長岡市医師会たより No.344 2008.11


もくじ

 表紙絵 「守門晩秋」 丸岡稔(丸岡医院)
 「宝塚ジェンヌに栄光あれ!! 宝塚歌劇への招待 その1」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「秘湯巡り」 太田裕(太田こどもクリニック)
 「東洋一と云われた病院」 田辺一雄(田辺医院)
 「焼き芋作りのリベンジ」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「守門晩秋」 丸岡稔(丸岡医院)


宝塚ジェンヌに栄光あれ!! 宝塚歌劇への招待〜その1

福本一朗(長岡技術科学大学)

 「すみれの花咲く頃、始めて君を知りぬ、君を想い、日毎夜毎悩みしあの日の頃。すみれの花咲く頃、今も心奮う/、忘れな君、我らの恋、すみれの花咲く頃(白井鐵造作詞・Franz Doelle 作曲)」。日本人のほとんどが青春時代に一度は耳にしたこの「すみれの花咲く頃」は1930年8月に宝塚歌劇で上演された「パリゼット」の主題歌のひとつである。この曲は元々ウィーンで作られた曲でパリに伝わり「リラの咲く頃」という題名で唱われていたが、今では宝塚歌劇のシンボルとなっている。

宝塚歌劇の誕生
 山紫水明風光明媚な兵庫県宝塚市を六甲山系から瀬戸内海に注ぐ武庫川のほとりに、宝塚音楽学校が「宝塚唱歌隊」として誕生したのは今から95年前の1913年7月のことであった。創立者の阪急電鉄社長の小林一三氏(雅号逸翁)は明治6年(1873)山梨県に生まれ、阪急電鉄や東宝を創設育成してこれを発展させ、商工大臣・国務大臣兼復興院総裁などの要職を歴任し、日本最初のターミナルデパート(阪急百貨店)を開設したのみならず、今まで日本にはなかった「歌劇」という新しい近代芸術を創作し深い情熱をうちこんで育て上げた。小林翁は宝塚歌劇の生徒たちをこよなく愛し、その「清く、正しく、美しく」という遺訓は宝塚歌劇団のモットーとして生徒やスタッフの胸に今も強く生き続けている。
 小林翁は当時は兵庫県の田舎を走る鉄道に“何か目的がありさえすれば、お客様は電車に乗って来る”と考えて、宝塚新温泉と室内プールを作ったが、一向に客は集まらなかった。そのとき偶然目にした人気の少年音楽隊を見て「プールに蓋をして簡単な客席を作り、女性だけで歌と芝居をやらせてみよう」と思いたった。この小林翁のひらめきから華麗な舞台は産声をあげた。出演者は女性だけ、男性の役は男装した女性が演じる、ミュージカル・レビュー・ショーと多岐にわたる公演ジャンルで、和洋どちらもこなす幅広い公演レパートリーなどは、宝塚歌劇の優れた独創性と独自性を示している。特に役者が女性だけで編成されて大規模なレビューやショーを定期的に上演する劇団は世界でも宝塚歌劇だけといわれている。女性の気持ちが一番よくわかる女性が男性の役も演じ、女性だからこそ憧れの男性の理想像を格好良くキザに演じることができることが、女性ファンを魅了する華やかで麗しい世界を生み出しているといえよう。
 宝塚歌劇は設立当初は生徒数も少なく年4回公演だったので組分けの必要もなかったが、1921年に年8回公演にするため第1部「花組」と第2部「月組」に分けた。1924年に大劇場が建設されて、翌年から年12回公演を実施するため、「雪組」を新設し、1933年7月には東京宝塚劇場の開演に備えて「星組」を設置したが、戦時中時局悪化のため1939年に廃止された。戦後は雪月花の3組で再開されたが1948年に労働基準法対応のため星組が復活された。以来半世紀の間は4組(troupe)制であったが、東京での通年公演を可能にするため1998年元旦に第5組である「宙組(そらぐみ)」が誕生して現在では5組体制になっている。基本的には各組の看板的存在である男役・娘役、それぞれの主演スター(トップ)がいる。またこの5組以外に退団を惜しまれた芸達者たちが集まる宝塚の宝箱的存在である「専科」が作られている。この専科のベテラン熟女達はどの組にも属さず必要に応じて各組の公演に特別出演することにより舞台をキリッと引き締めてくれているとともに、後輩の育成にも一役買っている。

