長岡市医師会たより No.317 2006.8

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もくじ

 表紙絵 「鹿島槍・8月」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「初体験」 佐伯牧彦(さえき内科)
 「開業一年目の感想について」 山川浩司(やまかわ整形外科)
 「開業1年の様々な思い」 石黒淳司(しなのハートクリニック)
 「第6回長岡肺癌研究会を終えて」 富樫賢一(長岡赤十字病院)
 「虫愛ずる医師より一寸」 廣田雅行(長岡赤十字病院)
 「タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た〜その9」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「長岡大花火」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



鹿島槍・8月   丸岡 稔(丸岡医院)


初体験  佐伯牧彦(佐伯内科)

 皆さんこんにちは。一昨年秋から、中之島で開業しています。
 この前ある実地講習会を受講する機会があって行ってきました。教えられるのは久しぶりでしたし丸1日缶詰で疲れましたが、大勢の方が工夫を凝らして、少しでも気持ちよく理解させようと努力して下さり、感動して一生懸命学んできました。何歳になっても斯様な体験は嬉しいことです。
 開業医も実は初めてで、貴重な体験だと思っています。1週間続けて1日中外来の生活も初めてですし、保険のことは何もわかりませんし、往診は久しぶりでノウハウも体験談も具体的なところはあまり活字になっていませんし……。因ってしまう場面の連続ですが、皆様から教えてもらいながら早2年弱、早いものです。新しい体験を楽しみながら、これからも前向きにやっていきたいものです。 今後も親しくご指導、ご鞭撞を賜りますよう、よろしくお願いします。
 ところで、私の趣味の1つの飛行機ですが、最近やっぱりレシプロ機が好きだということが判明しました。
 まず実機を見るのが好きで中学生時代は茨城県の百里、埼玉県の入間、東京都の羽田と見に行ったものです。完成度の高い飛行機は容姿端麗であるというのが持論ですが、F14もかっこいいけど、やっぱりWW?の頃のレシプロ機がいいです。飛んでいる姿はもちろん実機ですらアメリカまで行かないとなかなか見れないので模型で我慢。でも作るのは趣味じゃないので、アルミダイキヤストの模型を買ってきてショウケースに並べて眺めています。
 昔、死んだ親父につれられて百里でみたブルー・インパルスも印象深かったです。東京五輪で大空にスモークで五輪の絵を描いたので有名な航空自衛隊の曲技飛行団のことです。4、5回は見に行った様に憶えています。
 自由に大空を駆けるF86(実際は自由ではありませんが)、密集編隊、急降下、急上昇、急旋回、そして滑走路上を超低空飛行でつっきって行くときの耳をつんざくような爆音に、いつかは僕もジェット・パイロットにと誓ったものでした(当時だけ)。
 乗るのも好きということで、いろいろな旅客機にも乗りました。時間に余裕があるときは、機体で選んで、主翼の付近の窓側に席を選び、離着陸時はフラップやエルロンの動きを見ているだけで時間を忘れられます。ジャンボは乗った中では未だ最高の旅客機だと思うけど、15年前乗ったYS11もその生い立ちを考えると感慨深いフライトだったし、26年前に乗ったDC7は感動したなあ。そうそう新幹線が出来て廃止になる前の新潟1羽田にも乗ったんですが、確かDC9だったような気がします。
 当然飛行機の映画も大好きで、いきおい戦争ものを次々買っては見ています。“ステルス”も面白かったですが、結構空中戦がよかったのが“トップ・ガン”、主演男優に気が行きがちですが、いや立派な撮影です。やはりレシプロ機のものが好きで、レシプロ機の出てくる最近のもの、高画質のものがあまりないのは残念ですがWW?の頃のもの、はては白黒のWWIの頃の複葉機ものまで見ましたが、大のお気に入りはアニメですが宮崎駿監督の“紅の豚”です。主人公ポルコの駆るサボイア(空想の飛行機ですが)あの古き良き時代(少し爺臭い言い方だけどかまうことないです)の感じはたまりません。殺し合うのではなく、おと(撃墜)しあうというか……やっつけあうって感じかな。
 ああ後、人気の高いインディ=ジョーンズのシリーズに出てくる飛行機もよいです。特に2作目“魔宮の伝説”に出てくるフォツカーC2は味がありますねえ。
 当然本も読む訳ですが、これが思ったより面白くなくて、感動したのはサン=テグジュペリの“夜間飛行”、坂井三郎の“零戦の最期”位ですかね。
 後、異色ですがイギリスの人形劇サンダーバードの大ファンで、小学校から中学校時代、リアルタイムでテレビで4回の放送全部みて、VHSで全32話と映画2作全部録画して、結局全部Lazer Discでそろえてしまいました。今DVDを購入しようか迷っています。お気に入りは、ミーハーですが2号で、登場人物では父親のジェフ=トレーシーが一番好きかな。昔はスコットが好きでしたが、好みがかわってきました。
 ところで、この原稿ってなんでしたっけ。字数制限がきましたので、この辺で。

