長岡市医師会たより No.348 2009.3


もくじ

 表紙絵 「武尊(ほたか)連峰(上州)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「長谷川弘先生追悼文」 田中政春(三島病院)
 「開業して一年たちました」 三上理(三上医院)
 「第1回中越臨床研修医研究会を開催して」 副会長 富所隆(長岡中央綜合病院)
 「長岡生活」 高橋郁子(立川綜合病院)
 「西部班の紹介」 味方正俊(味方医院)

 「立川病院班の紹介」 上原徹(立川綜合病院)
 「膝枕には耳かき」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「武尊(ほたか)連峰(上州)」 丸岡稔(丸岡医院)


長谷川弘先生追悼文  田中政春(三島病院)

 長谷川弘先生は越路の著名な素封家長谷川家一族の一員です。開業されていた住所は先生の本籍地で、国指定重要文化財長谷川邸入り口と道路一本挟んだその前でした。
 先生は昭和年3月に新潟医科大24学付属医学専門部を卒業され、同大学外科医局に入局されましたが、昭和年4月、御尊父急逝のため、長26谷川医院院長に就任し約年におよ58び地域医療に献身的に診療されておられました。平成年2月日朝突2120然の訃報、驚きました。先生は第二次大戦の戦中戦後の混乱期に思春期を過ごされ、また、勉学に励まれましたが、大変なご苦労があったものと推察いたします。夏は酷暑、冬は豪雪、こうした中越の悪天候の中での往診は昼夜の区別なく、並大抵の努力ではやり遂げられない苦行であったと思います。こうした難業をなし遂げられたのは先生が住民に頼られていたことに責任を感じておられたからだと推測します。その責任感と地域の戦後からの復興を健康面から支援しようとした強い意志がご苦労の多い診療・保健活動を支えたのではないでしょうか。
 診療活動の一方、先生は学童保健に情熱を捧げられました。先生の御尊父が委嘱されていた塚山小学校、千谷沢村組合立千塚中学校の校医を昭和年4月から引き継がれました。26町村合併等で小中学校の名前は変わりましたが、最後は越路西小学校(平成年)、長岡市塚山中学校21(平成年3月日)まで約年間183156におよび児童・生徒の心身の健康増進、体力増進に教職員と共に苦労されました。とくに、物資不足、非衛生的環境、荒んだ精神崩壊、価値観の激変など戦後の混乱した社会状況の中にあっても、児童・生徒に希望を持たすことの大切さを感じておられたと推測されます。また、産業医として地元企業の衛生・安全管理、職員の健康管理の分野でもご活躍なさいました。
 一方、町民の健康増進にも関心を持たれ、色々な会合の機会に健康について講話されたと聞いております。自分を育ててくれた郷土の人々に自分の知識を精一杯還元しようとされていました。
 医師会の会合等では、先生はいつも泰然とし、争いを避け、三島郡医師会が纏まるように配慮され、開業の苦労が磨きをかけたのでしょうか、堪忍を備えた紳士でありました。
 また、三波春夫を産んだ越路町で生まれ育っただけあって、歌は玄人はだしでした。酔う程に聴かせていただく正調民謡を会員一同楽しみにしていました。三島郡医師会が解散し長岡医師会に吸収していただけたのも先生のリーダーシップの賜と旧三島郡医師会会員は感謝致しております。
 先生のご活躍は極めて多岐に亘っています。主な公職を列挙すると、越路町体育協会会長、越路町社会教育委員、越路町心身障害児童生徒就学指導委員、三島郡医師会会長などです。そして、越路町自治功労表彰、新潟県学校保健会会長表彰(学校保健功労)、文部科学大臣表彰(学校保健功労)、越路町特別功労表彰(学校保健功労)、新潟県知事表彰(へき地医療功労)と多くの表彰を受けられています。
 こうした多くの受賞は先生一人の受賞でなく、長谷川家の住民を思う愛情、それに基づく業績に対するものでありましょう。
 先生が示されました医師の姿を手本に私たち地域医療を担う医師が先生の後を引き受け住民の幸せのため努力することをお約束し追悼の一文とさせていただきます。

