長岡市医師会たより No.345 2008.12


もくじ

 表紙絵 「守門新雪」 丸岡稔(丸岡医院)
 「宝塚ジェンヌに栄光あれ!! 宝塚歌劇への招待 その2」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「雪を愛せば長岡の冬も好きになる」 秋山さや香(立川綜合病院)
 「川西班近況」 玉木満智雄(玉木整形外科クリニック)
 
長岡赤十字病院班の現状について」 森下英夫(長岡赤十字病院)
 「ミュージカルつれづれ」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「守門新雪」 丸岡稔(丸岡医院)


宝塚ジェンヌに栄光あれ!! 宝塚歌劇への招待〜その2

福本一朗(長岡技術科学大学)

宝塚音楽学校
 「宝塚歌劇団」に入団するためには、2年制の兵庫県認可各種学校である「宝塚音楽学校」を卒業する事が必須条件となっている。東京と宝塚で行われる1次試験(バレエ・声楽・面接)を突破しないと宝塚音楽学校で行われる2次試験(バレエ・声楽・最終面接)を受けることができない。この試験では音楽学校本科生がサポート役。バレエの模範演技を見せてくれる。入学試験への応募資格があるのは、容姿端麗で宝塚歌劇団の舞台人に適する者で、満15歳から18歳までの中学校卒業あるいは高校卒業または在学中の女子であり、入学時年齢に3年の開きがあるため、例えば同じ67期生の黒木瞳・涼風真世・真矢みきさんたちの様に同期生よであっても実年齢が異なることがある。なお、平成15年度より高校卒業未満の入学者のため、向陽台高校と連携して高校卒業資格を修得できる制度が設けられた。
 宝塚音楽学校は毎年定員50名に対し1000名前後の受験者があるため競争率は20倍前後で、その入学の難しさから「東の東大、西の宝塚」と称されている。ほとんどの入学生は寮での集団生活を行い、毛先まで堅く編込まれた三つ編みのお下げ髪で、グレーの制帽・赤いリボンネクタイ・TMS(Takarazuka Music School)の校章を着用し、白の三つ折りソックスと、1年生(予科生)は黒のローファー、2年生(本科生)は黒のパンプスを履いて、毎朝二列縦隊で寮から武庫川に架かる宝塚大橋を渡って音楽学校に通学している。隊列が道で上級生に出逢った時には立ち止まって一人一人に挨拶する姿は日常の朝の風景として穏やかに街にとけ込んでいる。登下校の際は嬌声や笑い声をたてない様命じられている予科生・本科生はそれぞれA・Bの二クラスに分かれているが、中には合同の授業もある。昼の授業内容としては一流の講師陣によって、予科生は舞踏(バレエ・モダンダンス・タップ・日本舞踊)、音楽(声楽クラシック・ポピュラー・コールユーブンゲン・合唱・楽典・音楽史・ピアノ/三味線/琴より選択の器楽)、演劇(演劇・狂言)、教養(英会話・茶道・一般教養)で、本科生になると楽典・音楽史・狂言・茶道の代わりに、舞踏全般・声楽・演劇等舞台に最も必要な授業の時間が増える。
