長岡市医師会たより No.331 2007.10

このページは、実際の会報紙面をOCRで読み込んで作成しています。
誤読み込みの見落としがあるかも知れませんが、ご了承ください。


もくじ

 表紙絵 「越後三山遠望(川口)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「乳井先生のことども」 関根光雄(関根整形外科医院)
 「山と温泉48〜その55」 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「長岡市医師会ゴルフ大会優勝記」 吉川明(長岡中央綜合病院)
 「第8回長岡肺癌研究会を終えて」 富樫賢一(長岡赤十字病院)
 「研修医のひとりごと」 笛木はるな(長岡赤十字病院)
 「スポーツの秋・食欲の秋」 岸裕(岸内科・消化器科医院)



「越後三山遠望(川口)」 丸岡 稔(丸岡医院)


乳井先生のことども  関根光雄(関根整形外科医院)

 乳井先生が亡くなった。かねてより体調の不良をきいてはいたが、こんなに早い時期に亡くなられるとは思ってもいなかった。
 思い起こせば古くなるが昭和30年4月当時の整形外科医局の集まりで恩師故河野教授が今度入局したなかですごくテニスのうまいのがいると御自身もたしなまれているので本当に感動して話されていたのが思い出される。これが乳井先生のことであった。
 整形に入局してからは同期の森田先生と筋電図を担当していた。どちらかというと整形外科のなかで一番不得意な神経学を得手としていたのは羨ましい限りであった。
 先生は、秋田県大館市の出身で入局当時は声も小さく、典型的な秋田弁で何をいっているのかよくきき取れず何回か聞き直してやっと納得のゆく次第であったが、後年特に小出病院と関係をもつようになってからはずいぶんと標準語になり、話しやすくなったと記憶している。
 普段は余り喋る方ではなかったが時に大胆な発言もあり、ギョッとさせられることもしばしばであった。
 2〜30年来、毎年2月と8月に祖父江先生も入れて小出と長岡で麻雀の定期戟を行っていたが、その腕は大したものであったことは知る人ぞ知るで勝率も断然よかったはずである。
 それが3年ほどまえより突然おかしくなり、チョンボはする、パイを積崩すようになり、どうしたんだと思っていたらそれを裏づける言動が伝わってくるようになって今回の訃報である。
 年令も一才しか違わないのでいろいろ接触する機会も多かった。県立小出病院の院長時代より月に一回国保審査員として向かい合わせに座って審査かたがたいろいろな話をしたものであった。最近は余り逢う機会がなく、突然の今回の計報で驚くと同時に、ただただ嘆かわしく深く冥福を祈る次第である。
 先生は海軍兵学校の最後の級で敗戦後新潟医科大学に入り、昭和29年に卒業、30年に整形外科教室に入局、前記の如く筋電図をやりながら整形外科を習得、34年に会津若松の竹田綜合病院に勤務、36年より県立小出病院に赴任し、医長、部長を経て46年に副院長、56年より院長になり、県医師会の理事も兼務し、一時は整形外科医の中で最も忙しい一人であった。
 平成5年に自治大臣の表彰も受けており、かくかくたる経歴の持主である。
 いま訃報を書くに当たり、彼の偉大な経歴に改めて感嘆しながら弔辞とする次第である。

 目次に戻る


山と温泉48〜その55  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

鷹羽鉱泉(温泉)

 上越市牧区宇津俣宇内山(旧東頚城郡牧村宇津俣宇内山)