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開業一年目の感想について  山川浩司(やまかわ整形外科)

 医師会から恒例の開業1年の感想の原稿依頼を頂いた。早いもので1年が経過した。振り返ると、暑い夏があったし、雪の多い冬であったが、具体的に細かな記憶に乏しい慌ただしい、目新しい経験の開業を意に決めてからの1年4ケ月であった。
 赴任時や開業時には必ずや紋切り型の“地域医療に微力ながら……”との挨拶の文言が語られる。私としても例外ではなかった。この“地域”とは、開業医の医師である私にとっては、大きな基幹病院群が県下に広く拡げた網(area)の極々小さな一つの網の目であろう。私はこれを“山田に求めた。この山田を知らずして、何をかいわんやであろう。事実、私は山田についての知識は無かった。簡単に山田を紹介させて頂く。山田町は、その昔千手町から草生津渡しとの街道に出来た町で、文政年間長岡城下図(1820年頃)に山田町の名を見ることが出来るという。その後此処に文治通りが開かれ、明治34年長岡町に編入。昭和41年から始まった住居表示事業に伴う町名改正で、現在国道351口号に沿う山田町を1丁目、北側の旧文治町を2、3丁目とした。私の医院のある地、旧文治は長岡のいわゆる“花街”で名高く、大きな妓楼が競い合うように軒を並べ、景気の影響を受けたり、戦災にあったりはしたが、中越一の“花街”として昭和32年まで生々と躍動していたという。今はその面影はないが、山田は国道沿いは別として、一歩町内に足を踏み入れると、この界隈の道が分りにくい。ある先生から、最近の開業を選ぶ場所はこのように分りにくい所を選ぶのが流行りかと聞かれて苦笑したことがあった。多くの患者さんにも“分りにくい”とこぼされる程である。この地の道の分りにくさは前身が花街であったことに起因しているのかも知れない。この山田は人口約1000名、周辺の草生津、春日、日赤町、信濃等々が私の措いたareaである。右も左も知らぬ長岡に来て18年が経つ。心に訴える土地とは、そこで生を受けた人ではなくとも、そこにずっと住みつきたいと思わせる何かを持つ処であり、そこに住んでいる人達が自分達の文化、歴史に誇りをもち、心豊かな人々がいかに多くいるかである。私にとってそれが長岡であり、以後の人生の生活の地としてこの度選んだ。
 医師としての仕事に就くには、ほとんどの医師は三つの大きなグループの何れかに属することになる。即ち、大学や研究所で、学問、研究を続ける医師、勤務医そして開業医である。私も医師という職業について、いつの間にか40年弱になり、自分の生きてきた人生の2/3を医療関係の言葉の氾濫する生活の中で費やされたことになる。そしてこの開業というステージが還暦を過ぎた私の final choiceであった。大学の教室に籍を置いていたある日、開業医の先輩から開業のノウハウを教えてもらっている先輩の神妙な顔付き、その話の内容を聴き、私には関係ない話だと眺めていた記憶がある。これがどう間違ったのか、私にとって開業が現実のものとなつた。
 開業することを“玄関を開く”というそうだ。また古来よりこの玄関が立派でないと人が信用してくれない職業の一つが医者であるという。規制以上の宣伝も出来ず、ただひたすら待たなければならない業。こういう状況のなか、他に負けずに多くの患者を引き付けようと、自分の描いた vision に少しでも近づけようと必然的に建物、医療機器を含めた設備が青写真を拡げるたびに豪華になつていくさま。いわゆる玄関構えが立派になつていってしまうことは決して他人事ではなく、規制に関係なく出来るささやかな自己表現であり、切実さを感じた。しかし諸々の条件には、私にとって限度があり、当然自己満足出来るものではなかったのは言うまでもない。が、多くの方々の後押しを頂いて、曲がりなりにも文字通りの小医院であるが開業にこぎつけられたのは昨年の7月1日であった。1年経った現在、感じることは、医師の職種にも明らかに適正というものがあることは当然であるが、最後に選んだ開業医には、また別な才能が要求されているような気がしてならない。最後に他に感じていることをいくつか羅列してみる。南木桂士民によれば、医者に必要な条件の一つに、治療に付き合える頑強な体を挙げている。医者の不養生ということわざが、何故か最近、日や耳に頻繁にチラツク。若くはない。これからは己の健康面を注視してみよう。また柿が赤くなると医者が青くなるということわざも切実な響きとして感じるようになった。良医の門に病人多しというが、私には到底考えられないことで、“薮医者に慈悲を与える風の神”の川柳に値し、何時も門戸を開けた“ひたすらに神頼み。しかし、生涯研鋳の業である。”“三たび肘を折って良医となる”という言葉を刻み、日々誠実に患者に接しながら、頂けるものならこの地域の人々のぬくもりのなかで、肘を折ったりして、年令に相応したもう少し熟成した医師になるよう努力する所存である。諸先生方の御指導をお願いする次第である。

