長岡市医師会たより No.327 2007.6

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もくじ

 表紙絵 「広瀬川(仙台)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「高橋剛一先生の思い出」 石川紀一郎(石川内科医院)
 「平日準夜帯の内科診療についての提案」 会長 大貫啓三(大貫内科医院)
 「地元にアルビレックス新潟がある幸せ」 小林代喜夫(立川綜合病院)
 「くすの記」 杉本邦雄
 「春、ふたたび」 廣田雅行(長岡赤十字病院)
 「京都・西行庵にて」 岸裕(岸内科・消化器科医院)



「広瀬川(仙台)」 丸岡 稔(丸岡医院)


高橋剛一先生の思い出  石川紀一郎(石川内科医院)

 診療の途中で何気なく取った電話口で、医師会の星君の何かびつくりした様な、がっかりした様な声で先生のお亡くなりになった事を知らせて来た時は本当に驚きました。
 先生とのお別れがこんなに突然、こんな形で訪れるなんて夢にも思っていませんでした。
 ついこの間まで医師会の監事の仕事をご一緒させていただき、ほんの一年位前に、ひと仕事を終わらせ少しほっとされたご様子の先生とお別れしたばかりでしたのに。
 思い起こしてみますと、先生との出会いは昭和29年新潟大学医学部入学時にテニス部で一年先輩の先生にお会いした時に始まりますが、その前の新潟中学、新潟高校、プレメディコースと一年遅れでずっと同じ道を歩いて来ましたので、あちこちでお会いしていたことと思います。当時先生は同級の森内さんとダブルスのペアを組まれソフトテニス張りのキッチリ前後衛に分かれた陣形でドンドン強い球を打ち込んでこられていました。その他遠征や合宿、先生と戦った炎天下での長いシングルスのゲームなどが断片的に懐かしく思い出されます。
 卒業後先生は第二内科に入局され、第一内科に入った私とは十年余りの間ほとんどお会いする機会もありませんでした。
 その後、昭和44年1月に私が長岡中央綜合病院に赴任した際に先生に再びお会いすることとなり、以来38年余に及ぶ後半の長いお付き合いが始まったわけです。
 先生は昭和40年2月から57年9月までの17年間、中央病院にお勤めになっておられますが、私が病院を去る56年までの12年間ご一緒させて頂いた事になります。
 最初の頃先生は内科の中堅所として、主に胃カメラを中心とした消化器班で活躍されると共に、当時先進的であった病歴管理業務の改革にも取り組んでおられました。
 この病歴管理の重要性は当時余り認識されておりませんでしたが、現在の病院運営には欠かせないものであり、いち早くこれを導入された先生の先見性は高く評価される所です。その後47年に亀山先生が院長に就任されてからは内科全般の統括管理の立場で的確に仕事をこなしておられました。
 昭和57年に開業されてからは、日常診療の傍ら長岡市医師会の理事、副会長、会長、監事などを昭和61年から20年間に亘り歴任されており、医師会活動を通じて地域医療の発展に貢献された業績は計り知れないものがあります。
 その主だったものを挙げてみますと、「在宅ケア検討委員会の設置」と「寝たきり患者24時間在宅ケアシステムの立ち上げ」、「病診委員会の設置」と「医療機関機能マップの作成」、「要介護認定事業の立ち上げ」、「震災対策委員会の設置」などがあげられます。
 また、各種健診事業、健康増進教室の実施に当たり行政側との折衝、調整等でも大いに貢献されています。
 話は変わりますが、開業されて1、2年経った頃でしょうか、先生から夕方テニスをしませんかと云う誘いがあり、運動不足の為にも良いのではないかと考え喜んでお付き合いする事にしました。週2回、と言っても実質週1回程度午後7時ちょっと前から8時頃まで時々休みをいれながら、ただ黙々とラリーを続けるだけのものでしたが当人同士は結構満足しておりました。このテニスのお付き合いは、つい3、4年前まで、かれこれ15年位は続いたように思います。途中、今日は休みたい、雨が降ればよい、と思った日も何日かありましたが、何とか続いたのは何時も先生が言っておられた“継続は力なり”と云う信念のお蔭かもしれません。テニスの上達は有りませんでしたがこの“継続”のお蔭でいつの間にか先生との絆がより力強いものとなったことは確かのようです。
 思い出すままに先生との思い出を綴らせていただきましたが、もうこの辺で筆を置くことと致します。
 先生どうか安らかにお休みください。でも、もし退屈なさる様な事がありましたら“千の風”になって、ご家族や私たちのことを見守っていてください。