 目次に戻る

 


開業して一年たちました  三上 理(三上医院)

〜メジカルボウリング年間ポイント1位を獲得して〜

 平成20年12月某日、荷物が届きました。
 宛名をみると、市川先生から……「メジカルボウリング皆勤賞」と。ボウリングは確かに好きなので、これからも毎回参加はしようと、固く誓いました。
 ところが、その数日後、もう一つ荷物が……
 その下には、「メジカルボウリング年間ポイント1位」とありました。
 なんと、初参加で、年間ポイント1位をいただきました。
 平成19年12月いっぱいで長岡赤十字病院を退職し、父の後を継ぎ、現在の三上医院に入り、あっという間に1年が経過しました。創立約40年が経過しましたが、あの頃と比べ、周りの田んぼは減り、南長岡駅がなくなり、中越地震の後の仮設住宅も完全になくなり、現在は法務局と、新潟日報、BSNが入る「メディアぷらっと」ができ、この先、消防署を中心とした防災公園ができます。人の流れは確実に変わってきたと思いますが、三上医院は全く変わりません。おそらく長岡市役所が中心部に移っても変わらないでしょう。
 平成20年のキーワードは「Change」でしたが、私のわずかながらの経験から、臨床医学とは普遍的なものであると思います。それは、どんなに医学が進歩しても、私たちは、人と人との関係です。長岡高校を卒業後、東京の大学に入り、医師として、埼玉の250床の病院、防衛医大、そして長岡赤十字病院などで、多くの先生と知り合い、こうして開業後も諸先輩方と楽しくボウリングできることは「Change」ではなく、普遍的な人と人との関係が、かけがえのない財産であることを、改めて考えさせられた1年でした。
 父の影響で、幼少時からボウリングには親しんできましたが、全くの素人ボウリングで、まっすぐな球しか投げられません。それでも、ハウスボールで時々200アップもあり、それなりにはできるつもりでした。ところが、昨年、メジカルボウリング入会の後、靴とマイボールも買ったのですが、投げ方を変えようとすると、スコアはどんどん下がっていきました。たまにいいスコアが出ても、4ゲーム平均では続きません。最初の頃は緊張して、アプローチもバラバラで、唯一頼りにしていたスペアも取れなくなったときもありました。(自分の投げ方ではストライクが続くのはたまたまです)
 それでも初参加の翌月、2月から2回連続でトロフィーを持ち帰ることができましたが、よく考えると、そのときはハウスボールでした。マイボールになった後、8月はよかったのですが、後半はスコアの上下が激しく、よくこの結果になったものだと、改めて感心しました。そして、年間の成績をみると、ハイゲームは一度もなく、アップも4ゲームだけ。今、年間のスコアを見てみると、11月の4ゲーム目はなんと105!でした。それでもハンディのおかげで年間1位をいただけましたが、来年はハンディが39も減ります。年間のアベレイジは、実は166と決して高くはありませんので、来年は低いスコアを減らさない限り優勝は難しそうです。大学の先輩でもあられる窪田先生からは一緒に全国大会に行こうといわれましたが、改めて自分の実力がわかり、これは無理だと思います。
 自分の性格から、何事にも中途半端で、このままボウリングもこのくらいで終わるかもしれませんが、寒くても、雪が降ってもできる、ボウリングはやっぱり楽しいスポーツです。できるだけがんばって投げ、こちらは「Change」となることが、今年の目標です!
 ボウリング年間1位と、開業1年が同時に混ざった、へんてこな文章となりましたが、長岡市医師会の皆様、これからもご指導のほどよろしくお願いいたします。

 目次に戻る


第1回中越臨床研修医研究会を開催して  副会長 富所 隆(長岡中央綜合病院)