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開業1年目の様々な思い   石黒淳司(しなのハートクリニック)

 あっという問に1年が経った気がします。昨年の7月に立川綜合病院を退職させていただき、夏の暑い日に準備に入りました。本当は、8月1日に開業予定でした。しかし、地震と大雪のために予定よりも2ケ月も遅れて、ようやく建物が引き渡されました。文句も言う事も出来ず、毎日バタバタしながら短い準備の日々を送っているうちに、8月22日の開院の日を迎えました。
 開業後、実は隠れた大きな試練が待っていました。大きな建物の一角に開業出来た事は嬉しいのですが、全く医院の看板が出せませんでした。自動ドアが開いて入ってくる人は、「風呂はここかね?」と訪ねる高齢者センターのお客様が多く、何か悲しい思いをしました。
 更に、建物の完成が遅れた事で、肝心な住所も決定されず電話を引く事も出来ませんでした。いわゆる、幽霊会社みたいなものでした。
 そんな苦難よりも私にとって楽しい毎日が始まりました。
 まず、クリニックの基本理念を「楽しい医院」の創生としました。来てくださる患者さんの笑いの起きるような医院。患者さん達が、「来て良かった。何か得をした。」と感じながらクリニックを後にしていただけるようにする事です。
 応接間のような待合室。医療情報誌は、製薬会社の宣伝紙だけではなくスタッフの似顔絵を付けて、わかりやすい病気の解説を載せた小さな手作りのパンフレットなど毎月工夫を重ねました。今ではクリニックでの隠れたベストセラーになっています。このパンフレット(しなのハート通信)は、ホームページからダウンロード出来るようにもなっています。
 肝心の医療は、循環器として最小限度の検査を自分で時間をかけてやっていく事を基本としました。ホルターや心エコーの画面を患者さんに見ていただきながら、心臓の病気を説明して理解していただいております。
 ゆっくりとした診療で、病気やジェネリック薬品の理解をしていただいております。それでも、時に重症な病気を見つける事もあり、急いで大きな病院に行っていただく事もあります。そして、いつも心掛ける事は、積極的に他の病院への紹介する窓口になろうと考えております。
 さらに、長い間の頭の中の考え続けていた、内科としての心療内科の形が一年間をかけて出来てきた様に思います。
 薬を補助的に使い、ゆっくりとしたカウンセリングを心掛けています。そして、徐々に、動惇を主訴とするパニック障害の患者さんや、軽症なうつ状態の人が、元気になつていかれる姿を見ると始めてよかったと感じています。しかし、精神的に動揺の強い人は積極的に精神科の受診をお願いしております。一方、歯科医の妻も賛同してくれて、一緒に苦労をしてくれる事になりました。そのお陰で、他の医院は無い、ユニークな形が出来上がりました。
 心臓が悪くて、十分な歯科治療を受けにくい人達に安心して治療をしていただく事が出来ました。さらに、一般内科疾患と歯科疾患が、強い関係があるだけでなく、精神的にも非常に影響しあっている事を教えていただいております。例えば、軽いうつ病の人がブラッシングにて完治した事。重度の歯周病の人が、食欲が出て元気になる事。ゆっくりと恐怖心を取りながら歯科治療をするなど、病院では考えられない経験をする辛が出来ました。仕事でも妻に感謝しております。
 ようやく一年になり隣のケアハウスの皆さんと仲よくなり、折り紙や写真を診察室に飾ったりしております。
 さらに、風邪を引いたと言って隣近所からも来ていただき、クリニックも少しずつ知れわたってきました。12月には、ようやくNTTのタウンページに電話番号が載るようです。
 スタッフ一同笑い声の絶えない楽しい医院を創り続けます。
 今後とも宜しくお願いいたします。

