長岡市医師会たより No.338 2008.5
表紙絵 「棚田の五月」 丸岡 稔(丸岡医院)
「濁流時代を自己鍛錬で〜藤井誠先生を偲んで」 田中政春(三島病院)
「開業して一年半」 草間昭夫(草間医院)
「南アフリカにルーツを求めて〜その9」 田村康二(悠遊健康村病院)
「救急初療コースに参加して」 窪澤恵子(長岡中央綜合病院)
「サツマイモのバイオ苗」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)
藤井誠先生は平成20年4月4日急性肺炎で長岡日赤病院に入院され、4月15日に急逝されました。入院前日までお元気で認知症の患者さんの診療に従事されておられ、信じ難い気持ちであります。藤井誠先生は大正11年10月8日山口県防府市にお生まれになり、昭和23年に京都帝国大学医学部を卒業された後、昭和25年、生家で開業されましたが、戦後の混沌とした状況での医業に不安を感じ、乞われるまま山口県玖珂郡広瀬町府谷の町立診療所長、昭和31年8月家庭のご事情で千葉県印旛郡印西町立国保大森診療所長、そして、昭和33年から横浜市金沢区の金沢病院副院長に就任され、停年まで勤務されました。昭和56年新潟市寺尾に新規開56院した道上山病院に副院長として就職されました。不幸にも道上山病院が廃院となり、昭和57年2月旧三島郡越路町大字飯塚において医療法人誠久会岩塚診療所を開設されました。私が藤井誠先生にご交誼を頂いたのはこの時からであります。約25年間のお付き合いでしたが、第一印象どおり極めて実直で、気持ちの優しい先生でした。胃の手術をされて間もない時期に旧越路町で旧三島郡医師会の幹事をお願いしたときも、体調の優れないのに二次会まで付き合ってくださり、よく透る美声で民謡を歌われたり、一生懸命座持ちをされておられました。こうした印象がありましたので、先生が平成16年岩塚診療所を閉鎖されることを知り、お誘いしました。三島病院に勤務されてからも、普段は無口、しかし、相手により的確に話し、実直かつ勤勉でありました。
また、医療に対しては常に自己研鑽に励まれ、NEOPHILIAの一面もお持ちでした。先生の一面を紹介された平成4年の新潟日報の記事をご紹介します。
「指導者を育てたい」―小学生に剣道教えて9年目―
竹刀持てば掛け声リン、「ハイ、面を打って」。張りのある声が体育館に響く―。三島越路町の少年少女剣道教室で孫ほどの小学生を指導する医師、藤井誠さん(71) =剣道3段=。同町岩塚で診療所を開き、小学校の校医も務める藤井さんが同教室で指導を始めて9年目。小学1年生から6年生まで、同教室で鍛える20名のチビっ子剣士から“剣道先生”と親しまれている。藤井さんが剣道を教えるようになったのは昭和61年から。当時、町がはじめた公民館の体育活動の一環として剣道教室が出来たが、肝心の指導者が見つからなかった。たまたま診療所前で木刀の素振りをしていた藤井さんのうわさが広まり「ぜひ指導してくれないか」とおはちが回ってきた。教室開始のころは藤井さん一人で足りず、剣道の経験のない奥さんの久子さん(61)まで駆り出した。初めは嫌がっていた久子さんも今ではすっかり剣道のとりこに。防具を着け、竹刀片手に言うことを聞かない子供達を怒る“鬼軍曹役”として恐れられるほどで、夫唱婦随の名コンビぶりをみせる。中略。「剣道の指導者だったおやじの後ろ姿を見て育ったせいか、自分もいつか子供に剣道を教えてあげたいと思っていた」と言う。目下の夢は町内から指導者を育てること。「私も含め先生は皆“レンタル”。強い所は自給自足だもの」。自分の教えた子供が後を継いでくれればこんなうれしいことはない、と笑う。「校内検診に出掛けると『あ、剣道先生だ』って言われるんです」とうれしそう。今春は何人、新一年生の“門下生”が入ってくるか―。藤井さんは今から楽しみにしている。
藤井先生はもうひとつ密かに指導していたことがありました。葬儀の後、奥様から見せられた大病院の高名な元院長先生からのお手紙に「医師として人間としてのあるべき姿を充分にお教え賜りましたことを感謝いたします」とありました。先生は少年剣士のみならず、見識と胆識を兼備した医師のリーダーを密かに育てておられましたことを知りました。激動、混乱、変革の時代に自己鍛錬を継続された藤井誠先生に深甚な敬意を表し、ご冥福をお祈りいたします。