 2月19日(木)に長岡市内3病院の臨床研修医による研究発表会を開催いたしました。医師会員を中心に参加者は88名に上り、症例報告を主体に計9つの演題が発表されました。各演題のタイトルは下記に一覧しましたが、研修先の診療科が多岐にわたるため、発表された内容は内科系・外科系盛りだくさんで、楽しくしかも興味深く聞くことができました。会場からの質問に対する受け答えにも指導医の元でしっかりと研修した様子が感じられ、とても好感の持てる内容でした。
  発表会の後、懇親会の場に移り、奨励賞として大貫医師会長から発表者全員に賞状と記念品が手渡され、その後出席者全員で立食形式での親睦会を行いました。
 現在、長岡市内で研修する初期研修医は管理型・協力型併せて約50名に登ります。今回医師会主催でこうした催しが開催されたことは県内では初めての試みです。長岡市医師会では、新しい医師研修制度が始まった当初から、地域医療の研修の場として診療所での研修の場を提供し、“
地域で医師を育てる”という姿勢をとって参りました。もちろん個々の病院での研修が最も大切なことは言を俟ちませんが、いろんな病院で、いろんな診療科で研鑽している研修医が一同に会してこうした会を開催したことは、非常に意義深いことと思います。
 今回の会が、若い医師の研修、お互いの学習という面だけでなく、地域の医師と研修医、またいろんな病院の研修医同士の親睦の機会となり得たことは大きな収穫でした。この会がさらに続き、発展し、将来この地域で医療を行ってくれる若い医師たちが少しでも増えてくれることを願います。

1「SLE患者に発症したノカルジア感染症の一例」長岡中央綜合病院 渡辺信
2「肺大細胞癌から脳転移をきたした一例」立川綜合病院 勝見亮太
3「胸腺原発癌の一例」長岡赤十字病院 藤田智之
4「著しい高CA-125血症を来した心不全の一例」 長岡中央綜合病院 広瀬由和
5「進行胃癌合併妊娠の一例」長岡赤十字病院 笛木はるな
6「StageIV大腸がんに対する腹腔鏡下大腸切除術の意義」長岡中央綜合病 院森本悠太
7「Pseudo Meigs症候群の一例」長岡赤十字病院 石澤正博
8「腎細胞癌の胆管・膵多発転移の一例」立川綜合病院 池田正博
9「紅皮症を発現し急激な経過で死に至った症例」立川総合病院 田窪良太
 

 目次に戻る


長岡生活  高橋郁子(立川綜合病院)

 皆様、初めまして。立川綜合病院研修医1年目の高橋と申します。
 同期の研修医からバトンを渡され、今回は私が投稿することとなりました。
 「うーん、困った……」
 この原稿依頼を受けた時の最初の感想です。文才がない上に、何を書いていいのか分からない、というか書く内容がない……。
 人様に読んでいただけるほどのものではないかもしれませんが、長岡での生活を書いてみようかと思います。
 私はもともと新潟大学病院の研修医であるため、10月から長岡にやってきました。出身も長岡ではないため、長岡の冬は初めてということになります。覚悟はしていましたが、やはり寒い、雪が多い、でちょっとめげそうです。私の実家も割と雪深い地域なのですが、6年間の新潟市生活で完全に感覚がマヒしていました。病院と自宅の往復(徒歩分く10らい)でもう満足、という感じです。たまに「休日は何をしてるの?」と聞かれますが、最近は「家に引きこもってます。」という答えになってしまいます。車を持っていればいろいろな所に行けるんでしょうがそれも叶わず……(連れて行ってくれる人を見つければいいんですね。)というわけで、長岡に来たとはいえ、ほとんどの時間を病院と自宅で過ごしています。
 なので、未だ長岡を満喫できず、春が来るのを楽しみにしている次第です(この原稿は2月に書いています)。
 と、ここまでだと何だかものすごく暗い人間に思われそうですが、一応野球が好き、というネタは持っています。ご存知の方は少ないかと思いますが、長岡にも本拠地を置くチームがあります。「アルビレックス」と聞けば、おそらく、サッカーを思い浮かべる方がほとんどかと思いますが、野球もあるということを少しアピールしておきます。チームができて以来、シーズン中の休日は球場に行くことが多くなりました。自然と人の輪も広がり、たくさんの野球(応援)仲間ができました。共通の趣味を持つ知り合いが増えるのは嬉しいことです。また、日常生活の中で、医療関係者以外の人(患者さんを除く)と知り合う機会は滅多にないので、いい刺激にもなります。様々なものの捉え方、考え方があり、視野が広がっていく気がします。自分の中での常識がそうではないということもあり、今まで何て狭い世界で生活していたんだろうと思っています。ひとつの趣味を通して、人との繋がりって大事なんだなということを学びました。
 これからも、たくさんの人と交わり、様々な面で成長していけたらと思います。
 最後に、野球にご興味をお持ちの方がいましたら、ぜひご一報いただければと思います。