 前回は、この鉱泉についてはつきりした資料が見つからず、わからないとしましたが、牧村の村誌が見つかり、漸くその詳細が解りましたので、補足致します。

 『牧村史』(平成十年刊行)に、鷹羽鉱泉(温泉)に就いて、次のような記載がありました。
 この鉱泉の開湯は古い言う。開湯の時代は解らないが、江戸時代には湯治場として存在していたようです。松之山温泉「鷹の湯」の開湯由来と同じく、伝説として、「怪我をした鷹が湯に浸かり治療した」の話があり、鷹羽(鉱泉)の名がつけられた、とある。また、「宇津俣の山中に湧き出ている湯花水を発見し、利用した起源については、地元に言い伝えもいくつか残っているが、明確ではない。」とされている。ところが、江戸時代に入った宝暦年聞(1751〜1764年)「字津俣村の与五右衛門が、宇内山(鷹羽鉱泉と同じ地名)に鉱泉の湧き出ているのを発見し、わかし湯の営業を行い、役所に運上金を上納するようになり、『煖湯冥加役』として年貢を収めた」との文書が残っている。確かに、江戸時代から、湯銭をとって営業した湯治場が存在していた、と記載されている。明治時代に入り、明治政府の新政策として、農業以外の産業育成があったようで、鉱泉を集め、わかし湯として夏期だけ営業を始めた小規模な湯屋があらわれたが、同業者が増えると廃業するものが多く、寂れてしまったと言います。(『牧村史誌』・牧郷土志)なかには、鉱泉を集め、燃料に天然ガスを使い、わかし湯として湯治場を作り、酒肴の接待、酌婦を雇い繁盛した、と伝えられている。しかし地元との約束もあって、二十年程で終わったと言う。わかし湯の湯治場が、地滑り地帯にある事、深山といかないまでも、可成りの山中に在る事、冬期間は営業出来なかった事、などのため、存続出来なかったのでしょう。しかし、昭和4年(1929年)発行の「字津俣温泉組合証券」が残っているのです。組合員は宇津俣住民だったそうです。
 温泉は、熱源があり、水が無ければならない。天智天皇時代(668年)に越の国の「燃土」・「燃水」の献上が、日本書紀に見られるように、頚城地方の東部山間地、殊に、この牧村の川沿いに草生水油の溜め池があったものと言う。草生水油の湧出する場所からは、風草生水・風火、天然ガスが噴出した。このような地域は、当然ながら、温水、鉱泉が川原を中心に自噴し、たまり湯となります。住民は、自噴する温水・鉱泉を集め、湯小屋を建て、天然ガスで加熱し、湯治場として利用し、これを営業とする者まであらわれる事となったのです。
 現在の鷹羽鉱泉は、上越市牧区集落の東方山間地にある。柳島で、R405から県道301に入り、飯田川の橋を渡り、左折、宇津俣集落中心の字津俣温泉「深山荘」の足下を通り、湯の川沿いに山に入る。または、宇津俣集落に入るところで飯田川の橋を過ぎ、右折すると、間もなく路は一本になり、細くなる。左上方に二階建の普通の民家が見えてくる。山の傾斜面に建つ一軒家。路は細く狭いが、鉱泉宿の庭先まで入る。
 持ち主は、佐藤さん。冬期間は休業。5、6月頃から営業。
 鉱泉温度・36度〜37度。温度が低いので、湯と同時に天然ガスが噴出するのでこれを利用して、加熱することができた、とある。(『牧村史誌』・牧郷土志)
 泉質:酸性泉(PH3.0未満)・微乳白色透明・無味硫化水素様臭気・酸性反応とし場
 分析表:硫化水素・硫化鉄・食塩・遊離硫酸・硫酸カルキ・硫酸マグネシウム・有機物・珪酸(PH3.0未満は島津光夫『新潟温泉風土記』より)
 私は、二回程訪れた。いつも無人であった。看板もなかった。「越後佐渡の峠を歩く」の羽賀一蔵氏は、著書の中で、平成10年4月に訪れ、わかし湯に入浴出来たとある。
 鷹羽鉱泉前の路は、そのまま直進すると、関田山塊越えの宇津俣峠に達する。但し、車は通行不能。
 宇津俣温泉「深山荘」は、鷹羽鉱泉の観光開発の身代わりに出来たもの。昭和61年開館。鉱泉は、源泉として利用し、温泉宿泊施設として、交通便利な宇津俣集落中心部の高台に建てられたのだそうです。
 牧村から関田山塊・県境にかけての一帯は、石油、天然ガスと温泉の自噴がみられ、石油採掘事業のための企業が計画されていた。明治時代の牧油田は、最盛期を迎え、直江津、高田から鉄道が入った。しかし、大正時代に牧油田は終焉を迎えた。天然ガスは残り、住民の生活を助けた。現在も天然ガスを燃料として利用している家があると聞く。
 昭和53年に企業は撤退し、牧油田、天然ガスは終わりを遂げた。現在は、僅かに数件の家で、天然ガスを、燃料、暖房に利用していると聞く。天然ガスを燃焼し、その煤から墨を生産する作業は、いまでは昔語りとなった。(続く)