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平日準夜帯の内科診療についての提案  会長 大貫啓三(大貫内科医院)

〜 勤務医の疲弊を防ぎ、市民の健康を守るために 〜

 うっとうしい季節になりましたが、会員の先生方にはお元気でご診療にご活躍のことと存じます。
 日頃は、休日診療所の出務にご協力いただき感謝しております。昨年度は、インフルエンザが流行したこともあり、長岡市からの補助金の一部を返遷するほど、休日診療所に患者さんが来てくださいました。出務してくださいました先生方には、心より御礼申し上げます。
 昨年3月20日より開始いたしました準夜帯の長岡市中越こども急患センターは、中越地域の小児科の先生方のご協力を得て順調に推移し、一日平均12人程の小児が受診されております。この小児救急事業は、すべて小児科の医師が診るということで、他地域にはない特化されたものであり、小さな子供さんのいる親御さんにも大きな安心を与えるもので、大変好評を得ております。
 しかし、夜間の大人の救急医療は、市民の夜間に当番病院を受診する以前からの傾向は如何ともし難く、その結果、緊急性を要する二次、三次を受け持つ病院の夜間救急業務に支障を来たし、勤務医の疲弊につながっていることも事実であります。
 このような状況がこれからも続き、勤務医の負担がさらに増すようであれば、まさに医療崩壊にもつながりかねません。
 そこで、会員の先生方に提案があります。長岡市中趣こども急患センターで小児科医が行っているのと同様の準夜帯の診療事業を、現在の休日診療所で内科診療をされている先生方(外科系の先生方で内科可能な方を含む)でチームを組んで新たに行いたいと思いますが、いかがでしょうか。このことが市民の健康を守り、勤務医の疲弊を少しでも軽くし、医療の崩壊を招かぬ為の一助になればと思っております。
 確かに病気の時は、日中の診療時間内に受診していただくよう指導するのが先決との考えもあろうとは存じますが、会社の帰り際や、帰宅してから具合の悪くなる方もいらっしゃると思います。緊急性を要しないこれらの方々を、せめて小児救急と同じように平日準夜帯の午後7時〜10時までの問診療し、病院の先生方の仕事が二次、三次の救急に専念できるようになればと考えこの提案をいたします。
 またすでに、新発田、新潟、吉田、三条、柏崎、上越の各地で、平日の準夜帯の全年齢層に対する救急診療が行われております。
 医師会の試算では、小児救急と同じくらいの人数が受診されたとしても、やはり市からの補助金はどうしてもいただかなければやっては行けません。幸い現在の休日診療所の延長線上で、今と同じ場所を使用し、夜間の診療所を立ち上げることは法律上も無理はないようです。長岡市の方にも、健康課を通じて予算面での補助をお願いしようと考えております。
 様々な困難も出てくるかも知れませんが、私達が熱意をもって当たればなんとか道は開けるものと信じております。
 以上の方針は、7月の理事会でご承認をいただき、7月26日の臨時総会(ビールパーティー)でもご提案差し上げようと思っております。諸般の事情をご賢察の上、この事業がまとまりました時には何卒ご協力の程お願い申し上げます。
 (いろいろなご意見があろうと存じます。忌悼のないご意見を医師会にお寄せください。)

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地元にアルビレックス新潟がある幸せ  小林代喜夫(立川綜合病院)