 目次に戻る


西部班の紹介  味方正俊(味方医院)

 西部班は、川西班が独立されたため、東は旧国道17号線、西は信濃川、南は長生橋通り、北は警察署通りに囲まれた比較的狭い地域となっています。そのため、医療機関数は11機関、会員数は16名の小規模班ですが、診診連携などはうまく機能しているようです。
 班としての活動は特にありませんので、恒例の忘年会が唯一の親睦の 機会であり、今回も開業会員は全員参加され、有意義な時間を過ごすことができました。
 そこで、以前の企画にもありましたが、忘年会の写真を掲載し、先生方のコメントを添えて、この度の班紹介とさせて頂きます。
 ちなみに、私は開業して22年目を迎えましたが、これからも目立たぬよう、マイペースでやっていきたいと思っております。

石黒淳司(しなのハートクリニック) 西部班の忘年会に、開業以来毎年参加させていただいております。お酒の飲めない私は、いろんな会に何となく出にくい気分になってしまいます。しかし、この会は出てみようかと思っています。それは、本当に元気な皆さんのパワーをいただける事。さらに、先生方の様々な趣味のお話を聞いて、「自分も少しは何かを」と全く無趣味な自分の生活を考えさせられる事に、楽しみと喜びがあるからではないかと思います。今後ともよろしくお願いします。

市川健太郎(市川医院) 数十年前は大勢で賑やかな西部班だったと聞いております。今は少人数になりましたが、諸先輩の暖かいお話を楽しみに毎年参加しております。

江部達夫(江部医院) 春から秋、尺上ヤマメを求めて渓流に入っています。足腰が弱って来たので、そのうち流され、魚のエサになるかも。

大森勲 退職以来進行性ボケ(でしょう)となり、諦めの毎日を続けています。約半月を長岡で、残り半月を関東(子供の所)で生活しています。

草間昭夫(草間医院) 開業して早2年が過ぎ、毎日があっという間に過ぎます。勤務医とは別の忙しさがあります。この間、大森先生、十見先生が閉院されました。先生方の診ておられた患者の生活、疾病の多様さに驚いています。地域が高齢化し、独居の増える中、患者のニーズに対応すべく、他科の先生方と知識を共有して対応していかなければと考えています。

齋藤修(耳鼻咽喉科斎藤医院) 開業3年目の齋藤修です。西部班の先生方にはいつもお世話になっております。毎年いろんな趣味をお持ちの先生方のお話を聞く機会に恵まれ感謝しております。私には、西部班は力強い存在です。今後とも御鞭撻、御指導宜しくお願いします。

杉本邦雄 何とか週3〜4回、非常勤の仕事をやっております。腰痛の為、気力・体力が衰え、おつきあいも減り失礼しています。好きな碁も負けが多くなりました。池の鯉と庭の苔が友達ですが、友は冬眠に入ることでしょう。これからはブルーレイディスクでクラシックを楽しみながら春を待ちます。

関根光雄(関根整形外科医院) とうとう当医師会の最高年齢のクラスに入りましたが、今後頑張れるだけ頑張るつもりです。宜しくお願いいたします。

高木昇三郎 足が悪く歩くのがやっとです。

田中健一 一昨年7月に医院を閉め、右手足に麻痺がありますが、おだやかに日々過ごしております。(次男田中篤内)

笛田孝明(自明堂眼科) 仕事に趣味に頑張っております。今までプライベートはほぼ音楽活動のみに夢中でしたが、今年はそれにバイクが加わりそうです。今から春が楽しみです。

