長岡市医師会たより No.318 2006.9

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もくじ

 表紙絵 「五十沢渓谷」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「あれから4年」 高橋 暁(高橋内科医院)
 「タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た〜その10」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「真夏の夜のイナバウアー」 廣田雅行(長岡赤十字病院)
 「庭先のビオトープ」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



五十沢渓谷   丸岡 稔(丸岡医院)


あれから4年  高橋 暁(高橋内科医院)

 いてっ!目に何かを入れられた!遠くの方で声が聞こえる気がする。「ぱあぱ、起きてよ。」3歳になる次男のジョジョだ。小さな指でむりやり私のまぶたをこじ開けようとしていたのだ。眠い目を擦りながら時計を見る。朝5時だ。お決まりの時間。うーん、もうちょっと眠りたいなあ……。朝はあまり強いほうではない。こんな早くからテニスをしたりゴルフをするなんぞ考えられない。「ぱあぱ、早く起きてよ。うんちだよぅ。」うんちといわれて起きないわけにはいかない。仕方ない、起きるか。6畳の和室に布団3枚とベビーベッドを並べて一家5人でごろ寝状態の我が家。私の足元には4歳の長男、コウが横向きにぐっすり寝ている。床につくときは真ん中の布団に寝せたはずなのに。誰も寝ていない真ん中の布団の隣には妻が、そしてその足元には7ケ月の三男、タックンがころがっていた。最近ではベビーベッドに寝せると、寝返るたびに柵にぶつかって日を覚ましてしまうので一緒の布団で寝かせるのだ。ジョジョの手を取りみんなを踏まないようにトイレに向かう。「ンギヤーオ!」ジョジョがタックンを踏みつけた!もう、勘弁してよ、せっかくぐっすり眠ってたのに。静かなマンションにタックンの泣き声がこだまする……。
 こんなふうに我が家の一日が始まります。改めまして、高橋内科医院の2代目、高橋暁と申します。父の病気に伴ない故郷の長岡へ戻ってきてから4年という月日が過ぎました。あっという間でした。昭和40年1月、新潟市で生まれ、2歳の時に長岡市に越してきて以来、ここで生活してきました。長岡高校を卒業後上京し、駿台予備校で一年間の浪人生活を過ごし、東京慈恵会医科大学に入学しました。大学卒業後は付属病院での研修を終えた後、消化器・肝臓内科学教室へ入局しました。ウイルス性肝炎・アルコール性肝障害・肝癌の局所治療を主に手がける研究室に属して診療・研究を行っておりました。思いもかけず急に戻ってくることになりましたので、まさに右も左もわからずに時が駆け巡るといった状態でした。しかしベテランのスタッフと患者さんのご理解のおかげで一日も休診にすることなく引き継ぐことができました。幸い父の回復も早く、月曜日に診療をお願いし、私は長岡中央綜合病院で内視鏡の勉強をたっぷりとさせていただくことができました。長岡中央綜合病院の諸先生方、スタッフの方々には大変お世話になり感謝しています。
 『病気を診ずして病人を診よ』、これは母校の学視である高木兼寛の教えです。高木兼寛は明治時代の軍医だったのですが、当時流行していた脚気をビタミン学説の出る20年も前に栄養の欠陥としてとらえ、食事によってこの病気を完全に撲滅し、日本に臨床疫学の基を成したことでも有名です(『白い航跡』吉村昭著、講談社)。大学時代から嫌というほどこの言葉を聞かされてきました。医師になってからも常にこの精神を忘れぬようにと心がけてきたつもりではあったのですが、特に最近になってその重要性を感じるようになってきた気がします。とかくEBMが優先されるようにいわれる昨今ですが、かかりつけ医として患者さんとの触れ合いを大切に、日常の診療を行えればいいなあと考えています。最後になりましたが、長岡市医師会の先生方にはいろいろとお世話になると思いますが、今後ともよろしくお願いいたします。さて、その後の我が家はというと……。
 8時だ、出発の時間。大騒ぎの未に朝ごはんを食べ終わった子供たちが玄関まで見送りに来てくれる。「パパ、今日は帰ってきたらトランプしてくれるよね。」とコウ。今日の夜は講演会があったような気が。「ごめんね、今夜はおじさんたちとお勉強してくるから先に寝ていてね。」「そうよね、ちょっとだけお勉強して、たくさんお鯖食べてお酒飲んで酔っ払って帰って来るのよねえ。」、妻の強烈なパッシングショット!みんなのブーイングを浴びながらもできるだけ笑顔で「いってきまあす。」おみやげ買って帰るからさあ。

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タンザニアのオルドバイ渓谷に私のルーツを見た〜その10

田村康二(悠遊健康村病院)