父が平成元年になくなって閉院していた医院を改築して診療を始めたのが平成18年9月。正面玄関に真鍮で作った明朝体の「草間医院」があって、引き続き使用するつもりでいたら、損傷が激しく再使用はできないとのこと。どうしようかと思っているうちに1年以上たってしまった。電話で場所を尋ねられ、医院の真ん前に来ているのに再び電話で「近くまで来ているはずなんですけど」と訪ねられる。あの「草間医院」がないからだ。病院も分かりづらいが、駐車場も分かりづらい。はやりの「隠れ家的」な居酒屋ならぬ、医院となっている。そんな訳で、遠方からの患者さんや通りすがりの一見さんよりは、ご近所のお年寄りにご利用いただいている。
後期高齢者どころか、来院患者の90%が80歳以上である。町内の子供会はほとんど活動していない。「まちなか」の空洞化は想像以上だ。お年寄りは一人暮らしも多くほとんどが自分の足でお見えになる。腰が曲がり信号が正面視できないせいか、どこでも道路を、曲がった膝でよちよちとわたってくる。90歳を超える方もいる。その長寿をうらやましいと思うし、尊敬さえしている。私の方が不摂生で、メタボだから、主治医の私の方が早死にかもしれない。そんな私が人生の先輩にダイエットが必要とか、運動しなくてはだめだなどと言えない。採血して病気を探す必要があるのかとも思う。「好きなもの何でも食べて、したいことしてればいいよ、痛いことや難儀なことは薬で解決できるかもしれないから、言ってね。」と、こんな感じだ。
お年寄りは、食べなくなると急に弱ってくることを経験する。余力がないんだ。栄養は大事だなと認識を新たにして、ダイエット指導より食べて頂く指導に力を注がなくてはならないかもしれない。退院してからの栄養管理、手術後の栄養管理、病院の外来予約までの栄養管理と手伝えることはまだまだあると思っている。
開業時の思いは、「何でも受けてやろう、手術でも、子供でも、お産でも、更年期でも……」で、今もそう思っているのだが、これほど高齢者への対応が求められるとは思わなかった。認知症の年寄りがどのような流れで扱われるのか、体験するまで分からなかったし、一人暮らし老人が、寝たきりになったらどうなるのか分からなかった。どうしたらよいかもわからなかった。今も、成り行きでしのいでいる。各科の先生方、地域のケアマネさんに知らないことを聞いて回る日々だ。常に机の上にはインターネット常時接続のPCがあり、患者さんの疑問、私の疑問を解決すべく調べものをしながら診療しているが、見つけ方が悪いのかよくわからない。たぶん、厚生労働省も、マスコミも、評論家さえ正解が分からない世界なんだろう。結局、診療時間中にトトを買う。
昨年3月に十見先生が閉院され、膝や腰の痛いお年寄りを引き継いでみさせていただいているが、十見先生流の治療を踏襲させていただいている。そして、今年、大森先生が廃院された。一人暮らし老人の往診も含め地域に貢献されていただけに残念でならない。お二人とも地域のためにご活躍だったのに引退を早めたのは、電子レセプトや特定検診などの複雑怪奇な電脳行政に嫌気がさされたのではと思ってしまう。
開業してからは、2階の自宅と1階の診療所を往復する程度で、運動不足が深刻。「病院にいることが外科医の信用」なんて、家族サービスをしないで家にいる言い訳にしていたてまえ、開業したとたんに方針変更というのもまずい。もっとも階段下の小部屋でも遊べる自分がいたというのもあり、読書、ジオラマ制作、アマチュア無線、そば打ち、TVみながら飲酒、と自宅の中で過ごせてしまう。不健康そのもの。開業して半年もたったとき、これではいけないと走り込みを始め、サッカーの練習に打ち込んだのもつかの間、転倒、骨折……。結局いまも運動不足は何もしないまま。
今後の診療は、いままでどおり、やれることをやるということ。それは、やれと言われる前から、やってたことだったり、やろうと思っていたことだ。やれと言われればやるけど、やっても意味がないことはむなしい。点数増やされようが、減らされようが、していることに変わりはない。
2.アフリカの音楽とダンス
アフリカン・ショウはいかにもアフリカらしいリズムで満足した。太鼓の音が実に素晴らしかった。「あの太鼓をお土産に買えばよかったわね」と家内は今にして残念がっている。あの太鼓の音を聞けば、全ての音楽の原点はアフリカにあるという話には納得できた。