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第6回長岡肺癌研究会を終えて   富樫賢一(長岡赤十字病院)

 6月28日(水)、ホテルニューオータニ長岡におきまして、長岡赤十字病院放射線科伊藤猛部長の座長のもと、新潟大学大学院医歯学給合研究科腫瘍放射線医学分野の笹井啓資教授に、「放射線治療、最近の進歩」というテーマで御講演いただきました。笹井教授は、日本を代表する放射線治療のエキスパートであります。講演内容は、悪性腫瘍に対する放射線治療の理論と最先端技術に関するものでありましたが、分かり易くお話いただきましたので、専門外の先生方にもご理解いただけたのではないかと思っております。勿論、私にとりましても専門外であります。
 私はこの講演を聴きながら、しばし昔に戻ったような気がいたしました。系統だった話の展開は医学生時代の講義を思い起こさせたからです。私が、放射線治療について講義をいただきましたのは北畠教授からでしたが、今聞いている治療理論は当時と全く同じで、違うのは進歩した技術、特にコンピューターに連動した照射技術のように思われました。
 放射線治療が成立するための用件は、放射線が出来るだけ病巣に集中し、正常組織に当らないこと、病巣が正常組織よりも放射線の感受性が高いこと、そして、正常組織が病巣よりも放射線障害からの回復が速いことであります。これらのことは誰もが容易に理解できます。私も学生時代に理解したと思っていました。しかしそれはうわべの理解にすぎませんでした。笹井教授のお話を聞きながら、私は心底びっくり致しました。平素、なんとなく肺癌は放射線治療では治癒出来ないのではないかと感じていた理由が、この講演を聴いているうちにやっと分かったような気がしたからです。
 実に単純なことだったのです。実際は放射線で肺癌を治癒できるのですが、やり方が間違っていたのです。どういうことかと申しますと、治癒するためには、小さい癌に大量の放射線を当てなければならないのです。相手が小さいと照射野が小さいため大量の放射線照射をしても周囲に対する影響も軽くすみます。従来は手術が出来ないような大きな癌を相手にすることが多かったため、効果が十分にあがらず、時と共に再発する結果となったのです。すなわち現在の放射線治療では大きな癌は治せないということなのです。では小さな癌なら確実に治せるかといいますとそうとばかりも言えません。
 最近はCTの普及により小型肺癌が多く発見されるようになっています。小型肺癌の多くは早期癌であると共に進行速度の遅い癌でもあります。笹井教授から、小型肺癌に対しては、従来の手術先行型の肺癌治療から、放射線先行型に変えてみたら如何かというような問題提起をいただきました。確かに小型肺癌の大部分は進行速度が遅いため、放射線治療を先行しても差し支えないと思われます。特に最大径一センチ以下の肺癌は縮小手術でも良好な成績であるため、良い適応といえます。しかし、そのような小型肺癌でありましても、術後病理検査でリンパ節転移を伴う進行癌と診断されることもありますので、その点について十分検討する必要があります。
 昨今の医療機器の進歩は目覚しく、それに比例するように放射線診断学や治療学も急速に進歩しております。何時の日か、笹井教授が考えておられるような、手術よりも放射線治療が優先される時代が来ることでしょう。外科医としましては、喜ぶべきことなのか、はたまた悲しむべきことなのか悩むところであります。
 さて、会員皆様のお陰をもちまして、長岡肺癌研究会も6回目を無事終了いたしました。当研究会では、肺癌の治療成績向上を目指しまして、医師および医療技術者を対象に、年1回の研究発表(1月)と、年1回(6月)の招請講演を開催してまいりました。現在のところ、肺癌患者の8割以上は診断が確定した時点で治癒が望めない状況です。半面、出来るような状態で見つかった方の半数以上は治癒しております。従いまして、いかに早期に発見するかに患者の生命はかかっているわけであります。会員各位におきましても、この研究会を通しまして肺癌のご理解を更に深めていだたき、日々多忙の診療に際しましてもご留意いただけたらと思います。今後も支援のほどを宜しくお願いいたします。