 キリマンジャロ山

 帰路では左手に見えるはずの独立峰のキリマンジャロ山の全容をついに眺めることはできなかった。季節が悪かったらしい。ケニアへの国境を越えた近くにあるアルーシャ市で最後の宿、Arusha Hotel に泊まった。そこで久しぶりに我が同胞達と会えた。キリマンジャロ登山の一行と食堂で出会ったのだ。雑誌「山と渓谷」が主催する旅に参加した方々であった。10人位のパーティで殆どは中高年の女性であった。1人も脱落することなく高山病に悩まされながらも、皆さんが山頂に立てたというから立派である。
 キリマンジャロ(Kilima-Njaro)は、タンザニア北部にある山で標高5,895m。アフリカ大陸の最高峰の死火山だ。南東部には巨大なカルデラがあるという。中央にあるキボ峰が最高峰で、頂上はウフル・ピークとよばれている。ウフルとは独立の意味。ウフル・ピークには、タンザニア初代大統領の言葉が刻まれたレリーフがあると聞いた。なおキボ峰の頭頂部は、赤道付近にもかかわらず巨大な氷河が存在するという。アフリカはとてつもなく大きいのだ。

 私のご先祖がたどった道

 人の遺伝子の99.9%は同じである。この0.1%の違いにお互いのご先祖の手がかりが残されている。Y遺伝子は父親から息子へと受け継がれる。これに対してミトコンドリア遺伝子は母から娘に行くのだ。もちろん時に変異が生じる。この手がかりを研究した集団における遺伝子解析から、例えば世界中に散らばっているAshkenazi系ユダヤ人の40%は4人の女性から生まれていることが判明している。米国のNational Geographic Societyは巨額の資金を使って既に10万人のDNAを世界中から集めている。その狙いは現在から種の起源をさかのぼって調べようとすることにあると最近報じられている (Newsweek,2006年号)。
 これまで得た集団遺伝子学の成果によると東アジアヘのYクロモゾームの拡散経路は少なくとも2つある。(1)東南アジアのスンダランドから海路で日本へ直接広がってから、更に当時陸続きであった東アジアへと広がったという道、(2)東南アジアを経て中国へ広がった道である。何れも南方起源説である。日本人の起源説では、(1)南方起源説(東南アジアから来たとする)、(2)北方起源説(東アジア大陸からきた)という2説がある。最新の集団遺伝子学の成果からすると、南方起源説が有力らしい。
 オルドバイ渓谷で生まれたアダムとイブの子孫達は、食物を追ってアフリカを出て3つの経路をへて日本へ到着したと推定されている。第1のルートはアラビア半島からインドの沿岸沿いに進みいち早くジャワ付近へ到着した。それから北進して日本を始めとする海岸に到着したというのだ。氷河期には大量の水が氷河に閉じ込められていたので、地球全体の海水面は今より少なくとも100mは下がっていたと推定されている。そこでヒトが東南アジアに拡散するのに必要な回廊地帯が出来ていた。現在の海底の状態からすると、ジャワ島やスマトラ島などの一帯は海面が30m下がると東南アジア大陸と地続きとなる。この大陸棚の地帯をスンダランドと呼んでいる。このジャワには原人の化石が豊富にあるし、ヒトと同時に移住してきたオランウータンなどの大型類人猿も存在する。やがて日本の南岸に到達した子孫達は干上がっていた日本海の海底から、今の中国大陸などへ広がって行ったと推測されている。
 つまり中国人や韓国人は我々の子孫でもあるということになる。その証拠は3つある。(1)現在生息している類人猿は5属だけで、生育域もアフリカと東南アジアに限られている。猿人の分布はこの類人猿の分布に一致していると考えられている。(2)先に述べた集団遺伝学の成果である。(3)ジャワ原人は北京原人よりも時代が古い。(4)インドネシアのフローレス島で史上最小の原人の化石が見付かっている。これらは第1のルートを支持する証拠である。興味があるのは、これは従来日本人のルーツは大陸から来たとする北方起源説とは逆である点だ。
 ちなみにこのマレー半島の調査成績から、博物学者、A.R.ウオーレス(1823−1913)は進化論を思いついた。1858年にダーウィンに送った論文(変異型が原型から無限に離れていく傾向について)には、進化学説が既に書かれていたのである。ダーウィンが剽窃した進化論がダーウイ
ンのアイデアとして誤って衆知されたのは『種の起源』以後である。
 第2のルートは中東から東進してヒマラヤの南部から東南アジアヘと広がり、更に北進して中国大陸をへて日本へ達した道である。このルートは第1のルートよりも通が険しくて危険に満ちていたので、ヒトが日本に到達したのはかなりルート(1)よりも遅れたらしい。かれらの血液型はA型である。
 第3のルートの存在は、集団遺伝子学での証明は未だに不足している。シリア・ヨルダン・トルコから北へ進んだ子孫たちはグルジアへ行き、更にカスピ海の南部からアルタイ山脈の北端を迂回して東へ越えて進んだ。マンモスなどの大型動物は、最も効率のよい狩の獲物だった。
 マンモスハンター達の肌は、やがて黒から黄色に変化した。顔立ちは、彫が深いのが特徴である。彼らは、古モンゴロイドと呼ばれている。当時の気候は暖かく、シベリヤは草原地帯だったが、約6万年前に突然訪れたヴュルム氷河期に草原はツンドラへと変わり、マンモスは絶滅した。しかしバイカル湖周辺で、逃げ遅れて寒さに閉じ込められてしまったアジア人が存在した。厳しい環境下にもかかわらず、彼らは極寒のシベリヤに適応して、奇跡的に生き残ったのである。この頃に0型の彼らは恐らくビールス感染を受けて遺伝子が変化して、新しくB型の新人が生まれたとされている。
 この新人は大興安嶺山脈の北端を迂回して東進した。当時の氷河期には日本列島は、大陸と繋がっており、日本海は湖だった。彼らは、北から津軽海峡を歩いて渡り、本州に到達した。彼らこそ、縄文人やアイヌ人の先祖である。混血で誕生した日本人の一方の源流とされている。日本の縄文人の歯からとったDNAを調べたら、90%が、バイカル湖のほとりに住むブリヤード族の人たちと一致したと報告されている。さて、この第3の道は西暦1200年代に襲ってきた大氷河期に生存を脅かされて南へ移動して結果としてユーラシア大陸を席巻した英雄・チンギス・カンの通った道として知られている。私はB型なので第3のルートでご先祖は到着したのだろうと想像を逞しくしている。
 これを最後に長岡への24時間かかる長い帰路についた。この旅は私達にとって今までの旅のなかで、一番楽しかったけれども一番きつかった。予想したように、この旅で化石や野生動物を見ていると「ヒトは何処まで動物か?」への答えが次第にみえて来た。〔Seeing is believing〕である。だから応用生物学である医学を職業にしている医師会の皆さんへ、体力の有る内に、是非ともお勧めしたいのがオルドバイ渓谷への旅である。(終わり)