アフリカの楽器、音楽は雑音のような振動音が大事にされている。タイコには鈴のような物がついて一緒に振動するようにできているし、マラカス類もそうである。この振動が他の楽器と音を合わせて絶妙な調和の取れた音楽を生み出している。その点からすると、和太鼓は音楽だろうか?私には何時聞いても苦痛でしかない。そもそもアフリカの楽器は祭りや行事で自然の神を呼び出すための神聖なる物であったため、このような「音数の多い調和の霊感」が求められてきたのだろう。
逆に欧米の音楽は正確に音の要素を取り出して曲を作っている。ドレミファの音階を作り出し、音も振動数で分別している。その西欧音楽を聴くとアフリカに住む人々は「神は死んだ」と言うらしい。つまり音楽観が違うのだ。しかしながら、西欧音楽はアフリカの音楽を母体にして作られてきたことについては、誰もが認める所である。
アフリカの音楽は、基本的に音楽やリズム、舞踊、合唱が一体となり形成されているもので、それらは誰から教わるわけでもなく、自然の中で楽器が作られ、音楽が生まれ、受け継がれてきたという。だから古臭さや土着性を感じるだけではなく、驚くべきエネルギーと様々な音楽文化の源泉ともいえる魅力を体感できる。
ダンスと合唱で展開される「ンゴマ・ダンス」、木とひょうたんで作られた木琴の音色などが持つ高い音楽性、そこから感じ取れる音楽の持つ優しさや楽しさは共感を誘った。そして、なんといってもアフリカの音楽の王様とよばれるドラム。長い生活の中に深く浸透し、時には有名な「トーキングドラム」とよばれたように伝達手段にも利用され、重要な役割を果たしてきた。アフリカの大地が生むリズムは、人々の心を掴み、生活の支えとなるような躍動するエネルギーをもたらしている。平成13年南アフリカ共和国を訪れた森元総理大臣はその折の演説でこう述べている。「アフリカこそは、21世紀の人類社会の活力溢れる発展の原動力になるでしょう。ムベキ大統領ご自身がローマ人の歴史家の大プリニウスを引用して述べられているように、“新たなることは常にアフリカからやってくる”のです。まさに、“アフリカ問題の解決なくして、21世紀の安定と繁栄はなし”であります」。そんなこんなで素敵な星空が煌く綺麗な夜のとばりの中での夕食を夜遅くまで楽しめた。
3.アフリカの美術は世界の源流だ
少し前後するがこの旅の最後に泊ったのは、南アフリカ共和国の首都プレトリアのSheraton Hotelであった。ホテルに在る民芸・骨董店で購入したのが木製のお面であった(写真)。店番の若い女性に聞いても「出所は良くわかりませんが、とにかく古いものです」という。「9時になれば、店主が出てくるので、お聞き下さい」と言われたが、バスが8:30に出る予定だったので、女性の面への説明が不十分だったのが不満だったがその美しさに惹かれて購入した。
アフリカでは仮面には特別な意味があり、それに関連するダンス、そしてそこに宿る精霊も組み込まれているのである。アフリカのお面においては、これらは切り離すことのできないものであり、どのような形のものであれアフリカ美術を研究する際にはこれを考慮することが重要だとされている。ついでにガラス箱の中のお面の横に並べてあったガラガラ玩具のような、これも古いという木製の30センチ位の玩具を孫の土産にと求めた。
この店の隣には画廊があり、そこでアフリカン・アートの代表らしい象の絵を一つ記念にと購入した。私の絵画に対する趣味は、視覚的な象徴にある。その点アフリカのティンガティンガ・アートは好みに合う。これは1960年代末から東アフリカ、タンザニアの首都ダルエスサラーム郊外で誕生した絵画スタイルで、その名称は創始者の名前エドワルド・サイディ・ティンガティンガ(1937〜1972)に由来している。このアートの特徴は、エナメル・ペイントを使って、主に正方形のマゾニット(合板)にゾウやライオンなどの動物たち、ピーコック(孔雀)や尾長鳥などの鳥たち、さらに歴史上の出来事や人々の暮らしなどを、鮮やかな色彩と独特なデフォルメで表現するところにある。ティンガティンガ・アートは、ポップ・アート的な魅力を示しながら、作家たちの世代を越えた活動によって広がり、世界中のアート・シーンに影響を与え続けている。だから今では高値で国際絵画オークションで取引されている。