 校則は峻厳で嘗ては「女士官学校」と呼ばれ、関西では音楽学校卒業生を嫁に欲しいという親御さんが列をなしていた。先輩の本科生は予科生の模範となって監督指導に当たり、生徒同士の自主的な規律管理が行われる。「社会でも家庭でも敬愛される」人間形成を目指し、礼儀作法や躾には厳しく、私服でも赤い物を着てはならずブランド品をもってはならず、電車では最後尾車両に乗り、校内では来客の邪魔にならないように廊下の端を歩き、予科生は早朝から稽古場を丁寧に掃除し、トイレは寝ることができるほどに磨き上げられる。本科の文化祭が、芸名での初めてのお披露目であり、この時に男役か女役かが決められる。大体身長164cm以上は男役となるが、顔立ちや声等の本人の個性が顕著な場合には例外もある。
 宝塚音楽学校は「各種学校」であるので、入学納入金48万円、授業料月額4万円、入寮費月額7,000円の学費がかかることはあまり知られていない。ちなみに未来のヅカジェンヌを目指す宝塚音楽学校受験資格前の小学4年生から中学2年生までの娘さん達は、毎週日曜日開催の「宝塚コドモアテネ」という付属音楽学校に通うことができる。入学定員は40名で毎日曜午前11時より午後2時40分まで宝塚音楽学校の先生方から声楽・バレエ・日本舞踏をみっちりと仕込まれるので、入学金35,000円、月謝1万円は安いもので入学希望者は日本全国から集まり、中には飛行機や新幹線で通ってくる生徒さんもいるほどである。
 音楽学校を卒業すると歌劇団に入団し、阪急電鉄創遊事業本部歌劇事業部所属の「阪急電鉄社員扱い」となるが、依然として「生徒」であることには変わりなく「研究科」の1年生(研1)となる。「生徒」と呼ばれる様になったのは、設立当時の劇団員が「芸者や舞妓のようなもの」と揶揄された小林翁が烈火の如く怒り、「宝塚歌劇は良家の子女に高等なる音楽教育を施した“生徒”によって担われるものである」と言ったことに由来している。研究科は7年で終わり、その後は「タレント契約」という形で残るが、学校の成績が入団後もついて回り、奇数年時に行われる試験により序列が決まり、あまり不出来な時には契約を拒まれることもある。
 宝塚歌劇舞台に出演できるのは宝塚音楽学校の生徒と卒業生の内、未婚女性に限られる。団員は全て芸名で活動し、本名を芸名にはできない。芸名は以前は百人一首にちなんで付けられていたものの、今では「家族と相談して」自由に考えたものが多い。原則として卒業生を含めて同じ名前が重ならない様に決定されているが、ただ瀧川末子のように例外的に親子三代同じ芸名の場合もあった。さらに生徒には芸名の外に愛称があり、生徒同士やファンの間では親しみを込めて愛称で呼ぶことが多い。愛称は本名からとることが多いようで、例えば芸名「朝海ひかる」の愛称は「コム」、安蘭けいは「とうこ」、柚希礼音は「チエ」、白羽ゆりは「となみ」となっている。(続く)