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真夏の夜のイナバウアー   廣田雅行(長岡赤十字病院)

 皆様、先ず写真1を御覧下さい。時々夏になると見掛ける写真だと思います。私も小学生の頃、たまたま家の庭の柿の木で、何を間違えたか真っ昼間、羽化を始めた油蝉を見つけてその美しさにすっかり魅了されたものでした。
 その後カメラで蝶の写真を撮ったりする様に成ってから時々夏の夜、フラッシュ撮影の練習にこんな風な写真を撮って居ました。その内、羽化の全過程を撮れないものかと思い、時々実行して居りました。すると、その経過の内で非常にスリリングな場面がある事に気が付きました。さあ、それでは一連の経過を御覧頂きましょう。
 先ず頭部と背中が割れて中から成虫の姿が見え始めます。どんどん前方へ這い出す様にして羽化が進み脚も見えて来ます。(写真2〜4)
 このままずっと進むかと思って居ると意外な展開が待っていました。身体を立ち上げ、どんどん反り返り始めるのです、本当に今にも抜け落ちてしまうのではないかと思われるほどに! (写真5〜7)
 其処から強烈な力を発揮して一気に体を起こし腹部の最下部を抜き去ります。(写真8〜10)
 その後は見る間に美しい羽根を伸ばし始めます。一旦ピンと張った後通常の姿勢の屋根形に整えて行く様です。(写真11〜14)
 朝になる頃には写真15の様に、見慣れた普通の油蝉に成っています。
 さあ御分かり頂けたと存じます。写真5〜7の間のあのスリリングな姿勢、美しい衣装と相侯って、正に「真夏の夜のイナバウアー」と呼んでも良いのではないでしょうか? こんな姿を実は比較的簡単に見る事が出来ます。油蝉が鳴き出したなと思われたら、大き日な樹の生えている公園を先ず探しましょう。皆様ご存知の様にその樹の根元の地面に1〜2Cmの穴が多数空いていればしめた物です。これを手掛かりとして、夜8時前後に成ったら懐中電灯を持って行き、その樹の根本から低い枝先まで照らして御覧に成って下さい。早い時間帯ですと幼虫(この辺ですとモズでしょうか?私達の所ではゴトとよんでいましたが。)が這い登って羽化に適した場所探しをしています。9時前後にはこの様な姿が見られるように成ります。因みに今回の写真は家へ幼虫を持ち帰って羽化の経過を撮った物ですが、写真2〜4迄が21時25分〜21時42分、写真5〜7迄が21時45分〜21時55分、写真8〜10迄が22時09分〜22時11分、写真11〜14迄が22時15分〜22時27分で、ほぼ1時間位を要しています。
 幼虫を持ち帰ると中々上手く周囲の物に掴まる事が出来ずに羽化に失敗したりするケースも有り、余り御勧め出来ません。又、羽化の時は身体がヤワですので決して触らない事が肝要です。出来れば公園のその場でお楽しみ下さい。夏ですので薮蚊対策をお忘れ無く。あ、それから野外ですので、蛾や他の甲虫、それから油虫も結構出ている事が多いので、その辺は御覚悟を。
 来年も7月末から8月中旬頃迄はお楽しみ頂けると思います。お子様、お孫さんと観察されればきっと皆様の株が上がる事請け合いですし、夏休みの日記等にも如何でしょう。尤も、その頃には 「イナバウアー」は既に死語でしょうかねェ。