宝塚大劇場
 宝塚歌劇は兵庫県宝塚市にある本拠の宝塚大劇場(ファンは「村(ムラ)」と呼ぶ)と、東京有楽町にある東京宝塚劇場という二つの専用劇場を持っている。「東宝」という会社名はもともと「東京宝塚」から来ていることを知っている人は東京の人でも少ない。両劇場には他の劇場にはない様々な工夫が舞台に備えられており、例えば、
1)ステージの前に橋の様に渡された「銀橋(ぎんきょうpont d'argent)」は宝塚独特のエプロンステージである。
(2)音楽はすべて1914年創設の宝塚歌劇オーケストラによる生演奏によるものであり、舞台前面と銀橋との間にオーケストラボックスがある。
3)夢の世界のフィナーレを飾る「大階段(おおかいだん)」は1927年9月日本最初のレビュー「モン・パリ」で生まれた宝塚歌劇の象徴であるが、設立最初は16段であったが現在は26段となっている。その大階段をフィナーレで左右にロケットガールを従えて唱いながらしずしずと降りてくる「エトワール」と呼ばれるオペラのプリマドンナに当たる歌手は歌唱力・容姿・演技力すべてが秀でた「歌姫」であるが、その天女と見間違うあでやかな姿に感激して密かに涙する男性ファンもおられるほどである。
(4)幻想的な空間を演出するミラーボールが舞台上部から降りてくる様になっている。
(5)舞台効果を演出する“せり”システムが宝塚劇場には8台、東京宝塚劇場には6台設置されている。これらを効果的に使用して華麗な夢世界を現出している。しかし1958年宝塚大劇場で公演中の月組香月弘美がせりから落下して観客の目前で死亡した悲劇も生じている。
 宝塚歌劇の舞台をより華やかに演出する要素として大きな役割を担っているのが色鮮やかな衣装の数々。それらを管理するのは宝塚歌劇専属の衣装部。衣装には様々な工夫が施され、スターをより一層輝かせている。通常は歌劇団専属デザイナーと宝塚舞台の縫製スタッフにより手作りで制作される。証明に映える色は立ち位置も計算して考えられる。踊りやすくするために裏地にシルクを使って滑りやすくしたり、早変わりしやすくするためにボタンは見せかけで実際はマジックテープをたくさん使用したりと、舞台衣装ならではの様々な工夫がなされている。なおフィナーレで出演者全員が手にする飾りは「シャンシャン」と呼ばれているが、これも宝塚歌劇特有のものである。
 この素晴らしい宝塚歌劇も一時テレビに押されて低迷傾向にあった。しかし1974年8月29日池田理代子原作の「ベルサイユのばら」初演によりベルバラブームが日本中を席巻し、これを機会に宝塚ファンが急増した。1995年阪神淡路大震災では宝塚大劇場・バウホールが被災したため公演不能になるが、日本中のヅカファンの熱意と祈りで「国境のない地図」で再開、翌1996年には雪組がウィーンミュージカル「エリザベート」を始めて日本に紹介し大ヒットした。
 出演者は全員が宝塚音楽学校の卒業生であり、卒後に入団後もやはり「生徒さん」とよばれ続けている。入団後の生徒は所属する組の出し物が決まると初舞台に向けて約1ヶ月前から稽古を開始する。
(1)稽古最初の集合日には出演者全員が稽古場に集合して「顔合わせ」をし、香盤(役)が発表される。お芝居の台本が渡されて「本読み」を開始する。
(2)次に自分の台詞を覚えながら、実際に立って稽古する「立ち稽古」が開始される。台詞と合わせて舞台上での自分の動きもここで覚える。
(3)立ち稽古より少し遅れて「振り」が付けられる。場面毎に何人もの振付師が一人一人の振りを付けて行く。何十曲もある歌や音楽もシーン毎に違うので、何回も繰返しながら体で覚えていく。
(4)立ち稽古・振付けとともに「歌稽古」も同時に進行し、歌詞や独特の歌唱法などを音楽教師や声楽教師から伝授される。
(5)初日1週間前から最後の追込みがスタートし、オーケストラ合わせも行われる。
 2008年10月現在各組の男役トップ(♂)と娘役トップ(♀)は、花組〔♂真飛聖+♀桜乃彩音〕・月組〔♂瀬奈じゅん+♀(欠員)〕・雪組〔♂水夏希+♀白羽ゆり〕・星組〔♂安蘭けい+♀遠野あすか〕・宙組〔♂大和悠河+♀陽月華〕となっている。なお各組には組長・副組長が任命されているが、彼女等はその組の最上級生で組の生徒達(組子)の指導者として公私の面倒を見ている。トップ達といえどもこの組長・副組長の指導には軍隊的な厳格さで従わねばならない。(続く)

