長岡市医師会たより No.334 2008.1

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もくじ

 表紙絵 「新雪(越路橋辺り)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「新年のご挨拶」 会長 大貫啓三(大貫内科医院)
 「新春を詠む
 「角原昭文先生を偲んで」亀山宏平(長岡西病院)
 「南アフリカにルーツを求めて〜その5」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「去年今年」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「新雪(越路橋辺り)」 丸岡 稔(丸岡医院)


新年のご挨拶  会長 大貫啓三(大貫内科医院)

 新年あけましておめでとうございます。先生方におかれましてはいかが新年をお迎えになられたでしょうか。
 長岡市医師会は、平成18年4月に旧栃尾市古志部医師会ならびに旧三島郡医師会と合併し、会員数もついに400名に達し、県医師会の代議員数も今年から1名増員の5名になりました。また平成20年度かちは、当医師会の理事の数を4名増やし13名とし、合併に伴い増加した医師会業務を円滑に遂行できるように努力して参る所存です。会員各位の特段のご協力をお願い申し上げます。
 今ほど医療が危機に直面していることはないように思います。勤務医の疲弊と救急医療の問題、小児科医・産科医の不足の問題、卒後新研修制度の抱える諸問題など数え上げればきりがありません。
 昨年の12月中旬に、診療報酬の本体部分の0.38%のプラス改定が報道されました。しかしながら、薬剤・材料部分の1.2%のマイナス改定と合わせると、医療全体では0.82%のマイナス改定となり、02年度以降4回連続の診療報酬ダウンとなります。その結果、病院の経営を圧迫し勤務医の過重労働に拍車を掛け、勤務医の更なる疲弊へと繋がっております。国の財政主導型の医療費抑制政策には、市民の健康を守る意味からも強く抵抗して参りたいと考えております。
 このような情勢の中、長岡市中越こども急患センター診療事業は順調に行われており、小さなお子さんを持つお母さん方に安心を与えていますが、大人の夜間の急患については依然として3病院を受診する傾向が強く、医師会としても昨年の7月26日の臨時給会(ビールパーティー)において、大人の準夜帯の夜間急患事業を立ち上げる方向で努力することを満場一致でご承認いただき、長岡市と交渉を続けて参りました。昨年12月の長岡市議会の代表質問でも大人の夜間急患事業についての質問があり、森市長と五十嵐福祉保健部長が答弁されましたが、周辺市町村と調整の上、前向きに考えて行くとの心強い答弁がありました。今後とも医師会として開設に向けて頑張って参りますのでよろしくお願い申し上げます。
 次に研修制度についてですが、卒後新臨床研修制度は研修医を都市部での研修に駆り立て、このことが地域医療の崩壊に繁ることが危供されています。これに対して国は特定の地域の医学部の定員を増やし、また県は一定の条件をつけて医学生に奨学金制度を創設しています。このような中、平成20年度の新潟県全体としての研修医の充足率は50%にも満たないのが現状です。また、新潟県では研修医の募集人数を上回って応募があったのは2病院のみという悲惨な状況でした。この2病院が長岡中央綜合病院と立川綜合病院です。これは2病院が如何に研修に力を入れており、それを研修する側が高く評価をしている表れであると思います。2病院には心より敬意を表したいと思います。