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庭先のビオトープ  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 夏のある朝のこと、他のメダカに餌をやりにゆくと、ひとの睫毛ほどのメダカの赤ちゃんがたくさん泳いでいます。さらには同じくチビながら太めのオタマジャクシもいるではありませんか。こんな庭先のちゃちなミニ池で自然の営みが…などと思うとちょっと感動でした。
 「おーい、他に来てみなよ。メダカ
と蛙の赤ちゃんが生まれてるよ。」
 「ほんとだ、おたまじゃくしは初め
てだね。このところ庭先の雨蛙が数多くなっていたものね。すごいわね。この庭もこれならビオトープと言えるかもしれないね。」と家人。
 「なにさ、そのビオなんとかっての
は?知らないぞ、そんな言葉。」
 「あら、校庭にビオトープを作ると
か最近テレビでもよく見るわ。」
 そこで調べてみますと、なんでもビオトープの語源は生命−バイオと場所−トポスの合成語で、「生物の生息する空間」の意味。日本生態系協会の定義は、大小のレベルを問わずに「森、湿原、川や池など、野生の生物の生息する自然空間」とのこと。ビオトープ管理士なる資格もあるそうで、環境工学などの勉強をして取得するようです。インターネットで見た名簿では新潟県に二十名余りこの管理士がいます。
 学校の校庭や公園に流れのある池を作ったり、樹木を増やして、小鳥などの小動物や魚や昆虫などの生物が住む自然を作るなんて感じなんでしょうかね。
 さて我が家の庭のミニ他の話に戻ります。数年前にホームセンターで買ってきたひょうたん型の枠を地面に埋めた代物。もちろん水の流れはなく、雨水以外では水道ホースで水を追加。当初は金魚と水蓮の小鉢を入れたのですが、近所の猫かカラスに捕獲され……真犯人は迷宮入りのまま……金魚の数が減り、そして誰もいなくなった、のです。あきらめて代わりに、敏捷なメダカを飼い始めたのでした。
 庭ではミニ畑も含めて、農薬や消毒薬を撒布しないので、以前からバッタ、カマキリ、クモ、ハチ、蝶、トンボなどの昆虫と、その捕食者であるカナヘビやカエルもたくさん暮らしております。
 この夏はその他も「勝手でしょ」と飛んできては水浴びするカラスのために、油が浮き黒く濁るなど被害が日々エスカレートしました。そこでメダカを池から掬い上げ、新たに購入した大きい水鉢に移動させ、池を撤収閉鎖する作業開始しました。オタマジャクシに足が生えて雨蛙となり、池からいなくなるのを、秋まで待ったわけでした。
 そろそろよいかなと見当をつけたある日。他の水をすっかり汲み出しました。ところが今度はなんと水底の砂を、ヤゴ(トンボの幼虫)が数匹歩いているではありませんか。懐かしい……いたずら少年時代に掴まえて遊んだ思い出がよみがえります。数十年ぶりのご対面であります。
 家に入り、手元の昆虫図鑑を参照すると、どうやらもっとも身近に見かけるシオカラトンボの幼虫と推定されます。
 あわてて他に水を戻しました。
 無事に育ち、いずれは大空に飛び立って欲しいものであります。
 「あれっ、池を潰しちゃうんじゃな
かったの?」と首をかしげる家人。
 「うん、やめた。だってトンボの幼
虫が住んでいたんだもの。」
 数年前に詠んだ拙句であります。

  蜻蛉生れ水際に空始まれる

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