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秘湯巡り  太田 裕(太田こどもクリニック)

 土曜の午後、曇天の中、バスは出発した。昨年のサブプライム問題に端を発し、アメリカがきしみだし、その不協和音がヨーロッパ、アジア、日本へと伝わってきた。欧米では、証券会社、銀行の破綻が相次ぎ、各国は金融機関に対し公的資金を注入し始めた。そして全世界で株安が進行し最安値をつけ、来週には資本主義社会が崩壊するのではと危惧される週末であった。そんな中、医師会旅行はスタートしました。
 例年、医師会旅行は温泉通の高木正人先生と幹事理事の鈴木しのぶ先生がプランを立て、皆がそれにおんぶに抱っこで楽しむ旅行です。昨年は残念なことに人が集まらず中止となりました。その理由は女医さんたちの都合が合わなかったことが大きな理由でした。今年は女性3人が参加してくださることになり、それに加え、男性7人プラス星総務の総勢11名による旅でした。バスが発車するとすぐに缶ビールが配られ、プレ宴会がスタートします。この観光バスは、後部のほうに、テーブルを囲み10名ほど座れるようになっており、汽車で云えばお座敷列車と同じです。途中で森下美知子先生と大貫啓三会長を乗せ、早速、秘湯の会会長の挨拶があり宴会が始まりました。例年のように鈴木先生の秘酒の差し入れ(毎年皆さんがとても楽しみにしている)があり、その恐ろしさを知る人も知らない人もおいしそうにグラスを傾けていました。この酒は梅酒のように甘く口当たりが良くスイスイと入っていきます。その製法はマル秘?のようで、聞くところによると何でもウイスキーをベースに造ってあるとの事。前回の旅行でこの酒の怖さを理解していなかった春谷重孝先生が「この中では俺が一番酒が強い。」と豪語しておりましたが、旅館に着き本宴会が始まった時にはすでに出来上がった状態で、早々と布団に入られました。本当に怖い酒です。新たに参加される先生はお忘れのないように。バスは高速道路に入り、一路水上インターへ。色々な話題に花が咲き、小林徹先生の競馬の話、森下先生の丁寧な丁寧なナートの話、聞き上手の中村敬彦先生、大塚武司先生、高木先生、花のように明るい小林眞紀子先生、話題も尽きずあっという間に最初の目的地の寶川温泉へ。
 この温泉は天下一の露天風呂で知られ、9月号のトランヴェールにも載り、また、だいぶ昔に天皇皇后両陛下がご宿泊されたとの事です。宴会後に温泉を楽しむのは危険との判断で早速温泉へ。大きな露天風呂が川を挟んで4つあり、2つのつり橋を渡ってのお湯めぐりです。お湯は無色透明で、少しまろやかさに欠けますが、規模の大きさ配置の妙は群を抜きます。川のすぐ脇ですので大水の時はどうなるのだろうと心配されますが、後で聞きますとかなりひどくやられ改修工事を重ねてきたとの事。今では川との境に大きな石を連ね簡単には川へ降りられないようになっています。所々に「川には絶対に入らないように。」との立て看板がありました。ダンディでマラソンを愛する中村先生が「昔は簡単に川に入れましたよ。」「すぐそこで、川に流され、溺れかけている女の人を私が助けました。」といとも簡単にのたまわれました。どんな女性を、どんな状況で、その後どうしたのかなど聴こうかなっと思った時にはすでに場所を移動されていました。中村先生の英雄的行為は、立て看という形で残っていました。皆さんお湯を堪能し、いよいよ宴会です。この宿の主役は実はお湯ではなく、料理と仲居さんでした。宴会場に入ると会長をはじめ数名の先生がすでにおられ、どういう経緯かは不明ですが、仲居さんに中村先生が持参した万寿の四合瓶をご祝儀にあげようとのこと。その価値を理解している彼女はどうしようか思い悩んでいたようですが、受け取ることに。大貫会長と中村先生の太っ腹?に感心。その後星総務よりご祝儀の金一封が渡され、彼女が舞い上がることに。後ほど「鼻薬が効きすぎた。」と中村先生がポツリ。まずお膳に運ばれてきた料理の説明が始まる、山女の焼き物、熊汁、こんにゃく、小皿に山の珍味が少量多種。眞紀子先生曰く、「2週間滞在すればヘルシーな料理で痩せられるわね。」この料理から推し量るに宿泊代はいくらなのだろうか?本当に粗食が並んでいた。