 目次に戻る


医師会ゴルフ大会優勝記  吉川明(長岡中央綜合病院)

 ほとんど冗談とも思えるような結果が待っていようとは知る由もありませんでした。

 9月24日、振替休日の良き日に恒例の会員ゴルフコンペが催されました。先回から参加させて頂くようになり、今回が2回目の出場です。
 生来、玉遊びが好きでゴルフ歴だけは長い方です。一時期は80台でまわることも多かったのですが15年前長岡中央から同じ厚生連の豊栄病院へ院長として転勤した頃からよく100以上叩くようになりました。何しろ気が小さいものですから精神的、肉体的にゴルフに集中できないような状況にあったものと思います。よく70台でまわっていた、あの長部敬一名人でさえ、三条総合病院長になってからはしばしば100叩きの刑にあったと聞いています。ゴルフがうまくなりたかったら間違っても病院長にはならない方がよい、という教訓を得ましたが、とき、すでに遅きに失しました。
 いいわけがましく書いてきましたが、それでもこの10数年107打という数字は記憶になく、我が身の拙なさにただただ打ちひしがれる思いでした。帰宅後、魚藤での表彰式兼懇親会まで暗く、重い時間が過ぎました。足取り重く会場に着き、早速乾杯があり、ひとしきり歓談のあと、太田幹事長より「そろそろ成績を発表します」との御発声がありました。順位表を公表せず「それではBM(ブービーメーカー)から発表します。」要するに賞に当たった下位のヒトから順番に紹介される訳です。
 そもそも、ハンディ戦でないコンペでの順位決めはペリア方式で行われています。今回もダブルペリアがとられ、18ホール中12ホールを隠しホールとし、そのホールで打った打数からハンディキャップを割り出します。そのヒトの普段の公式ハンディとは無関係となる訳です。
 隠しホールで大叩きしますとハンディキャップが多くなり、それ以外のホールでスコアが良いとネット数(叩いた数からハンディ数を引いた数)が少なくなり、上位入賞の可能性が高くなります。ダブルペリア方式では経験的に90打数前後のヒトが優位といわれています。ましてや除夜の鐘(百八ツ)前後ではよほどのことがない限り、カヤの外と思って間違いありません。
 名前を呼ばれるなら早いうちと思っていましたがそれもなく番外になったかと諦めていました。「3位渡辺先生」続いて「準優勝西村先生」と先生方が次々と呼ばれて行きました。「さすがですね。」と賛美する声も空しく聞こえる中、「それでは優勝は!」(やや間があって) 「吉川先生!」太田幹事長の声が急に天使の声(実際に聞いたことはありませんが)になりました。“ウソ”“冗談!”“マサカ!”他に言葉がみつかりません。
 こんな事ってあるんですね。表(※省略)をご覧下さい。
 隠しホール12のうちダブルスコア3つが全部、トリプルボギー4つが全部、見事にハマッていました。まるで、隠しホールをあらかじめ知っていたかのようです。ちなみに長岡カントリーに小生の親戚はおりませんので誤解のないように。
 次に表2(※省略)をご覧ください。8位以内で100以上叩いているのは私だけです。極めて違和感のある成績表になっていることがおわかりでしょう。
 同伴で御迷惑をおかけした渡辺先生、森下先生には感謝とお詫びを申し上げます。
 今回の結果はまさに運だけでした。まれに天は味方することもあるのだと認識しました。次回はどなたがこの幸運を射止めることができますか多くの先生方にチャレンジして戴きたいものです。
 不肖私もこんどこそ実力で優勝したいものと誓いを新たにしております。