 鳥屋野潟で羽を休める白鳥の姿を連想させるビッグスワンの美しい白い大屋根を目指してスタジアムに向かった。なだらかな階段を登り、コンコースからスタンドへ通ずる入場ゲートをくぐった。するとスタンドを埋めた観衆のざわめきと「アルービレックス!アルービレックス!」と叫ぶサポーターの声が一段と大きく耳に届く。ゆっくりと足を進めると、新緑の天然芝が敷かれた広大なフィールドが眼に飛び込んで来る。そして、その鮮やかな絨毯のようなピッチ上をオレンジ色のユニホームを着た選手達が軽快に動き回り、白いボールを蹴って試合前のウォーミングアップをしている。MCの選手紹介に合わせてサポーターも一緒になって贔屓の選手の名前を叫ぶ。間も無くして試合開始の笛が吹かれる。オレンジ色に染まったホームゴール裏では密集したサポーターが立ち上がり飛び跳ね、ピッチ上の選手に向かって拳を振り挙げ声を嗄らして応援している。試合の進行と共にその興奮は徐々に増し、熱い空気がスタジアム全体を満たしていく。攻守入り乱れ、ボールが前後左右に展開する。溜め息と歓声が繰り返される。そして我らがアルビレックスのゴールが決まった瞬間に、その歓声と伴に興奮のヴォルテージはピークに達する。サッカーの歓びや楽しさはゴールの瞬間に集約される。アルビレックスのゴールにより更に気持ちが高揚し、お祭りの興奮がるつぼと化す。ここにはこれまで経験したことのない未知の空間と時間がある。アルビレックス新潟の育ての親である池田弘氏がいみじくも「異空間」と表現した非日常の空間を始めて体験した。
 そんな運命的な日から今年で6年が経ちました。元々野球よりもサッカー観戦が好きでした。ワールドカップでの華麗な個人技や予想を超えた劇的な試合展開などに興奮したり感動したり。まだまだ経験も実力も今一つの日本代表のワールドカップ・アジア予選をハラハラドキドキしながら眠い目を擦ってテレビ観戦していました。そして、サッカーを生で見るといえば休日にサッカーをしている小学生の息子の試合を応援に行った時くらいでした。そんな頃、5月の土曜の昼下がり家内と息子と3人で息子のサッカークラブから配られた只チケットを持って暇つぶしにビッグスワンを訪れました。そして冒頭の予想外の感動的体験となった訳です。記憶を辿って調べてみると、その日は2001年5月13日ビッグスワンの柿落としの日だったようです。対戦カードは12リーグの第12節、京都パープルサンガ戦で残念ながら3対4でアルビレックスが惜敗した試合でした。入場者数は3万1千人と記録されていました。幸運にもアルビレックス初観戦が、アルビレックスがビッグスワンにデビューした日だったのでした。その日以来、暇と只券が手に入ると観に行くように成りました。そして日韓ワールドカップやアルビレックス新潟J1昇格などを経て、今ではアルビレックスなしの生活は考えられない状態となりました。
 サッカー不毛の地と言われ、また野球を始めプロスポーツとは全く縁のなかった雪国新潟。ワールドカップの試合会場を誘致するにはプロサッカーチームの存在が必要であった為に作られたアルビレックス新潟。そんなチームがビッグスワンという素晴しいスタジアムに出会い、ワールドカップ地元開催の好機も手伝い、お祭り好きで娯楽の少ない新潟の県民事情に合ったのか毎試合3万人を越える観客でスタジアムが埋まっている。まだまだ優勝争いに加わる実力はないけれども、何とか残留争いの心配のない中位をキープしてJ1定着を果たしている。そして、近い将来には国内タイトルを取り、いずれはアジアそして世界へ進出することを夢見ている。そして地元にJ1のプロサッカーチームがある幸せを日々感じている。
 このような次第で熱帯魚とジャズ鑑賞に加えて3つ目の趣味が加わりました。4年前から年間シーズンパスを首から提げ、これまでホーム戦は皆勤を続けています。これも土曜日の診療を早々に切り上げても、嫌な顔せず微笑んで送り出してくれるサポーター(当院の小児科の先生達)のおかげだと心から感謝しています。