福居憲和(福居皮フ科医院) 人生のミステリーの森をさまよっています。

三間孝雄(三間内科医院) 十年、二十年先を見据えた医療対策を考えて欲しい。

山川浩司(やまかわ整形外科) 開業してはや年。でもまだヨチ3.5ヨチ歩きの状態ですが、今後ともよろしくお願い致します。

 目次に戻る

 


立川病院班の紹介  上原 徹(立川綜合病院)

 長岡市医師会の先生方におかれましては、常日頃立川メディカルセンターが大変お世話になっておりますことを、お礼申し上げます。
 立川綜合病院は、昭和31年長岡市表町に初代理事長立川晴一により創立されました。当時診療科は、内科、外科、小児科、耳鼻科、産婦人科の5科、病床数119で、その後昭和43年に心臓血圧センターを開設し、病床数226に増床いたしました。昭和49年に血液透析を開始し、昭和56年には、現在の長岡市神田町に新病院を建設、診療科の増加に伴い病床数423になりました。昭和60年柏崎市に精神疾患及び認知症患者を対象とする柏崎厚生病院を開設、さらに平成9年長岡市日越に慢性期疾患及びリハビリテーションを要する患者を対象に悠遊健康村病院を開設いたしました。
 この間、神田地区の立川綜合病院は増築増床し、急性期医療を担当することになりました。平成8年法人名を立川メディカルセンターと改名し、立川綜合病院床529、悠遊健康村病院300床、柏崎厚生病院300床を中心として、総合健診センター、介護老人保健施設、在宅介護支援センター、訪問看護ステーション、付属看護学校、リハビリテーション学院などを併設する、一大医療施設グループとして拡大成長してまいりました。立川綜合病院は、平成8年臨床研修指定病院と認定され、以来多数の若い臨床医を全国に送り出しております。平成11年には日本医療機能評価機構により一般病院種別Bとして認定されました。
 この間、立川晴一のカリスマ的な牽引力により、常に自主独立の気概を持ち、それぞれの時代の最先端を行く医療を展開してまいりました。特に血液透析、心臓血管カテーテル検査および治療、開心術、腎臓移植、体外受精、体外衝撃波結石破砕装置、MRI装置の早期導入、PET画像診断センターの設立、脳神経外科における血管内手術、消化器センターにおける腹腔鏡手術をはじめとする癌内視鏡手術など新潟県の医療の中で先頭を走るユニークな存在として発展し、その存在を認められてきております。また、このような医療のハードの面での充実とともに、患者、医療界のニーズに応じて、医療連携を確立させてまいりました。すなわち立川綜合病院の急性期医療と、悠遊健康村病院の慢性期、リハビリテーション医療との組織内連携、中越地区を中心とする各病院との病病連携、診療所との病診連携の充実を図ってきております。また医療レベル向上のための医療ソフト研究会、汎日本海ライブデモンストレーション、開放型病床の設置、一般市民に病院を理解していただくための立川綜合病院見学体験会、悠遊健康村病院悠遊フェスティバルなどの催しを通じながら、患者中心医療を行なうためのソフト面での充実をも図ってまいりました。平成14年初代理事長逝去により、第2代理事長として立川信三が就任しましたが、その後も常に時代の要求にこたえるべく、「患者さん一人一人に満足してもらえる医療の提供」を、立川メディカルセンターの医療理念として、さらにはその理念を実あるものにするために、従業員全てが満足できる体制を作るべく、種々の方策がなされてきております。すなわち多目的施設「きぼう」新設に伴う、院内保育施設の充実、離職看護師の再就業支援プログラムなどが行われております。
 現在、長岡市医師会に所属する立川メディカルセンター施設は、立川綜合病院(平成20年より481床)、悠遊健康村病院、放射線科クリニック(PET画像診断センター)、中越腎センター、たちかわ総合健診センターであります。臨床研修医15名を含めての医師数は、常勤医94名で、長岡市医師会員は39名であります。昨今の医師不足は立川メディカルセンターにおいても由々しき問題であり、特に立川綜合病院においては、入院患者への対応をより重視した時代の要求と共に、マンパワー不足により、診療科によっては外来患者の新患を含めての予約制をとらなければならない事態になっております。医師会の先生方には、大変ご面倒、ご迷惑をおかけしておりますが、なにとぞご理解をお願い申し上げます。立川メディカルセンターは、創立50年を過ぎた現在においても、自主独立の気概を常に持ち、地域医療のチャレンジャーとして、患者を中心としたやさしく、親切で思いやりのある医療を提供し、地域の住民に信頼され、又医師会の諸先生方のご期待にお答えできるよう、研鑽を積んでおります。医師会の先生方におかれましては、引き続きよろしくご指導ご鞭撻をいただくとともに、新潟県の医療の更なる発展に寄与するべく、ご助力をお願い申し上げる次第であります。