 ここで平成20年度から施行される住民健診について述べたいと思います。
 今まで住民の健診は、地方自治体が実施者になり施行していましたが、平成20年度から施行される特定健診・特定保健指導は、40歳から74歳の被保険者と被扶養者を対象に(75歳以上の後期高齢者についても同様の健診がなされると予想されています)医療保険者が実施者になって行うもので、その方法は極めて複雑で、医療者や地方自治体の衛生部門を混乱に陥れております。国の考えは、表向きは国民の健康保持を掲げていますが、実際は医療費抑制に主眼を置いているのは事実です。しかし、国の思惑とは裏腹に今回の特定健診では、今まで検査や治療が行われずにいた人々を新たに掘り起こすことから、医療費が5兆円以上増加すると予想する学者もいます。これでは国のもくろみとは逆の結果で、国が平成20年度末の医療費の伸びを我慢して、次年度以降この制度を続ける覚悟があるかどうか、はなはだ疑問です。
 昨年の12月20日に医師会館で市の健康課の人から特定健診・特定保健指導について説明を受けましたが、保健指導の煩雑さと負担の大きさに驚かれた方が多かったのではないでしょうか。保健指導を決める第1段階のステップ1は、男性85cm以上、女性90cm以上の腹囲にあります。このように男性の方に厳しい基準は日本だけのようで、専門家の中からも異論が出ているのはご承知の通りです。
 特定健診の方は、開業の先生方も昨年と同様に出来ると思いますが、特定保健指導の方は、積極的支援の場合は初回面接の個別支援(30〜40分)、2週間後の電話支援(5分)、1ケ月後の個別支援(20分以上)、2ケ月後の電話支援(5分)、3ケ月後の個別支援(20分以上)、6ケ月後の事後評価というように非常に複雑で、大勢の方が指導対象となった場合、日常診療にも影響を与え、開業の先生方に相当の負担を強いるものであると思います。また、電子媒体を用いて健診データを報告することになるようですが、フリーソフトもようやく公表されたばかりでソフトの価格や使い勝手等に様々な問題を抱えており、また代行入力業務についても不透明な部分が多く、平成20年4月の健診時期に間に合うかどうか不安な状況にあると開きます。このように問題が山積している特定健診・特定保健指導がスムーズに施行できるかどうかを危ぶむのは、私だけでしょうか。
 ここで平成19年度から始まりました長岡高等学校におけるメディカルコースについてご報告したいと存じます。これは、県が将来医療に貢献する人材を育成しょうと、新潟高等学校と長岡高等学校で始めた事業です。長岡市医師会も長岡高等学校の要請を受けて、生徒の医療に対するモチベーションを高めるべく、長岡市医師会員から選りすぐった6人の先生と遠藤日赤病院看護部長、最後の平成20年10月には新潟大学の内山医学部長を迎えた計8人の先生方にお願いし、平成19年度と20年度の2年間、メディカルコースの生徒の授業を担当していただくことになっております。平成19年度の講義は6人の先生方からしていただきましたが生徒さんからはすこぶる好評で、メディカル・サイエンスコースを選択した生徒の70人中半数以上の生徒が、2年次以降メディカルコースを希望し、医療の道を目指したいとの意志表示があったとのことです。遠い将来、新潟県の医師不足の解消に繁るものと期待しております。これからも毎年続く事業ですのでよろしくご協力の程お願い申し上げます。また、今回講師を勤めていただいた医師会員の先生方に感謝いたします。
 最後となりましたが、会員各位のなお一層の御指導、御鞭撻をお願い申し上げ、新年のご挨拶といたします。