 attention please嬢(後にそう渾名される)が語るには「この宿は外人さん特に西欧人に人気で、日本食が如何に体に良いかよく理解してくださっているので、この料理をとても喜んでくださる。そしてリピーターが多い。」翌朝の朝食では、納豆の効用について流暢な英語で、納豆が如何に健康に良いか、またビタミンK云々について披露してくれた。この話術があっての優秀な仲居さんでした。その解説が終わり長老の荒井栄二先生の音頭で乾杯。隣で色々お話を伺い、長寿の秘訣は、腹八分目、朝10時にはもうおなかがすく程度に、そして一合の酒。肝に銘じるが実践は不可能。
 その後二次会へ。大貫会長の「天城越え」を皮切りにデュエットなど楽しいカラオケがスタート。前橋よりコンパニオンが2名。一人は新潟の海産物、米、味噌、海が大好き。もう一人は37歳独身。栃木の女性は明るく、激しく開けっぴろげ。「この歳で子供作れるー?。」眞紀子先生答えて「私なんか○○才で子供産んだから大丈夫よ。」それには納得し「だけど男がいない。」彼女に言わせると女の賞味期限は二十代で、三十代と知れた途端、男が寄ってこないとのこと。そして7年間日照りが続いていると。横から徹先生が「俺も○年。」その後二人は意気投合して「3年目の浮気」を歌って二次会終了。
 翌朝お湯を楽しみ、attention please嬢の熱烈な見送りのなか旅館を後に。
 2日目、森下先生が従業員の結婚式のため帰られるとのことで上毛高原駅までお送りする。前日のバスの中、結婚式の挨拶の話題で、鈴木先生曰く「新郎の主賓の挨拶があんまり長くて、自分の話す内容を忘れちゃった。」眞紀子先生が続けて「そうよね、挨拶は短いほうがいいわよね。」はたして森下先生の挨拶は?と想像をめぐらしながらお送りする。この日は快晴で谷川岳の「猫の耳」もはっきり見え、横山秀夫の「クライマーズハイ」に出てくる衝立岩が頭をよぎった。その日の予定はフルーツ公園でりんご狩りをし、次にたくみの里を訪れ、法師温泉に向かうコースでした。りんご狩りでは皆さんお土産用にいっぱいりんごを買われたようでした。たくみの里を訪れ、まず目に付いたのはりんごを売っていた事です。自然と値段に目がいきますが、驚くことにりんご園より安い。お手もぎという付加価値があることを自分に言い聞かせ納得しつつ里を後にする。
 そしていよいよ法師温泉。見附の田崎哲也会長の同級生が経営しており、昨年大貫会長を始め、近隣の医師会長が宿泊したとの事。前評判どおりすばらしい温泉でした。お風呂の前に昼食となりましたが、その料理のおいしいこと。大塚先生が思わず「久しぶりに飯にありつけたという感じ。」たった2回の粗食がそう云わせたようです。お風呂はといいますと、酸ヶ湯をだいぶ小さくし、蔦温泉のように底からお湯が湧き、滑らかで温くゆっくり入っていられる温泉でした。おまけに混浴で、目の保養になった人も多かったようです。
 以上で旅行の顛末は終わりですが、この2つの温泉は意味合いは違いますが、是非行ってみたい秘湯であることは間違いありません。最後に高木先生が言うには「家に帰ったら、うちの飯が一番うめー!!。」といえば全て丸く収まるとの事。楽しい医師会旅行です。来年は大勢の皆様の参加をお待ちしています。