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くすの記  杉本邦雄

 3年前、市より景観賞をいただいた我らが愛する長岡市医師会館、そのゲートをくぐり敷地内に入ると、左手に緑のコーナーがあります。その地に種々なる植物が植えられていますが、その中で現在あまり樹形は良くないけれど、何か気品のある(?)4〜5メートルの立木が息をしているのにお気付きの先生がおられると思います。この木の名称はクスノキです。

 百科事典によると

 クスノキ 樟、双子葉植物・クスノキ科の常緑高木。本州の関東南部以西から四国・九州・台湾・中国などの暖地に広く分布する。樹皮は暗灰褐色で、縦に細かい割れ目が出来る。5、6月に葉の脇から円錐状の穂を出し、多数の六弁の小花をつけ、はじめ白色でのちに黄緑色に変わる。果実は球状で10、11月に黒く熟し、つやがある。木全体から、樟脳をとり薬用とする他、材は建築・器具・楽器・船舶などに広く使われる。防風林・並木・庭木などにもされる。漢名は樟で「楠」はクスノキではない。

との記載があります。

 この木(彼女)の既往症について記してみます。

 確かな記憶はありませんが、昭和40年後半、東京の義弟から「鳥が運んで来たのか、実生のクスノキが庭に生えており、その一本を持って来た、雪国においては無理かもしれないが、ダメモト、可愛がってみて。」とのこと。そうですネ、約40センチの身長、体躯5ミリメートルの苗木でした。半信半疑で植えたのですが、なんとスクスク成長し、現在の高さに至った次第です。
 平成16年、拙院を閉じるにあたり他の庭木の大半は没にしましたが、彼女だけは何とか命を続けさせてやりたいと思いました。植木屋に相談しました。「雪国では育ち難い上に移植は無理、殊にこの暑い盛りでは望み薄、生着はあまり期待しないで。」とのこと。でも何とか生かしてやりたい。
 当時の斎藤会長、竹樋事務長にお願いし許可を得、結構な経費がかかったけれど、7月中旬、炎天下でしたが移植しました。その後は週に数回、会館を訪れ脈を診ておりました。実は会館が竣工し、その際、植えた木々が、土壌の不可からか何本かが枯れた既往があり、植木屋に頼んで活性剤大量投入後の経過観察なのでした。
 嬉しいことに訪ねる度にバイタルサインは回復、「樹形を整えて。」と植木屋に催促する状態にあります。
 関東以南では、かなりの樹齢のこの木、状況によっては何百年も生存できる植物なのです。地球は今、異常な温暖化現象が加速しつつありますが、ヒトには不都合でも彼女にとっては幸せな事かもしれません。よろしく可愛がって頂ければ幸甚です。
 以上、ささやかな植物実験の中間報告です。

 −この木の最終報告、遠き未来にてを念じつつ−

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春、ふたたび  廣田雅行(長岡赤十字病院)

 春は再び巡り来て、あんなに不順だった事も忘れたかの様にのどかな顔を見せて来た4月末。未だ食草のウマノスズクサもようやく背が伸び始めた所だと言うのに(写真1)、家の干物寵に収容していたジャコウアゲハの初蝶が羽化しました。雄が2頭、4月29日の事でした。次いで5月1日雌が後を追う様に旅立ちました。(写真2:雄、3:雌)
 去年の秋に蛹に成って約半年、ようやく自由を謳歌出来る事に成った訳です、約半数は。え、全部じゃあないのかですって?。そうなんですよ、実は今年の一月、二月は妙に暖かったですよね。それで、このまま外で干物籠に入れて置くと、早く羽化し過ぎるのでは無いかと思い、飼育していた箱の壁に付かず、ガーゼに付いたり、上手く壁に付けなかったりした約半数を、冷蔵庫の野菜室に収容したのです。スペースの都合からなのですが。
 羽化はそれからどんどん進み、此れ迄で(5月19日現在)44頭を数えました。併し、その内1頭が全く羽化出来ず死亡。又、2頭が羽化はしたものの、羽が上手く伸ばせず、結局飛べない蝶々と成ってしまいました。羽化の成功率は約93%、上手く行った方だろうと思って居ます。残念ながら羽の伸びなかった2頭は、家の脇の花の一杯咲いた野原に放しました。