 目次に戻る

 


膝枕には耳かき  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 日曜午後のテレビ「たかじんのそこまで言って委員会」、この番組は最近の我が家のマイブームです。政治・社会問題への本音時事トークがおもしろい。新潟県では視聴できますが、ある事情から東京や関東地区では放映がないという大阪の読売テレビ制作の辛口番組。
 先日ゲスト出演の脇浜紀子という女性は夫婦別姓の論客の局アナでした。なじみのない人なのでネットで調べると、既婚者であり、年齢的には今風にはアラフォー世代。
 そのゲスト出演の感想は「局アナのわたしの使用は出演料経費節減の意図も。」と愉快な発言。さらに司会のやしきたかじんが、上司の辛坊治郎解説委員へ何か言いたいことはないかと水を向けると「こんなん言ってもいいんかな。」といくらか躊躇しながらも「酔うと膝枕してって言うのは止めてほしい。」
 この暴露発言には司会の辛坊さんも、赤面しながら苦笑いでした。どうやらこれも本音トークらしく、辛坊さんの一面が見え、笑えました。
 女性に膝枕して欲しい―この酒席での仲間内のおねだりは、セクハラか、パワハラか、許容範囲の中年男の甘えか、微妙なとこでしょうか。ところでわたしも膝枕してもらうのは好きです。そして膝枕といえば耳かきが付きものと思い込みがあります。みなさんはいかがですか?
 耳かきには、その道具は耳かき棒と綿棒があります。耳かき棒は各地方でさまざまな意匠があり、コレクターもあるくらいです。これが実は日本、中国、韓国などの北東アジアに限定した地域だけだそうです。その理由は、耳垢の性状の地域差にあります。つまりカサカサの耳垢なら耳かき棒が有用ですが、ベトベトの軟耳垢(日本では少数派)なら綿棒が適しています。世界では上記の国々は乾燥した耳垢が多数派というごく限られた地域なんだそうです。「カサカサの耳垢ですか?あれは耳垢ではなく、皮膚の残骸なのです。」とはあるインタビュー記事での新川詔夫(にいかわのりお)先生のお言葉。遺伝研究で高名なこの新川先生には、なんと耳垢の世界的な研究があるのをご存じでしょうか。数年前にこの耳垢遺伝子の同定がネイチャー・ジェネティクスという一流科学誌に掲載された、その一部が一般新聞でも紹介されました。
 まず耳垢の遺伝子はヒトの十六番染色体にある遺伝子ABCC11とその変異(たった一個の塩基配列の変換)で耳垢のタイプは決定されるんだそうです。
 その概要は耳垢はウエット型が人類の基本形であって、ドライ型は後から(二万年位前)突然変異で生じたんだそうです。この耳垢は湿潤でも乾燥でも生命維持には影響はないわけですが、たまたま寒冷適応できた種族として生存してゆき、各地へ移動し、拡大したものではないかと推測されています。
 ちなみに日本人は大部分(86%)がドライ型だそうです。北部中国人、韓国人、モンゴル人なども同様。反対にドイツ人、米国人(白人もアフリカ系も)などはドライ型は二、三%以下なんだそうです。
 わたしも心情はウエット、耳垢はドライという日本人の多数派。
 さいわいにも家人に頼めば快く耳かきをしてくれ、その際はしばしの膝枕タイムです。あたたかな心持ちがして、ほぼ条件反射のように眠くなります。隙間風は冬の季語ですが、こんな俳句が拙作にあります。

膝枕してどこよりの隙間風 蒼穹

 目次に戻る