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東洋一と云われた病院  田辺一雄(田辺医院)

 嘗て東洋一を誇った満鉄大連医院の資料を入手しましたので眺めてみましょう。日露戦争に勝ち、中国から日本が租借した旧関東州大連市、現中国遼寧省大連市にその病院はありました。ロシア鉄道病院より日本陸軍病院へ、更に明治41年満鉄が継承して満鉄大連医院としました。数回の建物の建設後、計画を一新し、フーラー社と請け負い契約を結び、最新式の設計と工事施工方法により大正13年3月本館の新築に着手し、大正14年12月竣工、大正15年4月全部の移転を完了しました。
 フーラー社は途中撤退し、高岡組・長谷川組によって規模雄大、最新式の設備を有する病床612の病院が開設したのであります。
 内科、外科をはじめ耳鼻咽喉科、眼科、小児科、産婦人科、歯科、細菌科、医科学科、病理科などを有し、京都帝大医学部卒の医学博士号を有する医師を主に院長以下72名、薬剤師15名、事務員23名、技士11名、看護婦228名、一般要員160名、看護婦生徒74名、計583名と云う陣容でした。嘗て新潟県厚生連の病院群を率いた昭和13年新潟医大卒の故太田武先生が生化学で学位を得て第一内科で研鑽され、昭和16年頃に大連医院内科医員として赴任され勤務されております。先生のお兄さんの太田芳郎先生(中学校教員、新潟師範、東京高等師範卒、テニスのデビスカップ選手として一世を風靡しました。)が大連におられたことによるのでしょう。芳郎先生は東京ローンテニスクラブの支配人となり、現天皇陛下、皇后陛下の若かりし頃、テニスを御指導されたことがあります。大連市にはその他に次の病院がありました。

日本赤十字社大連病院
 昭和5年5月12日に日本赤十字満州委員本部診療所として開所し診療を開始し、昭和9年1月に日本赤十字社大連病院として改称し、病床250床、診療費は安価で博愛精神をもって行い、医療水準も高く、診療科目も充実していました。

同壽病院
 満鉄大連医院の管理下に日華両国民の親善と相互の福祉増進を図るため、支那人の下流労働者に対する診療を実施するために大正13年3月に病院を新築竣工し開院しました。大連医院沙河口分院満鉄沙河口工場従業員の診療に当たるために大正14年1月新築開院しました。

大連療病院
 大連に於ける伝染病患者の収容所として明治43年7月に設置され、収容人員が千人入るべく有事に備えていました。

大連聖愛病院
 キリスト教慈恵病院として大正6年9月に新築されました。

陸軍衛戌病院
 大正10年11月に病院新築し、収容能力100名、陸軍将兵患者の診療、治療外患者の内地送還業務にあたっていました。柏崎市刈羽郡医師会長、県医師会長を勤められた、新潟医大昭和7年卒の故曽田徳先生も一時勤められたことのある病院です。

博愛病院
 大正6年9月、中国人専門の病院として開院しました。

大連婦人病院
 芸娼妓、酌婦等特殊婦女の健康診断及び治療のため明治43年開院し、大正5年より入院患者に対して入院料の徴収を廃止しました。
 戦後、満鉄大連医院は長い間、沈?鉄路局大連医院として診療を行っていましたが、最近、大連日赤病院と共に大連医科大学附属病院となったそうです。