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雪を愛せば長岡の冬も好きになる  秋山さや香(立川綜合病院)

 雪が降ってゲレンデが恋しい季節になってまいりました。この原稿依頼を頂いて、何を書こうか考えあぐねたあげく約束の時間をとうに過ぎてしまい、冬をむかえてしまったところで思い出したのが学生時代所属していたスキー部のことでした。まとまらない文章ですが、私の長岡愛とスキー愛について語らせていただきたいと思います。
 わたしは生まれも育ちも長岡市で、小さい頃から雪に慣れ親しんできました。アノラックを着て長靴をはいて傘で足元の消雪パイプから飛び出してくる水をガードしつつ登校、晴れて冷え込んだ朝は「しみわたり」をして、休み時間はかまくらや雪だるまを作ったり、そりで山から滑り降り、下校時は除雪車が置いて行った雪山でひたすら遊んで、消雪パイプで水浸しになった交差点を苦労してわたって、雪に埋まった犬の(であってほしい)糞を踏んでしまうというハプニングに見舞われながらも、新雪にダイブして人型をつくって……といつもの三倍時間をかけて下校していました。そして特別にスキー競技をやっていたわけではないのですが、家族とスキー場に出かけることは人並みかそれ以上、また、当時は小学校でもスキー授業があって、バスに乗って市内のスキー場までお弁当を持って行って、一日のすべての授業がスキーになるという日が年に数回ありました。長岡の子供はたいていスキーが滑れる時代でした。私は雪も冬も長岡もスキーも大好きでした。
 大学に入って、何か新しいことを始めてみようと、競技スキー部に入ることにしました。
 とりわけそんな新しいことでもないのですが、やはりレジャーと競技は全然違うもの、寒くて疲れていやな時も練習しなくちゃいけないつらさもあります。高い道具と長い合宿生活に、冬休み春休みという自由な時間と、バイトで稼いだお金の大半をつぎ込み、学生時代にしか行けない旅行に全然いけなかったのも事実です。でもそれ以上に得たものが大きかったのでよしとしましょう。まずはアルペンの魅力、それは風になれることです。抵抗の少ないワンピを着て、整備されたコースを、約一分間自分だけで貸し切って滑る爽快感は、特に晴れていて何旗門も先まで見えるときは格別です。スピードを出すのが怖いと思っていましたが、自分の体より先に気持ちを進めると不思議と怖くなくなっていました。
 そのおかげで、スキーをするようになってからジェットコースターに乗れるようになりました。今までは魂が置き去りだったのが、自分でジェットコースターを操縦している感覚になれたのです。それから毎年年末に行われる十大戦に、一年生と六年生が仮装して滑る競技があって、医学生の品格を問われるようなものも多いのですが、六年まで続けた最後のお楽しみ!ということで、他大学もふくめた同期の仲間と参加しました。わたしも肌の露出多めの衣装にて滑走させていただきましたが、天候濃霧と絶好のコンディション(気温下がらない、一般客から見えない)のなか、無事六年間の集大成を成し遂げることができました。楽しすぎて意外と寒くなかったです。そして四年生で初体験したクロスカントリー、東医体のリレー限定のにわかチームなんですが、みんなで仮装(例によって医学生の品格を問われるような)をしたり、チームメイトの応援をしたりするのがすごく楽しいです。写真はリレー後の一枚なのですが、長い東医体を戦い抜いた満足げな部員たちの表情と、雪と青空がきれいなので気にいってます。
 余談ですが、社会人になって何か新しいことを始めてみようとスノーボードを購入しました。実はもう初滑りを済ませていまして、いま筋肉痛冷めやらぬままこの原稿を書いています。今年の冬はなかなか滑りに行けないと思っていましたが、運よく、というか策略的に二か月ほど魚沼にて地域医療研修予定なので、ナイターにでも行けたらいいなと思っています。雪を愛するかた、ご一緒にいかがですか?

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川西班近況  玉木満智雄(玉木整形外科クリニック)

 はじめに川西班の地域の概要を知っていただくために、川西地区の近年の大学設立や主な文化施設開館について振り返りたいと思います。昭和51年に長岡技術科学大学が開学しました。現在、生物系医用生体工学教室に福本一朗先生が、体育・保健センターに三宅仁先生が在籍され、研究や診療に携わっておられます。それから10数年後、千秋が原地区の開発が行われ、平成3年、寺島町にハイブ長岡が開館、平成5年には県立近代美術館がオープン、翌年、長岡造形大学が開学、平成8年、リリックホールがオープンしました。平成9年には、長岡赤十字病院が千秋に移転しました。文化施設の充実に伴い、宅地化も進み、人口も増加しました。平成15年には、長岡市医師会館が寺島町に移転し、平成19年、リバーサイド千秋がオープン。現在、大手大橋の四車線化が進行中です。
 川西班の医師の総数は、病院の先生方を除くと43名で、長岡市医師会の中では、最も大所帯のようです。その中には、前長岡市医師会長の齋藤良司先生、現会長の大貫啓三先生がおられ、とても心強く感じております。ほとんどすべての専門医が揃っており、紹介には困りません。川西班内には、長岡赤十字病院、長岡西病院、田宮病院があり、病診連携、診診連携とも円滑に行われています。
 平成14年1月発行の“ぼん・じゅ〜る”には、地元出身の小林眞紀子先生(小林真紀子レディースクリニック)が川西班の紹介をされていますので、これ以降に開業された先生方を簡単に紹介したいと思います。平成14年、鈴木俊太郎先生が片桐医院を継承され、同年、奥川敬祥先生(おくがわ小児クリニック)が開業されました。平成17年には、新保俊光先生(新保内科医院)、納谷裕先生(ミミール耳鼻咽喉科クリニック)が、平成18年には、笹川智幸先生(笹川眼科)が開業されました。平成19年、横田剛先生が横田内科消化器科クリニックを継承されましたが、横田クリニックは、平成17年4月の市町村合併により、旧小国町から入会されました。
 川西班の先生方が一堂に会するのは忘年会ですが、先輩の先生から若い先生まで多数参加され、交歓の場として盛り上がっております。以上簡単ではありますが、川西班の近況を報告させていただきました。