 目次に戻る


第8回長岡肺癌研究会を終えて  富樫賢一(長岡赤十字病院)

 7月25日、長岡市医師会館におきまして、加古川市民病院臨床検査科部長の岡村明治先生に、「肺癌の組織分類について(改訂六版日本肺癌学会取扱い規約)」というテーマで御講演いただきました。座長は当初、当院病理部江村厳部長が務める予定となっておりましたが、やむを得ない事情により、私が務めさせていただきました。岡村明治先生は、昭和42年に新潟大学医学部をご卒業になり、翌年病理学教室(北村四郎教授)に入局されました。昭和50年に第二病理学教室助教授(大西義久教授)に就任され、昭和57年に地元の神戸ガンセンター(現兵庫県立がんセンター)に移られました。その後は、マサチューセッツ総合病院に留学された期間以外、ずっと神戸にお住まいで、平成7年の阪神淡路大震災にも遭われました。この度は中越沖地震の余波で、講演会等の中止が相次ぐ中、余震をものともせず講演に駆けつけていただきました。苦悩する肺癌患者を抱えて、地震ごときにおたおたしてはいけないという叱咤激励と受け止めております。
 講演内容は、主に改訂六版日本肺癌学会取扱い規約に記載されている肺癌の組織分類についてです。岡村先生は、この分類の作成に最初から携わっておられ、新分類の特徴や問題点について丁寧にお話くださいました。私はこの講演を聴きながら、しばし昔に戻ったような気がいたしました。系統だった話の展開は医学生時代の講義を思い起こさせたからです。外科医となつてすでに三十余年となりますが、臨床医にとって、このように基本を学びなおすことがいかに大切であるかを痛感いたしました。
 さて、原発性肺癌は治療の観点から、小細胞癌と非小細胞癌とに大別されます。小細胞癌は早期に遠隔転移を来たすため、早期痛であっても治療の主体は化学療法となります。非小細胞癌では早期(?期と?期)の場合は遠隔転移していることが少なく、外科治療が第一選択となります。したがって、術前にどちらであるかを診断することが非常に重要となります。この辺が病理医の腕の見せ所ともいえるかもしれません。しかし、細胞診や生検は腫瘍の極極一部を見ているに過ぎませんので、臨床医は常にあらゆる可能性を考慮して患者の全体像を見て治療していくことが肝要でありましょう。
 肺癌は早期発見が重要です。特に最近では、通常の胸部?線写真では見つかりにくい早期癌が、CTですりガラス様陰影として見つかるようになりました。その多くは、腺癌亜型の細気管支肺胞上皮癌といわれる非浸潤癌で、予後は非常に良好です。江村厳部長が赴任されて以来当院では、細気管支肺胞上皮痛の可能性がある症例では、手術中に迅速病理診断を施行していただき、非浸潤癌と診断された場合には、標準的手術(肺葉切除と縦隔リンパ節部活)は行わず、縮小手術(肺部分切除または区域切除)を施行しています。このような非浸潤癌の症例ではこれまでのところ、再発は一例もございません。これからも慎重に症例を重ねていき、何時の日か、長岡赤十字病院のスタンダードが世界のスタンダードとなるように努めていきたいと考えております。
 さて、会員の皆様のお陰をもちまして、長岡肺癌研究会も八回目を無事終了いたしました。当研究会は、肺癌の治療成績向上を目指しまして、医師および医療技術者を対象に、年一回の研究発表(今年までは一月でしたが、来年からは二月となります)と、年一回(七月)の招請講演を開催してまいりました。現在のところ、肺癌患者の八割以上は診断が確定した時点で治癒が望めない状況です。半面、手術が出来るような状態で見つかった方の半数以上は治癒しており、さらに、幸運にも非浸潤癌でみつかった場合、百パーセント治癒が期待できます。従いまして、いかに早期に発見するかに患者の生命はかかっているわけであります。会員各位におかれましても、この研究会を通しまして、肺癌のご理解を更に深めていただき、日々御多忙の診療の際にお役立ていただけたら望外の喜びであります。今後も長岡肺癌研究会への御支援のほどを宜しくお願いいたします。