 さて、一寸見にくい写真で恥ずかしいのですが、羽化の状況を御覧頂きましょうか。御覧頂いている蛹は、中の蝶の羽や体の色が透けて見える様に成って来ています。(写真4)
 こうなって来ますと、後は何時出て
来ても不思議の無い状態です。と言いつつ、一寸目を離した隙に頭部の部分が割れて、這い出して来てしまって居ました(写真5)。
 本来は
壁に付いて居ますと、自分の殻に掴まって身体を抜き出すのですが、この個体はガーゼに付いて居た物を横に置いた為、以下の写真の様に這い出して来てしまいました(写真6、7)。その後は、羽を伸ばす為のスペースのある場所で、体液を羽に行き渡らせて伸ばして行きます(写真8、9)。この間の時間は、流石に一番無防備な時でも有り、約十分位でかなり早い物です。但しこの状態でも未だ羽がヤワで、飛べる様に成るにはもう少し時間がかかります。
 ゴールデンウィークの出番の日、病院からの帰りの道すがら、水道公園の有る土手の所で、3〜4才位の男の子と其の母親らしき女性が、其の女性の靴の所を指差しながら何か話しているのに行き当たりました。見るとジャコウアゲハが止まっていて、それに付いて話しているのでした。男の子は、「この黒蝶がお母さんの靴の所から離れないんだ。」と言いつつ、手を出したものかどうか迷いながらも邪険に手で払うでも無く、何となく面白そうにしゃがみ込んで見て居るのです。母親はと見ると、此れも靴にアゲハを止めたまま、むしろ面白そうにしています。良いな、と思いながら、つい口を出してしまいました。「それはね、ジャコウアゲハと言うチョウチョでね、ここの土手に居るんだよ。」「へえー。」と、此方を向いた二人共一寸ビビッテ居たかな。ゴメンナサイ、何せこちとらグラサンに自転車で突っ走って来ての一言だった物で……。それでも、「羽の所の匂いを嗅ぐとちょっと香水みたいな匂いがするのでそう呼ばれて居るんだよ。」と言うと、其の子は羽に鼻をくつ付ける様にして「ホントだ。」と。いえいえ、決して脅して喚がせた訳では有りません、念の為。ま、其の年で香水が解るか?と言われると、流石にねエ?。「多分これは家でチョウチョに成ったのを、放してやった物の内の一頭だと思うけどね。」「へえー。」「未だ今日は寒いからあんまり飛べないんだよ。」「へえー。」と、「塀(へえー)」が三つも並んでしまいました。立ち去り際に、「此れは雄だから羽に匂いが有るんですよ。」と言うと、母親は又もや「へえー。」、此れで四つ目。男の子は「……?」、首を傾げています。「男の子だよ。」と言うと、「そうかァ!」と言うように肯いて居ました。
 さて、そろそろ冷蔵庫の中の残りの連中を徐々に起こして行かないと、今度は遅れてしまう。等と思いつつ外へ出ると、もう既に雌が卵を産み付けにやって来て居ました。
 今年は一人でも理解して貰える人が増えて呉れると良いなと思っていましたが、身近な所に理解者が居ました。同じ病院の外科のS先生です。去年の秋頃からジャコウアゲハの蛹を持って来て呉れて、「落ちかかって居てね、助けてあげて。」とか、「あそこでは増えているかもね。」とか教えて呉れたりして居たのですが、とうとう今年に成ってからはデジカメ片手に通勤途中の色々な物を見事にスクープし始められる様に成り、「先生、こんなのが居ましたヨ。」と、見事な写真を見せて呉れています。楽しみで〜す、先生宜しく。
 さあ、今年はどんな風になって行くのか、楽しみなような恐いような、複雑な所です。皆さん、デジカメ片手の通勤も良い物ですよ。又、ジャコウアゲハも少数の飼育なら簡単です。トライして御覧に成りませんか?但し羽化した蝶は、放してあげて下さい。自由な空を知らない羽は可哀想。そう思いませんか?。