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長岡赤十字病院班の現状について  森下英夫(長岡赤十字病院)

 各班の先生方には常日頃から、たいへんお世話になっております。またいろいろと御迷惑をかけることも多いと思いますが、よろしくお願い申し上げます。
 現在の当院の医師数は116人、薬剤師23人、看護師682人などスタッフ1,130人になる大所帯で、ベッド数も結核、伝染病棟などを入れると約720です。ただ休日などの日直、夜間の当直も、外科系、内科系、救急担当(センター専任)、小児科(NICU)、産婦人科(PICUを含む)の5人体制をしいているので、その割り振りにはたいへん苦労しています。医師会では日曜祭日の日勤帯日直、平日夜間の小児科救急を行っていただき、各病院への負担も少なくなっています。本年5月から始まった平日準夜帯の診療は今ひとつ伸びていませんが、広報・保健師活動・公開講座などで市民に認知していただければと思っています。
 さて当院はここ1−2年常勤麻酔医の退職が手術施行や救急患者の受け入れに大きな影響を及ぼしてきました。予定手術は非常勤の先生の助けも借りて何とかこなしてきましたが、夜間の救急外来に対するバックアップが弱くなり、非当番日は重篤な患者さんや緊急手術の可能性がある方は断る状態が続いていました。幸い本年4月から新潟大学麻酔科の優秀かつ前向きな3人にきていただき、常勤4人+非常勤2人(平均)の体制が整い、夜間の緊急手術にも対応できる様になってきました。
 先日非当番日でしたが、11歳女子が多発外傷疑いのため当院へ紹介されてきました。交通事故に伴う重症な多発外傷で、Vライン確保後、センター専任医師より多くの科の医師に連絡しました。CTでは両側肺挫傷、血胸、肋骨骨折、骨盤骨折、上腕骨骨折などがありました。その後血圧低下(BP70)、呼吸困難となり、
(1)小児科医により細くなったVラインの2本目確保、
(2)脳外科医による頭部CTの診断(np)、
(3)呼吸器外科医による診断、
(4)麻酔科医による挿管で気道の確保、
(5)小児外科医による中心静脈路確保−輸血等開始、
(6)整形外科医による診断−多発骨折、
(7)外科医による診断−消化器に明らかな異常なし、
(8)放射線科医による総合診断−2回目のCT(造影剤負荷)、
(9)泌尿器科医による尿路の異常なしの確認などを行いました。
この間気管挿管チューブの内および脇よりの出血があり、吸引を繰り返しました。呼吸器外科部長の判断で、
(a)呼吸器外科入院とする、
(b)ICUに一刻も早く上げること、
(c)気道確保のための吸引をしっかりすること、
(d)開胸手術はかえって危険なので輸液、輸血、FFPなどの保存的治療で全身状態を確保する、
などの指示がなされました。看護師・技師たちの迅速な対応と、多くの科の医師の協力(麻酔科の前向きなバックアップもあって)で、その後無事退院され、久しぶりに赤十字らしい対応ができたと喜んでいます。なお、コメディカルも専門化、高度化(放射線機器の進歩や栄養指導など)が進み、日々の診療の中で教えられる部分が多くなっています。看護師の分野も(1)皮膚・排泄ケア、(2)感染管理、(3)がん化学療法、(4)がん性疼痛看護、(5)乳がん看護、(6)集中ケア、(7)救急看護、(8)手術看護、(9)透析看護、(10)新生児集中ケア、(11)糖尿病看護、(12)認知症看護などで、6ヶ月の研修・その後の試験を経て認定看護師の資格を取得しています。
 なお、本年7月より長岡中央綜合病院とともに急性期病院としてDPC(Diagnosis Procedure Combination)対象病院となりました。ここでは入院される患者さんの診断群分類を用い、一日当たりの包括的評価部分(投薬、注射、処置、検査など)と出来高評価部分(手術、麻酔、照射、リハビリなど)に分けて算定することになります。入院・治療の可視化・標準化は避けて通れないものであり、精通していきたいと考えています。
 当院は信濃川沿いの川西地区に移転してから11年が過ぎましたが、いろいろな施設があっという間に出現し、最近アピタという巨大ショッピングセンターができました。混雑するため駐車場代わりに当院を使ったり、診察後に買い物にいったりし、10時から11時頃外来予約の患者さんの車が入れない状態が続きました。またここに自家用車を置いてバスで通勤する者などがおり、やむなく駐車場の一部有料化を行っています。