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新春を詠む

師と友と 俳誌「まはぎ」の 在りし春   渡 辺 修 作

元旦や やまと心を 反芻す   荒 井 紫 江

近頃は どうされました 嫁が君   十 見 定 雄

大根を 干す軒低し 日本海   伊 藤 洸

雪の中 緑濃き菜を 掘り出せり   石 川 忍

天平と 同じ空へと 鞠始   郡 司 哲 己


角原昭文先生を偲んで  亀山宏平(長岡西病院)

 角原先生は平成19年12月20日未明死去されました。先生には長い闘病生活に堪えよく頑張られました。先生の御冥福を心からお祈りいたします。
 又奥様、御家族の方々の長い間の御看病の御苦労さぞかしとお察しし、心から敬意とお悔やみを申し上げます。
 先生は昭和3年1月長岡市に生まれられました。幼にして俊秀の譽れ高く、旧制長岡中学、旧制新潟高校を経て、昭和27年春新潟医科大学を卒業されインターン後、昭和28年10名の同級生のトップとして外科医局に入局されました。医局時代の想い出を同級で同年外科に入局された大黒善彌先生にお伺いしますと、先生は何時も真面目で、学生時代は講義を殆ど休まれたこともなく、ノートも綺麗に整理されておられたとの事、服装はいつもキチンとし、Yシャツもカフスボタンも装用されておられた由。指導医に教えを受けた頃は毎日患者さんを診察し、その質問に答え、僅かの時間を惜しんで文献を読んでおられた姿が今も眼に浮かぶと言われました。
 又教授や上司に注意されると、非常に真摯に受け止め、深く嘆かれることから「ボヤキのアキチャン」と呼ばれることもあった由です。
 先生は昭和34年11月から38年9月迄の長期に亙り外科医局長を勤められました。堺教授の意を体し、教室の医師をリードし、外には関連病院長、外科部長の諸先輩の要求に応ずる、その大変さは内科の医局長を経験した私にはよく判ります。先生は見事にその職務を完遂し、名医局長の名を恣にされました。
 昭和40年7月開業された吉田鐵郎先生の後任として中央病院外科医局長として赴任されました。その少し前昭和36年に武田先生、倉田先生、私、少し遅れて吉田先生が中央病院に赴任されました。当時の中央痛院は新潟県厚生連の御荷物病院と軽蔑されていました。私達は「日赤病院を目指して頑張ろう」をスローガンに頑張ったのですが、外科は吉田先生に負けず劣らず頑張り屋の角原先生を迎えて大喜びしたものです。先生は患者さんに対しては親切丁寧に応対され、一旦手術になると一般消化器は勿論、食道癌、肺癌もすべてうまく手術されたのでした。その外科領域における該博な知識と華麗な手技には当時の外科医師、看護師がひとしく感嘆したものでした。又患者さん方の信頼も絶大で、是非先生にお願いしたいという人がひきも切らずの状態でした。昭和47年入貞彌院長先生が定年で病院を去られることになり、その後任に私をとの話がありました。当時開業を予定していた私は固辞したのですが、諸般の事情から止むをえず引き受けることになりました。その際私は「角原先生が副院長を引き受けて下さるなら」の条件を出し、先生の御諒解を得ました。
 先生とは毎日の様に病院の業務を相談し、特に外科系の先生方の担当をお願いしました。
 当時はゴルフブームの時代で、昭和42年新館棟完成を祝して、先輩諸先生方よりゴルフ練習ネットの寄贈があり、皆熱心に練習したものです。しかし医局全体がゴルフに現を抜かす事は困ると考え「先生と私だけはゴルフをやらぬことにしませんか」とお話し、同意をいただいたこともありました。
 先生の外科医としての名声は益々上がり、常に手術に追われる毎日であり、病院の業績も上がり、やれやれと思っていた突先、昭和62年秋先生から「開業したい」との申し出がありました。私は必死にお留めしたのですが、先生の決意は固く昭和63年4月開業されました。先生の開業へのお気持ちを私は充分理解できなかったのですが、平成元年7月発行の『ぼん・じゆ〜る』に「私の開業」と題した先生の一文を読み、納得したのでした。
 開業された後お逢いすると「大半は内科の患者さんで、内科学を再勉強しています」と笑って答えられました。先生の優しく熱心な御人柄、時間を問わず対応される姿勢に多くの患者さんが先生を頼りとし喜んでおりました。診療所の看護師さんに尋ねても、「先生は本当に生き生きと仕事をしておられますよ。患者さんも沢山おり、先生を信頼しておられる姿は本当に美しいものです。」と語ってくれました。
 好事魔多しと言いますが、先生には病魔に侵され、診療を志半ばにして止めざるをえなかった無念さを思うと、万斜の涙を禁じえません。
 しかし今一切の煩悩をはなれ、浄土におられる先生の平安の日々をお祈りしております。先生、どうか安らかにお休み下さい。左様なら。

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南アフリカにルーツを求めて〜その5  田村康二(悠遊健康村病院)

第3章 ビクトリア滝に魅惑される

 10月13日の9時。ホテルを出発して、一同ビクトリア滝へと向かった。途中バオバブの大木を見た。周囲22m、高さ30m、樹齢500年ということだった。その根は地上に大きく張り出して大樹を支えていた。その木の根元近くは、大きな祠になっていた。「昔の部族間の戦争の折には、1つの部族の全員がここに隠れて被害を免れることができました」と現地のガイドは説明してくれた。