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京都・西行庵にて  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 中越地震で延び延びになっていた母の納骨を今年の5月連休にようやくすませた。父の納骨以来、実に20年ぶりの京都旅行でした。
 5月3日に大谷本廟で無事に納骨お参りを済ませたあとで、ゆっくりと茶碗坂を登り清水寺をめざす。
 「お父さん、みんな来ないよ。」長男のあきれ声です。妹は清水焼きの店に、家内と娘は扇子やくし専門の小間物屋に入ったきり出て来ません。
「(清水寺前の)坂を登ったところの茶店で待つ。」と長男にメールを送らせ、時代劇に出てきそうな立木に埋もれ木造築ン十年の茶店で緋毛織の縁台に腰掛け水戸黄門と助さんの気分にひたり、お茶と串団子、ところてんとひやしあめを頼む。
 坂の上から振り返るとさすが連休中の京都。ものすごい人出。坂道を善男善女が蟻のように隊列を作り這い上がってくる。本日好天。一服により噴き出した汗がひっこんだところでいよいよ清水の舞台へ。
 さすが世界遺産。木造建築の威容と絶景に声もなし。しかしよくもこれだけ人が乗っても大丈夫なものだ。
 で、昼飯は八坂神社の門前のしにせ京料理屋に茶箱弁当を予約しておいたのだが、清水寺を出た時には景色に見とれていたのか、人波に圧倒されているうちに予約時閉まであと30分。道も良くわからない。
 客待ちの人力車の車夫に掛け合う。…「承知しました。ご予約時間までに八坂神社まで」。と渋滞し動けない車の列の合間を縫うように走り、小道、坂道、裏道へと通り抜ける。風が心地よく頬をなでる。
 「日本で一番古い五重の塔です。ここからが一番よく写真に入ります。」と案内も満点。予約時間丁度に到着。八坂神社門前で記念に一緒に写ってもらったのだが、思いっきりポーズをとって決めてくれた。
 あの渋滞でタクシーに乗ってはとても間に合いませんでした。感謝!
 さて楽しみにしていた昼飯は、たけのこと生魅とゆばの煮物、明石の鯛のお造り、焼きもの、じゆんさいのみそ汁、京漬けの香のもの、たけのこ御飯にフルーツだった。息子の顔に「これだけ?量が足りない、肉が無い。」と書いてあったが、茶会の野点などに使われるという茶箱に品良くもられ、まあ結構でした。
 満ち足りた気分で高台寺、円山公園と見て回り、今回一番楽しみにしていた西行庵拝観へと向かう。
 鼻高く、品高い庵主様がお出迎え下さる。お若い時はさぞやの京美人。
 本日は7人の客(岸家5人と福岡よりの美女2人)。正客は男の私。
 ティー・セレモニィーが有るとは聞いてなかった。…腹筋と背筋にリキを込めて座を正す。大河ドラマの千利休はこんなもんだったかな。人間、見た目が一番。
 下賀茂神社の宮司様お好みというお菓子を頂きながら、京の話と西行庵の由来を伺った。
 「…京都は美しい観光の街。が、切ない時代もおます。清水の舞台からは死人を投げ降ろしたんどす。」
 「京都には“蹴上げ”いう所がおま
す。罪人が刑場へ引かれ歩みが遅うなるき役人が蹴り上げたんどす。」
 「茶室は時の為政者の密談の場所ど
した。」
 …歴史は一筋縄ではいかない。
 子供達が円形の月見障子を気にしている。障子に映る黒い影。丸い頭。張り付いた手足。…「うちで飼うておりますやもりどす。」
 …家内が小声で何か言うてる。…
 「一句できた」。はいはい、聞かせ
てごらん。

 “密談を聞いていたのは、やもりだけ”−祥子−。

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