 目次に戻る


研修医のひとりごと  笛木はるな(長岡赤十字病院)

 誰が言ったか「女の賞味期限は27歳」なんて恐ろしい言葉もありますが、あと半年ほどで賞味期限を迎えるにあたり、自分の人生(といってもまだ短いですが)をしみじみ振り返る事が多くなったような気がします。
 私は医学部に入学する前、看護学生でした。その頃は「看護の学生達れて来てー」と合コンに誘われることも多く、また当時の学内では看護の女の子を彼女にすることが一種のステータスのような雰囲気もあり、それまで全くモテたことがない私なんかでもいいのだろうか?との疑問を持ちつつも、何の不自由も無く、それはそれは幸せな毎日を送っていました。
 しかし、その後医学部に入学すると状況は一変。世の男性と交わす言葉といえば「最近腰が痛いんだけど……」とか、「最近変なできものが……これ何?」とか、色気のある会話はほぼゼロに。それはぜひぜひ病院に行ってください、と願うばかりです。学内ともなればさらに色気は無くなり、DNAを組み立てる20歳、大腸菌を愛でる21歳、アニサキスと戦う23歳、ラットと会話する24歳……と時を経て、気が付けば20代後半へ突入。「四捨五入でもう30」と言われるお年頃になっていました。悔しいので34歳になったら「四捨五入でまだ30」と言ってやろうと心に誓ったのを覚えています。結局、一番の花盛りを独りで過ごすはめに。私自身は変わっていないはずなのに、環境が変わると人間関係はこうも違うものなのか?と考えさせられた6年間でした。
 いよいよ卒業が迫ったある日、先輩の女医さんから「研修医一年目はモテる!」と力説されました。新しい出会いもそこそこあるし、何よりも「新人」という立場で指導を受ける機会が多いため、いつの問にか恋に発展することも珍しくない、とのこと。これはいいことを聞いた!と、心踊らせながら九州からはるばる新潟へ帰ってきたものの、今のところまったくもってそのような気配はありません。そもそも独身がいません。そして研修医といえども医者は医者。世の男性からは倦厭され、出会いのチャンスはどんどん少なくなっています。さてどうすれば恋人が……いえ、「結婚相手」が見つかるのか。悩みは尽きません。
 しかし、私は研修医。一度大学を辞めてまで志した道。ようやく臨床の場に出られた今、何事も経験することが命です。そして病院にいることが何よりも楽しい時期でもあります。着飾ることに時間を割くよりは、眉毛が半分なくなったまま手術室にこもっていたり、当直明けにナチュラルハイになっていることの方が、今の私には性に合ってるのかもしれません。とは言っても、決して女を捨てているわけではありませんし、むしろ身なりは大切だと思っています。が、油断大敵。実際何人かの先生から「研修医になっても絶対に女は捨てるな、一度捨てたら戻れなくなるぞ」との忠告もいただきました。皆さん口をそろえて同じ事を言うくらいだから、本当に気を付けた方が良いのでしょうね……。
 さて、こんな変な私ですが、普通に結婚したいです。常日頃から言っています。最近の愛読書は結婚情報誌という徹底ぶりです。大金持ちと結婚して、ブランド物を買って、という玉の輿のような結婚よりも、日曜日におべんとう持って家族で公園に行くような素朴な幸せが欲しいのです。そして、話は飛びますが、ゆくゆくは孫を抱くのが夢です。「今から孫なんて言ってるの?」とよくつっこまれますが、これは譲れません。孫にお小遣いをあげて、お返しに肩もみしてもらって、多少痛かろうが「上手だねぇ」なんて言ってみたいものです。その時、隣に誰がいるのかはまだ分かりませんが……。