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虫愛ずる医師より一寸   廣田雅行(長岡赤十字病院)

 皆様、一寸御知恵を拝借致したい事がございます。事は単純、要するに何とか大手大橋と長岡大橋の間の土手のジャコウアゲハを守れないものか?と言う事なのです。医師会の会貞の皆様の中には、昔、蝶マニアだったとか、今も集めているとかおっしゃる方も少なく無いのではないかと思われます。あ、そういう趣味をお持ちでない先生方に一寸予備知識を、この蝶のオスの羽根はほぼ全体に黒く、後ろ羽根に「ジャコウ」の名前の元に成った匂いを発する鱗粉を持ち、メスは羽根がやや薄い色をした、アゲハチョウに分類される大型の蝶です。写真1は、草叢を飛ぶメスです。この蝶は、土手に生える雑草の「ウマノスズクサ」にしか産卵しません。この食草を食べて写真2の様な幼虫に成ります。見掛けはグロテスクですが刺したりなどせず大人しいものです。刺激すると一寸匂いのする触角を出します。
 一杯食草を食べてやがて写真3の様な蛹になります。この蛹は、その形を腰を曲げた女性の様に見立てられたりしたのでしょうか「お菊虫」と呼ばれている様です。御分かりでしょうか?あの有名な怪談、「番町皿屋敷」で、主人に切られて皿を数える幽霊になるあの「お菊」です。後ろ手に縛られた「お菊」に見立てられて付けられた名前だとか。そして、初めの写真の様に羽化して土手を飛び回ります。ジョギングを早朝になさる方は土手でこの蝶の飛ぶ姿をご覧になっていらっしやるかも知れません。この蝶は長岡のこの土手では年三回羽化しています。羽根の黒いアゲハ類は年二回が普通です。
 さて問題はここからなのです。土手で時々除草作業をしているのをご覧になった事のある方は少なく無いと思うのですが、ここに一寸問題が有るのです。確かに除草をされておられる事務所(一級河川ですので国の機関です)の方もこの蝶の事は認識はされておられる様で、看板を立てられたり、除草も一部の場所で手刈りである程度の高さに食草を残す努力はされて居られるのですが、いかんせんこの区間でその様にされている場所が少ないのです。又、他の場所は食草が有っても機械化により一気に纏めて刈られてしまいます。しかもその時期が丁度羽化した喋が飛び始めるかどうかと言う時期に当り、産卵に支障が出かねない状況になってしまいます。現に今年は(五〜六月に)飛ぶ姿が少なかったと言う方も多かったようです。私の所では、去年から越冬した痛が十頭、その内八頭が羽化して行きましたが、恐らくその蝶達でしょう、プランターなどに植えておいたウマノスズクサに産卵して行き、約二百頭を越える幼虫が生まれました。これを育てるには手持ちの量ではとても食草が足りず、同級生で同じ蝶に興味を持っていて呉れている、地元の「K」先生に食草の自生している場所に連れて行って頂いて「草刈り」
をして来たりして凌いでおりました。しかし、やはり二百頭は無理と言う事でその内、約百頭を「K」先生の言う「放牧」をする事として、土手に行って見ました。予め見当を付けていた場所では未だ余り十分に食草が葉を付けていなかったりする所も多く、逆に十分葉の茂っている場所、「手刈り」のされている所では、殆ど幼虫の姿を見掛けないと言う、良いような悪いような状態でした。何時もですと、この辺では先客が多くてとても「放牧」は出来そうも無い事が多かったのです。恐らく刈る時期の問題と、去年からの越冬数の少なさに問題が有るような気がします。一応事務所の方にはメールを入れて、除草の時期の問題、場所の問題、等に付いてコメントはして見たのですが、未だ御返事を頂いていないまま(この文が載る頃に既に御返事頂いて居りましたらご容赦を)除草作業は継続されている様です。
 私がこの蝶にこだわるのは、自分が子供の頃中々見る事の出来ない蝶だった事も有り、子供達にこんなに町に近い身近な場所で触れ合える楽しさを味わって欲しいからなのです。
 子供に良いと思われるこの蝶の特性として、第一に、食草が雑草であり、草叢を飛翔する為、子供の目線に近い低い所に居る事が多い。しかも脅かさなければかなりゆっくりと飛ぶのです。第二に、年に三回(五月、七月、九月)羽化する事で、新鮮な個体を目にする機会が多い事。第三にその気になれば飼育が容易である事等が挙げられます。子供にとって直接触れて見なければ興味も何も有った物ではないと思います。其処からもし、少しでも自然や環境に興味の持てるような子供が出たり、蝶を通じて他の色々な趣味等に発展して行って呉れるようになれば良いな等と思ったりしているのです。
 こんな夢物語の様な事に付き合って頂けるかどうかは別にして、差し当たりこの約百頭から生まれてくるであろう将来の幼虫達の食草の確保の為に、この除草作業に関して何かアピールするのに良い方法や伝手をお持ちの方が居られましたら御知恵を拝借致したいのです。写真4は、昨年の夏の我が家での飼育状況です。周囲の家の方々からは、「先生の家のチョウチョが飛んでましたテ」とか、早朝に前日の夕方から当日の朝にかけて羽化した蝶を放したりするもので、「先生の所の蝶は夜になると帰って来る」とか言われたりした時の物です。 さて、今朝は今年の卵から生まれた幼虫の中で初めて昨日羽化した、1頭目のメスを放して、もう少し残った遅生まれの幼虫に餌をやって出勤する事としたいと思います。