1 ビクトリア滝に辿りつく

 先ずジンバブエとザンビアを結ぶビクトリア大橋に案内された(図3・1のマル15)。ビクトリア・フォールズは様々な運動のメッカだ。ラフティングやリバークルーズ、更にはヘリコプターに乗って空から滝を見下ろすのもいい。しかし、数あるアクティビティの中でも最もスリルがあるのが、バンジージャンプだろう。ジャンプ台があるのはジンバブエとザンビアを結ぶビクトリア大橋のど真ん中。111m下の激流に向かって飛び込むわけだ。「滞空時間は約5秒間ですが、飛んでいる間は永遠に感じられますよ。挑戦してみませんか!」とガイドは一同を煽るが、誰も応じない。
 先ず滝の全体の案内図をお見せしたい(図3・1)。森の中を少し歩くと、滝のドドドーッという轟きが天地を震わせてくる(図3・1のマル14)。滝の飛沫は大雨となって上から降り注いで来た。ずぶ濡れになりながら崖の端にたどりつくと、全面に大きく広がるビクトリア滝の流れの凄さにまず圧倒された。
 この滝は、ジンバブエ共和国とザンビアの国境にある。長いザンベジ川の中流にあり、その滝の最大幅が何と1,700m、最も深い滝壷までの落差が108mもある。世界三大爆布の1つ(他の2つはナイアガラ滝とブラジルのイグアス滝)。1855年、イギリスの探検家デイヴイッド・リビングストンによって発見され、イギリスのビクトリア女王にちなんで名付けられた。現地語では「モシ・オ・トゥニャ」、Mosioa-Tunya、「雷鳴の轟く水煙」の意)という。
 前の日に遊覧ボートでのクルージングを楽しんだ幅広いザンベジ川を悠々と流れる水は、轟音とともに滝壷に真正面に落ちたあと、水煙となって150m以上も舞い上がっていた。ここで下流のザンベジ川とは直角に交差しているから、滝は真正面から見通せるのだ。その点がまず横から眺めるナイアガラ滝とは違っていた。訪れた時は乾季であるのに、滝のこちら側の断崖のまわりは大雨降りのような状況になってしまう。雨具に包まって図3のマル14からマル2に向かって歩いて行く。その間は約2kmになるから、凄まじく見事な光景だ。「もしも雨季にくるとあたり一面が雨や霧となって、何処が滝だか分からなくなるぐらいですよ」という説明には納得できる。確かに凄い滝だ。アメリカのナイアガラ滝に数段勝る光景だ。「ブラジルとアルジェンチンの国境にあるイグアス滝は、これよりももっと凄いですよ」と説明してくれた人がいたが、私たちも同感した。
 滝は向こう正面の崖の1,700mにもわたり、途切れ途切れに墜ちている。だからそれぞれの滝に名前が付けられている。傑作なのは、図3のマル12からマル9の地点で前に見える滝を「悪魔の白内障」と名付けていることだ。いわれて見れば、白内障の眼のように見える風景だ。最左端にあるのが一番凄くて、「悪魔の滝」という。その実正面に当たる手前の断崖は川辺まで階段を下りて行けた。行くと滝つぼが真正面に見えるように出来ている。そこから仰ぎ見た滝は圧巻で、何かの西洋名画に見たことがあるような風景だった。
 悪魔の滝の前(図3のマル2付近)にはビクトリア滝の発見者リビングストンの像がある。リビングストンは1855年11月16日ザンベジ川を通って中央アフリカに抜けるルートを探しているときにこの滝を発見したという。昼食はレストラン・Mkua Kuwaでイタリア料理を頂いた。

2 エレファウント・バック・サファリとエコ・ツーリズム

 昼食後は長旅の後なので、予定では休憩時問になっていた。現地のガイドが「午後はお休み下さい。しかしオプションとしては、ヘリコブターで滝をみるツアーと象サファリ・ツアーがあります。元気な方は、良ければご参加下さい」という。そこでまだ元気な私たちは、象サファリ・ツアーに参加することにした。
 15:00にホテルを出発して、悪路を約一時間近くも車で走って、目指すサファリのロッジに辿りついた。そこでまず象使いの頭がサファリについて説明して呉れた。「この地では象は手厚く保護されています。しかし実は象が増えすぎて、餌の確保が難しくなり環境破壊になるので困っているのです。そこで象の保護活動の一環としてこの事業を進めています。この点を先ずご理解下さい」話は続く。「象のサファリでは、象の背に乗ってサバンナの自然をお楽しみ頂けます。象の一頭には象使いとお客さんお二人が乗って頂きます。そうしてサバンナの中を約1時間サファリ・ツアーします。私どもの象はよく調教してありますから、ご安心下さい。しかし問題は発情期の野生の象が私たちの群れに向かって突進してくることがあります。それに備えて象の隊列の前後にいる我々のスタッフが付き添います。もし野生の象が近付いてくる時には、威嚇の為に発砲します。お乗りになっている象は、訓練されているのでこの発砲には驚きません。ですから皆さんも驚かないで下さい」と言われた。さらに「象に乗る以上は、起きる傷害は自己責任ですという書類にサインして下さい」と求められた。いやはやこれは大変なサファリだなあと思ったが、いまさら止めますとも言えずサインした。
 「エコツーリズム」とは、そのエコロジー(生態学)とツーリズム(観光)が合成された用語であり“生態観光”と言うべきものである。自然保護サイドからすると車ではなくて象に乗って観光すれば、もうエコツーリズムだ。観光の目的地となる自然および社会的環境の保全を尊重して行けば、その土地に住む人びとの生態を持続可能な形で開発し維持して行けるのだ。
 当てられた象に象使いが先に乗り、次に家内その後ろに私が乗った。「この象はメスなので小柄でおとなしいですよ」と言ってくれたので一安心だ。確かにインドで乗ったインド象に比べると大分小さかった。象が歩き始めると、大地の上がり降りに合わせて上下に大きく揺れるので、こりや大変な乗り物だと思って鞍にしがみついていた。少し経つと象の背中にも慣れて、あたりを見回せるようになった。地平線まで果てしな
く続く広大なサバンナを象の背の上から眺めるのは、絶景だった。キリンやインパラがあたりを走り回るのがそこらじゆうで見られたからだ(写真1)。
 10頭ほどの象が一列縦隊を組んでゆっくりと行進した。小象が1頭私たちの象の周りにいた。彼女の子供なんだろう。1時間ほどのツアーは無事に終了した。終わったら「お乗りになった象へ、ご褒美にエサを与えて下さい」と言われた。家内が恐る恐る両手に一杯のエサ、乾燥食品、を与えると鼻を伸ばして一気に吸い込んだ。この象との触れ合いには我々は大いに満足した。(続く)