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ミュージカルつれづれ  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 福本先生の「タカラジェンヌに栄光あれ」に誘われた訳でもありませんが、“タカラヅカ”観てきました。“パラダイス・プリンス”と“ダンシング・フォー・ユー”。妹が宝塚のチケットが抽選で当たったから(当たったと言うが、正規の料金で席を購入する)観に行かないか、と誘ってくれたので、家内と三人で11月の連休に東京宝塚劇場で宙組公演を観劇してきました。宙組は宝塚5組(花、月、雪、星、宙)ある中で一番最後にできた組であり、トップスターを始めとして組子が皆若々しくスタイルも良く、エネルギッシュな舞台でした。
 その昔は、ちゃんと当日でも席があって窓口に並んでいると、「都合で来れなくなった友人の券を買って貰えませんか?」などと声をかけられ、思いがけず随分と前の良い席で見せて貰ったこともあったのに、“ベルばら”以降(初代ベルばらだからン十年前のことなのだが)なかなかチケットが手に入りにくくなっている。売れず、買わずで大変なこの不況下に大したものと感心している。
 そして超豪華、絢爛、きらびやか。賢く美しく勇気ある女性と、その女性の望むとおりに動いてくれる格好良い男たちしか出てこない物語。……それなら面白いに決まってるでしょ。でもね、望むとおりに動いてくれるったって、それはその女性にそれだけの価値や魅力があるからさ。でなけりゃあテコでも動かねえぞ。……などと言ってしまって我が家の女性軍の反撃を喰らっている私。
 ま、それはともかく、その宝塚が若い?女性たちをこれだけひきつける要因の一つにスター制度があるそうな。トップスターや二番手、三番手それぞれにファンがいて、ファンは皆自分の応援するスターがトップになる日を夢見て応援している。そしてトップスターとなり、さよなら公演でそのスターが卒業してもまたあたらしいトップスターが誕生して新しい組となり新たなファンを獲得しているとのことです。
 そして宝塚と並び、日本のミュージカルを発展させ続けてきた劇団に“劇団四季”がある。“劇団四季”はスター制度を取らず、一つの作品をロングラン公演する。私は子供たちがまだ幼稚園のころ、“ライオンキング”を見に行ったが、いまだにロングラン中。私の好きな“劇団四季”の作品は手塚治虫の“ジャングル大帝”を彷彿とさせる“ライオンキング”。それに続けて、年老いた娼婦の猫、グリザベラが歌う“メモリィ”が胸を打つ“キャッツ”。そして、オペラ座の地下深くに棲む怪人と歌姫クリスチーヌの悲恋を描いた“オペラ座の怪人”である。そう、あの“ライオンキング”オープニングで、客席後方よりキリン、シマウマ、蝶や鳥、沢山の動物達が舞台上のアフリカの大地に集う時のわくわくする感動。あれはきっと幼い子供たちの心にずっと残るものと思っている。
 “キャッツ”と“オペラ座の怪人”。共にアンドリュウ・ロイド・ウェーバーの曲が素晴らしく、その曲が最大の魅力である。おそらく二十世紀から二十一世紀にかけ最高の作曲家の一人であろうウェーバーが、世紀の歌姫、サラ・ブライトマンのために作った曲。“オペラ座の怪人”は二十世紀に生まれた最高のミュージカルの一つであると思う。
 そして“キャッツ”は2009年4月19日をもって千秋楽を迎える。
 幕間に客席にそっとしのび寄って人間たちの顔をじっと見ていた猫たちよ、君たちにもいろいろな人生があったね。さようなら、またいつか。

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