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タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た〜その9

田村康二(悠遊健康村病院)

 タンザニアのコーヒーは実に美味しい

 帰国する道すがらコーヒー農園に立ち寄った。このイギリス人の経営する農園で昼食を食べた。女主人から「家の食物の衛生状態はご心配ありません」という説明があったので、久しぶりに生野菜のサラダや果物を食べた。食後に頂いたコーヒーは実に美味しかった。コーヒーの“発見”には二通りの伝説がある。一つは牧人ガルジの話であり、二つには修道僧シェイク・オマールの物語である。牧人ガルジが、赤い実を食べて発見したという説をとると、コーヒーの原産地は、エチオピアでその語源は土地のカッファから転化したものとなる。これに対して修道僧オマールが諸方を放浪中に飢えの余りとある樹木の実を食べたところからはじまるとすれば、原産地は今のアラビア半島イエメンで語源は現地語である果実酒の名が転化したものとされる。今では原産地のエチオピアでは果実を食べていた程度であったが、それがアラビア半島に伝わって今のような飲み方をするようになったというのが定説らしい。
 タンザニア・コーヒーはキリマンジャロ山のゆるやかな斜面に育ち、インド洋からの爽やかな風と、熱帯特有の叩き付けるような雨と、キラキラと輝く太陽の恵みをいっぱいに受けて育った芳醇で甘酸っぱい風味のコーヒーだ。その中でも、このひときわ大粒で気候条件にめぐまれたARUSHA(アルーシャ)地方の高地だけに産するごく少量のコーヒーは、最高級品との意味あいから“SNOWTOP”と呼ばれているらしい。この“TANZANIA AA SNOWTOP”はアフリカの風の囁きと、雨のもたらす優しい匂いと、眩しく輝く陽光に育まれたコーヒーの最高傑作といえる。私たちは勿論同行者達も大量にお土産用にとコーヒーを買い込んだ。売店の主に「日本にはコーヒーは無いのですか?」と聞かれたのには思わず苦笑した。
 後にケニアのナイロビ空港でもケニア・コーヒーを買い足した。アフリカ東部、赤道直下の高原のほぼ中央にケニア山(5,199m)がある。19世紀末エチオピアからアデン経由でコーヒーが入ってきた。コーヒー栽培はイギリス人によって始められ、第1次大戦から生産品種は全量アラビカ種ブルボン島由来のモカ系のコーヒーとなった。世界の中でも優れたコーヒーを生産するのがケニアだという。ケニアコーヒーのグレードは豆の大きさによる等級区分(AA、AB、PB、C、E等)がよく知られているが、この他にもケニアコーヒーボードで決定される1等級〜10等級までのカップグレードが存在する。このように品質を厳密に分類することで高品質のコーヒーがケニアでは生まれてくる。
 ケニア・コーヒーの主な産地はウガンダ国境のリフトバレー、ナイロビを中心としたルイル、キアンプ、チカなどの地域である。世界のベスト3のひとつとの評価もあるほどで、世界中で評価が高いコーヒーだ。酸味、苦味、コク、香りの調和が人気の秘密といわれている。コーヒー通の中には、ブルーマウンテンとはジャマイカの限られた高地で産出するNo.1コーヒーのことで、ケニア産のブルーマウンテンなど存在しないという厳しい評論もあるが、現地のラベルにはっきり表示されているのだから、ブルマンの兄弟に違いはなかろう。このコーヒーを味わいながらこの原稿を書いている。(続く)

