発揮できて、主宰の旬を二旬とも選びました。

 灯台を包みて夜も風薫る  狩行

 水のごとくに青梅を籠に移す

なおこの日の兼題は「風薫る」でした。わたしの旬はこんなのです。

 外出の妻の身じたく蛇の衣  蒼穹

 子育てに貸しある車庫や風薫る

 放送終了後は道後温泉に一泊。激石の『坊っちゃん』ゆかりの道後温泉本館にも入浴、翌朝は山頭火の終焉の地、一草庵にも寄り、思い出になるよい旅でした。
「G先生、このあいだ俳号でテレビに出てらしたの見ましたあ。」と勤務先病院で女性薬剤師さん。「若いのに俳句番組なんて見るのね?」
「『純情きらり』の総集編を見てたら、その続きでたまたま…です。」

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