 以上、研修医のひとり言でした。

 目次に戻る


スポーツの秋・食欲の秋  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 いつのまにかあの夏の猛暑も過ぎ去り、吹き渡る風のさわやかさ。高く青い空に広がる羊雲。山の木々も葉を紅く染める準備を始めて季節はすっかり秋。
 秋恒例の十日町町民大運動会(長岡市十日町です。念のため)に役員さんから50才以上の“苗箱運びレース”に出て世只えないかと頼まれ、走らなくても良い種目とのことに数年ぶりに家内と出かけてきました。
 十日町Aチーム、十日町Bチーム、片田チーム、高島チームの4ブロック対抗戦で、うちは十日町Bチーム。
 子供達、両親、祖父母と各世代が参加することに意義がある、とにこやかに参加するつもりでしたが……。

 皆、歳をとっても競争心はあるのです。「頑張ろいね。」「○○チームが勝ってるて。」とあおられて「ノードレース(農道を走り回るのです。)は順位に関係なく参加しただけで一人1点だよ。」と言われ家内が参加。
 「先生、人数足りない。出てください。」と綱引きにも駆り出され、健闘するもなかなか点が伸び悩んでいるところで応援合戦となりました。
 十日町Bチームは黒塗り(墨ぬりたくり)の応援団長さんのかけ声のもと、小学生とママさん全員によるビリーズブートキャンプです。(ビリーはどこでもおおはやりのようです。ビリーズブートキャンプについてご存じない方は新潟県医師会報・緑陰の八幡和明先生の名文『グッバイ・どリー』をご覧ください。)
 そのあとは最後のメインイベント、男女対抗リレーで、なんと十日町Bチームは男子、女子ともに優勝。有終の美を飾ったのです。総合では見事準優勝。
 で、その翌日、私達夫婦が全身筋肉痛で死ぬ思いをしたのは言うまでもありません。やはり日頃の運動不足の賜物でしょう。スポーツの秋を実感した体育の日でした。

 そのあとは、やはり食欲の秋。
 川口の男山やな場に電話で「地鮎あがってますか。」コールをすると「いい鮎あがってます。」ということで、毎年この時期に楽しみにしているとれたて焼き鮎を賞味しに今年も行ってきました。
 やな場で地震後も変わらぬ雄大な景観を楽しみ、そのあと席に着きいつもの地鮎塩焼き、自飯汁付き、漬物、鮎酒とまことに鮎だけを楽しむ注文をする。
 既に電話時に時間のかかる塩焼きはしかけておいた、とのことで程々待つうちに、おまちかね焼きたて地鮎がやってきた。
 「岸様、今年は地震後3年ぶりに良い鮎が戻ってきて上がりましたのでそちらをお出しします。」
 そのおおぶりの見事な鮎に家族から歓声があがる。
 「すごい鮎!!」。雌雄一匹ずつで、普通は雌は子を楽しみ雄は身を味わうのであるが、雌は金色に輝く子がぎっしりつまっているにもかかわらず身もしっかりと味わうことができ、「美味しい」という言葉以外発することなく頂きました。
 ふと気がつくと、やな場に併設している食事場(浸水しても大丈夫なように鉄骨組みの高床式になつています。)の天井の木組みが新しくなっていました。ここも震災で被害を被ったのでしょう。
 帰りがけに立派な鮎を出して頂いた礼を言い、「鮎も復活、やなも復活ですね。素晴らしい鮎でした。」と感謝して帰ったのでした。
 帰宅して、腹を抱えながら「米は旨し、肴は旨し、酒は旨し。」と呪文のように唱えて床についたのです。都会でする贅沢もいいけど、これもまた良し。満腹。

 目次に戻る