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長岡大花火」  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 今年の長岡の花火は3日間。恒例の2日、3日に加え長岡市政百周年を記念しての世界の花火ショーがありました。
 長生橋の付近で見る人、升席で見る人、屋形船で、近くの田んぼ道に枝豆とビール片手に皆でおしゃべりしながら、といろんな場所から皆様楽しまれたことと思います。
 8月2日はまさに猛暑でした。それでも花火打ち上げのころにはやっと涼しげになった川風に適度に煙も流され、本当にきれいな花火が空にあがっていました。
 3日はまったく風がなかったのでけむたかったのと花火があがったときに残っていた煙でややかくれ気味だったのが残念でしたが、両日とも大きな三尺玉が見事にあがり、長岡人として誇らしく、おおきな拍手を送りました。…万来の拍手、でしたね。昔は8時半の三尺玉で帰りはじめる人がいて、9時15分の三尺玉でさらに帰る人がいたのですが、去年のフェニックスが余りに素晴らしかったので今年は終わりまで帰る人はなかったようで、帰り道が大分混み合ったようでした。
 「去年は仮設にいてフェニックスを見て泣いて、今年もまたフェニックスを見て泣きました」。そんな言葉にこちらももらい泣きです。打ち上げ場所を増やしたそうで、さらに素晴らしいフェニックスでした。
 でも私はやはり三尺玉が一番好きなんですね。…長生橋の灯りが消えてウーウーウーとサイレンが鳴り響き、緊張の中、5号、7号、10号と前座の花火が次第に大きさを増しながら、さて、遂にボンツ、ヒユルヒユルヒユルと(無事に上がるだろうかと)人々を心配させながら天空に達し、見事に炸裂。大輪の火の花を咲かせ、頭上にふりそそぐように舞い落ちてくる火の粉と空気を切り裂き地面を揺るがす炸裂音。ああ、ふりかかりそう、と大きな火の輪に包まれて酔いしれて…。(ビールに酔っているわけではない!)
 4日の世界の花火ショーはケーブルTVで自宅の部屋で見ました。ショーというだけあって音楽に合わせ色とりどり、かたちもさまざまな花火が上がり、楽しめました。カリブの海賊の音楽だ、クイーンのボヘミアン・ラプソディも…韓国もなかなかニクイことを…なんて思いながら音楽が花火をさらにショーアップしているな、と感心して見ました。
 従来の日本の花火見物の仕方としては、ドーンとあがってパッ。…それから余韻にひたりながら一杯やって次が上がるのを待つ、というスタイルが伝統的。あまりにショーアップされていると、ずっと見続けていなければならないので一杯やる時間が無くなるのではないか、と心配。
 …さて、これまでの花火の想い出の一番はどれだろう。
 北海道への家族旅行で洞爺湖の遊覧船から見た花火。夜の洞爺湖の美しさと花火ショーを楽しむ飲み物付きクルージング。素晴らしかったけど帰宅してまもなく昭和新山が噴火。思い出深いものがありました。
 東京ディズニーシーの花火ショー。ホテル・ミラコスタでのディナーの途中、食休みを兼ねてベランダから見るのが最高。イタリアン・ワインを頼んで…。ところがこのグラスワインが長岡での量の三分の一で値段が十倍。酔えなかったなあ。もうちょっと注いでくれてもいいと思うの。まあいいか。長岡はいい。
 薬屋さんからおまけで貰った花火。子供達がまだちっちゃかった時。玄関先ではじけていた線香花火。まだずっと花火をしていたい、とせがんだ子供達。…今年の夏も終わります。

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