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去年今年  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 暮れの30日は日曜日でわたしも休日でした。市内のわたしの実家へ朝から出かけました。老父母ふたりの暮しなので、家人とともに正月準備の餅つきと鏡餅用のお供え作りのお手伝いです。杵と臼の餅つきではなく家庭用餅つき器械使用です。餅米が蒸けるのを待つ問に、家人とふたりで洗面所や父母のふだん手の届かぬ場所の煤払いをしました。
 お待ちかねの父がご愛用の二つ折り式囲碁板と碁笥を炬燵に持ち出してきました。

「一番やろうかね。」

「いいですね。最近忙しくて碁はやっていませんけど……。」

「オレも去年肺の手術してから老人会の碁の会も行ってないんだて。」

 もうちょっと立派な六寸盤と碁石は納戸にしまわれたきりのようです。もとが田舎の農家に育ち、師範学校を卒業し教員になっても貧乏の子沢山で、質実剛健が家風であります。先日の姪のホテル椿山荘での結婚式出席で上京したときも、礼服はよれ気味、靴は履き古し。でも九十歳過ぎなら生きているだけで立派、わが父は世間体からは天下御免とわたしは思っております。

「どっちが勝ってますかね?」と母がお茶を掩れてくれました。

「二連敗。お父さんの棋力は落ちてない、いやいや参りました。」

 父がうれしそうです。むろんふたりとも級位レベルのザル碁です。もう一局打って自分が雪辱し、一勝二敗で終了。ちょうどお昼ご飯の時間になりました。手作りの和え物や昆布巻など年取り用「ごっつお」をおつまみに、熟爛を一杯だけ飲み交わしました。つきたての餅でお雑煮をいただきました。

 帰宅した午後から、韓国人気ドラマシリーズの全16話の第4話からの録画を見始めました。すぐにハマリました。(前日放映の第1から3話は見逃し、残念)ラブコメディーで題名は「わたしの名前はキム・サムスン」。韓国での放映時は視聴率が50%の大人気だったそうです。
 キム・サムスンは失恋のヤケ酒で
7キロも太った29歳の太め体型のパティシエ。自分のサムソンという名前が大嫌いで、改名が目標のひとつ。漢字表示で「金三順」だから、三女の「三子」みたいなものか。
 主役の女優のキム・ソナはいい味出しています。役の設定はデブな不美人だが、わりときれいだと思います。余談ですが、インターネットで見る数年前の写真と比較しこの女優の美容形成手術後なのは確実。
 あらすじは、実家の競売ピンチを切り抜けるために借金したレストランの若社長とのあいだに、契約で、見せかけの恋人役を務め始める。ホテル業の後継と早い結婚を望む彼の母親のホテル社長をごまかすため。ところがお互いの過去を含めて、しだいに相手を理解するにしたがい、あれこれ他の男女が絡みながら、本当の恋人になるハッピーエンド。
 12月29日から1月2日にかけて毎朝3話ないし2話ずつ、全16話の連日放映でした。

 元旦、2日は日直勤務でわたしの平成20年の正月は始まりました。でも帰宅して夕食を取りながら、この録画を見て泣き笑いしました。
 2日3日には 「のだめカンタービレ」(原作はマンガ)が全11話再放送の一挙放映。これも録画して、休日の3日に連続で見て笑いっばなし。もちろん4日、5日のスペシャル番組も楽しむ、テレビ三昧。

 休日とは「休む日」なのだから家でのんびりの家訓どおりでした。

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