追記
 旧満鉄大連医院が今から82年前の大正15年に医師72名を擁し、612床の重厚な、ゆったりとした高層建築で開院したのは素晴らしいことでした。旧制中学の私の同級生の何人かはこの大連医院で生まれたのだと言っていました。
 然も現在も尚、その同じ建物で診療が続けられているという驚異的な事実にびっくりしています。昭和62年に私が訪れた時、その最上階にある図書館には大正時代からの日本の文献をはじめ世界各国の文献が整理されて保管されていることにも驚きました。

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焼き芋作りのリベンジ  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

「お待たせ。中くらいの大きさのお芋を三個選びました。」と家人がアルミホイルの包みを持ち、庭先の焚き火のそばにやって来ました。
「おお、サンキュ。そのへんに置いといてちょうだい。まだ火の勢いが強いから。もっと後で放り込む。」
「はーい。今日は焼き芋作り、うまくゆくといいわね。」
「だいじょうぶ、人間は失敗の経験から学習する動物である。」

 じつは先週も庭先で焚き火と焼き芋作りをしたのだが、焼け過ぎで失敗でした。
 十年来我が家で焚き火に常用していた場所は、植物が生育しないので黒ずんだ地面となっていました。この夏に思い立ち、その箇所へ芝生を植え直したました。(もちろん自分で。二日がかりの「中」仕事。)
 野外キャンプ場でも自然土壌保護に、地面直火は不可。せっかく緑を再生した芝生の保護に、我が家でもこの秋から焚き火専用器具を使用してみることにしました。実家の父の納屋に家庭用焼却器を発見。さいわいにも不要と言うので借りられました。乗用車の後部に乗せて運べる中型サイズのドラム缶。
 空気取り入れ用の焚き口や目皿が蓋付きで工夫してあります。
 晴れ間に早速、集めておいた落ち葉や剪定して積んであった枝葉などを燃やしてみました。たき付けが炎を上げ始めたら、上部から継ぎ足した枝葉は次々と燃えてゆきます。もちろん煙はかなり上がりますがとても快調です。
 焚き火―焼き芋、明快な関連公式がわたしの脳にインプットされています。当然のごとくに、家人に用意してもらったアルミホイル包みのサツマイモを途中で焚き火に数個投げ入れました。小一時間後にこれを掴み出しました。とてもおいしそうな匂いだったのですが、外側も真っ黒に焦げた包みを開けると「焼き過ぎ芋」が登場……一部炭化した失敗作でした。

「しまった。こいつはけっこう火力が強いんだね。」とぼやくわたし。
「いつも落ち葉の焚き火ではうまくいっていたのに、今日は火加減が違ったのね。これでも真ん中へんはおいしく食べられそうよ。」と家人は慰めてくれました。

 さて本日はその失敗経験を反省して、焚き火の火勢はピークが過ぎほぼ燠火になった時点で、焼き芋製造作業を開始。
 ところでその焼きを入れる前のサツマイモの件ですが、以前本欄でご紹介しました。購入したバイオ苗を植え付けて、その後紆余曲折はありましたが、なんとか我が家で中等量収穫できたものであります。
 植え付け時点では、バイオ苗から切り取った蔓を挿した群、バイオ苗そのままの群の両群の収穫量の比較を構想しました。ところが植え付け直後の今年5、6月の日照不足・低温の気候が問題でした。
 結局は、日当たりのよい場所に植えられた苗かどうかが、生育や収量に最も影響した要因と今回はなってしまったという印象でした。なお蔓を切り取って畑に挿し植えをする作業なしで植えたままのバイオ苗からも同じくイモは収穫できました。
 さて石焼き芋の製造理論を援用すれば、65度前後を数十分以上保持すると、芋のデンプンをブドウ糖に変化させるβアミラーゼ酵素の働きが最大となるんだそうです。
 小春日の昼下がり、昼食代わりに今度はおいしくできた焼き芋をいただきました。

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