アフリカ美術の起源は記録のある歴史よりずっと以前へと遡る。ニジェールのサハラ砂漠にあるアフリカの岩絵では6000年前に彫られたものが保存されている。現在知られている最も古い彫刻はナイジェリアのノク文化のもので、紀元前500年頃に作られたものである。20世紀の初め、ピカソやマティス、モディリアーニといったアーティストは彼らの表現のための新しい形態の探求の中で、アフリカ彫刻から深い感銘を受けているという。西洋において、アフリカの「伝統的」な仮面や彫刻を民族的なものとしてではなく美術的作品として評価し始めたのはキュビスム運動が最初だった。ピカソがアフリカ美術に影響されて描いたのが1907年の「アヴィニョンの娘たち」だ。これが最初のキュビズム絵画だそうだ。先ごろ新装されたニューヨークのMOMA美術館で草間弥生の版画などとともにみた記憶がある。この絵の仮面の女性像はアフリカの美術の影響を強く受けているといわれている。確かに素人目にもそう見える。やはり「全ての源はアフリカにあり」と言えるのだ。(続く)
「しまった。……間違いないな。大失敗じゃないか。」と愕然としながらのひとり言です。同時に冷や汗が出て、顔色も蒼ざめた気がしました。ご安心ください、読者の皆さま。決して職場での医療ミスなぞではありませんから。
畑に前日購入したサツマイモ苗を植え付け終わったあとです。ポットの苗札(紅あずま、鳴門金時の2種)を畦の端に挿しました。ふと裏の記載を読んだのであります。
―この苗は植え付け用の苗を育てる用途に作られた病害ウイルスフリーのバイオ苗です。十分蔓が伸びたら先端から30センチ位ずつ数本を切り取り、植え付けてください。
……ということは「種苗」ともいうべきものを、バイオ苗の名前の珍しさにつられ購入してしまったようです。園芸店で、すぐ脇で売っていた束苗は安いが50本単位。家庭菜園にはあまりに多すぎます。4連ポットに根出しずみで植わったY園芸作成のバイオ苗を2個ずつ買ったもうひとつの理由はこの数量の点です。
さてその畑は今年92歳になった父が、元気に趣味の菜園をつづけております。わたしもその一部を借り受けて畑作りをしながら、肥料入れだの草取りだの、脇の作業を手伝っています。わたしは4時頃の早起きで、自宅から車で5分の畑で5時に作業開始。文字通り朝飯前にひと仕事。逆に父は高齢になったら遅起きになり、ゆっくりの朝食後からおよそ昼までが畑仕事の時間。ほとんど現地で顔を合わせることはありません。相手の仕事のできあがりを、畑現場でお互いに見るのが父と息子の一種のコミュニュケーションなんであります。
「……というわけで、ドジを踏んだんだけどね。そのバイオ苗を植えっぱなしでも、サツマイモができるかな?やっぱり蔓から切り取った苗でないとだめかな?どう思う?」「わかんないわね。捨て苗からも芽が出るサツマイモのしぶとさからすると、大丈夫な気がするわ。でもバイオ苗っていうとどこか軟弱かしらねえ……。」と食卓での家人の応答。
原則が妥協のひとであるわたしとしては、比較対照試験を実施することを急遽決意したのであります。
A群=バイオ苗そのまま(本来の用途と異なる)。B群=Aの苗から採取する蔓の苗を植え付け。この二群の薯の収穫量を比較検討する。
うーん、なんか久しぶりに自然科学畑の人間なのであるという自覚がふつふつと湧いてきましたぞ。その後のある夕食会で隣に座った同僚医師のTくんは、転勤してきたばかり。5月初旬の冷害で我が家で植えたばかりのオクラや胡瓜の苗が枯れた件や、バイオ苗を間違えて購入した顛末を、わたしが酒の肴に語っておりました。「ぼくも先日サツマイモを……紅あずまですが…植え付けました。畝が多いので50本束苗買っています。」なんと彼も数年前から市民農園を借りての本格的な畑作りが趣味だと言うのです。「G先生、そのままでもきっとサツマイモがとれると思いますよ。あいつは蔓のどこからでも芽や根が出るくらいなんですから。」と同好の士Tくんはきっぱり。とにかく高温が好きなサツマイモですから、今後が好天で平均気温が上がり、その植えたバイオ苗がとにかく蔓を元気に伸ばして育ってくれるのをもっか心待ちしております。
収穫の結果はまたこの秋にご報告申し上げることにいたしましょう。